LSWのちょっとかゆいところに手が届く「まごのてblog」

静岡LSW勉強会の管理人によるコラム集

【第75回】ソーシャルワークの新定義と「地域の知」

メンバーの皆さま
 
こんにちは。管理人です。
 
前回紹介した「シリーズ 人体」なんですが、放送時間が息子の寝かしつけの時間と重なり、さらに「99.9 ~刑事専門弁護士~season II 最終回」の録画とも被ってしまい、結局見逃してしまいました…。
 
もちろん再放送の録画はしたので、また機会に扱おうと思いますので、今回は別ネタで。
 
「99.9」と言えば、あるご当地キャラクターが頻繁に登場していたのをご存知でしょうか?
 
それは、気仙沼市ゆるキャラ「ホヤぼーや」
 
気仙沼の特産物で「ホヤ」という少しグロテスクな珍味がありまして、「ホヤぼーや」はそれを頭に被ってるキャラクターで、手には気仙沼特産である「サンマ」を剣として装備。
 
妻の実家が気仙沼なんで「season Ⅰ」の時から「あれ?ホヤぼーや?」と思っていたんです。どうやら調べてみたら気仙沼でロケをした堤監督や木村監督が気仙沼応援するために「99.9」だけでなく色んな作品でホヤぼーやを使ってるんだそう。
 
【参考】なぜこんなにホヤぼーやが?にお答えします
 
僕も何かのお祝いやお返しなどには、気仙沼の商品を使って微力ながら復興のお役に立てればと思っているのですが、こんな僕ですらTVで「ホヤぼーや」を見て結構テンション上がりますから、地元の人は本当に嬉しいと思います。
 
今回コラムはそんな「地域を大切にして応援する気持ちが大事」というお話です。
 
 
そして今回紹介するのは、この論文。
IFSW ソーシャルワーク定義にみる世界情勢」
(松山、2015)
 
 
IFSWとは「国際ソーシャルワーカー連盟」のことで、約四年前の2014 年7月に、
新しい『ソーシャルワークのグローバル定義』
が国際ソーシャルワーカー連盟総会及び国際ソーシャルワーク学校連盟(LASSW)総会において採択された、と。
 
前回採択が2000 年なので14 年ぶりの改訂だそう。ちなみに、その前は1982年なので改定までの間は18年。まぁ概ね15年前後で一つの時代の節目が来るという事なんでしょうか。
 
で、この論文の目的は、
ソーシャルワークの新定義の特徴と、新定義に書かれた現在の世界情勢を明らかにすること」
なんですが、これがなかなか面白くて鋭いんです。
 
まず面白い点とは、その言葉選び・言葉遣いへのこだわりっぷり。
 
「新旧定義とも、定義本文について注釈が書かれ、一つ一つの言葉の意味や背景などを説明している。ここを注意深く読むことにより、定義本文がどのような価値に立ち、視座や姿勢を表そうとしているかその文言が使用されている歴史的経緯が理解出来る」
 
そこに込められた本質的な在り方(=Being)を伝えようとする明確なメッセージ性、ブレない軸や意志の強さを感じます。
 
 
例えば、新定義では定義の本文中重要な部分を、
(旧)「解説」(新)「中核となる任務」
とタイトルを付け直した。それで、ソーシャルワークおよびソーシャルワーカーが何をするかを明確に表そうとしている、と。
 
確かに読み手の視点に立てば、「解説」と「中核となる任務」では全然印象が違いますよね。「解説」なんか訳わからない時の補足程度のイメージですけど、「中核となる任務」となればセンターど真ん中ですから。
 
これが「伝える」と「伝わる」の差だと思うんです。本当に伝えたいものを共通理解してもらうために、プレゼン方法を相手視点を突き詰めて、どこまで細部まで気を配れるか。
 
LSWに限らず、対人援助に限らず、一流のお仕事をするプロフェッショナルの方々にほぼ共通して、素人では到底気づかないレベルのこだわりを持って、繊細で地道な努力をコツコツと積み重ねていますよね。
 
新『ソーシャルワークのグローバル定義』には、そんな職人気質の細かさを感じます。
 
他には「ソーシャルワークの目的」についての変更。
 ソーシャルワークの定義の根本にあたる所だと思うのですが、その文言の内容はウェルビーイングを高める(enhance wellbeing)」と旧定義と変わりはありません。
 
