LSWのちょっとかゆいところに手が届く「まごのてblog」

静岡LSW勉強会の管理人によるコラム集

【第14回】「米国文化」と「医療モデル」

メンバーの皆さま

こんばんわ。管理人です。

流れで、1日に2つ目は張り切りすぎかもしれませんが、コラムの続きです

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●目次
はじめにー喪失とあいまいさ

第I部   あいまいな喪失の理論の構築
第1章  心の家族
第2章  トラウマとストレス
第3章  レジリエンスと健康

第II部   あいまいな喪失の治療・援助の目標
第4章  意味を見つける
第5章  支配感を調整する
第6章  アイデンティティーの再構築
第7章  両価的な感情を正常なものと見なす
第8章  新しい愛着の形を見つける
第9章  希望を見出す

エピローグーセラピスト自身について


●内容&コメント
今回も「はじめにー喪失とあいまいさ」から。

以下は、著者であるポーリン・ボスが開く、支援者トレーニングのワークショップで取り上げるテーマです。

・心の家族
・あいまいな喪失とは何か、それは通常の喪失とどのように違うのか。
・あいまいな喪失の二つのタイプとは何か、それらの二つのタイプが重なり合うことがあるのか?
・それが問題であるのか、またいつ問題になりうるのかが、どのように分かるのか?
・あいまいな喪失の原因や影響はPTSDとどのように違うのか?
・文化的な価値観や信念は、人々はあいまいな喪失に対処するうえでどのような影響を与えるのか?信仰や社会階層、人種、性別による違いはあるのか?
・あいまいな喪失に対するレジリエンスを強化するためには、意味を見つけ、人生の支配感を調整し、アイデンティティーを再構築し、両価的な感情を正常と見なし、新しい愛着の形を見つけ、希望を見出すことが重要だが、どのようなことが目標や指針となるのか?
・セラピスト自身について。

非常に興味深いテーマばかりですよね。「あいまいな喪失の2つのタイプ」については前々回コラムで取り上げた通りです。今回コラムの後半では「文化的な価値観や信念」について触れます。

そして、当然、参加者のニーズに合わせて上記のテーマは調整されるようですが、ワークショップを終了した段階で、二つの効果が現れることを著者ばかり期待しているそうです。

①参加者があいまいな喪失を認識し、その影響を理解し、未解決の悲嘆の症状を呈しているそれぞれのクライエントに介入や治療を行えるようになること
②参加者が自分自身のあいまいな喪失のその影響と意味を理解すること

そして、以下のように続きます。

~逆説的ではありますが、あいまいな喪失を研究する専門家にとって、第二の効果は、たいてい第一の効果より重要です。この2つは、個人的な体験が概念的に体験され、また治療的に体験されるなかで、並行して進展していきます。あいまいな喪失に関しては、専門家としての効果は、専門家個人の成長と切り離すことはできません。

この説明は、勉強会のコンセプトである「報告から連想されるオープンな体験の語り合い、内的な気づき、自己成長と共進化」の内容そのもので、勇気付けられると同時に驚きました。

勉強会コンセプトは、経営の神様「松下幸之助」や京セラ創始者稲盛和夫」の言葉からヒントを得て作ったのですが、「経営」と「家族療法、コミュニティ」と分野は違えど「人間集団」を大切にする立場の人間が本質を突き詰めると似たような考えに行き着くんだというのが、面白いなと。


そして、後半は著者が述べる「文化的な価値観や信念」についての指摘を2つ紹介。

1つ目は、専門家としての価値観。

~あいまいな喪失のモデルの概念的な基盤は、家族のストレス論にあります。

~文脈とレジリエンスを重視したストレスの視点は、医療的なモデルについて訓練を受けているけれども、それが有効でない答えのない疑問に直面している臨床家に新たな視点を与えてくれます。

~それぞれの分野や、それまで受けてきた専門的なトレーニングにかかわらず、セラピストはより広い治療援助の視点を持つことが必要です。

~災害やトラウマとときには、愛する人の行方が分からなくなっている個人や夫婦、家族、コミュニティの治療・援助の指針として、PTSDや古典的な悲嘆治療(個人向けの治療モデル)とは異なるモデルが必要になります。


2つ目は、人が喪失を明らかにしようと必死になる理由について。

①文化的なこと
米国の文化では、高く評価され期待される目標とは、直すこと(fix)、治すこと(cure)、勝利すること、解決することです。喪失とともに生きることは勧められません。むしろ、人はそこから早く回復しなくてはならないのです。~私たちは皆、明らかでない喪失に対する一般の人々や専門家の我慢のなさを打ち砕くために、もっとコミュニティとして、努力していく必要があります。

②認知や合理性
埋葬するべき遺体がないために、人びとは身体的、心理的早実両方に混乱を感じるのです。なじみのない状況のために認知が阻止されています。家族は、その状況に対処し、悼むことをはじめられません。決断もできないのです。人は、世界は公正であり、理解しうるもので、管理することができるという前提を持っていますが、それは愛する人の状況が恐ろしく不可思議な状態になってしまったことで打ち砕かれてしまいます。

③死の明確な証拠がなければ、家族を支える儀式が何も存在しないから。

④失われた人との愛着
西洋の心理療法家にとって、悲嘆にくれる最終的な目標は脱愛着でした。フロイトとボウルビィによれば、脱愛着は、生きている人と新しい関係を形作るために、故人との間に持っていた情緒的な絆を手放すことを意味しています。
確かに、親密な関係性の終わりを証明する遺体がないことは、人々が新しい関係に進むことを困難にします。行方不明になっている人が、愛おしい人なのか、単なる顔見知りなのかということは、喪失を知り、その人がいない人生を生きることでその絆から解き放たれる時まで、どれほどその人を思い続けるのかということを決定しているかもしれません。
でも、このことは、彼らを忘れるということを意味しているのではありません。


僕は上記を読んだ感想として、完全な推測ですが、著者が感じていアメリカの専門家や一般人の極端な偏りに警鐘を鳴らしたいのではないか、と思いました。

特に、PTSDなどの医療モデルへのディスりみたいな表現が何度もあって、何か個人的に恨みでもあるの?と思うくらいです(苦笑)

でも、たぶんそこまで過激に書かないと届かないくらい、アメリではエビデンスで証明できないもの、はっきりしないものや合理的でないものに価値が置かれにくい、ということなのかもしれません

はたまた今の日本はどうでしょうか?

世間一般や現実生活では「空気感」という極めてあいまいな東洋的なものに価値を置きながら、特に臨床現場では「医療モデル」「エビデンスがある」西洋モデルこそが専門的で価値が高いと思われている雰囲気を感じているのは、僕だけでしょうか?

