LSWのちょっとかゆいところに手が届く「まごのてblog」

静岡LSW勉強会の管理人によるコラム集

【第66回】君たちはどう生きるか

メンバーの皆さま
 
こんにちは。管理人です。
 
平昌オリンピック盛り上がってますね!そして名勝負には名セリフあり。
 
例えば、
スピードスケート1000mの銀の小平奈緒選手。
前の選手がオリンピックレコードで走破しているプレッシャーのかかる状況でのレースについて、
今日は氷と対話することに集中しました」
「最後の方は少し乱れてしまいましたけど」
と語っていたり、
 
惜しくもハーフパイプ銀メダルだった平野歩夢選手に、最終滑走のプレッシャーがかかる場面で完璧な滑りで逆転したスノーボード界のレジェンド、ショーン・ホワイト選手は、平野選手と同じ1440二連続を試合で始めて成功させたことについて、
「過去に自分を病院送りにした技(4回転:1440に挑むのは簡単なことではなかった」
 
「(1440を)自分が出来ることはわかっていた。ただ恐怖心を克服するのに少し時間がかかったね」
 
やはり、一流は「内省力」「自己内対話」に長けていると言うか、4年という長い年月をかけて自分と向き合い、自分の弱さから逃げずに努力し続けた人が世界トップ3になるんだろうな、とインタビューを聞いていて思いました。
 
 
そんな自己内対話を深めるために、僕がたまにやることは、本屋さんをブラブラすること。
 
サーっと色んな本の表紙を眺めていると、直感的に「これは!」と惹かれて目に留まる本が出てくるんですね。自分の中でまだ整理されたり意識化されていない興味関心や気になっていることを本が教えてくれるんです。
 
今回は、そんな一冊を紹介。

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【参考】ついに100万部突破『君たちはどう生きるか』若き漫画家が描き切った「人生で大切なこと」
 
はい。話題のコレ。前々から気にはなっていましたが、このタイミングで手に取るには、やはり意味があるんだなぁ、と思いました。
 
 
簡単に作品を紹介すると、戦後民主主義をリードした名物編集者の吉野源三郎原作、1937年に刊行された『君たちはどう生きるかを漫画化したもの。それが80年の時を超えて、現代の多くの人々から強く共感されている。
 
物語設定も1937年。父親が3年前に他界して、母子家庭で暮らす地味な中学生が主人公。母の実弟で、大学を出たばかりの「おじさん」と仲が良く、2人で遊んだり、出かけたりしている。
 
このおじさんが主人公に「コペル君」というあだ名をつける。コペル君というあだ名はコペルニクスにちなんでいる。
 
物語は、コペル君の学校や友人関係という狭い世界の出来事で起こるいじめ・貧困・人の強さと弱さを通じて、人や社会について考える作り。
 
マンガも原作も、こうしたコペル君の体験と、おじさんのノート(コペル君への手紙的な内容)が交互に登場する作りになっている。
 
で、コペル君におじさんが一貫して言い続けるのが、
 
「自分で考えるんだ」
 
ということ。
 
漫画作者の羽賀翔一氏もこう言っています。
 
《この小説のタイトルは『君たちはどう生きるか』ですが、どう生きろというのは書いていないんですよね。つまり「こう生きろ」と答えをだす本じゃないんです。むしろ対極で、どう生きるかを、自分で考え続けること。抱え続けること。それを放棄しないということが書かれている本なんです。》
 
 
と。一話完結の短編集で、一話一話の前半はコペル君の体験漫画、後半がおじさんからの手紙という構成なんですけど、このプレゼンの仕方が絶妙で、おじさんのノート(手紙)の内容がスーッと身体に染み込んで入ってくる。
 
ネタバレになっちゃいますが、おじさんのノートの一部を紹介します。
 
 
ものの見方について
 
コペルニクスの地動説は…当時、教会の威張っている頃だったから、教会で教えていることをひっくり返すこの学説は、危険思想と考えられて、この学説に味方する学者が牢屋に入れられたり、その書物が焼かれたり、散々な迫害を受けた。
 
世の中の人たちは、もちろん、そんな説をうっかり信じてひどい目にあうのは馬鹿らしいと考えていたし、そうでなくとも、自分たちが安心して住んでいる大地が、広い宇宙を動き回っているなどという考えは、薄気味悪くて信じる気にならなかった。
 
今日のように、小学生さえ知っているほど、一般にこの学説が信奉されるまでには、何百年という年月がかかったんだ。 
 
人間が自分を中心としてものを見たり、考えたりしたがる性質というものは、これほどまで根深く、頑固なものなのだ。
 
〜いや、君が大人になるとわかるけれど、こういう自分中心の考え方から抜け切っているという人は、広い世の中にも、実にまれなのだ。
 
殊に、損得にかかわることになると、自分を離れて正しく判断してゆくということは、非常に難しいことで、こういうことについてすら、コペルニクス風の考え方のできる人は、非常に偉い人といっていい。
 
