LSWのちょっとかゆいところに手が届く「まごのてblog」

静岡LSW勉強会の管理人によるコラム集

【第114回】トラウマインフォームドなLSWと自伝的記憶

皆さん、こんにちは。管理人です。

今年度も気づけば3月を残すのみ。

この季節は卒業式シーズン、施設の入退所も多くて、ひとつひとつの面接や行事に「LSW的要素」が満載だなと思います。

そんな3月のはじめに紹介する本はコレです。


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題名に「自伝的記憶」とある以上に、今回の内容は超超超超超超ちょー重要なんです。LSW的に。

これまで過去100回を超えるコラムは、今回のための前振りと言っても過言ではありません。
(本の初版は2013年。機が熟すまでblog紹介を温存していたのは事実です)


それは、第3部にある

『身体志向のトラウマ・ケアにおける自伝的記憶の「非」重要性』(福井義一)

のパート。


この内容、おそらくLSWで痛い思いをするケースのほとんどに当てはまるのではと個人的に思っています。


ズバリ言うと、「トラウマを抱えたケースは、簡単にトラウマを語らせたらいけないよ」ということです。


『あとがき』に、

心理療法という限られた専門領域の議論を中心としているが、専門家以外の読者も想定している

とありますが、LSW的に関わる全ての人と、心理以外の職種の方とも是非共有したい内容です。


順番に、本の内容を紹介しながらコメントしますね。




まず、本の冒頭から


〉トラウマ関連の障害や症状は、「こころ」ではなく「からだ」で起こっている認識が共有されつつある

〉トラウマの神経生理学や脳神経科学の知見が蓄積されつつある


多職種が関わる児童福祉業界では、まずこの前提を共有するのに時間がかかるかもしれませんね。

例えば、辛い記憶が当然鮮明に蘇ることを「フラッシュバック」ということは一般的な理解になりつつあると思いますが、それって気持ち的に怖くなると言った「主観的な気持ち」だけではなくて、心拍数が上がるとか、脳のどこどこが活性化してるとか、客観的な身体データで反応が裏付けされている、ということです。

児童福祉現場って、何か些細なきっかけで急に攻撃的になったり怒り出す大人や子どもって珍しくないと思いますけど、辛い記憶の鮮明な想起にまで至らなくても、過去トラウマ体験によって防衛モード、身体的な過覚醒状態にスイッチが入ったかなと理解できる場合が割とあります。これも「身体的フラッシュバック」と言えるわけです。


ということで、本書でもトラウマにおける「からだ」がフォーカスされるうちに、トラウマとなった出来事のエピソードを言語化することや、物語ることによって自伝的記憶のなかに統合していくことには、以前ほど比重が置かれなくなってきている、と説明されています。


その3つの理由をまとめると、こんな感じです。

言語化による再外傷体験を最小限にする
持続エクスポージャー法のように戦略的に馴化を促し再学習が完了するまで継続しない限り、想起して語ること自体に治療的要素は含まれない。溶けないボルトやナットを内出血しながら舐め続けるようなもの。

トラウマ関連症状を引き起こす元となった出来事を覚えているとは限らない
・回避、否認、解離などで覚えていない or 曖昧。
・虐待のような複数のトラウマ体験を待つ場合、どれが「原因」か特定できない and 言語獲得以前の早期のトラウマ記憶は通常は想起不可能。

トラウマ記憶が自伝的記憶に再編入されて統合されていくプロセスは、トラウマ治療の結果として自然に生じるものであり、トラウマ治療の手段ではない。


まず理由①③について。
言語化による再外傷体験が、その痛みに反して行為が報われることがない比喩として「ボルトを舐める」との表現。秀逸ですよね。

過去のコラムでは「トラウマを伴わない喪失体験のグリーフ(悲嘆)」の場合を取り上げていて、未完の感情の言語化を促すことで、飴玉が溶けていくように雪解けに向かっていくよ、という内容でした。ざっくり言うと。


ただ、トラウマを抱えている場合、簡単に語らせてはいけないよというアプローチの違いを「飴玉」のイメージを使って的確かつシンプルに説明してくれています。

本書でも何度も繰り返し説明されていますが、自伝的記憶の再編は「トラウマ処理をした結果起こること」であって、それ自体が目的にはならないと。



そして理由②について。
乳幼児期に複数の虐待体験がある場合って、社会的養護児童のほとんどが被虐待児である現代において、ほとんどのケースが当てはまりますよね。だから物語的なトラウマアプローチでは、現実、ほぼ手詰まりになってしまうんです。ホントに。

「単純養護ケース」と呼ばれる養育できる親・親族がいないために施設入所に至っている場合、会えぬ親の存在や関係性を模索する一般的なLSW、「喪失」や「曖昧な喪失」を扱うグリーフケアの考え方でLSWを構成していけばいいと思います。

しかしながら、「虐待ケース」として施設入所している場合は、トラウマのダメージを査定して、喪失のケアよりトラウマ・ケアを優先してLSW的支援を組み立てないといけないケースって割とあるんですよね。


また、理由③の補足説明部分になると思いますが、

自然な営みであるはずの自伝的記憶への編入が起こらないということは、それが起こらないだけの理由や背景があるはず

〉それをもたらしたのが、トラウマティックな出来事であるならば、そこから回復するために自伝的記憶への統合を促そうとするのはある種の堂々巡りに陥らないだろうか?