西洋文化が、東洋古来の「禅」的な考え方の価値をようやく見出して「マインドフルネス」と名前を変えて取り入れているにも関わらずです。

もともと日本が大事にしている「東洋モデル」も大事にながら、「西洋モデル」も取り入れる、という感覚ならいいんですけど。

海外のプログラムが翻訳されて紹介される度に、そこも分かって紹介しているのか、「欧米は進んでて、日本は遅れているから丸パクリ」みたいな考え方なのか、常に僕は注目して聞いています。

これまで製造業でも食文化でも、日本は海外のものを取り入れては、より良いものに進化させてきた歴史、長所がありますよね。

それが臨床や福祉分野に限ってできない、なんてことは絶対にないと思うんです。

そして、LSWは定義が広いというか、器の中身の自由度が非常に高いことを考えると、「ラーメン」に近い発展の可能性があるのではと思っています。

器は一緒でも「博多とんこつ」「札幌味噌」「横浜家系」とか、ご当地で特徴が異なるような。

僕の個人的感覚では、すでに大阪や三重は、ご当地LSWが形になりつつある感じがします。

だけど、その味付けは決して唯一の正解ではなく、あくまで1つのアプローチであって、美味いラーメンの種類やブレンドは多種多様にあって、個人や地域や時代に合わせて研究されて進化していっていいものだと思うんです。

その意味では、勉強会やコラムを題材に、よりよいLSWの形やアイデアを、今後メンバーの皆さんと一緒に考えながら試行錯誤することを楽しんでいけたらな、と思っています。


ではでは、皆さま、よい週末よい連休を。

【第13回】日本文化と即興性、育成論

メンバーの皆さま


おはようございます。管理人です。

今回もコラム番外編です。

実は次回コラムで触れる予定の内容が、著者のお国柄(アメリカ)文化的背景に関わる話しです。

なので、その前に我々の「日本文化」について考えるいいニュースを見つけましたので、今回はそこから。


Jリーグからのベルギー派遣コーチに聞く
『欧州の育成は何が違うのか』
『日本人が10代後半で伸びなくなる理由』

ベルギー。人口約1100万人ながら、2016年にはFIFAランキング1位になるなど、近年サッカーの若手育成に定評のあるヨーロッパの国です。ちなみに僕の好きなビールも有名なところです。

そこに派遣されたコーチが語る前半は、日本とベルギーの文化の違い。面白いのが、14歳年代において、20にいたら、日本なら斜に構えていうこと聞かないのが3〜4人だけど、ベルギーでは言うこと聞くのが3〜4人だと。

そして、ベルギーでは『この技術でコントロールしたら、こっちに走れ、なぜならここから斜めにボールが受けれるだろう』という判断を奪うような練習も多く、細かいセオリーを徹底的に叩き込むらしいんです。

でも、ベルギーの子ども達は、徹底的に叩き込んでも、自分のやりたいことを積極的にやるんだ、と。

すると、しっかりと理論が整理されているし、子ども達も年齢が低いからどんどん吸収していく。そして、年齢が上がっていくにつれて、それを使ってどうプレーしていくか考えるようになっていく、と。

一方、日本だと、自分でチャレンジして気づいていくのが望ましくて、基本技術もこういうのが大事だよ、だからやろうというスタンスであると。

「理論」と「判断」を教える順番が、日本とベルギーでは逆らしいです。

でも、もしベルギーと同じテンションで日本で指導したら、それはそれで問題が出てくると思う、と。言われたことしかやらない選手も出てきそうだし、その傾向はサッカーだけじゃないと思う。どれくらいのさじ加減がいいのか、個人によっても違うと思うし、答えが出ない、と。


後半は「日本人が10代後半で伸び悩む理由」。
オランダの名門クラブ・アヤックスのオランダ人指導者とユース年代アナリストの日本人の話し。

Jリーグ選抜vsアヤックスの試合を観た時、アヤックスの指導者が「いつも思うだけど、どうして日本人は即興の連続でプレーできるんだ?」と尋ねるんだと。

アヤックスのユース年代アナリストの白井氏によれば、「日本人の良さとして、〜隣の人を気にかける習慣ができているから、隣の人を気にしながらやるということはすぐにできる」

「オランダのサッカーはある程度『型』があって、その中でプレーしているから15.16歳で、それと全く違うことをされると対応できない。速くて捕まえきれないと感じる」

「でも18歳くらいを過ぎると、トップに残る選手はインテリジェンスもある選手だから、だんだん対応できてくる。そうなってくると日本は打つ手がない。即興性が消されたら、何で勝負するか。体もスピードも、決定的な強みがない」

「即興性の良いところは相手が読めないこと。デメリットは同じことをもう一度やることができないこと」

と。それを受けてJリーグのベルギー派遣コーチは、

「僕も指導中に、相手を見なさい、味方を見なさい、スペース、流れを見なさい、と言います。日本の教え方は気にすることが多いんですね。ベルギーでも気にすることはありますが、少なくとも味方のことは気にしなくていいくらい、ステマティックに、こうすればここにいるはずというのが各チームにあるんです。『日本も即興性だけに頼らなくなったら、あっという間に強くなるのではないか』と白井さんに言われたんです」

と。


僕にとっての日本人イメージは、
「監督の言われたことをやろうとしすぎる」
昔は中田英寿が、今は本田圭佑が、歴代の日本代表外国人監督がしきりに言っている日本人像です。

自分で判断できない、融通が利かない、みたいな。

なので「日本人は即興性がある」という切り口が、僕にって非常に新鮮でした。そういう見方もあるかと。

確かに日本文化は「空気を読む」「雰囲気を察する」話題の「忖度(そんたく)」など、非言語的な情報を読み取って相手に合わることが非常に求められる社会だな、と。

先日6/25の静岡県知事選挙のポスターになった内田篤人清水東高出身、シャルケ所属)のメッセージ、

「海外で意思表示の大切さを強く感じた」

これって、海外の人は察してくれないから、ハッキリ言葉にしないと理解してもらえないってことですよね。

おそらく、日本人の細かい非言語情報の読み取り能力って平均的に高くって、海外の人からしたら、「YOUはどこかで専門的なトレーニングを受けたのかい?」というレベルの人が日本にはゴロゴロしてると思うんですよ。生まれ育った環境で自然にトレーニングされて身についていると言ったような。

一方で、白井氏の「日本人は即興性に頼りすぎている」という指摘もまた新鮮ですね。

僕が思うに日本文化的に「他人との即興性」には優れているが「自分との即興性」は弱いのかな、と。

自分の感覚や直感に合わせて、自由に表現をしたり、身体でリズムを取ってみたり。忍耐とか献身性って日本人の価値観にとって「美徳」なので。

言いたいことは、どっちが良い悪いではなくて、なんでも偏り過ぎは良くないだろうと。自分も相手も感じる感性が両方大事だろうと思うのです。

そして、両方扱えるようになるには、意識的にトレーニングでは、得意な方、今偏ってる方とあえて逆をやってみる必要がある、ということをベルギーの育成は言っているような気がします。

