LSWのちょっとかゆいところに手が届く「まごのてblog」

静岡LSW勉強会の管理人によるコラム集

【第21回】レジリエンスの「多様性」と「柔軟性」

メンバーの皆さま

こんにちは。管理人です。

それにしても暑いですね。今日は夏休みを取って、各種申請手続きで市内を巡回してます。

休憩中に、コラムを一つ。

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●目次
はじめにー喪失とあいまいさ

第I部   あいまいな喪失の理論の構築
第1章  心の家族
第2章  トラウマとストレス
第3章  レジリエンスと健康

第II部   あいまいな喪失の治療・援助の目標
第4章  意味を見つける
第5章  支配感を調整する
第6章  アイデンティティーの再構築
第7章  両価的な感情を正常なものと見なす
第8章  新しい愛着の形を見つける
第9章  希望を見出す

エピローグーセラピスト自身について


●内容
今回でようやく第I部終わりです。第3章「レジリエンスと健康」。まずは本書における言葉の定義から。

◆言葉の定義
『健康』
・個人が身体的、情緒的かつ社会的に満たされた状態

『個人のレジリエンス
・ストレスの観点では、人生のプレッシャーや重圧に対する伸びたり、または曲がったりする能力
・危機が生じた場合、危機の前と同等もしくはそれ以上の機能レベルまで回復する能力
・あいまいな喪失がある時、個人のレジリエンスは、あいまいさと共に安定して暮らせる能力に依存します。そしてこの安定して暮らす力は、あいまいさに耐えるだけでなく、現在と将来にわたりあいまいさとうまく付き合って生きること力に依存します。

『家族のレジリエンス
・新しい用語であり、家族のストレス・マネジメントと予防に根ざしています。
・「今現在、そして時間の経過のなかで、家族がストレスに直面した時にそれに適応し、成長する時にたどる道筋で有り、レジリエンスのある家族は、独自の方法で状況にうまく反応する。その方法は、文脈や、発達段階、リスク要因と防御要因の相互作用、家族が共有している見解などによって異なる」(ハーレイ、デハーン、1996)

~すべての人が同じ方法でレジリエンスを獲得するわけではない

~研究のなかでは、レジリエンスは個人と家族の両方の現象であると提唱されています。こうした理由から、私は、個人およびその家族に注意を払うようにしてきました。


続けて、レジリエンスの「重要なポイント」と「注意点」について

◆重要なポイント(ボナーノ、2004)
1. 『レジリエンスは回復以上のものである』
レジリエンスがあるということは、単に精神の病理がないという以上のもの~レジリエンスは危機後の回復の一部ではありません。それよりむしろ、レジリエンスの大部分は、再生していく成長や肯定的な感情を伴った連続性のある健康の機能だと言えます。
~このような様々定義が臨床家にとって意味することは、すべて人が、あいまいな喪失の後に、同じ介入を必要としているわけではないということです。

2.『 レジリエンスは私たちが考えていたよりももっと一般的なものである』
~悲嘆に対応するセラピストは伝統的に、喪失後の悲嘆の過小反応と、過剰反応の両方を病理と見なして治療するトレーニングを受けてきました。一方、トラウマの相談・治療を行うセラピストは、反応が軽度か極端にかかわらず、否定的な反応にのみ焦点をあてるといトレーニングを受けてきました。どちらの場合も、レジリエンスは見過ごされてきました(もちろん例外はあります)
~病理を焦点化するという古典的なやり方は、恐らくボウルビィ(1980)の影響であろうと思われます。ボウルビィは喪失後に見られる肯定的な感情表出を防衛的否認と定義しました。
~実証研究からは、以下のことが明らかにされています。「対人喪失による動揺に対してレジリエンスを示されることは稀ではなく、一般的に見られることである。このようなレジリエンスが存在することは、病理性を示すのではなく、むしろ健康的な適応を示すものと考えられ、レジリエンスがあることで遅延した悲嘆反応が引き起こされるのではない」(ボナーノ、2004)
(色々な説明)~このことから、喪失やトラウマを経験しても否定的な感情を示さない人についてボウルビィの考えが間違っていたことが分かります。

3. 『レジリエンスへの道筋は多数あり、予測できないものである』


◆注意点
レジリエンスを維持していることが、いつも望ましいわけではな
~例えば、虐待や不法行為の場合には、反撃することや、根本的な変革を主張すること、危機に踏み込むことが我慢し続けるよりもよい時があります。そのような場合には、順応し続けることを否定するよう促さなければなりません。

レジリエンスに焦点を当てるにしても、私たちは、医療的ケアや精神科での治療を必要とする症状にも注意を払わなくてはいけない

レジリエンスを築くセラピーは「強みに基盤を置いたアプローチ」と呼ばれますが、それは解決志向的セラピーとは同義ではありません。あいまいな喪失がある時、私たちのセラピーの目標が解決(solutions)を生み出すことであるべきことだと、私には思えません。


●コメント
レジリエンスって、その人が持っている固有の資質的なイメージがあったのですが、家族のレジリエンスで「ストレスに直面した時にそれに適応し、成長する時にたどる道筋」とあって、思わずそうそうと頷いてしまいました。

仕事でもスポーツでも、集団が困難を乗り越える時って、全体の空気感というか意識や流れが「やるしかない」みたいに何かのスイッチでガラッと変わる瞬間ってありますよね。

それって、その集団が困難を抱えながらやっていけるレジリエンスを持ちはじめた瞬間だと思うんです。一致団結してて、粘り強くて、諦めない集団。そんな雰囲気の時って他のメンバーも頼もしく感じるし、そんな一員でいられる時が僕は楽しいんですよね。

