LSWのちょっとかゆいところに手が届く「まごのてblog」

静岡LSW勉強会の管理人によるコラム集

【第41回】初期記憶のミステリー

メンバーの皆さま

こんばんは。管理人です。

実は私、今年度から乳児院に関する事業を担当してまして、現在、仕事絡み+勉強を兼ねて「胎児~乳児期」の発達に関する本をいくつか読んでいます。

それが脳科学、生物学、アタッチメント、発達障害子育てと広がっていくと、それぞれの理論は「生物ー心理ー社会」の側面を切り口を変えて言っているだけで結局は繋がってお互いに影響し合っているよなぁ、とつくづく感じます。

と言う理屈を付けて、「バイオサイコソーシャルアプローチ」の紹介の途中ではありますが、通勤中が一番時間が取れるので、しばらく脇道に逸れまして「胎児~乳児期」の知識をまとめる思考プロセスにお付き合いいただければと思います。

まず取り上げるのは「胎児は見ている」で有名なトマス・バーニーの続編。ちなみに原著の題は「Pre-parenting:Nurturing Your Child from Conception」なので、直訳なら「育児前:胎児から子どもを育てる」という感じでしょうか。胎児期からの環境や刺激が、脳や神経系の発達に及ぼす影響について書かれた本です。

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●目次
第1章 羊水の海で
第2章 胎児の意識の始まり
第3章 母親のストレスと胎児のこころ
第4章 子宮は学びの場
第5章 出生体験は性格の形成にどう影響するか
第6章 新生児の感覚と神経はこうして発達する
第7章 「親密さ」という魔法
第8章 経験が脳をつくる
第9章 初期記憶のミステリー
第10章 他人に子どもを預けるとき
第11章 間違いが起こるとき
第12章 子どもの「善意」の基盤をつくる
第13章 意識的な子育て

●内容
全部の章を一つ一つ取り上げるつもりはありませんが、今回はLSW的に関連が深い「記憶」についての、第9章「初期記憶のミステリー」を紹介します。

ちなみに学術的なところを超要約して3つのトピック(記憶の起源/顕在記憶と潜在記憶/出生の記憶)の一部を紹介します。しっかりしたものを知りたい方は本書を確認してください。

【1.記憶の起源】
~記憶とは何か。そして、それはいつ始まるのか。

~長いあいだ、人の記憶ーそれまで-それまでの人生の一瞬一瞬をとぎれなくつなぐ意識の連なり-は、3歳前後からスタートするものと考えられていた。

~どこまでさかのぼることが出来るのかは個人差があるが、私たちが自分の歴史と考えている意識の連なりは、たいてい3、4歳で行き止まりになる。

~多くの人が、記憶は不思議にも3、4歳でスイッチが入るものと考えている。しかし、それは単純に間違いである。私たちは3歳になるまでよりもずっと前から、考え、感じ、学んでいる。

~はじめは卵子精子が合わさって一つの細胞となり、次にそれが分裂を繰り返して複数の細胞となる。こうした初期の細胞の生物学的な"体験"が、記憶の先駆けとなる。

~細胞か記憶するなんてどうも信じられないという人は、人間の免疫系について考えてみるといい。免疫系は細胞が感染性の侵入物を見極め、それを"記憶"することによって体を守っている。

~過去の研究から、免疫系の働きは潜在意識レベル(自律神経レベル)で決まると考えられてきた。しかし、1990年代になって、免疫系が意識的にもコントロールできることかハワード・ホールの研究によって明らかになったのである。

~ホールはまず、被験者に覚醒した状態でのリラクセーション、イメージ誘導、自己催眠、バイオフィードバックなどの自己調整法の訓練をほどこした。その後、対照群との比較によって、訓練を受けた人たちにはこれらのテクニックを用いて意識的に、白血球の粘着力(唾液や血液の検査で確認できる)を強める力があることを示した。

~脳と免疫系は双方向の経路を介して、常に連絡を取り合っている。そのため、たとえば脳にストレスが生じれば、免疫反応は低下する。これはおそらく、免疫というのは生存の長期的な戦略だからだろう。どんな生物も、外からさしせまった危険があるときには、短期的な防衛あるいは回避手段のほうにエネルギーを集中しなければならない。

~心に蓄積された記憶の反映である情緒が、免疫反応の強さに影響することは以前から知られていた。しかし最近では、この逆もまた正しいことがわかった。免疫細胞に記録された記憶が、脳や働きに影響し、気分や情緒を支配して行動を左右することがわかったのである。

~この理論はその後さらに発展した。現在では、体験し、記憶し、コミュニケーションをとることができる細胞は、脳と免疫系の細胞だけではないことがわかっている。

~シュミット(1984)は、"情報物質"という言葉を用いて、伝達物質やペプチドやホルモンその他の体や脳のなかで変動する要素全体を表した。リガンドとも総称されるこの情報物質は、ちょうど鍵が特定の錠だけに合うように、それぞれ決まった細胞の受容体だけに付着する。

~リガンドが全身に流れるメカニズムは、神経系よりも明らかに昔から生物に備わっており、神経系よりもずっと基本的なメカニズムである…細胞の種類は多様だが、どの細胞も共通して、細胞外に情報物質の流れをつくり、感情や気分や記憶をそこに乗せて、遠く離れた部位や、脳の情緒の中枢に届けているのである。

~つまり、神経科学の最新の発見からいえば、本当の知性と記憶、すなわち個人の本質は、脳だけでに存在するのではなく、全身に行き渡っている。それならば、これからの時代は、脳と心を、統合して考えていく時代だと言える。これらは相互に作用して、単一のネットワークを構成しているのだから。要するに、心身は一つなのである。


【2.顕在記憶と潜在記憶】
~子どもは、まだ未熟な脳でさえできていない時でも、体の細胞の中に、最初に記憶を集めるのだ。私たちの最初の記憶は意識的に起こるものではない。一般に使われている意味での「無意識に」起こるのでさえない。

~記憶を専門にすると心理学者たちは、記憶を二つに分類している。一つは意識的な記憶、もう一つは無意識の記憶である。それぞれを顕在記憶と潜在記憶とも言う。

~顕在記憶とは、覚えている事実や出来事やものの名前などである。視覚情報や言葉の情報を必要なときに取り出せるように一時的に心のどこかに入れておく作動記憶も、顕在記憶に含まれる。また、9歳の誕生パーティーの思い出、子どものころ部屋にあった家具の記憶なども顕在記憶である。

~それ以外の記憶が潜在記憶である。潜在記憶は意識的に思い出すことはできないものでありながら、私たちの行動を支配する。特定の状況におかれたときに、一見わけもなく不安になるのは、潜在記憶のせいかもしれない。また、キーボードのブラインドタッチや自転車に乗ること、砂の城を作ることができるのも、それらの体験が潜在記憶になっているからだろう。

~無意識から意識への移行、つまり、潜在記憶から顕在記憶への発達は、子宮のなかで起こる。数個の細胞からなる初期の胎芽は、広大な昔を体験していると考えてほぼ間違いない。この"正常な"状態は、子宮内の環境との関わりや押し寄せる母親のホルモンによって打ち切られる。母親がイライラしたり喜んだりするたびにホルモンのバランスが変わり、そのたびに私たちの細胞に原初の記憶が刻まれる。まだ脳も体さえも持たない私たちは、受け取った印象をひたすら細胞に記憶する。これが最初の潜在記憶である。

~こうした記憶が増していくにつれ、胎児は潜在的に、自分とまわりの子宮とが別のものであると理解しはじめる。胎生6、7ヵ月までには、大脳皮質を含む脳ができるので、母親から受けとる情緒を知覚するようになるだけでなく、ホルモンの種類の変化を識別するようになる。そして、器官を通して、動きや光、味や音を知覚し、記憶する。人の声にも気づきはじめる。また、入ってくる情報に意味を見出し、記憶に基づいて適切な反応をするようになる。

~事実、多くの研究によって、子どもは母親の動揺を少なくとも潜在的に記憶し、生涯その記憶に反応し続けることがわかっている。


【3.出生の記憶】
~子宮にいたころの記憶を自然に思い出すことは稀だが、心理療法や夢や催眠を通して出生前の記憶を取り戻すことができたと言う人は大勢いる。

~おそらくもっとも説得力があり、記録の数も多いのは、出生体験の記憶だろう。催眠や心理療法によって引き出された記憶は、それが無理に誘導されたものではないか注意してみる必要があるが……チークは興味深い研究を通して、人は母親の体から出てくるときの頭や肩や腕の動きを、筋肉の記憶として保持しているという事実を明らかにした。

~では、こうした記憶はなぜ、比較的に稀にしか思い出されないのだろうか。それには、おそらくいくつか理由がある。

~まず一つには、出生前と母乳を与えられているきかんは、オキシトシンが増加しているせいだと思われる。オキシトシンには乳汁分泌を促す作用と子宮の筋肉を収縮させる作用があるが、高濃度になると、じつは記憶を消す作用もある。

~私たちが出生前と周産期の記憶を失っているのは、その時期に母親の大量のオキシトシンを浴びているせいもあるのだろう。オキシトシンは心の麻酔のように働いて、「巨大な忘却」を引き起こし、出生時の苦しみを忘れさせてくれる。

~もう一つの要因は、ストレスホルモンのコルチゾールである。コルチゾールにもトラウマとなる記憶を消し去る作用がある。


●コメント
まず「オキシトシン」は別名「愛情ホルモン」として最近アタッチメント関係の話でよく出てくるホルモンですよね。

他章で詳しく説明がありますが、ストレスを緩和し穏やかな気持ちになるホルモンで、抱っこなどのスキンシップや視線合わせや微笑み合いなどの情緒交流より親子共に放出されると言われています。

いかに乳幼児期に特定の人との日常的にスキンシップや情緒交流を重ねて、オキシトシン放出システムを構築できるかが、その子が情動をコントロール出来るかどうかの鍵になります。

まさに「痛いの痛いの飛んでいけ~」が効くのは、オキシトシン放出システムが構築されている何よりの証拠と言えるでしょう。


NHKスペシャル「ニッポンの家族が非常事態 第二集 妻が夫にキレる本当のワケ」(2017.06.11放送)
http://www6.nhk.or.jp/special/sp/detail/index.html?aid=20170611
 
でも、オキシトシンについて取り上げられていたのでご覧になった方もいるのではないでしょうか。
 
オキシトシンは環境に左右されるので、競争社会に身を置くキャリアウーマンは、オキシトシン量が減っていると。そこで、妻の鼻からスプレーでシュッと「オキシトシン」を注入すると、夫と口論にならずに優しく会話ができると、にわかに信じがたい映像ですが、妻は「落ち着いて優しい気持ちになれた」とインタビューで言っていた気がします。


しかし、そのオキシトシンが高濃度になると、記憶を失くす作用があるとは初耳で目から鱗でした。産まれる時の母親への麻酔や陣痛促進剤などの投薬による胎内環境の変化は、かなり胎児にストレスがかかるらしく、その苦痛はバーストラウマ(Berth Trauma)と呼ばれるそうです。だけど、産まれてすぐから母親に抱っこされたりして、オキシトシンがバンバン放出されると忘れていくと。
 
以前、同僚と「怪我をしたり痛い記憶は昔のことでもよく覚えている」と雑談したことがあったんですが、もし出産直後に「オキシトシンは心の麻酔のように働いて」がなかったら、すごい痛みの記憶が細胞に刻み込まれたまま忘れられないということになりますよね。

