LSWのちょっとかゆいところに手が届く「まごのてblog」

静岡LSW勉強会の管理人によるコラム集

【第35回】バイオサイコソーシャルアプローチ①

メンバーの皆さま
 
おはようございます。管理人です。
 
しばらく次に長期連載する図書を悩んでいましたが、ようやくこれに決めました。
 

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著者の渡辺俊之氏は病人を抱えた家族への家族支援を推進し、小森康永氏はナラティヴを日本で最初に紹介した人物で、ナラティヴ・アプローチを緩和ケアで展開している、と紹介されています。
 
小森氏は【第19回】ジンバルド時間志向テスト
http://lswshizuoka.hatenadiary.jp/entry/2017/07/27/080618でも、少し紹介したので覚えている方もいるのではないでしょうか。
 
本書を選んだ理由としては、まずナラティヴというだけでLSWとの親和性が高いこと。加えて、これまでコラムで扱ってきた統合的、円環的、俯瞰的、システム論的な視点は、心身二元論を超えた「BPSアプローチ」とかなり通じるものがあるということ。
 
また第3章では「時間精神医学」という三十年以上前に確立させた精神病における「過去ー現在ー未来」の繋がりの考え方について紹介されている点もLSW的に見過ごせない一冊かなぁ、と思います。
 
まだまだ興味深い点はあるのですが、追い追い紹介していきますね。では、コラム本編です。
 
●目次 
はじめに
理論編
【第1章】心身二元論からBPSモデルへ
【第2章】エンゲルが本当に書き残したこと
                                          ―BPS批判に応える
【第3章】BPSと時間精神医学
【第4章】 二一世紀のBPSアプローチ
技法編
【第5章】メディカル・ファミリーセラピー
【第6章】メディカル・ナラティヴ・プラクティス
【第7章】BPSSインタビュー
応用編
【第8章】高齢
【第9章】プライマリケア
【第10章】緩和ケア
【第11章】スピリチュアルペイン
おわりに

●内容
今回はまず「はじめに」から。

~今や、「生物心理社会モデル」という言葉は、医療・心理臨床領域だけでなく、看護や福祉の領域でも多用されている。このモデルをどのように理解して、どのように活用するかは、各々の領域でその場のニーズに応じて行われるものであろう。しかし、共通して持っておいてほしいモデルの要点がある。病気や障害を持つ人、あるいは健康な人を、生物学的視点、心理学的視点、社会的視点と分割してみるのではなく、その相互性を考えながら統合的に理解して介入するということである。

~このモデルの臨床場面における使用の誤りが指摘されている。一つはマクダニエルがいう「分離された生物心理社会モデル」に基づく診療である。これは厳密には還元主義である。たとえば胃潰瘍を生物医学的レベルで対応して、そのレベルで対応にできないときに心理社会的アセスメントに移るという方法をもってするやり方である。このアプローチでは、疾患の原因が患者の体ではなく「頭の中だけ」あるいは「環境だけ」にあると、患者に誤解させてしまう。

~二つ目は、このモデルを「全人的医療」という誰もが使いたがる簡単な言葉に収斂させてしまうことで、パターナリズムにのった「思いやり」「共感」「人間理解」というところで思考停止させてしまう。これでは身体、心理、社会環境のダイナミックな相互性が見えなくなる。階層性を超えて互いの因子がフィードバックしあいながら影響し合っている視点を落としてはならない。

~そこで、私たちは「BPSアプローチ」と呼ぶ。臨床はモデル(視点)だけでは成り立たず、それに基づくアプローチ(接近法)があってこそ完結するからだ。

BPSアプローチとは、患者や家族のことに気持が向く実践者であれば、誰もがやっていることだ。また誰もがやれる(やれた)ことである。患者が必要としていること、患者の生活世界に思いを馳せれば、身体的・精神的・社会的な側面に目が向くものである。その相互性を踏まえてはじめて適切な治療や援助を行えるのだと私は思う。人を助けたいと思ったら、良い治療、良い関係、良い環境をそろえてあげようとするのが対人援助者だ。


●コメント
最近観たTVで「医者はよくストレスのせいにする」と芸能人が言っていて、これこそ一般的な患者の「分離された生物心理社会モデル」への誤解を示しているんだろうなぁ、なんて思いました。確かに因がよくわからない時にストレスの説明で「煙に巻く」みたいな医者も実際にはいるのでしょうが、
 
「患者が必要としていること、患者の生活世界に思いを馳せれば、身体的・精神的・社会的な側面に目が向くものである。その相互性を踏まえてはじめて適切な治療や援助を行える」
 
と考えれば、ストレスという説明は決して的外れではなくて、大切なのは説明がそこで終わらず、症状と生活習慣の相互性を踏まえた治療法を考えるための質問や対話がなされるかどうかじゃないかと。
 
しかし、聞く側も「医者なんだから病気のことは何でも分かるはずだ。現代医学はなんでも治せるはずだ」なんて幻想を持っていたり、世の中のことは科学的見地からスパッと綺麗に説明できるはずだという直線的因果論の考え方しかなければ、治療者と一緒に考える対話は成り立ちません。治療者ー患者関係も「相互性」によって成立します。一文字抜くと「相性」ですね。
 
また児童福祉分野において僕が「生物心理社会モデル」の相互性で真っ先に思いつくのが、感情コントロールが悪い「キレる子」です。もっと言うと、被虐待児のコントロールの悪さは、先天的な「器質的要因」なのか、後天的な「環境的要因」によるかなんて、脳の発達と環境の相互的な影響があるのでスパッと綺麗に説明なんてできないだろう、という話しです。
 
感情コントロールと脳の制御系の話を掘り下げると、下の図の通り「脳や神経系」は、乳幼児期に急速な容量の成長と脳の配線」は発達を遂げて、10歳には成人の脳の1/3を占める「前頭連合野」がほぼ出来上がるとされています。
 

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【参考】「脳の発達」と「生活習慣」
 
ちなみに「前頭連合野」は、行動計画に必要な情報を受け取り、複雑な行動計画を組み立て、その実行の判断を行ったり、視覚的に与えられた目標への眼球運動の制御を行う領域みたいです。
 
まさに衝動的で感情コントロールの悪い子は「前頭連合野が上手く働いていないと思うのですが、脳がドンドン育つ乳幼児期に虐待を受けている子に関しては、その不具合が生まれつきの「器質的」なものなか、不適切な環境(必要な刺激や栄養を十分に得られない、虐待受ける目撃する)による脳の発達の不具合なのかなんて、もはやハッキリわからないわけです。
 
もっと言うと「生まれつき」も厳密には変な話で、産まれる前の体の中にいる時から「必要な環境や栄養素が届かない」ことによる「発達の不具合」である可能性もあるわけで。
 
僕も勘違いをしていましたが「器質的障害」を辞書で引いてみたら、
~有機体を組織している諸器官(構造)のうえに、なんらかの損傷を受けたために生じた行動または精神面の障害(大辞林 第三版)
 
とあって、器質的にそもそも「生まれつき」なんて意味はないんですね。もともとの精子卵子の遺伝子レベルで損傷だろうが、受精してからの母体内での損傷だろうが、出生してからの成長段階での損傷だろうが、とにかく諸器官(構造)の損傷から生じた行動や精神面の障害は「器質的障害」と言えるようです。
 
すると、諸器官(構造)の損傷する「環境」が必要なわけで、遺伝子レベルの損傷だとしても、どこかの先祖がその時代の環境から受けた損傷による影響なわけです。極端な例を出せば、放射能の影響で自分の子や孫の発達に影響が出たとしたら、それを環境的要因と言わないのかということです。じゃあ「器質的要因」ってどこまでいっても「環境的要因」によるものじゃないかと屁理屈的には思うわけです。
 
放射能の例は極端ですが、虐待の連鎖を考えると、
①親の子ども時代も虐待ネグレクト
→②親自身、脳の発達が不十分促されていない
→→③その個体情報を次の世代(子ども)が引き継ぐ
→→→④さらに、その子が十分養育されない
 