話は大きくなりますが、生物学的に生き残る種って環境変化に合わせて進化適応しています。個体レベルでも生物学に「動的平衡と言う見方があって、生命維持は一見何も変わってないように見えて、細胞レベルで耐えず自らを分解しつつ、同時に再構築するという危ういバランスと流れが必要なんだそうです。生物学者福岡伸一氏によると「生命はつくることより、壊すことを一生懸命やっている」と。

僕は対人援助、面接、LSWでも似たようなことが起こっているのではと思っています。信頼感のある安定した関係性とは、対話やノンバーバルのやりとりを通じて、相手の価値観を受け入れ、自分の価値観の破壊と再構築をお互いに繰り返しながらバランスを取っている「動的平衡」の状態なのではないかと。

大人の考え方はなかなか変わらないよ、なんてよく耳にしますが、頑固オヤジでも「お前さんがそこまで言うなら」みたいなことありますね。大事なのは何を伝えるかじゃなく、誰に言われるか。それまでにその人と安心できる関係性が築けているか。今までの自分を変えたり手放して新しいものを受け入れるのって不安ですから。

そして、重要なポイント1にも
レジリエンスの大部分は、再生していく成長や肯定的な感情を伴った連続性のある健康の機能」

とありますが、仮にコンクリートでガチガチに固めれば短期的な安定は得られますが、実は破壊と再生いう一見不安定な均衡状態の中で起こる変化や成長を楽しめる発想や柔軟なプロセスこそ、長期的な安定や健康的な状態をもたらすのでは、と思います。

あと、レジリエンスは「一般的なものである」が「レジリエンス維持していることが、いつも望ましいわけではない」とか、病理を焦点化する考え方を否定しながら、医療的治療ケアが必要な症状にも目を向けなければいけない、と言うところに著者の絶妙なバランス感覚を感じます。

当たり前に持っているけど、それに偏りすぎるな、頼りすぎるなというのは、日本人の即興性でも触れましたね。

なんとなく著者の考え方が陰と陽のどちらも必要と言うような、森羅万象的、東洋的なものを僕は感じていて、個人的にはとてもしっくりくるものがあります。

最後に、注意点③「解決志向的セラピーとは同義ではありません」について。解決志向アプローチ(Solution Focused  Approach:SFA)は僕も使うのですが、例外探しやリフレイミングのやりとりを繰り返す中で「100%解決じゃなくてもこんな形もありか」的な思考や発想の転換って自然と起こる気がします。おそらく著者は「問題は解決できる」という価値観ではあいまいな喪失には対応できないということを言っているのだと思いますが、必ずしもSFAはそこに固執しない気がするし、切り口や道筋は違うかも知れないけど、結果としてたどり着く状態は似ているんじゃないかな、と思いました。こればかりは著者に直接尋ねてみないとわかりませんが。

そもそも「SFA:ソリューションフォーカストアプローチとは?」とか「Focusedの訳は焦点?志向?」とか「志向と指向と思考の違いは?」とか触れ出すとキリがないので、今回は割愛します。気になる方はGoogle検索してみて下さい。

次回以降はII部に入りますが、さらに先は長くて飽きてしまいそうなので、ちょいちょい番外編で挟みながら続けていきたいと思います。

ではでは。

【第20回】あいまいな喪失と「治療/ケア」

メンバーの皆さま

おつかれさまです。管理人です。

8月に入りましたが、暑い日が続いていますね。

皆さま、夏バテなどされていないでしょうか?

今回は予告通り「あいまいな喪失」に戻ります。

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●目次
はじめにー喪失とあいまいさ

第I部   あいまいな喪失の理論の構築
第1章  心の家族
第2章  トラウマとストレス
第3章  レジリエンスと健康

第II部   あいまいな喪失の治療・援助の目標
第4章  意味を見つける
第5章  支配感を調整する
第6章  アイデンティティーの再構築
第7章  両価的な感情を正常なものと見なす
第8章  新しい愛着の形を見つける
第9章  希望を見出す

エピローグーセラピスト自身について


●内容
今回は第2章「トラウマとストレス」。以下は僕なりに順番を変えて抜粋したものです。

~実際、PTSDの診断や治療に対して最近批判されていることは、それが体系的でも文脈的でもなく、個人の病理に焦点を当てすぎているということです。

~逆説的ですが、PTSD診断があまりにも医学的になっているということを、私たちは内科医に教えられました。

DSM-Ⅳ-TRにおいては、PTSDは、第一に精神障害として、第二に個人的な疾患として評価、治療されます。一方、あいまいな喪失は精神の機能障害ではなく関係性の障害です。ストレス要因によって外的に引き起こされたものです。

~それゆえ、治療や介入には、関係性的アプローチや精神力動的アプローチに加えて、ストレス・マネジメントが含まれなければなりません。

~あいまいな喪失とPTSDの主な相違点は明白であり、それはトラウマの元となる出来事が続いているということです。

~今日では、PTSDは、単に個人の精神的または身体的弱さとしてではなく、苦痛に満ちた、トラウマ的な文化的文脈から生じうる状況としても見直されています。

~関係性の問題の治療には、関係性を扱う介入が必要なのです。

~現在の治療技法の偏狭さーそれはしばしば研究資金に影響されているわけですがー家族療法家との協働を妨げています。

~個人を重んじ、自分のことは自分でやるということに価値を置く文化のなかで社会化されているセラピストにとって、このようなやり方に変えていくことは難しいです。

~トラウマの治療と介入を提供すること専門家は、異文化とうまく付き合えなくてはなりません。なぜならトラウマを障害として理解するやり方は文化に寄ってかなり異なるからです。

~レイズ(Leys,2000)によると、トラウマには二つの立場があり、どちらの立場であるかによって変わります。①一つは、症状軽減と再教育を支持する立場です。②もう一つは、トラウマは症状を超えたものであり、現在の関係性の文脈や、その人の原家族から現れる、より深い意味を持つと主張する立場です。


