LSWのちょっとかゆいところに手が届く「まごのてblog」

静岡LSW勉強会の管理人によるコラム集

【第35回】バイオサイコソーシャルアプローチ①

メンバーの皆さま
 
おはようございます。管理人です。
 
しばらく次に長期連載する図書を悩んでいましたが、ようやくこれに決めました。
 

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著者の渡辺俊之氏は病人を抱えた家族への家族支援を推進し、小森康永氏はナラティヴを日本で最初に紹介した人物で、ナラティヴ・アプローチを緩和ケアで展開している、と紹介されています。
 
小森氏は【第19回】ジンバルド時間志向テスト
http://lswshizuoka.hatenadiary.jp/entry/2017/07/27/080618でも、少し紹介したので覚えている方もいるのではないでしょうか。
 
本書を選んだ理由としては、まずナラティヴというだけでLSWとの親和性が高いこと。加えて、これまでコラムで扱ってきた統合的、円環的、俯瞰的、システム論的な視点は、心身二元論を超えた「BPSアプローチ」とかなり通じるものがあるということ。
 
また第3章では「時間精神医学」という三十年以上前に確立させた精神病における「過去ー現在ー未来」の繋がりの考え方について紹介されている点もLSW的に見過ごせない一冊かなぁ、と思います。
 
まだまだ興味深い点はあるのですが、追い追い紹介していきますね。では、コラム本編です。
 
●目次 
はじめに
理論編
【第1章】心身二元論からBPSモデルへ
【第2章】エンゲルが本当に書き残したこと
                                          ―BPS批判に応える
【第3章】BPSと時間精神医学
【第4章】 二一世紀のBPSアプローチ
技法編
【第5章】メディカル・ファミリーセラピー
【第6章】メディカル・ナラティヴ・プラクティス
【第7章】BPSSインタビュー
応用編
【第8章】高齢
【第9章】プライマリケア
【第10章】緩和ケア
【第11章】スピリチュアルペイン
おわりに

●内容
今回はまず「はじめに」から。

~今や、「生物心理社会モデル」という言葉は、医療・心理臨床領域だけでなく、看護や福祉の領域でも多用されている。このモデルをどのように理解して、どのように活用するかは、各々の領域でその場のニーズに応じて行われるものであろう。しかし、共通して持っておいてほしいモデルの要点がある。病気や障害を持つ人、あるいは健康な人を、生物学的視点、心理学的視点、社会的視点と分割してみるのではなく、その相互性を考えながら統合的に理解して介入するということである。

~このモデルの臨床場面における使用の誤りが指摘されている。一つはマクダニエルがいう「分離された生物心理社会モデル」に基づく診療である。これは厳密には還元主義である。たとえば胃潰瘍を生物医学的レベルで対応して、そのレベルで対応にできないときに心理社会的アセスメントに移るという方法をもってするやり方である。このアプローチでは、疾患の原因が患者の体ではなく「頭の中だけ」あるいは「環境だけ」にあると、患者に誤解させてしまう。

~二つ目は、このモデルを「全人的医療」という誰もが使いたがる簡単な言葉に収斂させてしまうことで、パターナリズムにのった「思いやり」「共感」「人間理解」というところで思考停止させてしまう。これでは身体、心理、社会環境のダイナミックな相互性が見えなくなる。階層性を超えて互いの因子がフィードバックしあいながら影響し合っている視点を落としてはならない。

~そこで、私たちは「BPSアプローチ」と呼ぶ。臨床はモデル(視点)だけでは成り立たず、それに基づくアプローチ(接近法)があってこそ完結するからだ。

BPSアプローチとは、患者や家族のことに気持が向く実践者であれば、誰もがやっていることだ。また誰もがやれる(やれた)ことである。患者が必要としていること、患者の生活世界に思いを馳せれば、身体的・精神的・社会的な側面に目が向くものである。その相互性を踏まえてはじめて適切な治療や援助を行えるのだと私は思う。人を助けたいと思ったら、良い治療、良い関係、良い環境をそろえてあげようとするのが対人援助者だ。