と秘伝のタレみたいに、継ぎ足し継ぎ足しで知的障害や発達凸凹が続いていくのは、遺伝的要素×環境的要素の掛け算的な状況があると思うんです。逆に言えば、早期発見、早期療育を受けていれば発達凸凹が多少マイルドになったり変化が起きる可能性があるだろうことは随分言われていると思います。
 
脳の発達バランスを「雪だるま」で例えるなら、元々の発達のバランスが整っていて、雪さえあればそんなに考えずコロコロ転がすだけで問題なく綺麗な雪だるまになる系の子もいれば、元々ゴツゴツした感じで、転がすとドッタンバッタンしたり、考えて慎重に転がさないとかえって凸凹が酷くなったり割れて壊れてしまう系の子もいるような個体差はあるんだと思います。たとえ同じ親のきょうだいであっても、生まれ持ったものは全然違いますよね。
 
さらに感情コントロールの「生物×環境」の相互性を言えば、例えば一般よりも高い過敏性を持った人はいるのは事実です。そして身体感覚は感情と繋がりやすいので、生まれ持った過敏さ鈍感さによって、感情が揺れやすかったり揺れにくい、つまり感受性の個体差はあると思います。
 
しかし、乳幼児期の脳や神経系の回路は柔軟に変化する可能性があるので、元々持っている自分の感覚とそれに付随する感情と上手く付き合っていけるかどうかは、乳幼児期の経験によって神経系がどう適応的に進化したかによる所も大きいんだろうと思います。ご存知の通り、発達障害を持つ人がみんな暴れるわけでもキレやすいわけでもないですよね。
 
養育者目線で言えば、その子の特徴に合わせて色んな経験や体験を積ませたかどうか。もっと言えば過敏で泣きやすい子は、ヨシヨシされて感覚感情を納めていく練習がたくさん必要で手がかかるが、そのお陰で神経系や脳の回路が繋がったり整ったりしているということ。これは「アタッチメント」の話そのもので、感受性が悪いとアタッチメント形成が遅れる傾向はありますが、決してアタッチメント形成ができないわけではありません。
(参照【第29回】コラム)
 
しかし、アタッチメントや感情が不安定な養育者が、過敏な子どものイライラ感情感覚を一緒に収めていく経験を共に積むことがいかに難しいかは想像に難くないですし、加えて流行語のワンオペ育児」じゃ身が持ちませんよね。
 
人間は本来集団養育する生物で、日本だってほんのひと昔前の乳母や祖父母に育てられた人たちが皆アタッチメント形成が出来てなかったなんてことはありませんよねアタッチメント対象は複数あって良くて、イライラを収めるだけじゃなくて、視線が合う、声かけで笑うと言った何気ない情動体験を含めて、要は脳や神経系の回路が繋がる体験をいかにたくさん積めるか否かが、その子基礎を作るわけです。
 
ネグレクト児の状態や予後が重たい理由がそこで、そもそも脳や神経系の基礎や回路が未発達ということです。逆に言えば、身体的虐待を受けていたとしても、乳幼児期は誰かに可愛がられていたとか、学校がはじまり勉強絡みから虐待的になったなんてケースは、もともと乳幼児期に培った脳や神経系の基礎を持っている可能性があるわけです。これが生育歴が重要な理由ですよね。どんな石でも磨けば光りますが、やはり原石の種類によって光り方の伸び代に差が出るのが現実です。
 
なので、屁理屈をこねた「器質的/環境的要因」については、
【器質的要因】理由はどうあれ諸器官(構造)になんらかの損傷や発達不具合を乳幼児期までに起こし、もはや時期的に変化が難しくなっている部分
【環境的要因】状況によって現在持っている力が発揮されないが、諸器官(構造)的な資質に問題はなく、環境次第でフラットな状態に戻れる柔軟性がある部分
 
なんて理解で、僕の中では落としました。
 
脳や神経系の発達に合わせた育成は、スポーツ界で「ゴールデンエイジ」という言葉で言われるようですが、その時期を逃すと技術が身につかない手遅れみたいな誤解がよく生まれるそうです。そうじゃなくて、10歳までは偏りなく様々な経験をさせて、色んな神経回路を繋げましょう、身体コントロールの基礎を高めましょうという話です。
 
スポーツだけじゃなくて、10歳前後でおそらく育成の方向性が変わるんだと思います。ある療育雑誌の思春期特集で、思春期以前は「安全のために保護する時期」、思春期以降は「失敗を担保する時期」と書かれていて、なるほどなぁと思いまして。脳や神経系で言うと、思春期までは「容量や回路を増やす」時期、思春期は「全体を統合して上手く使いこなす練習をする」時期なんじゃないかと思うんです。
 
それは【第32回】現役目線「プロとしての成長とは」
プロに入ると「成長」の意味合いが少し変わります。プロに入るまでの「成長」が、自分が持っているものを増やしていくことだったのに対し、プロに入ってからの「成長」とは、それに加え、自分が持っているものを試合の中で表現できるようになることに変わります。
 
にも通じる話で「レディネス(準備性)」という言葉がありますが、会話でもお笑いでもスポーツでも「確かに間違いじゃないんだけど、タイミングが違うんだよ」ってこと、ありますよね。養育や育成でも似たようなことが言えるじゃないかなと。
 
「精神的な発達段階に合わせて~」なんて言うと、目に見えないし分かり難いし、いつまでも甘やかしてばかりじゃダメだと保護者が焦る気持ちになるのは当然だと思いますが、脳の発達段階や未発達な部分という理解で、段階や状態に合わせた体験や子どもにとって吸収率のいい方法という観点で話したら少しは理解を示してくれる理系っぽい人もいると思います。
 
NHKスペシャル「ニッポンの家族が非常事態!?我が子がキレる本当のワケ」
 
でも取り上げられていましたが、思春期は親離れの時期で、身体的な成長変化も大きくホルモンバランスが崩れて不安定な状態ではあるけど、脳の学習機能はとても高まっているらしいですよね。
 
安定ばかりが成長を促すわけじゃなくて、不安定な状態をどう乗り切るかって年齢関係なく人を成長させると思います。まさしく「レジリエンス」の話です。時に若気の至りと言う無鉄砲に思える行動をしながら、主体的に動いては失敗したり試行錯誤を重ねて自分の持つ資質の中で上手くやりくりする体験を積む時期なんだと思います、思春期って本来。
 
思春期は「失敗を担保する時期」って言われれば、そうだよなぁと思いつつ、社会的養護になると年齢的に使える資源がホント限られますし、大き過ぎる失敗は生活場所を失うことに直結してしまうので、社会的養護の思春期は生物的視点とは真逆の「失敗が許されない」環境に現実なってしまっているよなぁ、と感じてしまいます。
 
持っている資質自体に個体差があるわけですから、それをどう活かしたり上手く使えるようにするかは、人がレールを敷いて教えられるものではなく、自分で試行錯誤やって体験していくしかないと思うんです。このような生物的成長を踏まえた思春期前後の支援の切り替えを、現実の資源の中でどう折り合いをつけて形にするのかって、自立支援を考える上では外せない要素ですけど、結局答えが出ない「理想と現実」のジレンマで、いつも頭を抱えています。
 
話が拡散しすぎて、自分でもよく分からなくなってきましたが、生物心理社会モデル」身体的・精神的・社会的の相互性は大事なんだけど、このように考え過ぎると、堂々巡りの迷宮に迷い込んでしまう難しさもあるなぁ、と思います。
 
その意味では、
「臨床はモデル(視点)だけでは成り立たず、それに基づくアプローチ(接近法)があってこそ完結する」
 
はその通りだと思いますし、現実には「時間」という縛りの中で、全体を偏りなく俯瞰しながら「選択」していく作業になるんですよね、きっと。
 
この機会に本書を読み返しながら、そんな頭の整理が少しは出来たらと思います。
 
ではでは。
 
 