忘れられると言うのはある意味幸せ、と言うのもよく分かります。なので、本書では例え未熟児であってもNICU(集中治療室)に入り、母子で相互やり取りする機会が喪失することでの、細胞レベルの記憶や脳の発達への悪影響が生涯に及ぼすリスクについて、とても書かれています。

あと、
~脳と免疫系は双方向の経路を介して、常に連絡を取り合っている。そのため、たとえば脳にストレスが生じれば、免疫反応は低下する。これはおそらく、免疫というのは生存の長期的な戦略だからだろう。

は体験的に非常に心当たりがあります。実は児相に来てから2~4年目くらいの間は、とにかくGWや年末年始の長期休みになると病気に罹るというサイクルを繰り返していました。

きっと、脳が「こんなストレス無理、休め!」的な信号を送って免疫を低下させていたと言うことだったんだと思います。ちなみにピーク時には胃に穴も空きましたから。これも身体のサインですよね。

つまり、今まさに当時のことを「生物ー心理ー社会」の円環的なつながりとして、
 
            知識(認知)
          /                \
体験(感覚) -  感情(気持ち)
 
知識としてだけでなく、体験と感情をともない身をもって総合的に理解できた、と言えるかもしれませんね。多少、自虐的ではありますが。
 
~これからの時代は、脳と心を、統合して考えていく時代だと言える。これらは相互に作用して、単一のネットワークを構成しているのだから。要するに、心身は一つなのである。
 
とあるように、今まで色んな角度から触れてきた「認知ー身体ー感情」の繋がりやバランスは神経科学的な見解とも一致するということかなと思います。

無意識というと根も葉もない魔術的な怪しい印象も受ける人も正直いると思いますが、本書の言うように細胞レベルに刻み込まれた意識できない潜在記憶と捉えると、僕はまさに感覚的にしっくりきます。
 
「肌が合う」「鼻につく」という言葉は昔からあって、感覚レベルで判断していることって日常茶飯事だし、先人はそれを知っていて言語化していますよね、すでに。よくある「何となく」の多くは言語化できないだけで、直感が働いているはずです。
 
となると、LSWに限らず、トラウマでも何でも記憶を扱うということは、認知によって言語化できる顕在記憶だけでなく、うまく言語化できない潜在記憶、つまり細胞レベルの記憶、身体性記憶をも念頭に入れた理解や支援の方法論が必要ということになりますよね。
 
なかなか奥が深いです。その辺りのメカニズムに繋がる話題が、胎児の発達にはテンコ盛りで個人的には非常に面白いので、今後も少しずつ紹介していきます。
 
ではでは。
 

【第40回】時間精神医学とBPS

メンバーの皆さま

 

こんばんは、管理人です。

 

今回は、本書のメインと言っただけあって、若干長めかと思います。

 

なるべくギュッとしたつもりですが、そのつもりでお読みください。

 

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●目次 
理論編
【第1章】心身二元論からBPSモデルへ
【第2章】エンゲルが本当に書き残したこ
                                          ―BPS批判に応える
【第3章】BPSと時間精神医学
【第4章】 二一世紀のBPSアプローチ
技法編
【第5章】メディカル・ファミリーセラピー
【第6章】メディカル・ナラティヴ・プラクティス
【第7章】BPSSインタビュー
応用編
【第8章】高齢
【第9章】プライマリケア
【第10章】緩和ケア
【第11章】スピリチュアルペイン

●内容
今回は第3章「BPSと時間精神医学」です。この章は短い中に凝縮された内容がギュッと詰まっていて、気持ち的には23ページ全部を紹介したいですが、そこを泣く泣く「時間への着目」「時間精神医学の考え方」「時間精神医学とBPS」の3トピックに厳選し、僕なりにまとめて取り上げます。
 
 
【1】時間への着目
〜「時間精神医学」とは、1982年にフレデリックメルゲスが『時間と内的未来』によって提唱し、彼の死と同時に忽然と消えた学問領域である。

〜メルゲスの仕事においては、彼が1961年から1964年まで、ロチェスターでジョン・ロマーノとジョージ・エンゲルの陶酔を受けたことからも、その屋台骨にはBPSの発想があることは歴然としている。

〜しかも、「時間」という臨床概念が導入されることにより、バイオ、サイコ、ソーシャルの三つの視点において共通言語が与えられるため、多元主義というよりも、ここにとおいて真の統合が実現される可能性があった。

〜心理学領域においてなぜ「時間」がないがさらにされてきたのかあきらかにしよう。その最大の理由は、無意識の探求にある。1915年にフロイトがこう述べたからである。

「『無意識』体系の事象には時間が無い。それは時間的に秩序づけられていない。経過する時間によって変更されないし、要するに時間との関係を持っていないのである」

〜しかし、私の従事する緩和ケア領域において頻度の高いもの以下の三疾患(適応障害うつ病、せん妄)と実存的苦悩には、患者の時間感覚において際立った特徴がある…つまり、認知行動療法の興隆を、迎えた現在、時間を臨床概念として取り上げるのは時宜にかなったことであり、実際、上記のようにその目で見れば、人々の時間感覚は極めて臨床的な問題なのである。
 

●コメント【1】
まとめてだと長くなるんで、今回は一つずつコメント挟んでみます。
 
ネットで調べたらFrederick towne Melgesは1988年52歳の若さで死去。ちなみに糖尿病で腎臓が悪かったみたいです。
 
あれ⁉︎、【第30回】コラムので紹介した論文では、
 
〜1990年代以降,思考や認知,行動に注目する心理療法とは異なり,クライエント(以下 Cl.)の感情に注目する心理療法が北米を中心に発展している
 
のはずで、「認知行動療法の興隆を、迎えた現在、時間を臨床概念として取り上げるのは時宜にかなったこと」なら、もともと思考や認知、行動が注目がされていた時代に、時間精神医学が「彼の死(1988)と同時に忽然と消えた」のがイマイチ腑に落ちないですが、精神医学界では色々あったんですね、きっと。
 
そして、忘れ去られた時間精神医学に注目したのが、時間志向テストを作成したフィリップ・ジンバルド氏と言うことみたいです、どうやら。
 
それはいいとして、
〜「時間」という臨床概念が導入されることにより、バイオ、サイコ、ソーシャルの三つの視点において共通言語が与えられる
 
はLSWにも似たようなことが言えるかもしれません。つまり、「時間(過去ー現在ー未来の繋がり)」という概念を軸とすれば、LSWの枠に囚われない統合的な支援が可能になるのではないかと思うのです。
LSWのみが時間に関わる唯一の方法というのでなく、時間感覚に纏わる支援の一つにLSWがあると捉えるという考え方です。
 
LSWにハッキリした定義はありませんが「生い立ちや過去を扱う」という過去志向の支援をイメージして言われることが多いと思います。ただし、もともとトラウマ治療は過去を扱うし、グリーフケアも過去を扱うし、回想法もあれば、成育歴を聞くだけ、昨日のことを聞くだけでも過去を扱うわけで、一般的な面接の多くは過去を語る、広義のライフストーリーを語ることになるわけです。
 
さらに、現在の家族の情報を扱ったり、将来の事を考えたりと、現在ー未来の話でさえ自分に纏わること全てが自己物語に繋がるわけですから、何でも「LSW〇〇」と名前を付けようと思えば出来なくもないですが、LSWか否かを考えるより、その支援が「時間感覚」という切り口で、その人にとってどのような意味がありそうか、という共通言語があれば十分な気もします。
 
では、時間精神医学では、時間感覚やその不具合をどう捉えるのかについて、が以下になります。


【2】時間精神医学の考え方
本書によると、メルゲスの『時間と内的未来』の冒頭であきらかにされている一般的仮説は以下の4つ。

①人間は本質的に目標に向かって進む生きものである。
②人は、未来イメージ、行動計画、そして、情緒の相互作用を通して、自らの未来を制御しようとする。
心理的時間の歪みは、その人の未来制御感覚を阻害し、それによって心理的悪循環(らせん)が生まれる。
④時間の歪みの訂正や、未来イメージと行動計画、そして情緒の調和を得ることによって、その人の未来に対する制御感覚は修復される。

そして、
〜ちなみに、西洋社会の直線的時間枠組みでは、時間の基本構成要素は、速度(持続時間)、シークエンス(継続)そして一定の時間を過去および未来に振り当てる時間志向性からなる。

を含めたイメージ図(らせん)はこんな感じです。


▪️心理的時間             ⇨  ▪️未来制御感覚
 (シークエンス・             (未来イメージ・
    速度・時間志向性)          行動計画・情緒)
             ⇧                                   ⇩
▪️症状                        ⇦ ▪️個人的未来の構成
    (改善・悪化)              (修正・誤構成)

図 、症状の悪循環と症状改善(本書を参考に作成)


これらの仮定を統合する基本的な枠組みはサイバネティクス理論(人工頭脳学)であり、上記の仮説によって、この研究が臨床精神医学上、適切なものとなることが意図されている。

〜メルゲスの主張は明解である。精神病、うつ病ないし神経症のいずれであれ、いったん未来が曇ると、その人の目標に向かってる進む行動が反古にされるので、しばしば悪循環が生まれる。その結果、時間がたてばたつほど、未来イメージ、行動計画、そして情緒のあいだに不適合を来し、未来制御の欠如はさらに心理学的悪循環(らせん)を描くことになるというわけだ。
 
〜このようならせんは、心的過程におけるシークエンスや速度に関する基本的時間の歪みがある場合、障害が大きいという。時間の歪みは、未来イメージ、行動計画、そして情緒のあいだのタイミングと共同を障害するからである。
 
〜別の言い方をするなら、時間の歪みは意識を変容させ現実検討を障害するので、時間の歪みの引き金ないしその原因がいかなるものであっても、いったん時間の歪みが存在すれば、修正されるまで、意識を変容させ続けたり現実検討を障害し続ける。
 
〜よって、治療的にも、精神病理らせんの中断を目指す、未来制御の修復こそが最優先されるわけだが、それは、時間の歪みの修正と、未来イメージ、行動計画、そして情緒の調整を通して達成させ得る。
 
〜「私たちは、次のようには滅多に考えない。この人は自分とは違う時間枠組みの中にいるのではないか?彼のシークエンスは混乱していないか?彼の頭は速く動き過ぎるのではないか(遅過ぎるのではないか)?彼は主に過去、現在、ないし未来のどこに焦点を当てているのか?彼の時間カテゴリーは混乱していないか?」これらこそが正しく問われるべきだというのが、メルゲスの認識である。
 
 
●コメント【2】
どうしても耳慣れないのが「シークエンス」という言葉。一応、辞書的には、
 

【sequence】連続、順序、連鎖

[用例]the sequence of the searons 四季の循環
 
となっています。僕的には、フィギュアスケートの演技の後半に「ステップシークエンス」という連続ステップの山場ありますよね、あれで理解しました。A→B→Cというように、一つの物に次の物が淀みなく続いて流れていく感じです。
 
以下の時間感覚を、フィギュアスケートに例えると、
〜このようならせんは、心的過程におけるシークエンスや速度に関する基本的時間の歪みがある場合、障害が大きいという。時間の歪みは、未来イメージ、行動計画、そして情緒のあいだのタイミングと共同を障害するからである。
 