●コメント
最近観たTVで「医者はよくストレスのせいにする」と芸能人が言っていて、これこそ一般的な患者の「分離された生物心理社会モデル」への誤解を示しているんだろうなぁ、なんて思いました。確かに因がよくわからない時にストレスの説明で「煙に巻く」みたいな医者も実際にはいるのでしょうが、
 
「患者が必要としていること、患者の生活世界に思いを馳せれば、身体的・精神的・社会的な側面に目が向くものである。その相互性を踏まえてはじめて適切な治療や援助を行える」
 
と考えれば、ストレスという説明は決して的外れではなくて、大切なのは説明がそこで終わらず、症状と生活習慣の相互性を踏まえた治療法を考えるための質問や対話がなされるかどうかじゃないかと。
 
しかし、聞く側も「医者なんだから病気のことは何でも分かるはずだ。現代医学はなんでも治せるはずだ」なんて幻想を持っていたり、世の中のことは科学的見地からスパッと綺麗に説明できるはずだという直線的因果論の考え方しかなければ、治療者と一緒に考える対話は成り立ちません。治療者ー患者関係も「相互性」によって成立します。一文字抜くと「相性」ですね。
 
また児童福祉分野において僕が「生物心理社会モデル」の相互性で真っ先に思いつくのが、感情コントロールが悪い「キレる子」です。もっと言うと、被虐待児のコントロールの悪さは、先天的な「器質的要因」なのか、後天的な「環境的要因」によるかなんて、脳の発達と環境の相互的な影響があるのでスパッと綺麗に説明なんてできないだろう、という話しです。
 
感情コントロールと脳の制御系の話を掘り下げると、下の図の通り「脳や神経系」は、乳幼児期に急速な容量の成長と脳の配線」は発達を遂げて、10歳には成人の脳の1/3を占める「前頭連合野」がほぼ出来上がるとされています。
 

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【参考】「脳の発達」と「生活習慣」
 
ちなみに「前頭連合野」は、行動計画に必要な情報を受け取り、複雑な行動計画を組み立て、その実行の判断を行ったり、視覚的に与えられた目標への眼球運動の制御を行う領域みたいです。
 
まさに衝動的で感情コントロールの悪い子は「前頭連合野が上手く働いていないと思うのですが、脳がドンドン育つ乳幼児期に虐待を受けている子に関しては、その不具合が生まれつきの「器質的」なものなか、不適切な環境(必要な刺激や栄養を十分に得られない、虐待受ける目撃する)による脳の発達の不具合なのかなんて、もはやハッキリわからないわけです。
 
もっと言うと「生まれつき」も厳密には変な話で、産まれる前の体の中にいる時から「必要な環境や栄養素が届かない」ことによる「発達の不具合」である可能性もあるわけで。
 
僕も勘違いをしていましたが「器質的障害」を辞書で引いてみたら、
~有機体を組織している諸器官(構造)のうえに、なんらかの損傷を受けたために生じた行動または精神面の障害(大辞林 第三版)
 
とあって、器質的にそもそも「生まれつき」なんて意味はないんですね。もともとの精子卵子の遺伝子レベルで損傷だろうが、受精してからの母体内での損傷だろうが、出生してからの成長段階での損傷だろうが、とにかく諸器官(構造)の損傷から生じた行動や精神面の障害は「器質的障害」と言えるようです。
 
すると、諸器官(構造)の損傷する「環境」が必要なわけで、遺伝子レベルの損傷だとしても、どこかの先祖がその時代の環境から受けた損傷による影響なわけです。極端な例を出せば、放射能の影響で自分の子や孫の発達に影響が出たとしたら、それを環境的要因と言わないのかということです。じゃあ「器質的要因」ってどこまでいっても「環境的要因」によるものじゃないかと屁理屈的には思うわけです。
 
放射能の例は極端ですが、虐待の連鎖を考えると、
①親の子ども時代も虐待ネグレクト
→②親自身、脳の発達が不十分促されていない
→→③その個体情報を次の世代(子ども)が引き継ぐ
→→→④さらに、その子が十分養育されない
 