【第34回】フィッシュボール

メンバーの皆さま

こんにちは。管理人です。

今回は、先日の静岡LSW勉強会で試みた「フィッシュボール」いう対話形式の紹介です。

ちなみに「フィッシュボーイ」は大ヒット曲「PERFECT HUMAN」でお馴染み、ダンス&ボーカルグループRADIO FISHのダンサーで、芸人のオリラジ田中あっちゃんの弟FISHBOYですね。完全にどうでもいい脱線です、すみません。

で、話題を「フィッシュボール」に戻しますと、アメリカで生まれファシリテーションの手法で、「フィッシュボール(金魚鉢)」の中の魚たちと、それを外から眺めている(観察している)人たちとの姿からの連想で、このような名前になっているそうです。

イメージ的には、こんな感じです。

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二重の円のような形で座り、まず内側の円の人たち(参加者)が話して、外側の人たち(観察者)は黙って聞いている。その後、内側外側で交代し、外側から聞いていて感じたことを話し合い、これを相互に繰り返します。


静岡LSW勉強会で「フィッシュボール」形式を取り入れた理由ですが、ひとつは単純に参加人数が10人を超えてくると、話し合い時の一人一人の顔の距離が遠くなってきた、ということ。

そして、フィッシュボールの特徴と効果として、

  • グループの気風・規範や、それを形成しているメンバーの態度・行動についての「気づき(自覚、洞察)」を深めることにある。

  • グループ同士で相互にフィードバックしあうことによって、他者の言動に対して率直にフィードバック(指摘)するときの効果的なやり方、および他者からフィードバックされたときに、謙虚にそれを受け止めるやり方を学習することも大きなねらいである。
能力開発データベースよりhttp://noukai.tetras.uitec.jeed.or.jp/giho/58.shtml

と、当勉強会で大切にしている「内的対話」「気づき」「オープンに話す誠実さ」「違う視点に耳を傾ける謙虚さ」とマッチしている点。

さらに加えて、LSWの疑似体験としての狙いを含んでいます。具体的な勉強会の形式と、内側、外側、全体それぞれのメンバーの感想と共に、その場で起こった体験や狙いを振り返りながら説明します。

今回の勉強会参加者は12~14名(途中の入退室あり)。内側は6~7名で、まず管理人がLSWの研修トピックを報告し、内側メンバーで感想を語り合い、その後に内外で交代して話し合う形式です。

まず内側として「人数が少ないから話さないといけない圧を感じた」という感想をいただいたのですが、これは非常に意味のある「気づき」だと思うんです。例えば1対1の面接でも、面を合わせていると相手の言った内容に何か返さなきゃなんて焦るような思いになった体験ってありませんか?

日本のLSW場面で考えると、児童福祉司が家庭や親の状況等を伝えて、施設担当者、児童心理司が子どもと一緒にその話を聞くなんて役割分担の場面があると思います。そこでは、子どもの内面で様々な想いが巡っているはずで沈黙が続くような場合もあるでしょう。その時、周りの大人が「どう?どう思った?」と語らずとも無言のプレッシャーを与えてしまっていることってあると思うんです。


また外側の感想として「この流れ、この話題で話しに入りたい!」という感覚になった方もいたようで、これも大切な「気づき」ですよね。外側の人は観察者であって、良くも悪くも発言権がありません。すると、目の前の対話とは距離を置いた第三者として「自分の思考や感覚」と向き合う体験をせざるを得ません。

まさに、それこそが観察者であることの狙いで、そこで自分の中で起こった体験に「気づく」ことが、自分の興味関心についてより理解を深める内省へと繋がります。また内側の「話さないといけない圧」から完全に解放されるので、誰にも邪魔されない安全安心な状態で自分の世界に入ることができます。

ちなみに前回コラム「Action Inquary(行動探求)」的に言うと、内側だと(人数が少ない程)自分の意識が外の世界で起こっている対話に対して何を言おうかの対応に追われる「第一領域」メインになってしまいがちですが、外側の観察者になると、自分がどう感じているのかの「第二領域」、さらに自分が何故そう感じたり考えるのかの「第三領域」にまで意識が及んでいると言うことなんだと思います。そして、内側にいながら複数領域に同時に意識を向ける状態を「第四領域」だと行動探求的には言っていましたね。

そして、話したいけど話せない、聞いてもらえない「ジレンマ」を体験することにも大きな意味があると僕は思います。例えば、普段の面接場面でも、明らかにクライエントが話したがっているのに、支援者がダラダラ話し続けている場面って、支援者は気付いてないだけで結構あると思います。

LSWも同様に、支援者のとりあえず伝えなきゃが先行して、相手のペースに合わせた対話ではなく一方的な告知になることは珍しいことではないと思います。もちろん内容を伝えきることは大事ですが、もっと大事なことは、聞いた当人が話を聞きながら何を感じ、何を想像し、何に想いを巡らせたのか共に味わうことですよね。

その意味では、勉強会と言う性質上、時間を区切らざるを得ないので、体験を共に味わうような無言の時間をたっぷり取れなかったのが心残りであり、今後の課題でありジレンマですね。

また視点を変えると、支援者や大人がどう感じたのかを子どもが客観的に知るという事も、非常に内省を促す体感になると思います。例えば、LSWで「お母さんは〇〇という気持ちだったかもしれない」等と状況からの支援者の推測を伝える場面ってありますよね。その時、子どもに面と向かって伝えると、その関係性や大人の人数次第では、心の底では「そう思えない」感情の部分を表現しにくくなったり、逆に「そんなはずない!」と反発の水掛け論になる可能性もあると思います。

そこで、面と向かって伝えるのではなく、●支援者、〇子ども、とすると

● ⇄ ●
    〇

支援者同士で「私は〇〇と思ったんですけど、どう思いました?」「僕は話を聞いて〇〇な気持ちになりました」みたいなフィッシュボールの内側のような会話を、子どもに第三者(観察者)として見せると言う手法を意図的に使うのも有効かと思います。複数の視点や当たり前の葛藤を目の前で見せて「こう思う大人もいるけど、聞いててどう思った?」と聞いちゃうんです。どっちもありだし、その他もありというスタンスで。

大事なのは、事前の打ち合わせなしで、支援者がその場で感じことを正直に誠実に話しているかどうか。嘘臭い猿芝居はすぐにバレますし、かえって何か企んでいる意図を感じて不安感や不信感を募らせます。しかし、支援者の感覚をオープンに、そして間接的に聞いてもらうことで、その人とは違った視点を押し付けがましくなく伝えることが可能になります。

これは家族療法分野で注目されている「オープンダイアローグ」という支援方法の考え方や手法の一部ですが、LSWに応用できるなぁと思って注目しています。

また、参加メンバーから「あの場に家族も一緒になって話して欲しいですね」という全体に対しての感想もいただいたのですが、まさにその通りで、当事者、家族、関係者を巻き込んだ率直でオープンな対話(dialogue)は「オープンダイアローグ」そのものになります。

すると、オープンダイアローグについて気になってくるとは思いますが、今回のお題は「フィッシュボール」なので、またの機会にじっくり取り上げたいと思います。

ではでは。

【第33回】Action Inquiry「行動探求」

こんにちは。管理人です。

この3連休は台風がやってくるそうですね。皆さまお気をつけください。

実は僕の中では前回、前々回コラムに「相互関係における自分を見つめる」というテーマを持っていて、今回は第3弾です。

前二回で将棋、麻雀、サッカーと人数規模を広げつつ、それぞれのプロフェッショナルが自分を高めるために何を考えているのか紹介しましたが、

今回はさらに広げて「組織論、リーダーシップ、マネジメント」における自己意識、自己成長についての図書を紹介します。前二回が感覚派とするなら、今回はかなり理論派の話。

正直ちょっと小難しい内容でして、紹介したい気持ちと面倒臭い気持ちが半々くらいで二の足を踏んでいたのですが、前二回を書きながらようやく踏ん切りが着きました。

結局は切り口が変わっても、どの分野の一流もやはり似たような所にに行き着くよなぁ、と言うのが僕の感想ですが、将棋、麻雀、サッカー、ビジネスどの話がご自身とってにしっくりとくるか比較して味わってもらうのも、自己理解に繋がって面白いかもしれません。