●コメント
本の引用をしていると、どこかのTV報道みたいに「印象操作だ」と言われるんじゃないかとヒヤヒヤした気持ちになりますね。あくまで一個人の感想として読んでください。

この章に限りませんが「研究資金に影響されているわけですが」とか書き方が本当に生々しいですよね。これも見方のひとつとは言え、「高値」が付く=価値があるというような、お金や経済が人の価値観や思考に影響を及ぼしている側面は、否定できない現実かなと思いました。

話をトラウマに移すと、僕個人的には、レイズの言う「トラウマへの二つの立場」はどちらもありだと思います。

もちろん、どちらの視点もバランス良く持っている方もいますが、確かにどちらかに偏りがちになっている印象の方って少なくないな、と感じます。

それは個人的要因が大きい場合もありますが、業務の性質のせいもあるかなと思うこともあって、例えば患者メインで扱う病院や子どもに直接処遇するケアワーカーは①的な、家族や保護者へのアプローチ可能な児相やFSW(ファミリーソーシャルワーカー)は②的な視点を持つ方が多いかもと。

それは、その人の職務体験やトレーニングの幅が狭かったり、他者や他機関の異文化を取り入れて物事を考える余裕がないということかもしれないと。

どちらのアプローチが良い悪いではなく、どちらも必要な視点だから、クライエントの受け入れやすい文化に合わせて選択使い分けできたらベストなんだと思います。

でも、1人で全てのアプローチを習熟することは無理なので、違ったアプローチが出来る他機関と「連携」しましょうという話しなんです。「なんでこんな事も分かんないだよ」とヤキモキするでなくて、異文化が集まったチームの方が支援の幅が増えると考えて、自分にない視点をリスペクトして学び合いながら協力する、それでいいんじゃないのかな、と思います。


ここまでは、トラウマに向き合おうとする立場に違いがある場合のお話し。

しかし辛口に言えば、日本に限るのかわかりませんが、児童福祉関係者の中には「自分はトラウマ治療をしないので、トラウマは遠いの世界のお話です」みたいな、①②どちらにも立たない、③そもそもお手上げです的な方って、残念ながら割といるなぁ、と思います。

著者の愚痴っぽい米国の状況の段階まで、そもそも日本は至っていないのでは、と。

例えば「LSWをすると荒れる」という文脈で、トラウマの話が出てこないのは、明らかに不自然だと僕は思います。

LSWで「荒れる」視点として
「トラウマ記憶は過去にないのか?また恐怖体験を想起させるような触れ方はしていないか?」→「恐怖体験でない未完の感情の蓄積は?ケアの必要性は?」→「アイデンティティの混乱だけか?」

みたいな、この流れが正しいかはさておき、荒れる要素の理解に基づいて、複雑なケースについては全体をアセスメントして段階的に対応を検討しておかないと、どこで何の地雷を踏んだかわかりません。

おそらく後の章に出てきますが、サポート側の理解や見通しや予測付いていることは、支援者の耐える力(レジリエンスを高めると思いますし、それが心理教育と呼ばれる事前知識を入れて心の準備を高めておくメリットだと思います。

でも実際には、大人が無自覚に何回も地雷を踏んでおいて、暴れたら我慢できない人が悪いです、危ないので禁止です、個別対応です、ってことって起こってると思うんです。

正直、多くの支援者にとって「PTSDなんて難しい話しされてもわかりません」が本音なんだと思います。僕もDSMを暗記しているわけでないので「ちゃんと知ってる?」と聞かれたら、今でもそんなに自信はないです。

だけど、現実的にはトラウマを抱えた子が、わんさか現場に流れ込んでくるわけですから、わかりません相手できません、というわけには行きません。なので、大変ですけど学ばないと前に進まないかな、と。

そこで、おそらく壁になってる一つは「治療」と「ケア」の考え方。つまり「トラウマ治療」と「トラウマケア」の混同が、トラウマ治療なんて出来ません触れられません医療分野の不可侵領域ですみたいな一線を引かせているところがないかな、と。

例えば、骨折している人に、医者は手術(キュア)することが出来ますが、他の人は何も出来ないわけではありません。手術時なら麻酔医がいて、看護師が術前後のお世話(ケア)をするわけです。家に帰った後だって、早く治るようにバランスの良い食事を用意したり、お風呂の介助をしたり、包帯を巻き直したり、寝る姿勢を気をつけたり日常的に出来るお世話(ケア)はたくさんあります。

トラウマも同様に、トラウマに直接アプローチする治療者でなくても、日常的にトラウマ症状を緩和させたり悪化させないようにする配慮やお世話(ケア)はたくさんあると思います。ホッと安心する楽しい食事の時間があるとか、遊びに行く約束がきちんと守られるとか、お薬を忘れないように飲ませるとか。

そのような個別的なケアを考えるには、その人が単に「虐待を受けてました」という表面的な理解じゃなくて、どれくらいの年齢でどのくらいの身体の大きさの時に、どのような場面で、どのようなインパクトのある体験をして、どのような気持ち感覚になったのか、支援者が映画の役者になってその人の役を演じるくらいの情報収集と想像力が必要なんだと思います。

そうすることで、例えば他児の喧嘩や暴言で興奮する、食事場面でキレやすい、注意されると暴れる等々、大人から見たら「問題行動」と思われる背景にある「殴られるか怖い」とか「このイライラがいつ終わるのかわからない不安」とか、または言語化すら出来ないソワソワした身体感覚にまで、想いを巡らすことが出来ると思います。

そして「トラウマをどうにかする」治療技法ばかりに注目するのでなく、「トラウマにあえて触れずに」日常生活を送らせたり会話をしたり、望まない過去の想起が多少起こっても話を逸らしたり意識を現実生活に戻して安心感を与えたり、落ち着いた何気ない日常生活を支えることは、実はとても専門的でスキルフルな対応だし、スペシャルな「トラウマケア」だと僕は思います。

