LSWのちょっとかゆいところに手が届く「まごのてblog」

静岡LSW勉強会の管理人によるコラム集

【第90回】LSW的「プロフェッショナル〜仕事の流儀〜」7.16

メンバーの皆さま
 
こんばんわ。管理人です。
 
三連休の最終日。
 
ご覧になった方も多いのではないでしょうか、この番組。
 
プロフェッショナル 仕事の流儀
 
言わずと知れた番組ですが、今回は宇多田ヒカルの新アルバム『初恋』の制作に密着したドキュメンタリー。
 
しかし、その楽曲制作における「苦悩」や「孤独」、そして宇多田ヒカル宇多田ヒカルである「ルーツ」や「生い立ち」まで語られた内容は、もはやいちアルバムを超えて、宇多田ヒカルの半生を描く「自叙伝」のような番組でした。
 
内容は、彼女が彼女らしくいられる「ホーム」であり「聖域」である「スタジオ」を包み隠さずオープンにした中での語り。
 
しかも、2010年に活動休止してから、再婚、死別、出産、そして離婚…。自らの母を亡くし、自らが母となり、再び作品と向き合っている、このタイミング。
 
なかなか、ここまで自分を曝け出すことって簡単なことではないと思いますがこのタイミングであることに意味がありそうだとLSW的に感じてしまいます。
 
ちょっとした職業病ですね。
 
このような自身の人生についての感情の整理がされぬまま、現実生活や子育てに翻弄されて自分の感情がぐちゃぐちゃになっているような大人に、児童福祉では本当によく出会いますから。
 
 
なんて、僕は1歳の息子を起こさないようにTVの音量を下げて、宇多田ヒカルの語りを「聴いた」と言うより、字幕で語りを「観てた」状態だったんですけど、それでもかなり思うところ満載でした。
 
 
例えば、「感情」について。
 
音楽プロデューサーの父がNY(ニューヨーク)中心に生活していたので、頻繁な引っ越しは当たり前。
 
スタジオでご飯を食べる日常。友達もできず、次第に感情を表に出さない大人びた子どもになっていた。
 
そして、9歳の時。
 
自分に「怒り」や「悲しみ」の感情がなくなっていることに気づいた、と。
 
 
グサッと刺さりました。
 
これが当時の感覚として、どこまで意識化されていたのかは定かではありませんが、この状態は宇多田家だけの特別なストーリーではないですよね。
 
社会的養護に関わる子どもではなくても、大人の都合で生活場所が転々としたり、知らない大人と突如一緒に住むようになって、大人の気持ちを優先して自身の感情を押し込めて過ごしている子どもは「その場で言わないだけ」で沢山いると思います。
 
そして、ワガママを言わない「いい子」ほど、その状態が見過ごされて行きますよね。
 
 
 
ただこの先は、一般人と環境と才能の違いを感じさせる展開で、母から、
 
「ちょっとここを歌ってくれない」
 
と急に言われて、恥ずかしいからその場では断ったけど、自分で作ったものなら歌えるということで、音楽作りを始めた。
 
そうして歌ったら、両親が喜ぶもんだから、嬉しくなって作品をどんどん作る。やがて音楽が「感情」を表現する希望となっていった、と。
 
 
この展開は、母:藤圭子の意図をメチャクチャ感じて、大人視点で描くと「子どもの才能を見抜ぬいて」ということになるんでしょうけど、この番組の注目は、本人が子ども視点で「両親が喜ぶもんだから、嬉しくて」と語られている点。
 
 
親の笑顔や喜び。
 
それが、子どもにとって、どれほどの安心感、楽しみ、喜び、そして、生きる希望となるのか。
 
この当たり前と思われることを、対人援助に関わる専門家だけではなくて、子育てに関わる人すべての大人は忘れてはいけないと思います。
 
 
 
そして、宇多田ヒカルの「ものづくり」の考えもまたLSW的に共感するところが多いなと。
 
例えば、
「いろいろ弾いてみて、これと思ったらその感覚をたぐり寄せてというか、全く自分の中にないものやない場所に行くとか作るということはないんですよね。だから自分の中にあるんですけど、触れないものを取り出すみたいな。思い出そうとしていて、何かを。“いや違う、それじゃない”という感覚に一番近いです」
 
この感じって、LSWとかカウンセリングとかで、自分の内面にあるけどよくわからないものと向き合う作業に通じるものがあると思うんですよね。
 
そして、この模索して、もがく作業って結構しんどい事もある。
 
けれど、
 
「やれることをやっても本当に意味がないと思っているので、やってみてどうなるのかわからない、もしくはやれるかどうかわからないことをやるっていうのが、物をつくる現場なので、探検隊みたいな感じで入っていって、うっそうとしたジャングルなのか荒野なのか」
 
「冒険という意味では(ミュージシャンたちが)同じ風景を見ようとしてくれるので、そこへの行き方のルートを一緒に考えてくれるみたいな感じで、自分じゃ絶対できなかった、自分だけでは行けなかったところにも行けますね」
 
 
その曖昧で行先不透明なものを模索する中で、思いも寄らぬものが見つかったり、それは一人では難しくても、誰かと一緒ならたどり着けたりする。
 
一緒に冒険して同じ風景を共有する感じ。支援者の姿勢として通じるものがあります。
 
そして本人の意向を尊重しながら、その模索の過程を支えるミュージシャン達の暖かさが番組でも伝わってきました。
 
LSWの支援者も、子どもとって、そのような存在でありたいものです。
 
 
 
 
 
最後に宇多田ヒカルは、自身にとってのプロフェッショナルを尋ねられ、こう語っていました。
 
「正直であること。自分と向き合うっていうのは、そういうことですね。自分に嘘ついててもしょうがないけど、でも自分にいっぱい嘘つくじゃないですか。見なくていいものは見ないし」
 
「……っていうのじゃなくて、かっこ悪いことも恥ずかしいことも認めたくないことも全部含めて、自分と向き合うということなので。音楽に対して正直であることですね。自分の聖域を守るっていうことです」
 
 
聖域を守る、って独特の表現だなと思いますけど、僕は「自分を大切にする」ことのように感じました。
 
自分を自由に表現できる場、自分が家族と繋がれた場、自分のアイデンティティーを構築した場、そして今の仲間が支えてくれる場である「音楽」に正直にであること。
 
正直であるということは、自分に嘘をつかないで向き合うこと。自分の弱さや恥ずかしさも全部含めて、ありのままの自分にOKを出すこと。
 
これは実際、苦しい作業ですけれど。
 
 
ミュージシャンは「音楽」=「自分」なら、
 
臨床家は「臨床」=「自分」。
 
 
プロフェッショナルを突き詰めると、最後はそういう「自身に向き合う姿勢」「自分がどう在るのか」というアイデンティティーの問題に結局はなるとよな、と最近つくづく感じていたところの雑感でした。
 
「タイミング」って大事ですね。
 
ではでは。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

【第89回】脳は未来をどう考えているのか

メンバーの皆さま
 
お久しぶりです。管理人です。
 
本題の前に、更新が滞っていた期間のW杯の話を少し。
 
今回は強豪が苦戦する番狂わせが多くて面白い大会ですね。なかなか全試合は観きれないのですが、日本戦は4試合リアルタイムで観ました。
 
惜しくも日本はベスト16敗退でしたが、相手のベルギーは次のブラジルにも普通に勝ってますし、日本の躍進が今大会一番のサプライズかもしれません。
 
また「ベルギー」については、ちょうど一年前にblogのネタにさせてもらってますし、そんな育成のアプローチや歴史・文化差の観点からも興味深い試合でした。
参考)【第13回】日本文化と即興性、育成論
 
 
ちなみに、日本のW杯の歴史をさかのぼると、
1994 アメリカ大会「ドーハの悲劇
(※西野監督
1998 フランス大会 初出場 【GL敗退】
2002 日韓大会 【ベスト16】
2006 ドイツ大会 【GL敗退】
2010 南アフリカ大会 【ベスト16】
2014 ブラジル大会 【GL敗退】
2018 ロシア大会 【ベスト16】
 
と「8年周期」でベスト16に3回進出しているわけですけど、20年前のフランス大会までは「W杯出場が悲願」だった国ですからね、日本は。
 
僕が印象的だったのは、2人の選手のコメント。
■原口選手
「これまで積み上げて来たものを信じる。最後は個の勝負」(試合中の選手紹介コメント)
 
■柴崎選手
「『知識』『経験』『感覚』をさらに磨かなくては」(大会終了後コメント)
 
20年前には6〜7歳だった少年は、日本がW杯に出るのは当たり前という環境下で育ち、W杯で「戦う」「勝つ」ために海外で何を積み上げてきたのか、その一端を垣間見れるコメントですよね。
 
正直、今大会のチームの戦いは中堅〜ベテラン選手がこれまで海外のクラブで積み重ねた『経験』と『知識』(=戦術眼)に助けられた部分が大きいなと個人的には感じました。
(本当に個々の選手達は逞しかったですよね)
 
2022年カタール大会以降は、代表メンバーも大きく変わるわけですし、全体を取り仕切るサッカー協会には今回の大会で結果オーライではなく、これまでの歴史やプロセスを踏まえて4年後だけではなく、2026年、2030年さらにその先を見据えたチームの強化計画を立てて欲しいです。
 
こういう長期スパンで成長を考える視点は、児童福祉の世界にもかなり参考になるし、課題も非常に似たものがあるよなぁと、個人的には感じます。
 
 
ということで、ようやく本題。今回の紹介はコチラ。
 
脳は未来をどう考えているのかー忙しい人のための"脳手帳"を目指してー
京都産業大学HPより)
 
 
コンピュータ理工学部・インテリジェントシステム学科・奥田次郎 准教授の論文記事なんですけど、この研究は「LSW的に」すごく興味深い。
 
内容をざっくり言うと、「記憶」と「予見」は脳神経活動のメカニズムが共通している部分が多い、つまり「過去」と「未来」を考える時に使う脳の領域が実は類似している、ということなんです。
 
是非、詳しくは本文で確認いただきたいのですが、初めて記事を読んだときは「将来を考えるために過去を整理する」というLSWの意図を脳科学的に証明してくれている、そんな気持ちになりました。
 
さらに興味深い研究結果として、「遠い未来」について考える課題で強く活動する脳部位は「遠い過去」を想い出す課題でも強く活動し、逆に「近い未来」と「近い過去」とで共通する脳部位も存在することがわかってきた、と。
 