それでは。

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【説明】(amazonより)

個人・組織の変革の鍵である「意識レベルの変容」は、どうすれば可能なのか。「行動」と「探求」を同時に行うことでこの問いにアプローチするのが、発達心理学の知見に基づくリーダーシップ開発手法「行動探求」である。独特の観点から人と組織を特徴づける7つの「行動論理」によって、読者は自身・自組織の傾向をつかみ、適した成長の指針を得られるだろう。理論的解説にさまざまなビジネスパーソンの臨場感あふれるストーリーが織り交ぜられていることで、実践の場面を想像しながら学べるはずだ。リーダーシップやマネジメントの力を飛躍的に高めたい人、必読の一冊。


「『行動探求』はビル・トルバートの最高傑作であり、組織の発展と個人の成長、理論と実践、内省と行動、身体と精神を新たな形で統合する。本書を読めば、自分自身の全体性をよりよく感じられるようになるだろう。」
―― ロバート・キーガン(ハーバード大学教育大学院教授、『なぜ人と組織は変われないのか』著者)


【内容】(すごく簡単に要約しています)
◆4つの体験領域
まず、自分の意識や注意が向けられる領域についての整理です。

第一領域)外部の出来事や結果
第二領域)自分の認識する行動・身体
第三領域)自分の内面・行動論理・認知・思考
第四領域)自分の源・進行中の意図・ビジョン

~ふつう、人生の中で、言語を学んだばかりの時期は、体験の第一領域(外の世界)に直接的に対処する方法を学ぶ。より上手に使ったり、競技をしたり…
~その次に、私たちは、十代の友だちや、ときには相談役としての両親を相手に、体験の第二領域である私たち自身の行動そのものにより焦点を当てる…

~大学生か20歳代前半になるまでには、私たちの多くが、認知の領域(体験の第三領域)において創造的な能力または問題解決能力を開発することによって、それが作曲であろうと、会計であろうと、ソフトウェア開発であろうと、医学であろうと、新しい価値を提供することに主な注意を向けるようになる。

もっと具体的にいうと今コラムを読みながら自分の意識が、①物体としてのスマホ・PCの感覚(第一領域)、②自分の呼吸の感覚(第二領域)、③文章の意味の感覚(第三領域)、④体験の他の三つの領域を一度に二つ以上意図的に注意を払う感覚(第四領域)、のどの領域にまで行き渡っているか、ということを言っています。

~個人レベルの行動探求(アクション・インクワイアリー)は、行動の最中に、それと同時に、進展中の状況について学習し、優先順位の高いと思える任務を遂行し、必要であれば、その任務の目的の修正を促す一種のスーパービジョンである。

~ここで提案する注意の訓練は、最初に必要になる「気づき」についてである。前述したように、第一歩は、私たちの通常の注意や意識がどれほど限られたものであるかを認識し始めることである。私たちの内側では、気づかないままに多くのことが進行するからだ。


◆話し方・関わり方としての行動探求
そして、4つの体験領域は、
①個人レベル(主観の注意)だけではなく、
②二者間レベル(相互主観の注意)
③集団・組織レベル(客観の注意)
に関わる時の気づきにも応用が可能とのこと。

例えば、二者間での話し方(問いかけ、主張、説明、枠組み)も自分自身の意識の領域によって以下のように構築されます。

『問いかけ』→私たちを超えた外の世界における、他の人々の経験に対する懸念や自分の行動の結果に対する懸念によって導かれる(第一領域)
『説明』私たちの自身や相手の行動についての私たちの感知に基づく(第二領域)
『主張』→私たちの思考に焦点を合わせる(第三領域)
『枠組み』→私たちの注意に焦点を合わせる(第四領域)

集団の組織化に関わる時の説明は省略しますが、言いたいことは、対人であれ対集団であれ、自分の関わり方は自分自身が意識している領域に影響される、つまり自らの意識の違いによって自分が相手や集団に与える影響も変化するということです。


◆7つの行動論理の発達プロセス
~私たちが変容するとしたら、これらの4つの行動論理(前期)を順に経ながら進歩し、その後にもっと後の章で説明する他の行動論理(後期)へと進むという考え方は、発達理論と研究によって、文化横断的に強く裏付けられる。

(前期)
1.機会獲得型(オポチュニスト)
物理的あるいは外の世界における結果の体験領域(第一領域)を主な現実として扱い、そこで物事をコントロールすることに重点を置く。自己に有利な機会を見出し、結果のために手段を問わず行動する。短期的な視野。物理的な非常事態において有能であることが多い。

2.外交官型(ディプロマット)
自分自身が感知する行動の体験領域(第二領域)を現実の重要なものとして扱い、効果的に行動するために自制心を働かせることに重点を置く。ルーティンや規則、規範を重視し、親しい集団に対して忠実。身分や地位を追求する。面子を保つことが極めて重要。

3.専門家(エキスパート)
戦略の体験領域(第三領域)を主な現実として扱い、経験的に体得した特定の分野を一つ以上習得することに重点を置く。問題解決に関心があり、原因を追求する。効率化を目指す。自分が練り上げた論理を根拠にして自分や他人に対して批判的である。

4.達成者(アチーバー)
目標の達成に情熱を傾ける。自分自身の考え方と相手の考え方との相違に注意を払い、チームワークや、意見の一致によって形成される合意に価値を置く。長期的な目標。イニシアチブを取り、行動のフィードバックを歓迎するが、成果を求める取り組みがなされるのは、自分自身かあらかじめ決めた重点事項についてだけ。行動論理そのものの妥当性を疑問に疑い、行動の最中に出来る限り自分の手法を再構築する準備はできていない。

~本書では取り上げないが、私たちの人生はまず「衝動的な」行動論理という段階からスタートする。そして大部分の人が、3歳から6歳くらいまでの間のどこかで「機会獲得型」の行動論理へと変容する。大多数の人は、通常12歳から16歳までの間に「外交官型」へと変容する。そして一定数の人は、21歳までに「専門家型」の行動論理へと変容するが、それよりはるかに多くの人たちが、働き始めてから十年のうちに、その段階へと変容する。

~大部分の人は、体験領域のうちの戦略・行動・結果を(たいてい6歳から26歳までの間に)一つずつ習得した後は、もう二度と自分の行動論理を変容させることはない。だが、少数派である(約40%)高い教育を受けた熟練した大人はもう一度変容し、達成者型の行動論理になる。

~達成者型の行動論理の段階に達して初めて、異なる対象期間を同時にうまく扱うことを、単に厄介なことと考えるのではなく、マネジメントというものの本質に近いものを理解するようになる。

~あらゆる業界・組織レベルのマネジャー497人の発達段階分布は、機会獲得型3%、外交官型10%、専門家型45%、達成者型35%、以降の行動論理7%

~私たちは、それぞれの体験領域ーまずは機会獲得型として外の世界、次に外交官型としての自分自身の行動の世界、そして専門家型として思考の世界、さらに達成者型としてそれら三つの間の相互作用ーにおけるスキルと制御を順に徐々に高めていくことによって、うまく関係を築く方法を学んでいる。

~(ここまでの)在来型の行動論理が「共通性」と「安定性」を大事にするのに対して、ポスト在来型の行動論理は、次第に「相違」と、行動論理の進行中の創造的「変容」への関与を大事にするようになる。


(後期)
5.再定義型
戦略・手段・意図の一貫性を問いながら独創的に行動する。相対論的な考えをする。現在の状況と過去の状況の両方により重点を置く。対立感情を意識することが多い。判断や評価をしたいとあまり思わない。自分自身の影(と自分自身のマイナスな影響)に気づき始める。意思決定機能が麻痺する可能性がある。