持っている長所を活かすために、あえて逆の事に取り組むんです。サッカーなら、細かい技術に優れるファンタジスタに、運動量やハードワークを求める。激しさの中でしなやかさを発揮したら鬼に金棒ですから。

でも常に100%発揮では、すぐエネルギー切れちゃいますから、ある意味長所を「奥の手」で残しながら、発揮する割合を状況に応じてギアを調整する。それだけで戦い方の幅がグッと広がるし、ここぞでアクセル全開にする長所はより活きますよね。

しかし、慣れるまでは一時的に長所も発揮できなくなる落とし穴はあるので、いきなり本番じゃなくて練習で長所と「逆」を繰り返して慣らすんですよね。長所に頼りすぎないように。

なので僕は、コラムでこれでもかと「セルフケア」を取り上げるし、勉強会では「自由なオープンな」を繰り返すのかなと、この記事で気付かされました。


また、
ベルギーでも気にすることはありますが、少なくとも味方のことは気にしなくていいくらい、ステマティックに、こうすればここにいるはずというのが各チームにあるんです」

これもその通りだなと。LSWでも、
「そろそろ〇〇を伝えていい時期だと思うんで、何歳の〇〇と情報欲しいですよね」
くらいまでは、何にも考えなくても関係者内外の味方同士は分かっていて準備されていて、

「じゃ足りない情報どうしましょうか?説明の仕方はどうしましょうか?」

という相手に合わせる部分で、ようやく自分の持ってる大事なエネルギーと時間を費やしたいですよね。

すると、やっぱり再現性を高めるためには、理論的に整理して共有するということは必要で、今の日本のLSWはそこを作ることを模索している段階なのかな、と。

ただ理論的に整理されたものは、大事なことにエネルギー使うための「手法」「戦略」であって、それで完了じゃないですよ、目の前の人に集中して下さい、ということは常に意識しておきたいですよね。

そして、目の前の人の機微を「察する力」は、おそらく多くの日本人の長所に関わらず、謙遜して無自覚なので、「当たり前」ではなく、自身の長所を意識して上手に活かす思考になったら、支援の質がまた一段階変わってくるんじゃないかなぁ、と思います。

また、それを際立たせるのが「理論的な理解、整理」で、その両輪を意識してトレーニングすれば相乗効果が生まれて、きっとお得だよなぁ、と思っています。


次回は、あいまいな喪失の援助者のトレーニングについて触れます。

ではでは。


【第12回】あいまいな喪失の二つのタイプ

メンバーの皆さま

おはようございます。管理人です。

前回のエピローグに続き、今回は
「はじめにー喪失とあいまいさ」を取り上げます。

正直「はじめに」からお腹いっぱいになる内容の分厚さにも関わらず、トピック一つだけで結構な長文になってしまいました。ご勘弁下さい。

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●目次
はじめにー喪失とあいまいさ

第I部   あいまいな喪失の理論の構築
第1章  心の家族
第2章  トラウマとストレス
第3章  レジリエンスと健康

第II部   あいまいな喪失の治療・援助の目標
第4章  意味を見つける
第5章  支配感を調整する
第6章  アイデンティティーの再構築
第7章  両価的な感情を正常なものと見なす
第8章  新しい愛着の形を見つける
第9章  希望を見出す

エピローグーセラピスト自身について

●内容&コメント

まず、題名である「あいまいな喪失」について。
本書では、あいまいな喪失には二つにタイプが存在すると説明しています。それは、

1)身体的には存在していないが、心理的には存在している状況
2)身体的には存在しているが、心理的には存在していない状況

です。順番に見ていきます。

【タイプ1】身体的には存在していないが、心理的には存在している状況
愛する人が身体的に失われている状態、肉体が消失している状態
・悲惨な例としては、戦争やテロ、地震津波、殺人や事故などで遺体が見つからない場合。
・日常的な例としては、離婚による親の不在、養子家庭における生物的な親の不在、赤ちゃんの喪失や死産、子どもを養子に出すこと、青年が家を離れて自立すること、など。
・これらの場合、諦めるべきなのか、戻ってくるまで待っているべきなのか分からなくなってしまう。また、人々は失われた人のことで頭がいっぱいになり、他のことをほとんど考えられなくなってしまう。その結果、家族はもはや通常の役割やお互いの関係性における機能を果たさなくなってしまう。


これは、親と離れて暮らす社会的養護の子ども達のLSWでよく扱われるタイプの喪失ですよね。よくある「今お母さんは何しているの?」のやつです。

さらに言うと、考え方によっては、例えば乳児院から施設育ちとか、父親は出産前に離婚してるだとか、そもそも実親と一緒にいた事実や記憶がなければ、もともと無いんだから「喪失」ではないし、心理的には存在するわけない」という見方もあるかと思うんです。

けれど、仮に実親と暮らした記憶がなくとも、他児が親子交流をしていたり、幼稚園や学校の友達は両親と暮らしている事実を目の当たりにする状況であれば、幼い子どもだって、薄々、

「みんなにはお母さん、お父さんがいる。自分のお母さん、お父さんはどこにいるんだろう?」

って思ってる方が自然だと、僕は思うんです。そうしたら、顔も姿もはっきりしないけど、心の中には父母があいまいに存在していると言っていいのではないでしょうか。

そして、

「失われた人のことで頭がいっぱいになり、他のことをほとんど考えられなくなってしまう」

まさにこれが、LSWで生い立ちや家族の話題を扱う理由じゃないかなと僕は思います。


続いて、もう一つの喪失。

【タイプ2】身体的には存在しているが、心理的には存在していない状況
ー人々が心理的になる不在になること、すなわち情緒、認知のレベルで失われてしまうこと。
・例えば、アルツハイマー病、その他の認知症、脳外傷、自閉症うつ病、依存症、その他の身体疾患や精神疾患で記憶がなくなったり感情の表出がなくなったりする状態。
・日常的な例としては、ワーカホリック、ホームシック、再婚により義理の子ども/親を得ること、ゲーム・PCへの過剰な熱中、など。
・このタイプのあいまいな喪失では、関係性や情緒的な過程が凍結した状態になる。日に日にその人の機能や役割が果たせなくなっていく。役割や立場が混乱していく。人々はどう振る舞ったらよいのか、何をしたらよいのか分からなくなることがよく起こる。


