LSWのちょっとかゆいところに手が届く「まごのてblog」

静岡LSW勉強会の管理人によるコラム集

【第136回】じぶんとパーツ、スマホとアプリ

おつかれさまです。管理人です。

 


前回コラムで、

 


「こころは複数の部分(パーツ)で出来ている」

 


というモデルが、児童福祉やLSWで役立ちそうですよ、という話しをしました。

 


今回は役に立ちそうポイントについて、もう少し深掘っていけたらと思います。

 

 

 

正直、「本当?」「怪しい…」「解離、多重人格と何が違うん?」と思った方も少なくないと思うんです。

 

 

 

その直感的な感覚、

 

 

 

大事にしてほしいてす。

 

 

 

 


『全人格パーツを歓迎する』

 

 

 

それは内的家族システム療法と自我状態療法に共通する素晴らしい考え方と思っていまして、

 

 

 

疑問に感じる自分の存在を認める、その自分とコミュニケーションが取れる状態、それが本来の状態であり、目指す状態なんです。

 

 

 

そして、

 

 

 

『症状や問題行動を歓迎する』

 

 

 

これも上記の療法の特徴的かつ素敵な捉え方の一つかな、と。

 

 

 

その理由は、症状や問題行動は「防衛パーツさん」の情報を教えてくれるものだから。

 

 

 

 


防衛反応って、過酷な状況で生き残るための最適解ですよね、生物としての本能的な。ということは、症状や問題行動はその人の歴史を教えてくれる、ということになりますね。

 

 

 

もちろん、こころのパーツは、防衛的パーツ以外にも色々あって、幼児期にはほとんどの人格パーツが作られるそう。

 


そして、あらゆる人生の状況に適応することができる人格パーツ布陣は青年期後期までに整えられる、なんてゲームで装備品を揃えていくみたいですよね。

 

 

 

で、手持ちのパーツで対処できない事態に遭遇した時には、大人になってからも新しいパーツが増えることもあると。

 

 

 

例えば、トラウマティックな被害体験や被災体験または転勤、出産など人生の大きな変化において、手持ちパーツでうまく対応できる者がいない時に。

 

 

 

 


そんな説明を本で読んだ時に、「スマホとアプリ」の関係が頭に浮かんだんですよね。

 


スマホ本体だけでは何も出来なくて、何かするには、必ずアプリを開きますよね。

 


電話かけるにもメールするにも、何か設定変えるにも、画面上の四角いやつ押すじゃないですか。

 


パーツ(部分)って、そういう感じかもと。

 

 

 

さらに初期設定で入っているアプリはありますけど、あとはライフスタイルや好みに合わせてアプリを追加しますよね。

 


面白そうなゲームアプリを入れたり、お店のポイントが付くアプリを入れたり、動画配信アプリを追加したり。

 


でも歳を取るにつれて、生活が単調というか忙しくなるにつれて、使うアプリは段々と固定化されてくることが多いかなと。

 


iPhoneって時々アプリ使用時間をお節介に知らせてくるんですけど、僕の場合、YouTubeとその時にハマってるゲームでほぼ独占されてます(苦笑)

 


ただ、トータル使用時間は少ないけれど、LINE連絡は頻繁にしますし、電車乗換案内アプリは毎日見ますし、Google mapsがないと見知らぬ土地では迷子になってしまう必須アプリです。

 


同じ本体を使用しているけれど、開くアプリによって全然違う顔を見せるし、使用時間は短いけれど重要性がメチャクチャ高いアプリもある。そして、どんなアプリを使用しようとも、自分のスマホであることには変わらない。

 

 

 

スマホ本体」と「アプリケーション」。

 


「身体的自分」と「こころのパーツ」。

 

 

 

身体は身体、でも色んなモードの自分が自分の中にある。

 


こころは複数の部分でできている、とはそういうことかなと。

 

 

 

そしてスマホの中には、たまにしか使わない、また昔はよく使っていたけど今は全然使っていない、この先もしかしたら一生使わないかもしれない、そんなアプリって残っていません?

