LSWのちょっとかゆいところに手が届く「まごのてblog」

静岡LSW勉強会の管理人によるコラム集

【第90回】LSW的「プロフェッショナル〜仕事の流儀〜」7.16

メンバーの皆さま
 
こんばんわ。管理人です。
 
三連休の最終日。
 
ご覧になった方も多いのではないでしょうか、この番組。
 
プロフェッショナル 仕事の流儀
 
言わずと知れた番組ですが、今回は宇多田ヒカルの新アルバム『初恋』の制作に密着したドキュメンタリー。
 
しかし、その楽曲制作における「苦悩」や「孤独」、そして宇多田ヒカル宇多田ヒカルである「ルーツ」や「生い立ち」まで語られた内容は、もはやいちアルバムを超えて、宇多田ヒカルの半生を描く「自叙伝」のような番組でした。
 
内容は、彼女が彼女らしくいられる「ホーム」であり「聖域」である「スタジオ」を包み隠さずオープンにした中での語り。
 
しかも、2010年に活動休止してから、再婚、死別、出産、そして離婚…。自らの母を亡くし、自らが母となり、再び作品と向き合っている、このタイミング。
 
なかなか、ここまで自分を曝け出すことって簡単なことではないと思いますがこのタイミングであることに意味がありそうだとLSW的に感じてしまいます。
 
ちょっとした職業病ですね。
 
このような自身の人生についての感情の整理がされぬまま、現実生活や子育てに翻弄されて自分の感情がぐちゃぐちゃになっているような大人に、児童福祉では本当によく出会いますから。
 
 
なんて、僕は1歳の息子を起こさないようにTVの音量を下げて、宇多田ヒカルの語りを「聴いた」と言うより、字幕で語りを「観てた」状態だったんですけど、それでもかなり思うところ満載でした。
 
 
例えば、「感情」について。
 
音楽プロデューサーの父がNY(ニューヨーク)中心に生活していたので、頻繁な引っ越しは当たり前。
 
スタジオでご飯を食べる日常。友達もできず、次第に感情を表に出さない大人びた子どもになっていた。
 
そして、9歳の時。
 
自分に「怒り」や「悲しみ」の感情がなくなっていることに気づいた、と。
 
 
グサッと刺さりました。
 
これが当時の感覚として、どこまで意識化されていたのかは定かではありませんが、この状態は宇多田家だけの特別なストーリーではないですよね。
 
社会的養護に関わる子どもではなくても、大人の都合で生活場所が転々としたり、知らない大人と突如一緒に住むようになって、大人の気持ちを優先して自身の感情を押し込めて過ごしている子どもは「その場で言わないだけ」で沢山いると思います。
 
そして、ワガママを言わない「いい子」ほど、その状態が見過ごされて行きますよね。
 
 
 
ただこの先は、一般人と環境と才能の違いを感じさせる展開で、母から、
 
「ちょっとここを歌ってくれない」
 
と急に言われて、恥ずかしいからその場では断ったけど、自分で作ったものなら歌えるということで、音楽作りを始めた。
 
そうして歌ったら、両親が喜ぶもんだから、嬉しくなって作品をどんどん作る。やがて音楽が「感情」を表現する希望となっていった、と。
 
 
この展開は、母:藤圭子の意図をメチャクチャ感じて、大人視点で描くと「子どもの才能を見抜ぬいて」ということになるんでしょうけど、この番組の注目は、本人が子ども視点で「両親が喜ぶもんだから、嬉しくて」と語られている点。
 
 
親の笑顔や喜び。
 
それが、子どもにとって、どれほどの安心感、楽しみ、喜び、そして、生きる希望となるのか。
 
この当たり前と思われることを、対人援助に関わる専門家だけではなくて、子育てに関わる人すべての大人は忘れてはいけないと思います。
 
 
 
そして、宇多田ヒカルの「ものづくり」の考えもまたLSW的に共感するところが多いなと。
 
例えば、
「いろいろ弾いてみて、これと思ったらその感覚をたぐり寄せてというか、全く自分の中にないものやない場所に行くとか作るということはないんですよね。だから自分の中にあるんですけど、触れないものを取り出すみたいな。思い出そうとしていて、何かを。“いや違う、それじゃない”という感覚に一番近いです」
 
この感じって、LSWとかカウンセリングとかで、自分の内面にあるけどよくわからないものと向き合う作業に通じるものがあると思うんですよね。
 
そして、この模索して、もがく作業って結構しんどい事もある。
 
けれど、
 
「やれることをやっても本当に意味がないと思っているので、やってみてどうなるのかわからない、もしくはやれるかどうかわからないことをやるっていうのが、物をつくる現場なので、探検隊みたいな感じで入っていって、うっそうとしたジャングルなのか荒野なのか」
 
「冒険という意味では(ミュージシャンたちが)同じ風景を見ようとしてくれるので、そこへの行き方のルートを一緒に考えてくれるみたいな感じで、自分じゃ絶対できなかった、自分だけでは行けなかったところにも行けますね」
 
 
その曖昧で行先不透明なものを模索する中で、思いも寄らぬものが見つかったり、それは一人では難しくても、誰かと一緒ならたどり着けたりする。
 
一緒に冒険して同じ風景を共有する感じ。支援者の姿勢として通じるものがあります。
 
そして本人の意向を尊重しながら、その模索の過程を支えるミュージシャン達の暖かさが番組でも伝わってきました。
 
LSWの支援者も、子どもとって、そのような存在でありたいものです。
 
 
 
 
 
最後に宇多田ヒカルは、自身にとってのプロフェッショナルを尋ねられ、こう語っていました。
 
「正直であること。自分と向き合うっていうのは、そういうことですね。自分に嘘ついててもしょうがないけど、でも自分にいっぱい嘘つくじゃないですか。見なくていいものは見ないし」
 
「……っていうのじゃなくて、かっこ悪いことも恥ずかしいことも認めたくないことも全部含めて、自分と向き合うということなので。音楽に対して正直であることですね。自分の聖域を守るっていうことです」
 
 
聖域を守る、って独特の表現だなと思いますけど、僕は「自分を大切にする」ことのように感じました。
 
自分を自由に表現できる場、自分が家族と繋がれた場、自分のアイデンティティーを構築した場、そして今の仲間が支えてくれる場である「音楽」に正直にであること。
 
正直であるということは、自分に嘘をつかないで向き合うこと。自分の弱さや恥ずかしさも全部含めて、ありのままの自分にOKを出すこと。
 
これは実際、苦しい作業ですけれど。
 
 
ミュージシャンは「音楽」=「自分」なら、
 
臨床家は「臨床」=「自分」。
 
 
プロフェッショナルを突き詰めると、最後はそういう「自身に向き合う姿勢」「自分がどう在るのか」というアイデンティティーの問題に結局はなるとよな、と最近つくづく感じていたところの雑感でした。
 
「タイミング」って大事ですね。
 
ではでは。