LSWのちょっとかゆいところに手が届く「まごのてblog」

静岡LSW勉強会の管理人によるコラム集

【第80回】タイプ別「幼児期記憶の語りと再構成」

メンバーの皆さま
 
おはようございます。管理人です。
 
今日は、担当児童の入学式に出るため「スーツ&ネクタイ」で出勤しています。
 
いつも「ノーネクタイ・ノージャケット」でいることが多いので、カチッとした格好をすると、改めて「新たなスタートだな」と身も心も引き締まるような気持ちになります。
 
そんな初心の大切さ、今やっていることの大事さを改めて振り返させてくれた論文を今回は紹介します。

 

 

幼児期記憶を再構成する語りの一分析例 

ー記憶イメージと感情体験を探る一

(林 2005)
 
この研究の目的を要約すると、
・これまで自伝的記憶の一部とされてきた「幼児期記憶」に焦点を当て、「自分の特殊と思われる体験を話すことで長い間抱えていた不安が軽減する」等の先行研究を踏まえ、静的な記憶の想起にとどまらず、動的な語りによる再構成の視点も取り入れ、青年にとっての幼児期の持つ意味を考察する。
 
というもの。表現こそ違うものの、まさにLSWの臨床で行なっている事"そのもの"なんですよ。また内容や考察も「まさにLSW」という感じで、非常に参考になる点が多いですので、『考察』にコメントを挟みながらを紹介したいと思います。興味ある方は是非原文も参照下さい。
 
では、さっそく。

 

 

考察1)幼児期記憶の語り分析から

〜研究では、幼児期記憶について語ることで生じる再構成の視点を取り入れた。 そして語りの特徴から3群に分けてその様相を比較検討した。 
 
3群とは、
①知的理解群、②感情表現群、③象徴化表現群この分類は質問紙調査(131名)→インタビュー調査(13名:全て女性)を元に、下図のような分類をしたということです。

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なるほど。確かに、過去の記憶を「客観的に・知的に語れることと、「主観的な体験・感情を表現した語りができるかどうか、またその気持ちを具体的かつ整理を持って想起する感情に巻き込まれずに語れるかどうかによって、語りの"質"はかなり異なりますよね。
 
それは、あいまい喪失で触れた「未完の感情」が扱えているかどうかにも大きく関わってくる話かなと思いますがこういったフローチャートによる視覚化や分類はとてもわかりやすく、語り手の状態像がよく整理されますよね。
 
ちなみに、この3分類は、
■記憶想起のパターン4類型 (林,2004)
①知的な理解の優位な群
ー感情表現も見られるが、知的な理解が先行し、認識の改めや理解したことが語られる
②直接的な感情表現群
ー感情語を用いてストレートに表現する 
③感情の言語化が困難な群
ー何らかの感情を体験していると思われるが,言語での表現が伴わない
④記憶想起の困難な群 
ー記憶の正確さにこだわる、記憶のなさについて語る
 
などの先行研究を参考にしたという事ですが、この研究調査では④に該当する人がいなかったため分類から除外した、ということなんです。
 
興味深いですね。おそらく社会的養護でLSWを検討する児童は結構④がいると思うんですが、一般大学生を対象にした本研究では記憶のなさについて語る④はいないと。
 
これこそ措置変更を重ねたり生活環境を転々する社会的養護の子と一般家庭の子との根本的な状態の違いを表していると思います。そして、以下の研究内容は、社会的養護の児童に対して過去を語れるように[情報整理][施設訪問]などのLSW的サポートをした後の話しになろうかと思います。
 
 
 
〜その結果、感情表現群が知的理解群・象徴化表現群と比較して、より自身の感情に根ざした体験が語られていたように思われる。 また他の群よりも、今後も続いていく人生の一時期として、時間的な展望の元に自己の体験を位置づけることも可能であった。
 
まぁ、そういうことで、この辺はLSW臨床の感覚と一致します。最終的にそうなることが理想的に思い描く子どもの姿なんですが、社会的養護でLSWを検討する児童は、とにかく記憶もないし、感情表現や感情コントロールも苦手だしみたいな、何段階か前の状態であることが実際は多いですよね。
 
それは、愛着・トラウマ・グリーフ・発達凸凹・家族関係のなかの忠誠葛藤(三角関係)などの影響が混在しているケースが多いのかな、という感じが僕の臨床感覚としてはあります。
 
さらに、
〜知的理解群は、記憶の鮮明さや映像の面では記憶の質が最も良いようにも思えるが、語りの質と必ずしも一致しているとは言えないのは興味深い点である。 感情を伴った衝撃的な出来事、個人的な意味を持つ出来事ほど正確に鮮明に記憶される (大矢,1999)のであれば,知的理解群の想起した記憶はかなりの正確度・鮮明度を維持しており、個人にとっても何らかの感情を喚起される、本人にとっての意味深いものであろう。 さらに、この群のみ幼い自分の視点から見た風景が報告されたことからも,あたかも「今ここで」の出来事のように体験されている可能性がある。したがって、知的な理解は,生々しい記憶に巻き込まれずに距離を置くための方策と言えるかもしれない。 
 