~ポスト在来型的な理解に対する気づきを得始める時期は、私たちにとって混乱する時期かもしれない…だがこれは、それまで味わったそれぞれの経験が一新する時期、私たち自身や他の人たちの独自性への新たな劇的な洞察の時期、新たなレベルの親交に到達する関係を構築する時期、そして世界に対する新たな関心を追求する時期でもあるだろう。

~従来型の段階にある従業員たちの目には、再定義型のマネジャーは、確実性や確固たるリーダーシップがそれほどないようにも映る。これは、再定義型が、現在の状況で幾重にもの階層から成る前提や解釈が働いていることに気づいているためでもある。

6.変容者型
主な特徴は、行動中の自己への気づき。相互性、自律性に高い価値を起き、ある種のタイムリーな行動の可能性に魅了される。正しい意思決定を行い、それを維持するためにはー単なる規則、習慣、例外ではなくー道義、協定、理論、判断が重要であることを認識している。短期的な目標思考と長期的な発達プロセス志向を織り合わせる。衝突を創造的に解決する。さまざまな役割を楽しむ。機知に富み、経験に基づいたユーモアがある。権力の影の側面に気づいていて、それに心が引かれる。

意図を察知し直観的・イムリーに他者の変容を促しながら行動する。絶えず自分自身の注意を働かせ、直観、思考、行動、外の世界への影響の相互作用に対する4つの体験領域へのフィードバックを追求する。個人、グループ、組織、国際政治というあらゆるレベルの発達における類似性に積極的に注意を向ける。明るい面と暗い面、永続的なパターンの反復、以前暗示されていたものの出現を認識して、他者を包括する現在に根ざしている。状況の枠組みを再設定する想像上の出来事を共同で作り出す。仲間を魅了したり、尊敬させて征服させたりするためではなく、協働的な行動探求を行う仲間の意欲をかき立てるために、その人個人の精神的エネルギーである「カリスマ性」を使う。相互的な「自分をさらけ出す力」を行使しビジョンを共有する。

『chang-agent』より
~ビル・トルバート氏が「アルケミスト型」についての理解を促すとき、理論よりもストーリーを多く用います。それは、わたしたちが、言語や論理上の解釈でなく、より想像力や感覚の力をつかってアルケミスト型の芸術的な生き方/はたらきかけ方を掴みとれるようにするためです。

行動探究(アクション・インクワイアリー)とは、「複数のことを同時に行う」ことだと、ビルは繰り返し言います。このことに最も熟練した状態を、アルケミスト型と名付けています。これまでに「4つの体験領域」の紹介をしましたが、それは、いま・この瞬間においてこの4つのどの領域にも意識を持っていけることを練習するためにつくられたフレームです。また、「主観・相互主観・客観」の三者の視点を常にもってその場の真実を探求すること、「個人の統合、二者間の相互性、組織の持続性」の3つのスケールにおける発展、成熟を目指すこともそうです。


●コメント
すみません。最後は上手くまとめきれないのでサイトの引用に逃げてしまいましたが、興味がある方は『chang-agent』サイトに行動探求(アクション・インクワイアリー)の詳しい解説がありますので参考にしてください。

注意していただきたいのは、このリーダーシップの7つの発達段階は、進んでいるから「良い/悪い」ではなく、ただ自分はそういう段階なんだ、と理解を深めるだけだそうです。必ずしも発達段階が進んでいることが幸せとは限らないと。

これは納得です。広く深く理解できてしまうが故の苦しみ。見えてしまうが故に感じる葛藤や孤独感、出来るが故にどんどん負担が増えていくジレンマ。本書によると、この発達段階は組織の成長にも当てはめることができるわけですが自分と周囲のギャップがあり過ぎると理解されずに孤立していくことって、どの分野でも起こりますよね。

その状況の枠組み自体を再設定して変容していけるのが「アルケミスト型」なんだと思いますが、本書によると世の中にめったにいないそうです。

「大部分の人は、体験領域のうちの戦略・行動・結果を(たいてい6歳から26歳までの間に)一つずつ習得した後は、もう二度と自分の行動論理を変容させることはない」

は、実にそう思います。この発達段階は相手に求めるものでもない事は承知していますが、

「あらゆる業界・組織レベルのマネジャー497人の発達段階分布は、機会獲得型3%、外交官型10%、専門家型45%、達成者型35%、以降の行動論理7%」

自組織のリーダーにどのような型の人が来るかはガラガラポン状態。おそらくコラムを読みながら「あの人って、これかな」なんて想像したのではないでしょうか。そう思ってしまうのは仕方ないですし、これは受け入れないといけない現実だろうと思います。

しかしながら、
「少数派である(約40%)高い教育を受けた熟練した大人はもう一度変容し、達成者型の行動論理になる」

わけですから、年齢に関係なく資質のある人はどんどん高い教育を受ければ良いんですが、高い教育って何かと考えると、自己分析、内省、スーパービジョン、もっと平たく言うと「自分を見つめ直す」ことなんだと思うんです。

LSWって自分を深く見つめ直す作業ですよね。もう言わんとしている本質は伝わっていると思いますが、自分を深く見つめ直す作業をしたことがない人が、他人が自身を深く見つめ直すことの支援なんて、出来るわけないですよね。

そして、LSWはたくさんの支援者が助け合うことが必要ですから、チームや集団をまとめたりマネジメントする「リーダーシップ」は支援者にとって必要不可欠な要素だと僕は思います。

ここで問題は「リーダーシップ」と言う言葉は、それぞれ持っているイメージにすごく差があるので、また共通理解が得られにくくなると言うことが起きます。

しかし、本コラムを読んでいる方とは、自己内省こそリーダーシップには必要で、専門家もリーダーシップの観点では大したことがないことが共有できたと思います。

なので、その業種の専門的知識を学ぶこととは別ラインの成長学習として、多職種連携や協働的資質を高めるための「自分を見つめ直す」内省や「新たな気づきを得る」他者との対話は続けていくことは必要だよなぁ、と思いますし、そのような志を持った人たちと一緒に学んだり仕事ができる環境があるということは実にありがたい幸せなことだなぁ、と思いました。

ではでは。

【第32回】現役目線「プロとしての成長とは」

メンバーの皆さま

おはようございます。管理人です。

コラム開始から早3ヶ月。気がつけば、すでに30回オーバー。我ながら良くこのペースで更新が続いているなぁと思います。

コラムと言えば最近、元鹿島アントラーズ岩政大樹氏の「現役目線」というコラムを見つけたんですが、これが面白くてですね。

現役選手を続けながらサッカー選手のトレーニングから試合における思考や精神状態を綴っているコラムなのですが、「現役選手にここまで言語化されちゃうと我々の仕事なくなったちゃうよ」とライター泣かせのクオリティーなんです。岩政氏の記事は本コラムの【第4回】「勝てるチームとそうでないチームの差」でも取り上げているので印象に残っている方もいるのではないでしょうか。

そして、偶然にもプロフィールを見たら、僕と同じ1982年生まれの35歳。

分野は違えど、僕も現役の児相職員としてコラム配信をする身として、勝手に「僕もがんばんなきゃ」みたいな気持ちになりましたし、「まごのてblog」も現役目線であることに価値があるのかな、なんて思いました。

で、今回はその「現役目線」コラムの一つから。一流選手に見られる普遍的な姿勢について語られているのですが、「専門家の成長」という観点でサッカー選手に限らず非常に参考になります。


岡崎慎司内田篤人の共通点「サッカー選手の成長」とは  http://best-times.jp/articles/-/2036

【内容】(一部抜粋)
〜彼(岡崎慎司)のもっとも優れている点と言えば、僕はバランス感覚だと思います。今自分にできることと、できないこと。今自分がやるべきことと、やらないでおくべきこと。そのバランスをその時々の自分と向き合いながら、常に調節しているように見えます。

プロに入ると「成長」の意味合いが少し変わります。プロに入るまでの「成長」が、自分が持っているものを増やしていくことだったのに対し、プロに入ってからの「成長」とは、それに加え、自分が持っているものを試合の中で表現できるようになることに変わります。
   それはより詳しく言えば、「今できることの整理」と「“具体的に”できることを増やすこと」になります。つまり、ただ漠然とサッカーを頑張っていればサッカーがうまくなる時代は終わり、より具体的に、自分のプレーの表現の仕方を考えていかなくてはいけないということです。

