LSWのちょっとかゆいところに手が届く「まごのてblog」

静岡LSW勉強会の管理人によるコラム集

【第28回】あいまいな喪失とトラウマからの回復11

メンバーの皆さま

こんにちは。管理人です。

気がつけば8月最後の週末ですね。皆さまいかがお過ごしでしょうか?

僕は昨夜、スシローweb注文とやらに初チャレンジしてみました。今の技術はすごいですね、スマホ画面が完全に「注文タッチパネル」になって、お持ち帰りの時間指定まで出来るんです。

お店に着いたら、週末恒例、子ども連れ家族の長蛇の列。店の外まで並んでいて、ホント回転寿司屋の人気はエゲツないですよね。待ち時間は1時間では済まないでしょう。

その列を颯爽とかき分けて、自宅注文から約20分でお寿司GET。並んでる子ども達には申し訳ないですが、非常に爽快な気分に浸れました。

おそらく、これが今年の夏、最後の思い出になりそうです。ちなみに回転寿司なら僕は断然スシロー派。どうでもいい情報ですね。

それでは、本題のコラムです。

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●目次
はじめにー喪失とあいまいさ

第I部   あいまいな喪失の理論の構築
第1章  心の家族
第2章  トラウマとストレス
第3章  レジリエンスと健康

第II部   あいまいな喪失の治療・援助の目標
第4章  意味を見つける
第5章  支配感を調整する
第6章  アイデンティティーの再構築
第7章  両価的な感情を正常なものと見なす
第8章  新しい愛着の形を見つける
第9章  希望を見出す


●内容
第7章「 両価的な感情を正常なものと見なす」より、「両価的な感情」「セラピー」「役立つこと」の3つについて紹介。

◆「両価的な感情」とは
~両価性は、…葛藤する感情や情動を示しています。あいまいな喪失の場合、相反する感情が、同時に、あるいは、揺れ動きながら表出してきますが、どちらの場合においても、その感情は相矛盾しています。二つの極端な感情に引き裂かれて、人々は不安に駆られます。そして、その不安感にうまく対処できない時、トラウマとなるほどのストレスに苦しむことになります。

~私たちが注目するのは、個人のなかに起きる心理的な両価性を作り出してしまう、あいまいさの外部の状況です。もし「あいまいさ」が認識されない場合、葛藤する感情は個人において、(配偶者、友達、そして家族との)関係生において、人々のレジリエンスをむしばんでいくのです。結果として起きる罪悪感や優柔不断さは、悲嘆を凍結し、対処していくプロセスや人間関係の動きなどを止めてしまうのです。

~私たちの愛する誰かが、身体的に、あるいは心理的にいなくなってしまう時、それに続いて起こる両価的感情は、当人を圧倒し、時として怒りの爆発や、不適切な行動につながる可能性があります。

レジリエンスがあるということは、このような相反する感情を認識することであり、そうすることにより、両価的感情を適切に扱うことができ、後になって後悔するような有害な行為を避けることができます。

~もし、両価的感情の負の側面が正しく認識されずに、扱われないままであれば、不安感は抗いがたく高くなり、問題を引き起こす状態になってしまいます。そのなかには、全般性不安障害パニック障害、強迫障害、PTSD、そして恐怖症が含まれます。

~両価性それ自体は病的ではありませんが、それに対処できない時、レジリエンスは崩れ、病的な兆候を表わすことがあります。愛と憎しみを同時に感じることこと、悲嘆から怒りへと行ったり来たりする状態は、もし、その二つの両極性が引き起こす緊張感を認め、うまく対処できなければ、人々にトラウマをもたらしてしまうことがあります。


◆セラピーで行うこと
~両価的な感情を正常と見なすことができるかどうかは、本質的には、人々が自分の中にある葛藤を認められるよう、治療的援助を提供できるかどうかに関わってきます。

~問題となっている現象に「あいまいな喪失」と名前を付けてみること、そして原因と思われることを外在化してみることは、両価性を正常なものとして捉えるプロセスの始まりです。

