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静岡LSW勉強会の管理人によるコラム集

【第28回】両価的感情を正常なものとみなす

メンバーの皆さま

こんにちは。管理人です。

気がつけば8月最後の週末ですね。皆さまいかがお過ごしでしょうか?

僕は昨夜、スシローweb注文とやらに初チャレンジしてみました。今の技術はすごいですね、スマホ画面が完全に「注文タッチパネル」になって、お持ち帰りの時間指定まで出来るんです。

お店に着いたら、週末恒例、子ども連れ家族の長蛇の列。店の外まで並んでいて、ホント回転寿司屋の人気はエゲツないですよね。待ち時間は1時間では済まないでしょう。

その列を颯爽とかき分けて、自宅注文から約20分でお寿司GET。並んでる子ども達には申し訳ないですが、非常に爽快な気分に浸れました。

おそらく、これが今年の夏、最後の思い出になりそうです。ちなみに回転寿司なら僕は断然スシロー派。どうでもいい情報ですね。

それでは、本題のコラムです。

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●目次
はじめにー喪失とあいまいさ

第I部   あいまいな喪失の理論の構築
第1章  心の家族
第2章  トラウマとストレス
第3章  レジリエンスと健康

第II部   あいまいな喪失の治療・援助の目標
第4章  意味を見つける
第5章  支配感を調整する
第6章  アイデンティティーの再構築
第7章  両価的な感情を正常なものと見なす
第8章  新しい愛着の形を見つける
第9章  希望を見出す


●内容
第7章「 両価的な感情を正常なものと見なす」より、「両価的な感情」「セラピー」「役立つこと」の3つについて紹介。

◆「両価的な感情」とは
~両価性は、…葛藤する感情や情動を示しています。あいまいな喪失の場合、相反する感情が、同時に、あるいは、揺れ動きながら表出してきますが、どちらの場合においても、その感情は相矛盾しています。二つの極端な感情に引き裂かれて、人々は不安に駆られます。そして、その不安感にうまく対処できない時、トラウマとなるほどのストレスに苦しむことになります。

~私たちが注目するのは、個人のなかに起きる心理的な両価性を作り出してしまう、あいまいさの外部の状況です。もし「あいまいさ」が認識されない場合、葛藤する感情は個人において、(配偶者、友達、そして家族との)関係生において、人々のレジリエンスをむしばんでいくのです。結果として起きる罪悪感や優柔不断さは、悲嘆を凍結し、対処していくプロセスや人間関係の動きなどを止めてしまうのです。

~私たちの愛する誰かが、身体的に、あるいは心理的にいなくなってしまう時、それに続いて起こる両価的感情は、当人を圧倒し、時として怒りの爆発や、不適切な行動につながる可能性があります。

レジリエンスがあるということは、このような相反する感情を認識することであり、そうすることにより、両価的感情を適切に扱うことができ、後になって後悔するような有害な行為を避けることができます。

~もし、両価的感情の負の側面が正しく認識されずに、扱われないままであれば、不安感は抗いがたく高くなり、問題を引き起こす状態になってしまいます。そのなかには、全般性不安障害パニック障害、強迫障害、PTSD、そして恐怖症が含まれます。

~両価性それ自体は病的ではありませんが、それに対処できない時、レジリエンスは崩れ、病的な兆候を表わすことがあります。愛と憎しみを同時に感じることこと、悲嘆から怒りへと行ったり来たりする状態は、もし、その二つの両極性が引き起こす緊張感を認め、うまく対処できなければ、人々にトラウマをもたらしてしまうことがあります。


◆セラピーで行うこと
~両価的な感情を正常と見なすことができるかどうかは、本質的には、人々が自分の中にある葛藤を認められるよう、治療的援助を提供できるかどうかに関わってきます。

~問題となっている現象に「あいまいな喪失」と名前を付けてみること、そして原因と思われることを外在化してみることは、両価性を正常なものとして捉えるプロセスの始まりです。

認知療法と精神力動療法(たとえば、関係精神分析)の両方によって、このプロセスを続けていくために必要な方法・手段が提供されます。信頼できる人と自主的に語り合うナラティヴ・アプローチは、意識れていないことや象徴的なものを意識化させていくのに特に効果があります。

~両価的な感情については、「このこととそのことの間で、気持ちが引き裂かれてしまうように感じますか」(Pillemer & Suitor,2002)と聞くことによって、直接アセスメントをすることができます。または、間接的に、質的な、あるいは精神力動的なインタビューを通して、アセスメントをすることもできます。

~しかし、どちらかというと私は、家族面接のなかでお互いに話されている物語を聞くことによって、両価的な感情の有無を見る方法を取りたいと思います(Boss et al.,2003)。

~様々なタイプのあいまいな喪失に関わる援助を数多く経験するなかで、トラウマ化しやすい両価的感情を適切に扱うには、個人セラピーや個人を中心としたアプローチを超えて治療方法を拡げる必要がある、という確信をますます強くしています。

~既に述べたように、感情焦点化セラピー、認知療法はどちらも役立ちます。それに加えて、心理教育的、認知的、精神力動的、そしてトラウマ・セラピーを組み合わせながら、家族と地域社会を基盤とした介入を加える必要があります。一人では、これらすべてをやりこなすことはできません。

~そのような訳で私は、ソーシャルワーカー、医師、心理士、精神科医との協働を勧めるだけでなく、聖職者や緊急事態に対処する職種の人たち(警察官や消防士)、地域の教育関係者などを含む、地域社会の重要な指導と共に、協働的な作業を構築していくことを勧めたいと思います。

~地域社会の準専門家たちも重要な存在であり、その人々が、行方不明者の家族支援の訓練を災害のない時に受けているのが望ましいでしょう。そうすれば、いざ災害が起きた時にすぐ支援に入ることができます。


◆両価的な感情を正常なものと見なすのに「役に立つこと」
罪悪感や否定的な感情を、普通に起こることだと捉える。危害を及ぼす好意に関しては、正常なものと見なさない/芸術やアートなどを使って、相反する感情に対する理解を深める/個人の行為主体性を取り戻す/
心の家族を、もう一度見直し再構築する/コミュニティを家族だと見なす/毎日の役割や日課の割り当てを見直す/置かれている状況や環境について、質問してみる/両価的な感情について聞いてみる/隠れた、意識されていない両価性を明らかにしてみる/いったん意識できたら、その両価的な感情に対処してみる/葛藤を肯定的に捉える/いろいろなやり方で、両価的な感情を扱うのをよしとする/終結は両価的な感情を軽減したりしないということを知る/緊張に耐える力を育てる/認知的対処の方法を用いる


●コメント
「相反する2つの感情を同時に持つ葛藤状態は正常なものである」という理解は、まずセラピーで相手に求める前に、支援者自身が自分の事として受け入れる必要があると思いました。

前々回コラムで、判断決断とは相反する2つの事象を天秤にかけて最適バランスを取ることではないか、という内容を書きましたが、葛藤を抱え続けられないので、自分のネガティヴな感情に目を伏せて、迷ったり考えることを停止して「スパッと答えを出すこと」が仕事であると思い込んでいる人って対人援助職に限らず少なくないと思います。

もちろん判断決断が必要な場面はありますし、最終的な「結論」は同じかもしれませんが、そこに至る検討プロセスが片手落ちであれば、当然その後の「対応力」つまりレジリエンスが全然違ってくることは言うまでもありません。

視点は変わりますが、アマチュア時代はただ楽しいだけでやれていたのが、プロや仕事になった瞬間、厳しさや様々な葛藤を抱えながらやっていかざるを得ないのはどの世界でも同じだと思います。でも、元々の正の側面を感じられなくなった人はきっと長続きしないと思いますし、両価的感情や葛藤を抱えながら進めることも専門性やプロフェッショナリズムの一つのような気がします。

しかしながら、
「両価的感情の負の側面が正しく認識されずに、扱われないままであれば、不安感は抗いがたく高くなり、問題を引き起こす状態になってしまいます」

の状態だろう支援者の方に出会う事って本当に珍しいことではありません。それは「こうあるべき」の正論をゴリ押しする人や白黒ハッキリしたい人、もしくは「いい子ちゃんでいること」「ダメな自分を認められない」人にこの傾向は強いと思います。

「両価性それ自体は病的ではありませんが、それに対処できない時、レジリエンスは崩れ、病的な兆候を表わすことがあります」

は、子どもやクライエントではなく、まず対人援助職のバーンアウト状況(落ちるだけでなく攻撃的になる状態にも含めて)を思い浮かべていただくと、他人事ではなくリアリティを持って想像できるのではないでしょうか。