言うなれば「4年先」を考えるには、少なくとも「4年前」のことを、「8年先」なら「8年前」のことを扱える脳の使い方が出来ないと、と言うことでしょうか。
 
そして、サラッと脚注に「幼児が未来の計画を立てられるようになるのは、過去の経験を語れるようになる時期と一致することも最近の研究からわかってきている」と書かれているのも実に興味深い。
 
「将来の事が考えられない」「過去ー現在ー未来の連続性がない」なんてよくLSW実施を想定する児童が言われる状態は、先のことを予見する「脳の使い方」(=過去を思い出す)練習が足りないという捉え方もこれらの研究からできると思います
 
まぁ「過去」を語れるから「未来」も考えられるのか、「未来」が考えられるから「過去」を語れるのか、どちらが先なのか、そのニワトリ卵の関係はこれだけだと定かではないですけど。
 
少なくともLSW的アプローチは「過去⇆現在」を想起する脳の使い方をする体験になるので、結果として「現在⇆未来」を考えるような脳の使い方の練習・リハーサル・ウォーミングアップになっているんだろうと思います。
 
逆に「未来」を考えることから入る「CCP(キャリア・カウンセリング・プロジェクト)」や「未来語りのダイアローグ」と言ったアプローチは、過酷な生い立ちの子どもが過去を振り返ることの脳の使い方の練習・リハーサルになっているんだろうと想像します。
 
やはり大事なことは、その人の状態に合わせてバランスを整える感覚なのかな、と思います。
 
よくLSWを検討するような社会的養護の子どもは「積み重ねができない」なんて支援者から聞くことがよくあると思います。しかし、それはこれまでの生い立ちの中で、その場その場の場当たり的な対応を積み重ねざるを得ない結果として、出来上がった「脳の使い方」の状態とも言えるかもしれません。
 
その日を暮らすことに精一杯な人に数年先のことを考えろなんて到底無理な話で、今の生活が落ち着いていて今その瞬間の心配なんてせず「今日はどうだった?」「昔はこうだった」なんて振り返りができる余裕がないと、目の前の先の先の先までの長期計画は考えられないだろうと、思います。
 
もちろん、知的能力による限界は少なからずあるとは思いますが、知的な能力が低いからと言って将来の夢や希望が持てないというのはやはり違うと思うんです。それは現在の負荷が高過ぎて過去や未来のことなんか考えられない「状態」や「経験不足」である可能性はないのかと。
 
歴史に学ぶ、文化を築くとは、一つ一つのつながり連続性を意識する俯瞰的な視点と、そうは言っても目の前のことを疎かにしないで一つ一つ集中するピンポイント的な視点と、カメラのズームを寄せたり引いたり、そう言う視点の切り替えをしつつ、一つ一つを丁寧に確認しながら積み上げていく作業ではないかと、僕は思っています。
 
それはそんなに高度で複雑なことではなくて、「将来、日本代表になりたい」とかいう憧れやモデルがあったり、「これ、また食べたい」「今度あのお店に行きたい」とか「去年の夏休みはコレやった」なんて思い出話しであったり、たわいもない過去や未来についての対話の積み重ねが、大事なことを振り返ったり、具体的で現実的な計画を立てたりする「脳の使い方」の練習にきっとなっている。
 
そして、どうしても対人援助は生活の中の「目の前」の対応に追われがちですけど、サッカーの「ハーフタイム」に前半を踏まえた作戦会議をするような視点やタイミングが、対人援助にも必要だと僕は思います。
 
1年先を考えるには、少なくとも1年前からの流れを、5年先なら5年前からの流れを、と言う風に全体の歴史の流れの中で、現時点までどういうプロセスで辿り着き、これからの後半はどう進んでいくのか。すぐに本人がこの視点を持てなくても、少なくともこのような体験を提供する支援者側には、この視点を持った関わりが必要ですよね。
 
でもサッカーで言えば、目の前の判断と対応にに瞬間瞬間追われる「選手」である当事者や担当者のみんながみんな試合中にそこまで俯瞰的になれないので(だから出来るプレーヤーは凄い)、何かのきっかけでハーフタイムのように「一度立ち止まってみる」機会を意図的に設ける必要性は大きいのではと思います。
 
よく「本人が言い出すタイミングで」とは言うのですが、熱くなるとなかなか自分では止まると言えないのが人間です。なので、いざ形勢が悪くなってから慌てふためくのではなくて、「このままでOKか」「これから、どうする?」なんて投げかけて確認する機会を意図的に、定期的に、計画的に設けておいた方が良いだろうと個人的には思うんです。
 
速く走ったり突き進むエネルギーも大事ですが、いざという時に「立ち止まれる」と言うことが安全性を高めるし、安心感を生むので、結果として、目の前のことに迷わず集中できることに繋がると個人的には思います。
 
例えば、車の運転もタイミング良くアクセルとブレーキを踏むには、前方確認と後方確認の視野が取れて、出たとこ勝負ではなくて経験から予測ができて、はじめてコントロールの効いた安定的なドライブになりすよね。
 
よく「困ったら言って」「何かあったら相談して」って何気なく言っちゃうと思うんですが、意図としては「困ってどうしようもなくなってから相談して欲しい」わけじゃなくて、本当は本当に困る手前、何かヤバいことが起こりそうな時に一緒にどうするか考えたい。
 
しかし、そうするには、その人が少し先の「予測」「予見」が出来て行動のブレーキをかけられなければ、事が大きくなる前の相談はありえないわけで。
 
「なんでこんなになるまで言わなかったの⁉︎」と言う前に、それ以前の前方後方確認の「見る」練習があって、アクセルとブレーキを「踏む」力やコントロールを伸ばす、一緒に練習するような関わりが大人側にあったのかを考えないといけないと思います。
 
なので、「記憶」と「予見」の脳活動が類似しているということを踏まえると、いざ困った時に対話を始めるんじゃなくて、日常生活の中で
 
「今日は学校で何したの?」
「昔こんなことあったよね」
「去年の夏休みはあそこ行ったね」
 
なんて何気なく対話することの意味って、とてつもなく大きい気がします。
 
【現在の話し】↔︎【過去・未来の話し】
 
を会話の中で行ったり来たりすることは、過去や未来を考える「脳の使い方」「脳の素振り」的な練習になっていると思うから。
 
そんな打算で日常会話をするのも嫌ですけど、日々の関わりにそんな意味付け価値付けをしてみても「LSW的に」面白いかなと思いました。
 
ではでは。

【第88回】ベビザらスで見つけた「男の育児」

メンバーの皆さま
 
こんにちは。管理人です。
 
この前の日曜日、はじめて「ベビザらス」に行きました。1歳3ヶ月の息子を連れて。
 
「ベビザらス」は、その名の通り「トイザらス」の赤ちゃん版・拡張版って感じで、普通のトイザらスのフロアに併設されている、オムツとかベビーカーとかアンパンマンラーメンという謎のメニュー(笑)とか、とにかく0歳以降の乳幼児用品なら何でも揃うぜ!的な感じのお店です。
 
最近、買い物はめっきりAmazonに依存していますし、家電量販店とかドン・キホーテとか何でも揃うお店も増えて、オモチャ屋さん自体が少なくなってきたかなと思います。
 
オモチャ屋さんなんて何年振り?いや何十年振り?最後に行ったの何歳と時かな?というくらい久しぶりだったのですが、
 
いや〜、面白かったです!
 
最新のオモチャとか幼児イスとか、こんな感じになってるのかと。シーズン推しの家庭用プールなんて、屋根付きの家みたいなやつとかスベリ台付きのやつとか、知らないうちにビニールプールがめちゃめちゃ進化してる。
 
やはり実物を見て、触って、感じると全然違いますね。
 
実際にそんなプールは大きすぎるので買わないんですけど、想像しただけでワクワク楽しい気持ちになりましたし。
 
前回コラム「オープンダイアローグ実践対話ガイドライン」で、対話の中で自分を感じることの大切さやトレーニング方法の紹介がありましたが、実生活レベルではこういう体験なんだと思います。
 
そして、気を付けないといけないのは、実際に足を運ぶって渋滞とかあるし面倒くさいんですけど、ネットやTVで生活が便利になる世界で生きていると、この様な「五感」を使って感じる場は、どんどん減っていってしまいますよね。
 
なんて思ってたら、出口付近で面白そうなフリーペーパーを見つけたので、本題はソレから。
 

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村田諒太選手」好きなんですよね。フリーマガジンだし、ついつい手に取ってしまいました。
 
父親の子育て雑誌『FQ JAPAN』のダイジェスト版で、左上に「トイザらスベビザらス」のロゴあるので全国の店舗に置いてあるんですよね、きっと。
 
雑誌の8〜9割は抱っこ紐とかベビーカーの宣伝なんですけど、合間合間に入っているインタビュー記事がなかなか面白い。
 
今回は紹介する記事は、この3つ(タイトルは管理人アレンジ)。
村田諒太のコーチ体験と子育て観
②育休リアル語り人「うがえり」さん
③子どもとの対話とアクティブラーニング
 
話題を欲張って3つも書くもんだから、少々長くなってしまいました。時間がある時に眺めてください。
 
 
 

村田諒太(プロボクサー)

「子供の夢に親の口出し無用」
 
村田選手については説明不要と思いますが、2010ロンドン五輪で「金メダル」を獲得する前、実は2006北京五輪に出場できず一度「現役引退」してるんですよね。
 
で、現役引退後も母校の東洋大学の大学職員をしながら大学ボクシング部のコーチを続けるわけなんですけど、2009年に不祥事で部が活動停止になったと。今のレスリングやアメフトみたいな報道のはされてないですけど、そうだったようです。
 
その時、自分でやると決めてボクシングをやっている子は大学外で練習できる道をなんとか探したと。一方、親にやらされていたり、親の口出しが多い子はチャンスとばかりに「部を辞めよう」としたと。
 
そういう子が何か失敗した時の言い訳は、
「俺はこんな人生を歩みたくなかった」
ですからね、と。
 
そんな経験もあり、村田選手は子育てにおいて、
・物事を嫌いならないようにサポートすること
・親が子どもの世界に入り過ぎないようにすること
この2つは常に意識している、と。
 