〜印象深いのは、内田篤人です…当時は、僕も加減を知らず指示を出していた頃です。その頃のアントラーズのスタメンに歳下が入ることはあまりなかったので、今思うと彼には随分厳しく当たった気がします。特に、守備のポジショニングや考え方については口うるさく指示していました。
    それに対して、内田選手は、いつも大体左手をそっと挙げながら、「分かりました」というジェスチャーはしていました。頭のいい選手なので、僕が言っていることは理解していたと思います。しかし、試合では、自分の中で(理解はしていても)今できないと判断したことはしないのです。しっかりと今の自分にできることとできないことを区別した上で、自分のリズムを崩さない程度に、少しずつ取り入れているように見えました。
   結果、2年間コンビを組んだあたりでしょうか。僕が彼に言うことは何もなくなっていました。たとえ問題があっても、二人で目線を合わせたり、一言交わせば全てを分かりあえる関係だったと思います。後にも先にも、あそこまで僕の守備の考え方を理解して実践できた選手はいませんでした。

〜こうした選手たちと接してきて思うのは、プロになってからの差とは、自分にできることの表現の仕方を知り、できないことの隠し方を知っているかどうか、ということです。何かを持っているとか、持っていないとかではないのです。

〜ピッチの中で自分を表現するために、それぞれがその時々で考え、取り組む「成長」の形に、その選手の生き方や考え方が表れているように思います。


●コメント
このコラムを読みながら、児童福祉に置き換えると「プロ」って何年目くらいの立場を言うのかなと漠然と考えていました。

プロサッカー選手は、小さい頃からサッカーが好きで途方も無い練習に打ち込んで、その中のごくごく一部の人達がプロになって行きます。

しかし、現在の児童福祉では、職に就く前の練習トレーニングはほぼ皆無、その仕事をしたいモチベーションも大してない状態で、新人がいきなり試合のピッチに送り込まれるイメージが僕にはあります。そりゃ、ミスや怪我が起きて当然ですよね。

そして、大方の研修体系を見て気になるのは、いつの段階になっても「新しい知識や技術を身につけること」だけが「成長」と捉えられていないか、ということです。

確かに講義形式の研修を受けて、知識を増やすことは無駄ではないですが、大事なのは、それを自分なりに噛み砕いて整理できるか。自分が置かれている立場や体験と結びつけてどう使える(表現できる)のか考えること。そして実際にやってみて腕に馴染んできて、考えなくてもぎこちなく手足が動くようになって、ようやく実践で役に立つものになるんだと思います。

ここ数回のコラムで、

    (脳)知識       -      モチベーション(感情) 
                  \                 /
                    体験(身体)

というような円環的なバランスをあげていますが、成長においても、この3つのバランスって大事なんじゃないかなと思うんです。

例えば、現場対応はガンガンするけど研修や振り返りそして労いもなく働いているサバイバーみたいな人って福祉現場に結構いると思うんです。そうすると「体験」だけが飛び出て、「前はこうだったから」と過去のいち体験に囚われ過ぎてバランスを欠いた状態に陥っているようなことって少なくないのではと思います。同時に「未完の感情」が残っていることも多いのでモチベーションも上がりにくい状態と思います。(第7回あたりのコラムhttp://lswshizuoka.hatenadiary.jp/entry/2017/06/22/210429参照)

逆に「知識」は豊富で、言ってることは確かに間違ってないんだけど、なんだか説得力に欠けるというか話し手自身の言葉になってなくて結局何が伝えたいんだかイマイチわからない事ってありますよね。それって、上の図で言えば、知識に伴う「体験」が足りてなくて知識が上滑りしているような感じなのかなと。

そして、「体験」を十分に積んでいるはずなのに、研修による「知識」を入れても全然結びつかなかったり整理に繋がらない場合は「モチベーション」が追いついてない状態なのかな、と思います。

「知っている」のと「出来ること」は全然違うことはもはや言うまでもないと思いますが、ただ「知識」や「体験」を積み重ねるだけでなく、この「心技体」ならぬ「心知体」のバランスを整えることも、パフォーマンスを十分に発揮するための重要な「成長プロセス」と僕は思うんです。

確かに何にも知らない人は「体験」を積んだり「知識」を入れるだけで乾いたスポンジのように吸収するとは思います。しかし、いつか水が吸えない状態、壁にぶち当たる時期が訪れるわけで、詰め込みすぎると容量一杯のPCやスマホのように処理速度が遅くなることって人間でもありますよね。そういう時には中身を整理したり、状況に応じて入れ替えることも必要なんだと思います。

"〜プロに入ると「成長」の意味合いが少し変わります…それはより詳しく言えば、「今できることの整理」と「“具体的に”できることを増やすこと」になります。つまり、ただ漠然とサッカーを頑張っていればサッカーがうまくなる時代は終わり、より具体的に、自分のプレーの表現の仕方を考えていかなくてはいけないということです"

それは、まさにこの段階のような気がしました。現役目線の別コラムで、

「経験とは、断片的に見ていたものを、複合的に見られるようになること」

という言葉があって僕もなるほどと思ったのですが、断片的な知識や体験はまだ素材のままで、その素材を活かすも殺すも、その後の調理、味付け次第なんだと思います。

料理であれば「塩味、甘み、苦味、酸味、うま味」それぞれ単体では味気ないですが、それを絶妙なバランスで合わせることでお互いの味を引き立てる相乗効果が生まれます。そのように複合的に見られることって、ただ認知的に知識を増やして視点を増やすことじゃなくて、もっと「脳ー心ー身体」の複合的な視点を加えて、断片的な体験を他の場面にも応用できる経験という形に調理(再構築)するようなことを言うのかなと。


岡崎慎司は、清水エスパルス入団当時からダントツで足が遅かったのは有名ですし、FWからDFへのコンバートの話もあったそうです。

でも彼はFWで勝負することにこだわり、チームでスタメンを掴み、日本代表FW、プレミアリーグ優勝チームのスタメンFWまで上り詰めたわけです。それは日本→ドイツ→イギリスそれぞれの環境下で、

「〜彼(岡崎慎司)のもっとも優れている点と言えば、僕はバランス感覚だと思います。今自分にできることと、できないこと。今自分がやるべきことと、やらないでおくべきこと。そのバランスをその時々の自分と向き合いながら、常に調節しているように見えます」

今の自分には、何が求められていて、実際には何ができて何が出来ないのか、今まで何を積み重ねて何が足りないのか。児童福祉の現場に限らず「知識ー体験ーモチベーション」のどれが一つが低下した状態だと、発揮できる全体のパフォーマンスは一番低い部分に引っ張られるんじゃないかと思うんです。

なので、大雑把に「成長」と捉えると全部足りない全部伸ばさなきゃって話になっちゃいますが、プロとして現場に出る以上、現段階でのベストパフォーマンスを発揮して結果を出すことが仕事では求められます。そして、その結果がどうあれ、その後の成長の糧になるかどうかは、その人がプロセスから結果までの一連の体験をどう意味付けるか次第なんだと思います。

"〜こうした選手たちと接してきて思うのは、プロになってからの差とは、自分にできることの表現の仕方を知り、できないことの隠し方を知っているかどうか、ということです。何かを持っているとか、持っていないとかではないのです。

〜ピッチの中で自分を表現するために、それぞれがその時々で考え、取り組む「成長」の形に、その選手の生き方や考え方が表れているように思います。"


我々は毎日リーグ戦をしているようなものですから、結果が出ない時もあるし、調子やモチベーションに波があって当然だと思います。なので、もちろん大一番で発揮するマックス値を上げる事も大事ですか、一つ一つの結果に一喜一憂することなくパフォーマンスをなるべく安定させること、状態が悪い時なりにも崩れ切らずアベレージを維持するための思考や準備を整えておく事も必要な成長であり、大事な結果ですよね。

児童福祉分野に限らず「仕事をする」ということを考えた時に、プロフェッショナル達の生き方は非常に参考になるし、やはりバランス感覚って重要だよな、と再確認できて安心しました。

ではでは。

【第31回】雀鬼 桜井章一 × 羽生善治「負けない生き方」

メンバーの皆さま

雀鬼(ジャンキ)桜井章一

二十年間無敗の伝説を持つ雀士、皆さまはご存知でしょうか?