 


でも、過去にはそのアプリを入れた経緯があって、良い悪いは別にして、そのアプリを使った思い出や歴史がありますよね。

 


こころにおけるパーツも、ほぼ同じようなことが言えるかなと。

 


乳幼児期に色んな刺激を受けて、色んな脳の使い方を学ぶ中で、色んなモードの自分ができる。

 


脳は一つの塊ではなく色んな部位の複合体だから、それぞれ違った脳部位使用の組み合わせ状態を、それぞれ異なるこころの状態だと仮定することって、そんなに不自然な考え方ではないかなと。

 


人間の脳はざっくり3層構造。爬虫類脳ー哺乳類脳ー人間脳の部分があります。すごく本能的な衝動に正直なモードの自分もいれば、理性的に社会的に振る舞うモードの自分もいる。どの側面も自分であって、それぞれの側面をパーツ(部分)として捉える考え方です。

 


小さい頃に出来たモードの中には、中学生になったら大人になったら適応的な状況に置かれないから、こころの奥底で待機状態が続いている、もしらすると存在すら忘れられている、そんなものも少なくないそう。

 


表に出てきていないだけで、心のどこかでは繋がっている。だから、記憶としては繋がっている。これが通常の健康な状態。

 

 

 

ただ、モード同士、パーツ同士の仲が悪くなって話し合わない隠し事をする状態。そうすると記憶が繋がらない、覚えていないという現象が起きる。

 

 

 

精神医学的に言われる「解離」を、パーツ心理学では、このように捉える、と。

 

 

 

そして、目から鱗でしたが、この考え方だと「解離はスペクトラム=連続体」という説明がとてもしっくりきます。

 


解離は有無ではなく、程度のグラデーションであると。

 

 

 

ちなみに『精神医学的な判断をしない』というのもパーツ心理学の特徴なんですけど、

精神医学的な考えが強くなると、診断が付くか否かという思考に陥りがちだと思います。

 


○○障害か否か。みたいな。

 


例えば、発達障害と言ったって、我々はみな能力凸凹や発達凸凹があって、その特性によって社会適応が難しくなった状態になって初めて「disorder=障害」と診断されますし、同じ診断名が付いていたとて、特性の程度は人それぞれで全然ちがう。

 


記憶が無くなる、いわゆる「解離」にも似たようなことが言えそうです。

 


考えてみてください「記憶がなくなる」と言う人は必ずしも、ここはどこ?私は誰?みたいに全て1分以前の記憶が綺麗さっぱり無くなっている訳ではないですよね。

 


記憶の中にも、繋がっている部分と繋がってない部分がある。

 


これは脳内の伝達物質や導線の一部に不具合が起きていると脳科学的には言えるかもしれません。

 

 

 

なるほど、確かに今朝話したこと、昨日話したこと、一言一句覚えているわけではない。

 


皆、自分の話した事なんてだいたいな感じで覚えていて、前と言ってること違うじゃんと相手にツッコミ入れたくなるような事って結構あるな、と。

 


考え事をしながら家で過ごしていると、「あれ?この部屋に何しに来たんだっけ?何か探しに来たんだけど…」みたいな事だって。

 


ない方もいるかと思いますが、僕は時々あります。歳ですかね…それもあるかもしれません。

 


脳科学的に捉えれば、この部位が…伝達物質が…との説明も出来るかと思いますが、身体を動かしているパーツと、考えているパーツがそれぞれ別で、上手くコミュニケーションが取れていないという捉え方もできる。

 


脳の使い方の状態を「こころのパーツ」と捉えるとしたら、複数いるパーツの脳内会議、心中会議…会合場所はどこでも良いんですけど、自分という集まりの中で、ある人物(パーツ)だけみんなへの報連相を怠っている状態。

 


あえて「解離」という言葉を使って、記憶の連続性のなさを表現するなら、我々は皆、大なり小なり「解離」を起こしているとも言えて、それを前々回コラムで扱った脳内解釈人「インタープリター」が辻褄が合うように隙間を埋めてくれている、とも言えるのかなと。

 


また、急に過去の話題を振られても思い出せないけど、話をしているうちに段々とその事を思い出してくる、それは散らかっている部屋の状態から該当する記憶を探している頭の状態とも言えるかもしれませんし、今と過去のその時に活性化している脳部位が異なればそれぞれのパーツ同士が情報伝達している状態とも言えるかもしれません。

 

 

 

発達障害に話題を絡めると、

 


「トラブルの後、何事もなかったかのように接してくる。切り替えが良すぎて、こちらが戸惑うし、正直腹が立つ。少しは反省の色をみせてほしい」

 


家族にASDの方がいる場合、こんな相談をよく受けます。

 


ASDの特徴には、意思疎通の苦手さがありますが、それは他人に対してだけでなく、自分の中の複数の自分パーツにも漏れなく当てはまる、そんな感じだと思うんです。

 