 
まぁ、そういうことなんだと思います。知的水準がある程度高い子は、トラウマ体験による恐怖の身体感覚」、グリーフの「未完の感情」そして複雑な家族関係の中で起こる「忠誠葛藤」を認知的に距離を置いて防衛できちゃうんですよね。
 
でも、それは地雷(未完の感情)と距離を置いてとりあえず放置したに過ぎない。地雷撤去出来ないから、結局、危険地帯に踏み込んで地雷に当たってしまうと、感情爆発に巻き込まれすぎてコントロール効かなくなる。
 
でも、知的に高くなかったり発達凸凹である部分の感受性が高すぎる子は、「未完の感情」と上手く距離取れなくて無自覚に危険地帯に踏み込んじゃうから、苦しさや葛藤を感じ過ぎちゃって我慢できず暴れちゃうんだと思います。
 
 
〜あたかも「今ここで」の出来事のように体験されている可能性がある。
 
 
なんて"フラッシュバック"ですものね。ただトラウマのように恐怖を感じるような体験でなければ、とりあえず「現在の安全感」は損なわれないですが、
 
 
〜知的な理解は,生々しい記憶に巻き込まれずに距離を置くための方策と言えるかもしれない。
 
 
という記述は、乖離とまでは言わないまでも「認知ー感情」のつながりが薄いような状態を想像させますよね。
 
そういう意味では、
 
 
〜以上のことを踏まえると、知的洞察よりも情感を伴った情緒的洞察の方が治療的で あるという精神分析の見解 (小此木,2002)と類似した結果が得られたと考えられよう。
 
 
は、記憶と感情が一致して語れているというか、「認知ー感情」のつながり、アクセスが良い状態を想像します。
 
なのでLSWでも過去を大人から一方的に伝えるだけではなくて、その情報を知って「何を感じたのか?」「どんな想いが湧き起こってきたのか?」という現在の感情に加えて、未完の感情も扱える方が確かにより治療的だと感じますし、僕はLSWに限らずソレを意識しています。
 
 
〜さらに、象徴化表現群の擬態語使用が功を奏しないという、従来の比喩研究とは異なる結果となったが、一因として比喩の使用が的確に行われなかった可能性が推測される。一方で、過度の象徴化・抽象化は語り手側の拡散や混乱を招く恐れがあるとも言え、注意を要するかもしれない。この点については今後の研究で明確にしていく必要があると考えられる。
 
この辺りは、トラウマとグリーフの扱いの違い(=身体的な恐怖反応があるかどうか、語りの想起が安全安心の感覚を脅かすかどうか)に関わってくることかなと思います。また別のコラムで詳しく触れていきますね。
 
やはり大事なことは、LSW実施前にその人の状態・心情を把握するための情報収集の正確さとキメ細かさ(=アセスメント)、そしてその情報から「こう支援したらこうなるだろう」という予後を予測する想像力(=見立て)なんだと思います。
 
 
 

考察2)再構成する幼児期

 

〜青年期にある者から想起した幼児の姿としては、自己中心性 、大人びた子ども像 、人見知りす る子どもが特徴であるとの結果を得た。これは、幼児期という時期が、自我が芽生え、第一反抗期と呼ばれる時期を経験するなど、自分への意識が強まる時期であり、自分でできることが重要な意味を持つため、このような幼児像が報告されたと考えられる。 
 
これは言葉変えると「アタッチメント(分離ー個体化)」の話しなのかな、と。全ておんぶに抱っこの時期を過ぎて、1歳児が少しずつ歩けるようになって、いつでもエネルギー補給できる安全基地があって、外への探索に意識が向いて色々経験して、でも不安になったら戻ってきて、なんてことを繰り返してお母さんと自分の区別がついてくるような時期の話しと重なるなぁ、と思います。
 
この春から新生活を送っている学生や新社会人も多いと思いますが、親離れ子離れ・一人暮らしは分かりやすい「分離体験」ですよね。期待と不安が入り混じった"葛藤"を多かれ少なかれ誰もが感じているハズです。
 
しかし、社会的養護に関わる子どもも保護者も「自分が望まない」「仕方なく」「無理やり」の分離体験をたくさん経験している場合が多く、本対象の一般大学生が抱える葛藤とは、その"質や量"が圧倒的に違うということは想像に難くありません。
 
その葛藤する気持ち、自分の中のポジティブ・ネガティブ感情の両方を素直に認めて語れるか。感情表現群は「語り」のプロセスの中でそのような気持ちの整理、まさにストーリーの再構成が進んだということなんだと思います。
 
