LSWのちょっとかゆいところに手が届く「まごのてblog」

静岡LSW勉強会の管理人によるコラム集

【第70回】DoingとBeingの両立

メンバーの皆さま
 
こんにちは。管理人です。
 
気がつけば、平昌オリンピックも日曜日で終わりですね。あっという間ですね。
 
「羽生が勝って、羽生が負けた」
 
なんてややこしいニュースもありましたけど、羽生結弦さすがでしたね。
 
怪我の状態も万全でない中、今ある力をピーキングする調整力も含めて圧巻の演技でした。
 
ということで、今回コラムは五輪に二連覇の伝説を作った羽生結弦に関するこの記事から。
 
 
羽生結弦のメンタルメソッド「DoingとBeingの両方を深く追求する」
 
 
この記事は、メンタルコーチや企業のチームビルディングを手がける小田桐翔大氏によるもので、大舞台で見事に力を発揮する羽生結弦選手のメンタルメソッドが、ビジネスシーンでも応用できると紹介しています。
 
端的に言うと、成長には「Doing(やり方)」と「Being(在り方)」の両方を磨く必要があるということ。
 
Doingは、いわゆる「スキル」のこと。一方、Beingは「ひとりの人間として自分はどうありたいか」という部分です。
 
記事の中で、ビジネス界ではDoing(どうすれば良かったのか)だけがよく振り返られるが、Being(どうあるべきだったのか)をしっかり振り返られる人は少ないと指摘されていますが、僕は児童福祉現場も全く同じだな、と思います。
 
僕はこのことを「手段と目的」とか「ツールとビジョン」「軸と遊び」なんて言葉で表すのですが、「DoingBeing」なるほどなぁ、と。
 
何を使って、どんな姿や形を目指すのか。時々、対人援助や何かの支援事業でも研究発表でも「◯◯シート」や「◯◯プログラム」を使うこと自体が「目的」(=満足)となっていて、本来それを使って何の実現を目指しているのかが置き去りになっている事って、結構あると思います。
 
LSWでも、やはり似たような事って起こっていると思います。LSWをやること自体が目的化してしまっている支援です。
 
支援者本人にとっては、その前提は「当たり前すぎて」言葉にしない場合が多いと思います。しかし実際には、経緯・歴史を共有していない第3者には「そもそもの動機」は想像以上に伝わらないものですし、実は言葉にしたとしても過去に過ぎ去った事としてその熱量や臨場感は伝わらず、諸行無常というか物事は風化していってしまうんだなぁと、つくづく最近思います。
 
そして、「そもそもの動機=Being」が抜けてしまった何も考えていないDoingのみの型なぞり支援を「形骸化した支援」と呼ぶんだと思います。
 
 
本来、対人援助で実現を目指す原点は、相談者が元気で健康的になって、相談者の願う望む姿に近づく事だと僕は思います。肝心の相談者当人がどうしたいのか、どうなりたいのか。そこを聞かずして作業の協働関係やパートナーシップはあり得ないと思いますし、そこを十分に扱わない支援は結局「無理矢理やらされた」「嫌々やった」想いが強く残り、その後の相談者の主体的な行動選択を高めることにはつながりにくい気がします。
 
しかし、児童福祉現場においては、ただ本人の好きなようにワガママを聞くわけにもいかない。本人が自分も他人も大切にして友好的な社会生活を送ることが出来る「健康的で社会性をもった姿」に変化成長できるように、支援したり応援する「手段」として、時にはその時の本人の意向に反した判断をすることも児童福祉現場ではあると思います。
 
(よく「周囲に迷惑をかけないように」と言いますが、自分を全く大切にしないで一方的に過度に我慢しすぎるのも違うかなと僕は思います。そこはバランスと言うか、譲り合い歩み寄りの精神と言うか…)
 
しかし、そこには支援者の『(家族や本人が)こういう姿になって欲しい』というBeingへの願いや期待があるから、そのことを伝え続けて、その「手段・通過点」として施設入所・措置変更するんだと、子ども自身や家族に伝えなければいけない場面があります。
 
だけど、その時に問われるのは自分自身のBeingだと思うんです。なぜ、自分はそう言わなければいけないのか。そもそも自分の役割は何なのか。そして、自分には何ができるのか。それば自分の職業人としての存在意義に関わってくる話だと思います。
 
その軸がしっかりしていないと、訳もわからず「上司に言われたから」「やれと言われたから」の関わりを提供するわけなので、結局、似たような訳もわからずやらされた体験を連鎖的に子どもに伝言ゲームするだけになってしまうと思います。
 
同じ言葉(セリフ)だとしても、誰が言うのか、誰に言われるのか、それが大事である、と児童福祉現場で本当に感じます。
 
誰が言うのか、の意味は
「その言葉のやりとりを通して、どんな体験を提供したいと思っているのか」
その意図を自分の中でどれくらい咀嚼した上で、台詞(セリフ)に非言語的メッセージを+α上乗せして伝えられるか。
 
 
記事の最後にサラッと、以下の2つが紹介されていますが、これは非常に大切と思います。
 
■オーサーコーチが選手と築く「関係の質」
組織の成功循環モデル(ダニエル・キムMIT教授が提唱)において、成果を上げるにはまず「関係の質」を高めることが大事だとされる。
 
