LSWのちょっとかゆいところに手が届く「まごのてblog」

静岡LSW勉強会の管理人によるコラム集

【第73回】人気俳優たちの「柔軟な思考」の源

メンバーの皆さま
 
こんにちは。管理人です。
 
いよいよ年度末らしくバタバタしてきました。
 
そんな中、朝4時半の高速バスに乗り込み、今日明日で鹿児島・熊本に出張なんですが、数日前からの噴火で、危うく鹿児島行きの飛行機が飛ばないところでした。
 
いやぁ〜、これまで火山灰なんて画面の向こう側、[非日常]の遠い世界の話しのようでしたけど、こういう体験でもしないと身に染みないものだなぁ、とつくづく思います。
 
では、今回コラムは前回とりあげた「an・an」

f:id:lswshizuoka:20180308061619j:plain

で扱いきれなかったコーナーから。
 
 
役の切り替えから、アドリブまで!
人気俳優たちの柔軟な思考の源とは?
 
今をときめく俳優「窪田正孝さん/村上虹郎さん/鈴木信之さん/岩永徹也さん」の4人のインタビューから。
 
ちょっと無駄話が多く、後半になるにつれエンジンがかかって来てちょっと暑苦しい感じの熱量になってしまいましたが、そんなつもりで読んで頂ければ幸いです。
 
 
File01:窪田正孝さん
苦しみ、もがいた時間が自分の糧になると思う
「場数を踏ませていただいたこともありますが、日常に役の影響が出てしまうのが怖く、気持ちが楽になれる方法を考え始めたのがきっかけです。先輩の役者さんを見ていると、それぞれに切り替えや、仕事との不安との向き合い方を持っていて、僕の場合は現実逃避でした。映画を観たり、ドライブをすることが大切な時間です」
 
「…僕にも役と同様、兄弟がいますが、ぶつかっても一緒にいられる、人という "家" があるのはいいことです。その相手は親や友人など人それぞれでしょうが、考えや本音を話すことで思考がまとまると、自分自身を理解でき、人として成長できると思っています」
 
 
もはや説明不要の人気俳優の窪田正孝さん。今やドラマに出てないクールを見つける方が大変ですよね。
 
僕が初めて彼の存在を知ったのは、2015年放送の月9ドラマ『SUMMER NUDE』。
 
山Pが主演でカメラマン役、突如いなくなった恋人役が長澤まさみ恋人喪失に暮れる幼馴染みの山Pを追い続ける戸田恵梨香そんな戸田恵梨香を影で想い続ける「引っ込み思案の地元メガネ青年役」が窪田正孝さんでしたが、放送を重ねる度に増す人気と存在感。
 
シナリオは完全に『ビーチボーイズ』(1997年)そのまんまなんですが香里奈高橋克典勝地涼などなどキャストがよかったですよね。千葉雄大山本美月もあのドラマ以降にブレイクしましたし。
 
もちろん、窪田正孝さんもその後から現在までドラマに映画に引っ張りだこ。好青年キャラから『Death Noteでは腹黒い役までこなせる演技派俳優の地位を確立したように僕は思います。
 
そんな窪田さんも今年で30歳だそうですが、これまで「苦しみ、もがき」ながら成長したプロセスを感じさせる語りです。特に「日常に役の影響が出てしまうのが怖い」というのは臨床家も非常に参考になる視点と思います。
 
児童福祉現場では、普通はあり得ないような[非日常]的な修羅場に多々遭遇するので、被曝し過ぎて[日常]生活の方に影響が出てしまった経験をお持ちの支援者は本当に多い、というか多かれ少なかれ全員が経験していると思います。
 
そんな時に、先輩の気持ちの切り替え方を見たり、安心して自分の考えや本音を語れる人の存在が自己理解と自己成長を促してくれた、なんてもはや児童福祉の経験者のような語りですよね。
 
その場に応じた自分を演じるという部分において、やっぱり役者と臨床家は共通点が多いんだな、と改めて感じます。
 
 
 
では、二人目はこの方。
 
File02:村上虹郎
左脳と右脳、そして直感。この3つが行動の基準です。
舞台稽古に取り組んでいるときは、普段の何倍も脳を使っている。
「セリフの意味を咀嚼し、共演者のことを考え、演出家の言葉に耳を傾け、客観的にどうしたら面白い " 製品 '' になるか意識しながら、臨機応変に自分の役として動く。…」
 
