LSWのちょっとかゆいところに手が届く「まごのてblog」

静岡LSW勉強会の管理人によるコラム集

【第39回】「方法論/認識論」による4つの象限

メンバーの皆さま
 
こんにちは。管理人です。
 
10月に入り、さすがに気温が落ちてきましたね。一応、昨日10/2から長袖シャツで出勤してみましたが、所内ははかなり蒸し蒸し(汗)。
 
季節の変わり目は、やはり調節が難しいですね。
 
では、コラム本文です。
 

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●目次 
理論編
【第1章】心身二元論からBPSモデルへ
【第2章】エンゲルが本当に書き残したこ
                                          ―BPS批判に応える
【第3章】BPSと時間精神医学
【第4章】 二一世紀のBPSアプローチ
技法編
【第5章】メディカル・ファミリーセラピー
【第6章】メディカル・ナラティヴ・プラクティス
【第7章】BPSSインタビュー
応用編
【第8章】高齢
【第9章】プライマリケア
【第10章】緩和ケア
【第11章】スピリチュアルペイン
 
 
 
●内容
今回は、第2章「エンゲルが本当に書き残したこと ―BPS批判に応える」。
 
超要約すると、①エンゲル(米)のBPSモデルに、②ナシア・ガミーというイラン生まれの精神科医がケチつけて(批判です)、③エンゲルはこう答えている、と言う内容なんですが、
 
「古文書漁りにずっとつきあって頂いた読者の方の疲労も考え、これで本章はいったん締めくくることにするが」と著者自身で言っちゃうくらい、とにかく医学論文の引用だらけで小難しく、読んでて正直疲れます。
 
この章の最後にある【本章の要約】はこんな感じ。
~まず、エンゲルが1977.1980.そして1960年の三論文を取り上げ、BPSの概略を示した。シア・ガミーの批判は、下記の二点に集約される。(1)BPS精神疾患においては身体疾患におけるほど適合しないのではないか。(2)BPSの科学性が低いのであればヒューマニズムと変わらないし、科学性が高いと言えども精神分析的なので教条主義的である。これらの批判を吟味するために、心身医学、医学教育、ヒューマニズムそしてベッドサイドの科学性という関連領域を取り扱った文献を精読した。
 
これだけでも小難しさが伝わると思います。なので、かなり簡略化して紹介しますので、細かい内容に興味がある方は本書で確認してください。
 
では、まず【ナシア・ガミーの批判】から。
~料理をするには、単に材料リストを知るだけでは十分でない。それぞれの材料をどれだけの量使うべきかを知っておく必要があるし、またどの順番で使うかも知っておく必要がある。生物・心理・社会モデルは、精神医学における重要な側面をリストアップしているに過ぎない。このモデルは、それぞれに異なる状況でのそれぞれに異なる精神医学的病態において、それら三つの側面をどのように理解すべきかという点については、何も言ってはくれないのである。結果として、このモデルは折衷主義となり、そうなると臨床家は、基本的には、自分がしたいと思うことならなんでもしてしまうということになってしまうのだ。
『現代精神医学原論』(2007)12項
 
これは、ナシア・ガミーが引用しているマクヒューとスラヴニー(1983)の生物・心理・社会モデルに対する(史上初の)批判らしいです。BPSモデルは料理レシピでなく料理材料リストに過ぎない、と。
 
さらに、
~ナシア・ガミーはさらにそれを展開し、教条主義、折衷主義、統合主義、そして多元主義の四者において、めざすべきは後二者であり、前二者は許容しがたいと主張する。特にBPSモデルに対しては手厳しい。「全てのアプローチが同程度に妥当である、と単純に考えて言うことが、その答えではない」「すべての方法が同時に組み合わせて用いられるべきであるというあいまいな考え方である」「彼らは自分たちが(実践場面では)たいてい教条主義者であることをもはや認識していない」「基本的には、精神医学に最も優れた説明を与えうるのが何であるのかについて、単一の視点を持たない人たちのことである。あるいは彼らは不可知論の立場を主張することもある」など。
 
 
対する、著者が読み取る【エンゲルの回答】は、「はい、もともと、そのつもりですけど」という感じ。ただ、このような誤解的な批判が起こった事態について著者はこう説明しています。
 