■プロが教える「体験から学ぶ仕組み」
小田桐さんが企業研修などで活用する「体験学習サイクル」。やみくもに体験を重ねるのでなく、都度振り返り、学びを一般化して適用する。
 
 
記事の中では、ブライアン・オーサーコーチが羽生選手の感性や考えを尊重する姿勢、そして羽生選手の体験から学ぶ力の高さに触れていますが、僕はその関係は対人援助の相談関係まさにそのものだと思います。
 
以前コラムでも触れたように、人はそれぞれ五感の感性や価値観が違いますので、同じ刺激を受けても、その受け取り方、主観的な体験はそれぞれ違います。
 
例えば、同じ映画を観たとしても、人によって感想は違う。それは感性や価値観の違いがあるから。でも、それは固定のものではなくて、同じ人物でも観る時期やその時置かれている状況によって見方や感じ方は変わってくるのが当たり前。
 
僕もこの前、友人の結婚式に出席しましたが、独身の時と、結婚してからと、子どもができてからでは、やはり心持ちや見方、感じ方は変わりますよね。
 
自分の内面で想起されるもの、アンカー⚓️みたいなものは、それまでの経験やそのときの状態によって変化する。
 
逆にこれを利用すると、相談者に健康的な体験学習を提供することよって、感性や受け取り方が健康的な方向に変わる可能性があるという事。社会的養護(里親、施設)で日々行う支援はまさにコレなんだと思います。
 
しかし、僕は児童相談所の心理司の立場なので、毎日会って[日常]を提供することは出来ない。なので、僕は面接でもLSWでもある意味[非日常]を提供する立場だからこそできるBeing(在り方)を考えなくてはいけない。
 
今のところ、日常では全ては解放しきれない
「自分の感性、自分の思ったり感じたりすることに嘘偽りなく正直でいられる場」その延長で、
「自分自身在り方(Being)を考える場」
を提供できると、その人の[存在]を認めることにつながるんだろうなと思って目指してはいます。
 
が、そこには安全感、安心感が不可欠ですし、この人なら大丈夫という信頼感も必要ですし、本人のタイミングや時間が必要という場合もあります。さらに今は「児相」という背負っている看板は外せないので立場的な限界もあるし(児相にはちょっとコレは話せないというやつ)、やりきれない役目は関係機関(施設・里親・病院・学校)の方々に助けてもらっている部分も大きいなと思います。
 
 
ついついやりがちや「アレやれ、コレやれ、あれはやっちゃダメ」は、「Doingトーク」なんですね。でも、身体に悪いものほど美味しいように、ダメと言われる事ほど面白かったり興味が湧いたりしますね。「押すなよ!」と言われたら押したくなる(押せというフリ)みたいな。
 
「Doingトーク」がダメなんじゃなくて、大事なのは「成長」というキーワードで、成長を望むなら羽生結弦選手のようにDoingとBeingをバランスよく両方磨かないといけないのかな、と思います。
 
今を切り抜けるだけなら「どう(Do)するの?」だけでいいわけで。でも、今さえ良ければではなくて、将来的なことも考えると「どう在りたいのか」「そのためには今どう在るのか」という長期的な視点になってくると思うんです。
 
だからと言ってBeingだけに偏って「こうあるべき!」と押し付けるのは、ただの押し付けがましい説教でしかなくて、右から左に受け流されるのがオチです。Beingは自分で考えるものであって、人から与えられるものではないのかな、と思うんです。
 
「役割が人を育てる」という言葉もありますが、アレは役割を与えられることで、その人自身が身の振り方を自分で考えて試行錯誤するから成長できるんだと思います。
 
後輩ができたり、部下をもったり、子どもができたり、人を育てるということは自分も育てる側の立場として共に育ち育てられるんだと思います。
 
やはり、その時にも、相手に求めるよりも先に、自分がまずどう在るのかが大切な気がします。そして、LSWもすぐに結果や成果が見えない将来の投資的な側面が大きいですから、もはや「支援」というより「育て」の感覚に僕的には近くて、そうなるとDoingよりもBeingの方がモノを言うような気がしています。
 
 
この事は個人だけではなくて、例えば、コラムで紹介したV・ファーレン長崎の高田社長の言葉を言い換えると、
 
「子どもたちに夢を与える。長崎を元気にする」
のはチーム哲学であるBeing。
 
「試合に勝利する。J1に昇格する」のは、Being達成のためのDoing(勝ったら県民サポーターのみんなが喜んでくれる)手段であり、その積み重ねの結果が「J1昇格」という形になったに過ぎないと、言うことなんだと思います。
 
 
あれはオリンピックのトップアスリートの話なので、あれはプロスポーツの経営の話なので、ではなくて、児童福祉現場でもBeingとDoingの両輪を並行して追求していくことが必要だと言う認識や話し合いが、スタンダートになるくらいになったらだいぶ連携や支援の質が変わるんだろうなぁ、と思いました。
 
平昌オリンピックもあとわずか。残念ながら、女子カーリング🥌は決勝進出なりませんでしたが、3位決定戦でも自分達らしい悔いのないカーリングをして、日本に元気を届けて欲しいですね。
 
ではでは。