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静岡LSW勉強会の管理人によるコラム集

【第31回】雀鬼 桜井章一 × 羽生善治「負けない生き方」

メンバーの皆さま

雀鬼(ジャンキ)桜井章一

二十年間無敗の伝説を持つ雀士、皆さまはご存知でしょうか?

僕は最後に麻雀打ったのが20年前ですし、特別に麻雀が好きとか詳しいわけではないんですけど、「雀鬼ジャンキ)」と言う響きはどこか耳に残ってたんですよね。

その雀鬼こと桜井章一氏と、説明不要の羽生善治氏、この麻雀会と将棋会のレジェンド同士はこれまでに何度も対談をしているようで、たまたま雑誌で読んだ2人の対談が面白かったので、今回はそこから。


【負けない生き方】(致知2017.10月号)より一部抜粋。

~麻雀が面白いのは、将棋と違って最初に大きなハンディを負って始まる時があるんです。…

~でも、そういう勝つのはちょっと不可能だろうというところから、打ち方次第で五分のところに持っていけるんです。気がついたら誰も後ろにいないとかね。…

~勝負どころで面白いのは、やっぱり自分の都合が悪い時。…

~だから麻雀は、いい手が回った時だけ頑張るんじゃなくて、本当は悪い手の時にどう頑張るかが楽しいところでね。将棋でもそうじゃありませんか。…

~例えばスポーツなんかで「競技を楽しんでやりたい」って言われることがあるじゃないですか。それも大事なことだと思うんですけど、桜井さんがおっしゃる楽しいって、ただ楽しむのとは違いますよね。めちゃめちゃ追い込まれた状況を楽しんでいく。そういうところにすごく充実感なり、生きている実感なりを得られんだなということは私も思うんです。

~そうそう。その楽しみってのは、楽っていうことじゃないんだね。この局面だったら皆まいっちゃうよなって時に、どうしのぐっていうのが楽しいし、やっぱり本当の強さだと思うんですよね。


●コメント
僕は「どうせやるなら楽しんだ方がより良い仕事が出来る」と思っているのですが、「仕事は厳しいもので耐えるもの」という認識の人に対して、その意図がうまく伝えられない奥歯に詰まってるような経験が何度かあるのですが、まさに「これだ!」と言う気持ちになりました。

例えば、麻雀でもトランプ(大富豪とか)でも、いざフタを開けたら「こんなん勝てっこないよ」って手牌や手札から始まること、時々ありますよね。

でも、その負けて当然、最悪の状況から、どうやって勝機を見出すか、ほんの少しの突破口を見つけ出すことに逆に燃えたり、それが実現して逆転した時の「してやったり感」って格別なものがありませんか?

対談を読みながら、仮に児童福祉に置き換えると、児童相談所や施設職員がケースを受けた時に「ここまでこじれる前にどうにかならなかったの?」とか「問題あり過ぎてどこから手をつけたらいいの?」と思うような、支援しようにも人への不信感たっぷりで取り付く島がないような、支援のスタート時点ですでにマイナスだったりハンディ背負ってるみたいな状況とよく似てるなぁ、と思いまして。

児童福祉って子ども支援の中で言うと、サッカーで言うゴールキーパーみたいなイメージがありまして、色んなDF(支援者)がアプローチしても近寄れなかったり、上手く対応が出来なくて、目の前に現れた時には背水の陣、もう後ろには誰もいないみたいな、自分がやるしかない状況に支援者が置かれるケースって割とあると思います。

ところが、絶体絶命の状態で起こすビッグセーブがその後の流れをガラッと変えたり、相手との駆け引きの中でなるべく時間を稼いでチームワークで失点を防ぐなんてこともあって、「ピンチはチャンス」というようにピンチは否が応でも関係性に変化を起こすきっかけになることってありますよね。

