LSWのちょっとかゆいところに手が届く「まごのてblog」

静岡LSW勉強会の管理人によるコラム集

【第73回】人気俳優たちの「柔軟な思考」の源

メンバーの皆さま
 
こんにちは。管理人です。
 
いよいよ年度末らしくバタバタしてきました。
 
そんな中、朝4時半の高速バスに乗り込み、今日明日で鹿児島・熊本に出張なんですが、数日前からの噴火で、危うく鹿児島行きの飛行機が飛ばないところでした。
 
いやぁ〜、これまで火山灰なんて画面の向こう側、[非日常]の遠い世界の話しのようでしたけど、こういう体験でもしないと身に染みないものだなぁ、とつくづく思います。
 
では、今回コラムは前回とりあげた「an・an」

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で扱いきれなかったコーナーから。
 
 
役の切り替えから、アドリブまで!
人気俳優たちの柔軟な思考の源とは?
 
今をときめく俳優「窪田正孝さん/村上虹郎さん/鈴木信之さん/岩永徹也さん」の4人のインタビューから。
 
ちょっと無駄話が多く、後半になるにつれエンジンがかかって来てちょっと暑苦しい感じの熱量になってしまいましたが、そんなつもりで読んで頂ければ幸いです。
 
 
File01:窪田正孝さん
苦しみ、もがいた時間が自分の糧になると思う
「場数を踏ませていただいたこともありますが、日常に役の影響が出てしまうのが怖く、気持ちが楽になれる方法を考え始めたのがきっかけです。先輩の役者さんを見ていると、それぞれに切り替えや、仕事との不安との向き合い方を持っていて、僕の場合は現実逃避でした。映画を観たり、ドライブをすることが大切な時間です」
 
「…僕にも役と同様、兄弟がいますが、ぶつかっても一緒にいられる、人という "家" があるのはいいことです。その相手は親や友人など人それぞれでしょうが、考えや本音を話すことで思考がまとまると、自分自身を理解でき、人として成長できると思っています」
 
 
もはや説明不要の人気俳優の窪田正孝さん。今やドラマに出てないクールを見つける方が大変ですよね。
 
僕が初めて彼の存在を知ったのは、2015年放送の月9ドラマ『SUMMER NUDE』。
 
山Pが主演でカメラマン役、突如いなくなった恋人役が長澤まさみ恋人喪失に暮れる幼馴染みの山Pを追い続ける戸田恵梨香そんな戸田恵梨香を影で想い続ける「引っ込み思案の地元メガネ青年役」が窪田正孝さんでしたが、放送を重ねる度に増す人気と存在感。
 
シナリオは完全に『ビーチボーイズ』(1997年)そのまんまなんですが香里奈高橋克典勝地涼などなどキャストがよかったですよね。千葉雄大山本美月もあのドラマ以降にブレイクしましたし。
 
もちろん、窪田正孝さんもその後から現在までドラマに映画に引っ張りだこ。好青年キャラから『Death Noteでは腹黒い役までこなせる演技派俳優の地位を確立したように僕は思います。
 
そんな窪田さんも今年で30歳だそうですが、これまで「苦しみ、もがき」ながら成長したプロセスを感じさせる語りです。特に「日常に役の影響が出てしまうのが怖い」というのは臨床家も非常に参考になる視点と思います。
 
児童福祉現場では、普通はあり得ないような[非日常]的な修羅場に多々遭遇するので、被曝し過ぎて[日常]生活の方に影響が出てしまった経験をお持ちの支援者は本当に多い、というか多かれ少なかれ全員が経験していると思います。
 
そんな時に、先輩の気持ちの切り替え方を見たり、安心して自分の考えや本音を語れる人の存在が自己理解と自己成長を促してくれた、なんてもはや児童福祉の経験者のような語りですよね。
 
その場に応じた自分を演じるという部分において、やっぱり役者と臨床家は共通点が多いんだな、と改めて感じます。
 
 
 
では、二人目はこの方。
 
File02:村上虹郎
左脳と右脳、そして直感。この3つが行動の基準です。
舞台稽古に取り組んでいるときは、普段の何倍も脳を使っている。
「セリフの意味を咀嚼し、共演者のことを考え、演出家の言葉に耳を傾け、客観的にどうしたら面白い " 製品 '' になるか意識しながら、臨機応変に自分の役として動く。…」
 
悩んだり、辛いときは、自分の心に尋ねる。
「感情と理論の両面から "本当はどう思ってるの?" と自分に聞いてみます。両方とも "理にかなっている" と思ったら、ストンと納得できる。頭でわかっていても感情が整理できなければダメだし、逆もそう」
 
 
1997年3月17日生まれ、もうすぐ21歳になる俳優さん。「虹郎」は本名ということですが、名前だけだとピンと来ない方も多いかもしれません。ドラマ「仰げば尊し」など多数出演している "ハッキリした眉毛" が印象的なアノ青年です。写真を見れば思い出す方も多いのでは。
 
父は俳優の村上淳、母は歌手のUA
 
UAと言えば約20年前に「甘い運命」「情熱」などが大ヒットした沖縄出身の実力派シンガーですよね。JAZZなんか唄うと本当にカッコ良いので、僕は未だにiTunesに入れて時々通勤中に聴いています。
 
出産してから歌手活動が減って残念に思っていたのですが、まさかこの形で息子さんが世に出てくるとは驚きでした。アノ眉毛は完全にお母さん譲りですよね。
 
そんな感性豊かな母親のDNAなんですかね、語る内容が若干20歳のものとは思えません。
 
「右脳と左脳、感情と理論の両面から自分自身に問いかける」とか、もはや熟練カウンセラーの域じゃありませんか?
 
しかも、
「セリフの意味を咀嚼し、共演者のことを考え、演出家の言葉に耳を傾け、客観的にどうしたら面白い " 製品 '' になるか意識しながら、臨機応変に自分の役として動く。…」
 
なんて、俯瞰的な視野もハンパないですよね。こんな仲間と一緒に仕事できたら、どれだけ頼もしいことか。
 
これまで「まごのてblog」でこねくり回して扱ってきた内容を、いとも容易く簡潔に語ってしまう20歳…。
 
大事なのは年齢や経験よりも、遺伝子と育ちで培われた「資質」なのかな、と感じずにはいられない語りです。
 
 
3人目はこの方。
 
File03:鈴木伸之
予想外の結果が生み出す、爆発力がたまらなく好き。
「準備が大事なお仕事だと思っているので、台本を読み、物語の流れや演じる人物の役柄を考え、大枠を決めてから現場へ行きます。でも、一人で決め込まず、余白を残すことも意識しています。予定調和より、何が起こるかわからないハラハラ感がある方が作品が面白くなると思うんです。"1+1は2ではなく、3でも4でもいいだろ!"って考え方。予想外だからこその爆発力が、たまらなく好きです」
 
長年打ち込んでいた野球も、仕事に影響している
「スポーツもお芝居も、チームプレーという点では一緒。だから、共演者の方やスタッフさんとも垣根なしに楽しく、いい作品を作り上げたいんです」
 
 
劇団EXILEのメンバーで、1992年生まれ25歳の俳優さん。『桐島、部活やめるってよ(2012年)や『GTO』(2012年)にも出演していたんですね。気づかなかった…。
 
僕が鈴木信之さんを記憶したのは、池井戸潤原作のドラマ『ルーズ・ヴェルトゲーム(2014年)』。大ヒット『半沢直樹の次にドラマ化された池井戸潤シリーズ第2弾の作品です。
 
社会人野球の話しなんですけど、鈴木さんは主人公のライバルチームのエース役。主人公もピッチャーですから、まさにライバルです。野球経験者というのも配役の一部だったんですね。
 
池井戸潤シリーズを観たことある方はご存知かと思いますが、まぁ敵役はネチネチ意地悪い人ばかり。例外なく鈴木信之さんも性格の悪いボンボン青年役なんですが、人を小馬鹿にしたようなニヤニヤした表情など「この人ホントに性格悪そうだな」と思わせる演技。
 
当時、若干21〜22歳ですからね。やっぱり何千人何万人というオーディションを通る人は「見た目カッコイイだけ」じゃなくてモノが違うんだろうな、と思いますね。
 
割と普通っぽいこと言っているようで、始めの語りは見逃せません
 
「準備が大事なお仕事だと思っているので、台本を読み、物語の流れや演じる人物の役柄を考え、大枠を決めてから現場へ行きます。でも、一人で決め込まず、余白を残すことも意識しています…」
 
この部分は、児童福祉の「初対面」の場面によく似ていると思います。僕は非常勤時代に教育・福祉・医療それぞれの職場を経験できたのですが、基本的に相談情報は、目の前の「相談者」から聞く以外にありません。名前、年齢、家族構成といった基本的なことから全て。
 
そして、継続的な相談につながるか否かは、その時に相談者が「また相談したい」と思えるかどうか。ダイレクトに自分の身の振りが相談関係に直結します。これが、むしろスタンダード。
 
しかしながら、児童福祉は児童福祉法が整備されているおかけで、虐待の場合、良くも悪くも事前情報が当事者以外からも取れちゃうんですね。相談に来る前、施設や里親に委託する前、支援者は通告内容やそれまでの経過等の事前情報をある程度知った上で「当事者」に会うことになる。
 
もちろん、色々な準備が出来るという点においてはメリットもあるんですけど、逆に落とし穴もあって、あまりに事前情報を信じすぎると目の前の人との「関係構築」の邪魔になる場合があります。
 
よくあるのが、相談の始めから保護者や子どもを「虐待をしたヒドイやつ」「問題行動ばかりする困った子」という先入観や色メガネでもって対応してしまうケース。
 
まず、客観的な「虐待」「問題行動」があったのかどうかの事実がどうで、本人の認識はどうなっているかもわからないわけで。
 
さらに「ヒドイ」「困った」という情報は、これだけだと主語すら曖昧な主観的な感想ですから、誰がどういう文脈ストーリーでそう思ったのか、をキチンと整理しないといけません。たいてい通告者や相談者当人は泡食ってますから、そこの所をまず一旦落ち着かせて整理していくことも支援者の仕事とひとつと思います。
 
「予定調和より、何が起こるかわからないハラハラ感がある方が作品が面白くなると思うんです。"1+1は2ではなく、3でも4でもいいだろ!"って考え方。予想外だからこその爆発力が、たまらなく好きです」
 
臨床現場に置き換えると、「予定調和」的な事前打ち合わせ通りに面接をしようとすればする程、思考が固くなり、その場で起こっている事を感じることが疎かになったり、話に耳を傾けるよりも頭の中で次の質問の事ばかり考えている事態が起きるので、結果的にクライエントをないがしろし大切にする姿勢に欠けて、相談関係や信頼関係が築けないということが往々にしてあります。
 
しかし、その場で語られる話しや様子に集中して丁寧に耳を傾けると、意外な情報が出てきたり、面接終わりには事前情報とは全然違う予想外な相談者の姿が見えてくることは割とありますよね。
 
確かに僕もそういう瞬間、その場のやりとりにおいて期待以上の化学反応が起こったり、良い意味での驚きを体験する面接は、たまらなく好きだし臨床の面白さ奥深さを感じます。
 
最近よく思うのは、やっぱり支援者が「教えてやろう」「気付かせてやろう」という姿勢が漏れ出てる関係では想定の範囲を超えてこない、あえて言うなら想定より事態が悪化していくことの方が多い。
 
当たり前かもしれませんが、「目の前の人のことをもっと知りたい」「そのことについて理解を一緒に深めたい」と、答えを出す事を急がず共に悩む姿勢や関係性を体現できた時、
 
いい意味でクライエントが予想を裏切り、期待に応えてくれる、むしろ期待を超えてくる
 
ことが起こっているを気がします。正直大変なケースに関わり続けた末にそうなることが多くて、ホント臨床家というものはクライエントに経験を積ませてもらって育ててもらうものだなぁ、と思います。
 