 
これはLSW的にかなり考えさせられる話しですよね。
 
そして、この不祥事を機に現役復帰した村田選手にとっても「自身の在り方」について深く考えさせられる出来事だったのではないでしょうか。
 
その後の金メダル獲得、プロ転向、世界チャンピオンと駆け上がる村田選手の活躍は皆さん、ご存知の通りですが、数々のインタビューで見られる自分を飾らない姿勢、自分の弱さを隠さずに向き合う姿勢、ブレないメンタルの一端を垣間見たインタビューでした。
 
 
 
次に紹介するのは、この人。

■魚返洋平(電通コピーライター)

 
「うがえり」さん、と読むそうです。珍しい苗字ですよね。あの過労死ニュースで記憶に新しい広告会社「電通のコピーライターさんで、「育休リアル語り人」として、半年間の育児休業についてのこんなコラムを連載されている方です
 
電通報「男コピーライター、育休を取る。」
 
雑誌はこのコラムの短縮版・ダイジェスト版という感じでなんですが、さすがコピーライターだけあって言葉遣いがキャッチーで面白い。
 
例えば、「いきなり結論!」と吹き出しがついたタイトル
『育児は当たり前にできない!
夫婦ですることでより絆が深まる』
 
が一番に目に付くところあって、0〜3ヶ月の育児のリアル24時間の細切れタイムスケジュールが表にしてあったり、想定外の反射的な対応に追われてばかり「き、キツすぎる…」と無力感にさいなまれる日々がセキララに綴られています。
 
そんな過酷さの中、夫婦で同じ景色を見られたことで、部活でハードな練習を共に耐えたような強い仲間意識や絆がうまれ、感覚を共有できる夫婦の共通言語がたくさんできた、と。
 
これってリアルな生活場面での「プロセスの共有」や「共に変化にすること」についてのわかりやすい例だと思います。対話は言葉のやりとりだけではなくて、非言語のやりとりや体験の共有によって深まることの実例かと思います。
 
また「うがえり」さん夫婦の育児造語はユーモアがあって面白いですし、24時間タイムスケジュールも電通報コラムにありますので是非でリンクから探してみて下さい。
 
内容もさる事ながら、その表現力や言葉選び、HPのデザインといった「見せる工夫・伝える工夫」も非常に勉強になるなと思いました。
 
 
最後は、この人。

■宝槻泰伸(探求学舎代表)

「対話とは、未来のビジョンを一緒につくっていくプロセス」
 
宝槻氏は高校退学〜大検取得〜京都大学という経歴の方で、大学卒業後に探求学習を柱とした学習塾「探求学舎」を起業した人物です。
 
「対話」「ビジョン」「プロセス」という言葉は、この数年の僕のテーマ的なワードなので「お⁉︎」となるわけです。
 
下の宣伝で、
〜FQ JAPAN雑誌版(500円)では、夢を見つける力の大切さや、話題の「アクティブラーニング」について特集。目からウロコの宝槻先生のインタビューは必見!
 
と書いてあるんですけど、貧乏性で500円が惜しいので、ネットに上がっている別の対談を読ませていただきました。
 
【宝槻泰伸×矢萩邦彦】対談1「これからの教育を考える」~興味開発で想像力を育む探究型学習の可能性
 
最近コラムでも取り上げている「アクティブラーニング」は、2020年に変わる学習指導要領の軸の1つになっていると思いますが、そもそも「アクティブラーニングって何?」という根本的な疑問について議論を深める対談になってます。
 
で、読み進めていくと、LSW的に「おやおや〜?」と言う内容のオンパレードなんです。
 
インタビューの一部を抜粋すると、こんな感じ。
 
 
〜要は子どもに自分の人生を自分で決めて欲しいと思っているし、自分の好きなことを見つけてチャレンジして欲しい
 
好きなこと見つけてチャレンジするっていう子どもの将来に寄り添おうとしたら、能力だけじゃ無理で、その能力を何に使いたいかっていう、自分がやりたいことを見つけるってプロセスが必要
 
〜つまり自分が何を知りたいのか、何をやってみたいのかっていう興味の的を一緒に考えてあげる。今まででいうと進路創造みたいな感じですね。そういう役割・機能をこれからの教育って持つ必要があると思ってるんです
 
〜自分が何者なのかをまず知ることが大事。「何がやりたいの?」「分かりません」っていう子が多いんですよね。
 
〜まず何を学んでもらいたいかというと、「自分を知る」ということと、「他者を理解する」ということ。話を聞いて、理解して、共感して、「仲間を増やしていく」ということ。その力が今後すごく大事になって行くだろうと思っているんですね
 
〜やっぱり「ワクワク」ってキーワードはすごく大事で、学校がつまんないとか塾がつまんない子って、すごくいっぱいいるわけじゃないですか。それはすごく残念なことで、なんでつまんないのかっていうと、絶対に教えてる方が面白くないと思ってることを教えてるんですよ
 
〜面白いドラマやストーリーっていうのを見つけてきて、それを子どもたちにシェアするっていう。「どう、コレ。ヤバくない?」みたいな。要するに映画見たときに、興奮して友達に語りかけるような、あんな感覚で自分は授業している。
 
 
あれ?
 
これってLSWで良く議論に上がるような、
 
「肯定的な未来の想像」
「自分とは何者か」
「ストーリーをシェアする」
「対話を通して関係を作る」
 
という話題とほぼほぼ重なってますよね。
 
このインタビューでは、これまでの紋切り型の進路指導をバッサリ切っていますが、これは決して笑えない話しで、社会的養護における自立支援でも同じことが起こっていると思うんですよね。
 
もうこうするしかないから、これで頑張れみたいな。確かに現実はそうかもしれないけど、そこに至るまでに、本人の自己理解や状況理解を深めて「未来のビジョン」を共に創りあげる対話がどれほどなされてきたきたのか。
 
その選択・決断に至るまでの気持ちの整理、意思決定のプロセス次第で、その後の生活で本人が主観的に描くストーリーはまるで別物になるはず。ここまでやったなら、そこまでやってくれたのなら仕方がないと、[過去〜現在のプロセス]に気持ちに区切りがついて[未来]に気持ちが向けられるのか。
 
そして、それは「生き方」「在り方」を考えることだから、1つの正解があるわけではないし、答えのない不確実なものに耐えながら対話を続けることでしか自分の納得する区切りの付け方や着地点は見えてこないと思います。
 
宝槻氏はインタビューの冒頭で、AO入試導入で教育が「ようやくまともな方向に行く可能性が出てきたな」と言っていますが、ホントそうだと思います。
 
「アクティブラーニング」って、1つ間違えると実習系の授業を増やして「あとは各々で感じろ!」的な丸投げになる危険性も僕はあると思っています。アクティブ=能動的ということなんでしょうけど、宝槻氏のいう「興味開発」はされずに「興味を持つか持たないかは、あなた次第です!」なんてことになりかねない。
 
そして、興味をそそるようなアプローチがあって、その体験の後に「どう感じた?どう思う?」という対話のやりとりを通じて自己理解や他者理解を深める作業があって、はじめて深みが出るものだと個人的には思うし、そうなると大人には対話を進める技術が求められるわけです。
 
議論や討論ではなく「対話」です。何か正しいとか、誰が勝つ負けるではなくて、多様な価値観に気づいて認めて、受け止め咀嚼する体験です。
 
こう言うような[興味を惹く力]+[聞く力」+[質問力]+[ファシリテーション力]が、LSWの支援者には必要だと思っていますし、学校の先生はコレを子ども集団に対して一人でやることを求められるわけですから、これは大変だと思います。
 
もちろん今までも対話を大切にしてくれている現場の先生はたくさんいますけれど、これまでの教育課程を受けてきた大人側のマインドと体制がいかに変われるのか。子どもよりも大人側が変われるかが問われていると思います。
 
教育界では、トップダウンで子どもも大人も一緒に変わって創り上げる対話プロセスの重要性が打ち出されて、2020年に変革の年を迎えます。
 
医療では「オープンダイアローグ」が黒船のようにやってきて、服薬中心の医療にメスを入れるようなボトムアップの普及活動がじわじわ始まっています。
 
障害福祉では、当事者の自己決定、意思決定が盛んに言われるようになってきています。
 
さて、児童福祉、社会的養護では、今後どんな文脈で「対話」の重要性が共有されていくのでしょうか。
 
ニュースで取り上げられている東京の死亡事例を受けて、さらなる虐待対応の強化、警察や他自治体との連携強化、受け皿となる里親・施設の強化が、もともと「新しい養育ビジョン」で言われていたことを、総理から改めて打ち出され加速しそうな様相となっています。
 
その強化は、単なる虐待の事後対応の「取り締まり」「指導」強化のみ方向性だけで語られるのではなく、虐待しなくてもいい家族支援、子育て支援自立支援につながる十分な「相談」「支援」「対話」ができる体制への強化につながって欲しいなと陰ながら思っています。
 
ではでは。

【第87回】オープンダイアローグ対話実践ガイドライン

メンバーの皆さま

こんにちは。管理人です。

突然ですが、
【第34回】「フィッシュボール」
で紹介した「金魚鉢」のような二重の輪になる話し合い形式を覚えているでしょうか?

そのコラムでは「リフレクティング」と言う対話技法の紹介や、最後に「オープンダイアローグについてはまたの機会に紹介します」なんて書いたのが昨年9月でした…。月日が流れるのは早いですね。

そんなこんなしているうちに、こんないい冊子が公開されるようになっていました。

それが表題のコレ、

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(第1版 2018.3)

オープンダイアローグを広く普及するために作られた冊子で、「オープンダイアローグ・ネットワーク・ジャパンHP」からダウンロード可能です。


ここには、オープンダイアローグの基本的な考え方、そして対話技法である「リフレクティング」「フィッシュボール」等についての説明と練習ワークについて書かれています。

コレ本当にわかりやすいですし、何が良いって、文字が少なくて冊子が薄い!