そして、子どもに対するあいまいな喪失やLSWの扱いに関しては、大人側の「悲しいことを思い出させるのは可哀想」とか「ケロッとしているから、もう大丈夫」という一般的見解によって、子どもに両価的感情の負の側面が正しく認識させることへの抵抗が起こることは珍しくありません。

しかし、現実社会では「本音と建前」で言った言葉と思ってる感情は異なるなんて皆体験しているはずです。それなのに、なぜか対人援助になると「あの人はこう言ってますから」という言葉尻りや表面的な様子ばかり執われて、言動の裏に隠された心情に目を向けようとしない人が時々います。きっとそのような人は、自身の両価的で複雑な感情を正常に扱えない状態なんだと思います。

なので、支援や実践云々の前に「セルフケア」「自己覚知」が大切だと何度もコラムで取り上げているのは、今読んでいただいている方はご存知の通りです。


また、
「芸術やアートなどを使って、相反する感情に対する理解を深める」方法は"なるほど"と思いました。綺麗事では済まない人間のドロドロした部分を扱った芸術作品は多いですよね。

有る意味、芸術家は自身の複雑な感情や葛藤にトコトン向き合うスペシャリストで、その一般人とは外れた感覚感性をアートという形で解放し、理解や評価される機会を得ていると言えると思います。

しかし、芸術家と呼ばれる人たちは異才の中で光が当たったごく一部に過ぎませんし、芸術家や孤高の天才でも異才な感受性を持つがゆえの孤独感に苦しみ、悲惨な最期を迎えてしまう天才も少なくありません。

そして、我われ児童福祉分野で出会う子どもは常識の枠では収まらない感覚感性の持ち主が本当に多いと思います。対人援助職である僕らは、彼らの独特な奇抜な表現をアート作品を嗜むような枠に囚われない自由な感受性でもって、そこに含まれる複雑な感情をキャッチすることが求められるんだろうなぁ、と思います。

なので、絵画、音楽、映像その他ジャンルに囚われずに色んな芸術作品に触れて、自分の感性を磨く、感情への感受性を耕やすことって、とても臨床力を上げるんだと思いますが、なんでもかんでも仕事のため義務感だと苦しくなるので、「楽しいけど芸の肥やしにもなってる」「AでもありBでもある」といったリフレイミングによるお得感、自分の変化や成長を楽しめるマインドをいつまでも持っていたいですね。

おそらく「最終的には人間力だ」という話はこういう事を言わんとしていて、決して根性とか精神論ではなく、「理性と感性」「脳と身体」の両方を統合して駆使する生身の人間全体として感受性と対応の総合力みたいな話しなんだろうと思います。

そして、統合とは両極の中間バランスを取るという事ではなくて、中庸(どちらに偏りすぎるわけではなく、状況に応じて最適な位置を見いだす)という言葉で表されるような、どちらにも揺れ動きながら戻ってくる振り子になって両極を検討しながら最適ポイントを見つけるイメージを僕は持っています。

まぁ、ご察しの通り、こんなことをぐでぐで考えてblog発信してる僕も相当変な部類かと思いますので、皆さんの豊かな感受性でキャッチしていただけたら幸いです。

セラピーに関する部分も非常に興味深いですが、長くなったので、今回はこの辺で止めておきます。

ではでは。


【第27回】「チームを整える」長谷部誠

メンバーの皆さま

 
おつかれさまです。管理人です。
 
今週から、サッカー日本代表のテレビCMが一気に増えましたね。
 
そうなんです、2018ロシアW杯のアジア最終戦予選ラスト2連戦「8/31(木)オーストラリア戦(ホーム)」「9/5(火)サウジアラビア戦(アウェー)」が来週に迫ってるんです。
 
ちなみに、現在の最終予選Bグループの順位は、
1位  日本               勝ち点17  得失点+9
2位  サウジアラビア 勝ち点16  得失点+7
3位  オーストラリア 勝ち点16  得失点+6
 
と大混戦で、日本は上位2チームとの直接対決なんですね。
 
「1位2位→W杯出場決定!」「3位→北中米4位と大陸間プレーオフ(11月)」という条件なので、どの国も是が非でも2位以上をねらっているわけです。
 
パッと見、日本が一歩リードしているように見えますが、実は日本が二連戦を引き分け2つ△△だと勝ち点は19、一方、オーストラリアもサウジアラビアも「日本戦は△、残り1戦下位チームに◯勝てば勝ち点20」で2位以上確定という状況なんです。
 
つまり、日本は上位2チームに対して「1つ勝てばW杯出場」「1つも勝ち切れないと大陸間プレーオフに回るの可能性がかなり高い」という、絶対負けられないじゃなく、絶対勝たなければいけない戦いを強いられるわけです。
 
そうなると、先制点が極めて重要ですね。
 
 
…で、これはサッカーblogではないので導入はこの辺にしておいて、今回コラムは、少し前にTV見たインタビュー、
 
NHK総合「グッと!スポーツ」2017年8月8日放送
https://tvtopic.goo.ne.jp/program/nhk/1085963/1085963/ほぼ逐語レベルで紹介されています)
 
サッカー日本代表キャプテン長谷部誠の語りから。
 
 
長谷部誠の著書「心を整える」は有名ですが、やっぱり現静岡県民からすると、静岡県藤枝市出身で藤枝東高出身ということで、なんだか応援したくなります。
 
長谷部って気がつけば、もう7年間4人の監督から日本代表のキャプテンに選ばれてるんですね。その理由が垣間見れるインタビュー内容でした。
 
キャプテンの始まりは2010年南アフリカW杯。当時は岡ちゃんこと岡田監督。長谷部誠は当時について「26歳だったので、上の選手は僕がキャプテンやることをよく思ってなくて、監督に言いに行った人もいる」と振り返りながら、「監督と選手の間に入る人間が必要だった」と当時の役割を語っていました。
 
そして、日本代表という超個性派集団の束ね方について尋ねられた長谷部はこう答えています。
 
「日本代表になればみんな個性が強い、考え方も価値観も違うので、それを1つにまとめようとするのが間違い。いろんな価値観があっていいと皆が理解することが1番大事。お互いの価値観を尊重した上でしっかりと主張し合えばいい」
 
「そうミーティングの始めに言っておけば、それぞれやってる国もサッカー観も全然違うけど、不思議と喧嘩にはならない」
 
この話を聞いて、まさに異文化の対話、多職種連携そのものだよなぁ、と思いました。
 
また面白かったのが、藤枝東高校時代の話し。同級生に言わせれば当時の長谷部は全然キャプテンなんてキャラじゃなかったし、長谷部自身、高校当時は青山学院大学の渋谷キャンパスライフに憧れていて、正直、浦和レッズ時代もまだその延長的なチャラチャラした気持ちがあった、と語っています。
 
しかし、海外に行った頃から(2008年23歳からドイツでプレー)スイッチが入り意識が変わったと。
 
もちろん厳しい海外のプロの世界だからと言えばそこまでですが、現所属のフランクフルトでもキャプテン任され、日本人でありながら引退後もチームのフロント入りを求められているという報道からも、ドイツでの長谷部誠という人物の評価は、もはや単なるサッカー技術だけでないことは容易に想像できます。
 
きっと人種も文化も言葉も違った選手集まりの中で、監督もチームも変わりながら、日本代表で行なっている異文化交流の課題に、日々直面し幾度となく対応してきたのではないでしょうか。
 
多職種連携のコラム(第24回)の中で、
"コンピテンシー(Competency)とは「専門職業人がある状況で専門職業人として業務を行う能力」。「知識、態度、技能全てを含む包括的かつ永続的な能力」で、それは「もって生まれた能力ではなく、学習により修得し、第三者が測定可能」なもの。"
 
と紹介しましたが、多職種連携に必要なコンピテンシーが「生まれ持った能力ではなく」まさに「学習により修得し、第三者が測定可能」であることを、長谷部誠はサッカー人生をもって実証してくれている気がします。
 
そして、良くも悪くも人間には適応力があるので、ある意味「やる気スイッチ」を入れるためには、自分でやらざるを得ない環境に身を置くことも必要で、そこから変化や成長が生まれることも、改めて気づかされる番組でした。
 
長谷部誠33歳という年齢を考えると、サッカー選手としてのキャリアは終盤に差し掛かっていると思いますが、残りの現役生活、残りの日本代表での活動、そして引退後のキャリアをどのように歩んでいくのか非常に楽しみです。
 