〉これが、伝統的な心理療法が直接トラウマ記憶を扱おうとして、失敗してきたことの一つの大きな原因であると思われる。


そうなんです。ある種「トラウマ記憶を語らないとトラウマは治療できない」みたいな誤解が広くあって、これってLSWでも陥りがちな落とし穴だと思うんです。

トラウマを含めた過去を全て振り返らねばならない、みたいな。

内容の繰り返しになりますが、回避も否認も解離も、その人が過酷なトラウマ体験から生き延びるための方法であって、その人がその人でいるために身体が本能的に選択した対処なんですよね。

なので、「トラウマ症状=悪」という単純なものではなくて、その症状を獲得するに至るプロセスは、その人が必死に生きてきた証とも言えるわけで、それはそんなに簡単に手放せるものではないし、それを手放すことへの不安、自分の生き方を否定されるようなショックは大いに尊重されなければいけないと、思うんです。


じゃあ、どうするかというと、トラウマ治療の基本的な段階を福井先生はこう本書で説明してくれています。


【トラウマ治療の五つの段階】

1)リソースの活性化
2)苦痛を伴うトラウマ記憶の再処理やトラウマ状態の完了
3)自己調整の回復(生理学的・身体レベルで)
4)トラウマ反応の渦中で学習・獲得できなかったスキルやスキーマの再学習・再獲得
5)ナラティブによる再統合
 →自伝的記憶を扱うのはこの段階。回復に伴って自発的に生じることもあれば、治療を振り返るセッションを設定して…その動きを促進することもある。…自伝的記憶の再統合まで至らなくても、過去・現在・未来という時間の流れに自己を位置づけるように支援することは重要である。
→これまでのトラウマ・ケアにおいては最初からこの段階に入ろうとしすぎていた嫌いがある。


つまり、順番がとても大事です、ということですよね。


また、

リソースの活性化はトラウマからの回復における最も重要なポイン

治療のプロセスの早期から自伝的記憶を再編成しようとすることには意味はない。そればかりか、再外傷化のリスクの方が高いだろう。


と本書では繰り返し強調されていますが、LSWに話題を戻すと、一般的なLSWって、「過去・現在・未来」をつなぐ取り組みってよく説明されますよね。

しかし、トラウマを抱える場合、いきなり過去を振り返るのはNGということになります。


僕自身、

「幼い頃に虐待を受けていて、LSWが必要なケースは、どう生い立ちを振り返ったらいいですか?」

と質問を受けることがこれまでにも何度かあるのですが、そんなときは、

施設(里親)での楽しい思い出とか、周囲の大人から大切にされてきた思い出から振り返るのはどうですか?」

とお伝えしています。

中には、

「え!? そんなことでいいんですか?」

と返された方もいましたが、意図としては「リソースの活性化」なんです。

リソースとは、日本語で「資源」と訳されますが、その人が持っている強みや、その人を支えている人生経験、良い思い出とか、そんな感じのイメージ。

あの時の担任の先生に優しくしてもらえたとか、友達と○○に遊びに行って楽しかったとか、誕生日の時のあのご飯が美味しかったとか、些細で当たり前と思えるようなエピソードでいいんです。

今現在の環境が、再被害を受けない安全安心な環境であるという前提で、その環境下での暮らしを振り返ることなら、フラッシュバックを起こすようなトリガー(きっかけ)に触れることはないだろう、という考え方です。

今回の紹介パートの著者である福井先生がどこかの研修で、良い思い出ランキングトップ10を題名だけ言ってもらって、それが出ないようなら「リソースの活性化」が足りないから、トラウマ処理に進まずにリソースの活性化に取り組む、みたいな話しをされていたような気がするのですが、

トラウマを抱えていなくても、僕がLSWでイメージする順番もまさに同じです。まずリソースの活性化。大切にされた思い出や周りにはたくさん助けてくれる人がいるよねと確認してから、過酷な喪失体験(親が亡くなったとか失踪してるとか)を扱っていきます。

まぁ、過酷な喪失体験もトラウマと捉える場合もありますけど、赤ちゃんから社会的養護にいる子どもの場合は、そもそも喪失体験すら経験しないまま、親の存在がブラックボックス化してますから。

真実告知のような自分の存在を揺るがす内容を聞いた時、やはり自分を支えてくれるのは、自分のリソースであり、周囲サポートだと思うんですよね。


そんなこんなで、結局はトラウマがあってもなくても「リソースの活性化」から始めるアプローチは似ているということになってしまうのですが、LSWで子どもに「過去を語る」ことを行う前に、トラウマのことを支援者のみんなで話し合えるようになれるといいな、と思います。

まぁ、「子どもが安全に語れるだろうか」という視点で話し合いや準備の一つにトラウマのチェックがあると言う感じですかね。

心理療法でトラウマを扱わないまでも、トラウマに配慮したLSWです。


そういう意味では、前のコラムで触れた児童相談所ソーシャルワーカーと心理が協働している日本の特殊性って、トラウマインフォームド的なLSWの取り組みを考える上で非常に有利だろうなと思うんですよね。

在宅時からトラウマのアセスメントをしつつ、トラウマに配慮した子どもへの施設入所説明、心理士視点でトラウマにも配慮した支援計画作成を、施設入所前からできるチャンスがあるわけですから。

もちろん施設の心理士さんがこのような役割を果たしてもいいでしょうし、児相と施設の心理士がそれぞれの環境で、それぞれの職場の他職種に対してトラウマ的な視点を提供したり、そのトラウマについて周囲への理解を求める点において心理同士が連携したり協力したり。

そうは言っても担当者による専門性やキャリアの差はありますから所属の垣根を超えて心理士同士が協働するなかで先輩心理から学ぶなんてOJT(オンザジョブトレーニング)的なことが起きるものありですよね。

僕も若手の頃は心理治療施設の先輩心理からケースを通じて色々学ばせていただきました。

なんてことも児相に心理がいるからこそ実現可能なんですよね。


そんな役割を心理職として目指していきたいですし、今後も果たせていけたら(気がつけば後輩に伝える立場になりつつありますし)ステキだなと思います。



また長くなってしまいました。

ではでは。