LSWのちょっとかゆいところに手が届く「まごのてblog」

静岡LSW勉強会の管理人によるコラム集

【第55回】藤井四段にみる「守破離」

メンバーの皆さま
 
あけましておめでとうございます。管理人です。
 
今年も「まごのてblog」をよろしくお願いします。
2018年はじめの一手は、元旦の読売新聞に掲載のコレから。(読売新聞、取ってないですけど)
 
羽生竜王と藤井四段が特別対談、「2018年の一手」を語る
(動画公開は1/7までみたいです)
 
昨年は藤井聡太四段の「公式戦デビュー29連勝」から、羽生善治竜王の史上初「永世7冠」獲得と、一年通じて将棋界が盛り上がってましたよね。
 
そんな旬な2人の対談。新年から豪華だなと。
 
すでに動画をご覧になった方も多いと思いますが、羽生さんがテンション高めのはしゃぎ気味なのに対して、藤井くんが「はぁ…。まぁ…。」と合わせてる感じのコントラストが笑えました。もちろん羽生さんリップサービスもあるとは思うんですけど。
 
で、取り上げたいのはソコではなくて、対談の内容で「おっ」と思う部分がありましたので少し紹介します。
 
 
■対談(中盤)
コンピューター導入によって格段に将棋研究のスピードが上がったという話題】
 
羽生「彼(藤井四段)は最近の将棋の定石セオリーを作り始めている側面もある。(最新型の将棋を)もう覚えうる段階は終わっているんじゃないかなと。覚えてるのかもしれないけど(笑)」
 
藤井「そうですね…。最新型の研究は、たまにはしてますね。(羽生:え⁉︎してるんだ)それよりもどのような局面でも通用しうる判断とか感覚を付けるのが大事かなと思っています」


●コメント①
文字起こしのために何度か動画を見直しましたが、やっぱり羽生さんがほぼ喋ってますね(笑)
 
で、面白いのが藤井四段の言葉。コレって、
 
【第50回】「文化づくり」は「言葉づくり」
の岡田メソッドの所で触れた「型」と「守破離」の話しですよね。簡単にまとめると、
 
守:既知のセオリー(型)どおりにやってみる。忠実に教えを守る。 【真似る段階】
破:あえてセオリーに逆らってみる。他も研究してアレンジしてみる。【考える段階】
離:既知のセオリーとは違う独自のセオリーを見つける。【独自の世界を創造】
 
PC将棋ソフトって、感情も恐怖心もプレッシャーも全くない、冷静沈着・冷徹無比の何億手先を読んだガッチガチの理詰め100%なんで、古くから脈々と受け継がれてきた将棋の「セオリー」では考えられない一手を打ってくる、言わば「破」なわけです。
 
この「破」を小さい頃から当たり前に触れられる世代で育った藤井四段。確か、師匠の助言で小3〜4くらいからAI将棋を研究材料に取り入れた始めた(それまでは触れないでいた)と言っていたような。
 
なので、これまでの将棋の棋譜も踏まえた上で、感覚が柔軟なうちからAI的な感覚も取り入れた新旧融合の「新セオリー」を作り始めている「離」の世界に足を踏み入れつつあるのでは、というのが羽生さんのコメント。
 
それに対する藤井四段の返しが、
「それ(セオリー)よりもどのような局面でも通用しうる判断とか感覚を付けるのが大事かなと思っています」
 
実は、かつて羽生さんは著書「直感力」(2012)で、研究され尽くしたセオリーを超えて自身の直感を信じることの大事さを説いているんですよね。
 
藤井四段はそれをわかっているのか「いえいえ、セオリーを作るなんてそんな大層なことはしてません」というような謙遜の雰囲気を纏いながらも、内容的には仙人が羽生くん、大事なのはセオリーじゃない。感覚だよ」と諭すようなコメント。
 