これは思わず「なるほどぉ~」と心の中で唸ってしまいました。この喪失って、目に見えないのでわかりにくですけど、結構こたえますよね。

想像してみてください。自分の母親が突然の精神疾患で、いきなり元気なくしたり、支離滅裂なことや「お前も殺して私も死ぬ」とか言いだしたり。

「いつものお母さんはどこへ行っちゃったの?」
「もう以前の優しいお母さんは戻ってこないの?」

きっと、寂しい切ない思いになりますよね。

僕も職場や関係者で「以前ならこんなこと言わなかったのに」といバーンアウト寸前の人を何人も見てきましたが、怒りを通り越して、悲しい気持ちになったのを覚えています。

さらに、身体が存在しない【タイプ1】のあいまいな喪失ですら「遺体」が見つからなければ、感情を表現し整理する儀式をする方法を我々は持っていない、と本書にあるのですが、身体が存在する【タイプ2】のあいまいな喪失なんて、なかなか他人には理解してもらえないだろうし、それを語れる機会なんてほぼ皆無だろう、と。だから、特に【タイプ2】には「未完の感情」がかなりの確率で潜んでいるじゃないかと思うんです。

児童福祉で関わる子も親なんて、成育歴を聞くと、言わば【タイプ1】と【タイプ2】のあいまいな喪失のミルフィーユ状態ですよね

その全部の喪失体験には漏れなく「未完の感情」がビッシリ詰まってるわけで、そりゃ家族内の役割だの立場だのは機能しなくなるし、子どもはどうしたらいいかわからなくなるよな、と。

だから、やっぱり聞くことが大事だろうと思うのですが、最近ちょっと気になるのは、LSWにおいて「知る権利」とか「記憶をつなぐ」ことが強調され過ぎている印象(発信側はそのつもりがなくても、受け手側のインパクトの大きさとして)を僕は受けていて、どうも大人側の「伝えたい」「伝えなきゃ」が先行してしまっているケースが多々あるな、と思うことがあります。

前回の勉強会で「知りたくない権利もある」ということが話題に上がりましたが、もちろん正しい情報を伝えることは大切で、その準備をしておくことは重要だと思います。

でも、もっと根本的に大切なことは、対人援助の基本的な姿勢で、目の前の人の話をしっかり聞く、表情や声の調子などを観察して気持ちを察する、そして言葉のキャッチボールと非言語のキャッチボール(例:嬉しそうにしたら微笑み返すとか)を組み合わせた「対話」や「意思疎通」を重ねること、じゃないかと。

それは一般的には「LSWのベースとなる支援者との情緒的交流、信頼関係」という言葉で説明されていると思うのですが、もしかしたら、それだけでは通じていないかも、と感じることがあります。

前回コラムで扱ったように、対人援助を「教えてあげなきゃ、助けてあげなきゃ、全ての要求に全て応えてあげなきゃ」とか「自分」中心の文脈から抜け出せていない人は、そもそも論の共通理解がベースにないので、誤解が生じるのかもしれないな、と。

この辺は「永遠の課題」な気がしますが、最近、歴史を積み重ねると、良くも悪くも細かいことが削ぎ落とされていくので、10年ひと区切りで「原点回帰」って必要だな、と思います。個人も組織も

その意味では、賛否両論ある「1/2成人式」も10歳の節目だし、意味はあるなぁ、と。

「親がいない子どもが傷つく、可哀想」という意見はよく耳して、教育業界には少数派に対する理解や配慮は求めたいのはもちろんですが、現場には新任の先生だっているわけです。施設や児相も病院だって人員配置は「お互いさま」ですよね。

なので福祉業界も、直前になって「1/2成人式」をただ批判するだけじゃなくて、その子が10歳までにどのような支援を受けることが必要なのかを支援者がきちんと考えて話し合って、それを内外の関係者(施設、児相、学校など)で対話する「きっかけ」にしたらいいのにと思います。それが、分野の垣根を超えたその子の「支援チーム・支援プロジェクト」になっていくと思うんです。

なかなか脱線してしまいましたが、脱線話しで結局言いたいことは
「地域の支援者がチーム仲間になるためには、もっと対話が必要」
ということで、それが勉強会を立ち上げた理由の一つです。


次回も「はじめに」の続きです。この本でどれだけ書くつもりだ、と自分で思いますが、よろしくお願いします。

ではでは。


【第11回】あいまいな喪失と「支援者の価値観」

メンバーの皆さま

おはようございます。管理人です。

九州の雨は酷いですが、静岡はもうすっかり夏ですね。今日も暑くなりそうです。

今回から、また長期連載になりそうな本を紹介します。

本書は「あいまいな喪失」について書かれたもので、東日本大震災が起こってから東北で頻繁に紹介されたり、トラウマ研修でも取り上げられるようになっている話題です。

簡単に言うと、大事な物や人を喪失しても
「なぜそれが起こったのか?」
「いなくなった人や物が今どうなっているのか?」
「そもそも生きているのか死んでいるのか?」
さえハッキリと説明がつかない"あいまいな"喪失体験の理解と援助についてです。

ご察しの通り、社会的養護で家族と離れて暮らす子どもたちにドンピシャな話題なので、おそらく今後、LSWに限らない範囲で重要概念になってくるだろうと、僕は思っています。

ちょっと今回も長いので、そのつもりでお願いします。

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●目次
はじめにー喪失とあいまいさ

第I部   あいまいな喪失の理論の構築
第1章  心の家族
第2章  トラウマとストレス
第3章  レジリエンスと健康

第II部   あいまいな喪失の治療・援助の目標
第4章  意味を見つける
第5章  支配感を調整する
第6章  アイデンティティーの再構築
第7章  両価的な感情を正常なものと見なす
第8章  新しい愛着の形を見つける
第9章  希望を見出す

エピローグーセラピスト自身について


●内容&コメント
目次には、LSWのキーワードがてんこ盛りですよね。その一つ一つが重要概念なので、次回以降に詳しく取り上げていきます。

今回は「木を見て森を見ず」とならないよう、まず全体像を捉えるために
「エピローグーセラピスト自身について」
から取り上げます。

以下は、エピローグの一部を僕なりに順番をアレンジして抜粋したものです。

~専門家としてのレジリエンスがトレーニングの目標である場合、技術の練習だけでは十分でないのは明らかです。他の人をアセスメントする技術に長けていても不十分です。むしろ私たちは、内省し、自分自身についての知識を深めなければなりません。

~これが、セルフケアと呼ばれるのか、セラピスト自身の自己への取り組みと呼ばれるのかはともかく、このセラピーを行ううえで自分自身のレジリエンスを高め、私たち自身があいまいさとともに安心感を持っていられる力をつける、極めて重要な出発点です。

~逆説的ですが、本当のところを知らないまま生きていけることと知っていることが、私たちがあいまいな喪失で効果を上げるのに必要なレジリエンスをもらたしてくれるのです。

~クライエントにとって、セラピスト同様に、不確実さの中でも健康とレジリエンスをもつことが目標になります。レジリエンスは、疑心やあいまいさの耐性から成長するものであり、絶対に確実なものを頑なに固守することから成長するのではないのです。


本書のキーワードは「レジリエンス」かなと思います。詳細は第3章で扱いますが、
「あいまいさとともに安心感を持っていられる力」
これが本書でのレジリエンスを端的に表現しているかなと。