その変更点とは、
 (旧)「well-being (新)「wellbeing
 とウェルビーイングが一つの単語になっている事。これ福祉でない人から見たら「どうでもいいよ」レベルだと思うのですが、決してそうではない。「well-being」(翻訳は「良い状態」)という言葉は、1946 年に WHOが健康の定義をした際に用いられたという歴史的経緯を踏まえて、明確な意図を持って変更されているわけです。
 
その意図については、
 そこでは「福利」と訳されていた。「wellfair 福祉」とは異なる概念であることが強調されていたと考える。well は、良い、満足な、望むなどの意味 があり、being は生きる、在る、存在などと訳すことができる。
 
〜ここでは、健康などの身体的状態や精神的、経済的状態が満足できる、望むような状態であることを指すように思われる。
 
執筆者の推測になっているので、本当のところは新定義の英語原文をあたるか作成者に聞いてみないとわからないんですけどね(苦笑)
 
今週終了する「とんねるずのみなさんのおかげでした!」の人気コーナー『細かすぎて伝わらないモノマネ選手権に負けず劣らずのホントに細かすぎて伝わらないし、気づかれない変更です。
 (コーナー初期は本当に似てるか判別不能な細かいモノマネがホント多かった)
 
このようなマニアックな所に光を当てて、わかりやすく解説してくれるのは、本当にありがたいですよね。ニュース解説の池上彰さんがTVで重宝されるのと一緒です。
 
 
その他の注目内容としては、
ソーシャルワークが「実践に基づく」ものであると実践の位置づけを重要視し任務を具体的に列挙している
 
と前置きがあって、
 〜定義本文に原理として書かれた「人権」「社会正義」「多様性尊重」のほか、「人間の内在的価値と尊厳の尊重」と「危害を加えないこと」が追加されている。
 
〜「人権」は重要な概念ではあるが、「人々がお互い同士、環境に責任をもつ限りにおいて、はじめて個人の権利が日常レベルで実現される」とし、「多様性尊重」「危害を加えないこと」との関連性を説明し、「人権と集団的責任の共存が必要」とした。
 
と解説されている点。確かに、人権・権利・多様性・マイノリティを盾に自身の責任を放棄していたり、暴力的な主張で他人を傷つけるような事件やケースは報道もされているし、実際の現場でもよくありますよね。
 
このあたりは本当に鋭いですし、海外ではより表面化した切実な問題なのかもしれません。松山氏論文の中で世界的な経済格差、貧困、民族、宗教問題が影響していると指摘していますが、「人権と集団的責任の共存が必要」とはなるほどなぁ、と思います。
 
 
そして、さらに鋭すぎてキレッキレの改定部分について紹介します。
 
注釈において、2000 年旧定義では「理論」であったものが新定義では「知(knowledge)」のタイトルになっている部分で、著者もここには驚くほどの激しい文言を持って世界の現状が語られている」と述べている部分です。
 
その理由は、新定義の中で、
ソーシャルワークは特定の実践環境や西洋の諸理論(Western theories)だけでなく、先住民を含めた地域・民族固有の知にも拠っていることを認識している」
 
植民地主義の結果、西洋の理論や知識のみが評価され、地域・民族固有の知は、西洋の理論や知識によって過小評価され、軽視され、支配された」
 
つまり一般的な「理論」とは西洋の考えであって、その考えこそが正しくして、現地の人に価値観を押し付けるようなことがまかり通っていた、ということなんでしょう。なので、もっと現地の歴史の中で積み重ねられていきた固有の知(knowledge)」の価値を見直しましょう、と。
 
「ぶっちゃけたなー」というのが僕の初めの印象。だって西洋人が「植民地主義」という言葉を使って、自分達はソーシャルワーク理論においても「支配」していたとハッキリ明文化して発表しているんですから。
 
で、どうやら論文を読み進めると、2000 年のソーシャルワーク定義が採択された際に、西洋以外の国から結構な反発があったらしいんですね。その国独自の文化に根ざした考え方や理論や知識は軽視されている。自分たちは西洋の考え方こそ「是」という価値観に「支配されている」と。
 
改めて、数百年前の植民地支配の文化的影響は根が深いんだなぁ、と感じると同時に「1982年の改訂では、こうはならなかったんだ」とも感じました。1982年は僕が生まれた年なので、リアルタイムで社会情勢を感じたわけではありませんが、旧ソ連は健在でしたし、その後にはイラン・イラク戦争真っ只中の時代です。
 