末恐ろしい15歳ですよね。
 
ちなみに、藤井くんは小6の時、プロ棋士を抑えて「詰将棋解答選手権」で史上最年少優勝を果たしている、まさに理"詰め"の日本一の実力の持ち主。
 
理論(セオリー)理屈(ロジック)を極めた後に鍛えるのは「感覚」なんだと。
 
もちろん羽生さんもそれは理解していて、1/3のBS番組で藤井四段について「詰将棋と将棋は少し求められるものが違うんですけど、上手にミックスさせて、すごく成長しているなと思います」と語っていましたが、まさに「破・離」の話だな、と。
 
おそらく将棋にあって詰将棋にない部分は、相手との駆け引きや流れを読むこと。
(参考【第31回】雀鬼 桜井章一×羽生善治「負けない生き方」)
 
言いたいことは、決して藤井くんの方が羽生さんより優れていると言うことではなくて、コンピュータ将棋の実力向上によって、足りない物を補う、学ぶ順番が逆になってきているのではないかと言う感じ。
 
はい。これは以前、
【第13回】日本文化と即興性、育成論
で触れた、ベルギーと日本の学ばせる順番の違いから連想した話しです。欧米は理論理屈(セオリー・ロジック)をゴリゴリ教え込んで、それでも言うことを聞かない人が多い。でも日本人だと…?という話。
 
AI将棋がトッププロ棋士を倒すようになったのが2010年前後。個々のライフストーリーで見たら、羽生さんは完全に地位を確立してからの話、藤井四段はまだ7〜8歳の時。
 
なので、おそらく羽生さんが言わんとしていることは、「藤井くんの成長過程」そのものが、既存の将棋界の価値観にAI将棋の理論をうまく取り入れて成長していく「学び方・育ち方のセオリー」を形作っているという事なのかな、と思いました。
 
で、これが後半のAIの話しと重なってきます。


■対談(終盤)
【人間社会がAIをどう活用していくかという話題】

羽生「人間の持っている感性や認識がAI的になっている。つまり、そういうものに触れ続けているので、より人間の感受性がAI的になっている」

「本当は逆なんじゃないかな、という気がするんですけど。AIの持っているものが人間の感受性に近づくのが本来の姿なんじゃないかと思うんですが(笑)」

「ただ、こっち(人間がAI的になる)の方が簡単なんで、そっちの方向に進んでいるんですけど。そっちに行き過ぎた時は、AIの感性を人間の感性に寄せていくというのがあるべき姿だとは思います」

「でも、これは難しいんですよ。なので、これから先の課題というか…。」
 
 
●コメント②
AIはゴリゴリの「ロジック押し」で「感情なし」。
一方、人間はロジック(理屈)こそAIに敵わないが「感情」や「感覚」がある。
 
この話題は、昨年コラムで何度か触れた、
 
 
             認知・理論(あたま)
               /                \
気持ち・感情      ー     感覚・感性
(こころ)                  (からだ)
 
この三角形のバランスの話しに似てるな、と。
 
【第47回】漢方医が語る西洋医学と東洋医学
で、どちらかと西洋文化は「認知・理論」重視、東洋文化は「感覚・感性」重視だったけど、インターネットで情報交換が自由になった時代においては、西洋は東洋に、東洋は西洋にお互いに感覚を寄せてきているのではないか、という話に触れました。
 
この西洋・東洋の軸とは全く違う「AI文化」と言うような軸が出てきている、という話しです。
 
これは本当にその通りだなと思いまして。例えば、遊び一つにしたって、小さい頃からyoutube画面を見て育ち公園に集まって3DSの画面を見て通信して遊び、大人だって皆小さい画面とにらめっこしている時代。
 
極端に言うとTVがない世代とは、使っている感覚感性が明らかに違うはず。欲しい情報は即Google先生が教えてくれますし、直接顔を合わせなくてもテンポ良い短文やスタンプ(イメージ)のやり取りがLINEやチャットで可能になりました。現代の日常生活において、じっくり文章の行間を読んだり、考え悩みながら返答する機会は、意図して作らないと失われつつあると思います。
 
でも、対人援助という「人」を相手にする仕事をする以上、このように育ってきた人が持っている感覚を前提として、支援者の関わり方も適応して寄せていく必要があると思うんですよね。
 