まずはロシアW杯出場に向けて、ガンバレ日本代表🇯🇵
 

【第26回】アイデンティティーの再構築

メンバーの皆さま

おつかれさまです。管理人です。

それにしても今年はゲリラ豪雨が多いですね。まだ静岡県は晴れ間がありますが、東日本は雨続きで作物は冷害だそうです。

タイ米、備蓄米」と言うワードをニュースで久しぶり耳にしました。1993年、今から24年前だそうです。懐かしいですね。

当時、今思えばちょっとアスペっぽい小学校の同級生が、僕の顔が細長いから「タイ米タイ米」と1人でしつこく言っていたなぁ、というライフストーリーを思い出しました。

ふとした所に過去を思い出すキッカケがあるもんです。まさか約四半世紀の時を超えて、コラムのネタになるとは、人生どう繋がるかわかりませんね。

それでは、コラム本題です。

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●目次
はじめにー喪失とあいまいさ

第I部   あいまいな喪失の理論の構築
第1章  心の家族
第2章  トラウマとストレス
第3章  レジリエンスと健康

第II部   あいまいな喪失の治療・援助の目標
第4章  意味を見つける
第5章  支配感を調整する
第6章  アイデンティティーの再構築
第7章  両価的な感情を正常なものと見なす
第8章  新しい愛着の形を見つける
第9章  希望を見出す


●内容
今回は第6章「アイデンティティー再構築」より。言葉の定義、役立つこと、妨げるもの、の3つについて紹介。

◆定義
~エリック・エリクソン(1968)は、個人のアイデンティティーを、変化の渦中における自己の内面的連続性に対する明確な確信である、と定義しました。

~この定義づけにより、アイデンティティーは自己についての理論となりました(Elkind,1998)。しかし、あいまいな喪失の観点から見れば、アイデンティティーは関係性の概念と言えます。

~ここでのアイデンティティーとは、家族やコミュニティでの対人関係において、自分は何者なのか、自分の役割は何なのかについて、分かっていることだと定義できます。また、人は他者が自分をどう見ているのかをも踏まえて、自分を定義すると言えます。

~あいまいさから生じるトラウマは、自分は何者なのか、自分に何が求められているのかについて、明確に考える能力を阻害します。

~このような混乱はクライエントに責任があるわけではなく、むしろあいまいな状況によって発生していると言えます。


アイデンティティーの再構築に役立つこと(3つ)
①家族の境界線を明確にする
~家族とは誰のことを示すのか明確にする。誰が家族の一員で誰がそうでないのか/役割を再構築する/
ジェンダーや世代別による役割には柔軟に対応する/
以前のアイデンティティーを認識する/個人や家族が持つ多様な文化やアイデンティティーをもっと意識する/問題解決のために、家族のルールを拡大する/儀式やお祝い事に必要になる家族の役割や課題を見直す/再構築したアイデンティティーを示すために、シンボル(象徴)を使用する/追加された新しいアイデンティティーを表現するために、あたらしい言語を学ぶ/宗教上のアイデンテティーに起因する憎しみが世代間で継承されないようにする/家族内のアイデンティティー関わる隠し事を明らかにする。

②主要な発達上のテーマを選ぶ
~ジェノグラム(家系図)を通して、レジリエンスに関する家族の肯定的なテーマをはっきりさせる/不在の人がいても、これまで祝ってきた儀式を今いる人と共同で構築する/ジェンダーに関するテーマを探索する/人は時には安全のために自分のアイデンティティーを隠すということを知っておく。

③共通の価値観と物の見方を育む
~苛酷で不明確な条件下でも、スピリチュアルなアイデンティティーを育てる/家族内の価値観やアイデンティティーについて選択肢をみつける/この世の中は、常に公正公平にはいかないことを前提とする/絶対的な考えを持つのではなく、弁証法的な考え(AでもありBでもある)を手本にする。


◆あいまいな喪失によるトラウマの後に行われるアイデンティティー再構築を妨げるもの(5つ)
1)差別と烙印
~最も有害となるのは、人種や肌の色、性的志向、身体あるいは精神的障害、性、年齢、宗教、文化によって、烙印(スティグマを押され差別を受けている状態です。
~頭の悪いやつ、人気者、尻軽女、麻薬中毒者、おたくなどと、学友が決めつけて悪口を叫んだり、あだ名をつけたりすることで、その子のアイデンティティーを固定化しようとするかもしれません。
~このような烙印を押された人たちは、自分に対する周囲の見方、扱い方によって、自分自身のアイデンティティーを形成するにつれ、事態は悪化します。

2)強制的な移住
~人々が住み慣れた土地を後にする移住を強いられ、自分のふるさとや親戚縁者を置き去りにせざるを得ないような場合にも、アイデンティティーが試されることになります。
~ハーディーとラゾロフィー(1995)は、奴隷制度という長期間の支配により、自分のふるさとがどこなのか、だれが家族なのか調べていく中で遭遇した混乱や文化的アイデンティティーの喪失について執筆しています。

3)孤立と断絶
~人との繋がりは、レジリエンスのあるアイデンティティーを形成する手段となります。
~理想を言えば、人とのつながりには歴史と未来があり、それゆえ、若い時から年を取るまで、アイデンティティーの構築と再構築のプロセスを継続するなかで、自分自身を支えていくことができるのです。
~他者との肯定的な相互交流によって、私たちは自分の在りように自信を得ます。

4)一つだけの絶対的なアイデンティティーを手放さないこと
アイデンティティーの再構築プロセスは、その人や集団の歴史における連続性を保ちながら、変化を受け入れることを必要とします
~このことは、1つだけの絶対的なアイデンティティーという発想をあきらめることを意味しています。パズルのピースが全体を作るように、過去から現在までの自分に対する多数の見方を保つことは、レジリエンスを強めます。
~自分や家族の絶対的なアイデンティティーに強く固執しすぎると、その柔軟性の欠如がレジリエンスを妨害することになります。

5)変化に抵抗すること
~あいまいな喪失をなかったことにするような、ほとんど不可能な夢にしがみつくことは、変化を妨げることになり、その結果、レジリエンスが弱まります。
~あいまいな喪失後にアイデンティティーを立て直すためには、そのままの状態が続くことよりも、変化によって生じるストレスの方が、むしろ苦しみが少ないのだと信じる必要があります。
~多くの人が、スポーツや金融市場といった分野において、喪失(損失)と変化の秤にかける経験をしているのに、不明確な喪失の渦中で、役割やアイデンティティーをどのように変換すればよいかについて知っていると人はずっと少ないのです。


●コメント
最終的な「援助方法」については、これまで扱った「ナラティヴ」の繰り返しになるので内容紹介は割愛しますね。

それにしても、この章は「なぜ社会的養護の児童にLSWが必要なのか」その理由と方法について示唆が明確に書かれていて非常に参考になります。

まず、アイデンティティーについて。有名なエリクソンの理論は「自己について」であるが、あいまいな喪失の観点では「関係性の概念」だという指摘は、灯台下暗しと言うか「ハッ!」とさせられました。

アイデンティティーについて、
「家族やコミュニティでの対人関係において、自分は何者なのか、自分の役割は何なのかについて、分かっていること」「また、人は他者が自分をどう見ているのかをも踏まえて、自分を定義する」

という説明は、人間が圧倒的に社会的動物であって、他者という「映し鏡」があって自分を認識できるという、当たり前すぎて忘れていたことを久しぶりに思い出させてくれた気がしました。

周囲に合わせすぎて「本当の自分がわからなくなる」なんて言葉を聞きますが「立場・役割が人を育てる」という言葉もあって、結局、人間は周囲との相互関係の中で生きているので、「適応力」の観点からすると、場面や環境に応じて役割を演じている自分を含めて自分なんだと思います。意志を持って拒否する、周りに合わせない選択肢だってあるわけですから。

逆に、一度その集団の中で〇〇キャラみたいな「烙印(スティグマ)」が押されると、どんなに本人が頑張って変化しても、周囲の見方や評価が変わらず、その場にハマるためにはキャラ(役割)を演じざるを得ないという状況って現実ありますよね。ですから、環境を選ぶ変える事も、アイデンティティー再構築には非常に大事なファクター(要素)だろうと思いました。


また、
アイデンティティーの再構築に役立つこと①②③」は、羅列した項目1つ1つについて本書ではさらに詳しく書かれているので、興味ある方には是非直接みていただくことをオススメします。