すぐに読めちゃいます。

ちゃんと広い普及を考えてる方は、読み手に最後まで読んでもらう配慮に富んでいて流石だなぁ、と思います。


「そもそもオープンダイアローグって何?」と思った方は是非ガイドラインを見ていただきたいのですが、創始者のひとり、ビルギッタ・アラカレさんの言葉を借りると、

「理解を共有すること、『これが答えだ』というものはなく、答えを一緒に作り上げていくこと、それが一つのプロセスにしか過ぎないということ」

ということで、この言葉だけでもLSWの考え方や実践と重なっていることが伝わるかと思います。

そして、オープンダイアローグは単なる技法ではなくて、「サービス提供システム」であり、その背景にある「世界観」でもあると。

世界観とか言われると、ちょっと仰々しく聞こえるかもしれませんが、ガイドラインに書かれていることは支援者としての基本的な心構えというか、対人援助とは、目の前の人との関わりの中で、何のために誰に何を提供しようとしているものなのか?そんな根本的な問いへの整理とそのトレーニング方法を示してくれている、そんな風に僕は受け取りました。

また、
〜オープンダイアローグの対話実践は医療機関に限らず、福祉や教育など、あらゆる対人支援の現場で応用することが可能です

ということで、もちろんLSWにおける対話において参考になる点が非常に多いですので、今回はガイドラインを感想メインに紹介したいと思います。
(詳細は是非ガイドラインを参照ください)


具体的なところで見ると、例えば、
[オープンダイアローグの7つの原則]
  1. 即時対応 
  2. 社会的ネットワークの視点を持つ 
  3. 柔軟性と機動性 
  4. 責任を持つこと 
  5. 心理的連続性 
  6. 不確実性に耐える 
  7. 対話主義

について、それぞれの項目の「考え方」だけでなく「まず目指すこと」という補足を合わせて書いてあります。それも、わずか数行でまとまっていて、初めて見る人でも明日からでも出来ること、やってみようと思える配慮を感じます。

ちなみに「まず目指すこと」の一部はこんな感じ。
〜ニーズに合わせてできるだけ即座に対応する
〜大切なつながりのある人はなるべく招く
〜今ある制度の中でできる工夫を何でも試す
〜異動等があっても、可能な限り誰か 1 人はチームに残って橋渡し役となる

これらはまさにLSW実践でも必要だし、実際にしていることかな、と思います。

また、最後の2つ「不確実性に耐える 」「対話主義」については、オープンダイアローグの根幹をなすものだから“当面の目標”を示すことはしなかったというメリハリのつけ方で、その内容は、

〜答えのない不確かな状況に耐える。
〜すぐに解決したくなる気持ちを手放す。
〜葛藤や相違があったとしても、その場にいる人々の多様な声を共存させ続ける。 
〜対話を続ける中でこそ、そのクライアントと家族ならではの独自の道筋が見えてくる。
〜対話を続けることを目的とし、多様な声に耳を傾け続ける。解決はその先に現われるものである。

と、かなり本質的なもの。この内容は以前のコラムで取り上げた「あいまいな喪失」の話とかなり重なる部分が多いよなぁ、なんて読みながら思いました。
※【第11回〜第30回】あたりを参照ください。

それにしても「対話を続けることが目的」という言葉には心を射抜かれました。そうなんですよ。対話を続けられる=関係が途切れない、ということが本当に意味があることなんですよね。

特に、LSWを検討するような社会的養護に関わる児童は、生い立ちの中で居住地や養育者がコロコロ変わるような喪失体験を繰り返していますから
「特定の人との関係やりとりが続いていく」
そんな体験が人生に与える意味の大きさは言うまでもないと思います。

また、やりとりが続く中で、その人の考え方や価値観、またお互いの価値観の相違も見えてくる。それが対話だと思います。そのお互いが分かち合える部分もそうでない部分も両方あることを理解する、それを丁寧に聞いて共有していく相互理解のプロセスが信頼関係構築の第一歩だと、僕は思います。

そして、それは安全な場における安心感に包まれたオープンな対話の中で、言葉や表情のやりとりや空気感の共有があって、たとえ言葉にならないとしても相手の本音や真のニーズを感じ取ることができるんだと思います。

よく「アレが心配、コレが心配」と言って何とかしようと動きたがる人は少なくありませんが、最終的に当事者の意見や価値観が盛り込まれていない支援計画は一方的な支援の押し付けだと思うし、それは相手の主体性や問題解決のために考える力を育む経験を削いでいる可能性だってあります。

じゃあ、相手の「言いなり」になればいいのかということではなくて、考え方や価値観の違いを尊重した「対話を続けること」が大事。それは一方が一方を一方的な価値観で説得するのでなくて、双方向のコミュニケーション。

相手の考え方や心情を相互理解する「対話」のやりとりの中で、お互いが目標を共にした1つのチームとなり、チームとしての考え方や価値観を共に作っていくプロセスなんだと思います。

ということで、
「研修や指導のためのガイドラインp.17)」
というページには、中堅〜ベテランには耳が痛い話が書かれています。

例えば、
■教える者と学ぶ者は対等の関係を保つべき。
■教える者が場の主導権を取り上げて、自分自身の専門的なやり方で「正解」を指し示したいという誘惑を感じたらそれは治療においても研修においても、つまり対話主義にとって危機的状況であるということを意識する。
■教える者が「重要なこと」や「正しいと思われること」を学ぶ者にそのまま「教え」たいという誘惑に対しては、禁欲的であることが望ましい。
■あるメンバーの発言に不適切な傾向がある、あるいはミーティング全体が行きづまり停滞していると感じられた場合は、メタコミュニケーション、すなわち「対話についての対話」を試みる。

端的にいうと「教える側が偉そうに正論や知識をダラダラ語ることをやめろ」と言うことなんだろうと思います。概ね、その場の安全感や安心感が損なわれる時、だいたい相手の非言語的反応を無視して話し過ぎている、それは不安の表れか自己陶酔している場合が多いかと思います。

相手が話しをしたそうにしているのに一方的に長々話を続けたり、聞きたいのはその話ではないと表情で訴えている(場合によってはストレートに言葉で伝えても)のに、話し手が話しを辞めないことって思っている以上に多いし、ついついやってしまいがち。

そうではなくて、あくまで教える者と教わる者であっても双方向の対話が大切なんだと。僕はこれを「関係性の連鎖」とよく言うのですが、最終的には「保護者ー子」の間でして欲しいコミュニケーションを、まずは「支援者ー保護者」でその体験を提供して欲しいし、そうなるためには職場内や関係機関同士の「支援者ー支援者」関係でその体験を提供して欲しい。

相手の考え方や価値観を尊重した安全な対話です。支援者自身がそのような原体験がなければ、現場の最善の担当者が家族の大変さに寄り添って安全な対話の場を提供することなんて出来るわけないと思います。

特に「子ども」に接する時は注意が必要で、概ね子どもを教えたりコントロールしようとする関わりに大人は慣れ過ぎています。これは、前回コラムで言うと、理屈的な[左脳]での関わりです。

だいたい自分が他人から受けてきた扱いを、他の相手にしてしまう「関係性の連鎖」「関係性の再演」は起きてしまうもの、そのつもりが当人になくても。じゃあ、逆にそれを利用して「良い体験の伝言(シェア)ゲーム」にすればいいと言うのが僕の発想です。

良い体験とは、もちろん相手を尊重した安心な対話の[快]の体験はもちろんですが、実際に起きる不確実な事態や葛藤場面を抱えてながら安全を維持した対話を続けて相互理解やお互いのニーズを深める体験を共に作るという[不快→快]や安心のリカバリー体験も含みます。


ですので「リフレクティング・ワーク」(p.19
の説明として、例えば、

▼話し手は 「今この瞬間に、心の中にある思いや身体に起きてきた反応」について話します。
▼聞き手は「話を聞いてどんな感覚が自分の中に生じたか」に注意を向けながら聞きます。
(その感覚をたよりに相手に応答するので、とても重要な作業になります)

▼お互いに「今この瞬間の自分自身」に注目しながら、話すと聞くを繰り返して思いをシェアしていきます。自分の思いが十分に受け止められたか、そのときにどんな感覚が生じたかについても後でお互いにシェアしてみてください。受け止めてもらうことで安心・安全な感覚が生まれると理想的です。

なんてことが書かれています。受け止めてもらうことで生まれる安心・安全な感覚って、以前コラムで触れた、子育てにおける非言語的な応答や同調行動によってオキシトシン泌が起こっている感覚に近いと思うんですよね。

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そうなると、ワークで鍛えようとしていることは、相手の様子を伺って、非言語的な応答をするスキル。それは泣いている子どもを見て「何を感じているかな?」と察して、ニーズを満たしてあやすような応答、つまり情動調律(よしよし)に近い感覚。

それは[左脳]の理屈でアレコレ何を言おうと考えるのではなくて、その場や相手の「安全な感覚、安心感の揺れ・ズレ」を[右脳]つまり自分のこころや身体感覚の変化で感じ取って、それに適切に応答しながら、お互いの言語と非言語の対話によって場の安全、こころの安心のコントロールを取り戻していく敏感かつ繊細な感覚的共同作業だろう、と思います。

あと、オープンダイアローグにおいて場の安全を維持するシステムとして役立つなぁと実感していることとしては、「リフレクティング」ワークに象徴されるような三項関係を維持する、必ず三者の中立的立場のファシリテーターがいるというのも。

◯⇆◯
◯↗︎

二項関係では対立した時に「責められている」と感じやすいし、就職面接みたいに複数人と対面していたら余計にそうです。視線も固定化しがちで感情を切り替えようと思っても、脳が切り替わらないのでコミュニケーションパターンを変化させるのってホント難しいと思うんです。

それを「ちょっと相談するので、聞いててください」と一旦ブレイクして、相談者の目の前で支援者同士が話し合う。

◯     ◯

そうすると、相談者は一旦会話から離れて距離ができるし、[左脳]優位で視野が狭まっていた状態から、全体的な把握をする[右脳]が働いたり(カメラのズームを引くような感じ)、なんなら左右の会話の行き来を眺めるので、それが視線誘導につながって脳の偏りをほぐすような効果もあると思います。

そして、重要なのは、リフレクティングで話している内容も[左脳]的な理論や知識による解釈ではなくて、[右脳]的に感じたこと自分の中で起こった感覚・感情について語ること。その事によって、場の雰囲気やチャンネル全体が、あたまの思考中心ではなくて、自分のこころや身体の内側に注意が向いて内省を促すものに変化していくと思います。

そして、自身のこころや身体感覚の語りというのは、非常にオープンで包み隠していない印象を受けるというか、正直で誠実な語り、そこまで思ってる事を語っていいんだという安心感につながっているんだろうなと実体験から思います。

そんなオープンな感覚的なやりとりを磨く練習方法について、このガイドラインはわかりやすく説明してくれていますが、実は静岡LSW勉強会でコンセプトにしていて、「場の体験」で狙っていることはまさにこんな事だったりします。

なので、このようなガイドラインが出てくれると、非常に説明の参考になるし、正直助かりますね。

是非、ガイドライン参考にしてみてください。

ではでは。

【第86回】対人援助と「左脳右脳の使い方」

メンバーの皆さま

こんにちは。管理人です。

昨日、36歳の誕生日を迎えたのですが、驚くほど自分が40歳になるという実感が無いです…。気が付いたら、20後半の後輩が「え?8コ下⁉︎」という感じです。

今回紹介するのは、そんな僕にピッタリの記事から。

会話が弾まない原因は「脳の使い方」にある!