時代の変化に逆らわず、時代の波に乗りながら、いまのニーズに合わせて柔軟に支援の形、切り口、提供の仕方を変えていく。老舗料理店も現代の素材と現代人の味覚に合わせた調理法や味付けの微調整や進化は必要です。
 
このような「時代」「環境」の違いによる、人間の「感覚・感性」の変化が、AI将棋から学ぶ時代の棋士にも起きているのではないか、ということです。
 
で、藤井四段が只者でないのは、単に冷静無比に打てるAIっぽくなることを目指しているのではなく、AIを学ぶ「手段」として活用するだけで、きちんと「感覚」を磨いて「理論ー感覚ー感情」の統合的なバランスを高次元で整えようとしている。
 
何にでも柔軟に対応できる「脳ーこころー身体」の自然体のバランス。あいまいな喪失で「両価的な価値観(AでもありBでもある)」「専門家の支配感に気づく」等で扱った支援者側の準備・心構えのやつです。
 
15歳でこの境地に達するかと。もはや中学生の着ぐるみを被った仙人ですよね。
 
 
そして、もし羽生さんの言う、
AIの持っているものが人間の感受性に近づくのが本来の姿なんじゃないか」
の世界を臨床で考えるなら、こんな感じ。
 
AIが人間の感情・感覚を学習する時代。現在すでにAIの会話はディープラーニング(神経回路のプログラミング)によって記憶や自己学習が可能になっていますよね。なので、さらに脳科学、生理学のデータ解析が進んで、何億人のビックデータから、リアルタイムで
→「脳のあの部分が活性化している」
→「心拍数はわずかに上昇」
→「表情は一見笑顔であるが、あれは作り笑い」
→「何か場を和ませる言葉をかけなくては。汗汗」
なんて人造人間(アンドロイド)が解析判断して、表情や口調を調整しながら会話する時代が遠くない未来に訪れるかもしれません。
 
なんなら、AIの感情・感覚の感じ方についても、例えば緊張感でドキドキした時の「脳の活性部位」「心拍数」「体温」「発汗」などのあらゆる感情・感覚をデータ化すれば、人間が感じるドキドキ感を体感で再現して、AIが体験を積んで学べる時代が来るかもしれません。
 
究極は、漫画「ドラゴンボール」で、クリリン人造人間18号が結婚するような世界です。
AIがより人間らしく進化する感じ。
 
 
じゃあ、そもそも「人間らしく」「人間らしさ」って何なんだろう?って話ですが、臨床で考えた時に僕がしっくりくるのが【不完全さ】という言葉かな、と。
 
それは、良く言えば「可塑性」「柔軟性」、悪く言えば人間の「いい加減さ」「だらし無さ」。そして、そこには「感情」が大きく関わってきます。
 
いい加減な機械はただの不良品ですが、人間の不完全でだらし無い「遊び」部分って、ある意味「まったくしょうがねぇ〜なぁ〜」という愛らしさ・人間味・個性を感じる所に繋がると思うんですよね。
 
また不完全だからこそ「変化」「進化」が可能で、環境に応じて体温やら方言やら気持ちやら何でも「微調整」してフィットさせてしまう融通さ・あいまいさが、機械に真似できない人間の長所であり短所でもある「人間らしい」所かな、と。
 
実際の現実世界は、将棋のようにフィールドも駒の動きも決まっているわけではありません。どんなフィールドかはその場次第、駒の数や動き方だってその場で感じて予測しないといけない。不測の事態や理不尽な出来事だっていくらでも起こります。
 
PCやAIのように理論セオリーを突き詰めていけば、ミスは減ると思うし、ミスを減らす事は大切だと思います。でも、理屈を追求し過ぎると「遊び」が無くなって、何もかも完璧を求めるようになります。そんな世界に、他人の失敗や不測の事態が起きた時に寛容に許したり柔軟にリカバリーする懐の深さははあるでしょうか?
 