悩んだり、辛いときは、自分の心に尋ねる。
「感情と理論の両面から "本当はどう思ってるの?" と自分に聞いてみます。両方とも "理にかなっている" と思ったら、ストンと納得できる。頭でわかっていても感情が整理できなければダメだし、逆もそう」
 
 
1997年3月17日生まれ、もうすぐ21歳になる俳優さん。「虹郎」は本名ということですが、名前だけだとピンと来ない方も多いかもしれません。ドラマ「仰げば尊し」など多数出演している "ハッキリした眉毛" が印象的なアノ青年です。写真を見れば思い出す方も多いのでは。
 
父は俳優の村上淳、母は歌手のUA
 
UAと言えば約20年前に「甘い運命」「情熱」などが大ヒットした沖縄出身の実力派シンガーですよね。JAZZなんか唄うと本当にカッコ良いので、僕は未だにiTunesに入れて時々通勤中に聴いています。
 
出産してから歌手活動が減って残念に思っていたのですが、まさかこの形で息子さんが世に出てくるとは驚きでした。アノ眉毛は完全にお母さん譲りですよね。
 
そんな感性豊かな母親のDNAなんですかね、語る内容が若干20歳のものとは思えません。
 
「右脳と左脳、感情と理論の両面から自分自身に問いかける」とか、もはや熟練カウンセラーの域じゃありませんか?
 
しかも、
「セリフの意味を咀嚼し、共演者のことを考え、演出家の言葉に耳を傾け、客観的にどうしたら面白い " 製品 '' になるか意識しながら、臨機応変に自分の役として動く。…」
 
なんて、俯瞰的な視野もハンパないですよね。こんな仲間と一緒に仕事できたら、どれだけ頼もしいことか。
 
これまで「まごのてblog」でこねくり回して扱ってきた内容を、いとも容易く簡潔に語ってしまう20歳…。
 
大事なのは年齢や経験よりも、遺伝子と育ちで培われた「資質」なのかな、と感じずにはいられない語りです。
 
 
3人目はこの方。
 
File03:鈴木伸之
予想外の結果が生み出す、爆発力がたまらなく好き。
「準備が大事なお仕事だと思っているので、台本を読み、物語の流れや演じる人物の役柄を考え、大枠を決めてから現場へ行きます。でも、一人で決め込まず、余白を残すことも意識しています。予定調和より、何が起こるかわからないハラハラ感がある方が作品が面白くなると思うんです。"1+1は2ではなく、3でも4でもいいだろ!"って考え方。予想外だからこその爆発力が、たまらなく好きです」
 
長年打ち込んでいた野球も、仕事に影響している
「スポーツもお芝居も、チームプレーという点では一緒。だから、共演者の方やスタッフさんとも垣根なしに楽しく、いい作品を作り上げたいんです」
 
 
劇団EXILEのメンバーで、1992年生まれ25歳の俳優さん。『桐島、部活やめるってよ(2012年)や『GTO』(2012年)にも出演していたんですね。気づかなかった…。
 
僕が鈴木信之さんを記憶したのは、池井戸潤原作のドラマ『ルーズ・ヴェルトゲーム(2014年)』。大ヒット『半沢直樹の次にドラマ化された池井戸潤シリーズ第2弾の作品です。
 
社会人野球の話しなんですけど、鈴木さんは主人公のライバルチームのエース役。主人公もピッチャーですから、まさにライバルです。野球経験者というのも配役の一部だったんですね。
 
池井戸潤シリーズを観たことある方はご存知かと思いますが、まぁ敵役はネチネチ意地悪い人ばかり。例外なく鈴木信之さんも性格の悪いボンボン青年役なんですが、人を小馬鹿にしたようなニヤニヤした表情など「この人ホントに性格悪そうだな」と思わせる演技。
 
当時、若干21〜22歳ですからね。やっぱり何千人何万人というオーディションを通る人は「見た目カッコイイだけ」じゃなくてモノが違うんだろうな、と思いますね。
 
割と普通っぽいこと言っているようで、始めの語りは見逃せません
 
「準備が大事なお仕事だと思っているので、台本を読み、物語の流れや演じる人物の役柄を考え、大枠を決めてから現場へ行きます。でも、一人で決め込まず、余白を残すことも意識しています…」
 