そしてLSWと言うのは、そのプロセスの中で子どもたちが予想を超えた反応、想像以上の成長を見せてくれることばかりで、毎回驚きと発見の繰り返しなので、ホントこちらが勉強させてもらってるなぁと思います。
 
 
 
長くなりましたが、最後はこの方。
 
File04:岩永徹也
ゴールからハシゴを下ろす感覚で行動しています
「演じる時は、最初に作品の完成形を想像して、面白くするための種を蒔く方法を考えます。自分に求めらているポジションを考えて、お互いの役の魅力が輝くようなキャラ作りをしたり、笑ってもらえるようなアドリブを考えて入れたりする…」
 
「目標から逆算して動くと、ただゴールに向かうよりも少し先にある到達できる。自分の成長や作品の仕上がりが想像を超える体験は、僕にとって楽しいものなんです」
 
 
僕が4人の中で唯一知らなかったのが岩永さん。1986年生まれの31歳で「若手じゃないじゃん!」と思ったら、元々は「MEN'S NON-NO」のモデルさんだそう。薬剤師での勤務経験もあり、IQ上位2%でしか入会できないMENSAの会員であると。
 
で、あの「テラスハウス(2013年)」では王子と呼ばれ、「Qさま」のインテリ軍団としても出ているらしい。全然知らなかった…。
 
今思えば放送があった5〜6年前は、ホント家には寝に帰ってるだけみたいな生活で、まともな時間にTVなんて観てなかったんだったなぁ、としみじみ。
 
しかも、なんと岩永さんは仮面ライダーエグゼイド」の檀黎斗(だんくろと)役でもあると。
 
この正月に5歳の甥っ子が、
《♬EXCITE!EXCITE!た〜か〜鳴る♬》
 
と連呼していて、あの三浦大知の癖のある楽曲を幼稚園児に熱唱させる「仮面ライダー」の影響力やっぱスゲーと思いましたし、
 
お仕事でも「エグゼイドごっこ」で担当の子に散々やられているのにチェックしてないなんて「いかんな」と反省しました。
 
 
 
で、インタビューに触れると、
「目標から逆算して動く」と言う考え方は、以前に紹介した「フューチャーマッピング」や「未来語りのダイアローグ」と同じですよね。
(参考【第56回】ジャパネット流「企業再生術」
 
ポイントは、未来の「ビジョン」や「在りたい姿」(=Being)を頭の中でどれだけ明確に描けるかだと思います。そして、大抵の人はすぐに「そんなの無理」と諦めてしまうんですけど、それはDoingや結果に囚われ過ぎているからではないか、と思うことがあります。
 
自分の家族や自分の組織そして自分自身が「どう在りたいのか」その希望や願いは初めから諦めるものではないし、その姿に向かって進み近づくこうと考え始める事は今からだって出来る。
 
そして、そこに近づく方法(=Doing)は、決して一つではないハズで、状況や考え方によって多種多様に変化していっていいと思います。
 
大事なことは根気強く種蒔きをして、水をやり続けられるか。芽が出て、茎が伸びて、実がなって収穫できる時なって、ようやく形となり成果として実感できるんだと思います。
 
芽が出た時の「喜び」、順調に伸びていく「楽しみ」、時として病気なったり倒れそうになる「悩みや苦しみ」、そんなプロセスを共にして収穫した果実は、スーパーマーケットで売られている果実とは、その意味合いや価値が全然違うと思うんです。
 
そのように共に作り上げ、共に変化成長していく体験共有をきっと俳優さん達は「お芝居」「舞台作品」を通じてしているのかなぁ、と4人のインタビューを読んで思いました。
 
そして、児童福祉におけるソレは「子どもの成長」ではないかなと僕は思っています。子どもが成長したり笑顔が見られた時はやはり嬉しいものです。
 
よく「安全安心」と呪文のように唱える人がいますが、僕の中では「安全安心」はゴールじゃなくて通過点。安全安心が心配だと言って、一年中ペットの様に家やカゴに閉じ込めておくことが「最善の子どもの利益」につながるとは思えません。
 
成長期の子どものを考えた時に外せない視点が成長や可能性(ポテンシャル)を伸ばすこと。特に、ゴールデンエイジと言われる脳や神経系の発達が目覚ましい10歳までは。
《参考》
【第35回】バイオサイコソーシャルアプローチ①
 
 
では、なぜ「安全安心」が必要か。それは、自由に伸び伸びできる環境や遊びの中でのトライアンドエラー試行錯誤)が、自分で感じ考え動く力を養うからだと僕は思います。これは子どもでも大人でも。
 
もちろん危ない時、道理に合わない行動はストップします。その線引きが「枠」や「ルール」。例えば、僕自身もうすぐ1歳になる息子がいるのですが、自宅でベビーサークルを利用しています。文字通り木製の「枠」です。
 
使ってる理由は、大人が目を離すときに、そこに息子を入れておけば「安全安心」だから。何でも手に取るし、口に入れちゃうので。逆にベビーサークル内なら、どんなに散らかそうが口に入れようが安全で自由に遊べる環境を保証する。
 
別に大人が一緒なら、ソファーとか外遊びにも連れて行きます。ガンガン動き回るのでソファーから落ちそうになったり、芝生を掴んでそのまま食べようとしますけど、その時はそっと大人が止めてあげる。観察しながら安全からハズレそうになった必要な時にだけ守ってあげればいい。文字通り「見守り」「観守り」です。
 
要は「成長につながる経験」をどう保証して、安全安心を維持するための「許容度」をどう設定するか。その「安全を守るために必要な枠」と「成長に必要な経験」は年齢や成長段階によって変化していくものだと思います。小学生にベビーサークルは使わない訳で。
 
情緒的感覚的な成長を促す「自由」を確保するための「安全安心」。安全安心は子育ての必要条件ではあるけど、十分条件ではないと思うんです。
 
その自由度と安全度、制限と許可のバランスは、環境面・大人の人数(ハード)と子どもの身体的・精神的な発達段階(ソフト)によるんだと思います。こう考えると子育ては、皆さん当たり前のようにやっていますが、とても柔軟性と繊細さが求められる24時間の個別支援ですよね。
 
なんて言うと、たいそうなものっぽくなりますけど、枠と言うのは実際は「大人が息を抜ける場」「ホッとできる時間」としての意味や機能も大きいと思います。
 
「子ども中心」とはいえ大人だって、ご飯食べたいし、疲れたら甘いものもつまみたいし、夜はビール飲みたいしTVも観たいわけで。そんな時、安全安心な枠に子どもを置いておけるから、大人も安心してひと息をついてエネルギー補給して、また子どもに向き合えるのではないでしょうか。
 
「いい加減に」泳がせておける時間や空間があると言うのが、実はお互いにとっての余裕を生んだりする 必要な"遊び" だったりするよなぁ、と。
 
実生活の中では、掃除して洗濯して食事作って食べさせてオムツを替えてお風呂に入れて後片付けもして…なんて家事に加えて仕事や学校関係の準備物とかの雑務も結構あって、現実的には四六時中こどもに付きっきりで相手するという訳にはいかないし、ハッキリ言ってそんなんじゃ身が持ちません。
 
仕事も家事も子育ても「程々のところ」で終える決断、良い意味での「いい加減」で諦めるコトも、生活上の24時間のトータルコーディネート、人生の質(=QOL)を考えた時には、重要なことだと思います。
 
どんな人でも1日24時間という持ち時間は限られているので。何でもかんでも十分に出来るわけではなく、シーソーのようにどこかに比重を置けば、どこかにかける時間は減ってしまうのは必然です。
 
なので、その限られた持ち時間をどう使うのか、それを考えて選択した積み重ねが生き方であり、Being、在り方につながるのかな、と。
 
そして、その選択肢の幅を決定する大きな要素が環境です。時代、国籍、社会情勢、経済力、行動範囲さまざまな環境の違いによって、現実的にはやれることに制限がかかる。限られた枠の中でどう生きるか、それは大人になってからも社会生活を送るなら大なり小なり付きまとう事なんだと思います。
 
だから、限られた枠を意識しながらも、自分で感じて考えて「なりたいこと、やりたいこと」に自らの意志で近づこうとする経験を、子どもの頃から可能な限り積んで欲しい。
 
その思い描いた姿と現実の姿は完全には一致しないかもしれない。でも、自分の力で進んだ近づけた経験や自信が、次の目標への一歩を踏み出させることにつながると思うから。
 
でも、それを邪魔をするのは大人側の葛藤。周囲と違ったりズレたりすることへ不安。周りからやいのやいの言われて、一人で抱え込めなくなった時、「目の前の子ども」より「周囲」からの目の方に重点が行ってしまい、シワ寄せが子どもに直接向けられる場合に不幸なことが起こると思います。
 
本来、子どもが今日よりも成長することが喜ばしい事のハズなのに、比較対象ができた途端「今日の伸びシロ」「出来たこと」より「周囲とのギャップ」「足りてない」の方にばかり気が向いてしまう。
 
嫉妬やコンプレックス、誰にでもある自然な感情。それはそうと受け止めて「いい加減に」なれるかどうか。それが「その子らしさ」「自分らしさ」を認めることなんだろうな、と。
 
ただ児童福祉に辿り着いてしまうお子さんは、身体面と精神面の成長が凸凹だったり、どちらとも同年代の子から遅れてしまっているので、必要な環境(ハード)も必要な経験(ソフト)も他からズレて「こんなハズじゃなかった」と受け入れがたい気持ちになるのも、また現実。
 
「普通になって欲しい」
 
よく耳にする言葉ですが、一緒にBeingを考えて見てください。その人が望む「普通」とはどのような姿なのか、その子にどう生きて欲しいのか、そもそも子ども自身がどう生きたいと思っているのか。
 
子どもを想う気持ちがある人なら、表現の仕方は様々ですが「その子が将来、生きていくのに困らないように、幸せに暮らして欲しい」ところに着地していくハズです。
 
子どもの成長を願い信じて、その可能性(ポテンシャル)を引き出し続けた延長戦上の「結果」として、周囲に追いついたり追い越したり、異才を放ったりするんだと思いますが、僕が大事にしたいことは「その子らしく生き生きしているか」「楽しく笑顔になれるのか」。
 
しかし、チャイルドファーストではなく「家族に迷惑をかけないように」とか「あの子に変わってもらわないと」とアダルトファーストの思考から抜け出せない人もいるのは事実。
 
そう言う時は、まずそう考える大人自身が今の生活が苦しくて、満たされきれない子どもの部分も残ってもいて、子どもよりもまず自分が癒されなければ、とても子どもの将来を考える余裕なんてない状態と思うので、まずは大人自身の支援が必要なんだと思います。
 
この構図は、施設や里親に委託されている子のLSWでも全く同じです。LSWは、かなり先の将来への投資、種蒔き的な関わりになるので、今のことや自分の事で一杯一杯な支援者には「この子に将来こうなって欲しい」という話題を考えたり話し合う余裕は無いので、LSWの検討は難しいと思います。
 
僕のLSWイメージは、「自分の人生は谷ばっかりだ」と将来を悲観的にしか描けない人に対して、これまでの道のりをポジティブ面にも光を当てて整理する事で「人生山あり谷あり」「物事には光と闇がある」と視野を広げて、「将来だって良いことも悪いこともあるハズ」と将来を極端に「悲観的/楽観的」するではなく視野を広げて考えられる足掛かりになれば、という感じです。
 
しかしその時、支援者自身の視野や考え方が狭かったり、物事の「ポジティブ/ネガティブ」「楽観的/悲観的」な見方が偏って極端だったりする人達の集まりだったら…。子どもの視野が広がったり、思ってもみない気づきが得られる場にはなり得ないですよね。
 