 
〜また、両親や家庭が記憶物語に登場しないケースや、登場したとしても関与の度合いの低いケースも多く、一見したところ、青年の想起する内容は先行研究で言われているほど肯定的な意味を持ったものとは言えないようにも見受けられる。
 
〜しかし、わがままで怖いもの知らずだった自分、今から考えると恥ずかしくなるような自分の姿を抵抗なく、初対面の調査者に対して口にできるという点は注目すべきである。それは、幼児期にその人がわがままを許され、そのままでいいと受け入れられてきた証拠であろうと推察される。中には、「そんな自分だったけど小さい頃のことだから別にいいと思う」と語ることのできる被験者もいた。なかなか本人の口からは話題に上らないが、その背後には許し、見守り続けてくれた環境の存在が感じられ、本人たちにも意識されていたのではないだろうか。
 
なので、結局のところ、そのような深い語りが他人にできるかどうかは、幼い頃のアタッチメント形成や基本的信頼感の獲得がどうか、ありのままの自分を受け入れられた原体験があるかどうかが大きく影響するということですよね。
 
そして、そのような他者への基本的信頼感が薄い人は、この研究のように初対面の人にここまで自己開示して内省できないわけです。信頼できないし、安心できないので。
 
結局LSWでも違うアプローチでも、われわれ支援者は、生育歴を丁寧に追って原体験をアセスメントし、まずは安心して話せる関係性を構築すること、それが支援やケアの第一歩という事になるということだと思います
 
 
 

考察3)今後の検討課題および臨床場面との接点

 

〜記憶とは現在の気分や心理状態を反映するものであり、過去の記憶も現在の視点から読み解かれるものである (仲,1994)ため、現在にも注目して行う必要があったが、本研究ではその点が十分に考慮されていなかったと思われる。
 
まさにこれは、LSWにおける「現在」の支援の話で、まず今の生活、今の人間関係、今の信頼関係によって想起できる質が変わってくるという話し。前回SFAで扱った話しと重なっていて、現在のポジティブが何にも無ければ、過去のポジティブも思い浮かばないでしょう、ということなんだと思います。
 
 
〜また、今回は記憶イメージと感情体験の変化を主に扱ったが、語りの重要な要素であるストーリー性やまとまりという観点からの分析も、今後検討されるべきであろう。
 
〜今回の結果はあくまで一般大学生で行ったものであって、そのまま臨床群を理解する手だてとして用いるのは危険である。 しかし、幼児期記憶の危険な側面も十分踏まえつつ 、今まで肯定的に扱われることの少なかった幼児期記憶を、その人の生き方を支える方向で臨床に活かす何らかの手がかりを探っていくことへとつなげていきたい 。
 
 
この論文は2005年の13年前のものですから、当時の情報でここまで詳細に分析されているは驚きでもあり、ある意味「やっぱり昔から気づいている人は気づいているし、大事なことって普遍的だよなぁ」と確認できたことに安心もしました。
 
現在ではLSWの認識が広まったことで、幼児期記憶を臨床に活かす認識は随分進んでいるとは思いますが、「危険な側面も十分踏まえつつ」の点については「何を踏まえたらいいんだろう?」とまだまだ手探りでLSWに取り組んでいる方が多いのではないか、と思います。
 
ちなみに、僕は過去の情報や心理検査から、こんな5点にポイントを置いて、LSW実施前の状態をアセスメントしています。

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詳しくは別コラムでじっくり書きますが、簡単にまとめると、
【アタッチメント(愛着)】が対人経験を積むベースになっていて、安心感のある人と関わりの中でどれだけ情緒的なやりとりの重ねてきたかで、自分の感情を出したり納めたり言語化する力の育ち・基礎が違ってくるイメージ。
 
ただし、そんな感情体験を通して情緒的に成長する過程が色んな要因によって妨げられることがあって、例えば【発達障害のような感受性凸凹があると同じ刺激でも人より「痛み」を敏感に感じやすかったり、逆に「感情」が動くほどの刺激をキャッチできなかったり。
 
また【忠誠葛藤】と言って三角関係に挟まれて自分の気持ちを押し殺すようなことが続く環境下にあったり、【喪失体験】の悲嘆(グリーフ)の感情を表出する場や機会が与えられずモヤモヤを抱えたまま放って置かれていたり、【トラウマ】の恐怖体験から心身を守るために感情を麻痺させて対処していたり
 
そんなこんなで、感情を豊かに表現したり、感情のアクセルとブレーキを細かく使い分ける経験値を年齢相応に積めていないから「情緒的に未熟」なままの状態になるイメージ。こころの運動不足、こころの運動神経、こころの怪我・リハビリみたいな感じでしょうか。
 
