LSWのちょっとかゆいところに手が届く「まごのてblog」

静岡LSW勉強会の管理人によるコラム集

【第23回】あいまいな喪失とトラウマからの回復⑧

メンバーの皆さま

おはようございます。管理人です。

台風も過ぎて、昨日から陽射しが痛いですね。

熱中症や日焼け過ぎにお気をつけください。

いよいよ第II部のコラムです。

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●目次
はじめにー喪失とあいまいさ

第I部   あいまいな喪失の理論の構築
第1章  心の家族
第2章  トラウマとストレス
第3章  レジリエンスと健康

第II部   あいまいな喪失の治療・援助の目標
第4章  意味を見つける
第5章  支配感を調整する
第6章  アイデンティティーの再構築
第7章  両価的な感情を正常なものと見なす
第8章  新しい愛着の形を見つける
第9章  希望を見出す

エピローグーセラピスト自身について


●内容
今回は第4章「意味を見つける」。この章は、人生を扱うLSWを考えるうえで大事したい視点が満載です。全部は紹介しきれないので一部を抜粋します。

〜意味があるとは、出来事や状況を理解できるということです  〜自分が体験しているものを理解できている時に、人間の体験は意味のあるものとなります。

〜あいまいな喪失では、問題はあいまいなものとしてラベルづけされます。このあいまいさは認知を遮断し、対処過程を麻痺させます。そうなれば、自分が何を体験しているのか、自分が感じている両価的な感情が何なのかが理解できなくなることは自然なことです。

〜個人の持つ意味を理解するためには、内と外の両方の文脈を理解しなければなりません  〜認知は、客観的なデータだけでなく、主観的経験に影響を受けるので…

〜客観的真実がすべてであるというような独断的な姿勢を取るのではなく、何が起こったかについての各人の捉え方を明らかにするために耳を傾け、夫婦や家族の中で起こっている意見の食い違いがないかに注意します  〜捉え方と主観的な意味に焦点を当てることで、介入の窓が開かれるのです。

〜日常の知(everyday knowledge)はセラピストとクライエントにおいて同じく共有され、保持される。通常の日常の知は、レジリエンスの指標になります。しかし、こうした日常の知は、専門家の間では重視されないことが多いのです  〜私たちはクライエントの物語を聴き、彼らの相互作用を観察し、彼らと自分たちの感情に注目することで、多くを学べるということです。

〜クライエントが私と異なった見解を持っている場合には、私の信じるところを述べるとともに、当人が信じることにも価値を置くようにしています。少なくとも治療の目的に照らせば、セラピストの信念や価値観よりも、クライエントやスーパーヴァイジーに対してセラピストがオープンで率直であることのほうが重要なのです。


意味を見つけるためのセラピーの3手法と指針
【手法】
①ナラティヴ・アプローチ
・心理教育的アプローチは、出来事の受け止め方を変えることを促すために利用できます。しかし究極的には、ナラティヴ(物語)を集団で共有することが、人々が意味を見出すうえで助けになります。他者との関わり、新しい見方や変容を他者から促されることで、クライエントは柔軟性やレジリエンスを培います。

弁証法的アプローチ
・あいまいな喪失に直面している家族と治療的に取り組む際には、「AでもありBでもある(the both / and)」のアプローチが不可欠です。
・「AでもありBでもある」の思考によって、脳死状態で人工呼吸器に繋がれている愛する人が、亡くなっていると同時に、生きているという事実をより容易に理解できるようになります。

③家族と地域社会のシステム的アプローチ
・困難な時には、家族やその成員が日常の活動を続け、問題解決を助けるというのは、そもそも地域社会というものが前提なのです。
・地域社会の枠組みは、家族と個人の出来事の捉え方に影響を与えます。意味が共有されれば、人々はあいまいさや不確かさによるストレスに、より容易に対処できます。コミュニティ・アプローチは、つらい時期に人々が力を維持することを手助けするものなのです。

【指針のごく一部】
▶︎苦しみを避けられないものとして捉える
〜この方法には注意が必要です。〜治療可能かもしれない疾病である場合や、治療や介入によって改善される可能性のある状況においては、クライエントの苦しみに、ポジティブな光を当てることで組み立て直すよう援助することは助けとはなりません。その状況が変容可能かどうか判断することが重要です。苦しみを避けられないものとして組み立て直すようクライエントに手助けするのは、本当に不可避でケアも解決もできない状況に限られます。

【まとめ】
レジリエンスにとって最も重要な鍵は、二つの反対の考え方を同時に持つ能力にあります  〜あいまいさのなかで意味を見つける能力には、システム的な「AでもありBでもある」のアプローチが求められます。

〜臨床家として、私たちは個人的体験からだけでなく、自分の専門的な仕事から、自分の捉え方や意味を学ばなければなりません  〜あらゆる問題に解決策が期待されるこの時代にあって、クライエントと同様に、私たちセラピストもまた、不明瞭さとあいまいさのなかで意味を見つけることと格闘しているのです。


●コメント
レジリエンスの指標や鍵として、
「二つの反対の考え方を同時に持つ能力」
「日常の知(everyday knowledge)」
が挙げられていますが、これってLSWに限らず対人援助に携わる者に共通して求められる基本的な姿勢ではないか、と思います。