ステップとステップの繋がりがぎこちなかったり引っかかったり、また滑るスピードが急に落ちたり上がったり上手くコントロールきないと、残り滑りやジャンプに自信が持てずに迷ったり、失敗するのではと不安になったり、みたいな感じでしょうか。
 
「今」の滑りがイチイチ引っかかってしまうので、過ぎ去った「過去」に引きずられて、現在集中すべき「今」にフォーカス出来ない状態です。
 
個人的には、人格障害系やこだわりの強い発達障害系の方との会話イメージと非常に一致します。
 
メルゲスのすごいのは、30年以上前に、これらの時間感覚の特徴を精神障害別にまとめ、その治療法まで示していることです。
 
では最後に紹介するのは、その分類についてです。
 
 
【3】時間精神医学とBPS
〜時間精神医学では、時間問題を臨床評価した後にBPSな治療が保証され、最も有効な治療を選択することができる。…つまり、シークエンス、速度、そして時間志向性の変化が、精神疾患治療に利用され得ること、この時間介入が、生物学的、心理学的、ないし社会的相互作用レベルで行われるということである。
 
ここでは、①時間問題の臨床評価、②精神障害における時間問題と個人的未来、未来制御感覚(未来イメージ・行動計画・情緒)、③時間問題とBPS別治療、それぞれの概要を紹介します。
 
①時間問題の臨床評価
以下の4つのステップに分けられるとされています。図式にするとこんな感じです(本書を参考に作成)。
 
 
▪️シークエンスの問題  →(ある)A1 器質性障害
            ↓                                A2 統合失調症
            ↓
▪️速度の問題  →(ある) B1 躁うつ病
            ↓                      B2 うつ病
            ↓
▪️時間志向性  →(過剰な未来)C1 妄想性障害
            ↓         (過剰な過去)C2 不安障害
            ↓         (過剰な現在)C3 反社会性人格障害
            ↓
▪️脱同期的交流 →(問題ある)D 適応障害
                          (問題なし)健常
 
 
(A)まず、シークエンスの問題を評価する。もしもシークエンスに問題があれば、それが器質性脳障害における時間の検討式障害なのか、急性統合失調症における時間的シークエンスの崩壊なのかを鑑別する。
(B)シークエンスの困難が除外されれば、速度の問題を評価する。もしも速度の問題が顕著ならば、診断は感情障害である可能性が高く、速度が増していれば、躁病、速度が落ちていれば、うつ病である。
(C)もしもシークエンスにも速度にも問題がなければ、時間志向性について評価する。もしも過剰な未来志向性があれば妄想性障害を、過剰な過去志向性があれば不安障害を、そして過剰な現在志向性があれば、反社会的人格障害が疑える。
(D)もしも時間志向性にアンバランスがなければ、最後に、他者との脱同期的交流を評価する。ここで問題があれば適応障害が考えられるが、なければ健常人と考えられる。
 
 
精神障害における時間問題と個人的未来、未来制御感覚(未来イメージ・行動計画・情緒)
それぞれについて、本書の表をもとに羅列します。
 
    【精神障害】        【時間問題】      【個人的未来】
・器質性脳障害     時間の見当識障害            混乱
統合失調症        シークエンスの              断片化
                                       時間的崩壊                 
・躁病                 速度とリズム(速い)     過膨張
うつ病             速度とリズム(遅い)        停止
・妄想性障害      過剰な未来への焦点づけ      脅威
・不安障害         過剰な過去への焦点づけ      恐怖
                                                      (不確かな)
・反社会性         過剰な現在への焦点づけ      無視
      人格障害                                           
適応障害               脱同期的交流      アンビバレント
 
   【精神障害】【未来イメージ/ 行動計画 / 情緒 】
・器質性脳障害      混乱             無秩序       不安定
統合失調症        断片化           不調和         矛盾    
・躁病                過膨張             加速         多幸的
うつ病              収縮               遅速         抑うつ
神経症           誤った構成        不確か         不安
適応障害         不適合な          他者との   アンビバ
                         対人関係期待    脱同期      レンツ
 
 
③時間問題とBPS別治療
これも、本書の表をもとに羅列します。
 
           【  シークエンス  /  速度  / 時間志向性 】
生物学        中毒性            リチウム ( マリファナ
的治療      代謝性疾患ない   抗うつ薬       ・ LSD
             し脳腫瘍等の治療
                 抗精神病薬
 
心理学      行動療法           リラク           催眠療法
的治療      認知療法            ゼーション    ゲシュタ
               悪循環を中断さ   認識療法       ルト療法
                せる逆説的介入                        瞑想
              (MRI  ブリーフセラピー)
 
社会学      家族療法           危機介入     サイコドラマ
的治療                             集団療法      時間管理術
 
 
●コメント【3】
先ほど、シークエンスをフィギュアスケートで例えましたが、もはや器質性脳障害や統合失調症の「時間の見当識障害」「シークエンスの時間的崩壊」レベルになると、滑りが引っかかるとかスピードが云々という次元ではなくて、そもそも何をしてるかわからない(混乱)、滑る順番を所々しか思い出せない(断片化)といった感じでしょうか。
 
本書では「トラウマ」について直接触れられてはいませんが、精神病(=統合失調症)の進行段階の一つに「過去、現在、そして未来の断裂は、離人症症状と関連している」とあることから、おそらくトラウマに付随する「解離」は時間感覚の断片化を、フラッシュバック」は現在と過去の時間感覚の混乱を少なからず引き起こしていると、個人的には考えます。
 
器質性脳障害や統合失調症レベルの子は児童福祉施設じゃない場所での生活になるとは思いますが、虐待・トラウマの問題は「時間のシークエンス」つまり「過去ー現在ー未来の連続性」の問題に繋がるんだろうなと思います。
 
そして、トラウマが無かったとしても、施設入所や措置変更に伴う喪失体験や未完の感情が適切に扱われないこと、また、あいまいな喪失が放置されることで起こる状態を時間感覚という軸で捉えると、表にあるような「時間の速度」や「時間志向性」の問題は起こっていそうですよね。
 
そうすると、やはりLSWを検討するにあたっても、「シークエンスの問題」→「速度の問題」→「時間志向性の問題」→「脱同期的交流」の4つのステップで考えるのは理に適っているのではないかなぁ、当然、早めに問題がある程、配慮が必要という意味で。
 
ただし、児童福祉、特に社会的養護の子どもは、
・ただ生い立ちを知る機会がなかった
・あいまいな喪失がトラウマ化している
・はっきりした喪失体験があり未完の感情が残る
・解離フラッシュバックが起こっている
・普段の覚醒水準が高すぎる/低すぎる
・新しい環境とのミスマッチが、うつ病神経症適応障害を引き起こしている
 
などの状態が複数重なり、さらにASDによる想像性の乏しさ、年齢発達による時間的展望の獲得の変化、乳幼児期の養育環境が脳の発達に与える要因が加わって、「生物」×「心理」×「社会」×「年齢」の複数要因が掛け算になっていて、状態も刻々と変化するので本当に捉えにくいなぁ、とも思います。
 
とはいえ、
心理的時間(シークエンス・速度・時間志向性)と、
未来制御感覚(未来イメージ・行動計画・情緒)
の問題は、LSWを「知る権利」「権利擁護」とは違う切り口で、子どもの時間感覚の問題となっている状態を助ける一部になる支援として考える材料になるのかな、と。
 
ただそれは「子どもを安定させる目的」でLSWが実施されるのではなく、一般的に言われるLSWは、ソーシャルワークに重なる「社会学の色合いが強い気がするので、「生物学/心理学」的アプローチの部分を補うと言いますか、BPSの3つ支援をバランスよく組み合わせることで、より多角的で良い意味で抜け目ない、安全安心感が高いLSWの実践に繋がるかな、という意味です。
 
ただそうなってくると、やはりLSWがどうあるべきhow toではなくて、その人の状態をきちんと捉えて、どの状態にはどんな支援が一番安全かつ効果的か、というシンプルな所に立ち返っていくんだろうと思いました
 
例えば、メルゲスが各治療法について「神経症の治療は情緒らせんを治療する未来志向性療法が推奨」「うつ病の絶望らせんの治療は、精神速度を加速させ、現在においてより多くの報酬が得られる関連活動を増やすこと。未来を解凍し、本人が全てを失ったと感じされないようにする」「精神病(統合失調症)に関する…治療的利益は、主に心理教育にあるようである」
と言っているように。
 
メルゲスのような素晴らしい整理をつけるには、時間も能力も全然足りないですが、時間精神医学からひとつのヒントを得た気がするので、今後も少しずつLSWへの応用を考えていけたらなぁ、と思っています。
 
ではでは。
 
 
ちなみに、時間志向性については、
【第19回】ジンバルド時間志向テスト
 
時間の速度については、
【第22回】モーガンフリーマン時空を超えて
で触れていますので参考に。
 
 

【第39回】「方法論/認識論」による4つの象限

メンバーの皆さま
 
こんにちは。管理人です。
 
10月に入り、さすがに気温が落ちてきましたね。一応、昨日10/2から長袖シャツで出勤してみましたが、所内ははかなり蒸し蒸し(汗)。
 
季節の変わり目は、やはり調節が難しいですね。
 
では、コラム本文です。
 

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●目次 
理論編
【第1章】心身二元論からBPSモデルへ
【第2章】エンゲルが本当に書き残したこ
                                          ―BPS批判に応える
【第3章】BPSと時間精神医学
【第4章】 二一世紀のBPSアプローチ
技法編
【第5章】メディカル・ファミリーセラピー
【第6章】メディカル・ナラティヴ・プラクティス
【第7章】BPSSインタビュー
応用編
【第8章】高齢
【第9章】プライマリケア
【第10章】緩和ケア
【第11章】スピリチュアルペイン
 
 
 
●内容
今回は、第2章「エンゲルが本当に書き残したこと ―BPS批判に応える」。
 
超要約すると、①エンゲル(米)のBPSモデルに、②ナシア・ガミーというイラン生まれの精神科医がケチつけて(批判です)、③エンゲルはこう答えている、と言う内容なんですが、
 
「古文書漁りにずっとつきあって頂いた読者の方の疲労も考え、これで本章はいったん締めくくることにするが」と著者自身で言っちゃうくらい、とにかく医学論文の引用だらけで小難しく、読んでて正直疲れます。
 
この章の最後にある【本章の要約】はこんな感じ。
~まず、エンゲルが1977.1980.そして1960年の三論文を取り上げ、BPSの概略を示した。シア・ガミーの批判は、下記の二点に集約される。(1)BPS精神疾患においては身体疾患におけるほど適合しないのではないか。(2)BPSの科学性が低いのであればヒューマニズムと変わらないし、科学性が高いと言えども精神分析的なので教条主義的である。これらの批判を吟味するために、心身医学、医学教育、ヒューマニズムそしてベッドサイドの科学性という関連領域を取り扱った文献を精読した。
 
これだけでも小難しさが伝わると思います。なので、かなり簡略化して紹介しますので、細かい内容に興味がある方は本書で確認してください。
 
では、まず【ナシア・ガミーの批判】から。
~料理をするには、単に材料リストを知るだけでは十分でない。それぞれの材料をどれだけの量使うべきかを知っておく必要があるし、またどの順番で使うかも知っておく必要がある。生物・心理・社会モデルは、精神医学における重要な側面をリストアップしているに過ぎない。このモデルは、それぞれに異なる状況でのそれぞれに異なる精神医学的病態において、それら三つの側面をどのように理解すべきかという点については、何も言ってはくれないのである。結果として、このモデルは折衷主義となり、そうなると臨床家は、基本的には、自分がしたいと思うことならなんでもしてしまうということになってしまうのだ。
『現代精神医学原論』(2007)12項
 