記事の内容は、歳を取ると若い人の話が聞けなくなる、と言うもの。

実感がないと言いながら、40近くになって来ると偉そうに物をいう機会も時々あって、内心では自分のことを「何様だ」と思うことがあります。(話を聞いてもらえない反面教師的な体験からの「気づき」かもしれません)

ホント、いつまでも子どもや若い人の話しを興味を持って耳を傾けられるオトナでいたいものです。

本題は、そんなボヤキではなくてですね。話が聞けなくなるのは[脳の使い方]にあると言うのが今回の話しです。

著者の加藤先生によると、学校教育やら受験やら就活やらで現代人の8割は左脳を使いすぎていて、論理や言語に偏ったアンバランスな「左脳グセ」「脳のゆがみ」が生じている、と。

詳しくは記事を参照いただいて、ざっくり言うと、人間の脳は[左脳]と[右脳]に分かれていて、主に、
[左脳]言語・論理的な処理
[右脳]感覚的なこと、映像系の処理
をするときに活発になると言われています。


記事内のエピソードで言うと、こんな感じ。

〜私は小児科医をしていました。診察で子どもと接する際にはそれ用のモードになります。「先生大大大好き!」「いい子ちゃんだねー」という会話が続くわけです。すると、診察後の看護師(成人女性)との会話にとても苦労します。そんなテンションで何時間も診察しているので、ナースセンターに戻って、モードを切り替えるのに時間がかかるわけです。脳が子どもと接する仕様になっているので、元に戻りにくくなっているのです。

〜その後、小児科の臨床を辞めて渡米しました。子どもと接する時間がなくなり、同世代の研究者と長時間過ごしました。あるとき突然子どもたちと接する機会があったのですが、なかなか、「いい子ちゃんだね~」というモードの言葉が出てきませんでした。前できていたことがまったくできなくなったわけです。


このエピソードは「右脳」と「左脳」の使い方やバランスの切り替えをわかりやすく説明してくれているなぁ、と思います。

「右脳」は感覚的なチャンネル。子どもとのコミュニケーションは感覚的なもの中心。非言語的な[表情][手振り・身振り]などを通じた感情・感覚的なやりとり。特に言葉が話せない赤ちゃんとのコミュニケーションはこの傾向が一層強くなる。愛着行動もそうですし、言葉が通じない外国人・赤ちゃん・ペットとの意思疎通のアレです。

一方、「左脳」は思考・論理的なチャンネル。大人のやりとり、特にビジネスの世界は思考・論理のやりとり中心と思います。文字情報の羅列を解読して理解することや合理的の説明がつくロジックに従った客観的判断が求められます。

しかし、実生活では、
「頭ではわかってるんだけど…」
「言葉じゃなくて誠意を見せろ」
なんて、論理と感情がつながらないと納得して行動に移せないなんて事は良くあります。

この[左脳]と[右脳]の使い方の偏り、つながり、二刀流は、これまでのコラム注目記事で触れている内容を[脳の使い方]という切り口で説明したものかな、と思います。

例えば、
【第48回】神田橋処方とLSW、より
・精神療法でいろいろ難しいことをいうのは全部、根本の外なんです。ちょっとマニアの世界。やはり精神療法というものも本当に治療である限りは、犬や猫にもできる部分が本質。人間にしかできないのは趣味の世界でしょう。


【第31回】雀鬼 桜井章一 × 羽生善治 「負けない生き方」より
・考えすぎると、怪我が多くなるんです。心の怪我、考え方の怪我が。考えるのにも怪我があると僕は思うんです。
・僕が見てて、こいつ考え過ぎて怪我してやがるなって人がいっぱいいる。自分は頭がいいとか、考えることはすべていいことだと思い込んで、精神や肉体をおかしくしてしまっているんです。


【第18回】「cure」と「care」の違い、より
・「治療」「癒す」と訳される言葉に【heal】があります。語源はギリシャ語の【holos】「完全な姿(本来のあるべき姿に戻る)」だそうで、healに状態を表すthを付けて【health】「健康」になる、と。 
・一つに繋がっている心身のバランスや流れの「偏り」や「滞り」を整えて、心身が本来の持っている健康的な状態に「調整」するのが、僕の【heal】イメージです。


と言った感じ。記録って、どうしても文字のやりとり中心になってしまうのですが、人間同士のやり取りは、その行間や文字に乗せた[非言語のやり取り]が同時進行で行われている。表情、言い方、雰囲気、間といった要素です。これらの読み取りや発信する時に使う脳は、感覚的なものを扱う[右脳]メインとなるわけです。

しかし、現実的な人とのやりとりの中では「右脳・左脳」は同時進行で稼働しているということ。当たり前といえば当たり前ですが。

そして、僕が思うこととして、対人援助の支援者に求められるスキルは「右脳」「左脳」のコミュニケーションの割合を、相手のニーズ(チャンネル)に合わせて調整・調律することだろうと思っています。

言葉にならない、言語化できないけど、相手が求めている応答・ニーズをいかに汲み取れるか。期待している応答が「知識・理解」を深める左脳的やりとりなのか、それとも赤ちゃんとの情動調律と呼ばれる「関係性・安心感」を深めるような非言語的よしよし、相手の状況を察して表情や音リズムで応答する右脳的で感覚的なやりとりなのか。一対一の関係構築、リアルな最前線の対人支援はこの使い分けに尽きると思います。


ただし、左右の脳をバランスよく使うって、そんなに簡単ではなさそうです。例えば、

自閉症に男子が多いのは?
(国立特別支援教育総合研究所HPより)

を参照いただきたいのですが、

〜脳の構造や機能に関する男女差については、まだ十分に確立された所見とはいえないものも多いので、留意することが必要

との但し書きがある上での話としてお読みください。

左右の大脳をつなぐ「脳梁」という部分があるのですが、この脳梁が男性より女性の方が大きいことは各研究で言われます。

で仮説的にですが、自閉症は男性の方が多い(確か女性の3倍くらい?)のは、この脳梁の大きさが関係しているのではと言われています。

女性が男性より共感能力(EQ)が高いと言われていますが、それは女性が言語機能(左脳)を使う際に左右両方の脳を活動させるのに対して、男性は左半球を主に活動させることと関連しているのでは、という事です。

個人的には、女性が男性より感情豊かで、ある意味で感情に左右されやすい側面がある(感受性の諸刃の剣)と思っていますが、それは子育てに纏わる生物的機能の差なのでは、と思っています。赤ちゃんのアタッチメント形成、情緒的な成長には非言語的な感情的なやりとりは欠かせないものなので。

一般的に友人関係も、男子は単純なのでサッパリしているけど、女子はドロドロめんどくさいなんて言われますけど、コミュニケーションの優位なチャンネルの男女差による影響もあるんだろうなと。超頑固者アスペでも男性オジサンなら「まぁ、そう言うオヤジもいるよね」で済まされることもありますが、「女子」だとより際立つし、当の本人も苦労が多いのではと感じる事があります。相対的な周りとの比較から来る許容度の違いと言うか。

またASDや被虐待児は、この「脳梁が縮小していると報告している研究もあります。これは現場感覚だと非常に腑に落ちて、ASD的な「文字通りの受け取り」「理屈へのこだわり」なんかは、被虐待経験があると、感情感覚をまともに「右脳」で受けたら身がもたないので、脳のつながりをシャットダウンして精神を守っていたんじゃないかと酷いケースでは感じる事があります。

逆に、支援者はこの状態を「利用」する事もあって、例えば「ブロークンレコード」と呼ばれる壊れたレコードのように同じ言葉を淡々と繰り返すという対応がありますが、あれは敢えて「右脳(非言語)」を切り離して「左脳(言葉)」のみで対応する事で、情緒的な刺激を加えない、相手の怒りに巻き込まれない事をしていると思うんです。

共感には「認知的共感」と「情動的共感」があると言われていますが、ブロークンレコードは表情模倣などによる身体レベルでの共感はせず、頭による状況把握はしている。状況把握は視覚による「観察」を伴いますから全く右脳を使ってない訳ではないんですけど、身体的な応答を切ることで感情リンクを制限している。

激おこプンプン丸に対峙すると、こちらの心臓もバクバクして来ますから、それまともに受けてたらコチラも怒れて攻撃的な対応になってしまうので。

大事なのは、それを意図的に「技」として選択しているのか、無意識に日常化してしまっているのか。そこに「主体性」があるのかです。

もし後者となると、日常的な脳の使い方は、左脳だけが活性化して、感覚的な右脳が全然働いておらずに、相手の表情や雰囲気と言ったものを察することが出来ていない状態。冒頭で述べた、

〜現代人の8割は左脳を使いすぎていて、論理や言語に偏ったアンバランスな「左脳グセ」「脳のゆがみ」が生じている

のさらに極端な状態かなと思うんです。もちろん「生物×育ち」のかけ算だとは思うんですが、LSWに限らず児童福祉の現場で出会うような、相手の気持ちを察するのが苦手な子どもや大人たちは、脳の左右の使い方やつながりはどうか?ということです。

そう考えると、左右両方(言葉・感覚)を同時にバランス良く使えている人たちは本当に少数派のように思います。


さらに、LSW的に言えば「過去ー現在ー未来」の時制を扱う時、左脳と右脳とどちらがより活性化しているのかな、と。

例えば、まず支援者(聞き手)の視点。

言葉が話せない赤ちゃんとのやりとりは基本的に「今ここ」で起きている感覚的な現象ですよね。お腹減ったとか眠いとかあれ触っちゃダメとか。その瞬間、子どもの内面で起こっている感覚や体験は、言葉ではなく大人側の視覚・聴覚・触覚・嗅覚・味覚といった五感で感じ取るものだと思います。これは、かなり「右脳的」な作業。