この部分は、児童福祉の「初対面」の場面によく似ていると思います。僕は非常勤時代に教育・福祉・医療それぞれの職場を経験できたのですが、基本的に相談情報は、目の前の「相談者」から聞く以外にありません。名前、年齢、家族構成といった基本的なことから全て。
 
そして、継続的な相談につながるか否かは、その時に相談者が「また相談したい」と思えるかどうか。ダイレクトに自分の身の振りが相談関係に直結します。これが、むしろスタンダード。
 
しかしながら、児童福祉は児童福祉法が整備されているおかけで、虐待の場合、良くも悪くも事前情報が当事者以外からも取れちゃうんですね。相談に来る前、施設や里親に委託する前、支援者は通告内容やそれまでの経過等の事前情報をある程度知った上で「当事者」に会うことになる。
 
もちろん、色々な準備が出来るという点においてはメリットもあるんですけど、逆に落とし穴もあって、あまりに事前情報を信じすぎると目の前の人との「関係構築」の邪魔になる場合があります。
 
よくあるのが、相談の始めから保護者や子どもを「虐待をしたヒドイやつ」「問題行動ばかりする困った子」という先入観や色メガネでもって対応してしまうケース。
 
まず、客観的な「虐待」「問題行動」があったのかどうかの事実がどうで、本人の認識はどうなっているかもわからないわけで。
 
さらに「ヒドイ」「困った」という情報は、これだけだと主語すら曖昧な主観的な感想ですから、誰がどういう文脈ストーリーでそう思ったのか、をキチンと整理しないといけません。たいてい通告者や相談者当人は泡食ってますから、そこの所をまず一旦落ち着かせて整理していくことも支援者の仕事とひとつと思います。
 
「予定調和より、何が起こるかわからないハラハラ感がある方が作品が面白くなると思うんです。"1+1は2ではなく、3でも4でもいいだろ!"って考え方。予想外だからこその爆発力が、たまらなく好きです」
 
臨床現場に置き換えると、「予定調和」的な事前打ち合わせ通りに面接をしようとすればする程、思考が固くなり、その場で起こっている事を感じることが疎かになったり、話に耳を傾けるよりも頭の中で次の質問の事ばかり考えている事態が起きるので、結果的にクライエントをないがしろし大切にする姿勢に欠けて、相談関係や信頼関係が築けないということが往々にしてあります。
 
しかし、その場で語られる話しや様子に集中して丁寧に耳を傾けると、意外な情報が出てきたり、面接終わりには事前情報とは全然違う予想外な相談者の姿が見えてくることは割とありますよね。
 
確かに僕もそういう瞬間、その場のやりとりにおいて期待以上の化学反応が起こったり、良い意味での驚きを体験する面接は、たまらなく好きだし臨床の面白さ奥深さを感じます。
 
最近よく思うのは、やっぱり支援者が「教えてやろう」「気付かせてやろう」という姿勢が漏れ出てる関係では想定の範囲を超えてこない、あえて言うなら想定より事態が悪化していくことの方が多い。
 
当たり前かもしれませんが、「目の前の人のことをもっと知りたい」「そのことについて理解を一緒に深めたい」と、答えを出す事を急がず共に悩む姿勢や関係性を体現できた時、
 
いい意味でクライエントが予想を裏切り、期待に応えてくれる、むしろ期待を超えてくる
 
ことが起こっているを気がします。正直大変なケースに関わり続けた末にそうなることが多くて、ホント臨床家というものはクライエントに経験を積ませてもらって育ててもらうものだなぁ、と思います。
 
そしてLSWと言うのは、そのプロセスの中で子どもたちが予想を超えた反応、想像以上の成長を見せてくれることばかりで、毎回驚きと発見の繰り返しなので、ホントこちらが勉強させてもらってるなぁと思います。
 
 
 
長くなりましたが、最後はこの方。
 
File04:岩永徹也
ゴールからハシゴを下ろす感覚で行動しています
「演じる時は、最初に作品の完成形を想像して、面白くするための種を蒔く方法を考えます。自分に求めらているポジションを考えて、お互いの役の魅力が輝くようなキャラ作りをしたり、笑ってもらえるようなアドリブを考えて入れたりする…」
 
