LSWのちょっとかゆいところに手が届く「まごのてblog」

静岡LSW勉強会の管理人によるコラム集

【第14回】あいまいな喪失とトラウマからの回復③

メンバーの皆さま

こんばんわ。管理人です。

流れで、1日に2つ目は張り切りすぎかもしれませんが、コラムの続きです

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●目次
はじめにー喪失とあいまいさ

第I部   あいまいな喪失の理論の構築
第1章  心の家族
第2章  トラウマとストレス
第3章  レジリエンスと健康

第II部   あいまいな喪失の治療・援助の目標
第4章  意味を見つける
第5章  支配感を調整する
第6章  アイデンティティーの再構築
第7章  両価的な感情を正常なものと見なす
第8章  新しい愛着の形を見つける
第9章  希望を見出す

エピローグーセラピスト自身について


●内容&コメント
今回も「はじめにー喪失とあいまいさ」から。

以下は、著者であるポーリン・ボスが開く、支援者トレーニングのワークショップで取り上げるテーマです。

・心の家族
・あいまいな喪失とは何か、それは通常の喪失とどのように違うのか。
・あいまいな喪失の二つのタイプとは何か、それらの二つのタイプが重なり合うことがあるのか?
・それが問題であるのか、またいつ問題になりうるのかが、どのように分かるのか?
・あいまいな喪失の原因や影響はPTSDとどのように違うのか?
・文化的な価値観や信念は、人々はあいまいな喪失に対処するうえでどのような影響を与えるのか?信仰や社会階層、人種、性別による違いはあるのか?
・あいまいな喪失に対するレジリエンスを強化するためには、意味を見つけ、人生の支配感を調整し、アイデンティティーを再構築し、両価的な感情を正常と見なし、新しい愛着の形を見つけ、希望を見出すことが重要だが、どのようなことが目標や指針となるのか?
・セラピスト自身について。

非常に興味深いテーマばかりですよね。「あいまいな喪失の2つのタイプ」については前々回コラムで取り上げた通りです。今回コラムの後半では「文化的な価値観や信念」について触れます。

そして、当然、参加者のニーズに合わせて上記のテーマは調整されるようですが、ワークショップを終了した段階で、二つの効果が現れることを著者ばかり期待しているそうです。

①参加者があいまいな喪失を認識し、その影響を理解し、未解決の悲嘆の症状を呈しているそれぞれのクライエントに介入や治療を行えるようになること
②参加者が自分自身のあいまいな喪失のその影響と意味を理解すること

そして、以下のように続きます。

~逆説的ではありますが、あいまいな喪失を研究する専門家にとって、第二の効果は、たいてい第一の効果より重要です。この2つは、個人的な体験が概念的に体験され、また治療的に体験されるなかで、並行して進展していきます。あいまいな喪失に関しては、専門家としての効果は、専門家個人の成長と切り離すことはできません。

この説明は、勉強会のコンセプトである「報告から連想されるオープンな体験の語り合い、内的な気づき、自己成長と共進化」の内容そのもので、勇気付けられると同時に驚きました。

勉強会コンセプトは、経営の神様「松下幸之助」や京セラ創始者稲盛和夫」の言葉からヒントを得て作ったのですが、「経営」と「家族療法、コミュニティ」と分野は違えど「人間集団」を大切にする立場の人間が本質を突き詰めると似たような考えに行き着くんだというのが、面白いなと。


そして、後半は著者が述べる「文化的な価値観や信念」についての指摘を2つ紹介。

1つ目は、専門家としての価値観。

~あいまいな喪失のモデルの概念的な基盤は、家族のストレス論にあります。

~文脈とレジリエンスを重視したストレスの視点は、医療的なモデルについて訓練を受けているけれども、それが有効でない答えのない疑問に直面している臨床家に新たな視点を与えてくれます。

~それぞれの分野や、それまで受けてきた専門的なトレーニングにかかわらず、セラピストはより広い治療援助の視点を持つことが必要です。

~災害やトラウマとときには、愛する人の行方が分からなくなっている個人や夫婦、家族、コミュニティの治療・援助の指針として、PTSDや古典的な悲嘆治療(個人向けの治療モデル)とは異なるモデルが必要になります。


