LSWのちょっとかゆいところに手が届く「まごのてblog」

静岡LSW勉強会の管理人によるコラム集

【第138回】支援者の気持ち

お久しぶりです。管理人です。

 


年度末から年度明けはバタバタでして。

 


なかなか更新もままならず…。

 

 

 

とりもなおして、

 


今年度もよろしくお願いします。

 

 

 

で、今回コラムは、

 


そんな年度末バタバタと並行して準備した

ある事例検討での出来事について。

 

 

 

あらかじめ言っておきます。

 


かなり愚痴っぽい内容です。

 

が、LSWにも、かなり通じる話しです。

 

 

 

おそらく、コラムを見ていただいている方は

対人援助職の方が多いと思うので、事例検討についての説明は不要かもしれませんが、

 


一応、事例検討会とは、

 


「こういう事例がありまして、

 私はこんなことを考えて、こう関わって、

 現在こうなってるんですけど、

 今後どうしたらいいと思いますか?」

 


的なことを第三者に客観的に聞いてもらい、

意見やアドバイスをもらう会をいいます。

 

 

 

僕の職種は心理士ですが、その日の検討会

の参加者の職種は「心理士」に限らず、

 


医者、施設職員、ソーシャルワーカー

教員(中学・高校・大学)、相談員など

 


幅広い分野の、幅広い職種の人が、その日は

オンラインで50人くらい集まっていました。

 

 

 

で、

 

 

 

僕の報告は、

 


親子で相談に来ている事例で、

 


大人は、

 


医者「継続受診の必要はない」

母親「子どもが望めば相談を続けたい」

 


こどもは、

 


「色々あったけど、今は大丈夫だし、

 困った時は、自分でまた連絡します」

 


と言って、相談を終了した事例でした。

 

 

 

 


すると、事例検討の参加者から、

 


「医者は継続受診の必要ないと言うけど、

 どこかの機関に関わってもらった方が…」

 


「私はよく、○○を紹介します」

 


という声が、割とたくさんあがったんです。

 

 

 

 


その光景、その空気感…

 

 

 

 


正直、すごく違和感を覚えたんですね。

 

 

 

 


事例検討会に限らず、相談現場においても、


「心配だから、とりあえず関わって欲しい」


という支援者の声は珍しくはありません。

 

 


では、

 

・心配だから

・関わってもらえると安心だから

 

という声の「心配」や「安心」は、


いったい誰の心配や安心でしょうか。

 

 

 


はい。

 

 

 

それは、当事者本人の気持ちではなく、


「支援者」自身の気持ちですよね。

 

 

 


もちろん心配をすることは悪いことでは

ありません。問題は「心配」の扱い方です。

 

 

 

心配とは、


「心配り」を音読して作られた和製漢語で、江戸時代から使われ始めた。 心を配る意味から、気にかける意味となり、気がかりで思い煩うことも意味するようになった。 気がかりで「心を支配される」の意味から、「心配」になった訳ではない。(語源由来辞典より)

 

 

とあるように、

 


「相手に心を配る」という語源だったものが、気がかりや不安な気持ちが「自分」の中

でいっぱいになるような意味合いで使われる

ことが増えてきている、そんな雰囲気や愚痴

っぽさが上の説明から滲み出てますよね。

 

 

 

もちろん僕がここで言いたいのは、言葉の

使い方が正しい間違っている、ではなくて、

 


支援者が「相手のため」と言いながら、実は

支援者側の不安に掻き立てられて、声かけを

していること、ありません?という事。

 

 

 


「専門家なのに、そんなんでいいのか⁉︎」

 

 

 

との意見は、実に正論だと思います。

 

 

 

ただ実際は、

 


支援者が対人援助職を選んだ動機があり、

「人を助けたい」気持ちが強い人ほど、

前のめりな支援を行ってしまいがちである

という現実が、現場にはあると思います。

 


例えば、病院に代表される一般的な相談は、

困った人が動機を持って相談に来るので、

支援者があれこれ勧めたり助言する対応で、相談関係が成立するという側面があります。

 


しかし、子育てや教育など人生相談的な

この方法を使えば万事解決といった唯一の

正解がないような分野の相談においては、

 


本人や家族は気にしてはいないんだけど、

周囲で関わっている先生や支援者は非常に

心配しているといった問題意識や認識のズレ

があるケースが結構ありますよね。

 


本来は、認識のズレがあることを前提に、

自分の心配を相手に伝えて、対話を重ね、

それぞれの考えが違うことを認め合いつつ、「確かに、そういう見方もアリだね」と、

相手にこちらの考えを受け入れてもらう。

 


そのような「心配」を共有するアプローチが動機が薄い相談者に対しては必要なのですが

その必要性や方法論は、相談業界の常識ですと言える程、広まってはいないかなぁ、と。

 


自分のアドバイスを受け入れなかったり、

返事をしながら行動が伴わなかったり、

相談に訪れなかったりする相談者に対して、

支援者側に湧き起こる失望や怒りの感情が、態度や雰囲気に表れ、相談関係に大きく影響

していることに無自覚な方は実際にいます。

 


そして、そういう人ほど、

「自分が言った通りにしないのが悪い」と

自分が相手に与えている影響を棚に上げて、

相談関係について他責的に認識する傾向が

あるような、そんな気がします。

 


また、良かれと思って色々やってあげると、かえって相手の経験値を削いでしまったり、

「あなたは、自分だけでは何もできない」

という無言のエンパワメントとは逆効果のメッセージとして受け取られている可能性があり、結果、自立の芽を積んでしまう危険性についての自覚も、支援者には必要な視点だと僕は思っています。

 

 

 

 


話しを事例検討会に戻しますと、 

 


そんな些細な攻撃性や過干渉的な雰囲気を、参加者のコメントの節々から感じたのです。

 

 

 

もしかしたら僕の杞憂かもしれないと、

知り合いの参加者にグループワークの様子を

聞いてみたところ、やはりそんな空気感は

あったようです。

 

 

 

この例で、僕が何を言いたかったのか、

もう皆さんは、お察しかと思います。

 

 

 

LSWの実施をめぐる、やり取りでも

似たような状況はきっとありますよね。

 


LSWがメジャーになってきたからこそ、

LSW実施することが目的やゴールになって

しまっていないか、考える必要があります。

 


もちろん、生い立ちや過去の整理をすること

自体は否定されるものではないですが、

その動機が「支援者自身の不安」がメインと

なっていて「当事者本人の希望、準備性」が

取り残されていることになっていないか。

 

 

 

支援者が、自身の感情に向き合い、自覚し、

感情をコントロールしながら立ち振る舞えるかどうかは、やっぱり難しいことだよな。

 

 

 

10年ぶりくらいに発表した事例検討は、

そんな現実をまざまざと見せつけられた、

そんな会でした。

 

 

 

ある意味、すごく勉強になりました。

 

 

 

 


ではでは。