「目標から逆算して動くと、ただゴールに向かうよりも少し先にある到達できる。自分の成長や作品の仕上がりが想像を超える体験は、僕にとって楽しいものなんです」
 
 
僕が4人の中で唯一知らなかったのが岩永さん。1986年生まれの31歳で「若手じゃないじゃん!」と思ったら、元々は「MEN'S NON-NO」のモデルさんだそう。薬剤師での勤務経験もあり、IQ上位2%でしか入会できないMENSAの会員であると。
 
で、あの「テラスハウス(2013年)」では王子と呼ばれ、「Qさま」のインテリ軍団としても出ているらしい。全然知らなかった…。
 
今思えば放送があった5〜6年前は、ホント家には寝に帰ってるだけみたいな生活で、まともな時間にTVなんて観てなかったんだったなぁ、としみじみ。
 
しかも、なんと岩永さんは仮面ライダーエグゼイド」の檀黎斗(だんくろと)役でもあると。
 
この正月に5歳の甥っ子が、
《♬EXCITE!EXCITE!た〜か〜鳴る♬》
 
と連呼していて、あの三浦大知の癖のある楽曲を幼稚園児に熱唱させる「仮面ライダー」の影響力やっぱスゲーと思いましたし、
 
お仕事でも「エグゼイドごっこ」で担当の子に散々やられているのにチェックしてないなんて「いかんな」と反省しました。
 
 
 
で、インタビューに触れると、
「目標から逆算して動く」と言う考え方は、以前に紹介した「フューチャーマッピング」や「未来語りのダイアローグ」と同じですよね。
(参考【第56回】ジャパネット流「企業再生術」
 
ポイントは、未来の「ビジョン」や「在りたい姿」(=Being)を頭の中でどれだけ明確に描けるかだと思います。そして、大抵の人はすぐに「そんなの無理」と諦めてしまうんですけど、それはDoingや結果に囚われ過ぎているからではないか、と思うことがあります。
 
自分の家族や自分の組織そして自分自身が「どう在りたいのか」その希望や願いは初めから諦めるものではないし、その姿に向かって進み近づくこうと考え始める事は今からだって出来る。
 
そして、そこに近づく方法(=Doing)は、決して一つではないハズで、状況や考え方によって多種多様に変化していっていいと思います。
 
大事なことは根気強く種蒔きをして、水をやり続けられるか。芽が出て、茎が伸びて、実がなって収穫できる時なって、ようやく形となり成果として実感できるんだと思います。
 
芽が出た時の「喜び」、順調に伸びていく「楽しみ」、時として病気なったり倒れそうになる「悩みや苦しみ」、そんなプロセスを共にして収穫した果実は、スーパーマーケットで売られている果実とは、その意味合いや価値が全然違うと思うんです。
 
そのように共に作り上げ、共に変化成長していく体験共有をきっと俳優さん達は「お芝居」「舞台作品」を通じてしているのかなぁ、と4人のインタビューを読んで思いました。
 
そして、児童福祉におけるソレは「子どもの成長」ではないかなと僕は思っています。子どもが成長したり笑顔が見られた時はやはり嬉しいものです。
 
よく「安全安心」と呪文のように唱える人がいますが、僕の中では「安全安心」はゴールじゃなくて通過点。安全安心が心配だと言って、一年中ペットの様に家やカゴに閉じ込めておくことが「最善の子どもの利益」につながるとは思えません。
 
成長期の子どものを考えた時に外せない視点が成長や可能性(ポテンシャル)を伸ばすこと。特に、ゴールデンエイジと言われる脳や神経系の発達が目覚ましい10歳までは。
《参考》
【第35回】バイオサイコソーシャルアプローチ①
 
 
では、なぜ「安全安心」が必要か。それは、自由に伸び伸びできる環境や遊びの中でのトライアンドエラー試行錯誤)が、自分で感じ考え動く力を養うからだと僕は思います。これは子どもでも大人でも。
 
もちろん危ない時、道理に合わない行動はストップします。その線引きが「枠」や「ルール」。例えば、僕自身もうすぐ1歳になる息子がいるのですが、自宅でベビーサークルを利用しています。文字通り木製の「枠」です。
 