そう考えると、LSWで過去にトラウマがあるのがわかっていて、それを意図的に避けながら、他の部分の過去を取り扱いながら、もしもトラウマにかすってしまったら「ゴメンゴメン」って現実に戻しながら安全に対話を進めるのって、実はとても専門的でスキルフルでスペシャルな対応ということになってしまいますね(苦笑)

でも実際、専門性って特別なアクロバティックなことばかりじゃなくて、細かなポイントにこだわって配慮した観察、行動、言葉選び、素人がパッと見てもわからない何気ない連続の中に「専門性」が散りばめられているから、何事もなかったように事が美しくスムーズに流れて行くんだろう、と思います。

トラウマについては、また別図書で触れたいですが、僕もまだまだ勉強中なので、できればライトでわかりやすい本を紹介しながら、皆さんと共に学んでいけたらな、と思います。

ではでは。

【第19回】ジンバルド時間志向テスト

メンバーの皆さま

おはようございます。管理人です。

前回コラムの最後の方で、LSWの支援者自身が
「過去ー現在ー未来」「ポジティヴ・ネガティヴ面」
を観る視点や考え方が偏ったり狭まったりしているかも、ということを書かせてもらいました。

今回は、その偏りを測定する方法を一つ紹介します。

それが「ジンバルド時間志向テスト」です。


元ネタは、こちら。

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The Time Paradox: The New Psychology of Time That Will Change Your Life(2008)の訳書。

フィリップ・ジンバルドは「スタンフォード監獄実験」(1971)をした心理学者と言えば、ピンとくる方もいるのではないでしょうか。

この書籍のジャンルはなんと「ビジネス」でして、
自分の時間志向(=時間に対する姿勢、信条、価値観)を捉えることで自分の心理(思考、感覚、行動)が見えてきますよ、という自己啓発本的な分類をされています。

この本で扱われている「ジンバルド時間志向テスト」は56項目5段階評価の質問紙で、Google検索するとトップに出てくる「横浜国立大学服部泰宏ゼミナール」(経営学部)のHPでダウンロードも可能です。


そして、時間志向は6つのタイプに分類されているのですが、ジンバルド時間志向テストの面白い点は「過去ー現在ー未来」のどこを意識しているのか「どこか一つ」ではなく、その「バランス」を見ようとしている点です。

そして、どのタイプが良い悪いでなくバランスが大事であると。

以下に、6つのタイプを簡単に紹介しますがネタバレになりますので、興味あれば、まず質問紙をやって見てから読んで見てください。


◆過去肯定型
過去を実際に起こったことより過去に起こったと思っている。嫌な出来事を経験しても、それを肯定的に思い出せる人は強いバネのような抵抗力があり、楽観的になりやすい。

◆過去否定型
過去の辛い経験や記憶にとらわれた選択をする。実際に嫌な出来事を経験しているかも知れないし、実際にはいい出来事だったのに、頭の中で嫌な出来事にすり替えてしまっていることもある。

◆現在快楽型
刹那的な満足を追いかけて求める。めずらしいものや刺激のあるものを求める傾向が強く、エネルギーに満ちあふれている。

◆現在宿命論型
運命は決められていて、何をしたところで無駄だし変わらないと諦める考え方。宿命論的な傾向が強くなると、若者は攻撃的になり、不安になり、うつ状態に陥りやすい。

◆未来型
将来の大きな見返りのためなら、現在の満足を先延ばしにして、我慢や努力ができる。

◆超越未来型
来世の幸福のために、現世の衝動を抑えることができる。


補足すると、現在志向はネガティヴ面だけでなく、今の作業に集中して没頭したり、運動にエネルギッシュに取り組んだりする良さもあります。

一方、未来型はポジティヴ面だけでなく、未来型が高すぎると、例えば健康や将来のためと言いながら、現在の生活や楽しみを過度に犠牲にするような節約節制に走る側面もあるわけです。

やはり、どのタイプが良い悪いではなく大切なのはバランスです。そして、その価値観のバランスは人生観なので、当然、支援者の支援に対する考え方にも影響してきます。

なので、お仕事として専門家として不特定多数の人の人生に関わるなら、自分の価値観や傾向を見つめて受け入れて、「自分がしたいこと」だけに流されず、「相手の最善の利益」に貢献できる関わりができるよう、自律・自己コントロールすることが必要と思うのです。

ちなみに、2年前くらいに僕がやった時には「過去肯定」「未来」が3.5~3.7、他は2.8~3.1位でした。僕は良く言えば冷静、見方を変えれば一歩引いたところがあるので、子どもと関わる際には、意識して今を楽しむ「現在快楽」的になるようにしています。


また、日本で「ジンバルド時間志向テスト」を使った報告では、愛知県がんセンターの小森康永氏が、乳がん患者への緩和ケア前後の時間志向を測定したものがあります。

結果は、緩和ケア前には「過去否定」が強めだった方が、緩和ケア後には「過去肯定↑」「未来↑」「過去否定↓」となり、不安・抑うつの尺度とも相関が見られた、とのことです。
(※『バイオサイコソーシャルアプローチ:生物・心理社会的医療とは何か?』(2014)より。この本は、別の機会にじっくり紹介しますね。)


この報告はとても興味深く、おそらくLSWを実施した子どもの中でも、時間志向の変化が起こっているだろうな、とイメージしています。

ただし、これは乳がん患者(58歳女性)の一例に過ぎず、LSWを始める前の子どもの時間志向バランスの組み合わせのタイプは、年齢性別、性格や生い立ちによって本当に様々で、必要な支援や健康的なバランスもまた違うだろうなと思います。