その中から一つ挙げるとすると、「②主要な発達上のテーマを選ぶ」でジェノグラム(家系図)について触れられていますが、僕自身、子どもと一緒にジェノグラムを作成する面接を、割と関わりの初期に実施することが多く、その役に立つ効果を実感しています。

目的はLSWをするからではなく、正しい血縁関係を子どもに教えるためでもなく、その子自身の家族や親族についての認識、家族同士の関係性の認識、そして、いつから何人で暮らしている?その前は?引越は?と尋ねると、家族変遷に対する理解と認識、言語性や説明能力、状況把握能力が概ね分かるからです。

さらに、楽しげになったり口が重たくなる語りの様子で、その子のレジリエンスに関する家族の肯定的なテーマ」と「(積み残した課題がありそうな)主要な発達上のテーマ」のあたりが何となく付きます。

それらの情報は、その後の心理検査をどう進めるか、支援をどうコーディネートしていくかを考えるのに非常に役に立つし、ただ聞かれるよりも視覚情報があった方が子どもも想起しやすいのか、丁寧に聞けば例え知的能力が平均域以下であっても結構みんな昔話しを語ってくれるなぁ、という印象を持っています。


最後に、
「あいまいな喪失後にアイデンティティーを立て直すためには、そのままの状態が続くことよりも、変化によって生じるストレスの方が、むしろ苦しみが少ないのだと信じる必要があります」

の部分は、LSWにとって重要な指摘と思います。それは「現状維持のリスク」「変化を試みないリスク」について、あまりに一般的な理解が浅いと僕は思うからです。

このことについては経営から学べることが多いなぁ、と常々思っていまして、例えば、◯◯時代から続く老舗料理店だって、時代や嗜好の変化に合わせて味を微調整をしているし、セブンイレブンのおにぎりだってパッケージは同じでも飽きられないように味を常に改良しているし季節に応じて実は微調整しています。現状維持でチャレンジしない企業は市場で生き残っていけないんです、現実は。

それを、変化を求めて失敗したらどうするんだ、責任は誰が取るんだ、と内輪の関係性と自分の出世キャリアに泥を塗らないことを優先、文字通りの現状維持志向で問題先延ばしのうちに会社全体が共倒れ、一昔前には絶対潰れないと思われていた日本の大手企業の経営困難の話しなんて、もはや珍しくありません。ニュースになるのは氷山のほんの一角であって、日本のいたる所で似たような事って起こってると思うんです。

そこには、日本のチャレンジして成功することよりも、失敗や間違いをしない選択を社会的教育的に求める文化的背景も影響しているんだろうなぁ……と思ったのですが、アメリカ人の著者が

「多くの人が、スポーツや金融市場といった分野において、喪失(損失)と変化の秤にかける経験をしているのに」

とわざわざ愚痴っぽく書いているところを見ると、あいまいな喪失の支援に関しては、どうやら日本も欧米も大して変わらないのかもしれませんね。

言いたいことは、あえて「動かない」ことも「方針継続」することも決断して選択した1つの行動ということです。経営者やプロスポーツの監督なら、その選択で結果が出なければ職を失うわけで「そこまで考えてませんでした」じゃ済まされないんですね。

難しいのは、短期的な結果を求めつつ、長期的な成長への投資も見込まないといけないこと。天秤の最適バランスは状況によって違うだろうし、常にハッキリした正解がない中で判断や決断は求められるのは、企業でも個人でも同じかなと思います。

さらに、優秀な経営者について、日本証券業協会会長の鈴木茂晴氏インタビューより、

~「この人の判断はすごい。絶対間違わない」と言われるわけ。だけど傍で見ていると結構間違ってるんですよ。でも何がすごいかと言うと、間違えた時の処理がものすごくうまい。いつの間にか正道に戻ってる。人間なんだから全部が当たるなんてことはないですし、間違えることもあるでしょう。だから、大事なのはその時にいかに早く処理するか。

これは、当たり前だけど鋭い指摘ですよね。衝動性の高いADHDや空気読まないASDの人は、一般的には躊躇うこともポンと決められちゃったりしますけど、大事なのは、決断後の変化に伴う揺れを素早い対処で落ち着かせていく微調整。決断をただの「点」ではなくて「線や面」として責任を持ってマネジメントを続けられるかどうかだろうと。

ただのリスク回避ではなくで、リスクと共存しながら進んでいくこと、それをリスクマネジメントと呼ぶのだろうし、レジリエンスも通じるなぁと思いました。

「Don't think. Feel!」(考えるな、感じろ)

ブルース・リーの有名なセリフがありますが、変化のリスクを取れない人は、直観的に自分の準備性やレジリエンスが十分でないことを感じている、と言えるかもしれません。

思考停止して「何もしない」のは「恐怖でフリーズ」とも言えるわけで、直観的に危険と感じる感性を抑圧せず正直に受け止めることが第一歩なんだと思います。そして、逆にかえって考え過ぎても「不安で動けない」こともあって、バランスの取れた勇気のある決断には、理性と感性を偏り過ぎず両極をしっかり働かせることが必要なんだろう、と思います。

こう色々と考えると、
「あいまいな喪失後にアイデンティティーを立て直すためには、そのままの状態が続くことよりも、変化によって生じるストレスの方が、むしろ苦しみが少ないのだと信じる必要がある」

のは、言われればその通りかもしれないけど、誰でもすぐに出来る簡単なことではない気がします。

本書で繰り返されるように、支援者個人が専門家として、自分自身の価値観や感性と向き合いレジリエンスを高めたり見直すことは常に必要と思いますが、加えて、LSWでは支援者1人のレジリエンスで全てを抱え込む必要がないことも最後に強調したい、と思います。

全てのことに対応できる支援者はいませんし、誰でも初めてのことには不安がつきものです。ですから、支援者チーム全員が「変化によって生じるストレスの方が苦しみが少ない」と思えるように、経験者や先輩が経験の浅い方の不安も聞きながら「AでもありBでもある」ような柔軟な思考や価値観を持てるような話し合い、チーム全体のレジリエンスで子どもを包み込むような、レジリエンスのバトンを大人同士と子どもで繋ぐような対話がされるといいなぁ、と願います。

ではでは。

【第25回】支配感と無力感

メンバーの皆さま


おはようございます。管理人です。

世間は昨日がUターンラッシュのピークだったようですね。皆さま混乱はなかったでしょうか?

僕は、仕事移動で乗るはずだった路線バスが、普段30分に1本のところ、お盆ダイヤで1時間に1本に減っているという嫌がらせのようなアクシデントはありましたが、なんとかことなきを得ました。昼間の新幹線も思ったより混んでなかったですしね。

Uターンと言えば、今回でようやく本章の折り返し5章までたどり着きました。勝手に続けておいて何ですが、既に⑨になっている事に若干やりすぎじゃないか感を感じています。

でも、逆にここまで来たら全章1つ残らず制覇してやる!なんて少し意地になってる部分もありますので、しばらくお付き合いください。

今回はそんな(?)支配感にまつわるお話しです。

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●目次
はじめにー喪失とあいまいさ

第I部   あいまいな喪失の理論の構築
第1章  心の家族
第2章  トラウマとストレス
第3章  レジリエンスと健康

第II部   あいまいな喪失の治療・援助の目標
第4章  意味を見つける
第5章  支配感を調整する
第6章  アイデンティティーの再構築
第7章  両価的な感情を正常なものと見なす
第8章  新しい愛着の形を見つける
第9章  希望を見出す

エピローグーセラピスト自身について


●内容
今回は第5章「支配感を調節する」です。まずは言葉の定義から。

◆「支配」と「自己効力感、統制の所在」の違い
【支配】人生に対するコントロールの感覚。支配の表すコントロール感とは「源がなんであれ、それらの力の行使をコントロールすること」

【自己効力感】何らかの課題を遂行するために人が行なっているコトロールに焦点が当てられている

統制の所在】(locus of control
自分の人生に影響を与えている源を強調


◆支配感とあいまいな喪失のレジリエンス
~この章における大切な点は、人々の持つ標準的な、支配感が調節されないでいるために、その人の無力感か増していくということ

~支配感を過大評価、または過小評価してしまうこと、あるいは、時宜に適っていない支配感はレジリエンスを弱めてしまいます。

~この本で主眼を置いているのは、無力感という危険な状態は、しばしば私たちのコントロールの域を超えていることから引き起こされる点です。

セリグマンは、心身症的疾患が形成される要因の中でも、「環境的要因に降伏せざるを得ない」状況よりもむしろ、個人が「意志を放棄する」ことが最も影響力を持つことを見出しました(1992,p.184)。