大人同士で言えば、食事をして「何これ⁉︎メッチャ美味い」と感動したり、スポーツやゲームをして一緒に驚いたり楽しんだりした気持ちは、言葉を使わなくたって表情や雰囲気で伝わるものですよね。しかし、ここに長々とウンチクが入ると脳の使い方が「左脳的」になってしまうわけです。


一方、「過去」や「未来」を題材にやりとりをする場合、それは目の前では起こっていない現象についての「会話」になりますから、言葉抜きにはイメージ共有が難しい。

現実では「あの時はこんなことがあって」「将来はこうなってたらいいな」など言葉での説明を試みますよね。聞き手がこの時、状況を理解するために使っているのは認知言語をメインで扱う「左脳」中心。


視点を変えて、当事者側に立つと…。

これまでLSWで感情面の語りも扱えたら治療的ということは何度か触れていますが、左脳と右脳のつながりが薄い人は、言語(左脳)によるやり取りだけでは、感覚(右脳)とつながりが強い「感情」にはリンクしにくい、ということが起こるだろうと。

と考えると、アルバムとか場所訪問は「感覚(右脳)」を刺激する方法だとは思うのですが、左脳と右脳のつながりが薄い人は、今度はその湧き起こる感覚を上手く言葉に変換できないという事が、LSW実施の現場で起こっていると思います。

その時、当事者は湧き起こっている感情は表情や音声などの非言語で表現されます(これすら薄い反応かもしれない)から、支援者は「右脳」でその変化を感じ取り、表情や声のトーンなどを相手に合わせ、非言語での「右脳的リターン」と共に、その感覚・感情を言語化ような「左脳的リターン」も必要に応じて行う。

LSWに限らないんですが、その人の感情を扱うという事はどっちかに偏っている左脳(言葉)と右脳(感覚)のバランスを整えて統合するような支援イメージを僕は持っています。

バランスを整えるという事は、支援側は左脳も右脳も両方使えないといけない。相手の得意なチャンネルを活用しつつ、相手の苦手な凝り固まったチャンネルを地道にほぐして耕していく微細な反応をキャッチして相手が痛くない程度にやりとりしながら凝りをほぐしていく、高い感受性と細かい応答のアクセルワークが求められると思います。

左脳右脳なんて切り口にすると小難しい話に感じますが、非言語的なやりとりは情緒的交流と言われているもので、実は普通の子育て、普通のコミュニケーションで私たちが何気なく日常的に行なっていること。

それを、非言語的な応答・ラリーが苦手な人に対して、不器用なテニス初心者を相手にするように、乱暴な球でも追いついて、相手が打ちやすく返球をフォア・バック(右打ち・左打ち)バランス良くなるように丁寧に繰り返す。

そんな非言語的な応答やりとりが、オキシトシン分泌による身体レベルでの安心感につながり、右脳による感情・感覚の扱いや、左脳による理解・認知を促して、左脳右脳の使い方のバランスを整えたり、機能を回復したり、育てたりすることつながると思っています。

LSWで感情を扱うには、支援者自身が相手に合わせた脳の右打ち左打ちをバランス良くできないといけないと思いますし、そのためには自身の右脳⇆左脳のつながりが統合的に使える必要があるだろうと思います。

右脳による「なんとなくの感覚」を感じる感性を大事にしながら、「なんとなくで済まさず」左脳で意識的に言語化する。カメラの焦点を広くしたり絞ったりするように、右脳と左脳の機能を調節する。

「まごのてblog」は臨床感覚(右脳)→言語(左脳)に変換したり、本の内容(左脳)→日常感覚(右脳)に例えたりする自主練みたいな感じかなと書きながら、ふと思いました。

ではでは。



【第85回】主体性を育む幼児教育とは?

メンバーの皆さま
 
こんにちは。管理人です。
 
今回は、雑感的なコラムを。
 
先日、近所の中型ショッピングモールみたいな行きつけのスーパーに買い物に行った時の話しです。
 
妻が用を済ませる少しの間、ちょっとしたキッズコーナーで息子(1歳2ヶ月)と時間潰してたんですね。
 
2×4m程しかないクッションスペースなんですけど、お昼時のせいか他には親子1組しかおらず、僕も一緒に入ってゴロゴロしてたんです。
 
「人見知り」真っ盛りの息子は、数分間フリーズしてたんですけど、慣れていつもの様子でバタバタ歩き回るようになったら、しきりに壁に向かって「あー!あー!」って指差しするんです。
 
それが、でかい「ドラえもん」の絵。たぶん2mくらいですかね。他にも、赤いドラえもんの絵が数台並んでいて「ミニドラなんて久しぶりに見たなぁ」なんて眺めていたら、
 
 
・2020年に教育が変わる
・何を知っているか(知識)+何ができるか
・思考力、判断力、表現力
・主体的に取り組む力
 
 
なんて内容のチラシが貼ってあるんですね。前回、前々回のコラムで「乳幼児期からの子供の教育支援プロジェクト」(東京都教育委員会)を扱ってますから「おや?」となるわけです
 
子育て世代の方はピンと来ていると思いますが、小学館が運営する「ドラキッズ」という幼児教室の隣にあるキッズスペースだったんですね。
 
いつもは混んでいるので「なんか幼児教室あるなぁ〜」くらいの認識だったんですけど、気になってHP調べて見たんです。
 
そうしたら「脳育」的な内容もふんだんにあって、小1プロブレムなんかにも触れられていて、丁寧に動画紹介とかもされている。しかも30年程の歴史があるらしい。
【参考】ドラキッズの特徴
 
で、さらに口コミを調べると、主に月謝8000円(週一月4回)という価格が争点になっていて、
 
●高い。一回休むともったいない。家でもできる内容。
◯他の幼児教室に比べたら安い。プロに育児の悩みを相談できる。子どもから離れる時間ができて助かる。
 
なんて賛否の意見がそれぞれある。HP閲覧時は、まぁ一回2000円なら高くないかなぁなんて正直こころが揺れたんですけど、ちょっと待てと。
(以下は、さらに管理人の主観ですので、そのつもりで)
 
・2020年に教育が変わる
 
って言うけど、小学校の指導要領が変わるから、
 
・思考力、判断力、表現力
・主体的に取り組む力
 
を育むの?
 
 
もちろんチラシには「これからは先が読めない社会になるから」とも書かれていて、確かにそれはそうなんですけど、そんな大変な世の中を生き抜くための
 
・思考力、判断力、表現力
・主体的に取り組む力
 
なの?
 
ビジネス的な理由をあることは承知してはいますが、もう少しポジティブな理由付けはないのかなぁ、と。
 
一応、誤解の無いように言いますけど、ドラキッズの理念や内容は、自分の息子にも体験させたいと思うほど、僕が大切と思うことと一致してます。
 
しかし僕が素朴に思ったのは、そのストーリーと、
「現在の日本では、月8000円の教育費を追加しないと、このような思考力・判断力・表現力・主体性を育む教育が受けられないの?」「いまの保育園・幼稚園・こども園はそうではないの?」
ということ。
 
「家でもできる内容」「自分の家であるもので工夫してやります」という口コミが本質を突いていて、まさに子育てって本来そういう事なんだと思うんです。
 
子どもとの「遊び」を通じた関わり、対人交流や五感を刺激する体験は、これまでは家庭内や地域内で、ごくごく当たり前に行われていた。
 
「遊び」とは、そもそも楽しいと思うことを主体的に取り組むものだし、その中で思考力、判断力、表現力が養われていくもの。
 
それが核家族になり、共働きになり、ご近所づき合いも減り、日常的に子どもが人と遊べる時間がどんどん減って、大人が子どもと試行錯誤する時間や経験をお金で買っている。
 
もちろん相談先のない人にとっては、1つのコミュニティとなるし、育てる側の安心感が子どもに与える安心感になりますから、それを30年前から実施している小学館は凄いですよね。
 
しかし、そんな月8000円を払って幼児教室に通う時間とお金のない家庭の子どもは…。お金がないと現代の日本システムでは、子どもが思考力、判断力、表現力、主体的に取り組む力を養うチャンスすら失ってしまうのだろうか。
 
おそらく、このようなことを公的に子ども全体にサポートしようとする仕組み作りの1つが、
「乳幼児期からの子供の教育支援プロジェクト」東京都教育委員会)なんだろうと思います。
 
子どもの貧困、教育格差とはこういう事なんですよね。児童福祉にくる子ども達の育ち生い立ちを考える上で、このような環境や機会は無視できない要因です。
 
ドラキッズの内容が真っ当なだけに、コレが有料であることに余計、切なさを感じてしまいました。
 
キッズスペースでふと見たチラシから、こんなこと考えるなんて、かなりの職業病ですね。
 
ではでは

 

【第84回】愛着のコミュニケーション理論

メンバーの皆さま
 
こんにちは。管理人です。
 
前回コラムでは、東京都教育委員会による、
「乳幼児期からの子供の教育支援プロジェクト」
の[指導者向けスライド教材]のラインナップから、[愛着]をメインテーマとして扱っている
4.ふれあって、親子の絆を」
について紹介しました。
 
今回は取り上げたい3つのうちの後半ふたつ
(1)愛着行動の4段階 (p.6)
(2)人見知りと分離不安 p.7
(3)言葉の発達のすがた p.20
について見ていきます。
 
ちょっと長くなったので要点を先に言うと、
「愛着形成」「安心感の獲得」「言語の発達」そして「LSW」いずれにおいても非言語的な応答・コミュニケーションがベースになるということ。
 
あとは、その理由や説明がダラダラ書いてありますので、今回はそのつもりでお付き合いお願いします。
 
 
 

◆(2)人見知りと分離不安 ◆

 
次に資料から紹介するのは、Bower (1977)の
「愛着形成のコミュニケーション理論」です。
 
従来「人見知り」という現象は、他の人を見ることで母親のいないことを思い出すことで起こるとされてきました。言い換えると「母親がいる=快」だから「母親が離れる=快がなくなる」。それを予期する不安から派生したものが「人見知り」と思われてきたが、それを否定したのがBowerによる「愛着形成のコミュニケーション理論」ということ。
 
例えば、お母さんに抱かれた状態で他の大人を見た時、もしかしたら「ハイ」と渡されてしまうのではないか、それが従来考えられてきた人見知り。けど、1歳くらいの双子の赤ちゃんは、お母さんの代わりに世話をするハズのない双子の片割れにも人見知りするんだそう。また、分離不安の対象は、必ずしも身体的な世話をしてくれる人に限らず、しばしば乳児とよく遊んでくれる人であることも分かってきた、と。
 