たいがいの人が、手前勝手な考え方におちいって、ものの真相がわからなくなり、自分に都合のよいことだけをみてゆこうとするものなんだ。
 
〜今日君が感じたこと、今日君が考えた考え方は、どうして、なかなか深い意味をもっているのだ。
 
それは、天動説が地動説に変わったようなものなのだから。
 
 
 
真実の経験
 
〜だから、こういうことについつまず肝心なことは、いつでも自分が本当に感じたことや、真実心を動かされたことから出発して、その意味を考えてゆくことだと思う。君が何かしみじみと感じたり、心の底から思ったりしたことを、少しもゴマ化してはいけない。そうして、どういう場合に、どういう事について、どんな感じを受けたか、空をよく考えてみるのだ。
 
 
 
人間の悩みと、過ちと、偉大さとについて
 
〜人間は、自分自身をあわれなものだと認めることによってその偉大さがあらわれるほど、それほど偉大である。
 
〜からだの痛みは、誰だって御免こうむりたいものに相違ないけれど、この意味では、僕達とってありがたいもの、なくてはならないものなんだ。
 
ーそれによって僕たちは、自分のからだに故障の生じたのことを知り、同時にまた、人間のからだが、本来どういう状態にあるのが本当か、そのことをはっきりと知る。
 
〜人間が本来、人間同志調和して生きてゆくべきものでないならば、どうして人間は自分たちの不調和を苦しいものと感じることができよう。
 
〜およそ人間が自分をみじめだと思い、それをつらく感じるということは、人間が本来そんなみじめなものであってはならないからなんだ。
 
 
 
こんな感じ。コレは内容の一部ですが、漫画を読んだ後にコレを読むと味わい方が全然違う。で、漫画作者の羽賀翔一氏もただ原作をそのまま漫画にするだけじゃなくて、この本に書かれている本質は何か、それを伝えるには、どの順番でどう構成するのがいいのか「自分で感じて考えて悩んで作っているから、わかりやすい。
 
そんな羽賀翔一氏はこう語っています。
物語の核に、バトンを受け取るというのがあると思ったんです。お父さんの生き様や意志をおじさんが受け取る。人の生き方や意志が少しずつ影響しあっていくんです。》
 
《僕は、この物語の本質は「成長」と「自分の意志」にあると思うんです。成長というのは、自分の意志を持って考え続けるということ。
コペル君の成長だけじゃない。おじさんもまた、コペル君にバトンを渡そうとするなかで、自分の役割を引き受けて成長する。》
 
 
これはLSWや児童福祉の支援者にとって最も大事な[心構え]そのものですよね。もう指定教科書にしてもいいんじゃないでしょうか(笑)
 
そして、この本を読んでいると、6〜7年前に職場でLSWを普及させようと奮闘していた時期の自分を思い出します。正しいことへの理解が得られないことへの苦しみや歯がゆい記憶です。
 
そして、いまでは職場でLSWが当たり前に語られるようになっているので報われるわけですが、最近また別のことで似たような葛藤を抱きつつある自分がいます。
 
偉そうに天狗になりつつある自分にも気づきますし、いくら口では歩調を合わせて「待つ」ことの大切さも周囲には説きながらも、実際は「また5〜10年の歳月をかけた、あの普及の日々が始まるのか」と思うと苦しさや苛立ちを感じることがあります。
 
でも、おそらく、これは多くの子育て相談に来る保護者が感じているだろう感覚に近いと思うのですが、とにかく苦しい。
 
そんなタイミングで本書を手に取ると、最終話のおじさんからのノートにこんな言葉が書いてありました。
 
 
コペル君
いま君は、大きな苦しみを感じている。
なぜそれほど苦しまなければいけないのか。
それはね、コペル君、
君が正しい道に向かおうとしているからなんだ。
 
 
思わず「おじさん!」と叫びたくなりました。
 
確かに、このフツフツとした気持ち悪い感覚・感情に眼を背けてなかったフリをして過ごすこともできます。だけど、それは被虐児が感覚・感情の麻痺を起こしていたり、臭い物に蓋をしている対処をしているだけ。
 
支援者として「気持ちいい」支援をしている時は、一種の万能感に酔いしれている危険性があって、目の前の人のサービストークに騙されて、本当は言えてない側面や大事な部分を見落としていたり、何か落とし穴があるという感覚は必要なんだと気付かされる出来事が最近何度か続きました。
 
少し話が逸れるかもしれませんが、以前使ったこの図のように、

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世の中「良いことだけ」「悪いことだけ」なんて単純なものではなく、見方によってはどうとも見れる色々なことが複雑に混在しているのが、むしろ普通なんだと思います。
 
なので、自分の都合の良い部分ばかり見るのではなく、物事を正しく色んな方向から見て、感じて何かを変えようと動かそうすれば、それ相応の負荷や無理は生じる。
 
なぜそれほど苦しまなければいけないのか。
それはね、コペル君、
君が正しい道に向かおうとしているからなんだ。
 
僕が進もうとする方向が正しいのかなんて、わかりませんが、その言葉に、今の僕はだいぶ救われたような気持ちになりました。という話です。
 
中二病みたいな話でスミマセン。
 
ではでは。