BPSが「三つのレベルすべて、つまり生物学的、心理学的、そして社会学的レベルが、すべてのヘルスケア課題において考慮されなければならない」という折衷主義的主張ではなく、然るべきタイミングで、患者に必要なレベルでの介入がなされなければならないとする多元主義に見合うモデルであることが読み取れる
 
~北米におけるBPSモデルの実践は、そのような批判に値するようなものなのかもしれない。さまざまなモデルが、誕生した地においてその本質を見失うことは、歴史の教えるところである。また、ナシア・ガミーがエンゲルの1977年の初期論文しか参照してないことも彼がその批判を現在の平均的実践に向けていることを推測させる。
 
ただ、ナシア・ガミーも事情は汲んでいるようで、
 
~「BPSモデルは、これまでイデオロギーを別のイデオロギーで置き換えるための(あるいは、もしかするとイデオロギーを隠すための?)ひとつのお題目のようになってしまった。慎重で繊細なBPSモデルの理論家たちやエンゲルが、このようなことを意図したわけではないことは間違いないだろうが、このモデルは、知的怠惰への弁解へと変容してしまったのである」
 
と、BPSモデル自体と言うより使われ方を批判している様子。もしかすると、ナシア・ガミーは「もともと、そのつもりじゃなかったとは思うんだけど、今じゃBPSモデルが誤解されて臨床の手抜きの理由に使われちゃってるのは、マズいんじゃない?」的な気持ちだったのかもしれませんね。
 
 
では最後に、見慣れない「◯◯主義」という言葉についての【著者の理解】を紹介します。
 
~認識論が複数か単数か、方法論が複数か単数か、それぞれを縦軸、横軸にとって、四つの象限を想像して頂きたい。
 
                        複数の認識論
                                ↑
              【多元主義】 l 【折衷主義】
 単数の                       l                     複数の
 方法論   ←  ー  ー  ー  ー  ー  ー  ー  →  方法論
                                l
              【教条主義】 l 【統合主義】
                                ↓
                         単数の認識論
 
図、臨床におけるさまざまな主義(本書より)
 
 
~となると、第一象限は、認識論は複数で方法論も複数の折衷主義、第二象限は、認識論は複数だが、対象にその時点で最上の方法論を選択すべきだとする多元主義第三象限は、認識論も方法論も単一の教条主義そして認識論はひとつだが方法論は複数揃えた統合主義となる。
 
~結局、これから私たちが書こうとしているこの本では、BPSは折衷主義ではなく多元主義であるし、そのような努力を惜しむべきではないと主張する。
 
~図のシェーマ(図式)に実例をあてはめるなら、以下のようになるだろうか。
【第一象限】なんでもありのBPSモデル
【第二象限】臨機応変BPSモデル
【第三象限】硬直した精神分析
第四象限】あらゆる介入が統合された時間精神医学
 
 
●コメント
それぞれの主義の変遷について、もう少し詳しく知りたい人はコチラ、「精神医学における生物・心理・社会モデルの今後の展望について」(中前、2010)
 
また、最後に出てきた「時間精神医学」については、本書のメイン「第3章」でじっくり紹介します。
 
で、この章に戻りますと、最近、昔のSF映画や小説が実際の21世紀現代のことを予言し当てていた、なんて話しがチラホラありますが、このBPSをめぐる1970年からの論争の歴史を始めて読んだ時、まさにこれから起こるLSWをめぐる論争を予言した「映画・小説」を観ているようで、鳥肌が立ちました。
 
LSWは、はっきりした方法論や認識論の定義がないので、それゆえ何をするのかは支援者次第「なんでもあり」のLSWが展開される危険性をはらんでいるし、その平均的実践を批判するナシア・ガミー的な人が現れる未来は、容易に想像が付きます。
 
もっと具体的に言うと、LSWを実施するHow toばかりに囚われて、ベースとなる生活臨床が疎かになったり、臨機応変さが無くなったり、アタッチメント・トラウマ・グリーフ等の専門知識の勉強が置き去りなる事態です。
 
四つの象限の図で置き換えると、支援者の考え方で、
【第一象限】なんでもありのLSW
【第二象限】臨機応変のLSW
【第三象限】硬直したナラティヴ/真実告知
第四象限】あらゆる介入が統合された
                   「過去ー現在ー未来」の時間を繋ぐ支援
 
