LSWのちょっとかゆいところに手が届く「まごのてblog」

静岡LSW勉強会の管理人によるコラム集

【第67回】未知なる世界へ

メンバーの皆さま
 
こんにちは。管理人です。
 
友人の結婚式のため、昨日から仕事のお休みをもらって、宮崎県に来てます。
 
仕事を離れてプライベートの旅をできる機会も貴重ですし、そもそも宮崎県には初上陸です。
 
宮崎と言えば「マンゴー」「チキン南蛮」そして「東国原元知事」で有名な太陽の国🏝ホントに街中がヤシの木だらけでビックリします
 
あと、この時期の宮崎は「キャンプ地」になっていて、至る所にプロ野球チーム、Jリーグチーム、
 
歓迎!
 
の文字が。ちなみに僕が宿泊してるところも…

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看板「写真撮影、サインのお願いお断り」を見ると、こりゃ、マジでいますね、鷹軍団が。
 
朝食バイキング入り口の反対のドアには「サンフレッチェ広島様」ともありましたし。
 
もしかして滞在中に誰か選手に会えたりして。
 
宮崎は、まさに「未知なる世界へ」…
 
なんですが、実はここまでは後付けの前フリで、今回コラムの題名は、行きの飛行機の中に置いてある雑誌のあるインタビュー記事の題名から文字っています。
 
現在、阿部寛主演の人気シリーズ「新参者」の最新作『祈りの幕が下りる時http://inorinomaku-movie.jp/sp/が公開中だそうでその宣伝も兼ねての阿部寛インタビューの記事。
 
阿部寛と言えば、あの日本人離れした彫りの深い顔と長身に加えて、僕も好きな『トリック』から『テルマエロマエ』『アットホームダット』『下町ロケット』などなど、幅広い演技でファンの心を鷲掴みにしている俳優さんですよね。
 
そんな阿部寛の語る「俳優論」が非常に興味深いので、インタビューの一部を紹介します。
 
 
恥を描き続ける勇気 表現の幅を広げた経験
 
人間の内面や心の動きを表現するのは、俳優の見せどころだ。時にその演技には、過去の経験や心の襞(ひだ)に刻まれた記憶が反映する。
 
「ある役者が、父親としての芝居がまったくできず苦労している場に居合わせたことがあるんです。演技には温かさが求められていたのに、恨みになってね。上手い人なのになぜだろうと思っていたら、その人には父親との温かい思い出がなかったんです。知らない間に積んでいた経験が、出てくるんだなと思いました」
 
「資質を使えるかどうか、ということは1つあると思います。僕の場合は、つか先生や蜷川先生の舞台に出させていただいたことで、自分の内側にあるものの使い方がわかって、表現の幅が広がったんです」
 
「蜷川さんの舞台稽古のときは、常に"この場にいる100人以上この俳優さんのなかで、自分が一番ヘタ"だと思ってやってきた。いつも恥のかきっ放しですよ(笑)」
 
「守りに入ったら終わり、ですからね。あえて、"自分なんか幼稚園児みたいだ"というところに自身を追い込むことで、変われるんじゃないかと信じてやってきました。実際にそうなっているかはわかりません。でも、続けてこられたのは、この仕事が好きだからでしょうかね」
 
「実は『下町ロケット』も、こんな熱い男の役は無理だと最初思ったんです。でも現場に入って、福澤監督の演出力に引っ張られた。飛び込んでみないとわからないんですね。だから、常に緊張する場を作って挑戦することが、大切だとおもっています。もちろん、色んな役をいただく中で "失敗はしない" と毎回決めてはいても、もっとこうすべきだったと考える結果になることがあります。しかし、全力でやったうえなら、失敗してもしょうがないと思える。失敗する、しないといったことを含めて楽しいんですよ。だから俳優の多くは、仕事が趣味になってしまうんです(笑)」
 
「50代になって、同じ仕事をする人たちのことに昔以上に興味を持つようになりました。"すごくいい芝居をしているけど、何があったんだろう" "なぜあの人は最近調子が悪いのかな" と、どんな精神状況で仕事をしているのかと考えるんですよね。そうしているうちに、自分を客観視する力もでてきてます」
 
 
■コメント
 
阿部さん…。あなたは、もしや臨床家?カウンセラー?という内容ですよね。
 
コミュニケーションは、言葉の文字面だけでなく、実は表情しぐさ、視線、雰囲気といった非言語情報が与える印象メッセージが、特に情緒・感情面においては大きいことは、皆さん日常生活で実感済みと思います。
 