例えば、現在志向が高くないバランスの取れた子どもって「子どもらしいの?」とも思いますし、
未来志向はマシュマロ実験(数分後に2個のために、目の前の1つを食べずに我慢できるか)でもあるように「自制心」「衝動性」や発達的な要素も絡んでくると思うので。

加えて、ジンバルド時間志向テストは「アメリカ、フランス、スペイン、ブラジル、イタリア、ロシア、リトアニア南アフリカなどの国で広範に活用され、その有効性が実証された」とは書いてありますが、日本の児童にも有効かは不明です。内容的にもこのまま児童に使うのはどうかなと思いますし、日本人の平均値サンプルもありません。

なので、このデザインそのままでLSWの効果測定というわけにはいきませんが、支援者の自己理解や子どもの状態理解や考え方の切り口としては「ジンバルド時間志向テスト」は面白いなと思います。


脱線はここまでにして、次回コラムはさすがに
「あいまいな喪失」に戻ります。

ではでは。

【第18回】「cure」と「care」の違い

メンバーの皆さま


おはようございます。管理人です。

今回は僕の中で引っかかっていたことについて。

「治療」と「ケア」

この言葉は、書籍や会話でサラッと使われますが、これがクセ者で、同じ言葉を使っていてもお互いの頭の中のイメージがズレてることって結構あるなぁ、と感じます。

そこで、今後のコラム内容、書籍の紹介内容でそのようなズレをなるべく防ぐために、今回は、

「治療(=キュア)」と「ケア」の違い

について考えてみます。


「キュア(治療)」と「ケア」の違いは、癌などの終末期医療の分野で、時々話題になるようです。

まずは、成り立ちと辞書的な整理ですが、どちらも語源はラテン語の【curare】「治療する、世話をする」だそう。そこから、

→キュア【cure】「治療、治癒、治す」

→ケア【care】「注意する、世話をする、手当て」

と派生したみたいです。

例えば、癌治療で、癌細胞をなくす医学的処置が「キュア」、完治はしなくとも痛みや悩みを軽減して生活の質を高める取り組みが「ケア」。緩和ケアと言えば「キュア」との違いがイメージしやすいかもしれません。

ケアがたくさんでcareful=「注意深い、慎重に」と考えると、ケアは気遣い心遣いの「お世話・手当て」なんだと腑に落ちます。

僕の理解だと、

【cure】問題を解消したり、病気の原因を除去したり局部に直接アプローチして「治す」

【care】もっと心身や生活全体を俯瞰的に見て、QOL生活の質)を高めための「お世話」

というイメージです。


ここで少し体験談を。実はここ2年程、僕は鍼灸(針お灸)の「お世話」になっています。

きっかけは、久しぶりのバスケの試合後に右足の腰の辺りに突くような痛みが出まして。腰痛持ちでしたが1ヶ月も痛みがあるなんておかしいなと思っていたら足がシビれてきまして。これはヤバいとMRI撮ったら見事な「椎間板ヘルニアだったんです。

下の図を参照ください。椎間板とは、骨と骨の間のクッションみたいなやつで、それが神経を圧迫すると痛みやシビれになるんです。

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僕の腰画像も椎間板がブチューと出てまして、医者から「手術する程じゃないけど、痛みが増してきたらブロック注射(麻酔、痛み止め)しますか」と言われ、渡されたのは痛み止めの飲み薬。

困りました。すでに腰痛で目が醒める毎日だけど、手術後の生活やリハビリの大変さを考えたら手術も嫌だし、痛み止め飲んだって一時の気休めだとわかっているけど、一生こんな生活はゴメンです。

そこから色んな試行錯誤をしまして、最終的に辿り着いたのが「鍼灸」でした。どうやら針を打つことで、細胞を活性化させて自己治癒力を高めるそうなんです。

すると、2~3ヶ月で足の痺れは無くなり、1年後にはなんと腰痛は消失。ターニングポイントは、途中で「肩や背中の張りが、腰に負担を掛けている」と肩背中の鍼灸も同時に始めたこと。この時期から腰の痛みは劇的に改善し、今では腰には一切さわらず、肩背中だけの施術を継続しています。

これが良い例えかわかりませんが、直接的に原因患部や問題を取り除く【cure】的なアプローチだけが、有効かつ現実的な方法とは限らないわけです。

ちなみに肩背中の張りの原因は、おそらく仕事のストレスや電車通勤だと思っていますが、これは今の仕事をする以上、ある程度は仕方がないと思っています。なので【care】しながら長期的にうまく共存・お付き合いしていく道を選んだわけです。

福祉の現場にいると、成育歴上の問題が複雑に絡みすぎて、もはや原因の根が深過ぎて直接アプローチしようがなかったり、そもそも何が原因なのかスッキリ特定できないことの方が多い気がします。


そこで、もう1つ言葉を紹介。

「治療」「癒す」と訳される言葉に【heal】があります。語源ギリシャ語の【holos】「完全な姿(本来のあるべき姿に戻る)」だそうで、healに状態を表すthを付けて【health】「健康」になる、と。 

【healing】「ヒーリング」と聞くとスピリチュアル的なちょっと怪しいなぁと思う方もいるかもしれませんが、西欧的に言えば、競争社会で交感神経(興奮覚醒)過多になりやすい現代人の「副交感神経を優位にする」癒し系音楽とか、東洋的に言えば「気の流れが良くなる」ツボとか、一つに繋がっている心身のバランスや流れの「偏り」や「滞り」を整えて、心身が本来の持っている健康的な状態に「調整」するのが、僕の【heal】イメージです。

僕の「椎間板ヘルニア」へのアプローチもそうですし、例えば家族面接も、悪い人を見つけて正したり治すんじゃなくて、家族システムの対話交流の上手く流れていない滞ってる所をほぐす【heal】のイメージが、僕はやっててしっくり来るというか、性に合ってるんですよね。