子どもに「そうなって欲しい状態」を、まず支援者自身が経験していないと。自分が出来ないことを、子どもに求めては酷です。
 
 
ちょっと長くなりしたが、何が言いたいかと言うと、やはり、まず支援者が自分自身を大切にしてセルフケアをして、柔軟な視点を持ち、両価的な価値観・感情を認めて感じて抱えながら考えること。
 
これまで当ブログで手を替え品を替え扱ってきたし、今後もこのことを繰り返し扱い続ける理由は、そういう姿勢が言葉ではなく背中やその場の空気感で子どもに伝わるから。
 
逆に言えば、全て言葉で伝えなくとも自然と良い影響を受けてくれる、インフルエンザではないですが、支援者の基本姿勢・考え方や生き方は、何気ない所作で感染伝染しやすいと思います。特に、子どもの場合は。
 
そういう意味において、児童福祉の支援者は舞台俳優であるし、でもいつも舞台上じゃ疲れてしまうし、どうしたって職業観と生き方が重なって切り分けにくい仕事だと思います。
 
なので、大人が自分を偽って「自分らしくいられない」支援は大人自身が苦しいし、それを見ている子どもも苦しいし、お互いに苦しい…。
 
 
そういう狭い視野に陥りがちな時に
「人気俳優たちの柔軟な思考の源とは?」
とても参考になると思いました。
 
やっぱり今回の「an・an」は永久保存版ですね。
 
ではでは。

【第72回】an・an流「思考の整理術」

メンバーの皆さま
 
こんにちは。管理人です。
 
気がつけば3月ですね。年度末ですね。時の早さは恐ろしいです…
 
僕は、4月はじまりの手帳を愛用しているので、2週間程前に来年度に向けて新しい手帳を買いに本屋に行ったんです。
 
すると、一際目立つ本が。
 

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その日はたまたま羽生結弦選手が金メダルを取った翌日だったんです。
 
そりゃ目に留まります羽生結弦SPECIAL】
 
 
ただ、目次を見てみると、オリンピック前の特集で、しかも羽生選手のインタビューや五輪種目の紹介なんかは雑誌後半に追いやられてる…。
 
で、メインの内容を見たら、ほぼ対人支援における心理教育(つまり相談者あるある)的な内容で、クオリティーが驚くほど高い!
 
これが[¥550(税込)]なんて信じられないコストパフォーマンス。思わず即買いしていまいました(笑)
 
ということで、今回はan・an[No.2089]より。【参考:目次】
 
 
まず表紙にもある通り、
 

新しい自分になるための、5つのワーク。

思考の整理術

[論理的思考を養う]
[キャパを拡大する]
[直感力を育む]
[視点を変える]
[発想のデザイン化]
 
え⁉︎、これ職員研修で、しかもある程度の実務を積んだ中級くらいで扱うレベルの内容ですよね。はい…
 
しかも、
・人に流されがち
・気持ちがパツパツでキャパオーバーしがち
・ひとつの考えに固執しがち
・言いたいことはあるのに相手にいまいち伝わらない
・考えがまとまらない
 
なんて、児童福祉現場の相談者(子どもや保護者)の状態そのものであったり、初任者はおろか余裕がなくなった中級〜ベテランの支援者でも結構陥りがちな状態ばかりです。
 
この辺りの凝り固まった思考や視点をほぐす書き込み式ワークがそれぞれ紹介されています。
 
しかも、そのワークの一部なんて、
 
 
「あなたが心地いいと感じる"椅子"を描いてください」
 
「3年後の理想の自分の姿を思い浮かべて、描いてください」
(→解説:未来の予想で、今やるべきことが見えてくる)
 
 
内容やエッセンス的には、トラウマ治療の前にやる「安全の場所のワーク」や、LSW、オープンダイアローグ(未来語りのダイアローグ)で使う質問とほぼ同じです。
 
サラッと書いてありますが、かなりハイレベル。
 
しかも、これはまだ序の口。次なんて、
 
 

不要な怒りやイライラとはサヨナラしよう。

怒り!の整理術

 

日本アンガーマネジメント協会代表理事安藤俊介氏によるリアルガチのアンガーマネジメントの話しです。
 
お題目だけ紹介すると、
STEP1】人はなぜ怒るのか?6大原因を知る!
・自分の心に余裕がないから
・自分の「べき」からは外れているから
・他人のせいにしているから
・事実と思い込みを混同しているから
・怒りが伝染しているから
・思い通りにいかないから
 
STEP2"怒り"を客観化しよう
"べき"3重丸のうち、"まぁ許せる"のゾーンを広げよう》
《「ストレスログ」をつけてみよう》
(自分にとって「重要↔︎重要でない」
自分で「変えられる↔︎変えられない」の整理)
 
STEP3】怒りを抑える行動をしよう
《すぐできる!6秒アクション》
①自分の心が落ち着く、魔法の言葉を唱える
②思考停止する
③口角を無理やり上げる
④目の前のものをじっくり観察する
⑤その場をとにかく離れる
⑥ツボを押す
 
STEP4】怒りを上手に伝えよう
《怒りを伝える時の心構え
①「気持ち」を伝えるのではなく、「リクエストを通す」ことを目標に。
②冷静に、「私」を主語にして伝える。
NGワードを使わない
(過去を持ち出す/思い込みの程度の言葉「絶対、いつも、必ず」/大多数の正しさの主張)
 
 
見事すぎて何も言うことがありません。是非、直接見てみてください。イラスト付きでワーク例も入っていて、下手な専門書より100倍わかりやすい。児童福祉に関わる相談者と対人援助職の人すべてに「an・an」配布してもらいたいです(笑)
 
 
全体の構成を少し臨床的な用語に変換すると、
→一般的な状態・認知傾向を知る(心理教育)
→→自分の気持ちから距離を置いて客観視する
→→→自分の感覚・気持ちをコントロールする
→→→→適切な形でアウトプットする
 
の順番でわかりやすく整理されているし、本コラムで何度も取り上げている、
 
       認知(あたま)
          /            \
    感情    ー    感覚
(こころ) (からだ)
 
のつながりの各方面からの説明も入ってますし、マインドフルネス的アプローチ、表情筋やつぼを使った身体アプローチにも触れられています。
 
そして最後には、
 
怒る基準は「伝えないで後悔するかどうか」
 
と感情を抑圧・我慢しすぎることの不健康さや、うまく気持ちを伝えるアサーション的な説明がしっかりとされています。
 
ここまででも支援者を対象に1日かけて研修するでも十分すぎる内容ですが、an・anは欲張りでまだまだこんなもんじゃ終わりません。
 
 
 

恋にも思考の整理が必要です。

いつもしんどい恋愛はこれが原因!

“執着心”をほどく実践ワーク

 
 
これ恋愛の体を取っていますが、内容は完全に依存や基本的信頼感、愛着(アタッチメント)の話しです。
 
例えば、
「執着してる」ってどういう状態?
→支配したい/周りが見えない/見張っていたい
 
・いまのままでいい、変わるのが怖い
・私には、愛される価値があまりない
・素の自分を知られたら、嫌われる
・大事にされない私、に気づきたくない
 
おやおやって感じですよね。
 
しかも、
「ぎゅっと握りしめた"執着心"のほどき方」
ネガティブな執着をポジティブなエネルギーに変える方法、お教えします!と題し、
 
【STEP1】
「あ、私、いま◯◯に執着している」という事実に気づく。
【STEP2】
「執着してしまう私」を責めずに、自身の一部だと受け止める。
【STEP3】
執着を「消す」のではなく、違うエネルギーに「切り替える」。
 
と紹介されていて、しかも、その執着は過去から来ているので、過去と今を「線」で考えるのではなくて、[過去ー現在ー未来]をいくつかの「点」の連続に分けて、各ステージに色分けして考えてみるようにアドバイスがある。
 
さらに実践ワークとして
「固まった執着心をイメージで溶かす」練習
を紹介されていて、色やイメージを使った気持ちの外在化にまで触れている。
 
 
ホント本格的すぎます。
 
[怒り]や[依存]、それに付随する人間関係での支配感、恐怖感、不安感。

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これまでコラムで何度も触れてきた、ドーパミンノルアドレナリンの分泌過剰の状態の説明と対処法が見事に扱われていると思います。
 
 
で、そんな内容に感心しつつ、なんで一冊にこんなにぎっしり詰め込まなければいけなかったのか、an・an編集部は誰をターゲットにコレを書いてあるのか、とふと考えたんです。
 
「あ、そうか!」と。一般のan・anを手に取る程の社会生活を送れてるレベル人たちの悩みは、この各特集のウチのせいぜいどれか一つか二つなんだろうと。
 
an・an読みながら「一人でこんなに盛り沢山やって大丈夫か?」なんて余計な心配をしたのですが、
「思考がゴチャゴチャでまとまらない」
「怒りのコントロールが効かない」
「依存や支配関係、見捨てられ不安がある」
 
そもそも、これ全部深いレベルで当てはまる人は、世間一般での適応すら難しいですよね。一つだけでも、そこそこ大変な人です。
 
なので、読者のターゲットは、全部に該当する人ではなくて、どれか一つでも気になれば買って貰えるだろうと、購入層を広く捉えて、売り上げを伸ばすということなのではないか、と。
 
そして、ある程度の健康度を持っていて社会資源(家族や友達など)にもつながっている人なら、多少の悩みを抱えながらも一人で書き込み式のワークをしてセルフケアする力があるんだよな、とハッとさせられました。
 
改めて思うことは、児童福祉が直接関わる家庭というのは、基本的に多重問題すぎるし、複雑に絡み合ってる。でも、抱えている一つ一つの問題や状態を個々で見れば、一般の多くの人が抱えている心配や問題と種類や分野は大きくは変わらないんだろう、と。
 
ただ、児童福祉ケースにまでなると、(お金に例えるなら)借金に借金を重ね過ぎて、もはやどこからいくら借りていて、それぞれの月々の返済額がいくらか全然わからないし、過払いなんてズブズブ過ぎて把握も出来ない、どこから手をつけていいのやら…と言う感じになってようやく関わりが始まる感じだよなぁ、と。
 
それでもって仕事も収入も少なくて、身近に助けてくれる人もいなくて、そんな状態を一人だけじゃ回復できないので、一緒に滞納整理したり返済方法を考えたりする[対人援助職]というお仕事が成り立っているんだよな、と。
 
例えじゃなくて、本当の借金問題も重なっている場合も多いですけどね。
 
そのような生活に余裕のない状態で、an・an特集のような[認知・思考][感情コントロール][対人関係]これら全部に問題をを抱えているような人に寄り添おうとすれば、当然、支援者自身が巻き込まれて、それと似たような精神状態に陥ることはよくありますよね。
 
なので、やっぱり対人援助職として仕事として人に関わる人には、一通り起こりうる全て知っておいて欲しい。そして、早めに気づいて、まずはセルフケアして欲しい。
 
こういう心の中で起こることや身体的反応を一般化して事前にガイダンスしておき、実際に我が身に起こった時に、距離を置いて俯瞰的に自分の状態を気づいて見つめられるようにすることを狙うのが[心理教育]と呼ばれるものですよね。簡単に言うと「あるある話し」です。
 
LSWに取り組む前にも、施設入所児あるある、里子あるある、喪失体験あるある話しを子どもに伝えて「自分だけじゃないんだ」「言っていいんだ」「わかってくれるんだ」という体験があった後に、自分の過去を聞くのと、全くガイダンスなしに聞くのとでは、心と身体の準備性が全然違います。
 
