LSWのちょっとかゆいところに手が届く「まごのてblog」

静岡LSW勉強会の管理人によるコラム集

【第127回】トラウマを抱えた児童へのLSW(後編)

おつされさまです。管理人です。

 


「トラウマを抱える児童のLSW(後編)」

 


なんと前編の最後で予告したことを、ほぼ触れずに中編を終わるという未計画さ(汗)

 


まぁ、そんな感じの思考がまとまったり拡散したりするLive的なプロセスを味わうblogなのでお許しください。

 


では、さっそく本題に。

 

 

 

前編では、過去の喪失に関する情報を扱うのが一般的なLSWですが、それだけで「過去ー現在ー未来」の時間の連続的感覚がつながらない児童がいますよ、という振りをしたんですよね。

 


それについて「身体性」という切り口から解説します。

 


身体性という言葉でお伝えしようとしているのは、身体的な覚醒度合いのこと。詳細な説明は117・118回あたりで触れていますが、興奮したり鎮静したり、朝起きて段々と活動的になって夜また寝ていく身体的なバイオリズム、簡単に言えば、目が冴えている時と落ちそうなほど眠い時の身体感覚的な違いです。

 


通常は適正範囲内で、覚醒バイオリズムが上下に変動するのですが、トラウマの防衛反応3F、ファイト・フライト・フリーズ状態になると、覚醒度が適正範囲を突き抜けて上がったり下がったりします。

 


脳で言えば、3層構造の一番外側、大脳新皮質という人間脳が動いている状態から、動物的生物的なサバイバルスイッチが入って、もっと内側の哺乳類脳(辺縁系)、爬虫類脳(脳幹)といった働きがメインになっている状態。

 


そんな状態では、当然、言葉による理解やコミュニケーションは難しく、より感覚的に本能的な行動を取るようになります。生存本能によって。

 


具体的に言えば、「ヤラれる!」と危機を感じた瞬間に先制攻撃をしかけたり、相手にそんな気がなくても(ファイト闘争)。また、怒られる雰囲気を察した瞬間に脳内シャットダウン、固まってうんともすんとも言わなくなる。イメージ的には、ボクサーがダメージを最小限に止めるために両腕上げてガチガチに防御固めてる感じですかね。嵐が過ぎ去るのを待つみたいな(フリーズ凍結)。

 


中間的に言えば、圧倒的に力が上の相手には歯向かえないから、叱られる(=殴られる)ような何かやらかしてしまった状況が起きてしまった場合、反射的に嘘をついて身体的被害を回避しようとする(フライト逃避)。物理的な逃走=家出とかは、さらに怒られるのがわかっているので、余程の限界に達してないとそこまでの行動は取れません。

 


そんな防衛スイッチを入れないと、とても生きていけない日常生活を送っているのが継続的な虐待やDVを受けている人たちです。

 


すると、警戒心が高くなって周囲の顔色へのアンテナが高くなって、今現在を生き延びることへの神経系エネルギーを注ぎ込む状態が常態化していくのは想像に難くないですよね。

 


そして、「過去ー現在ー未来」という時間軸において、過去=被害体験の恐怖、未来=危険が降りかかる不安、というイメージが大部分を占めるので、現在によりフォーカスする身体的な状態→思考もより現在にフォーカス、過去未来について考えるのを回避放棄する、という状態が常態化します。

 

 

 

 

 

 

フォーカス=焦点化というより、しっかり鍵を掛けて現在に過去や未来が入り込まないようにする、って言うのが僕のイメージですかね。

 


「過去ー現在ー未来」がぶつ切りになっていると言うより、ぶつ切りになることを望んで無意識ですが意図的にやっている。ちょっと矛盾した表現ですが、裏返すと自分の意図とは別に過去が現在に勝手に入り込んできちゃうのを防いでいるみたいな。泥棒や強盗みたいに突如強引に家(=現在)に入り込んでくるんです、過去が。

 


そのへんをもう少し深掘ります。

 

 

 

防衛スイッチが入りっぱなしの状態の児童が、社会的養護という社会が用意した別の生活場所(里親、施設)に移った後の話しです。

 


本来、安全安心なはずですね、社会的養護の里親宅や施設という環境は。

 