これは、ナシア・ガミーが引用しているマクヒューとスラヴニー(1983)の生物・心理・社会モデルに対する(史上初の)批判らしいです。BPSモデルは料理レシピでなく料理材料リストに過ぎない、と。
 
さらに、
~ナシア・ガミーはさらにそれを展開し、教条主義、折衷主義、統合主義、そして多元主義の四者において、めざすべきは後二者であり、前二者は許容しがたいと主張する。特にBPSモデルに対しては手厳しい。「全てのアプローチが同程度に妥当である、と単純に考えて言うことが、その答えではない」「すべての方法が同時に組み合わせて用いられるべきであるというあいまいな考え方である」「彼らは自分たちが(実践場面では)たいてい教条主義者であることをもはや認識していない」「基本的には、精神医学に最も優れた説明を与えうるのが何であるのかについて、単一の視点を持たない人たちのことである。あるいは彼らは不可知論の立場を主張することもある」など。
 
 
対する、著者が読み取る【エンゲルの回答】は、「はい、もともと、そのつもりですけど」という感じ。ただ、このような誤解的な批判が起こった事態について著者はこう説明しています。
 
BPSが「三つのレベルすべて、つまり生物学的、心理学的、そして社会学的レベルが、すべてのヘルスケア課題において考慮されなければならない」という折衷主義的主張ではなく、然るべきタイミングで、患者に必要なレベルでの介入がなされなければならないとする多元主義に見合うモデルであることが読み取れる
 
~北米におけるBPSモデルの実践は、そのような批判に値するようなものなのかもしれない。さまざまなモデルが、誕生した地においてその本質を見失うことは、歴史の教えるところである。また、ナシア・ガミーがエンゲルの1977年の初期論文しか参照してないことも彼がその批判を現在の平均的実践に向けていることを推測させる。
 
ただ、ナシア・ガミーも事情は汲んでいるようで、
 
~「BPSモデルは、これまでイデオロギーを別のイデオロギーで置き換えるための(あるいは、もしかするとイデオロギーを隠すための?)ひとつのお題目のようになってしまった。慎重で繊細なBPSモデルの理論家たちやエンゲルが、このようなことを意図したわけではないことは間違いないだろうが、このモデルは、知的怠惰への弁解へと変容してしまったのである」
 
と、BPSモデル自体と言うより使われ方を批判している様子。もしかすると、ナシア・ガミーは「もともと、そのつもりじゃなかったとは思うんだけど、今じゃBPSモデルが誤解されて臨床の手抜きの理由に使われちゃってるのは、マズいんじゃない?」的な気持ちだったのかもしれませんね。
 
 
では最後に、見慣れない「◯◯主義」という言葉についての【著者の理解】を紹介します。
 
~認識論が複数か単数か、方法論が複数か単数か、それぞれを縦軸、横軸にとって、四つの象限を想像して頂きたい。
 
                        複数の認識論
                                ↑
              【多元主義】 l 【折衷主義】
 単数の                       l                     複数の
 方法論   ←  ー  ー  ー  ー  ー  ー  ー  →  方法論
                                l
              【教条主義】 l 【統合主義】
                                ↓
                         単数の認識論
 
図、臨床におけるさまざまな主義(本書より)
 
 
~となると、第一象限は、認識論は複数で方法論も複数の折衷主義、第二象限は、認識論は複数だが、対象にその時点で最上の方法論を選択すべきだとする多元主義第三象限は、認識論も方法論も単一の教条主義そして認識論はひとつだが方法論は複数揃えた統合主義となる。
 
~結局、これから私たちが書こうとしているこの本では、BPSは折衷主義ではなく多元主義であるし、そのような努力を惜しむべきではないと主張する。
 
~図のシェーマ(図式)に実例をあてはめるなら、以下のようになるだろうか。
【第一象限】なんでもありのBPSモデル
【第二象限】臨機応変BPSモデル
【第三象限】硬直した精神分析
第四象限】あらゆる介入が統合された時間精神医学
 
 
●コメント
それぞれの主義の変遷について、もう少し詳しく知りたい人はコチラ、「精神医学における生物・心理・社会モデルの今後の展望について」(中前、2010)
 
また、最後に出てきた「時間精神医学」については、本書のメイン「第3章」でじっくり紹介します。
 
で、この章に戻りますと、最近、昔のSF映画や小説が実際の21世紀現代のことを予言し当てていた、なんて話しがチラホラありますが、このBPSをめぐる1970年からの論争の歴史を始めて読んだ時、まさにこれから起こるLSWをめぐる論争を予言した「映画・小説」を観ているようで、鳥肌が立ちました。
 
LSWは、はっきりした方法論や認識論の定義がないので、それゆえ何をするのかは支援者次第「なんでもあり」のLSWが展開される危険性をはらんでいるし、その平均的実践を批判するナシア・ガミー的な人が現れる未来は、容易に想像が付きます。
 
もっと具体的に言うと、LSWを実施するHow toばかりに囚われて、ベースとなる生活臨床が疎かになったり、臨機応変さが無くなったり、アタッチメント・トラウマ・グリーフ等の専門知識の勉強が置き去りなる事態です。
 
四つの象限の図で置き換えると、支援者の考え方で、
【第一象限】なんでもありのLSW
【第二象限】臨機応変のLSW
【第三象限】硬直したナラティヴ/真実告知
第四象限】あらゆる介入が統合された
                   「過去ー現在ー未来」の時間を繋ぐ支援
 
なんて実践の分類ができるかもしれませんね。LSWに否定的な人の意見を聞いていると、たいてい「なんでもありのLSW」か「硬直したナラティヴ/真実告知」をイメージしているような気がします。
 
方法論・認識論が広がり過ぎても、狭まり過ぎても良くなくて、方法論・認識論どちらか片方は軸足として地につけながら、もう片足は自由に臨機応変に動かせる余地を残す「臨機応変のLSW」や「あらゆる介入が統合されたLSW」へ。なんとなく、これは前回コラム「コンセプトの融合」、何をベースに何を積み上げるかと言う話に繋がるような気がします
 
まず【第二象限】
~認識論は複数だが、対象にその時点で最上の方法論を選択すべきだとする多元主義
 
を考えると、個人的に意識しているのがコチラ。

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ご存知「マズローの欲求階層説」ですが、虐待問題を扱っていると、まず生理的欲求や安全欲求を満たすことがいかに安定的な生活には必要で、それなしに「友達と仲良く遊ぶ」とか「勉強に励む」とか「将来の夢を持て」とか全然求める順番が違うよ!と実感する場面が多々あります。
 
そう言った健全な育ちに必要な支援の順番を意識する中で、然るべきタイミングで必要なレベルのLSWの実施を考えるなら、それは多元主義的「臨機応変のLSW」と言えるかもしれませんね。
 
ちなみに、支援の優先順位を考える上で、マズローの欲求階層説を、脳の構造的に考えると、

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脳幹から大脳辺縁系大脳新皮質と内側から外側に、動物的な本能の所から哺乳類な感情、人間的な理性の所に向かっていくイメージに近くて、僕的には欲求階層説の順番が腑に落ちています。
 
【第7回】コラムでも触れましたが、「感覚ー感情ー理性」のバランスを取る程度ならいいですが、過度に「理性」を効かせ過ぎて「感覚・感情」を抑えるような状態は、構造的に無理があって、どこかがシワ寄せで悪くなっていくんだろうな、と思います。
 
 
また、話を戻して【第四象限
~認識論はひとつだが方法論は複数揃えた統合主義
 
の視点で考えると、LSWを、認識論の軸足を「時間」においた『あらゆる介入が統合された「過去ー現在ー未来」の時間を繋ぐ支援(仮)』の方法論の一つとして捉えることもできるかもしれません。
 
例えば、
【過去】
生い立ちの整理やルーツを知ると言った一般的にイメージされているLSWや真実告知
これまで経験した喪失体験で表現したり扱われてこなかった未完の感情を完了させるグリーフケア
・凍結している過去の恐怖体験の記憶や感情を扱うトラウマ治療(認知ーナラティヴー身体など)
【現在】
・規則正しく健康的で安定した生活リズム
・覚醒水準(意識の明確さ)を適切な状態に整えて現実感を高めるワークや取り組み
・現在の対人関係でのアタッチメント修復的な支援
・いま現在の離れて暮らす家族との交流や情報整理
【未来】
・未来語りのナラティヴ・アプローチ、未来語りのダイアローグ(対話)
・CCP(キャリア・カウンセリング・プロジェクト)のような具体的未来をイメージする支援
 
パッと思いつくところでこんな感じです。もちろん、これが支援の全てとは思わないですし、これらをどこまでLSWと呼ぶのかは正直よくわかりませんが、もはやハッキリ線引きする必要もないのかもしれません。
 
大事なことはLSWか否かではなく「子どもの最善の利益」で考えて、その子にとって、その時に必要な支援が展開されているか。しかし、この言葉こそ、子どもにとって良ければ「なんでもあり」の折衷主義になる危険性を秘めている言葉だと、かねがね思っていました。
 
そういう意味では、この章はLSWに関する考察のみならず、数年来のモヤモヤを一つ解消してくれたと言うか、臨床の基本的姿勢についての整理と理解を深めてくれたバイブルとして、今後も大切にしていきたい本の一つになりました。
 
では、次回以降は本書の(個人的な)メインである時間精神医学」について見ていきます。
 
ではでは。
 
 

【第38回】状況判断能力とコンセプトの融合

メンバーの皆さま

こんにちは。管理人です。

前回は雑談が長引いてしまいましたが、本当はこちらが本題でした。

以前、日本とベルギー、オランダとの文化差について【第13回】日本文化と即興性、育成論
http://lswshizuoka.hatenadiary.jp/entry/2017/07/14/074307で触れましたが、

「社会環境×心理(メンタリティ)」の相互作用を考えるのに、今回もサッカーコラムから
【1】アルゼンチン人から見た日本の特徴
【2】アルゼンチン人監督の育成
について紹介したいと思います。

まず前半はコチラ。

戦術理解は早いが、状況解決能力が低い
エスナイデルが感じた日本の特徴<後編>
https://sports.yahoo.co.jp/m/column/detail/201709170006-spnavi

エスナイデル氏は、アルゼンチン出身のサッカー選手で、スペインのレアルマドリードアトレチコマドリード等でプレーした後、スペインで指導者のキャリアを積み、2016年11月からJ2ジェフユナイテッド市原・千葉の監督をしている人物です。

●インタビューより
【サッカーでは、時に選手自身が決断する必要がある】
――シーズン始動初期の選手の戦術レベルはいかがでしたか? あなたの戦術に素早くフィットできましたか?