これは、大人も一緒です。児童福祉の現場は、普通の家庭内では考えられない[非日常]な出来事が日常的に起こり、日々の業務で疲れ果て、ろくに研修を受ける時間も作れず、必死で頑張って気がついたらバーンアウトしているから離職率が高いのに、新採職員に現場に出てから実際に身体や心の中で起こること事について説明をしている職場がどれくらいあるのか。
 
そして、そう言った児童福祉現場や心理教育の話しを、その分野に関わったことがない関係者や他職種の方に専門用語のまま説明することは、現代人に古文を古文のまま説明しているようなものだと、僕は思います。別世界の話し過ぎて、ピンと来るわけない。
 
難しい言葉での説明は、難しい言葉を理解できる人にしか伝わらない。これは逆に煙に巻く時にあえて利用することもありますが、あんまり気持ちのいいものじゃ無いし、少なくなくとも仲間になる人、仲間になって欲しい人にすることじゃない。
 
材料を提示して自分に起こっていることに[気づける]ことを目指すのか、[自分で対処できる]ことまで求めるのか、またまた難解な説明について[言葉の意味から調べる]ことを課すのか、わかりやすく伝えて[自分なりに解釈する]ことを目指すのか、伝える側はその意図を明確に持って伝える必要があると思います。
 
それは、子育ても対人援助も同じような気がします。その時には、聞いた人がどう感じるのか相手の立場や心情に想いを馳せながら伝える。それがあって「伝える」が「伝わる」になるのかな、と思います。
 
そういう意味では、an・an編集部が一般の人に理解してもらえるレベルに噛み砕いて伝える技術は、とても勉強になります。
 
何とセットに見せれば手に取って読んでもらえる、こういう風かに整理して見せれば理解してもらえるのか、と。
 
「思考の整理術」という特集ですが、他の人の感性や価値観を受け入れる姿勢や感覚って、思考の柔軟性も大事だろうなと思うんです。
 
ということで、最後に紹介するコーナーは、ここ数回コラムでお馴染み(?)の俳優さんの語り。
 
今ドラマをつければ必ず見かける売れっ子イケメン若手俳優たちのインタビューです。その内容が思った以上に内省が深くて勉強になりました。
 
 
……
 
 
なんですが、ちょっと書き始めたら、色々書きたいことを連想していまい長くなりそうなので、今回は一旦ここで終わりにします。
 
この内容の厚み+オリンピック特集で、[¥550(税込)]はやっぱりコスパ半端ない。
 
an・an恐るべし…。
 
ではでは。
 

【第71回】もぐもぐタイムに見る「チームの土台」

メンバーの皆さま
 
こんにちは。管理人です。
 
あっ、という間に終わってしまいましたね、平昌オリンピック。
 
数々のメダリストが誕生した今回の五輪で、おそらく一番引っ張りだこになりそうなのは、女子カーリング🥌で銅メダルを獲得した「カー娘」こと「LS(ロコ・ソラーレ北見」の皆さんではないでしょうか。
 
話題になった「そだねー」「もぐもぐタイム」は早くも流行語大賞にノミネートされそうな勢いですよね。
 
ということで、今回は今一番ホットな話題な「コロ・ソラーレ北見」に関するこの記事から。
 
世界が驚くカーリング女子。チームを作った本橋麻里「8年前の想い」
 
 
この語りには、チームワーク・連携とは何ぞやという要素が非常に詰め込まれています。
 
これからLSWを実施しようとする場合、これから組織にLSWへの理解を広めていこうとする場合のプロセスとして、非常に参考になると思います。
 
是非、原文もご参照ください。
 
 
内容をかい摘んで紹介すると、ご存知の方も多いと思いますが、今回の女子カーリング代表チーム「ロコ・ソラーレ北見」のバックアッパーとしてチームを影で支えていたのは、アノ本橋麻里選手。
 
2006年トリノ五輪2010年バンクーバー五輪の日本代表で当時は「チーム青森所属の「マリリン」の愛称でカーリングBOOMの火付け役となったアノ方です。
 
現在の所属である「ロコ・ソラーレ北見」の監督も「本橋の実力は、いま出ている選手と全く遜色ない」と言われる力を維持しながら、何故バックアッパーとしてチームを後方支援する道を選んだのか。
 
そもそも当時の国内最強「チーム青森」を離れ、何故2010年、北海道の地で「コロ・ソラーレ北見」を結成するに至ったのか、8年前の本橋麻里選手の想いが語られているインタビューです。
 
 
僕が注目したのは、
世界王者スウェーデンとの差はメンタル
チームの土台の重要性。自分の内面にチーム作りのノウハウがないんだ』と気づいた。
 
という2点です。
 
 
①メンタル面
当時、本橋選手はメダル獲得を期待され、ある意味で勝利を義務付けられた「チーム青森」での活動を「余裕がなかった」と語っています。
 
かたや平昌オリンピックでも金メダルを取った「スウェーデン🇸🇪」は、2006年トリノ五輪で金メダルを取った後にほとんど試合に出てこない。しかし2010年バンクーバー五輪に出てきたかと思えば、しっかりピークに仕上げて結果を残してくる。
 
「何なんだ、この人たちの調整力は⁉︎」
 
と本橋選手は衝撃を受けた、と。また、
 
「また、選手村に入ってからの過ごし方にも日本との差を感じました。ものすごくリラックスしていて五輪を楽しんでいるんですよ。そうしたことも含めて、アイスの上(の技術)だけでない、メンタルの部分での見直しが必要だと痛感しました」
 
と。この辺りの話は、今回のオリンピックでの「LS北見の姿と重なる所が多いですよね。五輪だからと言って無理に飾らず、ありのままのいつも自分たちを表現する、五輪という[非日常]の時間空間を楽しもうとする姿は非常に印象的でした。
 
その一部が、地元の方言であったり銘菓であったりしたんだな、と。緊張するなという方が無理がある4年に一度の[非日常]の中に、いかに平常でいる[日常]の想起できる仕掛けを組み込むか。
 
特に、注文殺到している、もぐもぐタイムで食べていた「赤いサイロ」は、ただの糖分補給ではなくて、選手たちが後半のプレッシャーがかかってくる場面で、ホッとできる慣れ親しんだ味で、硬くなりそうな思考や感覚を切り替えることにも繋がっているのではないでしょうか。
 
(参考【第63回】「アンカリング」で考えるLSW
 
あれを「なんだ五輪なのに、あの砕けた、ふざけた態度は。けしからん」と思う声も実際あったそうです。この辺りは、日本の必死で歯を食いしばって頑張ることこそ「美徳」とか「最大の成果」が出るとか、という固定観念が一般的な強さが垣間見れます。
 
「ピーキング」や「緊張とリラックス」の使い分けの考え方が普及してないんですね。是非、下のブログがわかりやすくまとめられていますので、参考にして欲しいのですが、
 
「緊張orリラックス」パフォーマンス発揮に役立つ心理学
 
例えば、野球選手が絶好調の時に「ボールが止まって見える」なんて言う、最大限にパフォーマンスが発揮させる極限に集中力が高まっている状態を「ゾーン」「フロー」とか言いますよね。
 
その状態は「緊張とリラックス」が良いバランスで両立している状態です。矛盾しているようですけど、緊張感を保ちながらリラックスしているんです。緊張なくダラダラするのとは違うし、でも緊張してガチガチになっているのとも違う。
 
そして、競技によって適した「緊張とリラックス」のバランスは微妙に違うと言われる。例えば、陸上・水泳などは程よい「緊張感とリラックス」のバランスが適していますが、格闘技で求められるのは「戦闘モード」ですからより高い緊張感が必要ですし、逆にアーチェリーのような正確さが求められる競技ではより高いリラックス状態が適しているそうです。
 
 
以前に紹介した【第59回】「セロトニンドーパミンノルアドレナリン」の話しに似てますね。

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おそらくカーリングも身体的な負荷と言うより繊細さが求められるアーチェリーに近い競技ですから、正確なパフォーマンスを発揮するために「リラックス」寄りの状態が求められるんだと思います。
 
「緊張感とリラックス」の程よいバランスを仕事に置き換えるなら、雑念なく目の前のやるべき事に集中している、そんな状態なのかな、と。
 
ガムシャラにだけ頑張れば、右肩上がりに上手くなったり結果が出るのは初心者〜しばらくの時期だけです。その後は、自分が身につけた力や技術をどう上手くパフォーマンスに反映させ安定させるか(波がなくアベレージを高める)も大事な「スキル」であり、そこには「メンタル」の問題も大いに関係してきますよね。
 
参考)
【第32回】現役目線「プロとしての成長とは」
 
 
緊張感の溢れる[非日常]空間の中で、いかに[日常]のリラックス状態を同居させるか。これは、単に「経験」だけで済まされる話ではなくて「訓練」する必要があると思うんです。
 
俗に言う「メリハリ」をつける訓練です。集中する時は練習でも実戦と同レベルの緊張感を保ち、終わったら一気にリラックス状態になる。この振れ幅か大きい程、感覚的にスイッチを抜く入れるの経験値が増えていきます。
 
最近の10代若手アスリートのメンタルを見ていると、だいぶスポーツ指導者の意識や考え方は変わってきたのかなと感じますが、「抜く=サボる」の固定概念に囚われてダラダラ長時間頑張らせ続けることのみが成長する道と思い込んでいる人は、一般には結構な割合でいると思います。
 
厳しい言い方をすると、ただやみくもにダラダラ頑張ることは、自分の成長のために選択した行動ではなくて、「頑張っている姿を見せないと周囲が怒る、納得しない」から周囲を喜ばせるために踊るピエロ、思考停止して感じたり考えるをサボって見た目だけ頑張ってるアピールしてる状態だと、僕は思います。
 
今回大活躍だった女子スケート陣の報道でも、スケート大国オランダでのトレーニングは、心拍数を上げ過ぎないトレーニング(おそらく正しいフォームを維持する訓練)を続ける紹介がありましたが、まさに実践を考えた理にかなったトレーニングだと、観て思いました。
 
要は「主体性とビジョン」の明確さ。自らの意志で考えて目標としてる姿に向いて能動的に動いているのか、ただやらされているのか。これが何の意味があるのか、自分で考えて納得して感じながら試行錯誤しなければ、残念ながら実戦の刻々と変化する状況を、自分で察知して修正する力は養えないと僕は思います。
 
失敗しないこと、崩れないことに固執するのではなくて、修正したり立て直せる柔軟性を身につける。そして、これは「レジリエンス」や「アタッチメント」と対人援助や臨床の世界では表現されるものだと僕は思います。
 
完璧な姿を崩さないことを目指すのではなくて、何かあっても起き上がりコブシのように良い状態に戻れる力、回復する力をつける。それにはブレない軸や重石が重要であると思います。
 
 
②チームの土台・チーム作り
本橋選手は「チーム青森」での2006年トリノ五輪2010年バンクーバー五輪の惨敗を振り返って、
 
「五輪で生じたギャップや違和感を修正することが出来なかった」
 
「もっとお互いの弱さを知るべきで、お互いの強みを讃えるべきだった」
 
そういことを考えれば考える程『あぁ自分の内面にチーム作りのノウハウがないんだ』と気づかされた。
 
という事で、殻を破って自分が成長するために「チーム青森をチームを離れ、地元の北海道北見市常呂町で新しいチーム「ロコ・ソラーレ北見」を結成し、チームビルディングから始めたということが語られています。
 
 
話は逸れますが、そこに至るには北見市常呂町カーリングを普及させた恩師・小栗祐治さんとの約束、その後の苦労の連続があったそうです。
 
(参考:「道つくる」恩師との約束刻み、チーム創設 快進撃支える本橋
 
 
 