と秘伝のタレみたいに、継ぎ足し継ぎ足しで知的障害や発達凸凹が続いていくのは、遺伝的要素×環境的要素の掛け算的な状況があると思うんです。逆に言えば、早期発見、早期療育を受けていれば発達凸凹が多少マイルドになったり変化が起きる可能性があるだろうことは随分言われていると思います。
 
脳の発達バランスを「雪だるま」で例えるなら、元々の発達のバランスが整っていて、雪さえあればそんなに考えずコロコロ転がすだけで問題なく綺麗な雪だるまになる系の子もいれば、元々ゴツゴツした感じで、転がすとドッタンバッタンしたり、考えて慎重に転がさないとかえって凸凹が酷くなったり割れて壊れてしまう系の子もいるような個体差はあるんだと思います。たとえ同じ親のきょうだいであっても、生まれ持ったものは全然違いますよね。
 
さらに感情コントロールの「生物×環境」の相互性を言えば、例えば一般よりも高い過敏性を持った人はいるのは事実です。そして身体感覚は感情と繋がりやすいので、生まれ持った過敏さ鈍感さによって、感情が揺れやすかったり揺れにくい、つまり感受性の個体差はあると思います。
 
しかし、乳幼児期の脳や神経系の回路は柔軟に変化する可能性があるので、元々持っている自分の感覚とそれに付随する感情と上手く付き合っていけるかどうかは、乳幼児期の経験によって神経系がどう適応的に進化したかによる所も大きいんだろうと思います。ご存知の通り、発達障害を持つ人がみんな暴れるわけでもキレやすいわけでもないですよね。
 
養育者目線で言えば、その子の特徴に合わせて色んな経験や体験を積ませたかどうか。もっと言えば過敏で泣きやすい子は、ヨシヨシされて感覚感情を納めていく練習がたくさん必要で手がかかるが、そのお陰で神経系や脳の回路が繋がったり整ったりしているということ。これは「アタッチメント」の話そのもので、感受性が悪いとアタッチメント形成が遅れる傾向はありますが、決してアタッチメント形成ができないわけではありません。
(参照【第29回】コラム)
 
しかし、アタッチメントや感情が不安定な養育者が、過敏な子どものイライラ感情感覚を一緒に収めていく経験を共に積むことがいかに難しいかは想像に難くないですし、加えて流行語のワンオペ育児」じゃ身が持ちませんよね。
 
人間は本来集団養育する生物で、日本だってほんのひと昔前の乳母や祖父母に育てられた人たちが皆アタッチメント形成が出来てなかったなんてことはありませんよねアタッチメント対象は複数あって良くて、イライラを収めるだけじゃなくて、視線が合う、声かけで笑うと言った何気ない情動体験を含めて、要は脳や神経系の回路が繋がる体験をいかにたくさん積めるか否かが、その子基礎を作るわけです。
 
ネグレクト児の状態や予後が重たい理由がそこで、そもそも脳や神経系の基礎や回路が未発達ということです。逆に言えば、身体的虐待を受けていたとしても、乳幼児期は誰かに可愛がられていたとか、学校がはじまり勉強絡みから虐待的になったなんてケースは、もともと乳幼児期に培った脳や神経系の基礎を持っている可能性があるわけです。これが生育歴が重要な理由ですよね。どんな石でも磨けば光りますが、やはり原石の種類によって光り方の伸び代に差が出るのが現実です。
 
なので、屁理屈をこねた「器質的/環境的要因」については、
【器質的要因】理由はどうあれ諸器官(構造)になんらかの損傷や発達不具合を乳幼児期までに起こし、もはや時期的に変化が難しくなっている部分
【環境的要因】状況によって現在持っている力が発揮されないが、諸器官(構造)的な資質に問題はなく、環境次第でフラットな状態に戻れる柔軟性がある部分
 