無力感という感情によって変化への動機が阻害されるということです…個人が持つ将来のストレスへの支配感も、同様に阻害されてしまいます。なぜなら、セリグマンよれば、学習性無力感は、自分は有能であるという感覚に認知的な歪みをもらたすからです(1992,p.74)。


◆支配感を調節するためのセラピー
~トラウマを経験している人々にとって、自分が話したい相手、そして話をする時を選ぶことができることが重要となります。

~あいまいな喪失後の支配感を調節するには、ナラティヴの技法を用いることをお勧めします。

~物語を通して認知の再構成を行うことは、喪失後の問題解決、意思決定、役割を割り当てること、またそれらにどのような期待を持てば良いかなどを関係性のなかで行なっていくための良い方法となります。

~それだけでなく、ナラティヴの技法は、極めて必要とされる体験的側面、つまり、ナラティヴの視点を使うことで、トラウマや喪失後に関係した経験の意味を調節することができるのです。

~ディッカーソンはナラティヴ・アプローチを用いる時に、単に認知を扱うよりも広い視点を持つことを勧めており、「…つまり、人生の物語は、経験的であり意味を見出すという作業であるから、ナラティヴ・アプローチはそれほど認知行動的なアプローチではない」(2004,p.340)と述べています。

~私たちは、人々が語る物語のなかに、その人のレジリエンスや能力を示すようなサインがあるのではないかと耳を傾けながら、この人の過去の体験のなかにそのようなサインが垣間見られる場合には、それらを繋ぎ合わせてみることにより、その人は適切な支配感を持つことができます。

~物語や会話をしながら、個人や家族が持つ運命観や人生観を見極めることができます。

~語られる物語が、時機に適っていない支配への努力だったり、問題解決に固執しすぎたりしているなら、人々に、もし違う対処法が可能ならどのようにしたいと思うか、将来どんな風に同じ状況に際して対処できると思うかなどを質問して、新しい物語を語れるように援助することが有益です。

~ここでの主な目標は、適切な支配感を提示することであり、別の言い方をすれば、レジリエンスや健康を維持できるよう調節する能力が必要なのです


◆離別よりも、人との繋がりを増やす
~トラウマや喪失の後、愛する人と繋がっているという感覚は、その痛みから癒されていくなかで、中核をなしているものということができます。

~危機介入や悲嘆専門とするカウンセラーは、関係性のネットワークや被害者が既に持っている自然な社会的ネットワークをその支援に取り込む必要があります(Groopman,2004)。


◆援助的関係
~臨床家にとって大切なのは、クライエントが持つ見方、感じ方を尊重することです。

~すべてを知ることができない、目の前の状況を支配できない不快感は、専門家の訓練過程においてもほとんど話題にされていません。

~むしろ、私たちの訓練は治すことや癒やすことにあります。私たちがこの視点に固着すると、クライエントの痛みが取り去れないことは治療援助の失敗と捉えるしかなくなってしまいます。

~私たち自身についての学びこそ、支配感を調節する第一歩になります。クライエントの支配感の欠如に対してより共感できるようになるために、私たち自身の不完全さを認識する必要があります。


●コメント
キーワードは「無力感」ですよね。「意志を放棄する」とか自分は有能であるという感覚に認知的な歪みをもらたす」とか、よくLSWの対象としてイメージされるポジティヴな未来を描けない子どもと非常に重なる気がします。

そして興味深いのは、無力感を生みだす「支配感」の存在を全否定するわけでなく、支配感を調節して適切に"ほどほど"にするという視点です。

僕の理解としては「支配感」は、物理的な支配というより、極端に振れた精神的な「支配され感」and「支配できる感」というイメージを持ちました。

よく虐待関係は「支配ー被支配」関係と言われますが、虐待者から支配される関係はイメージに容易いと思います。しかし、そこから派生して、自分の人生や相手を支配できる感が強くなる→自分の思った通りにならないと気が済まない→自己中心的、というような支配側に反転する視点も大事な気がします。「支配ー被支配」関係の連鎖と言いますか、「無力感」と反対の「万能感」と言いますか。

とくに自然を相手にする産業やスポーツをやっている方は体験的にわかると思いますが、基本的に自然の前では人間の思い通りになんてならないことが普通ですよね。

しかし、それでは効率が悪いし不測の事態に咄嗟に対応できないので、予測可能な科学やテクノロジーで固められた現代社会で我々は生きてるわけです。日本の電車の正確さなんて世界的に見ても異常な位なのに、それがスタンダードになると、ちょっとしたダイヤの乱れや公共バスの数分の誤差にさえ不寛容になりますよね。

物理的な便利さの追求って表裏一体で、時間のコントロール感が高まる分、精神的な「支配できる感」を助長する側面もあるし、逆に物理的な便利さが実は精神的な「支配され感」が増しているジレンマ的な状況ってありませんか?最近で言えばSNSやLINEとか。

つまり、支配感を調節するとは「無力感」と「万能感」のバランス取りと言うか、「自分でなんとかなる部分もあるけど、どうにもならない部分もある」「AでもありBでもある」という視点や思考の柔軟性を持つ事に繋がるんだろうな、と。

例えば、旅行が計画スケジュール通りに進まないと気が済まないか、ふいのアクシデントも含めて旅行だと楽しめるか。冒頭で路線バスの話に触れましたが、仕事も人生もアクシデントなんて山程ありますよね。アクシデントにも適度に対応できるか、これが柔軟性であり、レジリエンスなんだと思います。

逆に言うと、支援に手がかかる人は、やはり思考が極端に振り切って柔軟性に乏しい事が多いなと思います。そして支援者は、そうすることで自分を守るしかなかったクライエントの歴史背景まで理解して対話を重ねることが、支配感を調節することに繋がると言うことを本章は言わんとしているような気がします。


あと、支配感を調節するために「ナラティヴ」「人との繋がり」「援助的関係」が挙げられていますが、

前回触れた第4章「意味を見つける」のアプローチ
①ナラティヴ・アプローチ
弁証法的アプローチ「AでもありBでもある」
③家族と地域社会のシステム的アプローチ

と内容は類似していて「相手・環境・自分」の価値観や影響ついて偏りなくバランス良く考えること、それらをお互いに影響を与え合う相互関係のシステムとして見ていく大切さを繰り返し強調しているのかな、と思いました。


最後に、テクニック的なことで言うと、
「問題解決に固執しすぎたりしているなら、人々に、もし違う対処法が可能ならどのようにしたいと思うか、将来どんな風に同じ状況に際して対処できると思うかなどを質問して」

ってサラッと書かれていますが、これって素人が簡単に出来る面接ではないです。書かれている内容と求められる質問テクニックは、SFA(ソリューション・フォーカスト・アプローチ)そのものに僕には思えます。

例えば、過去の「例外的に上手くいった状況」や「ちょっとマシだった状況」に焦点を当てて聞いたり、対処できている未来を想像させた質問の類です。

おそらく健康的で協力的な高齢者の回想法のように、だいぶ安全度とバランスが良い相手なら、SFA的な質問技法を使わなくても傾聴的姿勢さえあればナラティヴによる語りはスムーズに進むし、勝手に話も展開もしていくかもしれません。

しかし、クライエントの思考が偏っていたり柔軟性が乏しい場合、ただ傾聴的姿勢のみで聞くだけでは問題解決への固執を「そうそう」と余計に強化してしまい、クライエントが実は持っている別の視点への気づきに至らなかったり、クライエントに全然変わる気や資質がないという見立て違いが起こりうると思います。

そんな時、SFA的な質問技法は随分と役立ちそうな気がしています。どこかの章で著者は「SFAとは同義ではない」と述べてはいましたが、あいまいな喪失を扱うナラティヴ・アプローチと組み合わせて使うと効果的ではなかろうかと僕は思います。

僕も理解できてない時代は「ソリューションなんて難しそうな横文字使われても…」という抵抗感が正直ありましたので、別にSFAを知っているか使っているかに固執するつもりは全然ありません。

ただ繰り返し言いたいことは、
「問題解決に固執しすぎたりしているなら、人々に、もし違う対処法が可能ならどのようにしたいと思うか、将来どんな風に同じ状況に際して対処できると思うかなどを質問して」

って、サラッと言うほど簡単なことではないし、専門的な面接トレーニングを要するスキルフルな対応である、言うことです。特に、思考の偏りが強いASD的な人を相手にした場合には。