話を戻すと、結成当初から、みんなに「何でも言い合っていこうね」と伝えると年下のメンバーから「何でも言うからね」と返えしてくれる。
 
また「チームってこうだよね」という具体的な体験やイメージを皆が話してくれる。なので、私から何か伝えると言うよりも、私が皆から学ぶことの方が大きい。
 
「それが将来的に、ブレない土台からのチーム作りにつながると信じています」
 
これはまさにチームのBeing。どう在るのかのチーム哲学。英語で言うフィロソフィーですよね。苦しい時にグラグラ揺さぶらせた時に支えとなる軸や重石は、やはり「そもそも何を大事にしてきたのか」と言う原点なんだと思います。
 
そのチームが8年の年月をかけて培った姿や成果はご覧の通りです。これ、日本代表のエースとして、五輪で入賞している当時の話しですよ。この謙虚さと自己内省は凄いなと思いつつ、逆に「このままじゃダメだ」という危機感もあったと思うんです。
 
おそらく本橋選手は自身の失敗談や後悔を惜しみなく伝えながら、試合後の自主練習は一切怠らず、何かあったら私が出るからと言う姿勢を背中で見せて、メンバーが精神的に伸び伸びプレーできる環境作りをする立場に身を置いた。後方支援するバックアッパーとして。
 
僕の妄想推測ですが「こんな環境、こんな人が傍にいてくれたら」というチームの精神的支柱の重要性を痛感した当時の自分の姿と重ねながら。
 
このブログを書いている途中に、男子カーリング界に一石を投じるこんな記事も出てきました。
 
両角友佑が語るカーリング界のリアル「今の強化方法には限界がきている」
 
 
この記事を読むと、きっと女子カーリング界も似た現場だから本橋選手がサポート役をかって出たんだろうなぁと想像しますが、内容はホント「児童福祉あるある」ですよね。
 
環境づくり、人材育成は基本的に個人任せ全体を取りまとめるハズな協会は、現場で起こっている現実を受け止めているのか、その業界の未来や将来を真剣に考えているのか、そもそも何を目指して、自分たちで何とかしようといるのか、そんな疑問や想いがヒシヒシいやビシビシと伝わってくる文章です
 
最近よく思うんですね。ほとんどの人が「チーム作り・組織作りのノウハウ」を全然知らないし経験値も足りないのでは、と。たいていの人は誰かが何とかしてくれると思ってる。
 
今ある環境がどのような歴史を経て整備されて、どのように維持されているのか、興味がないように見える。それはきっと、すでに出来上がったチーム・組織に入って、そこに適応することしか経験してきてないから。
 
確かに小中学校から学級・各行事の生徒会、部活などなどで実行委員やチームリーダーとして組織作りに携われる人はほんの一握り。だいたいいつも同じ人がやらされてましたよね。
 
でも別に、学校という枠でなくたって、近所の友達が集まって遊ぶ、親戚の集まりで子ども同士で遊んで待ってる、なんて「何も決められていないんだけど」とにかく皆んなで一緒に何か遊んで楽しんだ方がいい時間ってありましたよね。最近はないのかなぁ。
 
僕は新潟出身なので、例えば、雪はあるけど「じゃあ何する?雪合戦?かまくら?滑り台?」みたいに遊び方自体を考えてみんなで決める体験。でも小さい頃から習い事でビッシリ日課スケジュール埋まっていたり、遊ぶでもゲーム機やスマホゲームと言った「枠」があり1人でも遊べる生活が普通になってきてますね。
 
でもだんだん大人になったって、バンドでも、サークルでも、飲み会でも、バイトでも家族関係でも何でもいいんですけど、特定の正解の形がない中で、今いるメンバーとイチからお互いに納得できる関係性を築いていく場面はいくらでもある。
 
それが関係作り、チーム作りだと思いますし、それにはお互いの良さや価値観を認めながら、チームの形を模索していく。
 
こんな遊びや趣味の世界から、日本代表クラスであっても「チームの土台づくり」の核は、安心して率直に話せる関係性、オープンな対話なのではないでしょうか。
 
チームワーク・連携・関係性づくりの大切な原点は、やっていることや競技レベルに関わらず、「人の集まり」という点において普遍的なものがあると思います。
 
そして、その関係性の積み重ねの歴史を「文化」と呼ぶのではと思います。なので、本橋選手が感じたように、既存の組織で既に出来上がっている文化を変えるより、イチから作り上げた方が簡単だし手っ取り早いのは確かです。
 
しかしながら、LSWに関わる担当者や関係機関を総とっかえする事は現実的に不可能ですから、出来ることは今いる大人同士で地道な対話を重ねていくことなんだろう、という頭では理解しているけど「う〜ん」と思う結論に戻ってくるわけです。
 
この辺りの悩みは尽きませんが、組織における考え方の多様性も大切なので仕方がありません。
 
そんな時に支えになってくれるのは、やはりわかってくれる仲間の存在だなぁと思います。
 
チームというのは、作るのは難しいけど、出来たら心強く頼もしいものにもなるようなぁ、なんて各年代でやってきた自分のチーム作りの取り組みを改めて振り返らせてくれるインタビュー記事でした。
 
今後もカーリング界、注目ですね。
 
ではでは。

【第70回】DoingとBeingの両立

メンバーの皆さま
 
こんにちは。管理人です。
 
気がつけば、平昌オリンピックも日曜日で終わりですね。あっという間ですね。
 
「羽生が勝って、羽生が負けた」
 
なんてややこしいニュースもありましたけど、羽生結弦さすがでしたね。
 
怪我の状態も万全でない中、今ある力をピーキングする調整力も含めて圧巻の演技でした。
 
ということで、今回コラムは五輪に二連覇の伝説を作った羽生結弦に関するこの記事から。
 
 
羽生結弦のメンタルメソッド「DoingとBeingの両方を深く追求する」
 
 
この記事は、メンタルコーチや企業のチームビルディングを手がける小田桐翔大氏によるもので、大舞台で見事に力を発揮する羽生結弦選手のメンタルメソッドが、ビジネスシーンでも応用できると紹介しています。
 
端的に言うと、成長には「Doing(やり方)」と「Being(在り方)」の両方を磨く必要があるということ。
 
Doingは、いわゆる「スキル」のこと。一方、Beingは「ひとりの人間として自分はどうありたいか」という部分です。
 
記事の中で、ビジネス界ではDoing(どうすれば良かったのか)だけがよく振り返られるが、Being(どうあるべきだったのか)をしっかり振り返られる人は少ないと指摘されていますが、僕は児童福祉現場も全く同じだな、と思います。
 
僕はこのことを「手段と目的」とか「ツールとビジョン」「軸と遊び」なんて言葉で表すのですが、「DoingBeing」なるほどなぁ、と。
 
何を使って、どんな姿や形を目指すのか。時々、対人援助や何かの支援事業でも研究発表でも「◯◯シート」や「◯◯プログラム」を使うこと自体が「目的」(=満足)となっていて、本来それを使って何の実現を目指しているのかが置き去りになっている事って、結構あると思います。
 
LSWでも、やはり似たような事って起こっていると思います。LSWをやること自体が目的化してしまっている支援です。
 
支援者本人にとっては、その前提は「当たり前すぎて」言葉にしない場合が多いと思います。しかし実際には、経緯・歴史を共有していない第3者には「そもそもの動機」は想像以上に伝わらないものですし、実は言葉にしたとしても過去に過ぎ去った事としてその熱量や臨場感は伝わらず、諸行無常というか物事は風化していってしまうんだなぁと、つくづく最近思います。
 
そして、「そもそもの動機=Being」が抜けてしまった何も考えていないDoingのみの型なぞり支援を「形骸化した支援」と呼ぶんだと思います。
 
 
本来、対人援助で実現を目指す原点は、相談者が元気で健康的になって、相談者の願う望む姿に近づく事だと僕は思います。肝心の相談者当人がどうしたいのか、どうなりたいのか。そこを聞かずして作業の協働関係やパートナーシップはあり得ないと思いますし、そこを十分に扱わない支援は結局「無理矢理やらされた」「嫌々やった」想いが強く残り、その後の相談者の主体的な行動選択を高めることにはつながりにくい気がします。
 
しかし、児童福祉現場においては、ただ本人の好きなようにワガママを聞くわけにもいかない。本人が自分も他人も大切にして友好的な社会生活を送ることが出来る「健康的で社会性をもった姿」に変化成長できるように、支援したり応援する「手段」として、時にはその時の本人の意向に反した判断をすることも児童福祉現場ではあると思います。
 
(よく「周囲に迷惑をかけないように」と言いますが、自分を全く大切にしないで一方的に過度に我慢しすぎるのも違うかなと僕は思います。そこはバランスと言うか、譲り合い歩み寄りの精神と言うか…)
 
しかし、そこには支援者の『(家族や本人が)こういう姿になって欲しい』というBeingへの願いや期待があるから、そのことを伝え続けて、その「手段・通過点」として施設入所・措置変更するんだと、子ども自身や家族に伝えなければいけない場面があります。
 
だけど、その時に問われるのは自分自身のBeingだと思うんです。なぜ、自分はそう言わなければいけないのか。そもそも自分の役割は何なのか。そして、自分には何ができるのか。それば自分の職業人としての存在意義に関わってくる話だと思います。
 
その軸がしっかりしていないと、訳もわからず「上司に言われたから」「やれと言われたから」の関わりを提供するわけなので、結局、似たような訳もわからずやらされた体験を連鎖的に子どもに伝言ゲームするだけになってしまうと思います。
 
同じ言葉(セリフ)だとしても、誰が言うのか、誰に言われるのか、それが大事である、と児童福祉現場で本当に感じます。
 
誰が言うのか、の意味は
「その言葉のやりとりを通して、どんな体験を提供したいと思っているのか」
その意図を自分の中でどれくらい咀嚼した上で、台詞(セリフ)に非言語的メッセージを+α上乗せして伝えられるか。
 
 
記事の最後にサラッと、以下の2つが紹介されていますが、これは非常に大切と思います。
 
■オーサーコーチが選手と築く「関係の質」
組織の成功循環モデル(ダニエル・キムMIT教授が提唱)において、成果を上げるにはまず「関係の質」を高めることが大事だとされる。
 
■プロが教える「体験から学ぶ仕組み」
小田桐さんが企業研修などで活用する「体験学習サイクル」。やみくもに体験を重ねるのでなく、都度振り返り、学びを一般化して適用する。
 
 
記事の中では、ブライアン・オーサーコーチが羽生選手の感性や考えを尊重する姿勢、そして羽生選手の体験から学ぶ力の高さに触れていますが、僕はその関係は対人援助の相談関係まさにそのものだと思います。
 
以前コラムでも触れたように、人はそれぞれ五感の感性や価値観が違いますので、同じ刺激を受けても、その受け取り方、主観的な体験はそれぞれ違います。
 
例えば、同じ映画を観たとしても、人によって感想は違う。それは感性や価値観の違いがあるから。でも、それは固定のものではなくて、同じ人物でも観る時期やその時置かれている状況によって見方や感じ方は変わってくるのが当たり前。
 
僕もこの前、友人の結婚式に出席しましたが、独身の時と、結婚してからと、子どもができてからでは、やはり心持ちや見方、感じ方は変わりますよね。
 
自分の内面で想起されるもの、アンカー⚓️みたいなものは、それまでの経験やそのときの状態によって変化する。
 
逆にこれを利用すると、相談者に健康的な体験学習を提供することよって、感性や受け取り方が健康的な方向に変わる可能性があるという事。社会的養護(里親、施設)で日々行う支援はまさにコレなんだと思います。
 
しかし、僕は児童相談所の心理司の立場なので、毎日会って[日常]を提供することは出来ない。なので、僕は面接でもLSWでもある意味[非日常]を提供する立場だからこそできるBeing(在り方)を考えなくてはいけない。
 
今のところ、日常では全ては解放しきれない
「自分の感性、自分の思ったり感じたりすることに嘘偽りなく正直でいられる場」その延長で、
「自分自身在り方(Being)を考える場」
を提供できると、その人の[存在]を認めることにつながるんだろうなと思って目指してはいます。
 