で、子どものダメージが軽ければ、「あぁ、もう理不尽に怒られたり殴られたりすることはないんだ、安心」と思えて、自然と身体的な防衛反応スイッチが入らない状態が当たり前になってきます。虐待を受けていても、虐待から守ってくれる大人もいたりして、大人への基本的信頼感がある程度育っていれば、こんな回復が望めます。

 


しかし、シングル家庭とか、片方の親から暴力を受けた後に更にもう片方から追い討ちをかけられるような(それは大人の被DV者が自分の身を守るためよ防衛反応とも言えます)、誰も自分を守ってくれる大人がずっといない状況をサバイバルしてきた子どもは基本的信頼感など育つわけもなく、むしろ基本大人はいつ怒るかわからない危険で信用ならない「不信感」を獲得していきます。

 


そーなると、こころは不信感、身体的には警戒心、認知思考的には様々ありますが、過度に被害的になっていたり自己否定的になっていたり、とにかく「身体ーこころーあたま」のつながりが全部影響し合って、今の状態が出来上がってる。

 


なので、「はい今日から生活環境が変わったので大丈夫です」と説明されたって、信用できないね、どうせこの人も裏切るんでしょ、と思うのは、ある意味当然と言えば当然ですよね。

 


と言うことで、安全な環境下ではミスマッチな、燃費がメチャクチャ悪くてエネルギー切れで勉強とか身が入らないんだけど、身体的な警戒心スイッチ(現在フォーカス)の癖はなかなか抜けない。前の環境で一番マッチしていた方法なので。

 


そんな不適応行動で大人から注意されると、「やっぱりそうじゃん!」「大人は私ばかりに怒る」とか言って、緩みつつあった防衛反応スイッチが再び強く押され直されるみたいな事が起こる。

 


またトラウマのフラッシュバックという観点で言うと、あるトリガー的な刺激を受けた際に過去の場面を視覚イメージ的に思い出すだけがフラッシュバックではなくて、過去の身体感覚、過去の感情、過去の思考回路など色んな形がフラッシュバックにはあります。

 


それは防衛反応、生物が危険な体験を忘れずに生き延びる確率を上げるための回避行動を取るための本能的な反応。その反応を「過去ー現在ー未来」の時間軸を加えて捉えると、現在の「身体ーこころーあたま」のつながりのどこか一部が過去に侵食され、その影響を受けて他の部分も過去に侵食される、そんな体験とも言い換えることができるかもしれません。

 


過去の嫌な事が頭から離れない、ふとした瞬間に頭に入り込んでくる、トラウマ反応の代表的な症状ですが、自分がわからないタイミングで、現在のこころや身体が過去の恐怖感に侵食され、自分で自分の感情や行動がコントロールできなくなる。

 


これが過去が現在に勝手に入り込んでくる状況の一部。で、ある程度回復していると、脳の一番外側の人間脳が通常に働いているので、「あんなこともあったよね」と過去を過去として俯瞰的に客観的に外側から良い意味で距離を置いて眺める事ができます。

 


ただそこに「身体ーこころーあたま」の身体やこころの状態まで過去のことを思い出すと、身体は心拍数も覚醒度もブワーって上がって興奮して、こころは恐怖や焦りで支配されて、現在のいまは全然そんな状況じゃないただの日常なのに、本人の主観的体験(身体やこころ)の中では緊迫状態に置かれたようになっている。

 


で、周囲から何で急にこんなに暴れるんだといって止められ、叱責され反省を促され、何があったと聞かれるので○○されたと被害的な認知を説明すると、そんなことはなかった、お前がおかしい間違っている、相手に謝れ、と自分の認識を否定される。

 


そんな現在を生きているのか過去を生きているのかわからない、時間感覚の境目のない生活が続けば、自分で自分がコントロールできない無力感、自分のことは誰も信じてくれない不信感が募っていくのは当然ですよね。

 


トラウマとは、直接の暴力被害だけでなく、圧倒的な力や状況によって何もできなくなる無力的な体験と言われています。森の中で大きな熊に睨まれるとか、大地震や大津波を目の前にして「もう終わった」と感じて動けなくなると言ったように。

 