皆さんもご存知の通り、自閉スペクトラム症ASD)や人格障害系の方って、まぁ曖昧さに弱いですよね。0か100、白黒ハッキリしないと気が済まない極端なアノ感じです。

社会的養護の子ども親ってかなりの確率でこんな感じですから、援助者は支援対象がレジリエンスが非常に低いことを前提に準備しなければ対応が難しい、ということです。

さらに、児童福祉の対応って、曖昧なグレーゾーンが結構多い気がします。明確な答えがあるわけでなく、目に見える理屈だけでなく、目に見えない感性直観的な情報も判断に求められますし。なので、援助者はより高いレジリエンスを築いておかないと、援助者自身が健康と安心感を維持してグレーゾーンの問題に対応することはできない、のではないかと。

しかし、特に虐待対応において、援助者自身が曖昧さを抱えきれなかったり、グレーに耐えられずに「法律にある」とか「虐待・暴力はダメに決まってる」で杓子定規というか、理屈ゴリゴリの「えぃ!やぁ!」対応になってることって、結構あるなぁと思います。

そこで、読んでいただきたいことが以下です。


~伝統的に、私たちが受けるトレーニングは、物事を支配し、修復し、うまく対処や管理をし、癒すということです。しかし、これらの目標は、あいまいな喪失では達成できないのです。

~専門職の文化では、コントロールすることが、臨床的介入に暗黙のうちに必要とされる特質です。なかなかコントロールできない問題があると、不快な気持ちが生じます。

~その場合、コントロールしたいというと私たちの欲求を和らげることが重要な課題となり、それには自己について学び、自分を見つめ、成長させることが必要です。

~臨床家は、支配しコントロールしなければという自分自身の欲求について、より深く見つめる必要があります。

~優れた専門家であるためには、常にすべての答えを持っていなければならないという(敢えて言えば)傲慢さを手放すためには、私たち臨床家は自分自身の外にある何かを信じなくてはなりません。

~今日のセラピストには、外からのはかりしれないほどのプレッシャーがかかっています。「セラピストの自己」のためにしっかりと注目する時間がある人はほとんどいないでしょう。

~専門家のプレッシャーを楽にするよりもむしろ、サービス提供者の要求に応える技術や方略が強調されています。

~解決のない状況にトラウマをうけて犠牲になっている人々と仕事をすることが、専門家にとって非常に骨の折れることであるという事実を、私たちはもっと話し合う必要があるのです。


本書では、セルフケアや内省に加えて、専門職としての"凝り固まった常識"に鋭くメスを入れている点が痛快で面白いところだな、と思います。

最近、専門家自身のケアや感情の取り扱いは脇に置いて、プログラム偏重的な効率主義的な考えって、ずいぶん蔓延してるなと僕は感じています。それは支援者の不安を和らげるための選択なんじゃないかな、と。

それは現在の専門家へのプレッシャーの強さや精神的時間的余裕のなさの現れかな、とも思うんですけどね。

よく聞く地域援助者の「心配だから施設入所させてくれ」もそうです。それは誰の心配、誰の不安なのか、ということです。

エビデンスがあるから、これやっておけば大丈夫」
「もう施設入所したから大丈夫」的な。

確かにプログラムや施設入所という「枠」を使うことは安心感を作る「手段」としてはありだと思います。

ただ本質的なことは、プログラム実施や施設入所が「目的」はなくて、プログラムや施設入所を介して何をしようとしているのか、細かく言うと自分と相手が何を感じ、どのようなことを考えたのかを「やり取り」することが大事なんだと思うんです。

専門家自身が、何故その選択肢を選んだかに始まり、その理由をクライエントがどう思って始めたかを含めて。

「コントロールしたいというと欲求を和らげることが重要な課題」とありますが、正直コントロール出来ない、予測していない事態って不安だし、怖いです。自分がきちんと対処できるのか、そして失敗した時に、専門家としてのメンツやプライドが保てるのか。

ただ、専門家自身がそのような恐怖や雑念があることも真摯に受け止め、目の前のクライエントに対して今の自分にできる精一杯のことに集中して、はじめてクライエントの不安や怖さを受け止めて抱えられるのかな、と思います。

その意味では、自分自身を見つめる「質」が、対人援助で提供できるサービスの「質」そのものに直結する、と言っても過言でないだろうと思います。


そして、エピローグの「訳注」に、大事なことがサラッと書かれているので、最後に紹介。

~家族療法では援助者が専門家としての振り返りをするだけでなく、1人の人間として自分自身が心のなかでどう反応しているのかということに気づくことの大切さを重視している。その機会はスーパーヴィジョンやコンサルテーション、ピア・グループに参加することで得られるのはもちろんであるが、クライエントやその家族との対話の中においてもそのような機会を作ることの重要性が強調されている。
(H&I.ゴールデンバーグ2008)

~この新しいポストモダンの流れでは、専門家は自分の気持ちを超越して治療を進めるというそれまでの考え方に対して、専門家も自分の気持ちの動きに気づきながら、クライエント家族と協働でセラピーを進めると言う考え方に基づいている。ボス博士は特にあいまいな喪失を体験している人々に援助するには、専門家自身が自分自身の振り返りをしながら、クライエントと対等な立場に立って進めることによる効果の大きさを強調している。
(私信、2014)


専門家は「理論的な専門的知識」や「経験」はあるかもしれませんが、あくまでそれは方向性を決める材料に過ぎないし、「専門家は正しい、間違わない」なんて傲慢だと思います。

専門家が正しい判断ができるなら、世の中の問題は全て解決しているはずですし。専門家って言い方を変えれば「オタク」なので、良くも悪くも一般からみて「偏りのある人」って自覚も必要なんだと思います。僕も含めて。

現実問題はもっと複雑で、世の中には100年前まで科学で証明できなかったことや覆ったことなんて山ほどあって、専門家が見ていることなんて、所詮その時代のある側面からのいち視点に過ぎない、と思います。

なので専門家なんて偉くもなんともないし、クライエントという「プレーヤー」を支える「サポーター」「仲間」のほんの一部に過ぎないし、その声援が届くかもプラスの力に変わるかも「関係性次第」なんだと思います。

最近、僕も家族面接でクライエントと対等な立場に立って、率直にオープンに感じたことやり取りする手法(オープンダイアローグ)を取り入れることが増えてきたのですが、その場で起こる効果や化学反応は本当に大きいなぁ、と実感しています。

なんてことはありません、勉強会の雰囲気そのままに面接してるだけです。

なので、LSW勉強会でも今後、そんなフラットな関係性の交流や対話が継続して、安心して大変な話しや失敗した話しを語る中で、結果として参加する支援者自身のレジリエンスが高まっていく「場」になったらいいなー、と思いました。