例えば、「いいよ」という言葉も、嫌そうな顔や声で言えば「本当は嫌なんでしょ?」という事。
 
つまり俳優・役者という仕事は「自分が人にどう見られているか?」をとことん突き詰めて、自分が発する非言語情報を完全に役に寄せて、あたかも役◯◯が実在しているかのように見えることが腕がいい調子がいい、という事になるんだと思います。なので、
 
〜人間の内面や心の動きを表現するのは、俳優の見せどころだ。時にその演技には、過去の経験や心の襞(ひだ)に刻まれた記憶が反映する。
 
ということを自覚して、自分自身の過去の経験を見つめて整理して、それも演技の「資質」として利用しなくてはいけない。たぶん、演技の幅が広い役者さんは相当に自己内省、自己知覚を行なっているはず。
 
「その人には父親との温かい思い出がなかったんです。知らない間に積んでいた経験が、出てくるんだなと」
 
これは、生育歴の中で親モデルがない保護者が「自分の子どもにどう接していいかわからない」と相談するまさにソレですよね。
 
立場を支援者に置き換えると、【第61回】で感情レベル1〜3について紹介しましたが、
 
ロス・バック
感情レベル3
自分の内部から発する主観的な体験。私たちがどう感じるか。怒り、喜び、恐れなどの心の状態と、それに伴うからだの感覚は意識れている。
 
感情レベル2
それを意識しているかどうかに関わらず、他者がそれを見てとった感情。ボディーランゲージによって伝えられる。言葉にならない信号、独特の行動様式、声の高低、動作、顔の表情、軽く触られること、何かをするタイミングや言葉と言葉のあいだの間の取り方によってさえ伝えられる。多くの場合、本人たちはそれを意識していない
 
感情レベル1
感情からの刺激によって起こる生理学的な変化。例えば、脅威に対する「闘争が逃走」反応をもたらす神経系、内分泌系、免疫系の活動。意識的にコントロールされたものではなく、外からは直接見ることができない。本人の自覚も感情の表現もなしに起こる場合もある。
 
 
子どもや保護者に接する臨床現場では、相手に「このヤロー!」と怒れたり、正直「面倒くさいなぁ」という気持ちが自分の中でフツフツと湧き起こって来たときに、支援者自身その気持ちに無自覚であったり、自覚して隠そうとしても非言語の態度に現れていて「どうせ◯◯って思ってるんでしょ」と言われたり思われていることは結構ありますよね。
 
相手への「敬意や尊重」の姿勢を忘れずに…なんてカウンセリング講義の[心構え]的なところで聞いた記憶がある方もいると思いますが、かなり深い闇を抱えた子どもや親を相手にする児童福祉の現場でその姿勢を貫き続けることは、実はそんなに容易なことではないし、かなりの自己知覚と感情コントロールを必要とすると思います。
 
 
ただ阿部さんは、そういう過去の経験が自分の所作に与える「ネガティブ面」だけを眺めるだけでなくて、自分の成長に惹きつけて「ポジティブ面」にも変換して見て考える所が面白い。
 
「資質を使えるかどうか、ということは1つあると思います。僕の場合は、つか先生や蜷川先生の舞台に出させていただいたことで、自分の内側にあるものの使い方がわかって、表現の幅が広がったんです」
 
これって、臨床でもよく言われる「最後はやっぱり人間力って話しにつながると思うんです。つまり、自分が今まで人生で積み重ねて来た経験「資質」をうまく使って、相手に伝えたいメッセージを自分の非言語情報に乗せて表現する。
 
まさに、自身が舞台役者となり、相手に伝えたいことを、面接や生活という舞台上の生のやりとりを通じて感じてもらうために、我が身を演じる。
 
確かに、「親モデルがないから接し方がわからない」を言い換えると「親モデル(=温かく接してもらった経験)があるから、自分の子どもにも同じことをしてあげられる」とも言えますよね。
 
反面教師という言葉もありますが「私が受けたこの嫌な経験を、人には絶対させない」という気持ちは、その対極にあるポジティブ体験、良くしてもらった心地よさの経験があったからこそ、違和感や心地悪さに気づけるのかな、と思います。前回コラムの「おじさんのノート」にも似たようなくだりがありました。
 
そして、そのポジティブ体験は決して実親でしか提供できないわけではなくて、同居する家族親族、近隣のおじさんおばさん、保育園・幼稚園・学校の先生など、その子が一日24時間の中で受ける刺激や経験トータル全ての積み重ね。「集団的養育」とは、そういうことだと思います。
 