そんな無力的な体験を、フラッシュバックという過去が勝手に入り込んでくるやつは再体験させるので、なるべくそうならないように「過去ー現在」の間に堅く鍵を掛けようとする。それが「過去ー現在ー未来」がつながらない人に起きていることだと思います。

 

 

 

じゃあ、どうやって「過去ー現在ー未来」がつながるように支援するかと言うと、それは「身体ーこころ」レベルは過去のことを思い出さずに現在に地に足をつけた状態で、「あたま」だけが過去や未来に行き来できるようになれればいい。

 


これは大多数の人はごくごく当たり前すぎて意識もしないと思いますが、昔のことを思い出して「あぁ、あの頃は楽しかったなぁ」と思うのは、現在から過去を振り返った時の気持ちですよね。過去の楽しかったアノ瞬間の楽しさや興奮を同じレベルでリアルに再現している訳ではないですよね。

 


それくらい、過去と距離を置ければ、怖かった過去の出来事を思い出しても、現在の安全が脅かされることはないですよね。その距離を置くという作業が防衛反応スイッチの解除です。

 


トラウマ治療法はいくつもありますが、概ね「身体ー感情ー認知」どこにフォーカスするか、扱う順番や割合が違うとか、そんな違いで分類できるのかなと思ってます。

 


そして最近は、認知的なトップダウン的アプローチと身体的なボトムアップ的アプローチの両面からのアプローチがトラウマ治療には必要と言われていますね。

 


例えば、まさにTF-CBT(トラウマフォーカスト認知行動療法)は認知→感情アプローチと言えますし、何も語りをさせないTFTやソマティックエクスペリエンスは身体→感情へのアプローチの一例と言えると思います。

 


他にもNET(ナラティヴエクスポージャーセラピー)、EMDR、ブレインスポッティングもありますし、最近コラムで扱っている『トラウマと身体』で紹介されているSP(センサリーモーターセラピー)、あとは自我状態療法とか内的家族システム療法とか、その他にも追いきれない方法が数々ありますね。

 


話をLSWに戻すと、一般的なLSWは言語とイメージ(写真見るとか訪問するとか)による記憶想起がメイン作業と言えると思うんです。それは認知→感情のアプローチに近い形かと。

 


一方、もしその想起記憶の中に、トラウマに触れるトリガー刺激があったとしたら、身体→感情のアプローチで、身体やこころの防衛スイッチを解除していく作業をLSWより先にしておくといった戦略もあるかもしれません。

 


ただし、トラウマ反応の除去を全て完了しないとLSWができないと言うわけでもないと僕は考えます。例えば、ケアリーヴァーと呼ばれる社会的養護出身者が自身の過去を語る時、その語りの主体は話し手にあり、語る内容や深さを自身でコントロールできることが重要と言われますね。

 


それは、語り手が自身のトラウマを刺激するトリガー刺激を理解していたり、それに伴う身体感覚の変化に気付ける段階で行える、自分自身の語りの安全性の確保と言えると思います。

 


過去の記憶が統合されて「身体ーこころ」において現在と過去がはっきり区別できる状態になるのがトラウマ治療の最終段階とは思うのですが、実際はその段階に至る前にも日常生活は続いているし、そのような治療を受けなくても日々生活している人はたくさんといます。

 


それは、安全安心な生活が続く中で自然治癒していく場合もあるでしょうし、トリガー刺激と上手く付き合う術を身につけて対応している人もいると思います。

 


ただ、過去の被害体験があまりに未整理で、つまり無力的に何も抵抗できない、逃げられない、声に出して「嫌」とも言えない、痛いのに「痛い」と言えない、そんな「逃げたい避けたい」身体感覚や感情に逆らった「行動」を取った時に身体に起こる、発散しきれないエネルギーの蓄積、それがトラウマとなって残ります。

 


肩こりのシコリの部分みたいに。ケアしないとシコリはだんだん大きくもなるし、いきなり中心をグリグリしたら痛いですよね。なので、周囲から徐々に周囲からほぐして行ったり、ピンポイントで針を使って緊張を解いたりしていきますね。

 