なので僕は【愛着・発達障害・忠誠葛藤・喪失体験・トラウマ】の生育歴上の掛け算で、現在の状態と今後の支援の優先順位を考えるようにしています。
 
 
そして、最後にはやっぱりコレ。
〜その際に、援助者の側に焦点を当てることも、一つの方法として有効ではないだろうか。臨床場面で出会うのは不幸な記憶を背負ってきた人々であることが多いが、そのような彼らを取り巻く援助者側の幼児期記憶観が、クライエントに何らかの影響を及ぼすであろうことは十分考えうることである。多くの先人による文献や臨床経験でも、こころの糧はその個人の子ども時代と深い関連を持ち、子ども時代に根ざすものと言われている(村瀬,2003)。そこで、広く対人援助に関わる人々の子ども時代、記憶観についての検討も視野に入れておく必要があるだろう。
 
 
鋭い指摘ですよね。苦しい時にその人の本性が現れると言いますが、苦しい時に踏ん張れるかどうかは、これまでの不安な時にどのような支えがあったかの原体験、つまり支援者自身の獲得しているアタッチメントパターンが如実に現れます。
 
これは他人事ではなくて、この論文で扱われている内容は、そっくりそのまま支援者自身に適応できると僕は思っています。
 
支援者自身が自分の幼児期記憶をどのように思い出し、感情を伴う語りとして、葛藤も含めて自覚してこころの整理をつけて語ることができているのかどうか。つまり、自己覚知とセルフケアの重要性です。
 
しかし、原体験の親との関係が悪いとアタッチメントパターンは変われないのかと言えばそうでは無くて、LSWのように信頼できる人に寄り添ってもらった経験とこのような自己物語の再構成によって、幼児期に獲得したアタッチメントパターンも成人期には変化できると言われています。
 
また成人になると愛着の対象は親から別の人(恋人・パートナーなど)に移行するということですから、【第46回】で触れた「オキシトシン・システム」で考えると、オキシトシンが分泌されるような同調行動をしてくれる存在、つまり自分の味方になってくれて「癒し」を与えてくれる存在が今の生活にいれば、支援者自身がストレス負荷を抱えても「現在」の安全基地に戻ってエネルギー補給して、また仕事に戻ればいいわけです。
 
やっぱり相談者の苦しみを一緒に抱えるのは、支援者にとってもシンドイこと。それを「そんなこと思ってはいけない」と否定してしまうのは、感情抑圧や自己否定そのものだと思います。そして、その「苦しい感じ」や「いっぱいいっぱい」のサインは、そんなに隠し切れるものではないし細かい言動の端々に現れてしまうので、実は結構バレていると思った方がいいです。本当に相手の顔色に敏感な相談者は多いですから。
 
だからこそ、支援者も支えてくれる人が必要で、支援者がすでに経験しているそのような支え合い助け合いの「関係性の連鎖」を相談者に体験として伝えていく。そして、いずれ相談者がそんな体験を身近な人に与える側になっていく。そういう「体験のバトン」を渡して広げていく、僕のイメージする対人援助ってそんな感じです。
 
 
〜こころの糧はその個人の子ども時代と深い関連を持ち、子ども時代に根ざすものと言われている(村瀬,2003)。そこで、広く対人援助に関わる人々の子ども時代、記憶観についての検討も視野に入れておく必要があるだろう。
 
本当にそう思います。
 
もちろん支援者にも、それぞれの過去があり、それぞれの今がある。もちろん良い事もあれば悪い事もある。そして、対人援助は生身の人と人とのぶつかり合いになりますから、どうしたって自分の価値観や人生観が現れる。それは否定がしょうもない現実で、隠し切れないことだと思います。
 
だから、そう言った自分の人生経験を、どのように解釈し、自分の資質として上手く利用したり、苦手を意識してコントロールに努めたり、そのような事にLSW実施者は向き合わなくてはいけない。なぜなら、LSWはそのようなことを相手に求めることになるから。
 
LSWに限らず、実際にやったことない人にやったことない事を勧められたり、大丈夫なんて言われても、信じられないし「本当に大丈夫?」ってなりますよね。
 
やっぱり、なんの苦労も経験していない人の言葉より、自分がやってみた失敗や後悔を糧にして上手くいかない葛藤や劣等感も理解しながら、よりよい経験を相手にしてもらうためにサポートしようとしてくれる、そんな人の言葉やアドバイスというのは、やはり重みや渋さが違うなと思います。
 
そして、その軽さや重みの違いは、言葉でなく非言語的な雰囲気で相手に伝わるもの。
 
もしかしたら、LSWにおける支援者の"覚悟"とは、支援者自身が「ありのままの自分」を受け入れて、自身の人生経験を仕事の糧にできるか。
 
そのようなことを言うのかもしれませんね。
 
 
ではでは。