使ってる理由は、大人が目を離すときに、そこに息子を入れておけば「安全安心」だから。何でも手に取るし、口に入れちゃうので。逆にベビーサークル内なら、どんなに散らかそうが口に入れようが安全で自由に遊べる環境を保証する。
 
別に大人が一緒なら、ソファーとか外遊びにも連れて行きます。ガンガン動き回るのでソファーから落ちそうになったり、芝生を掴んでそのまま食べようとしますけど、その時はそっと大人が止めてあげる。観察しながら安全からハズレそうになった必要な時にだけ守ってあげればいい。文字通り「見守り」「観守り」です。
 
要は「成長につながる経験」をどう保証して、安全安心を維持するための「許容度」をどう設定するか。その「安全を守るために必要な枠」と「成長に必要な経験」は年齢や成長段階によって変化していくものだと思います。小学生にベビーサークルは使わない訳で。
 
情緒的感覚的な成長を促す「自由」を確保するための「安全安心」。安全安心は子育ての必要条件ではあるけど、十分条件ではないと思うんです。
 
その自由度と安全度、制限と許可のバランスは、環境面・大人の人数(ハード)と子どもの身体的・精神的な発達段階(ソフト)によるんだと思います。こう考えると子育ては、皆さん当たり前のようにやっていますが、とても柔軟性と繊細さが求められる24時間の個別支援ですよね。
 
なんて言うと、たいそうなものっぽくなりますけど、枠と言うのは実際は「大人が息を抜ける場」「ホッとできる時間」としての意味や機能も大きいと思います。
 
「子ども中心」とはいえ大人だって、ご飯食べたいし、疲れたら甘いものもつまみたいし、夜はビール飲みたいしTVも観たいわけで。そんな時、安全安心な枠に子どもを置いておけるから、大人も安心してひと息をついてエネルギー補給して、また子どもに向き合えるのではないでしょうか。
 
「いい加減に」泳がせておける時間や空間があると言うのが、実はお互いにとっての余裕を生んだりする 必要な"遊び" だったりするよなぁ、と。
 
実生活の中では、掃除して洗濯して食事作って食べさせてオムツを替えてお風呂に入れて後片付けもして…なんて家事に加えて仕事や学校関係の準備物とかの雑務も結構あって、現実的には四六時中こどもに付きっきりで相手するという訳にはいかないし、ハッキリ言ってそんなんじゃ身が持ちません。
 
仕事も家事も子育ても「程々のところ」で終える決断、良い意味での「いい加減」で諦めるコトも、生活上の24時間のトータルコーディネート、人生の質(=QOL)を考えた時には、重要なことだと思います。
 
どんな人でも1日24時間という持ち時間は限られているので。何でもかんでも十分に出来るわけではなく、シーソーのようにどこかに比重を置けば、どこかにかける時間は減ってしまうのは必然です。
 
なので、その限られた持ち時間をどう使うのか、それを考えて選択した積み重ねが生き方であり、Being、在り方につながるのかな、と。
 
そして、その選択肢の幅を決定する大きな要素が環境です。時代、国籍、社会情勢、経済力、行動範囲さまざまな環境の違いによって、現実的にはやれることに制限がかかる。限られた枠の中でどう生きるか、それは大人になってからも社会生活を送るなら大なり小なり付きまとう事なんだと思います。
 
だから、限られた枠を意識しながらも、自分で感じて考えて「なりたいこと、やりたいこと」に自らの意志で近づこうとする経験を、子どもの頃から可能な限り積んで欲しい。
 
その思い描いた姿と現実の姿は完全には一致しないかもしれない。でも、自分の力で進んだ近づけた経験や自信が、次の目標への一歩を踏み出させることにつながると思うから。
 
でも、それを邪魔をするのは大人側の葛藤。周囲と違ったりズレたりすることへ不安。周りからやいのやいの言われて、一人で抱え込めなくなった時、「目の前の子ども」より「周囲」からの目の方に重点が行ってしまい、シワ寄せが子どもに直接向けられる場合に不幸なことが起こると思います。
 
本来、子どもが今日よりも成長することが喜ばしい事のハズなのに、比較対象ができた途端「今日の伸びシロ」「出来たこと」より「周囲とのギャップ」「足りてない」の方にばかり気が向いてしまう。
 