加えて社会的養護のLSWで考えた場合、そもそもナラティヴや面接が成立しないくらい低年齢だったり、中高生年代でも自分の考えや感情を語れる程の言語性や感受性が育っていない子の方が多いですよね。

なので、心理教育と呼ばれる「こんな状況に陥ったら、こうなりがち、こう思う人は結構いるよ」というお話しは、自分に何が起こっているか知る→意味を考えて見つけるプロセスを助ける重要な情報だろうと思います。

それを子どもにわかりやすく伝えるには、当然まず伝える側の大人が理解整理が必要ですよね。例えば、「生い立ちを知らない社会的養護の子ども」「忠誠葛藤」「トラウマ」「グリーフ」等の一般的な知識です。もちろん、子どもの年齢や能力を考慮したアレンジも含めて。

そして何より、普段の何気ない生活の中で「今日は何があった?」「楽しかったことは?」「元気なさそうだけど何があった?」など、「自分の経験」を感じて考えて語って「体験」として整理することを積み重ねないと、いくら心理教育や真実告知後をしたところで自分の語りや経験を整理して体験として腑に落とす所には繋がっていかないのは、言うまでもないと思います。

ですので、本書で言うように、まずは支援者自身の価値観や考え方にフォーカスして自覚すること重要で常に必要ではありますが、初級を超えて+α中級以降、次の段階ではLSWにおいても、支援者の聞く技術、質問の技術のトレーニングや研鑽ってやっぱり必要だし、支援者自身の知識の整理も必要だろうと思います。

当たり前ですが、支援者の聞き方や非言語の聞く姿勢、伝える内容と伝え方(これは上達に上限がない専門的スキルと思います)次第でナラティヴや対話の展開も全然違うものになるよなぁ、と想像します。

「最後に」が長くてすみません。

ではでは。


【第24回】多職種連携に必要な能力

メンバーの皆さま


おはようございます。管理人です。


お盆休み、いかがお過ごしでしょうか?


僕は昨日、朝から休日出勤だったのですが、電車の混み具合が凄かったです。久しぶりに静岡〜浜松の1時間15分オール立ちっぱなしでした…帰省ラッシュ恐るべしです。


帰りは帰りで、電車中に袋井花火大会行きの楽しげな浴衣姿で溢れてますし…そんな僕はコラムに現実逃避を求め、サクサク執筆が進んでしまったというわけです。


で今回は、仕事関連で「多職種連携」について調べていたら偶然見つけた、こんな報告から。


『医療保健福祉分野の多職種連携コンピテンシー』(2016)http://www.hosp.tsukuba.ac.jp/mirai_iryo/pdf/Interprofessional_Competency_in_Japan_ver15.pdf


序文に「この資料は、日本における医療保健福祉分野の多職種連携教育および実践における、職種を超えた共通コンピテンシーについて包括的に記載している」とあり、児童福祉やLSWのチームアプローチや多職種連携を考える上でも非常に参考になります。

 そして「この資料は無料で、その一部ないしは全体を査読、要約、複製、翻訳してよいが、商業目的で用いたり、販売したりしてはならない。使用時には適切に引用を行うこととし、改変した場合にはその旨がわかるように記載を行う…」とあるので、遠慮なく引用して紹介しようと思います。


僕なりに単純要約すると「自分の役割をしっかり自覚して全うして、異職種への理解を示し、協働のための対話を深める」といった感じですが、興味ある方は是非、原文で読んでみてください。


●内容紹介

◆日本における多職種連携の教育

まず「本邦での多職種連携教育は、未だ黎明期にある」とのこと。現状説明として「医療保健福祉の各専門職は、各自の専門性の確立と社会化に力点を置いた教育を受け、連携に関する教育内容や方法は軽視されてきた」「大学ではセクショナリズムが浸透し、他の学部と協働の学習機会を作ることは難しい状況が続いた」と単一の職業アイデンティティを高める(◯◯士の立場や地位を高める)教育や縦割り教育の弊害的状況が説明されています。

また「日本は高コンテクスト文化であり、 阿吽の呼吸が重視されるなど、チームと連携という概念の違いが顕在化していない」と本コラム的に言えば日本人の即興性に頼った日本の連携状況も指摘しています。


「そこで本プロジェクトでは、専門職の連携協働を円滑に進めるための能力のなかでも、特に協働的能力に焦点を当て多職種連携コンピテンシーを開発した」ということです。以下に説明を加えていきます。


コンピテンシーとは

コンピテンシー(Competency)とは「専門職業人がある状況で専門職業人として業務を行う能力」。「知識、態度、技能全てを含む包括的かつ永続的な能力」で、それは「もって生まれた能力ではなく、学習により修得し、第三者が測定可能」なもの。


また似た言葉コンピテンス(Competence)は「特定の文脈で、複数の領域あるいは行動(パフォーマンス)の側面を統合した能力」とのこと。


◆多職種連携能力のコア・コンピテンシー

Hugh Barr によると、多職種連携能力には 3 つの基盤となるコア・コンピテンシーがある 。(図は原文を参照)

①他の専門職と区別できる専門職能力(Complementary)。例:医師にとって診断や治療選択する専門能力。

②全ての専門職が必要とする共通能力 (Common) 。例:医療保健福祉に共通する価値観。患者や利用者へのコミュニケーション能力。

③他の専門職種と協働するために必要な協働的能力 (Collaborative) 。

Hugh Barrは「これらの3つの能力が備わることで、専門職間の連携協働が円滑に機能する」と。

そして今回の「多職種連携コンピテンシー」は、この中でも特に③に焦点を当てて、以下に説明する文化的背景を考慮して作成した、とのことです。


コンピテンシーの国際比較

・多職種連携コンピテンシーは「保健医療システムや文化的背景から国によって記載が異なる」とあります。つまり、文化的背景によりコンピテンシーで重要視される要素(言葉)の重み付けが違いがあると。

例えば、

〜カナダでは「協働的リーダーシップ」を一つの領域として用いており、患者/利用者中心の領域ではパートナーという言葉も使用され、英国ではパートナーシップという言葉が頻出する。一方、米国・オーストラリアではリーダーシップやパートナーシップという言葉はあまり使用されない。

〜「リフレクション (省察)」は英国とオーストラリアではみられるが、他国のコンピテンシーではみられない。

〜「患者・利用者中心」という言葉は国によって位置づけが異なっており、カナダやオーストラリアでは多職種連携の中核として位置づけられているが、それ以外の国ではコンピテンシーには含まれていない。「患者・利用者中心」をコンピテンシーに含まない国では、価値観や倫理という言葉で代用している可能性がある。

〜「コンフリクト解決」は、カナダおよびオーストラリアでは一つの領域として使用している。


そこで、日本では文化的背景を考慮してどのような言葉を使ったら良いか検討したというのが以下です。

◆日本におけるコンピテンシー

〜各国で共通して用いられている「職種理解」「コミュニケーション」は本邦のコンピテンシー領域でも中核を占める可能性がある。

〜プロフェッショナリズムの議論が進行中の日本で「専門職の価値観や倫理」という言葉を用いるか、「患者・利用者中心」という言葉を明示的に使用し、その中に連携の価値観や倫理を含めることにするかは議論が必要。

〜「チーム」という言葉は、大病院や在宅医療では、特定のメンバーからなる「チーム」より、専門職との流動的な連携が必要となる場面も多い。「チーム」と連携との相違が顕在化されていない日本では、そのまま「チーム」という言葉を用いてよいか、慎重な議論が必要。

〜「リーダーシップ」「パートナーシップ」「リフレクション (省察)」は、英語とその日本語訳とで意味やイメージが異なる可能性があるため、英語あるいはカタカナで表現するか、日本語表記を用いるか、 特にコンピテンシーの活用が期待される現場からの意見が求められる。

〜英国で用いられている「異文化理解能力」をコンピテンシーの一つとして用いることは、異文化理解という言葉が国際理解と同義で使用している場合もあるため、国際的な異文化理解だけを取り扱う能力のように誤解されてしまい、混乱を招く可能性がある。また、比較的単一⺠族と意識している日本の医療保健福祉職の中で職種の文化の違いで「異文化理解能力」を使用することの違和感も予想される。


そのような検討の上で出来たモデルがこちら。

協働的能力としての多職種連携コンピテンシーモデル(図は原文を参照)

● コア・ドメイン(中心・核となる領域)