ただし、被虐待や被支配環境で育った子の中には、そもそも外部との接触すら制限されているケースもあって、そうなると家族や親の対人交流と比較できるモデルがないから、そりゃ支配ー被支配関係が「当たり前の日常」だし、心地悪さや気持ち悪さに気づけという方が酷です。
 
もし気づいちゃったら、逃げられない環境下で常に苦しさを感じながら24時間365日を生活しなくちゃいけないわけですから。
 
なので、社会的養護(里親・施設)にいる子は、勉強とか躾とかの以前に、とりあえず「温かさ」「心地よさ」を多く感じる生活が日常となり、これまでの人生トータルの割合として、
[ポジティブ体験]>[ネガティブ体験]
と貯金生活が始められる状態でようやく、苦しいことも「ちょっとの間(非日常)だから頑張ろう」と踏ん張れるようになるんだと思います。
 
阿部寛が、
「実は『下町ロケット』も、こんな熱い男の役は無理だと最初思ったんです」
 
ということは、児童福祉現場で「こんな状態の子ども・保護者の担当は、無理だと最初思ったんです」という状況に似てると思います。
 
「でも現場に入って、福澤監督の演出力に引っ張られた。飛び込んでみないとわからないんですね。だから、常に緊張する場を作って挑戦することが、大切だとおもっています。もちろん、色んな役をいただく中で "失敗はしない" と毎回決めてはいても、もっとこうすべきだったと考える結果になることがあります。しかし、全力でやったうえなら、失敗してもしょうがないと思える。失敗する、しないといったことを含めて楽しいんですよ。だから俳優の多くは、仕事が趣味になってしまうんです(笑)」
 
児童福祉の仕事で「失敗してもしょうがない」なんて思えない!と感じるかもしれませんが、人への不信感でガチガチに凍り付いている心や感情をどう溶かしていくか、それは緊張する場での挑戦です。
 
そして、もともと取り付く島がないんだから、少しでも変化が起こればグッドジョブ、良い変化が無ければ「このアプローチは上手くいかないことがわかった」なんて思えれば、結局その体験は成功へのヒントやプロセスの一部になり得ますよね
 
「守りに入ったら終わり、ですからね。あえて、"自分なんか幼稚園児みたいだ"というところに自身を追い込むことで、変われるんじゃないかと信じてやってきました。実際にそうなっているかはわかりません」
 
と言うように、確かにどれだけ経験を積んでも、初対面の人のことはわからないし、中堅として自分ではできても後輩に伝えることとは全然違うし、いずれ年を重ねれば後輩を教える中堅を支える立場になる。常に自分も変化・成長し続けないといけない。
 
そういう対応を通じて、臨床家として人間としての経験値を積ませてもらっている、子どもや保護者や組織に難題を突きつけられる度、臨床家として人間として成長のチャンスを与えてもらっていると、数年前から思えるようになってきました。
 
たぶん、こう思えるのも、僕自身が生育歴の中で、家庭や学校などで自分に関わってくれた大人から、僕の存在や気持ちを尊重してもらって大切にしてもらった貯金がたくさんあるから、そんな経験もポジティブ変換できるんだと思います。もちろん厳しい言葉や指導もありましたけど。
 
親や先生、人生の先輩たちが10年20年先に芽が出るかどうかわからない将来への「投資」的な関わりを僕自身にしてくれたお陰で、こうやって今の自分が、児童福祉の現場で潰れずに仕事をやってこられているんだろうなぁと思うことが、よくあります。
 
たぶん、その人たち全員に直接、その感謝を伝えられる機会はないんでしょうけど、そういう人生のバトンを渡していくのが児童福祉の臨床なのかな、と思い始めています。
 
という感じで、
「そうしているうちに、自分を客観視する力もでてきてます」し、
 
そして他の人が、
「どんな精神状況で仕事をしているのかと考えるんですよね」
 
ホントそうですね。阿部寛のインタビューを見ていると俳優・役者さんから、対人援助職・臨床家が学べる点はもっともっとあるんじゃないかなぁと思って、他の色んな俳優さんの考えていることも聞いてみたい気持ちがどんどん湧いてきました。
 
僕が、『ボクらの時代』(フジ、日曜の朝7時)
を好きな理由も、きっとそんなところから来ていたのかなぁ、なんて思いました。
 
いよいよ今日の午後は結婚式。友人の幸せオーラをお裾分けしてもらってきます。
 
ではでは。