ASDの人は、インタープリターの働きが弱いと言われていて、パーツ間やモード間の切り替えが良すぎるというかコミュニケーションや引き継ぎが苦手という捉え方もできるかなと。

 


しかし、精神医学的な「解離」という考え方は、トラウマティックな体験があって感情麻痺とか離人感とかの症状が起きること。

 


トラウマティックな体験がない人でも、我々は皆少なからず記憶が繋がらないことがあるしASDの人はよりその傾向が強い、そう言うことを「みんな大なり小なり解離がある」と括ってしまうのは、ちょっと乱暴というか逆に混乱を招くかなとも思います。

 


なので、記憶が繋がらない、という現象について、パーツ心理学では、こころを構成する複数の部分(パーツ)同士のコミュニケーションが上手くいっていない状態と捉えて、傷ついているパーツを癒し、そのコミュニケーションの衝突や不具合を解消して、お互いがお互いを尊重してやり取りできる状態にする。そんなアプローチなんだそうです。

 

 

 

これ、自分史を扱うLSWにめちゃくちゃ応用できるというか、必要な視点ですよね。

 


特に社会的養護(里親、施設)にいる児童は、主要な人格パーツが作られる乳幼児期に過酷な環境下に置かれている場合がほとんどですから。

 


症状や問題行動を起こしているパーツは、生き残るために必要な存在なわけで。

 


症状は抑えて治すもの、問題行動は無くした方がいいもの。これが一般的に思われている常識だし、身体疾患における医学的モデルのアプローチ的な考え方です。

 


しかし、スマホのアプリの例えで言うと、古いアプリは使わないから要らないよね、無かったことにして削除しよう、となったら「アプリさん」はどう思うと思います?

 


お前、昔は散々使ってたくせにあっさり捨てる気かと、悲しんだり怒ったりするかもしれませんね。

 


「行動は否定しても、存在や人格は否定する言葉を子どもに向けないでください」

 


児童虐待対応では、よく話題に上がるワードなんですけど、パーツさんへの対応も似ているかなと。

 


例えば、外側から何かのウィルスが侵入してきて、身体的な免疫による抵抗でめっちゃ高熱が出てる。ただ高熱はウィルスを倒すために身体を守るための反応、本来排除すべきものではないハズなんです。

 


その高熱に当たる部分が、「症状」や「問題行動」です。

 


もし症状や問題行動が、「発熱」みたいな役割を果たしているのなら、いたのなら、それを排除しようとする動きには、意義あり!となりますよね。

 


なので、いやいや抗生物質という薬もあるから、発熱して身体にしんどい思いさせなくても治りますから大丈夫です安心してください、発熱さんは休んどいてください、心配してくれてありがとう。

 


そんな風に、防衛パーツさんと話をして、了解を得る。

 


もちろん、セリフは適当に作ったものですけど。

 


特に日本は、人様に迷惑かけるなとか、人と同じでいたいみたいや気持ちが強くて、発熱しても仕事が忙しいとか仲間に迷惑をかけるとかって言って、解熱剤を飲んで仕事に行くとか超不健康な生活をしていましたね。

 


コロナのおかげでだいぶ体調不良と仲良く付き合うようになってきたと思いますが。

 


弱っていたり疲れていたり傷ついている自分の部分(パーツ)の存在を否定せずに認めて、うまく共存できるようになる。

 


緊張しないように強く意識し過ぎて、かえって緊張しちゃうみたいな。そうじゃなくて、緊張する自分を認めて上手く付き合う、お前は出てくるなではなく、自分で自分をなだめて癒して落ち着かせてあげる。

 

 

 

例え話はあっちに行ったりこっちに行ったり、とっ散らかってしまいましたが、内的家族システム療法や自我状態療法で行うことは、ざっくりこんな感じなのかなと。

 

 

 

もちろん、パーツへのアクセス方法は各療法あるのでここでは省きますが、パーツに向き合う姿勢と言うか、すべてのパーツに対してリスペクトを示す心構えは、すぐにでも役立つ視点かなと。

 

児童福祉の現場では「パーツ変わったかも」と思わせる場面に結構出くわしますね。

 

こども保護者はもちろん、支援者関係者も、です。

 

みんな色んなパーツを持っている。

 

それでいい、という話しでした。

 

 

まとまりませんが、今回は終わります。

 

 

 

ではでは。