LSWのちょっとかゆいところに手が届く「まごのてblog」

静岡LSW勉強会の管理人によるコラム集

【第36回】DSMやエビデンスへの固着

メンバーの皆さま

おはようございます。管理人です。

気がつけば9月も終わり。早いものです。

まだ暑いので秋って感じがしないのですが、秋花粉はこの時期ピークのようですね。

僕はここ数年「これは風邪の引き始め!」と自分に言い聞かせて花粉と付き合っているのですが、いつまで誤魔化しきれるのやら…

それでは、コラム本文です。

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●目次 
理論編
【第1章】心身二元論からBPSモデルへ
【第2章】エンゲルが本当に書き残したこと
                                          ―BPS批判に応える
【第3章】BPSと時間精神医学
【第4章】 二一世紀のBPSアプローチ
技法編
【第5章】メディカル・ファミリーセラピー
【第6章】メディカル・ナラティヴ・プラクティス
【第7章】BPSSインタビュー
応用編
【第8章】高齢
【第9章】プライマリケア
【第10章】緩和ケア
【第11章】スピリチュアルペイン


●内容
今回は第1章「心身二元論からBPSモデルへ」。
~今日の医学の発展は心身二元論と還元主義的が駆動してきた。デカルト(1596-1650)に端を発する心身二元論により、心と身体は認識対象として分離されてきた。

~医療者の視点は身体に向き、その結果、身体医学は体を機械のような仕組みとして理解し、還元主義を方法論にして、人間から臓器へ、臓器から細胞へ、そして細胞から分子へその疾患の原因を究明する展開を見せた。

~一方、心を扱う精神分析をおいては、精神分析においては、精神現象を意識してから無意識へ、心を超自我、自我、エスという部分に分けて考えると精神分析が台頭した。それも現在の体験の原因を幼児期体験に遡って探索するという還元主義に乗っていた。

※【還元主義】
多様で複雑な事象は単一の基本的要素に還元して説明せねばならないとする態度。
②物体に関するすべての命題は、直接与えられる経験を記述する命題に還元(翻訳)可能でなければならないとする認識論上の立場。特に科学論理について、直接観察できない理論的対象は観察可能なもの還元されないかぎり、持ち込むべきではないとする考え方。
                                                   (大辞林より)

~科学技術は進歩し、遺伝学や分子生命科学が急速に発展し、医学は生物的学モデルを軸に発展してきた。医師は学生時代から還元主義に根ざした生物学的モデルを徹底的にたたきこまれる。それは医師になってからも続く。その結果、ほとんどの医師は身体モデルへの固着を引き起こし、医師の視野は、患者よりも患者の体、体から細胞、さらには分子へ狭窄していくのである

~医師の多くは「がんの進行具合」「治療の作用と副作用」については上手に説明するが、「がん患者の体験や心情」はしばしば多忙な日々の中で置きざれにされる。

~精神医学においても憂うべき状況が続いている。アメリカ精神医学会が作成した診断基準であるDSMは、本来は多軸診断であり、身体的次元、精神的次元、心理社会的問題などの5軸あり、各次元の相互性を考えるという点において、BPSモデルに基づく優れた診断マニュアルである。

~しかし、I軸(臨床疾患、臨床的関与の対象となることのある他の状態)とII軸(パーソナリティ障害、精神遅滞)しか臨床に活用されず、III軸(一般身体疾患)、Ⅳ軸(心理社会的および環境的問題)、Ⅴ軸(機能の全体的評価)の記載を省略する医師が増えた。

DSM-Ⅳの著者は多軸診断を希望しないと臨床家に「非多軸方式」を勧めているが、そこにはこう書かれている。「多軸方式を用いることを希望しない臨床家は、適切な診断をあげておくだけでよい。この方式を選ぶ者は、その患者の介護と治療に関係あるすべての共存すること精神疾患一般身体疾患、および他の因子を記録することという全般的な規定に従うべきである。主診断、または受診理由を最初にあげておくべきである」。つまり著者自身はI軸とII軸だけをとりだす事を決して推奨しているわけではない。

~ある状態に与えられた「診断名」は全体を表しているわけではない。…診断名の影に隠れている部分は見えない、見ない精神科医も増えた。私たちが医師になった頃は、精神科カルテにジェノグラム(家族関係図)を記載するのは当たり前であった。ところが電子カルテがすすんだ影響もあるのか、家族という変数、いやシステムを考慮しなくなったのか、カルテからジェノグラムが消えつつある。