患者・利用者・家族・コミュニティ中心: Patient-/Client-/Family-/Community-Centered

患者・サービス利用者・家族・コミュニティのために、協働する職種で患者や利用者、家族、地域にとっての重要な関心事/課題に焦点を当て、共通の目標を設定することができる。

職種間コミュニケーション:Interprofessional Communication

患者・サービス利用者・家族・コミュニティのために、職種背景が異なることに配慮し、互いに、互いについて、互いから職 種としての役割、知識、意見、価値観を伝え合うことができる。


○ コア・ドメインを支え合う 4 つのドメイン

職種としての役割を全うする:Role Contribution

互いの役割を理解し、互いの知識・技術を活かし合い、職種としての役割を全うする。

関係性に働きかける:Facilitation Relationship

複数の職種との関係性の構築・維持・成⻑を支援・調整することができる。また、時に生じる職種間の葛藤に、適切に対応することができる。

自職種を省みる:Reflection

自職種の思考、行為、感情、価値観を振り返り、複数の職種との連携協働の経験をより深く理解し、連携協働に活 かすことができる。

他職種を理解する:Understanding for Others

他の職種の思考、行為、感情、価値観を理解し、連携協働に活かすことができる。 



●コメント
まず「コンピテンシー」という言葉が見慣れないので、途中で「あれ?どういう意味だっけ」と何度も見返してしまいました(苦笑)

それにしても、国や文化的背景により多職種連携を遂行する力(コンピテンシー)の要素の重み付けが違うというのは非常に興味深いです。

まぁそうだろうな、と想像的には思っていましたが、「連携」や「チーム」の概念の文化差について、このような報告書を僕は初めて見たので、とても面白かったです。

結論的には「多職種連携コンピテンシー」って、文化的背景を考慮した自己理解と他者理解、お互いの価値観を尊重した異文化交流?正直、読んでる途中から「今までコラムで取り上げてきた事と同じだよなぁ」と思いました。

ということは「あいまいな喪失」や「未完の感情」へのケアやレジリエンスの理解を深めると、結果的に「多職種連携を遂行する力(コンピテンシー)」も高めることになりそうですね。これは、なんだかお得な気分になる情報です。

クライエントであれ、異職種であれ、違った文化や文脈を持った人と対話交流していく点においては共通しているので、当たり前と言えば当たり前ですけど。

近接境域の医療保健福祉分野で、あれだけの数のドクターが集まったプロジェクトの中で、コラムと似たような事がきちんと真剣に議論されていると思うと、非常に励まされますし、同時に同じような視点を持つ人が他にいることに安心しました。


●ちなみに
紹介したプロジェクトのスライド(春田、2016医療推進協議会)もウェブに上がっています。
報告書にない情報も若干載ってますし、僕みたいな視覚優位の方にはわかりやすくてオススメです。

ではでは。

【第23回】「意味を見つけること」と「少数派」

メンバーの皆さま

おはようございます。管理人です。

台風も過ぎて、昨日から陽射しが痛いですね。

熱中症や日焼け過ぎにお気をつけください。

いよいよ第II部のコラムです。

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●目次
はじめにー喪失とあいまいさ

第I部   あいまいな喪失の理論の構築
第1章  心の家族
第2章  トラウマとストレス
第3章  レジリエンスと健康

第II部   あいまいな喪失の治療・援助の目標
第4章  意味を見つける
第5章  支配感を調整する
第6章  アイデンティティーの再構築
第7章  両価的な感情を正常なものと見なす
第8章  新しい愛着の形を見つける
第9章  希望を見出す

エピローグーセラピスト自身について


●内容
今回は第4章「意味を見つける」。この章は、人生を扱うLSWを考えるうえで大事したい視点が満載です。全部は紹介しきれないので一部を抜粋します。

〜意味があるとは、出来事や状況を理解できるということです  〜自分が体験しているものを理解できている時に、人間の体験は意味のあるものとなります。

〜あいまいな喪失では、問題はあいまいなものとしてラベルづけされます。このあいまいさは認知を遮断し、対処過程を麻痺させます。そうなれば、自分が何を体験しているのか、自分が感じている両価的な感情が何なのかが理解できなくなることは自然なことです。

〜個人の持つ意味を理解するためには、内と外の両方の文脈を理解しなければなりません  〜認知は、客観的なデータだけでなく、主観的経験に影響を受けるので…

〜客観的真実がすべてであるというような独断的な姿勢を取るのではなく、何が起こったかについての各人の捉え方を明らかにするために耳を傾け、夫婦や家族の中で起こっている意見の食い違いがないかに注意します  〜捉え方と主観的な意味に焦点を当てることで、介入の窓が開かれるのです。

〜日常の知(everyday knowledge)はセラピストとクライエントにおいて同じく共有され、保持される。通常の日常の知は、レジリエンスの指標になります。しかし、こうした日常の知は、専門家の間では重視されないことが多いのです  〜私たちはクライエントの物語を聴き、彼らの相互作用を観察し、彼らと自分たちの感情に注目することで、多くを学べるということです。

〜クライエントが私と異なった見解を持っている場合には、私の信じるところを述べるとともに、当人が信じることにも価値を置くようにしています。少なくとも治療の目的に照らせば、セラピストの信念や価値観よりも、クライエントやスーパーヴァイジーに対してセラピストがオープンで率直であることのほうが重要なのです。


意味を見つけるためのセラピーの3手法と指針
【手法】
①ナラティヴ・アプローチ
・心理教育的アプローチは、出来事の受け止め方を変えることを促すために利用できます。しかし究極的には、ナラティヴ(物語)を集団で共有することが、人々が意味を見出すうえで助けになります。他者との関わり、新しい見方や変容を他者から促されることで、クライエントは柔軟性やレジリエンスを培います。

弁証法的アプローチ
・あいまいな喪失に直面している家族と治療的に取り組む際には、「AでもありBでもある(the both / and)」のアプローチが不可欠です。
・「AでもありBでもある」の思考によって、脳死状態で人工呼吸器に繋がれている愛する人が、亡くなっていると同時に、生きているという事実をより容易に理解できるようになります。

③家族と地域社会のシステム的アプローチ
・困難な時には、家族やその成員が日常の活動を続け、問題解決を助けるというのは、そもそも地域社会というものが前提なのです。
・地域社会の枠組みは、家族と個人の出来事の捉え方に影響を与えます。意味が共有されれば、人々はあいまいさや不確かさによるストレスに、より容易に対処できます。コミュニティ・アプローチは、つらい時期に人々が力を維持することを手助けするものなのです。

【指針のごく一部】
▶︎苦しみを避けられないものとして捉える
〜この方法には注意が必要です。〜治療可能かもしれない疾病である場合や、治療や介入によって改善される可能性のある状況においては、クライエントの苦しみに、ポジティブな光を当てることで組み立て直すよう援助することは助けとはなりません。その状況が変容可能かどうか判断することが重要です。苦しみを避けられないものとして組み立て直すようクライエントに手助けするのは、本当に不可避でケアも解決もできない状況に限られます。

【まとめ】
レジリエンスにとって最も重要な鍵は、二つの反対の考え方を同時に持つ能力にあります  〜あいまいさのなかで意味を見つける能力には、システム的な「AでもありBでもある」のアプローチが求められます。

〜臨床家として、私たちは個人的体験からだけでなく、自分の専門的な仕事から、自分の捉え方や意味を学ばなければなりません  〜あらゆる問題に解決策が期待されるこの時代にあって、クライエントと同様に、私たちセラピストもまた、不明瞭さとあいまいさのなかで意味を見つけることと格闘しているのです。


●コメント
レジリエンスの指標や鍵として、
「二つの反対の考え方を同時に持つ能力」
「日常の知(everyday knowledge)」
が挙げられていますが、これってLSWに限らず対人援助に携わる者に共通して求められる基本的な姿勢ではないか、と思います。

「セラピストの信念や価値観よりも、クライエントやスーパーヴァジーに対してセラピストがオープンで率直であることのほうが重要なのです」

この言葉が全てを言い表している気がします。

偏り過ぎず中立的に、中庸な精神で、自分と相手の中で起こっていることを正直に感じて、真摯に向き合う姿勢。そして、そこでの「気づき」を好奇心と新鮮さを持って受け取る感性と、それを他人に正直にオープンに伝えられる誠実さ。