 はい、日本の選手は本当に理解するスピードが早いと感じました。監督の指示をよく聞きますし、基本的には従順な選手が多いです。監督としてそういうパーソナリティーを持った選手が多いことは喜ばしいことなのですが、サッカー的には悪いこともあります。サッカーというスポーツにおいては、時に選手自身がイニシアチブを握ってプレーを決断していく必要があります。戦術というのはある一定のラインまでは有効ですが、サッカーで大切なことは相手が何をしてくるかであり、相手に合わせて柔軟にプレーを変えていくことです。

 いくら事前に戦術を準備し、相手のプレーを分析していても、いざプレーした時には相手が予想と異なるプレーをしてくることがあります。そうした時に、選手は監督が試合前に指示した戦術を忘れ、状況を解決するプレーを選択しなければいけません。その点に関して言うと、私の選手もまだ苦労しています。とはいえ、戦術面については理解が早いですし、何も問題はないと思います。議論すべきテーマは、監督が話したこと以外の状況が発生した時に解決する手段を持つことです。

――従順な日本人選手を指導することは欧州、特にスペイン人を指導するよりも簡単なことですか?

 考え方によりますね。ある一定のことに関して言うと、そうかもしれません。日本で指導する方がやりやすい面はあるでしょう。ただ、私がプレーをしたスペインやアルゼンチン、イタリアといった国では選手自身の状況解決能力が高く、それは日本人選手に足りないところですので、その面では物足りない部分もあります。

――日本人選手の状況解決能力の低さは育成年代における戦術指導不足によるものだとお考えですか?

 戦術ではなく教育の問題です。日常生活からも感じますが、日本人はとても模範的で教育された民族です。そうした国で生活することはとても心地良いもので、私は日本という国をとても気に入っています。私自身も日本人に近い性格を持っていますし、ルールや規則を遵守する社会は素晴らしいと考えています。
 ただし、サッカーはそうではありません。ルールはありますが、オーガナイズされていないカオスな状況が多々発生するスポーツです。時に選手というのはイマジネーションを発揮しなければいけませんし、自分1人の力で困難な状況を解決しなければいけません。ですので、日本人がサッカーに適応するのは簡単なことではないと思います。

【コンセプトの融合で、日本サッカーは発展する】
――ということは、日本の社会から欧州で通用するコンペティティブな選手を輩出することは難しいことなのでしょうか?

 近年、海外でプレーする日本人選手が増加しているので、その点については彼らが大いに貢献してくれるでしょう。海外に行って異なるコンセプトのサッカーに出会った時、日本人選手は素早くそれを理解し、習得します。そうした選手たちが代表で他の選手に異なるコンセプトを伝え、さまざまなコンセプトが融合することで日本のサッカーは発展していく。それはとても重要なことです。

――できる限り若い年齢で海外挑戦した方がいいという考えはお持ちですか?

 確かにそうなのですが、一方で日本で成長するチャンスを捨てて無謀に海外へ行く必要はないと思います。世界のサッカーを見渡した時に、強国というのは必ず多くの選手が海外でプレーし、異なるコンセプトを持ち帰り、内外のコンセプトを融合させています。

 今、日本代表でプレーする選手の多くが海外でプレーしていることは、日本のサッカーにとってとても重要なことです。その国のサッカーを成長させていくためには外に出ていって学び、異なるコンセプトを持ち帰ってくる選手が必要ですし、同時にそうしたコンセプトを持ち込むことのできる優秀な外国人選手も必要です。


●コメント
サッカーは、ストリート的カオス、チームプレーと個の対応の相互性、求められる柔軟性と困難状況の解決等々、児童福祉現場と共通点が多くて参考になるので、ついついサッカーコラムを多用してしまいます。

しかしながら、役所で勤める身として感じるのは、ホント日本の伝統的な社会組織の多くは上下伝達、指揮命令系統を重んじる「野球型組織」だなぁ、と。
(参考)サッカー型組織と野球型組織
https://jinjibu.jp/smp/keyword/index.php?act=detl&id=598

ちょっと古いですが所謂「事件は会議室で起きてるんじゃない。現場で起きてるんだ!」(踊る大捜査線the movie、1998より)に象徴されるような、判断は現場ではなく上司が行うし、その責任も上司が取る組織です。ある意味、部下は守られていますが、余計ことはせず言われた通りのことをこなすだけ。

「戦術理解は早いが、状況判断能力が低い」

なるほどな、と。これまでの日本文化や教育が、規律をきちんと守って言われたことを守れる大人になることを求めてきたし、未だに日本社会では他と違いを生み出すような結果を残すより、規律を守ったり上司に気に入られる方が評価されやすいという現実はあると思います。

エスナイデル氏も言うように、僕も日本は安全で規律が守られて、文化的にも素晴らしいものがたくさんある国だと思っています。ただ「サッカーには合わない」というだけのことです。

時々思うのですが、ストリートチルドレンもいないし、問題を先延ばししても周りが何とか助けてくれるし、それでも別に食べていける社会システムが日本は構築されているよな、と。

すると、社会システム信者といいますか「安全安心の手段としてのシステム」だったはずが、いつの間にか「システムから外れたり、システム自体が壊れることへの恐怖」にすり替わっているのか、そもそもシステムが機能して目的を果たしているのかは思考停止で、「決まりだから」とシステムを守ることに頑なに縛られている人に出会うことが時々あります。

なんとなく最近、日本世間一般の「失敗」という言葉に対する過剰なアレルギー反応ようなものを感じます。それは文化的に、輪を乱すと周りから忌避されやすい環境、「出る杭は打たれる」くらいならリスクを取ることを避ける「社会環境×メンタリティー」の相互作用の積み重ねがあるのかもしれませんが、それだけかなぁ、と。

TV番組のコンプライアンスに象徴されるように、感覚的に80~90年代はもう少し失敗に対する許容度があった気がするんですよね。やっぱりバブル以降ですかね。世の中全体の将来に対する悲壮感というか悲観的な雰囲気。

【第35回】コラムで、
~思春期以前は「安全のために保護する時期」、思春期以降は「失敗を担保する時期」

という紹介をしましたが、大人が不安だから子どもにチャレンジさせない→必要な経験が教育・育成段階で足りない→成功体験もなく不確実性に耐えられないので次の世代にもチャレンジさせない
という悪循環ループに突入していないかな、と。

ただ社会状況を変えられるわけではないので、状況を打破するためにどうするかと言うと、やはりエスナイデル氏も全く異なるコンセプトを融合するという「異文化交流」的な事を言っていますね。

では、エスナイデル氏が言う「私がプレーをしたスペインやアルゼンチン、イタリアといった国では選手自身の状況解決能力が高く」とは、どのようにして培われているのか。

また南米一を決めるコパアメリカ2015ではベスト4の国全部がアルゼンチン人監督という事態が起きている程、アルゼンチン人のサッカー監督が評価されているのは何故か。

その一端が垣間見れる記事がありましたので、それがコラム後半です。


シメオネら名将を次々と輩出“アルゼンチンの松下村塾”に潜入
https://www.footballista.jp/interview/38186

~やはり、欧州で選手としての経験を積んだ者が指導者に転身していることが大きな理由の1つでしょう。アルゼンチン人特有の情熱と勝利へのこだわり、自信、説得力とリーダーシップに、欧州のトレーニングメソッドや戦術を取り込むことによって、多彩で優秀な監督が生まれます。それ以外にも、秩序、責任、相手に対する敬意など、欧州に渡った選手でなければ習得できないピッチ内外での基本的な要素が取り入れられていることも大事なポイントです。特にアルゼンチン代表でマルセロ・ビエルサ監督の指導を受けた世代から、欧州式メソッドとの融合が目立つ傾向を感じますね。

~とにかくビエルサの指導法そのものが、従来のアルゼンチンにおける典型的なトレーニングメソッドとは大きく異なります。一昔前までのアルゼンチンでは体力作りとゲーム式練習が基本で、夏季キャンプでも最初の1週間はとにかく走り、その後はとにかく試合に試合を重ねるというやり方でしたが、ビエルサは細かく具体的な戦術練習に力を入れます。代表でビエルサの指導を受けた選手たちは、あのやり方が非常に効果的だったことを身をもって知らされているわけです。でも気をつけてもらいたいのは、ビエルサの指導法をそっくりそのまま真似している者はいないということです。シメオネポチェッティーノも、それぞれが異なる条件下で独自の判断をもってチームを作っています。いかなる環境に置かれても優れた問題解決能力を発揮するのが、これまたアルゼンチン人の特性なんですよ。

~アルゼンチンは社会的・経済的な問題が絶えない国ですが、そのために国民は無意識のうちに即興で解決策を見出す力を養われていて、その場にあるものを使ってトラブルを克服することに慣れているのです。『さあ困った』と腕を組んで考え込んでいたら、問題は山積みになる一方ですからね。決断も早いですよ。この特性こそ、アルゼンチン人監督が国外でも活躍できる理由と言えるでしょう。


●コメント
やはり、異文化交流。まずアルゼンチンには、状況解決能力が養われやすい不安定な環境があり、そのメンタリティのベースを持った人物が、欧州的な戦術やトレーニング理論を取り入れつつ、さらに自身の解決能力によって独自のメソッドに進化させている、ということですよね。

どちらが良い悪いではなく、Aを持ったものがBを取り入れる、足りなかった視点を補い、多角的視点を融合してるという事かと。じゃあ本家の欧州人監督はアルゼンチン人監督より優れているのかと言えばそうではないんでしょう。

アルゼンチン人の元一流選手にとって「認知ー体験ー感情」の足りない「認知」を補うものが欧州的メソッドであり、監督養成学校で他の生徒が元一流選手と共に学びながら話を聞くことで「体験」を補足する相互作用を生むサッカー監督養成システムをアルゼンチンは作っている、ということみたいですね。

じゃあ、このシステムをそのまま日本に当てはめて上手くいくのかと言うと、そうではないと思います。状況解決能力って「たくましさ」と通じる気がしまして、放任主義というかネグレクトで育った子の中には、良くも悪くも生きてくための「たくましさ」を身につけている子っていますよね。

社会的・経済的状況から真似る必要があるのかと言ったらやはり違うし、日本には日本の文化と歴史の良さがあります。アルゼンチンはアルゼンチンの発展のプロセスがあるし、日本は日本の発展のプロセスがある。それは、組織や個の発展成長にも同じことが言えて、「〇〇だから」という固定概念ではなく、国も組織も家族も個人もそれぞれが時代の影響を受けて変化し、その変化にそれぞれ影響され合う相互作用で考える必要がありますよね。

今のアルゼンチンの監督育成メソッドだって、進化がなければ10年後には時代遅れのものになっている可能性だってあります。その支援対象ごとに今どんな力が必要とされ、これまでの環境(家族、地域)で培われている資質は何で、さらに何を積み上げていく必要があるのか、その人の強みと弱みをきちんと把握しながら、常にオリジナル版の個別支援をアップデートし続けるしか成長進化の道はないんだろうと思います。

始めに言いましたが、サッカーと児童福祉(=社会的養護、集団養育)は似ている点が多いなと思います。今回のサッカー選手や監督を育てる視点は、児童福祉の子どもや支援者の育成を考える上で、そっくりそのまま真似る意味ではなく、異分野の視点を取り入れると言った意味で、とても参考になるなぁ、と思います。

個人的には、日本の児童福祉現場において、ざっくり言うと、80年代後半~90年代前半に「不登校→虐待」問題に焦点が当たり始め、阪神大震災があった辺り90年代半ばから後半以降10年間で「トラウマ・発達障害」が広く認知され始め、さらに2000年代半ば以降のこの10年間「LSW」的ナラティブの再考が起こったという、約10年サイクルで新しい波、パラダイムシフトが起こっているんじゃないかと思っています。

そして、これらが時代遅れになる訳でなくて、認識されてから、どう実践に繋げるのかで10年、どうシステム化するのかで10年、という積み上げのバージョンアップが必要なんだろう、と。

「平成」もいつまで続くかわかりませんが、来年度以降、平成30年代の今後10年は、最近の児童福祉司の研修整備、公認心理師の国家資格化、法改正による司法関与や学齢期前の里親委託推進の流れ等々、日本の児童福祉にとって変革の10年になりそうな予感がします。

なんか話が大きくなっちゃいましたが、常に揺れながら変化していく時代の波に、LSWが何とどう融合し、どういう発展を遂げていくのか興味深いですし、僕もいち実践者として色んな分野とアイデアを取り入れながら考えていきたいなぁ、と思います。

ではでは。

【第37回】ラブライブと情緒的発達

メンバーの皆さま

こんばんわ。管理人です。

突然ですが「ラブライブ!サンシャイン‼︎」というアニメを皆さんご存知ですか?