が、そこには安全感、安心感が不可欠ですし、この人なら大丈夫という信頼感も必要ですし、本人のタイミングや時間が必要という場合もあります。さらに今は「児相」という背負っている看板は外せないので立場的な限界もあるし(児相にはちょっとコレは話せないというやつ)、やりきれない役目は関係機関(施設・里親・病院・学校)の方々に助けてもらっている部分も大きいなと思います。
 
 
ついついやりがちや「アレやれ、コレやれ、あれはやっちゃダメ」は、「Doingトーク」なんですね。でも、身体に悪いものほど美味しいように、ダメと言われる事ほど面白かったり興味が湧いたりしますね。「押すなよ!」と言われたら押したくなる(押せというフリ)みたいな。
 
「Doingトーク」がダメなんじゃなくて、大事なのは「成長」というキーワードで、成長を望むなら羽生結弦選手のようにDoingとBeingをバランスよく両方磨かないといけないのかな、と思います。
 
今を切り抜けるだけなら「どう(Do)するの?」だけでいいわけで。でも、今さえ良ければではなくて、将来的なことも考えると「どう在りたいのか」「そのためには今どう在るのか」という長期的な視点になってくると思うんです。
 
だからと言ってBeingだけに偏って「こうあるべき!」と押し付けるのは、ただの押し付けがましい説教でしかなくて、右から左に受け流されるのがオチです。Beingは自分で考えるものであって、人から与えられるものではないのかな、と思うんです。
 
「役割が人を育てる」という言葉もありますが、アレは役割を与えられることで、その人自身が身の振り方を自分で考えて試行錯誤するから成長できるんだと思います。
 
後輩ができたり、部下をもったり、子どもができたり、人を育てるということは自分も育てる側の立場として共に育ち育てられるんだと思います。
 
やはり、その時にも、相手に求めるよりも先に、自分がまずどう在るのかが大切な気がします。そして、LSWもすぐに結果や成果が見えない将来の投資的な側面が大きいですから、もはや「支援」というより「育て」の感覚に僕的には近くて、そうなるとDoingよりもBeingの方がモノを言うような気がしています。
 
 
この事は個人だけではなくて、例えば、コラムで紹介したV・ファーレン長崎の高田社長の言葉を言い換えると、
 
「子どもたちに夢を与える。長崎を元気にする」
のはチーム哲学であるBeing。
 
「試合に勝利する。J1に昇格する」のは、Being達成のためのDoing(勝ったら県民サポーターのみんなが喜んでくれる)手段であり、その積み重ねの結果が「J1昇格」という形になったに過ぎないと、言うことなんだと思います。
 
 
あれはオリンピックのトップアスリートの話なので、あれはプロスポーツの経営の話なので、ではなくて、児童福祉現場でもBeingとDoingの両輪を並行して追求していくことが必要だと言う認識や話し合いが、スタンダートになるくらいになったらだいぶ連携や支援の質が変わるんだろうなぁ、と思いました。
 
平昌オリンピックもあとわずか。残念ながら、女子カーリング🥌は決勝進出なりませんでしたが、3位決定戦でも自分達らしい悔いのないカーリングをして、日本に元気を届けて欲しいですね。
 
ではでは。

【第69回】おなはしオレンジリボン🎗

メンバーの皆さま
 
おはようございます。管理人です。
 
今更かもしれませんが『おはなしオレンジリボン』を皆さんご存知でしょうか?
 
虐待NO、アニメで学んで-滋賀発の無料サイト開設 県警とNPO、全国でも珍しい取り組み
 
高校生を対象にした出前の虐待予防の啓発活動で、そういった活動自体は多くの自治体のNPOが行なっているという話しは、ちょこちょこ耳にしていました。
 
しかし、驚くのが、この無料サイト開設の取り組みが「滋賀県警NPOが中心となって作成し、しかもDVDではなく、web上にYouTubeにオープンに公開されていること。
 
児童相談所ではなく、県警ですよ。
 
もはや児童福祉関係者のみならず新聞報道もされて世間でも周知の通り、虐待通告の「件数」をうなぎ上りに上昇させている大きな要因は、警察からの「心理的虐待」通告。
 
警察が夫婦喧嘩やDVで臨場した際に、その家に子どもがいれば「日常的な目撃の恐れ=心理的虐待の疑い」ということで、そのほぼ自動的に児童相談所に通告が来るというシステムになった途端に、爆発的に虐待通告件数が増えているという仕組みです。
 
少し想像力が働く人であれば、お分かりと思います。そのことにより、通告事案の書類を作る警察も、その後に調査訪問面接を実施し、報告書類も作成する児童相談所も、爆発的に仕事量が増えて業務時間が圧迫されて、今まで行って来た通常業務に支障をきたしつつあるのが今現場で起こっていること。だから各自治体で「警察と児相」の連携がホットな話題となっていますよね。
 
ちなみに、虐待対応の6段階(Krugman,1988
(1)虐待を存在することを認めない
(2)虐待の存在を認める
(3)子どもを分離・保護する
(4)加害者の治療に取り組む
(5)性的虐待に対応する
(6)発生予防に取り組む
 
を参考に考えると、90年代半ばまでは体罰容認でしたし虐待通告件数もわずか数千件だったところ、約20年で虐待通告件数は10万件オーバー、かつての10倍以上に膨れ上がっています。
 
僕はこれを90年代半ばまでの(1)の段階から、2000年前後からようやく(2)(3)の段階にスライドし、2010年頃から(4)(5)に本腰入れて取り組む自治体も出てきた、というような印象を持っています。
 
で(6)にスライドしていくのは2020年くらいだろうな、と思ってたんですが、まさか警察がやるとは。そして、このクオリティーとオープンにする太っ腹な態度にも驚きましたし、警察が本気出すとここまで出来るのか、おそらく使える予算規模が福祉やNPOとは全然違う。正直嫉妬するような取り組みです。
 
もちろん、このような事をするには、名プロデューサー仕掛け人がいて、さらに、それを理解して組織を動かせる優秀な人材が集まっているんだと思います。予防って、すぐに結果が数値になって現れないので、余程長期スパンで物事を俯瞰的に観れる経営者がいるタイミングでないと、なかなか単年度の予算で取るのは難しい。
 
このような支援の成果や結果がすぐには現れないし、数値化しにくいし、というのはLSWに通じると思います。機会があれば、是非、滋賀県警NPOの方にプロジェクトの立ち上げノウハウの話しをお聞きしてみたいですね。
 
と、最近は「経営」「仕組みづくり」の方に目が行ってしまいがちなんですが、動画内容にも触れておきます。
 
おはなしオレンジリボン
 
是非、動画を直接ご覧になって欲しいのですが、秀逸なのは1話が3〜4分とコンパクトにまとまっており、最後の1分ほどは[話のポイント]のおさらいまでしてくれること。物語の見せ方や構成、プレゼン方法はとても勉強になります。
 
あえてLSW的に注目する回は、No.7「お母さんと呼ぶこと」ですかね。再婚同士のステップファミリーで子どもが感じる葛藤、きょうだい間差別の状況が見事に描かれています。
 
さらにLSWに特化するなら、それ以前のストーリーとして、
①両親が離婚する前の両親の不和に挟まれ、どっちの味方につくのか思い悩む「忠誠葛藤」
②両親が離婚した時の家族や友人との突然別れや引越しによる「あいまいな喪失」
③そして新しい親(里親を含む)との生活の中で起こる戸惑いや新たな「忠誠葛藤」(前の親の悪口などなど)…。
それらの喪失や葛藤による感情抑圧や感情麻痺が続くことによって生じる、子どもの身体的精神的な不調や現れ、心情。
⑤「あいまいな喪失」がスッキリ晴れた時の、子どもの心情や反応。
 
この辺りをアニメにして、児童福祉にこれから携わる人や子ども本人と共有して話題にできたら、だいぶLSWの実施を検討するまでの支援の質が変わる気がします
 
ただ、トラウマやフラッシュバックのこともセットに加えないと、とにかく教えればいいと単純化されてしまうので、かなりの慎重さ緻密な構成が必要なので難しいとは思うんですけど…。
 
その辺りがクリアされて、LSWなんて単語すら使わずとも、喪失や悲嘆へのケアが自然となされることが本来は理想的な形だと、僕は思います。
 
阪神大震災PTSDが注目されて単語は浸透して早20年経ちますが、現在でのトラウマに対する理解度や支援体制が十分とは決して言えないと思います。
 
そう考えると、東日本大地震グリーフケアが少し注目されましたが、このような喪失体験へのケアが理解されて一般的に浸透していくには、あと20年は軽くかかりそうな気がしてしまいます。
 
なるべく浸透速度を速めることに貢献したいなぁ、とは思いますが、頭で思い描くことを現実に形にするまでには、本当に色んな手続きや段取り・障壁がありますよね。
 
そんなことを考えると、自分の手が届く範囲でできる事というのはほんのわずかだよなぁ、と思います。
 
僕の友人で大手建設会社の現場監督しているやつが、「1つの箱を作るのに3年〜5年かかる。仕事が形になる達成感はあるけど、一つ出来るたびに『定年まで作れるのはあと◯個かな』と考える」
と言っていたのを、ふと思い出しました。
 
これから定年が65歳まで伸びるとしても、残り30年で出来る事って、せいぜい2つか3つなんだろうな、と。そう思うと、現実的に出来る出来ないはタイミング次第でもあり、仲間に恵まれているかの縁や運も必要だな、と「おはなしオレンジリボン」を観てしみじみ感じました。
 
こんな仕事に携わってみたいですね。
 
ではでは。
 

【第68回】喪失体験と「もしもしコーナー」

メンバーの皆さま
 
こんにちは。管理人です。
 
いや〜、宮崎県はいいところでした。気候が暖かいと、人柄も温かくなるんですかね。
 
みんな親切。
 
「人とのつながり」を大切にする県民性は、空港にも滲み出ていて、
ちょっと分かりにくいですけど、ガラスの手前と奥にそれぞれ内線の電話機📞がついてるんです。

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で、荷物検査ゲートを通った後に、出発する人とお見送りする人とが、お別れ前の最後の会話ができるシステム。
 
この数々の宮崎県民の別れの涙が流れてきた「もしもしコーナー」は、今のように携帯電話が普及する、ずーっと前からあるんですって。
 
披露宴もそうでしたけど、嬉しいこと楽しいことも、苦しいこと悲しいことも、正直な気持ちを伝えることを大切にしたり、その気持ちを皆の優しさ温かさで包み込むような地域性や県民性に触れられた週末でした。
 
 
前回コラムでは、行きの飛行機で見た阿部寛のインタビュー記事に触れて「他の俳優さんの話も気になるなぁ」と書きましたが、今回コラムはそんな宮崎タイムを満喫していた時に、ネット上で話題になっていた俳優さんの話しを。
 
2/16放送、中居くんの金スマのゲスト
保阪尚希」さんです。
 
ちょっと若い世代の方はあんまり俳優イメージないかもしれないですが、僕の中では「速見もこみちが出る前の元祖料理がうまいイケメン俳優。90年代は人気ドラマに出演してましたよね。「家なき子」とか「サラリーマン金太郎」とか。
 
確かに、その当時から、中学生からイタ飯屋でバイトして料理を身につけたとか、「僕には怖いものはない」と言ってお化け屋敷に入っても瞬き1つせず瞳孔も開きっぱなしで何が起こってもまるで動じないみたいな紹介された番組を記憶しています。
 