完璧主義過ぎる、融通が効かない、理屈っぽくて情が通じない、だわりが強い。人間の感受性を極端にAIに寄せると、こんな感じになりそうです。
 
はい。これって対人援助で骨の折れるタイプのケースの傾向そのものですよね。でも、一番困っているのはきっと本人。環境にうまく適応できないんですから、生きにくいと思います。
 
不完全な世界で生きる、不完全な人間を相手に支援を行うなら、あいまいで不完全なことを抱えられないといけない。でもそれは、ただ我慢して耐えるのではなくて生物学でいう「動的平衡の状態。見た目上は変わっていないように見えて、実は古い細胞を捨て、新しい細胞を取り入れる交替が絶えずあって平衡状態が維持できます。
 
どちらかに極端に振り切るんじゃなくて、両極の間で揺れる感じ。
 
相談においても、対話の中で絶えず新しい「気づき」を取り入れて、「理論ー感覚ー感情」の新たなバランスが取れるまで試行錯誤する。適当なバランスが見つかるまでは多少グチャグチャしますが、全く固まって動かないよりは大いに進化する余地がありますよね。完全に固まらないからこそ成長変化の可能性があります。
 
そして、どんなグチャグチャ状況にも、ある程度の安全性を保って対応できるような「理論ー感覚ー感情」の可塑性なあるバランス状態が、無駄な力が入っていない、でも軸や筋はしっかり通っている自然体の状態なのかな、と。
 
安全かつ成長的な変化が起こるには、揺れる余地のある「不安定性」と、揺れた後もあるべき軸に戻ってこれる「安定性」という、一見すると矛盾するような相反するものが同居することが必要なんだと思います。
 
LSWの最中の子どもの状態にも通じるかもしれませんね。
 
そして、藤井四段のように本質をわかった上で、AIを成長進化するための「手段」として活用することと、何も考えずにAIの型を真似をすることが「目的」となっていることでは、そのプロセスも結果の「理論ー感覚ー感情」のバランスはまるで違ってくると思います。
 
支援者のトレーニングという点で考えると、人それぞれ得意不得意はありますので、長所をどう伸ばし短所をどう補うか、やはりまず自己覚知なのかな、と。
 
LSWに限らず、対人援助では色々な揺れを抱えることになりますから、頭を整理し、感覚を磨き、モチベーションを維持するバランスを常に整えて全体的に底上げしていきたいですね。
 
これまで「まごのてblog」で扱った話をざっくり分類すると、
 
ロジック(理論)→ 総論「生物ー心理ー社会」
                           各論「トラウマ」「グリーフ」
                                  「 アタッチメント」等々
センス(感覚)→ 場の流れを読む、感じる系
                         「ファシリテーション
                         「マインドフルネス」 等々
モチベーション(感情)→ 経営・マネジメント論
                                  「組織文化づくり」
                                  「サッカーの組織論」等々
 
こんな感じでしょうか。ロジックは洗練された一つの「型」に近いイメージですが、「型」通りばかりに実践が進むわけではありません。空手のキレイな正拳突きがケンカで常に決まるわけではないですよね。もっと複雑な技の連続なので。
 
しかしながら、「型」を繰り返すことで「感覚」を研ぎ澄ませたり身体に染み込ませることに繋がるんだと思います。そして「型」の繰り返しの質を上げるのが「集中力」や「継続力」で、これを維持させためにはモチベーション(意欲)やパッション(情熱)が必要で、さらに個人ではなく集団でこれを維持する仕組み作りが「マネジメント」に当たるのかな、と。
 
もちろん各分野にまたがる話ばかりでスパッと綺麗に分かれるものでもないですが、コラム内容は大体ロジック/センス/モチベーションの三分野に分けられるかな、と思います。
 
とは言え、毎回思い付きでコラムを書き始めるので、初めから分類を意識していませんが、後々見返すとこんな整理が出来るかなと思いましたので、また一年後にはロジック/センス/モチベーションを磨いたりする引き出しが増えたり、深みが出ているといいなぁと言う願いも込めて、新年の書き初め的に綴ってみました。
 
2018年はじめの一手から長くてスミマセン。
 
こんな感じで今年もお付き合いよろしくお願いします。
 
ではでは。