なんて実践の分類ができるかもしれませんね。LSWに否定的な人の意見を聞いていると、たいてい「なんでもありのLSW」か「硬直したナラティヴ/真実告知」をイメージしているような気がします。
 
方法論・認識論が広がり過ぎても、狭まり過ぎても良くなくて、方法論・認識論どちらか片方は軸足として地につけながら、もう片足は自由に臨機応変に動かせる余地を残す「臨機応変のLSW」や「あらゆる介入が統合されたLSW」へ。なんとなく、これは前回コラム「コンセプトの融合」、何をベースに何を積み上げるかと言う話に繋がるような気がします
 
まず【第二象限】
~認識論は複数だが、対象にその時点で最上の方法論を選択すべきだとする多元主義
 
を考えると、個人的に意識しているのがコチラ。

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ご存知「マズローの欲求階層説」ですが、虐待問題を扱っていると、まず生理的欲求や安全欲求を満たすことがいかに安定的な生活には必要で、それなしに「友達と仲良く遊ぶ」とか「勉強に励む」とか「将来の夢を持て」とか全然求める順番が違うよ!と実感する場面が多々あります。
 
そう言った健全な育ちに必要な支援の順番を意識する中で、然るべきタイミングで必要なレベルのLSWの実施を考えるなら、それは多元主義的「臨機応変のLSW」と言えるかもしれませんね。
 
ちなみに、支援の優先順位を考える上で、マズローの欲求階層説を、脳の構造的に考えると、

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脳幹から大脳辺縁系大脳新皮質と内側から外側に、動物的な本能の所から哺乳類な感情、人間的な理性の所に向かっていくイメージに近くて、僕的には欲求階層説の順番が腑に落ちています。
 
【第7回】コラムでも触れましたが、「感覚ー感情ー理性」のバランスを取る程度ならいいですが、過度に「理性」を効かせ過ぎて「感覚・感情」を抑えるような状態は、構造的に無理があって、どこかがシワ寄せで悪くなっていくんだろうな、と思います。
 
 
また、話を戻して【第四象限
~認識論はひとつだが方法論は複数揃えた統合主義
 
の視点で考えると、LSWを、認識論の軸足を「時間」においた『あらゆる介入が統合された「過去ー現在ー未来」の時間を繋ぐ支援(仮)』の方法論の一つとして捉えることもできるかもしれません。
 
例えば、
【過去】
生い立ちの整理やルーツを知ると言った一般的にイメージされているLSWや真実告知
これまで経験した喪失体験で表現したり扱われてこなかった未完の感情を完了させるグリーフケア
・凍結している過去の恐怖体験の記憶や感情を扱うトラウマ治療(認知ーナラティヴー身体など)
【現在】
・規則正しく健康的で安定した生活リズム
・覚醒水準(意識の明確さ)を適切な状態に整えて現実感を高めるワークや取り組み
・現在の対人関係でのアタッチメント修復的な支援
・いま現在の離れて暮らす家族との交流や情報整理
【未来】
・未来語りのナラティヴ・アプローチ、未来語りのダイアローグ(対話)
・CCP(キャリア・カウンセリング・プロジェクト)のような具体的未来をイメージする支援
 
パッと思いつくところでこんな感じです。もちろん、これが支援の全てとは思わないですし、これらをどこまでLSWと呼ぶのかは正直よくわかりませんが、もはやハッキリ線引きする必要もないのかもしれません。
 
大事なことはLSWか否かではなく「子どもの最善の利益」で考えて、その子にとって、その時に必要な支援が展開されているか。しかし、この言葉こそ、子どもにとって良ければ「なんでもあり」の折衷主義になる危険性を秘めている言葉だと、かねがね思っていました。
 
そういう意味では、この章はLSWに関する考察のみならず、数年来のモヤモヤを一つ解消してくれたと言うか、臨床の基本的姿勢についての整理と理解を深めてくれたバイブルとして、今後も大切にしていきたい本の一つになりました。
 
では、次回以降は本書の(個人的な)メインである時間精神医学」について見ていきます。
 
ではでは。