限られた時間と枠の中で、今まで誰も起こせなかった変化をほんのちょっとでも起こせばスーパープレイという思考で、ギリギリの勝負や駆け引き、間合いを楽しむ感じ。追い込まれた状況こそ、支援者の思考の柔軟性がより試されるし、対談で言う「本当の強さ」ってレジリエンスじゃないかなぁ、と思いました。
 
レジリエンスって「逆境を乗り越える力」と言われるますが、「乗り越える」と言うと登山みたいに待ってるものにこちらが向かっていく感じがある一方、「逆境」や「ピンチ」ってどちらかと言うと急に降りかかってくるイメージが僕の中ではあります。
 
急に訪れたピンチの状態で、一か八かのギャンブルで動くのではなく、ギリギリまで我慢して虎視眈々と一番勝機の高いタイミングを伺いながら、そのタイミングで今できるベストパフォーマンスを発揮する、繊細さと大胆さ、持続力と瞬発力の同居。

こう言う時って、思考や理屈だけじゃなくて五感フルに使って感覚を研ぎ澄ませないと、場の流れを読み間違えたり仕掛けるタイミングを逃すと思うんですけど、同じようなことが対談でも語られています。


【対談の続き】
~考えすぎると、怪我が多くなるんです。心の怪我、考え方の怪我が。考えるのにも怪我があると僕は思うんです。

~僕が見てて、こいつ考え過ぎて怪我してやがるなって人がいっぱいいる。自分は頭がいいとか、考えることはすべていいことだと思い込んで、精神や肉体をおかしくしてしまっているんです。

~考えるって意外といい結果に結びつかないこともあるんです。人間は弱いものですから、欲とか損とか怖さとか不安とかずる賢さとか、そういうものが考えの中に入ってしまってね。

~僕は「間に合う」ってことも大切にしていて、目の前の一つのとこにちゃんと間に合わせることで物事がスムーズに進んでいくんですが、考えないということは、間に合わせるためにも大切なんです。

~人間はどこかに、頭を使うことが高等で、身体を使うことは下みたいな認識があるんですよね。頭を使っている方が利口そうに見えるとか、立場が上に見えるとか。でもその考えの中に入っているものって、結構いやらしいものも多いじゃないですか。

~考え過ぎることがよくないように、勝負もあまり力を入れ過ぎてもダメなんでしょうね。もちろん無気力はダメでしょうけど、ちょうどいい加減を知ることが大事だと思います。

~車の運転もアクセルとブレーキの加減が大事で、ぶつかるリスクがあるからといって目いっぱいブレーキを踏めばいいわけではありません。1センチの隙間さえあればぶつからないわけで、そういう小さなところまで分かって入れば、危なそうに見えても大丈夫ということがあります。

ですから少しでも細かな違いを見極めていけるようになりたいと思います。ただ実際の勝負では、いくら自分がこうなったらいいなと考えてるも、そのとおりにはなりません。ままならないことも想定して進めることも大事ですね。

~僕の場合、思い通りにならならなくてもそのギャップを楽しんじゃう。しばらくすると波に乗れるんですよ。それは自分に都合の悪い波でも、いい波でも関係ない。そのうち悪い波ばかりじゃないなとか、いい波の後には必ず悪い波が来るなとか、そういうことが分かってくるんです。

~僕は流れっていうのを体で分かっているんですよ。だから力んでやるのはダメだなって思う。緊張すれば力むでしょ。頭が真っ白になって判断に時間がかかったり、間違えたりしてしまう。そもそも判断、決断っていうより、僕は選択だと思うんです。その選択のセンスが大事だと思うんですね。

~羽生さんの場合は、山を越えた向こう側まで見通せるセンサーを持っているんだと僕は思うんです。もちろん二人でやっているから変化は起こるんでしょうけど、変化が起こればまたすぐ対応できるんじゃないかと思います。