~現在の精神医学は「DSMへの固着」、正確には「I軸・II軸への固着」を引き起こしていると言って過言ではないだろう。

~操作的診断に基づくEBM(根拠に基づく医療)が精神医学の治療水準を上げたことは間違いない。しかし、その方法論についてもまた、臨床医は検証的な視点を持つべきではないか。ある薬や治療法の効果検証は、「平均値」の改善と危険率の検定をもって決定される。しかし、統計学の知識があれば誰もがわかるだろう。外れ値は常に存在する。例外がある。外れ値や例外にも理由があるはずだが、その検証はされずに結果から外される。平均値に傾けば個別性は無視される。物語に平均値はない。それは個別性なものである。そして、EBMへの警鐘のように登場したのがNBM(物語に基づく医療)であることは言うまでもない。


●コメント
まぁ文章の切れ味が鋭いですよね。著者と同じ精神科医の立場で読んだら、どう感じるんだろうなんてシンプルに思いました。

普段、著者が指摘するようなDrに苦労している方もいらっしゃるとは思いますが、ご察しの通り全然これは精神科医に限定した話ではないですよね。

児童福祉の虐待における「発達障害」「脳への影響」の科学的知見は、見方によっては本書で指摘される心身二元論還元主義的考え方による原因追求やアプローチの細分化として受け取ることも出来て、使い方によっては「木を見て森を見ず」に陥る危険性って、ある気がします。

平たく言うと、対応に困る子は何でも「脳や発達障害というその子の生まれ持った生物学的問題であって、それを見守る環境、本人の内面(こころ)と切り離される考え方です。

前回コラムでは「発達×環境」の相互作用はありますよね、という話しは触れましたし、【第30回】感情焦点化セラピーの特徴「感情を体験することを目指すのではなく,感情体験がどのように自己を作り出し,自己によって感情体験がどのように作り出されるかという循環的なプロセスを重視する」は「心理×認知」の相互作用を言っているよなぁと思います。

~医師の多くは「がんの進行具合」「治療の作用と副作用」については上手に説明するが、「がん患者の体験や心情」はしばしば多忙な日々の中で置きざれにされる。

はストレートな表現で、児童福祉現場でも「虐待」「発達障害」「解離」などが語られる中で、支援者のHow to(どうする)ばかりの話しが展開され、「本人の体験や心情」がないがしろにされる場面って多分にある気がします。

そこで「本人の体験や心情」に目や耳を傾けましょうという文脈の一つにLSWがあるのかなぁ、という気がしますが、しかし現場の方々はお分かりの通り、語りだけ丁寧に傾聴するだけでなんとかなるわけでもないですよね。片手落ちでは不十分なんです。

(前回コラム)
~このモデルの臨床場面における使用の誤りが指摘されている…のモデルを「全人的医療」という誰もが使いたがる簡単な言葉に収斂させてしまうことで、パターナリズムにのった「思いやり」「共感」「人間理解」というところで思考停止させてしまう。これでは身体、心理、社会環境のダイナミックな相互性が見えなくなる。階層性を超えて互いの因子がフィードバックしあいながら影響し合っている視点を落としてはならない。

ので、「過去ー現在ー未来」の「縦軸」の視点だけに偏らず、例えば「虐待ートラウマー発達障害ー知的障害ー家族関係ーアタッチメント」等々の身体ー心理ー社会環境の「横軸」=同時期の繋がりや影響も見ていく。中島みゆきの「糸」じゃないですが、縦の糸と横の糸が織り成す布で構成される全体の相互性で見る必要があるのかなと。一部を締めたり緩めたりすれば全体の形に影響してきますよね。

先日ある同僚と「アセスメント」と「見立て」について話していまして、僕が"アセスメントは情報収集や評価の「点」で、見立ては点を繋げて「面や立体」で多角的に見るイメージ"だと伝えたところ、同僚が「星座」に喩えてくれて上手いなと思いました。星の集まりを「何座」に見るかは、その人がどう想像するか次第だと。そして想像力を働かせて、どう間を埋めるかは「見立てる力」によると。

星は大きさも光り加減もそれぞれ違います。それをまず見つけられるか、そして正確に色形を捉えられるか、さらにそれを集合体としてどうまとめるか。そして点と点の間の線を引くためには、その人のストーリーを聞いたり、そこから想像力を働かせることが必要で、色んな線が縦横に引ける程と見立てが「分厚く」なると言えるのかなぁ、と。

最近「そこだけ切り取ったり強調すると、全体としては全然違う話しになっちゃうよ」って感じる場面が、お客さんレベルではなくて、支援者同士のレベルでも結構ありますが、それ自体が良い悪いではなくて、もはや、そういうものだと受け入れないといけないんだと思うようになりました。その人の経験、知識、価値観、感覚によって、同じ物を見ていたとしても、印象に残る部分や解釈の仕方に「差」は生まれるのは当然ですよね。