認知療法と精神力動療法(たとえば、関係精神分析)の両方によって、このプロセスを続けていくために必要な方法・手段が提供されます。信頼できる人と自主的に語り合うナラティヴ・アプローチは、意識れていないことや象徴的なものを意識化させていくのに特に効果があります。

~両価的な感情については、「このこととそのことの間で、気持ちが引き裂かれてしまうように感じますか」(Pillemer & Suitor,2002)と聞くことによって、直接アセスメントをすることができます。または、間接的に、質的な、あるいは精神力動的なインタビューを通して、アセスメントをすることもできます。

~しかし、どちらかというと私は、家族面接のなかでお互いに話されている物語を聞くことによって、両価的な感情の有無を見る方法を取りたいと思います(Boss et al.,2003)。

~様々なタイプのあいまいな喪失に関わる援助を数多く経験するなかで、トラウマ化しやすい両価的感情を適切に扱うには、個人セラピーや個人を中心としたアプローチを超えて治療方法を拡げる必要がある、という確信をますます強くしています。

~既に述べたように、感情焦点化セラピー、認知療法はどちらも役立ちます。それに加えて、心理教育的、認知的、精神力動的、そしてトラウマ・セラピーを組み合わせながら、家族と地域社会を基盤とした介入を加える必要があります。一人では、これらすべてをやりこなすことはできません。

~そのような訳で私は、ソーシャルワーカー、医師、心理士、精神科医との協働を勧めるだけでなく、聖職者や緊急事態に対処する職種の人たち(警察官や消防士)、地域の教育関係者などを含む、地域社会の重要な指導と共に、協働的な作業を構築していくことを勧めたいと思います。

~地域社会の準専門家たちも重要な存在であり、その人々が、行方不明者の家族支援の訓練を災害のない時に受けているのが望ましいでしょう。そうすれば、いざ災害が起きた時にすぐ支援に入ることができます。


◆両価的な感情を正常なものと見なすのに「役に立つこと」
罪悪感や否定的な感情を、普通に起こることだと捉える。危害を及ぼす好意に関しては、正常なものと見なさない/芸術やアートなどを使って、相反する感情に対する理解を深める/個人の行為主体性を取り戻す/
心の家族を、もう一度見直し再構築する/コミュニティを家族だと見なす/毎日の役割や日課の割り当てを見直す/置かれている状況や環境について、質問してみる/両価的な感情について聞いてみる/隠れた、意識されていない両価性を明らかにしてみる/いったん意識できたら、その両価的な感情に対処してみる/葛藤を肯定的に捉える/いろいろなやり方で、両価的な感情を扱うのをよしとする/終結は両価的な感情を軽減したりしないということを知る/緊張に耐える力を育てる/認知的対処の方法を用いる


●コメント
「相反する2つの感情を同時に持つ葛藤状態は正常なものである」という理解は、まずセラピーで相手に求める前に、支援者自身が自分の事として受け入れる必要があると思いました。

前々回コラムで、判断決断とは相反する2つの事象を天秤にかけて最適バランスを取ることではないか、という内容を書きましたが、葛藤を抱え続けられないので、自分のネガティヴな感情に目を伏せて、迷ったり考えることを停止して「スパッと答えを出すこと」が仕事であると思い込んでいる人って対人援助職に限らず少なくないと思います。

もちろん判断決断が必要な場面はありますし、最終的な「結論」は同じかもしれませんが、そこに至る検討プロセスが片手落ちであれば、当然その後の「対応力」つまりレジリエンスが全然違ってくることは言うまでもありません。

視点は変わりますが、アマチュア時代はただ楽しいだけでやれていたのが、プロや仕事になった瞬間、厳しさや様々な葛藤を抱えながらやっていかざるを得ないのはどの世界でも同じだと思います。でも、元々の正の側面を感じられなくなった人はきっと長続きしないと思いますし、両価的感情や葛藤を抱えながら進めることも専門性やプロフェッショナリズムの一つのような気がします。

