LSWのちょっとかゆいところに手が届く「まごのてblog」

静岡LSW勉強会の管理人によるコラム集

【第17回】 あいまいな喪失と支配感の関係

メンバーの皆さま

おはようございます。管理人です。


前回コラムを見て、海外留学生の受け入れを長年されている方から、これまで遭遇してきた状況を話題に取り上げる人が出てきて本当に嬉しい、というコメントをいただきました。


思いがけず、コラムblogで発信することが誰のためになっている実感をいただけて、とても励まされました。


ありがたいですね。


では、昨日の続きのコラムです。

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●目次
はじめにー喪失とあいまいさ

第I部   あいまいな喪失の理論の構築
第1章  心の家族
第2章  トラウマとストレス
第3章  レジリエンスと健康

第II部   あいまいな喪失の治療・援助の目標
第4章  意味を見つける
第5章  支配感を調整する
第6章  アイデンティティーの再構築
第7章  両価的な感情を正常なものと見なす
第8章  新しい愛着の形を見つける
第9章  希望を見出す

エピローグーセラピスト自身について


●内容
今回は、前回に続いて第1章の後半です。

【支配感・コントロール感】
~自然を支配することや、自分の人生を思い通りにすることに価値を置く文化のなかでは、ある人がいるのかいないのか決して知りようもない状態は、ひときわ高いストレスを引き起こし、トラウマ化しやすいもです。

~つまり、人生に対するコントロールと支配感と環境に対する優位性に価値を置けば置くほど、人々は喪失が明確でなく終結も見られない状態に対してますます苦悩することになってしまいます。

~セラピーの目標として喪失の終結を挙げることは、人間の環境に対する優位性と人生への支配感とコントロール感を目標とすることになります。それは、喪失とあいまいさによる痛みを閉じ込めてしまう必要があることを意味します。

~専門家は、この世の全ての人が、自分の運命を支配できるわけでない、ということを認識するべきなのです。

~実際、私たち西欧文化以外の文化に属する多くの人は、喪失に終結があるという考え方を拒絶しています。

~様々な文化の人々を援助してきた経験から、ごく限られた特権階級の、人生を支配したいと望む人たちだけが、喪失と悲嘆を終結せることに価値を見出してる、と思うようになってきました。


●コメント
この前の日曜日に「インフェルノ」(2016)という映画を観たんです。有名な『ダヴィンチ・コード』シリーズの第3弾(原作:ダン・ブラウン)です。そこでも似たようなことがテーマになっていたので少し紹介。

ストーリーの大枠は、天才的カリスマが人口爆発による人類絶滅を防ぐために、人口半分を淘汰するウィルス拡散を企てる、というもの。

正直「ダヴィンチ・コード」「天使と悪魔」のシリーズ作品と比べて宗教感が薄いというか、よくあるテロ映画みたいになっちゃったな、という感想でした。

本書を読み直すまでは。

映画「インフェルノ」で全面に押し出されていた
カリスマによる人類の「支配感・コントロール感」。

確かに思い起こせば「ダヴィンチ・コード」「天使と悪魔」でも秘密結社による支配感はテーマになっていたな、と。

もしかするとダン・ブラウンはシリーズ作品を通して、本書と同様に、特権階級による支配感・コントロール感という西欧文化に根付く価値観への警鐘を訴えたかったのではないか、と思うようになりました。

そして、著者クーリン・ボスは本書を通じて、自分の思考や価値観が絶対的なものでなく、いかに文化的・環境的・教育的影響を受けているのかをよく見つめなさい、と言っているような気がします。


では、「日本文化」はどうでしょうか?

よく日本人は海外で日本の素晴らしさを説明できない、自国のことを知らない、なんて言われます。

確かに、日常生活で日本人であることを意識することはあまりないです。


じゃあ「県民性」についてはどうでしょう?

僕は「秘密のケンミンSHOW」「笑ってコラえて」「月曜から夜ふかし」とか県民性を扱うバラエティ番組が結構好きなのですが、オモシロおかしく編集しているとはいえ、郷土愛の強さというか、その地域住民にしか理解できない文化的アイデンティティってあるなぁ、と。

僕自身、新潟県出身の静岡県在住12年目でして、だいぶ慣れましたが、未だに言葉や食事の文化差に違和感や新鮮さを感じることがあります。同じ県内でも地域による文化差を感じますし、県外にいると新潟県の事も客観的に見えることもあるな、と思います。

つまり、違うことに触れることで、自分への新たな気づきが生まれるって事ってあるんじゃないかと。海外に行くと、自分が日本人であることを自覚するというみたいに。

LSW的なことで言うと、転居や離婚再婚による喪失という視点はもちろん大事ですが、その人がどこの地域文化に影響されて価値観を形成したのかって、その人の人生やアイデンティティを理解する上で非常に意味があることだと思うんです。

言葉とか食事の味付けとか。「故郷」とか「ホーム」って、理屈抜きに心がホッと出来る場所だと思います。かつていたという歴史事実だけじゃなくて、大事なのは、そういう感覚的な安心感だと思うんです。

同じ日本人だからって、価値観が同じなんて幻想です。だいの大人2人が結婚しただけで、味噌汁の味付けがどうだこうだ言ってるわけですから。

人口が一億人超えている国って、世界で現在12ヶ国だけだそうです。豊臣の時代まで日本も違う国の集まりだったわけですし、日本国内だけでも地域の文化差はあるだろうと。例えば、家族観、男性女性観、喪失に対する考え方、お祭りの違いとか。

異文化を受け入れるって、行き過ぎると我慢や被支配につながりますが、上手に使えば、お互いの良さに気づくきっかけになったり、掛け算的な相乗効果を生む可能性にもなると思います。

たぶん、受け入れる受け入れない、どちらかに合わせる合わせない、0か100かじゃなくて「異文化交流」。お互い違う事を認めながら、その中でも共通する点や交われる点を見つけていく「対話」。

前回コラムのように、人種や国が違えば、ある意味「違う」と言う前提がハッキリしているし、違いを理解したり発想の転換をしやすいのかもしれません。

でも、同じ国民であったって「育ってきた環境が違うからぁ~、好き嫌いは否めないぃ~」というセロリ的な前提があってもいいんじゃないでしょうか。

異文化交流の姿勢で話を聞くと、常に新たな発見や気づきがあるし、この面白みが僕自身の臨床や勉強会へのエネルギーやモチベーションの1つになっているなぁ、とコラム書きながら思いました。

ではでは。