だからこそ、1人で全部の視点を網羅できるわけではないし、多軸で見れば答えは一つではないので、多職種連携のチームアプローチが重要なんだろうなと。少なくとも情報を集めたり報告を聞く側は、色んな支援者の多角的な視点を統合して物事を判断選択する心構えが必要なんだと思います。

また、
DSM-Ⅳの著者は多軸診断を希望しないと臨床家に「非多軸方式」を勧めているが、そこにはこう書かれている。「多軸方式を用いることを希望しない臨床家は、適切な診断をあげておくだけでよい。この方式を選ぶ者は、その患者の介護と治療に関係あるすべての共存すること精神疾患一般身体疾患、および他の因子を記録することという全般的な規定に従うべきである。主診断、または受診理由を最初にあげておくべきである」。つまり著者自身はI軸とII軸だけをとりだす事を決して推奨しているわけではない。

これも割り切った話で、前提がチームアプローチではなく個人アプローチの判断基準なのかなと思いますし、現実はこうだよなとも思いました。LSWに例えると、支援者全員が子ども将来や体験、心情の事まで考えることを希望しないし出来るとは思わないので、希望しない人は、せめて記録のこれとこれとこれは残して下さい、と規定したみたいな話ですよね。

多軸診断を示しているのに、"希望しなければ「非多軸方式」を勧める"って一見矛盾してますし、超妥協なんだと思いますが、現実を直視したリアリストな決断だと思います。本書のDSMの話は、そう言った支援者の視点や切り口の個人差、多様性、狭まりの現実を、実に良く表していて見事だなぁと思いました。

平均値の話もまさにその通りで、僕はいつも児童相談所にくるケースは基本的に「外れ値」だと思って対応しています。以前、社会的養護児童は日本のこどもの約0.2%と【第23回】コラムで取り上げましたが、

基本的には、誰にも止められなかった数百人~数千人に1人の地区選抜、県選抜の逸材が児相までたどり着いてるんだから「ズバ抜けて普通じゃない」のが当たり前で、個別性を見ながらオーダーメイドで支援を考えなきゃ通用しないでしょ、と思います。

~現在の精神医学は「DSMへの固着」、正確には「I軸・II軸への固着」を引き起こしていると言って過言ではないだろう。

とはありますが、児童福祉でもEBMへの固着」、もっと言えば「プログラムへの固着」に陥っていることもある気がします。プログラムをやることが「目的」になっている事態です。

ただ、支援をいちから全部オーダーメイドしている時間も労力もないので、「アセスメント」に基づいて、これを加えたらこうなるんじゃないかなという「見立て」を元に、方法論として既存のプログラムを選んだり組み合わせたりアレンジするわけですよね。

その完成形とそれに至る配合の化学変化を想像したり、それを微調整しながら実現していくのって、なんだかバンドや料理と似ているなぁと想像しました。

何でもたくさん入れれば良いってもんでもないし、奇抜なだけでもダメで、シンプルに素材の良さを活かす視点を持ちつつ、状態に合わせて弱点を上手く隠す技術も求められる。普遍性と個別性の融合と言いますか、普遍的に良い物に共通する要素を残しながら、全体を台無しにしない程度に個別性をミックスさせる。

虐待、発達障害、知的障害、家族関係、アタッチメント…等々それぞれを一言で言っても状態は千差万別です。それぞれのアプローチは示されていますが、当然それにもピタッと当てはまらない「外れ値の外れ値」は存在するし、残念ながら児童福祉のケースは多問題なので単一アプローチでは事足りません。

何を足したら、全体にどう影響を及ぼし、どんな流れになりそうか考え感じながら、時には即興でのアレンジ微調整が必要になります。プログラムをきちんとやれているかの発表会ではなく、相手とのやりとりの中でいかに良いものを作りあげるかのLiveです。

そう言う意味では、プログラムは「楽譜」「レシピ」的なものなのかもしれません。その通りにミスなくできて習い事レベル。プロはその中で+α何を表現するのか、またはより良いものをいかに作るか、技術とイデア、創造力や感性の勝負になりますよね。

もちろんこれは比喩表現で、分野や職場の文化によって求められるものも違うし、アレンジ可能な範囲も変わるんだと思います。

ただ少なくとも今の日本の児童福祉臨床は、まだまだ未整備でフィーリングとタイミングでハプニングを乗り切ることが求められるストリートのような状態だと思っているので、綺麗にレコーディングできる歌手より、路上パフォーマンスやLiveでより良さが発揮されるアーティストのような臨床家が求められると思うし、そうありたいなぁ、なんて思いました。

ではでは。