しかも、今回初めて知りましたが、僕が住んでる静岡県静岡市出身なんですね。出身の小中学校も静岡駅からすぐそこ。なんだか勝手に親近感が湧いてきます。
 
金スマで紹介された通り、現在、保阪尚希氏は通販王として、現在はコンサルタント業や「保坂流」という会社も立ち上げて、健康につながる商品開発なんかにも携わっていると。http://www.hosakaryu.com/SHOP/freepage.php?id=1
 
で、ネットで話題になっているのが保阪流HPでも触れられている保阪尚希氏の生い立ち。
 
 
要約すると…、
 
サラリーマンの父親、主婦の母親、4歳下の妹、祖母の5人家族。「すごい教育ママ」のもと、英語・ピアノ・エレクトーン・そろばん・習字・器械体操など多くの習い事をしながら幸せな幼少期を暮らしていた
 
しかし、7歳の誕生日の2日後、なぜか父親から「今日はおばあちゃんの所で寝なさい」と言われ、両親と同じ2階の寝室ではなく1階の祖母の部屋で寝る。翌朝、目が覚めると、玄関に「同じ革靴がぶわーっと」あって刑事ドラマの世界で、祖母が警官が質問攻めにあっててて、訳もわからず親戚に連れていかれたと。
 
で、親戚の家で付いていたTVニュースに自分の家が映っている。夫婦で無理心中か、と。当時「心中」という言葉は知らなかったが、そこで何が起こったかは理解したと。
 
保坂氏は、当時について、
「何も分からない。急すぎて。(当初の)記憶がないんです」
「割となんでも覚えている方だけど、記憶を消したのか覚えてないのか、そこだけ記憶が断片的なんです」
 
と。その後、祖母との3人暮らしが始まり、極力、祖母に迷惑をかけまいと、料理、家事を自分でしていたが、両親の死から2年後、9歳の時に祖母が脳いっ血で倒れ、半身不随に。
 
で、いち早く駆けつけた叔母が発した言葉は、あんたが迷惑かけるからよ」と。この時、9歳のナオキ少年は「1日でも早く自立する、1円でも稼ぐ仕事をする」と誓い、当時小学生ながら色んなビジネスで貯金をため、中学卒業時に家を出て上京した…
 
 
と言う話しです。
 
 
 
で、ネット上では「生い立ちが壮絶すぎ」「能力が優秀すぎ」「叔母さん酷すぎ」とか、頑張って下さいという励ましのコメント、自分は普通の家庭で育ったんだと言う気づきのコメントが多数寄せられています。
 
あんまり有名人のことを断片的な情報からの推測でアレコレ書くのは良くないと思いますし、誤解の無いように今回この話しをあえて取り上げた理由を単刀直入に言います。
 
それは「喪失、悲嘆に対する一般的な反応」過酷な過去があった人が現在、活躍している」ことの2点です。
 
まず「急すぎて。記憶がないです」と言う台詞。まさに長いあいだ施設入所している子が、成長した後に当時を振り返って同じように語ってくれることが時々あります。
 
一時保護や施設入所理由について、大人は〇〇と伝えましたなんて言って、子どもも理由を尋ねられれば一応そのセリフ通り言うもんだから、状況は理解できてるんだろうと周囲の大人が思い込んでいることって多いと思います。
 
ただ、子どもからしたら寝耳に水の話しです。その言葉を本当の意味で理解したり飲み込めているのか、そこに自分の感情は伴っているのか(受け止めきれないから感情を凍らせておくなんてこともよく起こる)は、よく観察して状態を見定めないといけない。これは本当に思います。
 
しかし、一般的には説明はおろか「まだ、あの年齢じゃ分からないから」と、大人にって都合の悪い事は、何も子どもに話さずに済ませることは珍しいことではありません。
 
確かに、何でも全て包み隠さず話せばいいってものではないですが、「気持ちを言語化できない」=「何かを感じたり何かを思ったり全くしてない」ではないハズです。子どもの理解力を侮ってはいけないと思います。驚く程、大人の様子を観察して色んなことを感じ取っています。
 
当たり前ですが、言葉にできることが、その人の内面の全てじゃないですよね。もしそうなら、赤ちゃんやペットは何も感じ取ったり考えたりしてないことになるし、それは身体障がいや知的障がいの方にも同じことが言えるし、誰だって自分の内面で湧き起こり感じていることを言葉に変換して相手に正確に伝えるのは、実はとても難しいことだと僕は思います。
 
自分の大切な人やあるはずのモノが、突然目の前から無くなり、その理由はよくわからないまま時が過ぎていく。それが以前から取り上げている「あいまいな喪失」です。その衝撃とモヤモヤをずっと放って置かれて癒されなければ、シコリになって残っていきます。
 
なので、児童福祉に携わる人は、一時保護や施設入所、措置変更が起こる際、その前後に何度も重ねて状況説明をしたり、子どもの疑問や思っている気持ちを受け止めるフォローが必要なハズです。慣れ親しんだ家・地域・家族から離れて新しい所で暮らすことは「安全な場所に避難できたね良かったね」なんて単純な話しではありません。
 
 
そして、もちろん番組はナオキ少年視点で作られているので、一般の人がネット上で「なんて叔母さん酷い」となるのは仕方ありません。ただ、対人援助職として関わるなら、事態を家族システム全体として俯瞰的に一歩引いて捉えなくてはいけない。
 
冷静に考えてください。叔母さん視点に立てば、2年前に実のきょうだいを自死で亡くした「自死遺族」の当事者です。実際のところはわかりませんが、衝撃の大きさ、寂しさ、無力感、助けてあげられなかった自責の念を抱えながら生活を続ける遺族の方は本当に多いです。
 
そう言った心の整理がついていないかもしれない状況で、実の母親が倒れて半身麻痺になる。
「なぜ、こんな事になってしまうんだ」
「これからウチの家族はどうなってしまうんだ」
人間はそんなに強くありませんから、大人だって怒りや不安に押しつぶされそうになってしまうことがむしろ当たり前と思います。
 
だからと言って、その不安を親戚の子どもにブチまけていいと言うことにはもちろんなりませんが、叔母さんもケアされるべき存在であったという視点は必要かと思います。つまり、当事者に当事者のケアは難しいということ。
 
以前に、紹介した「喪失に関する神話」ですが、
   神話I    泣いてはいけない
   神話II   悲しみを置き換える
   神話III  一人で悲しみに浸れ
   神話Ⅳ 強くあれ
   神話Ⅴ  忙しくせよ
   神話Ⅵ 時間がすべてを癒す
 
まさに大人だから悲しい事があってもちゃんとして当たり前、乗り越えられて当たり前と、皆で気持ちや感情を抑圧する方向に突き進んでいくことは一般的によく起こります。
(参考【第5回】子どもの喪失によりそう 喪失体験の適切なサポート法③
 
 
さらに、祖母の視点に立てば、実の子どもが自分の家で自殺したと言う状況で、その後もそこに住み続けながら、3歳に満たない妹となおき少年の養育を担っていかないといけないという状況は、単に年齢的・経済的問題だけでなく、精神的にあまりに過酷です。
 
もしかしたら、おばあちゃんは、
「なぜ、息子(娘)は自殺しなければいけなかったのか」
「一緒に住んでいながら、なぜ気づいてあげられなかったんだ」
「私のせいで、死なせてしまったのではないか」
 
と悶々と考え、自責の念に駆られていたかもしれないし、そんな大人の姿を見た子どもが「自分のことは全て自分でしなきゃ」と思うのは無理はありません。
 
それで、祖母が倒れた時に、なおき少年は、
「僕がおばあちゃんに負担をかけたせいだ」
 
と思い、一刻も早い自立を決意したと金スマで紹介されていましたが、こう思うのは、決して叔母から言われたからだけでなく、家族全体で喪失体験が癒される機会がなく、自責と感情抑圧の連鎖が続いているようにしか僕には思えませんでした。
 
そして、このようなことは決して自死遺族だけではなく、親の離婚再婚、突然の転居が繰り返される家庭にあっても、
「お父さん(お母さん)はどこに行ったの?」
「なんで、お引越しをしないといけないの?」
というようなあいまいな喪失体験による感情抑圧の連鎖は、繰り返されているという事。
 
さらには、身体的虐待(殴る蹴る)まではなくても、自分を守ってくれるハズの実の親から、
「あんたなんか生まれて来なければよかったのに」
あんたさえ居なければみんな幸せなのに」
と存在を否定されながら暮らしている子どもが社会的養護に来ることは珍しいことではありません。
 
決してケアされるべきは、殴る蹴るだけの身体的ダメージだけではないことは明らかですよね。
 
 
また、さらに金スマでは取り上げられていないストーリーを補足すると、その後、保阪尚希氏は2007年から約1年間、芸能活動を続けながら出家します。
 
僕も当時のニュースを見て「どうした⁉︎保阪尚希と思った記憶があります。女優の高岡早紀と離婚した後でしたし、よく報道されていました。しかし、今になって、その理由に納得です。
 
それは、両親が死んだ理由を知るため。毎月、月命日になると静岡の両親の墓を訪れ手をあわせていたがその年は両親の33回忌で、仏教では33回忌が過ぎればどんな魂も天に召されるという教えがあるよう。
 
ずっと、その真実を知りたいと思っていたが、おばあちゃんにその理由を聞くことはおばあちゃんを悲しませると思い聞けなかった。だから出家して、両親と対話をすることでそのことを聞きたいと思った、と。
 
 
もちろん、LSWにも子どもの準備性がとても重要で、生い立ちや喪失の「真実」を子どもの時代に包み隠さず知ることが必ずしもプラスにならない(受け止めきれない)場合もあると思います。
 
しかし、施設入所する子で施設入所の理由がわからないために、「自分が悪いから」家族がいなくなった、捨てられたんだと思うことで、家族と離れて暮らす疑問に思う自分を納得させて、日々の生活を送っている子どもは実際にいます。
 
こんな状況下の子どもが、現在〜未来の自分を大切にしながら歩めるように、支援者として関わる大人は、いつどんな声をかけるべきなのか、それを考えるのが児童福祉に携わる支援者に求められるケアの1つ、専門性の1つだろうと思います。
 
そして、はっきり真実がわからないまでも、親や家族に直接聞いたり伝えることの出来ない気持ちを、少しでも受け止め橋渡しする役目、それが離れ離れになった家族に対してできるケアなんだろう、と。
 
 
そう思うと、普段やっている支援というのは、
宮崎空港「もしもしコーナー」の電話機のような気持ちを「つなぐ」役割なんだよなぁ、なんて思いながら飛行機に乗って帰ってきました。

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今日から仕事という「現実」に戻れるか不安です。
 
ではでは。

【第67回】未知なる世界へ

メンバーの皆さま
 
こんにちは。管理人です。
 
友人の結婚式のため、昨日から仕事のお休みをもらって、宮崎県に来てます。
 
仕事を離れてプライベートの旅をできる機会も貴重ですし、そもそも宮崎県には初上陸です。
 
宮崎と言えば「マンゴー」「チキン南蛮」そして「東国原元知事」で有名な太陽の国🏝ホントに街中がヤシの木だらけでビックリします
 
あと、この時期の宮崎は「キャンプ地」になっていて、至る所にプロ野球チーム、Jリーグチーム、
 
歓迎!
 