つまり、分離不安は「母親限定」ではないと言うこと。乳児は生後1ヶ月頃には見知らぬ人と馴染みのある人を区別するようになり、生後7、8か月頃にはやりとりの機会の多い相手(たいてい母親であることが多い)と意思疎通のための「コミュニケーション・ルーティン(決まりきった手順)」を形成するんだと。
 
しかし、このルーティンは、その慣れた人にしか通じない“個人的な”砕けた言い方をすれば"内輪ネタ"ですから、見知らぬ人にはそれが通じず意思疎通ができない。そのように「人見知り」とは、馴染みのやり方(身振りや声)でわかってもらえない、“応じてもらえるはず”なの に応じてもらえない、期待が外れることが乳児に恐怖や不安を引き起こしている現象である、いうことなんです。
 
つまり、人見知りの源泉は「コミュニケーションの不成立」だから誰にでも通じる「言葉」を獲得すると分離不安は減っていくハズ、そう考えたバウワーが先行研究の知見を調べたところ、グラフように語彙が増えて文を話せるようになる2歳代で分離不安は減少し、5歳では分離不安がほとんどなくなることがわかった、と言うことなんですね。

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正直、今まで「人見知り」について、ここまで突き詰めて考えたことはなかったです。乳児は目新しい人を見て「何を」「どんな状況を」不安がっているか、ということです。この情報は目から鱗でした。
 
 
そして、
〜分離不安の対象は、必ずしも身体的な世話をしてくれる人に限らず、しばしば乳児とよく遊んでくれる人であることも分かってきた。
 
これは愛着対象は決して母親だけではないこと、「三歳児神話」の否定の理由になりますよね。乳児の些細な発信ニーズに合わせた応答ができれば、たとえ母親が働いていたって家族や集団養育の複数の担い手で健全な愛着形成は可能ということです。
 
また同時に、子どもにとっての「遊ぶこと」の重要性、愛着形成に果たすスゴさやパワーに改めて気づかされます。
 
 
それと、先日TVを観ていたら、人見知りの源泉である「コミュニケーションの不成立」「応じてもらえるはずなのに応じてもらえない」ことの恐怖や不安って、大人に例えたらこんな状況かもと言うものを見かけました。
 
それは日曜夜の「イッテQ」スペシャル番組。ANZEN漫才みやぞんがアメリカでお使いするみたいなコーナーで、スタッフからお題の紙が渡されて、全く英語を話せないみやぞんが、アメリカ現地の通行人とコミュニケーションして、お題の答えや目的地まで辿り着くというもの。
 
想像してみて下さい。もし自分が全く言葉が通じない外国に1人きりで放り込まれたら…。相当不安な状況ですよね。けど、言語獲得していない乳児が人見知りで示す、馴染みのやり方が通じなさそう、どうしよう、困ったといった不安感ってそんな感じかもしれないな、と。
 
けど、みやぞんは満遍の笑顔がスゴイから通行人にとりあえず話しを聞いてもらえるし、相当メチャクチャな英語なんですけど、想いが通じた時は本当に嬉しそうに感謝のリアクションをするんですよね。そうすると親切な人なんかは目的地まで案内してくれりなんかして、ありがとうみたいなコミュニケーションが成立している。
 
みやぞんが人気なのは、赤ちゃん的な無条件の可愛らしさピュアさ無垢さで、見てて癒される的な要素は大きいと思うんです。赤ちゃんがみんなに声かけられて可愛がられて、言葉通じないけど助けてもらっての感じって「あ、コレかも」と。
 
一寸先は闇みたいな本当に困り果てた状況で、誰かが助けてくれた時の嬉しさ、不安で重苦しい感じから解消された解放感、身がホッと軽くなったような安堵感や安心感って、なんとも言えない感覚がありますよね。
 
乳児は基本的生活の全てを大人に依存していますから、相手と意思疎通が取れないのは死活問題です。仮に大人で例えるなら、見知らぬ外国で一人きり、お金も持たず頼れる人もいない、飲み水やトイレの確保すらままならない、少し先の自分の行く末の見通しが全然立たない、そんな状況下の精神状態に近いのかもしれません。その不安感や焦燥感はハンパないですよね。
 
バウワーの調査によると、言葉や文法を獲得するに従って、子どもの「分離不安」が減っていくという事ですが、確かに、上記のような一人きりの状況であったとしても、その場所が英語も通じない外国であるのと、言葉が通じる日本であるのとでは「誰かに何とか助けてもらえるだろう」という希望的観測や見通しは全然違うと思います。
 
私たちは、いかに社会的動物であるか、いかに普段「言語によるコミュニケーション」に頼って生活しているかを再認識させられます。
 
日常生活ではあたかも「言葉だけ」でやりとりしているように思いがちですが、「非言語的」な身振り手振り、表情や視線の向き、目や口の形、声のリズム大きさトーン等々の情報を、五感をフルに使って受信して、相手の状況を総合的に判断しています。普段は無意識的に。
 
言葉が話せない赤ちゃんやペットとのコミュニケーション、そして海外に行った時だって、言葉が通じない相手にもカタコト単語と身振り手振りでなんとかコミュニケーションを取ろうとしますよね。
 
それは前回コラムで扱った愛着形成の発達プロセスで行われている言葉のやりとり以前の、非言語的なやり取りコミュニケーション。これが原始的な意思疎通の形ですし、この言語的ではなく五感による感覚的・音楽的コミュニケーションが、ゴリラとか類人猿・原始人もしているコミュニケーションの形。
 
「言葉」という便利なツールを身につけても、原点的なコミュニケーションは人間という生き物らしく成長する以上は必要なことなんです。しかしながらPCやスマホの普及は、画面上の文字・画像以外の情報(微妙な表情変化や声のトーンなど)はカットされますから、ホント文字通りのやりとりになる。
 
そもそも人間は自分の気持ちを正確にピタリと当てはまる文字に落として言語化できるわけではないですよね。それが成長過程の子どもであれば尚更ですし、生身の人間とのやり取りする経験が減れば減るほど、五感をフルに使って非言語的情報を送受信するコミュニケーション力を鍛え成長させる機会をどんどん失っていきます。そのように育った子ども達がやがて親となり、子育てをしたら乳児期のコミュニケーションや愛着形成は…ということです。
 
 
原点に戻ると「人見知り」とは、
・馴染みのやり方(身振りや声)でわかってもらえない、“応じてもらえるはず”なの に応じてもらえない、期待が外れる「コミュニケーション不全」が恐怖や不安を引き起こしている現象
 
なので、逆に言えば、特定の大人と意思疎通の「馴染みのやり方」が確立していなければ人見知りは起こらない。児童福祉で見られるような幼児期以降に無差別的な愛着行動が見られる子どもは、目が悪くて顔の区別がつかないわけではなくて、「馴染みのやり方」を構築する経験が欠如しているということ。そもそも「特定のわかってくれるパターン」獲得がなければ「期待が外れる不安」なんて起きないわけで。
 
だから「人見知り」は子どもの生育歴を聞く時にものすごく重要なPointになります。危ないのは、人見知りがなく誰にでもニコニコして、構って構ってもなかったし小さい頃はホント手がかからなかったです、というパターン。親が関わっても子ども側の受信が弱かったのか、そもそも子どもの愛着行動を親が察知せずスルーしていたのか、子どもが諦めて発信しなくなったのか。
 
愛着形成を見る上では、乳児期の何気ないやり取りのエピソード、こんな時よく喜んだとか、嬉しそうにしてたとか、親が子どもの様子から気持ちを察していたのかの「応答」が伺えるエピソードの有無はとても重要な情報です。
 
 
最近コラムでよく使う「この図」で言うと、「基本的信頼感」が心理社会的発達の一番根っこにありますよね。

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やはり自分の言葉にならない信号を相手に察してもらって期待した応答をしてもらった経験の積み重ねが大切だと言うことなんだと思います。【個別】的な関わり、馴染みのやり方で気持ちが通じる経験です。
 
しかしながら、マズローの欲求階層説を参考にすると【社会・集団】に世界が広がるベースには、[生理的欲求]や[安全的欲求]があります。つまり、個別的なコミュニケーションが取れることで生活の根本である[生理的欲求]や[安全的欲求]が満たされる見通しが持てて安心できる。その安心感があって、個別的関係から社会・集団の世界に対人関係を広げることができる。
 
前回紹介した愛着行動でいうと、[第3段階]までは個別的関係で、[第4段階]が社会・集団的関係の世界に踏み出すタイミングかと思います。
【参考】
● 1段階(出生~12週):愛着の相手は不特定であり、生得的な反応傾向によって人に注意を向けたり、働きかけを行ったりする。
● 2段階(12~6か月):接触頻度の高い人や、乳児と社会的やりとりをしてくれる相手に対して結びつきができる。
● 3段階(6か月~23歳)見知った人と見知らぬ人に対して明らかに識別して反応するようになる。いわゆる「人見知り」が出る。また、母親がいなくなるとパニック状態に陥り「ママ」と叫んだり、泣いたりすねたりなど混乱状態になる。
● 4段階(3歳頃~):子供の認知能力や言語能力が発達して、母親の設定目標を推測し、「目標修正的パートナーシップ」が成立するようになる。この段階の最初の頃は、子供は母親との関係を「安全基地」として外に向かって出ていき、すぐに不安になり、母親のところに戻ってきて安心する「行って帰ってくる遊び」を繰り返す。この遊びが見られなくなる頃、いよいよ子供は自律・自立への道を進んでいく。
 
つまり、自分の気持ちを言葉にできるようになる3歳くらいまでの成長過程では[生理的欲求][安全的欲求]を満たすと同時に[脳育][愛着形成][基本的信頼感・自律性の獲得][言語獲得]と言った、
 
自分の内側の感覚
自分の外側の他者との関係性
自分の内側と外側をつなぐ五感や言語
 
成長が同時並行的に起こっている。
 
ざっくり言うと[身体が満たされること]こころが満たされること]。そのどちらも人間には重要で、一般的な子育ての中では、身体的なお世話をしながら非言語的な愛着行動への応答(声かけ・スキンシップ・アイコンタクト)をする、同時に身体的な反応としてホルモン分泌がされるというサイクル自然と行われています。