「セラピストの信念や価値観よりも、クライエントやスーパーヴァイジーに対してセラピストがオープンで率直であることのほうが重要なのです」

この言葉が全てを言い表している気がします。

偏り過ぎず中立的に、中庸な精神で、自分と相手の中で起こっていることを正直に感じて、真摯に向き合う姿勢。そして、そこでの「気づき」を好奇心と新鮮さを持って受け取る感性と、それを他人に正直にオープンに伝えられる誠実さ。

静岡LSW勉強会の対話のコンセプトそのものです。

この章を読んで、今までのコラムでこねくり回して表現していたものをズバッとシンプルに言われたような感覚に陥りました。


あと、
「改善される可能性のある状況においては、クライエントの苦しみに、ポジティブな光を当てることで組み立て直すよう援助することは助けとはなりません」

は非常に重要な指摘です。

これには僕も痛い経験がありまして、かつて遠方にいる疎遠な親がどうなっているか知りたいという子がいました。住所はあるが郵便の応答もなく、住居の管理人もしばらく会えていないと。LSWでは割と起こりうる展開と思います。

当時、手続き的に親の同意を取るような事案もなく空ぶる可能性が高い遠方の出張は認められないという事で、児相からは時折管理人に連絡するのみで直接様子を見に行く事がありませんでした。

すると、施設職員が県外研修で近くに行った際に、たまたま住所地を訪問したら親に会えたんです。それ以来ずっと「児相は何もしてくれない、行ってくれなかったじゃないか」とその子は言っていました。こんなオチも「LSWあるある」かもしれません。

本文の繰り返しになりますが、やる事は何でもやって手を尽くしたけど「どうしてもハッキリわからない」場合に限って初めて「あいまいな喪失」になります。

そして、その状況が変容可能かどうかの判断が十分になされているのか、出来うる対応や手続きが行われたのか、そのプロセスを当人と共有することが重要だし、一方的に伝えることではなくその共有プロセスこそLSWなんだと思います。

しかし、プロセスを共有するためには、まずプロセスを踏むことを可能にしなければなりません。

「AでもありBでもある」考え方で見れば、「空ぶる可能性が極めて高いと分かっている&切迫した必要性がない出張」は昔問題になった「カラ出張」と構造はそっくりなのです。つまり、そこに税金が投入されることに明確に正当性を説明できなければ、監査でどのようなことになるか想像にかたくないですよね

税金とは「全体の利益」で、社会的養護の支援は「個人のマイノリティの利益」なんです。そして、少数派意見は多数派の理屈論理に容易く飲み込まれてしまうものなのです。

正直、当時の僕は、多数派の立場や理屈をわかった上で、少数派の立場を説明し理解してもらう程の言葉も知識も気づきも勇気も持ち合わせていませんでした。

ちなみにLSWがどのくらい少数派マイノリティかというと、H29年7月時点で

・日本の18歳以下の児童数は約2000万人(総務省
・社会的養護の対象児童は約4万5千人(厚労省

なので、社会的養護児童は日本のこどもの約0.2%、さらに日本でLSW的支援を受けている社会的養護児童はおそらくその内の1割〜2割程度。ある子の言葉を借りれば「超超超超スーパーウルトラハイパー」少数派への支援なんです、一般事務から見たLSWは

在宅児も考えて虐待通告が日本で年間10万件、さらに通告に至らない離婚再婚のステップファミリーがその10倍いると見積もって100万件にしても児童全体のたった5%に過ぎません。

残念ながら少数派マイノリティの体験や不遇は、大多数の人は経験してないし、自分の世界とは遠い映画や漫画のファンタジーのようなお話です。

地域に児童養護施設がある学校の「1/2成人式」への配慮ですら、基本的には赴任してきた校長先生や学年主任の先生など個人裁量に大きく依存していると思います。まして地域に施設がない学校では、被虐待やステップファミリーの相対的少数派の子どもが抱えている葛藤なんて大人は想像すら及ばないし、少数派擁護のために全体を変えようなんて心意気のある人はそうそういません。

しかし、少数派に寄り添う支援者の「分かってもらえない体験」なんて、マイノリティ当事者、人種や民族問題だけでなく、周りの人と自分は違うという想いを持った全てが体験しているものに比べたら微々たるものというのは想像に難くありません。

ですから、普通と呼ばれる多数派の人に理解してもらうためには、体験的としては共有できない前提で、いかに相手に理解してもらえる文脈にアレンジして、丁寧に何度も何度も説明を繰り返していく必要があるんだろう、と思います。

「臨床家として、私たちは個人的体験からだけでなく、自分の専門的な仕事から、自分の捉え方や意味を学ばなければなりません  〜クライエントと同様に、私たちセラピストもまた、不明瞭さとあいまいさのなかで意味を見つけることと格闘しているのです」

マイノリティに寄り添うということは、マイノリティと「共に」意味を見つけ、「共に」発信していくことを意味をしているのではないかと思います。

また、マイノリティは多様性の象徴であり、マイノリティがマイノリティであり続ける事の意味もあると僕は思います。

公務という全体に奉仕する立場にありながら、マイノリティの支援をする。「全体」と「マイノリティ」が権利や利益を争うのではなく、共存するような最適バランス、動的均衡の形を目指して、架け橋になるような臨床活動や対話をしていかねばならないなぁ、など色んな「意味」について考えさせられる章でした。

長くなりました。

ではでは。