長くなったので、この辺で止めておきます。

ではでは。


【第10回】高齢者による幼児期の語り

メンバーの皆さん

おはようございます。日曜の朝からスミマセン。

今回はプライベートな体験談で、
「LSW的に非常に興味深い出来事」
があったので忘れる前に投稿します。

昨夜、僕の長男誕生祝いで、
僕の父母、妻の父母、僕と妻、長男(3ヶ月)
の計7人で集まったんです。まぁ宴会です。

そこで、50代後半~60代のじいじばあば達が、
「何歳頃の記憶まで覚えてる?」
という話題で、ひょんな事から語り出しまして。

ちなみに断っておくと、僕は一切誘導してません(笑)

そしたら、思い出せる一番古い記憶は、
やっぱり3歳頃の印象的な出来事なんですよ。

例えば義母は、宮城県気仙沼の人で、
東日本大震災津波の前に、実は3歳時、
チリ地震による津波気仙沼で経験しているんですね。

そして、チリ地震津波警報が出た時、義母の祖母が
「わたしゃ、死んでもいいからこの家を出ない!」
と動こうとしなかったそうなんです。
でも、いざ家が浸水し始めたら、その祖母が慌てて逃げ出そうとしてて、
「なんだ、やっぱり死にたくないんじゃん」
と当時3歳の義母は思ったそうです。

60代の語りですよ。興味深いですよね。

また男性陣は3歳頃の記憶しっかり覚えてましたね。

僕の母(50代後半)は、
3歳頃の記憶は思い出せなくて、
思い出せるのは5歳で経験した新潟大地震だと。
その時は、なんだかよく分からず、
言われるがままに動いていた、と言ってました。

そして、僕の妻も6歳くらいまでしか思い出せない、
特別なことなかったし、と語る中で、

義父が「3歳頃、山形(義父の実家)に行った時
のこと覚えてないの?」と投げかけると、

妻「いろんな大人からその時の事を言われるから、
それが自分の記憶なのか、想像なのかわからない」

と。実に興味深いですよね。

エピソード記憶に自分の感情や体験が伴うと、
60代でも幼児期の事を活き活きと語れる一方で、

エピソード記憶が他人目線の物語ばかりだと、
30代でも自分の記憶なのか確信が持てない、
と言うのです。

LSWで、事実のみでなく本人の感情や体験を扱う意味って
「これだよなぁ、これ」としみじみ思いながら、

まぁ僕も聞かれるもんだから、

「通常エピソードで語れる記憶は3歳頃までだけど、
それ以前の感覚的な記憶は身体的には覚えているもんです」

なんてLSW勉強会で言うようなことを、
妻の実家で語りながら親族と酒を呑んでいる僕は、

"もはや思考や生活がLSWという病に侵されている"

なぁ、と言うお話しでした。


ではでは、休日に失礼しました。


【第9回】悲しみにおしつぶされないために 対人援助職のグリーフケア入門

メンバーの皆さん 

おはようございます。管理人です。 

今回は、支援者自身のグリーフケア(セルフケア)をメインに扱った図書の紹介です。

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 ●目次 
はじめに 
ー あなたにとってなぜグリーフケアが必要か

 第1章 悲しみの体験とそれを癒す作業 
ー人生におけるさまざまな喪失
 ー悲しみの感情 ー喪失後に表れる初期症状 
ー次の段階へ
ー癒しのプロセス 
ー喪失の意味を見いだすとは? 
ーグリーフがうまく癒されない場合 
ー地雷をかかえて生きていると… 
ー援助職は不健康なグリーフに陥りやすい 
ー健康なグリーフ・不健康なグリーフの影響 
ーグリーフとうつの関連 
ーグリーフワークにとりくむために 
ーグリーフレター(深い悲しみの手紙) 

第2章 援助職として悲しみに対応する 
ー援助職としての基本的な対応 
ー誤った対応とは? 
ー罪悪感にどう対処するか 
ー批判や抵抗、怒りに対応する 
ー境界線をひく 
ーじぶんもグリーフワークにとりくむこと 
ーあなたにできること 

 第3章 自分自身の悲しみの体験と向き合う 
ー自分の喪失に向き合う 
アダルトチルドレンという問題 
ー喪失のライフマップをつくってみる 
ー喪失体験が自分に与えた影響を知る 
ーグリーフレター 
ーさまざまな例を考える 
ーセルフケアをする 

おわりに 
ー悲しみにおしつぶされないために 

 ●内容&コメント 
本書は実は1~2ページ毎に目次の小見出しが付いてるので、目次だけでほとんど内容は網羅してしまっています。 

ポイントは「未完の感情」を、本書では「地雷」と表現しているとこでしょうか。 

概ねこれまでコラムと重複する内容なので、今回深く触れるのは一点。 

それは「健康なグリーフプロセス」と「不健康なグリーフプロセス」の違いです。 

まず「健康なグリーフプロセス」は、以下のステージをさまざな順番でたどっていく、とされています。 
 ステージ1 ショック 
「否認。混乱する。喪失が大きいと日常生活が中断 する。」 
ステージ2 怒り 
「 悲しみを怒りに変えるのは自然な流れである。」 
ステージ3 やりとり、かけひき 
「 不条理な喪失に対して、もしこうしてたら起こら なかったのでは?と心の中でかけひき、やりとり をする。喪失を合理化しようとする。」 
ステージ4 孤立感 
抑うつ感(落ち込み)を感じる。物事に納得がで きず、孤独感や恐れ、混乱を感ずる。」 
ステージ5 受容
 「 喪失体験が情緒の深いレベルに達する時期。喪失 を認め、人生を歩む選択をしはじめる。自分の人 生が変わる喪失に寄って終わったのではないこと を理解する。」
 ステージ6 再創造 
 「自分の人生を再び歩もうとする。その際に、喪失 にどんな意味があったのかを受け止める。喪失を 踏まえ、再び自分と周囲の人との関係性でなにを 再構築していくか考える。」 

 一方、「不健康なグリーフプロセス」では、ステージ5以降に違いが現れます。 

ステージ1 ショック・否認 
ステージ2 怒り 
ステージ3 やりとり、かけひき 
ステージ4 孤立感・抑うつ感 
ステージ5 抑圧・否認 
「 喪失を受け入れないで、喪失に伴うさまざまな感 情を抑圧する。否認によって覆い隠される感情は 葬り去られたわけでなく、情緒的な地雷となる。」 
ステージ6 自己否定感 
 「喪失体験が内面化され、喪失による否定的な反射 が起きる。何か自分が間違っているのではない か、とおもうようになる。」 
ステージ7 無感覚 
 「人と関われない。周囲とつながりを持てない。自 分の何を感じているのかわからない。」 

不健康なグリーフは、孤立感・抑うつ感(ステージ4)で留まることが多く、喪失に伴うすべての感情が抑圧され、この感情が「地雷」となり、新たな喪失体験を持った時に爆発する、とされています。 