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通常と思われている子育てや成長過程も、実は色んな理論で色んな言葉で説明すると、とても複雑なことを色々同時に行っていると思います。そして、各理論もそれぞれ独立しているわけではなくて【心理ー生物ー社会】(バイオサイコソーシャル)の範囲が違うだけで重なったり繋がっている部分も結構ありますよね。
 
しかしながら、児童福祉が関わるような家庭は、同時並行どころか、その片方すらも難しい状況のことが多い。つまり[基本的生活リズム]も崩れているし[親子関係も希薄]な子ども。それじゃあオキシトシン分泌もセロトニン分泌も少ないでしょうから、それは意欲や集中力も低かったり、情緒は安定しにくい。

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この状態が乳幼児期からの子供の教育支援プロジェクト「1.子ども親の問題」であげられている内容そのもので、そりゃその両方を学校教育だけでカバーしきれるわけがなく、各分野と連携して就学前から地域で段階的にフォローして行きましょう、となるのは当然の流れです。
 
そして、どこから立て直すかというと、脳の構造レベルやマズローの欲求階層説の順番で考えて、①[身の安全]カエル脳の生命維持の欲求を満たしてから②[心の安心]ネコ脳の感情レベル、人間関係の良い体験によって情緒的な成長に必要な心の栄養を蓄える、③[頭の理解]ニンゲン脳の言葉・認知という順番になる。
 
これが[身の安全]が第一で、それが家庭で確保されなければ、一時保護や社会的養護(施設や里親)を理由になるわけです。が実際の支援はそれがスタートであって、安全確保のための物理的な環境調整はもちろん、その後の生活において[心の安心][人間関係の良い体験]を子どもが積めるのかを確認して家族関係の調整や再構築を行わないと、[心が満たされること][身体が満たされること]の両立、つまり、子どもの健全な成長を支える支援としては片手落ちだと思うんです。
 
それは、このベースがない中での、日常的な「気持ちの言語化」と気持ちやりとりを通じた情緒的成長、心の成長が望めないから。
 
 

◆(3)言葉の発達のすがた ◆

 
じゃあ、そもそも言葉を獲得する前の[0〜2歳]の時期に「どう関わったらいいの?」というのが、スライドp.20に具体的に書かれているまので、その一部を紹介します。
 
おっぱいのリズムは会話のリズム
・赤ちゃんがおっぱいを吸い、 休むとそれに応えるようにお母さんが声をかける。この繰り返しこそ、赤ちゃんとお母さんとで作る会話のリズムなのです。このリズムは、赤ちゃんが話せるようになった時に自然と受け継がれていきます
 
話せる前は「アイコンタクト」で以心伝心 
・何も話さない赤ちゃんに不安になった時は、ぜひ赤ちゃんの顔を見ながら「べー」と舌を出してみてください。繰り返しているうちに、赤ちゃんもしだいに口もとをもぞもぞと動かし始め、かわいい下をちょろりと出します。コミュニケーションとは、話しかけるだけではなく、こうした表情のやりとりからも生まれるものです。
 
言葉を覚えるには「やりとり」は必要不可欠 
喃語はたいてい赤ちゃんがごきげんなときに出てきます。このとき「そうだね」「ごきげんだね」とどんどん話しかけてあげると、赤ちゃんは喜んで「アー」「ダー」と答えます。赤ちゃんの、言葉になる前の「言葉」に答えてあげてください。
・話しても分からないから、と話すのをあきらめるのでなく、世話をしながらどんどん話かけましょう。赤ちゃんは周りの大人とやりとりをしながら言葉を覚えていくのです。
 
 
わかりやすいですよね。言語獲得の前段階では非言語的コミュニケーションや応答遊びの積み重ねが大切ということ。そして、これは言語獲得のプロセスであると同時に、愛着形成の応答プロセスでもあるわけです。
 
この内容こそ、この図で、

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下から伸びている「矢印」で表現しようとしたことなんです。
 
物の名前とかアニメのキャラクターでさえも、指差して一緒に同じもの見て「アンパンマン!」とか大人が言葉をかけて物と名前が結びついて覚えていくもの。ましてや、自分の気持ちの言語化については、今まさに身体で起こっている子どものリアルタイムな感覚を、その様子から大人が「ネムネムだね〜」「嬉しいね〜」と察して+非言語で応答しながら+言葉で伝える]をセットにした体験を繰り返さないと、「感覚ー気持ちー言語」の結び付きができてこない。
 
しかしながら、児童福祉で関わる人は、この[察して+非言語で応答しながら+言葉で伝える]関わりをしてもらえず、気持ちの成長が伴わずに身体だけが大きくなっているような人が珍しくない。子どもだけでなく、親自身も。
 
だから、自分の気持ちをうまく言葉にできないし、そもそも自分の中で起こっている感覚が上手く掴めていないし、それで自分の意図がうまく伝わらないと感情コントロール出来ずに怒ったり拗ねたり、担当変更になると赤ちゃんの「人見知り」のように泣いて喚いて不安と怒りを露わにすることが、小学生でも中学生でも成人になっても普通に見られます。
 
何歳どころか何ヶ月レベルの発達課題が満たされていない、そういう愛着形成に課題がある大人が子どもを育てるとどのようになっていくのか、下図はわかりやすく整理されています。改めて1歳くらいまで愛着形成は重要だなと思います。

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ポイントは安定型の親に[求める以上抱かない]と言う内容がある点。これが単なる関わりではなく[応答]が重要ということを端的に表していると思います。オッパイも食事も際限なく与えてブクブク太らせればいいってもんでもなくて、その子の様子から「主観的世界」を想像して、必要なものを必要な分だけ与える「程よい加減」が大事。子どものニーズを無視して、抱き続けたり関わり過ぎるのは、大人の自己満足のための過干渉だったり、大人が子どもに癒しを求めて「依存」したり「乱用」だったりする。
 
子どもを育てるハズの親自身がある程度満たされていないと、子どものニーズを充分に満たす存在にならないどころか、負荷がかかった時に親自身の課題を子どもにぶつけるようなことが起きると思います。これは支援者も同様です。
 
なので、アタッチメント(愛着)が十分に育ってない親子のニーズに合わせた支援は、親子それぞれ[基本的信頼感][生理的欲求][安全的欲求]レベルになるし、その応答は0〜2歳の時期に必要な[スキンシップ・呼吸リズム合わせ・アイコンタクト・表情のやりとり]と言った非言語的コミュニケーションによる関係構築の経験の積み直しになるわけです。
 
そして、そのようなクライエント内面の育っていない赤ちゃん部分を扱い、赤ちゃんの相手をするかのように激しく揺さぶられる児童福祉の現場の職員のメンタルヘルスは、職員自身の[基本的信頼感][生理的欲求][安全的欲求]を守るところがベースになります。
 
一般的な社会生活を送りお仕事を営める人達は、[基本的信頼感][生理的欲求][安全的欲求]が満たされて社会・集団に世界を広げられた人たちがほとんどですから、一般的なビジネスシーンではお互いそこはクリアされてる前提でやりとりコミュニケーションが展開されていきます。
 
しかし、[基本的信頼感][生理的欲求][安全的欲求]が満たされていない人が生きる世界は、個別的な関係構築のレベルですから、もちろん社会集団のルールに適応するのは難しいし、赤ちゃんのように特定人に身の回りのお世話を頼ったり、思った通りにならないと泣いたり叫んだりするような行動が現れるし、その愛着行動に応答するような個別的支援が必要なんです。
 
子育ても臨床もそうですが、このような相手の愛着行動を扱うということは、ただでさえ自身の愛着パターンを無意識レベルで想起しやすい状況です。さらに負荷が高くなって余裕がなくなる程、認知的なコントロールが効かなくなるので、自身のもともとの愛着パターンが表出しやすい。支援者が自身の生い立ちの整理、原家族を含んだ自己覚知が必要な理由はコレです。
 
 
【第80回】タイプ別「幼児期記憶の語りと再構成」で、以下のような類型を紹介をしましたが、幼児期記憶を感情を伴って話せるということは、その辺の気持ちに整理がついていて適切な距離を取りながらコントロールできるという事。
 
■記憶想起のパターン4類型 (林,2004)
①知的な理解の優位な群
ー感情表現も見られるが、知的な理解が先行し、認識の改めや理解したことが語られる
②直接的な感情表現群
ー感情語を用いてストレートに表現する 
③感情の言語化が困難な群
ー何らかの感情を体験していると思われるが,言語での表現が伴わない
④記憶想起の困難な群 
ー記憶の正確さにこだわる、記憶のなさについて語る
 
しかし、[トラウマ×喪失体験×忠誠葛藤×発達障害が混在していると、①感情体験に蓋をして距離を取っている状態、②あまり激しいなら過去の感情体験と距離が近すぎる場合や、③その場の安心感が十分でなく感情を語れない場合or感覚を上手く感情に言語化できない場合、等があると思います。
 
さらに、④は記憶のある無しもさることながら、そもそも幼児期のその時に感情的体験があったのか、そして、その幼児期までに自身の感情体験を言葉で認識できるほど言語獲得や愛着形成プロセスを踏んでいたのか、ということも影響していると思うんですよね。
 
そう考えると、当たり前ですが[過去]の感情体験を想起して語るという前段には、[現在]の感情体験を扱う体験の積み重ねが必要で、その積み重ねがなかったり難しかった場合と、[ある時]から感情が凍結して積み重ねが難しくなてしまっている場合など、色々なパターンがあり得るわけです。
 
それが、LSWで気持ちの言語化が難しいだろう場合に、まず検討していく点だと思います。そして、気持ちの言語化する力が未熟であっても、感情が凍結していたとしても、どちらにせよ安心して話せるかどうかは本人の主観的・感覚的な安心感ですから、やはり支援は[基本的信頼感][生理的欲求][安全的欲求]をまず満たすことになるんでしょうし、関係構築でまず行うことは前回今回で扱ったような非言語的な応答・コミュニケーションで相手とペースを合わせる、二人の世界だから通じるコミュニケーションのやり方や体験を積み上げるというということになると思います。
 
乳幼児期愛着(アタッチメント)形成に課題を抱えた人を支援する児童福祉の現場では、特に。
 
言語ではなく非言語、理屈ではなく感覚を扱う大切さを、これだけダラダラ言葉で綴るのも矛盾しているよな、と途中から思いながらの今回のコラムでした。
 
お付き合いありがとうございました。これで終わりです。
 
ではでは。