最近、やたら東大生が出るTV番組が多いですが、昨夜たまたま観ていた「さんまの東大方式」という番組内で、ある東大生が会いたい有名人がこのアニメの声優さんだったんです。

まぁ、よくある萌え系アニメかと思っていたら、妻に「え!知らないの⁉︎」信じられないくらい勢いで驚かれまして。

どうやら静岡県沼津市(東部地区、伊豆の北側)に実在する中学校を舞台に、その在校生がアイドルになっていくというストーリーで、沼津市はまさに「ラブライブ」フィーバーなんですって。

ラブライブの画が描かれた市内バス目当てに、カメラを持ったオタク達が沼津駅前に列を作り、夏休みには舞台になっている中学校の校内にファンが侵入する事態になっているんだそうです、沼津市で働いていた妻によると。

よくよく調べたらラブライブ声優ユニット紅白歌合戦にも出てるみたいで、これは全国規模の人気だろうし、もれなく発達障害系でハマっていく沼津男子が続出らしいです、妻によると。

でも、同じ県内の浜松市(西部地区、愛知県の隣)で僕が児相で関わる子ども達からラブライブの「ラ」の字も聞いたことなくて、オカシイなぁ、でも150kmも離れてるし地域差ってやつかなあ、なんて思ってたんです。

すると、ある東大生が興味深い事言ってまして「思春期が3年遅れてきて、中学生の時は周りがアイドルの話しとかしてても何で興味があるのか全然わからなかったけど、受験勉強の時にやってきて大変だった」と。

また、別の色白の物静かな東大生が会いたい有名人が芸人を「くまだまさし」と言うので、みんな何で?と聞くと彼は、こう答えるのです。「くまだまさしさんは、自分の数少ない感情が動く瞬間を与えてくれる人です」「しょうもない芸を見ていると、身体の中が熱くなって楽しい幸せな気持ちになれる」と。

そうそう、これこそ虐待がない純粋な発達凸凹や感覚凸凹形成の感受性アンバランスによって、アタッチメントや情緒的発達が遅れて育つやつですよね。さすが東大生!ケースの子とは言語能力が違うな、なんて気軽に観てましたけど、これってかなり貴重な語りだなと。

番組コーナー的には、頭が良すぎて他人になかなか価値観や恋愛観をわかってもらえないことを、さんまさんが面白おかしくイジって笑いに変えてるわけですが、見るからに周囲と感覚が違いすぎて生きにくい、他人の感情が読みにくい、全員ではないですが番組的に面白おかしくなってるのは明らかに発達障害系の人たち。

ラブライブの話に戻ると、やはり僕が児童福祉で数年来お付き合いするケースの子って、即ち長期で施設入所している子になるので「発達凸凹系×対人情緒体験不足」の掛け算が多いだろうと。東大生のように言語化できませんが周囲と合わない違和感や疎外感はきっと感じているはずです。


そこにネグレクトや虐待による感情麻痺が上乗せされるわけですら、そりゃ、思春期段階では精神年齢が低すぎて「ラブライブ」=異性への興味まで追いつかないのかもな、と。

一昔前はそうばかりでもなかった気がするのですが、年々、児相で関わる子たちの精神年齢が幼くなってきているような印象を僕は持っていますし、約10年前から一緒にやっているケースワーカーもそう言っていました。

ちなみに、妻のフィールドは病院や巡回相談なので、つまり在宅ケース。同じ発達凸凹の課題を抱えていても、在宅児と施設入所児ではなんかアベレージが違うよな、と思ったりするわけです。

それも「生物×環境」の相互性だし、そんな情緒的に幼い中学生に、過酷な生い立ちを受け止めろってやっぱり酷だよな、と。施設に残ることが許されるなら、高校生くらいでようやく情緒的には3年遅れ、小学校高学年~中学生が受け止められるくらいの話を扱えたらなんて感覚で、自立支援計画をやりとり出来ることが最近は多くなってきたなぁ、なんて思います。

前段の雑談のつもりが長くなってしまったので、これで1つのコラムにします。

ちなみに散々、発達凸凹って言ってますが、このコラム書くのに没頭しすぎちゃって、気がついたら降りる駅を乗り過ごしちゃった僕も全然人のこと言えませんね。

ではでは。

【第36回】DSMやエビデンスへの固着

メンバーの皆さま

おはようございます。管理人です。

気がつけば9月も終わり。早いものです。

まだ暑いので秋って感じがしないのですが、秋花粉はこの時期ピークのようですね。

僕はここ数年「これは風邪の引き始め!」と自分に言い聞かせて花粉と付き合っているのですが、いつまで誤魔化しきれるのやら…

それでは、コラム本文です。

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●目次 
理論編
【第1章】心身二元論からBPSモデルへ
【第2章】エンゲルが本当に書き残したこと
                                          ―BPS批判に応える
【第3章】BPSと時間精神医学
【第4章】 二一世紀のBPSアプローチ
技法編
【第5章】メディカル・ファミリーセラピー
【第6章】メディカル・ナラティヴ・プラクティス
【第7章】BPSSインタビュー
応用編
【第8章】高齢
【第9章】プライマリケア
【第10章】緩和ケア
【第11章】スピリチュアルペイン


●内容
今回は第1章「心身二元論からBPSモデルへ」。
~今日の医学の発展は心身二元論と還元主義的が駆動してきた。デカルト(1596-1650)に端を発する心身二元論により、心と身体は認識対象として分離されてきた。

~医療者の視点は身体に向き、その結果、身体医学は体を機械のような仕組みとして理解し、還元主義を方法論にして、人間から臓器へ、臓器から細胞へ、そして細胞から分子へその疾患の原因を究明する展開を見せた。

~一方、心を扱う精神分析をおいては、精神分析においては、精神現象を意識してから無意識へ、心を超自我、自我、エスという部分に分けて考えると精神分析が台頭した。それも現在の体験の原因を幼児期体験に遡って探索するという還元主義に乗っていた。

※【還元主義】
多様で複雑な事象は単一の基本的要素に還元して説明せねばならないとする態度。
②物体に関するすべての命題は、直接与えられる経験を記述する命題に還元(翻訳)可能でなければならないとする認識論上の立場。特に科学論理について、直接観察できない理論的対象は観察可能なもの還元されないかぎり、持ち込むべきではないとする考え方。
                                                   (大辞林より)

~科学技術は進歩し、遺伝学や分子生命科学が急速に発展し、医学は生物的学モデルを軸に発展してきた。医師は学生時代から還元主義に根ざした生物学的モデルを徹底的にたたきこまれる。それは医師になってからも続く。その結果、ほとんどの医師は身体モデルへの固着を引き起こし、医師の視野は、患者よりも患者の体、体から細胞、さらには分子へ狭窄していくのである

~医師の多くは「がんの進行具合」「治療の作用と副作用」については上手に説明するが、「がん患者の体験や心情」はしばしば多忙な日々の中で置きざれにされる。

~精神医学においても憂うべき状況が続いている。アメリカ精神医学会が作成した診断基準であるDSMは、本来は多軸診断であり、身体的次元、精神的次元、心理社会的問題などの5軸あり、各次元の相互性を考えるという点において、BPSモデルに基づく優れた診断マニュアルである。

~しかし、I軸(臨床疾患、臨床的関与の対象となることのある他の状態)とII軸(パーソナリティ障害、精神遅滞)しか臨床に活用されず、III軸(一般身体疾患)、Ⅳ軸(心理社会的および環境的問題)、Ⅴ軸(機能の全体的評価)の記載を省略する医師が増えた。

DSM-Ⅳの著者は多軸診断を希望しないと臨床家に「非多軸方式」を勧めているが、そこにはこう書かれている。「多軸方式を用いることを希望しない臨床家は、適切な診断をあげておくだけでよい。この方式を選ぶ者は、その患者の介護と治療に関係あるすべての共存すること精神疾患一般身体疾患、および他の因子を記録することという全般的な規定に従うべきである。主診断、または受診理由を最初にあげておくべきである」。つまり著者自身はI軸とII軸だけをとりだす事を決して推奨しているわけではない。

~ある状態に与えられた「診断名」は全体を表しているわけではない。…診断名の影に隠れている部分は見えない、見ない精神科医も増えた。私たちが医師になった頃は、精神科カルテにジェノグラム(家族関係図)を記載するのは当たり前であった。ところが電子カルテがすすんだ影響もあるのか、家族という変数、いやシステムを考慮しなくなったのか、カルテからジェノグラムが消えつつある。

~現在の精神医学は「DSMへの固着」、正確には「I軸・II軸への固着」を引き起こしていると言って過言ではないだろう。

~操作的診断に基づくEBM(根拠に基づく医療)が精神医学の治療水準を上げたことは間違いない。しかし、その方法論についてもまた、臨床医は検証的な視点を持つべきではないか。ある薬や治療法の効果検証は、「平均値」の改善と危険率の検定をもって決定される。しかし、統計学の知識があれば誰もがわかるだろう。外れ値は常に存在する。例外がある。外れ値や例外にも理由があるはずだが、その検証はされずに結果から外される。平均値に傾けば個別性は無視される。物語に平均値はない。それは個別性なものである。そして、EBMへの警鐘のように登場したのがNBM(物語に基づく医療)であることは言うまでもない。


●コメント
まぁ文章の切れ味が鋭いですよね。著者と同じ精神科医の立場で読んだら、どう感じるんだろうなんてシンプルに思いました。

普段、著者が指摘するようなDrに苦労している方もいらっしゃるとは思いますが、ご察しの通り全然これは精神科医に限定した話ではないですよね。

児童福祉の虐待における「発達障害」「脳への影響」の科学的知見は、見方によっては本書で指摘される心身二元論還元主義的考え方による原因追求やアプローチの細分化として受け取ることも出来て、使い方によっては「木を見て森を見ず」に陥る危険性って、ある気がします。

平たく言うと、対応に困る子は何でも「脳や発達障害というその子の生まれ持った生物学的問題であって、それを見守る環境、本人の内面(こころ)と切り離される考え方です。

前回コラムでは「発達×環境」の相互作用はありますよね、という話しは触れましたし、【第30回】感情焦点化セラピーの特徴「感情を体験することを目指すのではなく,感情体験がどのように自己を作り出し,自己によって感情体験がどのように作り出されるかという循環的なプロセスを重視する」は「心理×認知」の相互作用を言っているよなぁと思います。

~医師の多くは「がんの進行具合」「治療の作用と副作用」については上手に説明するが、「がん患者の体験や心情」はしばしば多忙な日々の中で置きざれにされる。

はストレートな表現で、児童福祉現場でも「虐待」「発達障害」「解離」などが語られる中で、支援者のHow to(どうする)ばかりの話しが展開され、「本人の体験や心情」がないがしろにされる場面って多分にある気がします。