静岡LSW勉強会の対話のコンセプトそのものです。

この章を読んで、今までのコラムでこねくり回して表現していたものをズバッとシンプルに言われたような感覚に陥りました。


あと、
「改善される可能性のある状況においては、クライエントの苦しみに、ポジティブな光を当てることで組み立て直すよう援助することは助けとはなりません」

は非常に重要な指摘です。

これには僕も痛い経験がありまして、かつて遠方にいる疎遠な親がどうなっているか知りたいという子がいました。住所はあるが郵便の応答もなく、住居の管理人もしばらく会えていないと。LSWでは割と起こりうる展開と思います。

当時、手続き的に親の同意を取るような事案もなく空ぶる可能性が高い遠方の出張は認められないという事で、児相からは時折管理人に連絡するのみで直接様子を見に行く事がありませんでした。

すると、施設職員が県外研修で近くに行った際に、たまたま住所地を訪問したら親に会えたんです。それ以来ずっと「児相は何もしてくれない、行ってくれなかったじゃないか」とその子は言っていました。こんなオチも「LSWあるある」かもしれません。

本文の繰り返しになりますが、やる事は何でもやって手を尽くしたけど「どうしてもハッキリわからない」場合に限って初めて「あいまいな喪失」になります。

そして、その状況が変容可能かどうかの判断が十分になされているのか、出来うる対応や手続きが行われたのか、そのプロセスを当人と共有することが重要だし、一方的に伝えることではなくその共有プロセスこそLSWなんだと思います。

しかし、プロセスを共有するためには、まずプロセスを踏むことを可能にしなければなりません。

「AでもありBでもある」考え方で見れば、「空ぶる可能性が極めて高いと分かっている&切迫した必要性がない出張」は昔問題になった「カラ出張」と構造はそっくりなのです。つまり、そこに税金が投入されることに明確に正当性を説明できなければ、監査でどのようなことになるか想像にかたくないですよね

税金とは「全体の利益」で、社会的養護の支援は「個人のマイノリティの利益」なんです。そして、少数派意見は多数派の理屈論理に容易く飲み込まれてしまうものなのです。

正直、当時の僕は、多数派の立場や理屈をわかった上で、少数派の立場を説明し理解してもらう程の言葉も知識も気づきも勇気も持ち合わせていませんでした。

ちなみにLSWがどのくらい少数派マイノリティかというと、H29年7月時点で

・日本の18歳以下の児童数は約2000万人(総務省
・社会的養護の対象児童は約4万5千人(厚労省

なので、社会的養護児童は日本のこどもの約0.2%、さらに日本でLSW的支援を受けている社会的養護児童はおそらくその内の1割〜2割程度。ある子の言葉を借りれば「超超超超スーパーウルトラハイパー」少数派への支援なんです、一般事務から見たLSWは

在宅児も考えて虐待通告が日本で年間10万件、さらに通告に至らない離婚再婚のステップファミリーがその10倍いると見積もって100万件にしても児童全体のたった5%に過ぎません。

残念ながら少数派マイノリティの体験や不遇は、大多数の人は経験してないし、自分の世界とは遠い映画や漫画のファンタジーのようなお話です。

地域に児童養護施設がある学校の「1/2成人式」への配慮ですら、基本的には赴任してきた校長先生や学年主任の先生など個人裁量に大きく依存していると思います。まして地域に施設がない学校では、被虐待やステップファミリーの相対的少数派の子どもが抱えている葛藤なんて大人は想像すら及ばないし、少数派擁護のために全体を変えようなんて心意気のある人はそうそういません。

しかし、少数派に寄り添う支援者の「分かってもらえない体験」なんて、マイノリティ当事者、人種や民族問題だけでなく、周りの人と自分は違うという想いを持った全てが体験しているものに比べたら微々たるものというのは想像に難くありません。

ですから、普通と呼ばれる多数派の人に理解してもらうためには、体験的としては共有できない前提で、いかに相手に理解してもらえる文脈にアレンジして、丁寧に何度も何度も説明を繰り返していく必要があるんだろう、と思います。

「臨床家として、私たちは個人的体験からだけでなく、自分の専門的な仕事から、自分の捉え方や意味を学ばなければなりません  〜クライエントと同様に、私たちセラピストもまた、不明瞭さとあいまいさのなかで意味を見つけることと格闘しているのです」

マイノリティに寄り添うということは、マイノリティと「共に」意味を見つけ、「共に」発信していくことを意味をしているのではないかと思います。

また、マイノリティは多様性の象徴であり、マイノリティがマイノリティであり続ける事の意味もあると僕は思います。

公務という全体に奉仕する立場にありながら、マイノリティの支援をする。「全体」と「マイノリティ」が権利や利益を争うのではなく、共存するような最適バランス、動的均衡の形を目指して、架け橋になるような臨床活動や対話をしていかねばならないなぁ、など色んな「意味」について考えさせられる章でした。

長くなりました。

ではでは。




【第22回】主観的な時間感覚の違い

メンバーの皆さま

 

おつかれさまです。管理人です。
 
なかなか激しい台風が来ていますね。電車が止まらないうちに早めに帰宅しております。皆さまもお気をつけ下さい。
 
ところで表題の、

というEテレの番組ご存知でしょうか?
 
ちなみに僕は「デンゼル・ワシントン」と「モーガンフリーマン」がごっちゃ混ぜになっていて、しばらく番組名が思い出せませんでした(苦笑)
 
偶然ぼ〜っと観ていた、約一年前の回
「時間は存在するのか?」 (2016/6/10放送)
 
が非常に印象的で、また「モーガン・フリーマン」が思い出せなくなる前にコラムにさせて下さい。
 
 

この番組では色んな学者から「時間」の紹介があったのですが、印象的だったのは「主観的な時間の長さ」について。

 

よく「歳を取ると時間が経つのが早くなる」なんて言いますけど、番組によると√x倍」早くなるそうなんです(ルート・平方根って懐かしいですよね)。

 

具体的な数字にすると、

 

√2=1.414…、√3=1.732…、√4=2、…

√9=3、…、√16=4、…、√25=5、…

 

こんな感じです。

 

例えば、4歳を1とすると、

8歳→1.4倍、16歳→2倍、36歳→3倍、56歳→4倍、

時間の過ぎるスピードが速くなる、と。

 

児童福祉に置き換えると、月1で定期面接しても、幼児の1ヶ月の体感長さは、大人感覚の3〜4倍(3〜4ヶ月)に相当するわけだから、子ども視点では「全然来てくれない」感覚になるのは当然ということです。頑張って週1で会ったって「大人の1ヶ月くらい」間が空いている感覚なんです、子どもにとっては。

 

なんとなくを具体的数字にされると、リアリティが増します。

 

 

そして番組で、これを科学的に説明していたのが、神経科学者のデイヴィッド・イーグルマン。

 

詳しくは、いいサイトがありましたので、

https://www.lifehacker.jp/2013/07/130716daylonger.html

を参照いただきたいのですが、

 

要約すると、主観的な時間感覚は、脳が様々な情報を処理するプロセスの長さに影響されると。脳がそれほど多くの情報を処理する必要がない場合は、時間が早く流れるように感じ、逆に注意力が高まる状況、極端に言えば生死にかかわる状況に置かれると、脳内で記録する情報がいつもよりも多くなるため、その時間は実際よりも長い時間として記憶される、らしいです。また大人が時間を早く感じるのは、日常生活が馴染みのある情報で囲まれているからで、逆に言えば、新しい情報や新たな発見にたくさん触れている人は、体感する1日が長くなると。

 

 

なんとなく一流アスリートが体験する「ゾーン」、例えば野球でボールがスローモーションに感じるような状態とも通じる話しかもなぁ、と思いました。

 

逆に、苦しい時間は、たった数分でもとてつもなく長い時間に感じた体験って、誰しもあるのではないでしょうか。ライトな例だと、サウナに入った体感時間と実際時間のギャップとか。

 

この事から思うのは、虐待的環境下で暮らしていた子どもの主観的時間の長さは、決して時計の客観的時間の長さと一緒に考えてはいけない、ということです。

 

そして、年齢が低ければ低いほど体感的に感じる時間が長い→その後に残るダメージや及ぼす影響も大きい可能性がある、ということです。

 

LSWで過去を振り返る場合でも、低年齢になればなるほど当人の記憶は薄く、言語化できる体験は少なくなっていくと思います。

 

しかし、当人の体感時間の長さはむしろ逆で、語れない時代にこそ、同じ一年でもたくさんの主観的時間と主観的体験が詰まっている、ということを忘れずに思い巡らせて面接をしなくてはいけないな、と番組を観て以来より思っています。

 

 

箸休め的な番外編コラムでした。

 

ではでは。