LSWのちょっとかゆいところに手が届く「まごのてblog」

静岡LSW勉強会の管理人によるコラム集

【第125回】トラウマを抱える児童のLSW(前編)

こんにちは。管理人です。

 


「トラウマを抱える児童のLSW」について、今回は本題です。

 


僕が一番大事だと思うのが、「その時行おうとしているLSWの目的は何なのか?」という軸を支援者がきちんと持っておく、それは言い換えると「クライエントにニーズ、意向をしっかりと確認して把握する」ことです。

 


例えば、「自分の過去を知りたい」と本人が言っている場合、その表面的な行為だけではなく、その言葉が意味する本質的ニーズ、そして過去を知った後に何を望んでいるのかについて、本人と深くコミュニーケーションを取るということ。

 


以前コラムで、トラウマ治療において「過去を語る」ことはアプローチの一つではあるけれど、過去を語るタイミングや方法によってはかえって悪化させることが多いことは、触れたかと思います(何回コラムかまでは思い出せませんが…)。

 


「過去を知りたい」という言葉を額面通りに受け取り、嘘は教えてはいけない、綺麗事だけでなく現実も受け止めないといけない、というそれらしいアドバイスもあると、知りうるすべての情報をこどもに伝えて、こどもがパンクするということが起きることがあります。

 


もちろん、知る権利もありますから、その考え方の全てを否定するわけではないですが、例えば、一般家庭において幼児や小学校低学年のこどもに、家庭の収入や借金等の経済的問題、親族間の争いやゴタゴタ等を包み隠さず話すでしょうか。共有するメリットとデメリットはなんでしょうか?

 


子どもに余計な心配はかけたくないと思う親の方が日本では一般的な気がしますし、家庭の経済面が苦しい事は生活状況から隠し切れないまでも、わざわざ「毎月○万円の借金返済があって、うち利息率は○%」と具体的数字までこどもに理解してもらう必要性はないですよね。

 


あくまで例えですが、このように必要に応じて情報量を調整するということは、家族で社会でも営業でも普通に行われていることです。

 


何が言いたいかというと、「過去を振り返る=トラウマを含む人生の全てを扱わなければならない」という先入観をなくすこと。これとても大事かと思います。

 


生い立ちをふりかえると言っても0から100までの隅々まで詳細に思い出させる必要もないですし、実際24時間365日ビデオ撮影している訳じゃないので、どこまでいっても生い立ちを振り返る作業は、いまある情報と思い出せる記憶を切り貼りしてつなげたものになる、ということ。どこまでいっても。

 


それがストーリー(物語)構築のプロセスですし、もし今までに知らない情報が追加されれば、今までの情報に追加情報を取り込んで新たな人生ストーリーの再構築が起こるかもしれない。オルタナティブストーリーの構築ってやつです。

 


その中で、トラウマを想起するトリガーとなる話題を扱うのか、避けるのか。これはLSWに限らず、通常の面接でセンスのある人は相手の反応を見ながら何気なくやっていることかなと。

 


相手の反応を見て、際どいけどOKラインの質問をできる人もいれば、相手の気持ちや反応を気にせずに地雷を踏みまくっている場合もあると思います。

 


日常の人間関係の中でも、この人にこの話題はタブーだよ、みたいなことってありますよね。このことになるとスイッチ入っちゃって止められないというか面倒くさくなるみたいなやつです。

 


だいたい触れたくない話題になると、人は、「忘れた」「覚えてない」とか言ってみたり、口数が少なくなったり、ちょっと防衛するような仕草、目が泳いだり腕を組んだり、色々反応があるわけです。

 


そんな程度なら良いですが、地雷の中心を踏んでしまえば、穏やかに話していたのに急変して怒り出すことはめずらしくありません。(触れられたくない領域に侵入されて防衛スイッチが入り、別の人格パーツになっている場合もあると思います)

 


その相手のサインを、支援者がちゃんとキャッチして、どこまで踏み込むのか、留まるのか、話題を変えるのかコントロールしてあげる必要があります。

 


対話の中での、安全性の確保です。

 

 

 

 


LSWを検討する際、

 


「親から虐待されて、施設で暮らしていることを知ったら、こどもが不安定になりませんか?」

 


という質問はよくあります。僕の答えは、「そのお子さんは、どのように受け止めると思いますか?」です。

 


例えば、乳児期から里親宅で暮らし実親の存在を知らないこどもと、物心ついた時から施設で暮らし幼稚園の友達は父母がいる家に帰るのに自分は施設に帰っていくこどもとでは、その情報の意味やインパクトは全然違いますよね。前者と後者では、もともと抱えている疑問や準備性が全然違いますから。

 


また、虐待と言っても千差万別ですよね。どのような事が、どの程度どの頻度で起こっていて、その子にとって身体的精神的ダメージがどれ程残るものだったのか、そして現在の生活の中でどの程度癒されているのか。

 


そして、どのような情報をどこまで扱うのか。先程、借金の具合をどの程度こどもに知らせる必要があるのかと例を出しましたが、例えば「なぜ自分は施設で暮らしているのか?」という幼稚園児の疑問に対して、「あなたは養父から○年○月○日に、風呂場で○○されて、○○の箇所に全治○週間の怪我を負い」までの詳細な情報は要らないですよね。

 


こどものニーズは何なのか?

 


言い換えると、抱えているモヤモヤに対して何があれば、こどもの心や頭の中の霧が完全とまでは言わずとも少しは晴れて、次のステージに意識を向けることができるのか。

 


上の施設のこどもの例は、実親との別れについての疑問、それは喪失体験の消化、もっと言えば、曖昧な喪失についての未完結な感情を整理する過程の一部、ということになります。(曖昧な喪失の詳細は、第20〜30回コラム参照ください)

 


トラウマ体験の全てを直面化せず、喪失体験を扱うということですね。

 


例えば、親の病気による死別など、被虐待経験がなく単純養護と言われる児童のケースにおけるLSWに近い形です。

 

 

 

では、被虐待のトラウマを抱えた児童に対してトラウマ体験を直接扱わずに、喪失体験にフォーカスしたLSWで過去情報を補えば、過去と現在がつながって、「過去ー現在ー未来」の時間的な連続性が持てる、未来つまり自分の将来を肯定的に考えられるようになるか、と言えば必ずしもそうでもないんです。

 

 

 

じゃあ何で先程のような、トラウマ体験をやんわり扱って喪失体験にフォーカスしたLSWの話しをしたか、と思いますよね。

 

 

 

そのあたりは、また説明が長くなりそうなので、一回ここで切ります。

 

 

 

今回のまとめとしては、

・過去を振り返ると言っても、全ての情報を扱わなければないらないわけではない。

・LSWが検討される社会的養護児童の多くの疑問は親との分離や転居と言った喪失体験。

トラウマ治療ならトラウマにフォーカスするが、生い立ちの疑問なら喪失体験にフォーカスしたアプローチになる。目的に応じて、扱う情報の範囲と深度を調整する。本人の意思と反応を想定して尊重しながら。

・対話の安全性の確保が第一。本人の意思がない侵入的な話は再トラウマ体験となる可能性がある。

 

 

 

と言った感じでしょうか。

 

 

 

続きは、また今度に。

 

 

 

ではでは。