もしかしたら、被支配の当事者国が声をあげられないような時代だったのかもしれませんし、声を上げても耳を傾ける西洋人は少なかったのかもしれません。しかしながら、2000年には、そのような声を発して、それを真摯に受け止める「対話」ができるような素地が国際学会の中にはあった、という事なんだと思います。
 
この構図は、僕が働く児童福祉の現場とよく似ている気がします。施設や組織に根付いている文化というのはそう簡単には変わらないし、社会的養護(里親・施設)を出た後に、当時の出来事や被害を当事者がぶっちゃけてカミングアウトする、なんて機会に触れることは決して少なくありません。
 
この論文を読んだ時に、どうやら世界中どこでも似たようなことが起こっていて、支援者が悩み抱えている本質的な課題は国を超えてもあまり変わらないのかな、と思いました。
 
なので、当事者国の声から、
〜世界の国々は、少なくともソーシャルワークの分野においては、西洋中心の考え方(グローバ リズムと言ってもよいと考えるが)に対して強い拒否感を持ち、自国の文化や知を再評価しつつソーシャルワーク実践を定義しようとした。
 
という動きになって、定義が改定されたことの意義は本当に大きいと思います。個人でも家族でも組織でも地域でもそうなんですが、結局やるのは「本人」たち。なので、自分たちの良い所も悪い所も受け入れて、納得して勇気付けられてエンパワメントされて、自分の心の底から「変わりたい」と思って動かないと、結局のところ良い変化は起こらないし継続しないですよね。
 
そして、そこに至るまでには、当事者による歴史・経緯の「語り」というプロセスが必要不可欠と思います。ところが、外から急にやってきて「お前らのやっている事は間違っている」と対話なしにアレコレ言ったって、権威や力の差があれば黙っているだけで、言われた側の心の底では「よそ者のオメーに何がわかるんだ」と反発心を強めるだけで、その人の前でだけポーズをとる見せかけの行動変化しか起こりませんよね。
 
歴史が長ければ長いほど、秘伝のタレみたいに継ぎ足し継ぎ足しで味が出来てますから、こってり系ラーメンをあっさり系に変えるような根本を変えようとしたら鍋自体を変えないと難しいと思います。無理やり変えようとしても味同士が主張し合って喧嘩して、もっとマズくなっちゃいます。
 
そして、現実は組織や地域のメンバー総取っ替えはあり得ないですから、元々の良さを活かしつつ時代に合わせて少しずつアレンジ、マイナーチェンジを繰り返し、地道な変化を重ねて進化していくしかない。
 
それは相手の歴史や価値観、地域の知を尊重した話し合い、共に変化していこうとする協働(working together)や共進化(co-evolution)の姿勢に基づいた「オープンな対話」「信頼感」の積み重ね以外に成り立たないと思います。
 
そういうことが、
〜旧本文の「人間関係における問題解決を図り」というミクロの機能が削除され、旧定義の「社会変革」 に「社会開発・社会的結束の促進」という機能が追加されている。全体としてマクロを強調する内容となっている。
 
の中にある「社会開発・社会的結束の促進」という言葉に込められているような気がします。
 
 
で、ここまでは『新グローバル定義』の鋭さについてですが、最後に論文著者による鋭い指摘も紹介しておきます。
 
それは日本について。
 
日本に導入されているソーシャルワーク理論や知識は西洋というよりもほとんどアメリカのみである。同じ西洋でもフランスの理論などはほとんど紹介されていない。
 
〜まして、発展途上国においてソーシャルワークがどのように展開されているのか、知ることが無いというのが日本のソーシャルワーク教育の現状ではないか。
 
〜だからといって、アメリカ ・ イギリス以外の国にソーシャルワークは無かったはずはない。IFSWに90ヶ国も加盟し、各国は団体を構成するソーシャル ワーカーが実際に居るのであるから。
 
というように、米英以外の国から学ぼうとしていない視野の狭さをズバリ指摘しています。
 
僕は社会福祉士の資格を取っていないのでソーシャルワークの教育課程はよくわからないのですが、確かに児童福祉でもよく耳にするのは英米の話し、それとイギリスの流れ組むオーストラリアが多い印象。児童福祉法の改正の話題もそう。
 