これまでのコラムを読んだ皆さんなら、不健康なプロセスから健康なプロセスに導く方法が頭に浮かんでいますよね。そう「語り」によって「未完の感情(=地雷)」を完結させることです。 

加えて本書で興味深い点は、対人援助職は不健康なグリーフプロセスに陥りやすい、ことを指摘していることです。 

それは、対人援助職は 
①自身の生い立ちの喪失体験 
に加えて、 
②仕事がうまくいかないことの喪失感 
③支援対象者(こども等)の喪失 

を経験しやすいということです。 

僕が思い浮かぶのは、関係機関(施設・学校・病院等)に相談を持ちかけた時に、「昔、児相に〇〇」と、明らかに今のケースと関係のない過去の感情が溢れ出てくる支援者の方々です。 

もちろん児相の中にも「不健康なグリーフプロセス」のどこかのステージにいるだろう方々がたくさんいます。「自己否定感(ステージ6)/ 無感覚(ステージ7)」なんて、もうバーンアウト寸前の末期ですよね。 

「悲しみにおしつぶされそうな人」、皆さんの周りにもいませんか?

 これって、まさに仕事上の喪失体験における「未完の感情」の蓄積だと思うんです。過去のケースが上手くいかなかったことに対する喪失感や憤りの感情です。 

その表出を愚痴で片付けるのではなく「未完の感情が完結するプロセス」と捉え、反論せず話をそらさず、その人の体験感情をあえて質問して聴くよう僕はしています。 

何度も同じ話をする方はおそらく「出来事」や「相手の行動」の説明に終始していて、「自分の気持ち」を聴いてもらう体験まで辿り着けていないのだと思います。概ね、自分の気持ちを受け止めてもらったと思った方は、落ち着いてきて話が展開していくなぁ、と思います。 

皆さんが普段やっている「傾聴」と呼ばれる行動に、さらに「グリーフケア」の意味づけをすれば、支援者や保護者が語る話題の範囲内で、日常的に起こる喪失体験の「とげ抜き的なケア」はたくさん出来るだろうと。 

意図せずとも感覚的にこのような支援を電話対応や面接で行なっているCWが担当する保護者の方々が、だんだんと安定していく姿を僕はたくさん見てきましたし、その逆も見てきました。職場内の上司と部下の関係も全く同様に、です。 

担当CW替えをした直後の地区は荒れやすい、という定説みたいなものが児相にあるのですが、これを引き継ぎ者の経験スキル不足だけで片付けるのではなく、ケースにとっての「喪失体験」と捉えれば、一見おとなしい無感覚(ステージ7)で反応がない保護者よりは、怒り(ステージ2)かけひき(ステージ3)の対応は本当に骨は折れますけど、よっぽど適切な喪失反応で、ケアの余地があると思うんです。 

残念ながら「家族支援、親支援は児童福祉の範疇を超えている」とか「いかにこちらの言うことに従ってもらうか」なんて思考の方々には到底通じない話しであると思うんですが、そこで切り捨てたり説教じみた話しをするでなく、まずそう考える支援者自身がグリーフプロセスのステージのどの辺にいる状態か俯瞰的に捉えて、グリーフケアの視点で接する(つまり愚痴を聞く)と、また違った話の展開になるかもしれませんね。


 ●最後に 
 キャリアを重ねれば重ねるほど聴き役が増え、自分の話を相手に身を委ねて話せる機会は本当に限られていくなぁ、とつくづく思います。

 その意味では、静岡LSW勉強会やコラムは僕にとって、職場では語り尽くせない「未完の感情」を完結に向かわせてくれる「癒しの場」であるなぁ、と書きながら気づかされました。

 皆さん本当にお付き合いありがとうございます。そして、これからもよろしくお願いします。

【第8回】「未完の感情」の表現を助ける基本カテゴリー

メンバーの皆さま

おつかれさまです。管理人です。

前回の予告通り、
「未完の感情」の表現を助ける4つの基本カテゴリー

"謝罪/許し/情緒的な言葉/楽しい記憶"

について書いたのですが、僕自身の整理が追いつかず、かなりの長文になってしまいました。

普通に読むと「どこまで続くの?」となると思うので、全体をサッと見渡し、お時間に余裕があるときに、所々読んで見てください。

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●目次
パート1   喪失に関する神話を見つめる
パート2  未完の感情を知る
パート3  未完から完結への道
パート4  発見から完結へ
パート5  その他の喪失
パート6  子どもと死を考

●内容&コメント
まず4つの基本カテゴリーの前に「関係の見直し」について触れます。

「関係の見直し」は、
未完の感情を完結へと導く、最初の行動。

私たちの考え方や感情、意見はつねに変わるので、関係のどの要素が未完であるかを探し出すには、関係を見直すことが必要。

と説明されています。さらに、こう続きます。

・ただし、関係の見直しは、完結ではない。完結するためには行動が必要。
・喪失や悲しみからの回復は、悲しんでいる人によって選択される、小さな、積み重なった行動の連続でなされるもの。
・関係性の見直し(振り返り)は、自分の思ってのとは違う形で終わってしまったこと、よりよくあってほしかったこと、あるいはもっと多くあってほしかったことを思い起こし、子どもたちが本当に望んでいることを発見するのに役立つ。
・見直しはまた、将来についての実現しなかった夢や希望、そして期待を明らかにする。子どもたちは、彼らが言ったことやしたこと、あるいは、言わなかったことやしなかったことで、今こうしたいと思っていることを見つけられる。
・しかしながら、伝えられなかったことや言えなかったことに気づくだけでは、子どもたちの感情は完結までは行きつけない。

僕的には、ここまでの内容は、LSWで自分や家族の過去を知るプロセスで起こる、本人のこころの中での「発見」「気づき」の解説かな、と思いました。

そして、支援者が「感情の完結」のためにサポートする行動が「語り」です。

語りは以下の「4つのカテゴリー」
①謝罪(Apologies : A)
②許し(Forgiveness : F)
③情緒的に重要な言葉
(Significant emotional statments : SES)
④楽しい記憶(Fond Memories : FM)

について「言語化したのしたものを他の人に聞いてもらうことが必要」とされています。

少し長くなりますが、カテゴリーごとに紹介します。


①謝罪(Apologies : A)
「ごめんなさい」
人を操作するのでなく、自分の感情を完結する
・子たちたちがしたこと、あるいはしなかったことでだれかを傷つけてしまったことに対してなされる。
・謝罪の目的は、子どもたちがしてしまったこと、あるいはしなかったことを、情緒的に完結するのを助けること。
・生存している人に直接お詫びをすることが不適切で、相手を傷つける危険がある場合には、間接的な謝罪をする。その場合、声に出して言い、誰かがそれを聞いていることが必要。
・誰かが亡くなってしまったとしても、その事実が未完のコミュニケーションを完結する必要性をなくすわけではない。
・謝罪をした相手の反応は、その人によるものであり、謝罪をした自分のためのものではない。