そこで「本人の体験や心情」に目や耳を傾けましょうという文脈の一つにLSWがあるのかなぁ、という気がしますが、しかし現場の方々はお分かりの通り、語りだけ丁寧に傾聴するだけでなんとかなるわけでもないですよね。片手落ちでは不十分なんです。

(前回コラム)
~このモデルの臨床場面における使用の誤りが指摘されている…のモデルを「全人的医療」という誰もが使いたがる簡単な言葉に収斂させてしまうことで、パターナリズムにのった「思いやり」「共感」「人間理解」というところで思考停止させてしまう。これでは身体、心理、社会環境のダイナミックな相互性が見えなくなる。階層性を超えて互いの因子がフィードバックしあいながら影響し合っている視点を落としてはならない。

ので、「過去ー現在ー未来」の「縦軸」の視点だけに偏らず、例えば「虐待ートラウマー発達障害ー知的障害ー家族関係ーアタッチメント」等々の身体ー心理ー社会環境の「横軸」=同時期の繋がりや影響も見ていく。中島みゆきの「糸」じゃないですが、縦の糸と横の糸が織り成す布で構成される全体の相互性で見る必要があるのかなと。一部を締めたり緩めたりすれば全体の形に影響してきますよね。

先日ある同僚と「アセスメント」と「見立て」について話していまして、僕が"アセスメントは情報収集や評価の「点」で、見立ては点を繋げて「面や立体」で多角的に見るイメージ"だと伝えたところ、同僚が「星座」に喩えてくれて上手いなと思いました。星の集まりを「何座」に見るかは、その人がどう想像するか次第だと。そして想像力を働かせて、どう間を埋めるかは「見立てる力」によると。

星は大きさも光り加減もそれぞれ違います。それをまず見つけられるか、そして正確に色形を捉えられるか、さらにそれを集合体としてどうまとめるか。そして点と点の間の線を引くためには、その人のストーリーを聞いたり、そこから想像力を働かせることが必要で、色んな線が縦横に引ける程と見立てが「分厚く」なると言えるのかなぁ、と。

最近「そこだけ切り取ったり強調すると、全体としては全然違う話しになっちゃうよ」って感じる場面が、お客さんレベルではなくて、支援者同士のレベルでも結構ありますが、それ自体が良い悪いではなくて、もはや、そういうものだと受け入れないといけないんだと思うようになりました。その人の経験、知識、価値観、感覚によって、同じ物を見ていたとしても、印象に残る部分や解釈の仕方に「差」は生まれるのは当然ですよね。

だからこそ、1人で全部の視点を網羅できるわけではないし、多軸で見れば答えは一つではないので、多職種連携のチームアプローチが重要なんだろうなと。少なくとも情報を集めたり報告を聞く側は、色んな支援者の多角的な視点を統合して物事を判断選択する心構えが必要なんだと思います。

また、
DSM-Ⅳの著者は多軸診断を希望しないと臨床家に「非多軸方式」を勧めているが、そこにはこう書かれている。「多軸方式を用いることを希望しない臨床家は、適切な診断をあげておくだけでよい。この方式を選ぶ者は、その患者の介護と治療に関係あるすべての共存すること精神疾患一般身体疾患、および他の因子を記録することという全般的な規定に従うべきである。主診断、または受診理由を最初にあげておくべきである」。つまり著者自身はI軸とII軸だけをとりだす事を決して推奨しているわけではない。

これも割り切った話で、前提がチームアプローチではなく個人アプローチの判断基準なのかなと思いますし、現実はこうだよなとも思いました。LSWに例えると、支援者全員が子ども将来や体験、心情の事まで考えることを希望しないし出来るとは思わないので、希望しない人は、せめて記録のこれとこれとこれは残して下さい、と規定したみたいな話ですよね。

多軸診断を示しているのに、"希望しなければ「非多軸方式」を勧める"って一見矛盾してますし、超妥協なんだと思いますが、現実を直視したリアリストな決断だと思います。本書のDSMの話は、そう言った支援者の視点や切り口の個人差、多様性、狭まりの現実を、実に良く表していて見事だなぁと思いました。

平均値の話もまさにその通りで、僕はいつも児童相談所にくるケースは基本的に「外れ値」だと思って対応しています。以前、社会的養護児童は日本のこどもの約0.2%と【第23回】コラムで取り上げましたが、

基本的には、誰にも止められなかった数百人~数千人に1人の地区選抜、県選抜の逸材が児相までたどり着いてるんだから「ズバ抜けて普通じゃない」のが当たり前で、個別性を見ながらオーダーメイドで支援を考えなきゃ通用しないでしょ、と思います。

~現在の精神医学は「DSMへの固着」、正確には「I軸・II軸への固着」を引き起こしていると言って過言ではないだろう。

とはありますが、児童福祉でもEBMへの固着」、もっと言えば「プログラムへの固着」に陥っていることもある気がします。プログラムをやることが「目的」になっている事態です。

ただ、支援をいちから全部オーダーメイドしている時間も労力もないので、「アセスメント」に基づいて、これを加えたらこうなるんじゃないかなという「見立て」を元に、方法論として既存のプログラムを選んだり組み合わせたりアレンジするわけですよね。

その完成形とそれに至る配合の化学変化を想像したり、それを微調整しながら実現していくのって、なんだかバンドや料理と似ているなぁと想像しました。

何でもたくさん入れれば良いってもんでもないし、奇抜なだけでもダメで、シンプルに素材の良さを活かす視点を持ちつつ、状態に合わせて弱点を上手く隠す技術も求められる。普遍性と個別性の融合と言いますか、普遍的に良い物に共通する要素を残しながら、全体を台無しにしない程度に個別性をミックスさせる。

虐待、発達障害、知的障害、家族関係、アタッチメント…等々それぞれを一言で言っても状態は千差万別です。それぞれのアプローチは示されていますが、当然それにもピタッと当てはまらない「外れ値の外れ値」は存在するし、残念ながら児童福祉のケースは多問題なので単一アプローチでは事足りません。

何を足したら、全体にどう影響を及ぼし、どんな流れになりそうか考え感じながら、時には即興でのアレンジ微調整が必要になります。プログラムをきちんとやれているかの発表会ではなく、相手とのやりとりの中でいかに良いものを作りあげるかのLiveです。

そう言う意味では、プログラムは「楽譜」「レシピ」的なものなのかもしれません。その通りにミスなくできて習い事レベル。プロはその中で+α何を表現するのか、またはより良いものをいかに作るか、技術とイデア、創造力や感性の勝負になりますよね。

もちろんこれは比喩表現で、分野や職場の文化によって求められるものも違うし、アレンジ可能な範囲も変わるんだと思います。

ただ少なくとも今の日本の児童福祉臨床は、まだまだ未整備でフィーリングとタイミングでハプニングを乗り切ることが求められるストリートのような状態だと思っているので、綺麗にレコーディングできる歌手より、路上パフォーマンスやLiveでより良さが発揮されるアーティストのような臨床家が求められると思うし、そうありたいなぁ、なんて思いました。

ではでは。

【第35回】バイオサイコソーシャルアプローチ

メンバーの皆さま
 
おはようございます。管理人です。
 
しばらく次に長期連載する図書を悩んでいましたが、ようやくこれに決めました。
 

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著者の渡辺俊之氏は病人を抱えた家族への家族支援を推進し、小森康永氏はナラティヴを日本で最初に紹介した人物で、ナラティヴ・アプローチを緩和ケアで展開している、と紹介されています。
 
小森氏は【第19回】ジンバルド時間志向テスト
http://lswshizuoka.hatenadiary.jp/entry/2017/07/27/080618でも、少し紹介したので覚えている方もいるのではないでしょうか。
 
本書を選んだ理由としては、まずナラティヴというだけでLSWとの親和性が高いこと。加えて、これまでコラムで扱ってきた統合的、円環的、俯瞰的、システム論的な視点は、心身二元論を超えた「BPSアプローチ」とかなり通じるものがあるということ。
 
また第3章では「時間精神医学」という三十年以上前に確立させた精神病における「過去ー現在ー未来」の繋がりの考え方について紹介されている点もLSW的に見過ごせない一冊かなぁ、と思います。
 
まだまだ興味深い点はあるのですが、追い追い紹介していきますね。では、コラム本編です。
 
●目次 
はじめに
理論編
【第1章】心身二元論からBPSモデルへ
【第2章】エンゲルが本当に書き残したこと
                                          ―BPS批判に応える
【第3章】BPSと時間精神医学
【第4章】 二一世紀のBPSアプローチ
技法編
【第5章】メディカル・ファミリーセラピー
【第6章】メディカル・ナラティヴ・プラクティス
【第7章】BPSSインタビュー
応用編
【第8章】高齢者
【第9章】プライマリケア
【第10章】緩和ケア
【第11章】スピリチュアルペイン
おわりに

●内容
今回はまず「はじめに」から。

~今や、「生物心理社会モデル」という言葉は、医療・心理臨床領域だけでなく、看護や福祉の領域でも多用されている。このモデルをどのように理解して、どのように活用するかは、各々の領域でその場のニーズに応じて行われるものであろう。しかし、共通して持っておいてほしいモデルの要点がある。病気や障害を持つ人、あるいは健康な人を、生物学的視点、心理学的視点、社会的視点と分割してみるのではなく、その相互性を考えながら統合的に理解して介入するということである。

~このモデルの臨床場面における使用の誤りが指摘されている。一つはマクダニエルがいう「分離された生物心理社会モデル」に基づく診療である。これは厳密には還元主義である。たとえば胃潰瘍を生物医学的レベルで対応して、そのレベルで対応にできないときに心理社会的アセスメントに移るという方法をもってするやり方である。このアプローチでは、疾患の原因が患者の体ではなく「頭の中だけ」あるいは「環境だけ」にあると、患者に誤解させてしまう。

~二つ目は、このモデルを「全人的医療」という誰もが使いたがる簡単な言葉に収斂させてしまうことで、パターナリズムにのった「思いやり」「共感」「人間理解」というところで思考停止させてしまう。これでは身体、心理、社会環境のダイナミックな相互性が見えなくなる。階層性を超えて互いの因子がフィードバックしあいながら影響し合っている視点を落としてはならない。

~そこで、私たちは「BPSアプローチ」と呼ぶ。臨床はモデル(視点)だけでは成り立たず、それに基づくアプローチ(接近法)があってこそ完結するからだ。

BPSアプローチとは、患者や家族のことに気持が向く実践者であれば、誰もがやっていることだ。また誰もがやれる(やれた)ことである。患者が必要としていること、患者の生活世界に思いを馳せれば、身体的・精神的・社会的な側面に目が向くものである。その相互性を踏まえてはじめて適切な治療や援助を行えるのだと私は思う。人を助けたいと思ったら、良い治療、良い関係、良い環境をそろえてあげようとするのが対人援助者だ。


●コメント
最近観たTVで「医者はよくストレスのせいにする」と芸能人が言っていて、これこそ一般的な患者の「分離された生物心理社会モデル」への誤解を示しているんだろうなぁ、なんて思いました。確かに因がよくわからない時にストレスの説明で「煙に巻く」みたいな医者も実際にはいるのでしょうが、
 