もちろん手っ取り早く問題を【cure】する考え方もあるし、状況によっては必要です。例えば骨折してるとか。ただ治療後にリハビリできる環境の準備や、そもそも悪くなった習慣の見直しがなければ、再発したり別の所が悪くなったり、全体のバランスが崩れてかえって生活トータルは悪化する場合もありますよね。


LSWでいうと、

僕はLSWを、頭の中での「過去ー現在ー未来」の行き来のバランスや流れをスムーズにする【heal】的なイメージで考えています。

スムーズでない状態とは、全ての道が遮断されているばかりではなくて、通じる道はあるけど、どこかにこだわって動けなくなっていたり、全く行く気や見る気がなかったり、どこか一部に偏ったり流れが滞っていたりする場合もあるかな、と。

例えば、未完の感情が残っているから過去にとらわれる、トラウマの再体験の苦痛があるから想起を避ける、予期不安が高すぎるから未来のことは考えない、想起想像の情報材料がないから過去・未来にアクセスしようがない、とか。

その詰まり方や滞り方によって、どこを【care】「お世話・手当て」するのか、どこか【cure】「治療」する必要があるのか、はたまたバランスを整える【heal】なのか、その状態によって様々な戦略やアプローチがあるだろう、と。

しかし時々お話を聞いていると「LSWをやるからには過酷な過去のトラウマを扱って【cure】しなければならない」とか「振り返る生い立ちは、幸せなものでなければならない」とか、人生のネガティヴ・ポジティヴ面だけに焦点化した極端に振り切った思考に陥っていないかな、と感じるがあります。

仮に癌を取り除く手術(キュア)が出来なくても、その人の人生は続くのであって、これからの人生の質(QOLを高めるために出来る「ケア」は他にもたくさんあることは説明不要ですよね。


『三人寄れば文殊の知恵』

という「ことわざ」がありますが、1人で考えられることは高々知れているので、なるべく頭は柔らかく、色んな人の視点を柔軟に取り入れながら、常に一歩でも半歩でも良い支援を考えて行きたいですね。

長くなりました。

ではでは。 


【第17回】 あいまいな喪失と支配感の関係

メンバーの皆さま

おはようございます。管理人です。


前回コラムを見て、海外留学生の受け入れを長年されている方から、これまで遭遇してきた状況を話題に取り上げる人が出てきて本当に嬉しい、というコメントをいただきました。


思いがけず、コラムblogで発信することが誰のためになっている実感をいただけて、とても励まされました。


ありがたいですね。


では、昨日の続きのコラムです。

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●目次
はじめにー喪失とあいまいさ

第I部   あいまいな喪失の理論の構築
第1章  心の家族
第2章  トラウマとストレス
第3章  レジリエンスと健康

第II部   あいまいな喪失の治療・援助の目標
第4章  意味を見つける
第5章  支配感を調整する
第6章  アイデンティティーの再構築
第7章  両価的な感情を正常なものと見なす
第8章  新しい愛着の形を見つける
第9章  希望を見出す

エピローグーセラピスト自身について


●内容
今回は、前回に続いて第1章の後半です。

【支配感・コントロール感】
~自然を支配することや、自分の人生を思い通りにすることに価値を置く文化のなかでは、ある人がいるのかいないのか決して知りようもない状態は、ひときわ高いストレスを引き起こし、トラウマ化しやすいもです。

~つまり、人生に対するコントロールと支配感と環境に対する優位性に価値を置けば置くほど、人々は喪失が明確でなく終結も見られない状態に対してますます苦悩することになってしまいます。

~セラピーの目標として喪失の終結を挙げることは、人間の環境に対する優位性と人生への支配感とコントロール感を目標とすることになります。それは、喪失とあいまいさによる痛みを閉じ込めてしまう必要があることを意味します。

~専門家は、この世の全ての人が、自分の運命を支配できるわけでない、ということを認識するべきなのです。

~実際、私たち西欧文化以外の文化に属する多くの人は、喪失に終結があるという考え方を拒絶しています。

~様々な文化の人々を援助してきた経験から、ごく限られた特権階級の、人生を支配したいと望む人たちだけが、喪失と悲嘆を終結せることに価値を見出してる、と思うようになってきました。


●コメント
この前の日曜日に「インフェルノ」(2016)という映画を観たんです。有名な『ダヴィンチ・コード』シリーズの第3弾(原作:ダン・ブラウン)です。そこでも似たようなことがテーマになっていたので少し紹介。

ストーリーの大枠は、天才的カリスマが人口爆発による人類絶滅を防ぐために、人口半分を淘汰するウィルス拡散を企てる、というもの。

正直「ダヴィンチ・コード」「天使と悪魔」のシリーズ作品と比べて宗教感が薄いというか、よくあるテロ映画みたいになっちゃったな、という感想でした。

本書を読み直すまでは。

映画「インフェルノ」で全面に押し出されていた
カリスマによる人類の「支配感・コントロール感」。

確かに思い起こせば「ダヴィンチ・コード」「天使と悪魔」でも秘密結社による支配感はテーマになっていたな、と。

もしかするとダン・ブラウンはシリーズ作品を通して、本書と同様に、特権階級による支配感・コントロール感という西欧文化に根付く価値観への警鐘を訴えたかったのではないか、と思うようになりました。

そして、著者クーリン・ボスは本書を通じて、自分の思考や価値観が絶対的なものでなく、いかに文化的・環境的・教育的影響を受けているのかをよく見つめなさい、と言っているような気がします。


では、「日本文化」はどうでしょうか?