2つ目は、人が喪失を明らかにしようと必死になる理由について。

①文化的なこと
米国の文化では、高く評価され期待される目標とは、直すこと(fix)、治すこと(cure)、勝利すること、解決することです。喪失とともに生きることは勧められません。むしろ、人はそこから早く回復しなくてはならないのです。~私たちは皆、明らかでない喪失に対する一般の人々や専門家の我慢のなさを打ち砕くために、もっとコミュニティとして、努力していく必要があります。

②認知や合理性
埋葬するべき遺体がないために、人びとは身体的、心理的早実両方に混乱を感じるのです。なじみのない状況のために認知が阻止されています。家族は、その状況に対処し、悼むことをはじめられません。決断もできないのです。人は、世界は公正であり、理解しうるもので、管理することができるという前提を持っていますが、それは愛する人の状況が恐ろしく不可思議な状態になってしまったことで打ち砕かれてしまいます。

③死の明確な証拠がなければ、家族を支える儀式が何も存在しないから。

④失われた人との愛着
西洋の心理療法家にとって、悲嘆にくれる最終的な目標は脱愛着でした。フロイトとボウルビィによれば、脱愛着は、生きている人と新しい関係を形作るために、故人との間に持っていた情緒的な絆を手放すことを意味しています。
確かに、親密な関係性の終わりを証明する遺体がないことは、人々が新しい関係に進むことを困難にします。行方不明になっている人が、愛おしい人なのか、単なる顔見知りなのかということは、喪失を知り、その人がいない人生を生きることでその絆から解き放たれる時まで、どれほどその人を思い続けるのかということを決定しているかもしれません。
でも、このことは、彼らを忘れるということを意味しているのではありません。


僕は上記を読んだ感想として、完全な推測ですが、著者が感じているアメリカの専門家や一般人の極端な偏りに警鐘を鳴らしたいのではないか、と思いました。

特に、PTSDなどの医療モデルへのディスりみたいな表現が何度もあって、何か個人的に恨みでもあるの?と思うくらいです(苦笑)

でも、たぶんそこまで過激に書かないと届かないくらい、アメリカではエビデンスで証明できないもの、はっきりしないものや合理的でないものに価値が置かれにくい、ということなのかもしれません

はたまた今の日本はどうでしょうか?

世間一般や現実生活では「空気感」という極めてあいまいな東洋的なものに価値を置きながら、特に臨床現場では「医療モデル」「エビデンスがある」西洋モデルこそが専門的で価値が高いと思われている雰囲気を感じているのは、僕だけでしょうか?

西洋文化が、東洋古来の「禅」的な考え方の価値をようやく見出して「マインドフルネス」と名前を変えて取り入れているにも関わらずです。

もともと日本が大事にしている「東洋モデル」も大事にながら、「西洋モデル」も取り入れる、という感覚ならいいんですけど。

海外のプログラムが翻訳されて紹介される度に、そこも分かって紹介しているのか、「欧米は進んでて、日本は遅れているから丸パクリ」みたいな考え方なのか、常に僕は注目して聞いています。

これまで製造業でも食文化でも、日本は海外のものを取り入れては、より良いものに進化させてきた歴史、長所がありますよね。

それが臨床や福祉分野に限ってできない、なんてことは絶対にないと思うんです。

そして、LSWは定義が広いというか、器の中身の自由度が非常に高いことを考えると、「ラーメン」に近い発展の可能性があるのではと思っています。

器は一緒でも「博多とんこつ」「札幌味噌」「横浜家系」とか、ご当地で特徴が異なるような。

僕の個人的感覚では、すでに大阪や三重は、ご当地LSWが形になりつつある感じがします。

だけど、その味付けは決して唯一の正解ではなく、あくまで1つのアプローチであって、美味いラーメンの種類やブレンドは多種多様にあって、個人や地域や時代に合わせて研究されて進化していっていいものだと思うんです。

その意味では、勉強会やコラムを題材に、よりよいLSWの形やアイデアを、今後メンバーの皆さんと一緒に考えながら試行錯誤することを楽しんでいけたらな、と思っています。


ではでは、皆さま、よい週末よい連休を。