「患者が必要としていること、患者の生活世界に思いを馳せれば、身体的・精神的・社会的な側面に目が向くものである。その相互性を踏まえてはじめて適切な治療や援助を行える」
 
と考えれば、ストレスという説明は決して的外れではなくて、大切なのは説明がそこで終わらず、症状と生活習慣の相互性を踏まえた治療法を考えるための質問や対話がなされるかどうかじゃないかと。
 
しかし、聞く側も「医者なんだから病気のことは何でも分かるはずだ。現代医学はなんでも治せるはずだ」なんて幻想を持っていたり、世の中のことは科学的見地からスパッと綺麗に説明できるはずだという直線的因果論の考え方しかなければ、治療者と一緒に考える対話は成り立ちません。治療者ー患者関係も「相互性」によって成立します。一文字抜くと「相性」ですね。
 
また児童福祉分野において僕が「生物心理社会モデル」の相互性で真っ先に思いつくのが、感情コントロールが悪い「キレる子」です。もっと言うと、被虐待児のコントロールの悪さは、先天的な「器質的要因」なのか、後天的な「環境的要因」によるかなんて、脳の発達と環境の相互的な影響があるのでスパッと綺麗に説明なんてできないだろう、という話しです。
 
感情コントロールと脳の制御系の話を掘り下げると、下の図の通り「脳や神経系」は、乳幼児期に急速な容量の成長と脳の配線」は発達を遂げて、10歳には成人の脳の1/3を占める「前頭連合野」がほぼ出来上がるとされています。
 

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【参考】「脳の発達」と「生活習慣」
 
ちなみに「前頭連合野」は、行動計画に必要な情報を受け取り、複雑な行動計画を組み立て、その実行の判断を行ったり、視覚的に与えられた目標への眼球運動の制御を行う領域みたいです。
 
まさに衝動的で感情コントロールの悪い子は「前頭連合野が上手く働いていないと思うのですが、脳がドンドン育つ乳幼児期に虐待を受けている子に関しては、その不具合が生まれつきの「器質的」なものなか、不適切な環境(必要な刺激や栄養を十分に得られない、虐待受ける目撃する)による脳の発達の不具合なのかなんて、もはやハッキリわからないわけです。
 
もっと言うと「生まれつき」も厳密には変な話で、産まれる前の体の中にいる時から「必要な環境や栄養素が届かない」ことによる「発達の不具合」である可能性もあるわけで。
 
僕も勘違いをしていましたが「器質的障害」を辞書で引いてみたら、
有機体を組織している諸器官(構造)のうえに、なんらかの損傷を受けたために生じた行動または精神面の障害(大辞林 第三版)
 
とあって、器質的にそもそも「生まれつき」なんて意味はないんですね。もともとの精子卵子の遺伝子レベルで損傷だろうが、受精してからの母体内での損傷だろうが、出生してからの成長段階での損傷だろうが、とにかく諸器官(構造)の損傷から生じた行動や精神面の障害は「器質的障害」と言えるようです。
 
すると、諸器官(構造)の損傷する「環境」が必要なわけで、遺伝子レベルの損傷だとしても、どこかの先祖がその時代の環境から受けた損傷による影響なわけです。極端な例を出せば、放射能の影響で自分の子や孫の発達に影響が出たとしたら、それを環境的要因と言わないのかということです。じゃあ「器質的要因」ってどこまでいっても「環境的要因」によるものじゃないかと屁理屈的には思うわけです。
 
放射能の例は極端ですが、虐待の連鎖を考えると、
①親の子ども時代も虐待ネグレクト
→②親自身、脳の発達が不十分促されていない
→→③その個体情報を次の世代(子ども)が引き継ぐ
→→→④さらに、その子が十分養育されない
 
と秘伝のタレみたいに、継ぎ足し継ぎ足しで知的障害や発達凸凹が続いていくのは、遺伝的要素×環境的要素の掛け算的な状況があると思うんです。逆に言えば、早期発見、早期療育を受けていれば発達凸凹が多少マイルドになったり変化が起きる可能性があるだろうことは随分言われていると思います。
 
脳の発達バランスを「雪だるま」で例えるなら、元々の発達のバランスが整っていて、雪さえあればそんなに考えずコロコロ転がすだけで問題なく綺麗な雪だるまになる系の子もいれば、元々ゴツゴツした感じで、転がすとドッタンバッタンしたり、考えて慎重に転がさないとかえって凸凹が酷くなったり割れて壊れてしまう系の子もいるような個体差はあるんだと思います。たとえ同じ親のきょうだいであっても、生まれ持ったものは全然違いますよね。
 
さらに感情コントロールの「生物×環境」の相互性を言えば、例えば一般よりも高い過敏性を持った人はいるのは事実です。そして身体感覚は感情と繋がりやすいので、生まれ持った過敏さ鈍感さによって、感情が揺れやすかったり揺れにくい、つまり感受性の個体差はあると思います。
 
しかし、乳幼児期の脳や神経系の回路は柔軟に変化する可能性があるので、元々持っている自分の感覚とそれに付随する感情と上手く付き合っていけるかどうかは、乳幼児期の経験によって神経系がどう適応的に進化したかによる所も大きいんだろうと思います。ご存知の通り、発達障害を持つ人がみんな暴れるわけでもキレやすいわけでもないですよね。
 
養育者目線で言えば、その子の特徴に合わせて色んな経験や体験を積ませたかどうか。もっと言えば過敏で泣きやすい子は、ヨシヨシされて感覚感情を納めていく練習がたくさん必要で手がかかるが、そのお陰で神経系や脳の回路が繋がったり整ったりしているということ。これは「アタッチメント」の話そのもので、感受性が悪いとアタッチメント形成が遅れる傾向はありますが、決してアタッチメント形成ができないわけではありません。
(参照【第29回】コラム)
 
しかし、アタッチメントや感情が不安定な養育者が、過敏な子どものイライラ感情感覚を一緒に収めていく経験を共に積むことがいかに難しいかは想像に難くないですし、加えて流行語のワンオペ育児」じゃ身が持ちませんよね。
 
人間は本来集団養育する生物で、日本だってほんのひと昔前の乳母や祖父母に育てられた人たちが皆アタッチメント形成が出来てなかったなんてことはありませんよねアタッチメント対象は複数あって良くて、イライラを収めるだけじゃなくて、視線が合う、声かけで笑うと言った何気ない情動体験を含めて、要は脳や神経系の回路が繋がる体験をいかにたくさん積めるか否かが、その子基礎を作るわけです。
 
ネグレクト児の状態や予後が重たい理由がそこで、そもそも脳や神経系の基礎や回路が未発達ということです。逆に言えば、身体的虐待を受けていたとしても、乳幼児期は誰かに可愛がられていたとか、学校がはじまり勉強絡みから虐待的になったなんてケースは、もともと乳幼児期に培った脳や神経系の基礎を持っている可能性があるわけです。これが生育歴が重要な理由ですよね。どんな石でも磨けば光りますが、やはり原石の種類によって光り方の伸び代に差が出るのが現実です。
 
なので、屁理屈をこねた「器質的/環境的要因」については、
【器質的要因】理由はどうあれ諸器官(構造)になんらかの損傷や発達不具合を乳幼児期までに起こし、もはや時期的に変化が難しくなっている部分
【環境的要因】状況によって現在持っている力が発揮されないが、諸器官(構造)的な資質に問題はなく、環境次第でフラットな状態に戻れる柔軟性がある部分
 
なんて理解で、僕の中では落としました。
 
脳や神経系の発達に合わせた育成は、スポーツ界で「ゴールデンエイジ」という言葉で言われるようですが、その時期を逃すと技術が身につかない手遅れみたいな誤解がよく生まれるそうです。そうじゃなくて、10歳までは偏りなく様々な経験をさせて、色んな神経回路を繋げましょう、身体コントロールの基礎を高めましょうという話です。
 
スポーツだけじゃなくて、10歳前後でおそらく育成の方向性が変わるんだと思います。ある療育雑誌の思春期特集で、思春期以前は「安全のために保護する時期」、思春期以降は「失敗を担保する時期」と書かれていて、なるほどなぁと思いまして。脳や神経系で言うと、思春期までは「容量や回路を増やす」時期、思春期は「全体を統合して上手く使いこなす練習をする」時期なんじゃないかと思うんです。
 
それは【第32回】現役目線「プロとしての成長とは」
プロに入ると「成長」の意味合いが少し変わります。プロに入るまでの「成長」が、自分が持っているものを増やしていくことだったのに対し、プロに入ってからの「成長」とは、それに加え、自分が持っているものを試合の中で表現できるようになることに変わります。
 
にも通じる話で「レディネス(準備性)」という言葉がありますが、会話でもお笑いでもスポーツでも「確かに間違いじゃないんだけど、タイミングが違うんだよ」ってこと、ありますよね。養育や育成でも似たようなことが言えるじゃないかなと。
 
「精神的な発達段階に合わせて~」なんて言うと、目に見えないし分かり難いし、いつまでも甘やかしてばかりじゃダメだと保護者が焦る気持ちになるのは当然だと思いますが、脳の発達段階や未発達な部分という理解で、段階や状態に合わせた体験や子どもにとって吸収率のいい方法という観点で話したら少しは理解を示してくれる理系っぽい人もいると思います。
 
NHKスペシャル「ニッポンの家族が非常事態!?我が子がキレる本当のワケ」
 
でも取り上げられていましたが、思春期は親離れの時期で、身体的な成長変化も大きくホルモンバランスが崩れて不安定な状態ではあるけど、脳の学習機能はとても高まっているらしいですよね。
 
安定ばかりが成長を促すわけじゃなくて、不安定な状態をどう乗り切るかって年齢関係なく人を成長させると思います。まさしく「レジリエンス」の話です。時に若気の至りと言う無鉄砲に思える行動をしながら、主体的に動いては失敗したり試行錯誤を重ねて自分の持つ資質の中で上手くやりくりする体験を積む時期なんだと思います、思春期って本来。
 
思春期は「失敗を担保する時期」って言われれば、そうだよなぁと思いつつ、社会的養護になると年齢的に使える資源がホント限られますし、大き過ぎる失敗は生活場所を失うことに直結してしまうので、社会的養護の思春期は生物的視点とは真逆の「失敗が許されない」環境に現実なってしまっているよなぁ、と感じてしまいます。
 
持っている資質自体に個体差があるわけですから、それをどう活かしたり上手く使えるようにするかは、人がレールを敷いて教えられるものではなく、自分で試行錯誤やって体験していくしかないと思うんです。このような生物的成長を踏まえた思春期前後の支援の切り替えを、現実の資源の中でどう折り合いをつけて形にするのかって、自立支援を考える上では外せない要素ですけど、結局答えが出ない「理想と現実」のジレンマで、いつも頭を抱えています。
 
話が拡散しすぎて、自分でもよく分からなくなってきましたが、生物心理社会モデル」身体的・精神的・社会的の相互性は大事なんだけど、このように考え過ぎると、堂々巡りの迷宮に迷い込んでしまう難しさもあるなぁ、と思います。
 
その意味では、
「臨床はモデル(視点)だけでは成り立たず、それに基づくアプローチ(接近法)があってこそ完結する」
 
はその通りだと思いますし、現実には「時間」という縛りの中で、全体を偏りなく俯瞰しながら「選択」していく作業になるんですよね、きっと。
 
この機会に本書を読み返しながら、そんな頭の整理が少しは出来たらと思います。
 
ではでは。