よく日本人は海外で日本の素晴らしさを説明できない、自国のことを知らない、なんて言われます。

確かに、日常生活で日本人であることを意識することはあまりないです。


じゃあ「県民性」についてはどうでしょう?

僕は「秘密のケンミンSHOW」「笑ってコラえて」「月曜から夜ふかし」とか県民性を扱うバラエティ番組が結構好きなのですが、オモシロおかしく編集しているとはいえ、郷土愛の強さというか、その地域住民にしか理解できない文化的アイデンティティってあるなぁ、と。

僕自身、新潟県出身の静岡県在住12年目でして、だいぶ慣れましたが、未だに言葉や食事の文化差に違和感や新鮮さを感じることがあります。同じ県内でも地域による文化差を感じますし、県外にいると新潟県の事も客観的に見えることもあるな、と思います。

つまり、違うことに触れることで、自分への新たな気づきが生まれるって事ってあるんじゃないかと。海外に行くと、自分が日本人であることを自覚するというみたいに。

LSW的なことで言うと、転居や離婚再婚による喪失という視点はもちろん大事ですが、その人がどこの地域文化に影響されて価値観を形成したのかって、その人の人生やアイデンティティを理解する上で非常に意味があることだと思うんです。

言葉とか食事の味付けとか。「故郷」とか「ホーム」って、理屈抜きに心がホッと出来る場所だと思います。かつていたという歴史事実だけじゃなくて、大事なのは、そういう感覚的な安心感だと思うんです。

同じ日本人だからって、価値観が同じなんて幻想です。だいの大人2人が結婚しただけで、味噌汁の味付けがどうだこうだ言ってるわけですから。

人口が一億人超えている国って、世界で現在12ヶ国だけだそうです。豊臣の時代まで日本も違う国の集まりだったわけですし、日本国内だけでも地域の文化差はあるだろうと。例えば、家族観、男性女性観、喪失に対する考え方、お祭りの違いとか。

異文化を受け入れるって、行き過ぎると我慢や被支配につながりますが、上手に使えば、お互いの良さに気づくきっかけになったり、掛け算的な相乗効果を生む可能性にもなると思います。

たぶん、受け入れる受け入れない、どちらかに合わせる合わせない、0か100かじゃなくて「異文化交流」。お互い違う事を認めながら、その中でも共通する点や交われる点を見つけていく「対話」。

前回コラムのように、人種や国が違えば、ある意味「違う」と言う前提がハッキリしているし、違いを理解したり発想の転換をしやすいのかもしれません。

でも、同じ国民であったって「育ってきた環境が違うからぁ~、好き嫌いは否めないぃ~」というセロリ的な前提があってもいいんじゃないでしょうか。

異文化交流の姿勢で話を聞くと、常に新たな発見や気づきがあるし、この面白みが僕自身の臨床や勉強会へのエネルギーやモチベーションの1つになっているなぁ、とコラム書きながら思いました。

ではでは。

【第16回】「心の家族」と文化的家族観の違い

メンバーの皆さま


おはようございます。管理人です。

先日、三重の山本さんにLSWの全国メーリングリストで当コラム集「まごのてblog」

を紹介していただいた所、24時間で100アクセスを突破していました。

自分でblogにしておいて何なんですが、たくさんの知らない人に見られると思うと、コラムの言い回しや文面に多少迷ってる自分がいることに気づきまして。

思ってる以上に、自分は気にしいでビビリだなぁと再確認しました(笑)

なので、もしかすると今までより多少文章が固めになってるかもしれませんが、すぐに戻ると思いますので、気にせずにお願いします。

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●目次
はじめにー喪失とあいまいさ

第I部   あいまいな喪失の理論の構築
第1章  心の家族
第2章  トラウマとストレス
第3章  レジリエンスと健康

第II部   あいまいな喪失の治療・援助の目標
第4章  意味を見つける
第5章  支配感を調整する
第6章  アイデンティティーの再構築
第7章  両価的な感情を正常なものと見なす
第8章  新しい愛着の形を見つける
第9章  希望を見出す

エピローグーセラピスト自身について


●内容
第1章からトピックを2つ取り上げます。それは、「心の家族」「支配感・コントロール感」について。

【心の家族】(一部抜粋)
~人間の心のなかに本質的に存在しているもの。

~セラピーの観点から見て、その人が誰を家族と見なしているかは重要です。

~つまり誰を援助している時でも、家族をどのように定義し、家族構成には誰がいて誰がいないのか、セラピストとして私たちは、柔軟に見ていく必要があります。

「あなたにとって家族とは誰ですか」
「そのなかに入っていないのは誰ですか」
「あなたにとっての故郷はどこですか」

~このような質問に対して返ってくる答えにはよく驚かされます。

~多くの場合、セラピストは関係性の物理的な構造を見るように訓練されており、自分たちがきちんと仕事をしていれば、クライエントは喪失体験を克服し、ある程度すぐに、目の前にいる誰かに愛着を持つようになると考えています。世の中には、健康的な人間は、喪失に終結を見出すという神話が存在しています。

~大切な人が、肉体的にも情緒的にもいなくなってしまった時、終結を探し求めるより、あいまいさに耐えれられるような臨床的アプローチが重要です。


●コメント
これを読んだ時、心にグサッと突き刺さるものがありました。家族状況を尋ねる時、
「お家には誰がいるの?」と「家族は誰がいるの?」の使い分けの意識ってなんとなくだったなぁ、と。  

児相にいると、虐待防止法もあるし住基システムもあるし戸籍も取れるし、当人に直接聞く前に、家族構成や転居歴、離婚再婚歴などの客観的な基本情報は事前に知れちゃうんですよ。ホント至れり尽くせりです。