なんて理解で、僕の中では落としました。
 
脳や神経系の発達に合わせた育成は、スポーツ界で「ゴールデンエイジ」という言葉で言われるようですが、その時期を逃すと技術が身につかない手遅れみたいな誤解がよく生まれるそうです。そうじゃなくて、10歳までは偏りなく様々な経験をさせて、色んな神経回路を繋げましょう、身体コントロールの基礎を高めましょうという話です。
 
スポーツだけじゃなくて、10歳前後でおそらく育成の方向性が変わるんだと思います。ある療育雑誌の思春期特集で、思春期以前は「安全のために保護する時期」、思春期以降は「失敗を担保する時期」と書かれていて、なるほどなぁと思いまして。脳や神経系で言うと、思春期までは「容量や回路を増やす」時期、思春期は「全体を統合して上手く使いこなす練習をする」時期なんじゃないかと思うんです。
 
それは【第32回】現役目線「プロとしての成長とは」
プロに入ると「成長」の意味合いが少し変わります。プロに入るまでの「成長」が、自分が持っているものを増やしていくことだったのに対し、プロに入ってからの「成長」とは、それに加え、自分が持っているものを試合の中で表現できるようになることに変わります。
 
にも通じる話で「レディネス(準備性)」という言葉がありますが、会話でもお笑いでもスポーツでも「確かに間違いじゃないんだけど、タイミングが違うんだよ」ってこと、ありますよね。養育や育成でも似たようなことが言えるじゃないかなと。
 
「精神的な発達段階に合わせて~」なんて言うと、目に見えないし分かり難いし、いつまでも甘やかしてばかりじゃダメだと保護者が焦る気持ちになるのは当然だと思いますが、脳の発達段階や未発達な部分という理解で、段階や状態に合わせた体験や子どもにとって吸収率のいい方法という観点で話したら少しは理解を示してくれる理系っぽい人もいると思います。
 
NHKスペシャル「ニッポンの家族が非常事態!?我が子がキレる本当のワケ」
 
でも取り上げられていましたが、思春期は親離れの時期で、身体的な成長変化も大きくホルモンバランスが崩れて不安定な状態ではあるけど、脳の学習機能はとても高まっているらしいですよね。
 
安定ばかりが成長を促すわけじゃなくて、不安定な状態をどう乗り切るかって年齢関係なく人を成長させると思います。まさしく「レジリエンス」の話です。時に若気の至りと言う無鉄砲に思える行動をしながら、主体的に動いては失敗したり試行錯誤を重ねて自分の持つ資質の中で上手くやりくりする体験を積む時期なんだと思います、思春期って本来。
 
思春期は「失敗を担保する時期」って言われれば、そうだよなぁと思いつつ、社会的養護になると年齢的に使える資源がホント限られますし、大き過ぎる失敗は生活場所を失うことに直結してしまうので、社会的養護の思春期は生物的視点とは真逆の「失敗が許されない」環境に現実なってしまっているよなぁ、と感じてしまいます。
 
持っている資質自体に個体差があるわけですから、それをどう活かしたり上手く使えるようにするかは、人がレールを敷いて教えられるものではなく、自分で試行錯誤やって体験していくしかないと思うんです。このような生物的成長を踏まえた思春期前後の支援の切り替えを、現実の資源の中でどう折り合いをつけて形にするのかって、自立支援を考える上では外せない要素ですけど、結局答えが出ない「理想と現実」のジレンマで、いつも頭を抱えています。
 
話が拡散しすぎて、自分でもよく分からなくなってきましたが、生物心理社会モデル」身体的・精神的・社会的の相互性は大事なんだけど、このように考え過ぎると、堂々巡りの迷宮に迷い込んでしまう難しさもあるなぁ、と思います。
 
その意味では、
「臨床はモデル(視点)だけでは成り立たず、それに基づくアプローチ(接近法)があってこそ完結する」
 
はその通りだと思いますし、現実には「時間」という縛りの中で、全体を偏りなく俯瞰しながら「選択」していく作業になるんですよね、きっと。
 
この機会に本書を読み返しながら、そんな頭の整理が少しは出来たらと思います。
 
ではでは。