シコリを完全に無くしてから運動を始めるか、シコリが残った状態で無理のない運動をしながらセルフケアし続けたり、日時生活でうまく付き合っていく方法を見つけていくか。考え方は人それぞれなので、どちらが良いとか正しいとかはないと思います。

 


トラウマとLSWは、シコリと運動の関係に似ているかもしれません。大事なのは、本人がどのような形を望んで、それが尊重されることなのかなと。

 


ただ、いま自分に何が起こっていて、どうケアを受ければそのシコリがどうなるかの情報を知らなければ、自分で考えて主体的に選択するということは出来きないですよね。

 


なので、支援者がアナウンスする。トラウマ反応とは何なのか、過去を知ると言うことはどう言うことなるか、それに伴うリスクや必要な準備はなんなのか。それで一緒に考える、いつ誰とどうしたいか。

 


それはインフォームドコンセントや心理教育と呼ばれる過程と思うのですが、それはLSWに限ったことではなくて、相談援助活動全般に言えることだと思うんです。

 


だから、支援者は何が起きるか知っておかないといけないし、それを相手の理解やペースに合わせて、わかりやすく説明したり翻訳できるようにしておかないといけない。

 

 

 

まとめると、大人や支援者主導のLSW、本人の意思やペースを無視した過去の記憶想起は、トラウマを刺激する二次受傷が起きていたから、LSW後に子どもが荒れるということが実際起きていたんだと思います。

 


もちろん、トラウマを扱う目的で、本人もそれを承知で、深部の悪いところ治す手術のためにお腹切りますね、治るまでの間は安静にしないとダメですよ、というコンセンサスが皆にあれば「荒れる」ということは治療のプロセスなので悪いことではないと思います。

 


良くないのは、本人も周囲も意図せずに、本人が自分過去を知りたいと言ってるから伝えようって言って、知らず知らずのうちに本人が過去の記憶想起の中でこころが斬られまくっていて、よく言う「蓋の開いた状態」になって自分のコントロールを失い、現在の生活や人間関係が壊れていくというパターン。

 

 

 

 


「トラウマを抱えた児童へのLSW」の第一歩は、支援者がトラウマについて知ること。

 

 

 

トラウマを抱えた児童の過去を扱うんだから、トラウマについて知らないといけないのは当たり前。

 


しかし、トラウマについて知ると、「この子はトラウマを抱えているかもしれない」という視点を持てるようになる。これすごく大事。

 


つまり、これまではトラウマなんてないだろうと思ってLSWやったら、え!トラウマありました。みたいなこと起きてたんじゃないかなと想像します。

 


なので、身体なら健康診断して、身体に異常が見つかって、精密検査したからどうやら病気があることがわかって、どう治療しようかみたいな話しをするプロセスを、こころも同様に行うこと。

 


こころの状態を普段の様子や心理検査で査定(=アセスメント)して、何がありそうだと仮説を立てて、さらに追加の検査を行ったり、自宅や学校の様子の情報を加えて、おそらくこんなことになっていけど、どうケアしよう、という話し合いをする。

 

 

 

トラウマの治療法や心理療法は数多くありますが、どれが優れているとか劣っているとかはなくて、その人の状態や特性的にどれが一番相性がよさそうか、治療者の習熟度合いはどうか等々、複数要因の掛け算なので、唯一無二の絶対的な必殺技はないんです。

 

 

 

だからこそ、よく相手のことをよく知り、支援者自身の力量や特性や限界をよく知り、サポートしてくれる資源のことをよく知り、本人とみんなが一番納得して安心できる方法を一緒に探すこと。それが、いま僕が考えている

 

 

 

『トラウマを抱える児童へのLSW』

 

 

 

です。

 

 

 

途中から話の納めどきが見つからずにダラダラしてしまいましたが、1人語りというblog形式の限界を今回は感じました。

 


相手の反応がないので、どのような文脈や言葉が相手に伝わるか伝わっているのか補足が必要そうなのかわからず、ついつい長めになってしまいます。

 


そう言う意味では「対話」形式の勉強会での学びや気づきは、知識と体験が結びつく「腑に落ちる」身体性を伴った理解なんだなぁ、としみじみ。

 

 

 

また、勉強会再開したいですね。

 

 

 

 


ではでは。