そして僕は運良くカナダ・アジアの話を聞ける仲間が身近にいたのですが、他のヨーロッパ諸国や南米がどうなっているか質問しても、知っている人はほとんどいない。
 
この一部の地域の取り組みに偏って倣うことに、僕はすごく違和感を持っていたのですが、やっぱり変ですよね。
 
そして、
〜さらに、日本においてソーシャルワークはどのように発展してきたのだろうか。「ソーシャルワークということばが輸入される前に、実際の活動や政策はあったはずである。聖徳太子開いたとされる四箇院や大宝律令に救済対象を明記したことは、 社会保障制度といえるのではないか。
 
と著者も主張しているように、日本が積み重ねてきた良さ・歴史を踏まえて、海外の良い所をどう取り入れるかという建設的な議論がそれほど聞かれないのは、僕の情報収集が偏っているのでしょうか。
 
日本は◯◯年遅れている。なので、米英に早く追いつかなくては。
 
もちろん、そういう側面があることは認めますが、米には米の、英には英の「負の歴史」もあって、その反省を踏まえて変わろうと努力しているだけであって、新定義にあるように世界のソーシャルワーカーは西洋の自国制度が「是」とも「成功」とも決して思っていないわけです。
 
 
そういう意味では、正直、現在の日本は、
 
新定義で、
〜この定義は、世界のどの地域・国・区域の先住民たちも、その独自の価値観および知を作り出し、それらを伝達する様式によって、科学に対して計り知れない貢献をしてきたことを認める。
 
ソーシャルワークは、世界中の先住民たちの声に耳を傾け学ぶことによって、西洋の歴史 的な科学的植民地主義と覇権を是正しようとする。
 
とハッキリと明文化されていることに加えて、
 
著者も、
〜日本のソーシャルワーカーたちが現場で実践しているソーシャルワーク実践に耳を傾け学ぶ必要がある。西洋の理論に拠っているもののみを評価するのではなく、実際に効果がみられる実践について吟味し、 それを実践知として認め、まとめていくことが重要であると考える。
 
と主張するような、現在の世界的なソーシャルワークの基本に立ち返る考え方の流れに乗り遅れていると言わざるを得ないかな、と感じます。
 
もちろん地域で素晴らしい実践をされている方々に直接話を聞くと、共通してこのような「グローバル基準のソーシャルワークの考え方」を当たり前とした臨床活動をされていることも肌で感じます。
 
やはり児童福祉という領域に身を置き、医療=MSW、精神=PSW、施設=FSW、学校=SSWなど色んな分野のソーシャルワーカー(SW)と関わる仕事をしている立場としては、
 
ソーシャルワークとはそもそも」
 
ということ知らずして、協働・連携はありえないと僕は思っています。
 
まぁ個人的には、児相の児童福祉司がSWではなく、CWケースワーカーと呼ばれることに非常に腹が立っています。児童福祉司こそ地域に働きかけるソーシャルワーカーでしょうと。
 
まぁ『ソーシャルワークのグローバル定義』では、
 
〜旧本文の「人間関係における問題解決を図り」というミクロの機能が削除され、旧定義の「社会変革」 に「社会開発・社会的結束の促進」という機能が追加されている。全体としてマクロを強調する内容となっている。
 
となっていて、まぁ児童福祉司の仕事は「人間関係における問題解決を図り」のミクロの関係調整の連続だよなぁ、と思うと複雑ではありますけど…。
 
なので裏を返せばミクロもマクロもこなせるソーシャルワーカーSW)や児童福祉司は本当にスーパーなパフォーマンスをするし、新のプロフェッショナルだと思います。
 
だから日本ではソーシャワーカーの仕事がもっと評価されるべきだし、もっと専門的価値を置かれてもいい。
 
それが個人のセンスと努力に委ねられているもんだから、頑張る人できる人にどんどん負担やシワ寄せが行くシステムで日本は良しとしている気がします。
 
今の日本に必要だし実際に現場のニーズとして高いのは、各機関や資源をつないでコーディネートしてくれる人だと感じますし、それはまさにソーシャルワークの部分。
 
LSWだって、ソーシャルワークの部分抜きでは何も進まないのが実際ですから。ソーシャルワークは全ての支援の土台と思います。「木を見て森を見ず」の支援はホントに足元をすくわれます。
 
そう思うと真の意味でのLSW普及って、「連携」や「ソーシャルワーク」の概念の普及から始めないと行けないのでは、それはもう果てしない道のりのように最近感じてしまいます。
 
だけど出来ることは「地域の知」に根差した地道な取り組みを重ねることだけなので、焦らず一歩一歩進んでいくしかないですね。
 
と自分に言い聞かせるような今回コラムでした。
 
ではでは。