~やっぱり羽生さんは、そういう微妙な差を大切にしていらっしゃるんですね。他の人の目が届かないところで、普段からその微妙な変化に対応している。強いひと同士の勝負になると、本当に微妙な差で勝敗が決まるけれども、そこをずっと勝ち続けるっていうことは、やっぱり微妙な差を掴み取る繊細さを持ち合わせていらっしゃるからだと僕は思うんです。


●コメント
例えば、身体で言うと、どこかに力が入り過ぎてると、全体のバランス崩れて、かえって少しの衝撃や不具合で怪我しやすかったりしますが、

対談に出てきた、考えすぎによる「こころの怪我、考え方の怪我」って、前回コラムで言う

(脳)認知・思考   -   感情(気持ち) 
                  \                 /
                    体験(身体)

の円環的な人間全体バランスが崩れているのと近いイメージなのかなぁ、と想像しながら読んでいました。
 
「頭を使うことが高等で、身体を使うことは下みたいな認識があるんですよね」は本当にそう思いますし、特に現代の一般的な資本主義的な大人社会ではその傾向が強いと思います。
 
そして思考に偏って頭でっかちになると、勉強すれば何でも予測できるし、コントロールできるはずだと言う勘違いが起こるんですよね。
 
でも、自然相手や勝負事、そして人間関係や子育てなんて「思い通りにならない」ことが当たり前ですよね。そんな当たり前の道理をわきまえず、「認知」的な支配しなければ感=社会や大人の都合ファーストで強引に事を進めようとすればする程実はバランスが崩れて不測の事態への耐性がどんどん弱くなっていくんだと思います。
 
その行き着く果てが、思考ー感情ー体験のバラバラの断絶状態。今や懐かしい【第2回】コラム
http://lswshizuoka.hatenadiary.jp/entry/2017/06/16/080247で、転んだ子どもに「痛くない!我慢!」みたいな声かけをする母親の例を出しましたが、「身体感覚や感情」と「思考認知」が明らかにマッチしない体験を続ければ(身を守るために自ら続けざるを得ない場合も含めて)、思考ー感情ー体験はバランスを崩すどころか繋がり自体が弱くなっていきますよね。そして、繋がりのシャットダウン状態、再起動までのタイムラグがいわゆる「解離」です。
 
出来る人って「感情に左右されず、論理的に判断できる人」なんて思われがちですが、正しくは「感情に振り回されず」じゃないかと思います。決してロボットように感情や感覚を無いものとしてシャットダウンして判断しているわけではないですよね。
 
どの世界でも一流の人は、感情が高ぶって気持ちに流されがちな場面でも、認知ー感情ー体験(感覚・直観)のバランスを崩し過ぎず、自分の欲や葛藤や劣等感も自覚して受け入れ、自分の思い通りにならない道理も承知し、全体を見る俯瞰的な視点と個人の感覚・直観的な視点の両方をバランス良く考慮して、最終的には自分の感性を信じて、その場や空気感の流れや波を感じ取って「選択」してるんだと思います。
 
良く、勝負事やギャンブルにはその人の人となりや性格が現れると言いますが、自分が逃げることが出来ないギリギリの臨床場面も同じような気がして、どんなに理屈や綺麗ごと並べていても最後は「人間としての総合力」の勝負になるよなぁ、と最近しみじみ感じています。
 
「負けない生き方」って、何にも負けない圧倒的な力を手に入れることではなくて、どんな場面でも自然体で対応できる柔軟性や心構え、余計な力が入っていない自然体であること。勝負事のレジェンドが語る「負けない生き方」が、今までコラムで扱ってきた対人支援のレジリエンスと重なると言うのが、非常に興味深かったです。
 
少し前に「勝ち組、負け組」なんて言葉が流行りましたが、レジリエンス的な視点を用いると、人生における「勝ち」「負け」って、自分の生き方(過去〜現在〜未来)に「意味や希望」を見出しているか否かなのかもしれないなぁ、とコラムを思い出しながらが、ふと思いました。
 
ではでは。