僕は最後に麻雀打ったのが20年前ですし、特別に麻雀が好きとか詳しいわけではないんですけど、「雀鬼ジャンキ)」と言う響きはどこか耳に残ってたんですよね。

その雀鬼こと桜井章一氏と、説明不要の羽生善治氏、この麻雀会と将棋会のレジェンド同士はこれまでに何度も対談をしているようで、たまたま雑誌で読んだ2人の対談が面白かったので、今回はそこから。


【負けない生き方】(致知2017.10月号)より一部抜粋。

~麻雀が面白いのは、将棋と違って最初に大きなハンディを負って始まる時があるんです。…

~でも、そういう勝つのはちょっと不可能だろうというところから、打ち方次第で五分のところに持っていけるんです。気がついたら誰も後ろにいないとかね。…

~勝負どころで面白いのは、やっぱり自分の都合が悪い時。…

~だから麻雀は、いい手が回った時だけ頑張るんじゃなくて、本当は悪い手の時にどう頑張るかが楽しいところでね。将棋でもそうじゃありませんか。…

~例えばスポーツなんかで「競技を楽しんでやりたい」って言われることがあるじゃないですか。それも大事なことだと思うんですけど、桜井さんがおっしゃる楽しいって、ただ楽しむのとは違いますよね。めちゃめちゃ追い込まれた状況を楽しんでいく。そういうところにすごく充実感なり、生きている実感なりを得られんだなということは私も思うんです。

~そうそう。その楽しみってのは、楽っていうことじゃないんだね。この局面だったら皆まいっちゃうよなって時に、どうしのぐっていうのが楽しいし、やっぱり本当の強さだと思うんですよね。


●コメント
僕は「どうせやるなら楽しんだ方がより良い仕事が出来る」と思っているのですが、「仕事は厳しいもので耐えるもの」という認識の人に対して、その意図がうまく伝えられない奥歯に詰まってるような経験が何度かあるのですが、まさに「これだ!」と言う気持ちになりました。

例えば、麻雀でもトランプ(大富豪とか)でも、いざフタを開けたら「こんなん勝てっこないよ」って手牌や手札から始まること、時々ありますよね。

でも、その負けて当然、最悪の状況から、どうやって勝機を見出すか、ほんの少しの突破口を見つけ出すことに逆に燃えたり、それが実現して逆転した時の「してやったり感」って格別なものがありませんか?

対談を読みながら、仮に児童福祉に置き換えると、児童相談所や施設職員がケースを受けた時に「ここまでこじれる前にどうにかならなかったの?」とか「問題あり過ぎてどこから手をつけたらいいの?」と思うような、支援しようにも人への不信感たっぷりで取り付く島がないような、支援のスタート時点ですでにマイナスだったりハンディ背負ってるみたいな状況とよく似てるなぁ、と思いまして。

児童福祉って子ども支援の中で言うと、サッカーで言うゴールキーパーみたいなイメージがありまして、色んなDF(支援者)がアプローチしても近寄れなかったり、上手く対応が出来なくて、目の前に現れた時には背水の陣、もう後ろには誰もいないみたいな、自分がやるしかない状況に支援者が置かれるケースって割とあると思います。

ところが、絶体絶命の状態で起こすビッグセーブがその後の流れをガラッと変えたり、相手との駆け引きの中でなるべく時間を稼いでチームワークで失点を防ぐなんてこともあって、「ピンチはチャンス」というようにピンチは否が応でも関係性に変化を起こすきっかけになることってありますよね。

限られた時間と枠の中で、今まで誰も起こせなかった変化をほんのちょっとでも起こせばスーパープレイという思考で、ギリギリの勝負や駆け引き、間合いを楽しむ感じ。追い込まれた状況こそ、支援者の思考の柔軟性がより試されるし、対談で言う「本当の強さ」ってレジリエンスじゃないかなぁ、と思いました。
 
レジリエンスって「逆境を乗り越える力」と言われるますが、「乗り越える」と言うと登山みたいに待ってるものにこちらが向かっていく感じがある一方、「逆境」や「ピンチ」ってどちらかと言うと急に降りかかってくるイメージが僕の中ではあります。
 
急に訪れたピンチの状態で、一か八かのギャンブルで動くのではなく、ギリギリまで我慢して虎視眈々と一番勝機の高いタイミングを伺いながら、そのタイミングで今できるベストパフォーマンスを発揮する、繊細さと大胆さ、持続力と瞬発力の同居。

こう言う時って、思考や理屈だけじゃなくて五感フルに使って感覚を研ぎ澄ませないと、場の流れを読み間違えたり仕掛けるタイミングを逃すと思うんですけど、同じようなことが対談でも語られています。


【対談の続き】
~考えすぎると、怪我が多くなるんです。心の怪我、考え方の怪我が。考えるのにも怪我があると僕は思うんです。

~僕が見てて、こいつ考え過ぎて怪我してやがるなって人がいっぱいいる。自分は頭がいいとか、考えることはすべていいことだと思い込んで、精神や肉体をおかしくしてしまっているんです。

~考えるって意外といい結果に結びつかないこともあるんです。人間は弱いものですから、欲とか損とか怖さとか不安とかずる賢さとか、そういうものが考えの中に入ってしまってね。

~僕は「間に合う」ってことも大切にしていて、目の前の一つのとこにちゃんと間に合わせることで物事がスムーズに進んでいくんですが、考えないということは、間に合わせるためにも大切なんです。

~人間はどこかに、頭を使うことが高等で、身体を使うことは下みたいな認識があるんですよね。頭を使っている方が利口そうに見えるとか、立場が上に見えるとか。でもその考えの中に入っているものって、結構いやらしいものも多いじゃないですか。

~考え過ぎることがよくないように、勝負もあまり力を入れ過ぎてもダメなんでしょうね。もちろん無気力はダメでしょうけど、ちょうどいい加減を知ることが大事だと思います。

~車の運転もアクセルとブレーキの加減が大事で、ぶつかるリスクがあるからといって目いっぱいブレーキを踏めばいいわけではありません。1センチの隙間さえあればぶつからないわけで、そういう小さなところまで分かって入れば、危なそうに見えても大丈夫ということがあります。

ですから少しでも細かな違いを見極めていけるようになりたいと思います。ただ実際の勝負では、いくら自分がこうなったらいいなと考えてるも、そのとおりにはなりません。ままならないことも想定して進めることも大事ですね。

~僕の場合、思い通りにならならなくてもそのギャップを楽しんじゃう。しばらくすると波に乗れるんですよ。それは自分に都合の悪い波でも、いい波でも関係ない。そのうち悪い波ばかりじゃないなとか、いい波の後には必ず悪い波が来るなとか、そういうことが分かってくるんです。

~僕は流れっていうのを体で分かっているんですよ。だから力んでやるのはダメだなって思う。緊張すれば力むでしょ。頭が真っ白になって判断に時間がかかったり、間違えたりしてしまう。そもそも判断、決断っていうより、僕は選択だと思うんです。その選択のセンスが大事だと思うんですね。

~羽生さんの場合は、山を越えた向こう側まで見通せるセンサーを持っているんだと僕は思うんです。もちろん二人でやっているから変化は起こるんでしょうけど、変化が起こればまたすぐ対応できるんじゃないかと思います。

~やっぱり羽生さんは、そういう微妙な差を大切にしていらっしゃるんですね。他の人の目が届かないところで、普段からその微妙な変化に対応している。強いひと同士の勝負になると、本当に微妙な差で勝敗が決まるけれども、そこをずっと勝ち続けるっていうことは、やっぱり微妙な差を掴み取る繊細さを持ち合わせていらっしゃるからだと僕は思うんです。