嫉妬やコンプレックス、誰にでもある自然な感情。それはそうと受け止めて「いい加減に」なれるかどうか。それが「その子らしさ」「自分らしさ」を認めることなんだろうな、と。
 
ただ児童福祉に辿り着いてしまうお子さんは、身体面と精神面の成長が凸凹だったり、どちらとも同年代の子から遅れてしまっているので、必要な環境(ハード)も必要な経験(ソフト)も他からズレて「こんなハズじゃなかった」と受け入れがたい気持ちになるのも、また現実。
 
「普通になって欲しい」
 
よく耳にする言葉ですが、一緒にBeingを考えて見てください。その人が望む「普通」とはどのような姿なのか、その子にどう生きて欲しいのか、そもそも子ども自身がどう生きたいと思っているのか。
 
子どもを想う気持ちがある人なら、表現の仕方は様々ですが「その子が将来、生きていくのに困らないように、幸せに暮らして欲しい」ところに着地していくハズです。
 
子どもの成長を願い信じて、その可能性(ポテンシャル)を引き出し続けた延長戦上の「結果」として、周囲に追いついたり追い越したり、異才を放ったりするんだと思いますが、僕が大事にしたいことは「その子らしく生き生きしているか」「楽しく笑顔になれるのか」。
 
しかし、チャイルドファーストではなく「家族に迷惑をかけないように」とか「あの子に変わってもらわないと」とアダルトファーストの思考から抜け出せない人もいるのは事実。
 
そう言う時は、まずそう考える大人自身が今の生活が苦しくて、満たされきれない子どもの部分も残ってもいて、子どもよりもまず自分が癒されなければ、とても子どもの将来を考える余裕なんてない状態と思うので、まずは大人自身の支援が必要なんだと思います。
 
この構図は、施設や里親に委託されている子のLSWでも全く同じです。LSWは、かなり先の将来への投資、種蒔き的な関わりになるので、今のことや自分の事で一杯一杯な支援者には「この子に将来こうなって欲しい」という話題を考えたり話し合う余裕は無いので、LSWの検討は難しいと思います。
 
僕のLSWイメージは、「自分の人生は谷ばっかりだ」と将来を悲観的にしか描けない人に対して、これまでの道のりをポジティブ面にも光を当てて整理する事で「人生山あり谷あり」「物事には光と闇がある」と視野を広げて、「将来だって良いことも悪いこともあるハズ」と将来を極端に「悲観的/楽観的」するではなく視野を広げて考えられる足掛かりになれば、という感じです。
 
しかしその時、支援者自身の視野や考え方が狭かったり、物事の「ポジティブ/ネガティブ」「楽観的/悲観的」な見方が偏って極端だったりする人達の集まりだったら…。子どもの視野が広がったり、思ってもみない気づきが得られる場にはなり得ないですよね。
 
子どもに「そうなって欲しい状態」を、まず支援者自身が経験していないと。自分が出来ないことを、子どもに求めては酷です。
 
 
ちょっと長くなりしたが、何が言いたいかと言うと、やはり、まず支援者が自分自身を大切にしてセルフケアをして、柔軟な視点を持ち、両価的な価値観・感情を認めて感じて抱えながら考えること。
 
これまで当ブログで手を替え品を替え扱ってきたし、今後もこのことを繰り返し扱い続ける理由は、そういう姿勢が言葉ではなく背中やその場の空気感で子どもに伝わるから。
 
逆に言えば、全て言葉で伝えなくとも自然と良い影響を受けてくれる、インフルエンザではないですが、支援者の基本姿勢・考え方や生き方は、何気ない所作で感染伝染しやすいと思います。特に、子どもの場合は。
 
そういう意味において、児童福祉の支援者は舞台俳優であるし、でもいつも舞台上じゃ疲れてしまうし、どうしたって職業観と生き方が重なって切り分けにくい仕事だと思います。
 
なので、大人が自分を偽って「自分らしくいられない」支援は大人自身が苦しいし、それを見ている子どもも苦しいし、お互いに苦しい…。
 
 
そういう狭い視野に陥りがちな時に
「人気俳優たちの柔軟な思考の源とは?」
とても参考になると思いました。
 
やっぱり今回の「an・an」は永久保存版ですね。
 
ではでは。