  上記の内容は、違和感を持つ方も多いのではないでしょうか?相手の許しがない謝罪はどうなのかと。しかし、逆説的に考えると、もし相手が亡くなったり、物理的に直接会えない状況におかれたら、謝罪はなくてもいいのか、ということです。
  僕の理解としては、謝罪は「したこと」「しなかったこと」に対する自分の中の「心残り」や「後悔」を表現したり整理する言葉なのかな、と思いました。
  例えば、一般のLSWのお話では「自分が悪い子だから施設に預けられた」と思い込んでいる子どもに事実を明らかにして、あなたは悪くないと伝える、ということはよく耳にします。
  もちろん事実無根であったり幻想であれば訂正される必要があると思います。でも、もし親と一緒に暮らした記憶があって、仮に親の要求水準が年齢や能力不相応だったとしても、当の本人が「僕が言うこと聞かなくてごめんなさい」と思う気持ち自体は否定されるのもではないだろう、と思うのです。それは、自分の感情の整理(完結)のためだから。
  幼い子どもは自己中心性が強く、過度に自分のせいだと思う傾向があるので、それをニュートラルに戻すサポートは必要と思います。ただ極端に振り切って、親の事情を無視して何でもかんでも「全部、親が悪い」とすると、親への怒りをむやみに増幅させたり、「今が悪いのは親のせい」で片付けて自分の行動への責任を放棄する方向に向かわせる危険性もあると思うのです。
 そこで重要なポイントが次のカテゴリーかなと思います。


②許し(Forgiveness : F)
「私はあなたを許します」「悪いことでしたが、もういいです」
許しとは、過ぎ去ったことについて、もっと違っていたら、あるいは、もっとマシだったら、という思いを諦めること。
・ほとんどの人がforgive(許す)をcondone(大目にみる)という意味に置き換えて理解しています。
●forgive
自分を傷付けた人に対する憤りを感じるのをやめること
●condone
ささいな、害のないような、あるいは重要ではないように、扱うこと。大目に見ること。
※「憤り」とは、間違った、侮辱された、傷付けられたと感ずる持続した悪意に対する憤慨した不快な感じ

許しは行動であり、感覚ではない。
・許しは記憶を取り去りはしませんが、痛みを取り去る。「許すことはできますが、しかし、忘れることはできない」なら、忘れなければ許せないのか?
・求められていない許しは、常に攻撃と考えられる。許される人は、じぶんが許されると知る必要はない。
・相手が亡くなっているなら、その人に自分を許すように頼むことは、亡くなった人に行動を頼むことで不可能。
・許しの価値という新しい気づきを、子どもたちの生活を向上させるために使いましょう~、もし子どもが許しを得たいと願ったら、自分が言ってしまったことやしてしまったことを謝罪するのです。直接相手に許しを願うより、自分が謝罪をすることの方が、はるかに子どもたちにとってはいいことです。


ここには、LSWに重要な示唆があると思うんです。

僕の理解だと、許しは、
過去をありのまま、過大過小評価することなく受け入れ、過去からの思いを良い意味で「諦め」、憤りや痛みから自由になる(解放される)こと、なのかなと。

「許しは行動であり、感覚ではない」

行動を起こすためには、十分な情報を知ること、そこから沸き起こる自分の気持ちに向き合うこと、そして「語る」こと、ここまでセットで必要だろうなと思います。


そして、もう一つ。「許し」を読み進めると僕の「こころ」の中で、怒りに似た気持ちが湧いてきました。
「加害者は直接相手に謝らなくていいってこと?」
「犯罪者に酷いされても許せってこと?」

そんな自分を客観視して理性で考えて見ると「頭」の中にこのような構図が浮かびました。
「社会的要請・全体の利益」vs「個の成長や幸せ」
「多数・メジャー」vs「少数・マイナー」

すると、はじめに僕の「こころ」の中で湧いた怒りに似た感情は「社会的、多数的」な思考からきているのでは、と思いました。知らず知らずのうちに、社会の常識的な価値観や、もしくは個人的な経験の感情を大きくかぶせた思考になっているのでは、と。

今一度、思い出していただきたいのは、この本は「喪失体験の適切なサポート法」がテーマです。つまり焦点は「個」のサポートなんです。

原点の「個」の支援の視点に戻ると、被害者視点では「求められていない許しは常に攻撃とみなされる」は正にその通りですし、憎しみを抱え続けて生きることの苦しみや悲劇を扱った映画やドラマは数えきれません。

改めて「喪失体験をした個人をサポートする」ことは、慣れ親しんだ社会的常識に縛られず、そして自分の過去の痛みや憤りにも縛られず、その「個」に寄り添いニュートラルにまず聞くことなんだな、と思いました。


そして、三つ目のカテゴリー。
これは四つの中でも本当に重要なものとされています。

③情緒的に重要な言葉
(Significant emotional statments : SES)
謝罪や許しではなく、言う必要のあること。亡くなったペットへの手紙を例に。

その人が死別離別など何らかの理由により引き離されて、関係性が終了してしまう前に、伝えられたor伝えられなかった言葉(感情)。
「もっと遊びたかった」「大好きだよ、それに、きみも僕のことを大好きだったのも知っているよ」

情緒的に重要な言葉には、許しが必要。否定的な言葉を述べることは問題ないが、その後に許しの言葉があって完結される。
「きみが僕を噛んだから、僕は怒った。でも、もういいよ」


そして、最後のカテゴリーは、

④楽しい記憶(Fond Memories : FM)
子どもが幸福感を持った体験として記憶していること。肯定的なことに関する喜びや、人に対する感謝を含む。
「ありがとう」「感謝しています」



ここまで読んだ皆さんはどんな感想を持ったでしょうか?きっと色々な想いが浮かんできたと思います。

もしかしたら、親と過ごした経験や記憶が全くない子どもは、4つのカテゴリーについて何も語れないと思った方もいるかもしれません。

でも僕は、LSWに取り組む中で、
「姿を一目見てみたい」「声を聞いてみたい」
「なんで私を施設に預けたのか知りたい」
「親も大変だったんだね」
「もういいよ」
「ここで元気に暮らしているし」

等々の子どもの声を聞いて来ました。そして、これまでの養育者支援者への感謝や楽しい思い出もたくさん聞いてきました。

LSWで大切なことは(面接全般ですが)
「気持ちを聞くこと、感情を完結、整理すること」

で、そこには喜怒哀楽すべての感情が表現されて良いこと、自分のありのまま感情や人生を認め、憤りや痛みから解放されること。

そして、情報を収集したり伝えたりするのは、その手段やきっかけに過ぎないこと。

現在の僕はこんな風に思っています。
 
 
長くなりましたが、ここまでです。
 
ではでは。