の文字が。ちなみに僕が宿泊してるところも…

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看板「写真撮影、サインのお願いお断り」を見ると、こりゃ、マジでいますね、鷹軍団が。
 
朝食バイキング入り口の反対のドアには「サンフレッチェ広島様」ともありましたし。
 
もしかして滞在中に誰か選手に会えたりして。
 
宮崎は、まさに「未知なる世界へ」…
 
なんですが、実はここまでは後付けの前フリで、今回コラムの題名は、行きの飛行機の中に置いてある雑誌のあるインタビュー記事の題名から文字っています。
 
現在、阿部寛主演の人気シリーズ「新参者」の最新作『祈りの幕が下りる時http://inorinomaku-movie.jp/sp/が公開中だそうでその宣伝も兼ねての阿部寛インタビューの記事。
 
阿部寛と言えば、あの日本人離れした彫りの深い顔と長身に加えて、僕も好きな『トリック』から『テルマエロマエ』『アットホームダット』『下町ロケット』などなど、幅広い演技でファンの心を鷲掴みにしている俳優さんですよね。
 
そんな阿部寛の語る「俳優論」が非常に興味深いので、インタビューの一部を紹介します。
 
 
恥を描き続ける勇気 表現の幅を広げた経験
 
人間の内面や心の動きを表現するのは、俳優の見せどころだ。時にその演技には、過去の経験や心の襞(ひだ)に刻まれた記憶が反映する。
 
「ある役者が、父親としての芝居がまったくできず苦労している場に居合わせたことがあるんです。演技には温かさが求められていたのに、恨みになってね。上手い人なのになぜだろうと思っていたら、その人には父親との温かい思い出がなかったんです。知らない間に積んでいた経験が、出てくるんだなと思いました」
 
「資質を使えるかどうか、ということは1つあると思います。僕の場合は、つか先生や蜷川先生の舞台に出させていただいたことで、自分の内側にあるものの使い方がわかって、表現の幅が広がったんです」
 
「蜷川さんの舞台稽古のときは、常に"この場にいる100人以上この俳優さんのなかで、自分が一番ヘタ"だと思ってやってきた。いつも恥のかきっ放しですよ(笑)」
 
「守りに入ったら終わり、ですからね。あえて、"自分なんか幼稚園児みたいだ"というところに自身を追い込むことで、変われるんじゃないかと信じてやってきました。実際にそうなっているかはわかりません。でも、続けてこられたのは、この仕事が好きだからでしょうかね」
 
「実は『下町ロケット』も、こんな熱い男の役は無理だと最初思ったんです。でも現場に入って、福澤監督の演出力に引っ張られた。飛び込んでみないとわからないんですね。だから、常に緊張する場を作って挑戦することが、大切だとおもっています。もちろん、色んな役をいただく中で "失敗はしない" と毎回決めてはいても、もっとこうすべきだったと考える結果になることがあります。しかし、全力でやったうえなら、失敗してもしょうがないと思える。失敗する、しないといったことを含めて楽しいんですよ。だから俳優の多くは、仕事が趣味になってしまうんです(笑)」
 
「50代になって、同じ仕事をする人たちのことに昔以上に興味を持つようになりました。"すごくいい芝居をしているけど、何があったんだろう" "なぜあの人は最近調子が悪いのかな" と、どんな精神状況で仕事をしているのかと考えるんですよね。そうしているうちに、自分を客観視する力もでてきてます」
 
 
■コメント
 
阿部さん…。あなたは、もしや臨床家?カウンセラー?という内容ですよね。
 
コミュニケーションは、言葉の文字面だけでなく、実は表情しぐさ、視線、雰囲気といった非言語情報が与える印象メッセージが、特に情緒・感情面においては大きいことは、皆さん日常生活で実感済みと思います。
 
例えば、「いいよ」という言葉も、嫌そうな顔や声で言えば「本当は嫌なんでしょ?」という事。
 
つまり俳優・役者という仕事は「自分が人にどう見られているか?」をとことん突き詰めて、自分が発する非言語情報を完全に役に寄せて、あたかも役◯◯が実在しているかのように見えることが腕がいい調子がいい、という事になるんだと思います。なので、
 
〜人間の内面や心の動きを表現するのは、俳優の見せどころだ。時にその演技には、過去の経験や心の襞(ひだ)に刻まれた記憶が反映する。
 
ということを自覚して、自分自身の過去の経験を見つめて整理して、それも演技の「資質」として利用しなくてはいけない。たぶん、演技の幅が広い役者さんは相当に自己内省、自己知覚を行なっているはず。
 
「その人には父親との温かい思い出がなかったんです。知らない間に積んでいた経験が、出てくるんだなと」
 
これは、生育歴の中で親モデルがない保護者が「自分の子どもにどう接していいかわからない」と相談するまさにソレですよね。
 
立場を支援者に置き換えると、【第61回】で感情レベル1〜3について紹介しましたが、
 
ロス・バック
感情レベル3
自分の内部から発する主観的な体験。私たちがどう感じるか。怒り、喜び、恐れなどの心の状態と、それに伴うからだの感覚は意識れている。
 
感情レベル2
それを意識しているかどうかに関わらず、他者がそれを見てとった感情。ボディーランゲージによって伝えられる。言葉にならない信号、独特の行動様式、声の高低、動作、顔の表情、軽く触られること、何かをするタイミングや言葉と言葉のあいだの間の取り方によってさえ伝えられる。多くの場合、本人たちはそれを意識していない
 
感情レベル1
感情からの刺激によって起こる生理学的な変化。例えば、脅威に対する「闘争が逃走」反応をもたらす神経系、内分泌系、免疫系の活動。意識的にコントロールされたものではなく、外からは直接見ることができない。本人の自覚も感情の表現もなしに起こる場合もある。
 
 
子どもや保護者に接する臨床現場では、相手に「このヤロー!」と怒れたり、正直「面倒くさいなぁ」という気持ちが自分の中でフツフツと湧き起こって来たときに、支援者自身その気持ちに無自覚であったり、自覚して隠そうとしても非言語の態度に現れていて「どうせ◯◯って思ってるんでしょ」と言われたり思われていることは結構ありますよね。
 
相手への「敬意や尊重」の姿勢を忘れずに…なんてカウンセリング講義の[心構え]的なところで聞いた記憶がある方もいると思いますが、かなり深い闇を抱えた子どもや親を相手にする児童福祉の現場でその姿勢を貫き続けることは、実はそんなに容易なことではないし、かなりの自己知覚と感情コントロールを必要とすると思います。
 
 
ただ阿部さんは、そういう過去の経験が自分の所作に与える「ネガティブ面」だけを眺めるだけでなくて、自分の成長に惹きつけて「ポジティブ面」にも変換して見て考える所が面白い。
 
「資質を使えるかどうか、ということは1つあると思います。僕の場合は、つか先生や蜷川先生の舞台に出させていただいたことで、自分の内側にあるものの使い方がわかって、表現の幅が広がったんです」
 
これって、臨床でもよく言われる「最後はやっぱり人間力って話しにつながると思うんです。つまり、自分が今まで人生で積み重ねて来た経験「資質」をうまく使って、相手に伝えたいメッセージを自分の非言語情報に乗せて表現する。
 
まさに、自身が舞台役者となり、相手に伝えたいことを、面接や生活という舞台上の生のやりとりを通じて感じてもらうために、我が身を演じる。
 
確かに、「親モデルがないから接し方がわからない」を言い換えると「親モデル(=温かく接してもらった経験)があるから、自分の子どもにも同じことをしてあげられる」とも言えますよね。
 
反面教師という言葉もありますが「私が受けたこの嫌な経験を、人には絶対させない」という気持ちは、その対極にあるポジティブ体験、良くしてもらった心地よさの経験があったからこそ、違和感や心地悪さに気づけるのかな、と思います。前回コラムの「おじさんのノート」にも似たようなくだりがありました。
 
そして、そのポジティブ体験は決して実親でしか提供できないわけではなくて、同居する家族親族、近隣のおじさんおばさん、保育園・幼稚園・学校の先生など、その子が一日24時間の中で受ける刺激や経験トータル全ての積み重ね。「集団的養育」とは、そういうことだと思います。
 
ただし、被虐待や被支配環境で育った子の中には、そもそも外部との接触すら制限されているケースもあって、そうなると家族や親の対人交流と比較できるモデルがないから、そりゃ支配ー被支配関係が「当たり前の日常」だし、心地悪さや気持ち悪さに気づけという方が酷です。
 
もし気づいちゃったら、逃げられない環境下で常に苦しさを感じながら24時間365日を生活しなくちゃいけないわけですから。
 
なので、社会的養護(里親・施設)にいる子は、勉強とか躾とかの以前に、とりあえず「温かさ」「心地よさ」を多く感じる生活が日常となり、これまでの人生トータルの割合として、
[ポジティブ体験]>[ネガティブ体験]
と貯金生活が始められる状態でようやく、苦しいことも「ちょっとの間(非日常)だから頑張ろう」と踏ん張れるようになるんだと思います。
 
阿部寛が、
「実は『下町ロケット』も、こんな熱い男の役は無理だと最初思ったんです」
 
ということは、児童福祉現場で「こんな状態の子ども・保護者の担当は、無理だと最初思ったんです」という状況に似てると思います。
 
「でも現場に入って、福澤監督の演出力に引っ張られた。飛び込んでみないとわからないんですね。だから、常に緊張する場を作って挑戦することが、大切だとおもっています。もちろん、色んな役をいただく中で "失敗はしない" と毎回決めてはいても、もっとこうすべきだったと考える結果になることがあります。しかし、全力でやったうえなら、失敗してもしょうがないと思える。失敗する、しないといったことを含めて楽しいんですよ。だから俳優の多くは、仕事が趣味になってしまうんです(笑)」
 
児童福祉の仕事で「失敗してもしょうがない」なんて思えない!と感じるかもしれませんが、人への不信感でガチガチに凍り付いている心や感情をどう溶かしていくか、それは緊張する場での挑戦です。
 
そして、もともと取り付く島がないんだから、少しでも変化が起こればグッドジョブ、良い変化が無ければ「このアプローチは上手くいかないことがわかった」なんて思えれば、結局その体験は成功へのヒントやプロセスの一部になり得ますよね
 
「守りに入ったら終わり、ですからね。あえて、"自分なんか幼稚園児みたいだ"というところに自身を追い込むことで、変われるんじゃないかと信じてやってきました。実際にそうなっているかはわかりません」
 
と言うように、確かにどれだけ経験を積んでも、初対面の人のことはわからないし、中堅として自分ではできても後輩に伝えることとは全然違うし、いずれ年を重ねれば後輩を教える中堅を支える立場になる。常に自分も変化・成長し続けないといけない。
 
そういう対応を通じて、臨床家として人間としての経験値を積ませてもらっている、子どもや保護者や組織に難題を突きつけられる度、臨床家として人間として成長のチャンスを与えてもらっていると、数年前から思えるようになってきました。
 
たぶん、こう思えるのも、僕自身が生育歴の中で、家庭や学校などで自分に関わってくれた大人から、僕の存在や気持ちを尊重してもらって大切にしてもらった貯金がたくさんあるから、そんな経験もポジティブ変換できるんだと思います。もちろん厳しい言葉や指導もありましたけど。
 
親や先生、人生の先輩たちが10年20年先に芽が出るかどうかわからない将来への「投資」的な関わりを僕自身にしてくれたお陰で、こうやって今の自分が、児童福祉の現場で潰れずに仕事をやってこられているんだろうなぁと思うことが、よくあります。
 
たぶん、その人たち全員に直接、その感謝を伝えられる機会はないんでしょうけど、そういう人生のバトンを渡していくのが児童福祉の臨床なのかな、と思い始めています。
 
という感じで、
「そうしているうちに、自分を客観視する力もでてきてます」し、
 
そして他の人が、
「どんな精神状況で仕事をしているのかと考えるんですよね」
 
ホントそうですね。阿部寛のインタビューを見ていると俳優・役者さんから、対人援助職・臨床家が学べる点はもっともっとあるんじゃないかなぁと思って、他の色んな俳優さんの考えていることも聞いてみたい気持ちがどんどん湧いてきました。
 
僕が、『ボクらの時代』(フジ、日曜の朝7時)
を好きな理由も、きっとそんなところから来ていたのかなぁ、なんて思いました。
 
いよいよ今日の午後は結婚式。友人の幸せオーラをお裾分けしてもらってきます。
 
ではでは。