しかしながら、
「両価的感情の負の側面が正しく認識されずに、扱われないままであれば、不安感は抗いがたく高くなり、問題を引き起こす状態になってしまいます」

の状態だろう支援者の方に出会う事って本当に珍しいことではありません。それは「こうあるべき」の正論をゴリ押しする人や白黒ハッキリしたい人、もしくは「いい子ちゃんでいること」「ダメな自分を認められない」人にこの傾向は強いと思います。

「両価性それ自体は病的ではありませんが、それに対処できない時、レジリエンスは崩れ、病的な兆候を表わすことがあります」

は、子どもやクライエントではなく、まず対人援助職のバーンアウト状況(落ちるだけでなく攻撃的になる状態にも含めて)を思い浮かべていただくと、他人事ではなくリアリティを持って想像できるのではないでしょうか。

そして、子どもに対するあいまいな喪失やLSWの扱いに関しては、大人側の「悲しいことを思い出させるのは可哀想」とか「ケロッとしているから、もう大丈夫」という一般的見解によって、子どもに両価的感情の負の側面が正しく認識させることへの抵抗が起こることは珍しくありません。

しかし、現実社会では「本音と建前」で言った言葉と思ってる感情は異なるなんて皆体験しているはずです。それなのに、なぜか対人援助になると「あの人はこう言ってますから」という言葉尻りや表面的な様子ばかり執われて、言動の裏に隠された心情に目を向けようとしない人が時々います。きっとそのような人は、自身の両価的で複雑な感情を正常に扱えない状態なんだと思います。

なので、支援や実践云々の前に「セルフケア」「自己覚知」が大切だと何度もコラムで取り上げているのは、今読んでいただいている方はご存知の通りです。


また、
「芸術やアートなどを使って、相反する感情に対する理解を深める」方法は"なるほど"と思いました。綺麗事では済まない人間のドロドロした部分を扱った芸術作品は多いですよね。

有る意味、芸術家は自身の複雑な感情や葛藤にトコトン向き合うスペシャリストで、その一般人とは外れた感覚感性をアートという形で解放し、理解や評価される機会を得ていると言えると思います。

しかし、芸術家と呼ばれる人たちは異才の中で光が当たったごく一部に過ぎませんし、芸術家や孤高の天才でも異才な感受性を持つがゆえの孤独感に苦しみ、悲惨な最期を迎えてしまう天才も少なくありません。

そして、我われ児童福祉分野で出会う子どもは常識の枠では収まらない感覚感性の持ち主が本当に多いと思います。対人援助職である僕らは、彼らの独特な奇抜な表現をアート作品を嗜むような枠に囚われない自由な感受性でもって、そこに含まれる複雑な感情をキャッチすることが求められるんだろうなぁ、と思います。

なので、絵画、音楽、映像その他ジャンルに囚われずに色んな芸術作品に触れて、自分の感性を磨く、感情への感受性を耕やすことって、とても臨床力を上げるんだと思いますが、なんでもかんでも仕事のため義務感だと苦しくなるので、「楽しいけど芸の肥やしにもなってる」「AでもありBでもある」といったリフレイミングによるお得感、自分の変化や成長を楽しめるマインドをいつまでも持っていたいですね。

おそらく「最終的には人間力だ」という話はこういう事を言わんとしていて、決して根性とか精神論ではなく、「理性と感性」「脳と身体」の両方を統合して駆使する生身の人間全体として感受性と対応の総合力みたいな話しなんだろうと思います。

そして、統合とは両極の中間バランスを取るという事ではなくて、中庸(どちらに偏りすぎるわけではなく、状況に応じて最適な位置を見いだす)という言葉で表されるような、どちらにも揺れ動きながら戻ってくる振り子になって両極を検討しながら最適ポイントを見つけるイメージを僕は持っています。

まぁ、ご察しの通り、こんなことをぐでぐで考えてblog発信してる僕も相当変な部類かと思いますので、皆さんの豊かな感受性でキャッチしていただけたら幸いです。

セラピーに関する部分も非常に興味深いですが、長くなったので、今回はこの辺で止めておきます。

ではでは。