なので「実は事実は知ってるんけど、認識や想いはどうなのよ?」という状態から面接スタートできちゃうんです。

だけど、民間の相談機関なら、情報は来所した人が語ってくれた事のみです。すると、得られる情報の幅や精度は、語り手のインプット(認知)とアウトプット(言語化)の傾向、そして聞き手の面接技術に左右される具合が非常に大きくなると思います。

そうなったら当然、面接者の聞き方や言葉選びの感度は鋭くなりますよね。この感覚を忘れてたんだな、と。システムというぬるま湯に浸かって、その恩恵を当たり前に感じていた自分を反省しました。

あと話題をトピックに戻すと、体験的には、なるほど家族の中に「ペット」を入れる子どもって時々いるなぁ、と。これも「心の家族」なんですよね、きっと。

日本では「家族は一緒に暮らすもの」という価値観が一般的に強い気がしますが、家族や故郷の定義は人それぞれである、ということですよね。

僕が仕事をしている浜松市は外国人(ブラジル・フィリピン・中国・ペルー等)が多くて、保護者と話していると本当に国それぞれで基本的な家族観や養育観って違うなぁ、と感じることがあります。

そして、最近はハーフのタレントやスポーツ選手の活躍が注目されますが、見た目バリバリの外国人でも、浜松生まれ浜松育ち中身浜松人って子どもが割と普通に学校にいます。あえて言うなら母国語は遠州弁です。

すると、相談に来る家庭の子どもは、保護者の母国的価値観と、友だちやTVネットから影響受ける日本的価値観の間で板挟みにあったり衝突して苦しんでいるケースが多々あるな、と思います。

そして、施設入所して親と離れて過ごす期間が長くなるほど、その文化のギャップはどんどん広がっていきます。そういう子どもが、将来どう自立し、どう家族と折り合いをつけ、何を拠り所にどのコミュニティで生きていくことが幸せなのか、本当に答えが出ません。

もちろん日本人同士でも結婚や再婚で文化の衝突は少なからず起こると思いますが、異国文化の相違や衝突を目の当たりにする体験は、自分が当たり前と思ってる常識や価値観を「日本文化」と言う枠組みで客観的に見直したり、疑問に思う機会になっているなぁ、と思います。

児童福祉では「家族再統合」なんて言葉がよく話題にあがりますが、『そもそも家族って何?』という根本的な問いを冒頭の章で突きつけられた気がしました。


長くなったので、一旦終わりにして、
「支配感・コントロール感」はまた次回に。

ではでは。


【第15回】異文化に飛び込む意味

メンバーの皆さま


こんにちは。管理人です。

3連休いかがお過ごしでしょうか。

僕は家でダラダラ過ごしていたところ、ふと目にしたマンション情報誌に面白いキーワードを見つけましたので、今回はここから。

ヴァガボンド】(放浪する者)
まず思いつくのが、スラムダンクで有名な井上雄彦氏が宮本武蔵を描いた作品「バガボンド」。今まで意味を知らずに読んでましたが、こういう意味だったんですね。

で本題は、自らを「ヴァガボンド」と称するテンギョウ・クラ氏のインタビュー記事から。 http://vagabond.link/archive


〈テンギョウ・クラ〉
教師・コミュニケーター・ストーリーテラー

ヴァガボンド(放浪する者)を自身のライフスタイルとして、教師の活動をベースに国や地域を問わず移動と滞在をくり返しフォト・ストーリーを制作している。滞在した地域の人々のと交流を通じて在住者(ネイティヴと来訪者(アウトサイダー)の関係性に揺らぎを生み出し、そこに多用なコミュニケーションの可能性を見出す。

◆インタビューの一部
〜自分の知らない場所で知らない人たちと出会いを重ねると、自分の想像力がどんどん広がっていく。想像力が拡がると、自分の人生の可能性が広がっていく。そうすれば「自分の人生が豊かになって楽しいだろうな」という思いが沸き立ったんです。

〜しかし人は誰しも「自分が育ってきた文化を守りたい」という本能があると思うんですね。文化というのは、日々の習慣と傾向ですから。でも、僕は、いつまでもそれに引きずられたくないんですよ。できるかぎりそれを破壊し、再構築していきたい。

〜もちろん不快で不安な作業になりますが「自分の文化を一度無にして、1から作り直す」ことを続けたい。僕には日々自分を変えていくことがいちばん興味のあることですし、楽しいですからね。僕はそれを『カルチャーダイブ』と呼んでいます。


◆コメント
社会的養護で施設を転々としている子って、まさに望まない「ヴァガボンド」だな、と。そして、在宅の子でもヴァガボンドはたくさんいて、転居や親の再婚やパートナーが変わるたびに、望まない「カルチャーダイブ」をくり返しているよなぁ、と。

しかし、クラ氏が語るように、新しい出会いは逆に自分の可能性を広げるチャンスでもあるわけです。

例えば、地域や職種が違う人たちが集まる静岡LSW勉強会は、「交流を通じて在住者(ネイティヴ)と来訪者(アウトサイダーの関係性に揺らぎを生み出し、そこに多用なコミュニケーションの可能性を見出す」の感覚に近いのかな、と。

また、子どもにとっては、仮にきっかけは悲惨な状況だったとしても、我々支援者との出会いが、人生の可能性を広げるチャンスになるかも知れないわけです。

そして、相手に変化を求めるということは「自分の文化を一度無にして、1から作り直す」ことを求めることだと思います。

もし、子どもたちや保護者にそれを求めるなら、まずそれを言う支援者自身が、自らの価値観や文化を「一度無にして、1から作り直す」ことを恐れてはいけないし、自身が変化し成長する努力を続けなければその言葉に説得力はないだろうな、と思いました。


それにしても、いちばん驚いたのが、テンギョウ・クラ氏が1972年生まれということ。とても45歳には見えません。進化や変化を求める探究心・向上心を持つ人は、外見も内面も若いということですかね。

ではでは。