●コメント
例えば、身体で言うと、どこかに力が入り過ぎてると、全体のバランス崩れて、かえって少しの衝撃や不具合で怪我しやすかったりしますが、

対談に出てきた、考えすぎによる「こころの怪我、考え方の怪我」って、前回コラムで言う

(脳)認知・思考   -   感情(気持ち) 
                  \                 /
                    体験(身体)

の円環的な人間全体バランスが崩れているのと近いイメージなのかなぁ、と想像しながら読んでいました。
 
「頭を使うことが高等で、身体を使うことは下みたいな認識があるんですよね」は本当にそう思いますし、特に現代の一般的な資本主義的な大人社会ではその傾向が強いと思います。
 
そして思考に偏って頭でっかちになると、勉強すれば何でも予測できるし、コントロールできるはずだと言う勘違いが起こるんですよね。
 
でも、自然相手や勝負事、そして人間関係や子育てなんて「思い通りにならない」ことが当たり前ですよね。そんな当たり前の道理をわきまえず、「認知」的な支配しなければ感=社会や大人の都合ファーストで強引に事を進めようとすればする程実はバランスが崩れて不測の事態への耐性がどんどん弱くなっていくんだと思います。
 
その行き着く果てが、思考ー感情ー体験のバラバラの断絶状態。今や懐かしい【第2回】コラム
http://lswshizuoka.hatenadiary.jp/entry/2017/06/16/080247で、転んだ子どもに「痛くない!我慢!」みたいな声かけをする母親の例を出しましたが、「身体感覚や感情」と「思考認知」が明らかにマッチしない体験を続ければ(身を守るために自ら続けざるを得ない場合も含めて)、思考ー感情ー体験はバランスを崩すどころか繋がり自体が弱くなっていきますよね。そして、繋がりのシャットダウン状態、再起動までのタイムラグがいわゆる「解離」です。
 
出来る人って「感情に左右されず、論理的に判断できる人」なんて思われがちですが、正しくは「感情に振り回されず」じゃないかと思います。決してロボットように感情や感覚を無いものとしてシャットダウンして判断しているわけではないですよね。
 
どの世界でも一流の人は、感情が高ぶって気持ちに流されがちな場面でも、認知ー感情ー体験(感覚・直観)のバランスを崩し過ぎず、自分の欲や葛藤や劣等感も自覚して受け入れ、自分の思い通りにならない道理も承知し、全体を見る俯瞰的な視点と個人の感覚・直観的な視点の両方をバランス良く考慮して、最終的には自分の感性を信じて、その場や空気感の流れや波を感じ取って「選択」してるんだと思います。
 
良く、勝負事やギャンブルにはその人の人となりや性格が現れると言いますが、自分が逃げることが出来ないギリギリの臨床場面も同じような気がして、どんなに理屈や綺麗ごと並べていても最後は「人間としての総合力」の勝負になるよなぁ、と最近しみじみ感じています。
 
「負けない生き方」って、何にも負けない圧倒的な力を手に入れることではなくて、どんな場面でも自然体で対応できる柔軟性や心構え、余計な力が入っていない自然体であること。勝負事のレジェンドが語る「負けない生き方」が、今までコラムで扱ってきた対人支援のレジリエンスと重なると言うのが、非常に興味深かったです。
 
少し前に「勝ち組、負け組」なんて言葉が流行りましたが、レジリエンス的な視点を用いると、人生における「勝ち」「負け」って、自分の生き方(過去〜現在〜未来)に「意味や希望」を見出しているか否かなのかもしれないなぁ、とコラムを思い出しながらが、ふと思いました。
 
ではでは。
 

【第30回】あいまいな喪失とトラウマからの回復13

メンバーの皆さま
 
おはようございます。管理人です。
 
9月に入り、静岡は朝晩少し涼しくなって過ごしやすくなってきました。まだまだ昼は暑いですが、季節の変わり目ですので、体調管理にお気をつけ下さい。
 
長く続いた『あいまいな喪失とトラウマからの回復』のコラムも、今回でいよいよ最終回です。
 
今朝、この本をカバンから本棚に移して家を出たのですが、改めて暑い夏に分厚い本を持ち歩いていたんだなぁ、と思いました。
 
それでは、コラム本文をどうぞ。
 

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●目次
はじめにー喪失とあいまいさ

第I部   あいまいな喪失の理論の構築
第1章  心の家族
第2章  トラウマとストレス
第3章  レジリエンスと健康

第II部   あいまいな喪失の治療・援助の目標
第4章  意味を見つける
第5章  支配感を調整する
第6章  アイデンティティーの再構築
第7章  両価的な感情を正常なものと見なす
第8章  新しい愛着の形を見つける
第9章  希望を見出す
 
エピローグーセラピスト自身について


●内容
いよいよ第9章「希望を見出す」です。

~私たちは今、円を一巡して始まりに戻りました。意味を見つけること、人生の支配感を調節すること、アイデンティティーを再構築すること、両価的な感情を正常と見なすこと、そして新しい愛着の形を見つけることが、理想的には希望を見出すという最高地点に到達し、この円のプロセスを一巡し、また意味を見つけるところに戻って繋がるのです。意味がないところに希望はありません。そしてまた、希望がないところには意味もないのです。


◆対話療法
~あいまいな喪失というトラウマのなかに、何らかの新しい希望を見出すことがなければ人生に意味はなく、人生に意味がないのであれば、新しい希望を発見する可能性もありません。

~希望は意味と密接に結びついているので、第4章で述べた社会構成主義の理論が、この章でも有効なものとなります。感情に焦点を当てたセラピーや、認知的介入、心理教育的な介入もまた適切な介入方法と言えます。

~特に感情に焦点を当てたセラピーは、希望を見つけるうえで重要です。なぜなら、いなくなっている人に対して抱いていた古い希望を手放せるくらい十分に安心感が得られるようになるためには、人との繋がりが必要なのですが、この感情に焦点を当てたセラピーはまたに人との繋がりに中核を置いているからです。

~米国の管理型医療システムでは、保険適応となるセラピーの種類に制約があるにもかかわらず、感情に焦点を置いた対話療法(talk therapy)が見直されてきています。

~しかし、私たちは、対話療法を行うセラピストが、クライアントが親のことについて治療的な話し合いをするよりも、むしろ親と子を含む合同面接をセッションに取り入れていることを確認しなければなりません。

~合同面接は、実際に同席できなければ、原家族をふりかえるワークを通して、心理的に同席した形で行うことも可能です。クライアント個人とセラピーを行う時でも、心の家族は同席できるのです。


◆希望と治療・援助
~希望は、自分の意思で作り出すものではありません。それは、望みがかなうことや、再び幸せになること、もっと大きな望ましい目標に到達できるような可能性のある時に、そのわくわくする感じのなかから現れ出るものです。セラピーの務めは、希望のない人々が希望を見つけられるよう援助することです。

~希望は、その人の内的な感情に基づいて見出されます。したがって、この段階でのセラピーのプロセスでは、認知的な手法や心理教育を伴った精神力動的なアプローチをまず用います。セラピーの目標は、自分自身を、信じる気持ちや、個人の力を育むことです(たとえば、人生の支配感を和らげること)。

~信頼している人々からのサポートは、「私にはそれができる!」という感覚の後ろ盾になります。自分の物語を語ることを通して、希望が見出され、再構成さらるようになります。

~私たちはこのプロセスで、創造することと探求していくことを奨励し、実際に、様々な活動の中でも特に、絵画、音楽、ダンス、イメージ、即興劇の技法を使ってきました。動くことが重要なのです。

~ただ発見したことについて話すだけではありません。私たちは行動的に希望を探し求めなくてはなりません。慣れ親しんだ状況と様々な状況の両方で、新しい経験をすることがこのプロセスに役立つのです。


◆まとめ
~(意味と希望の)二つは、メビウスの輪のような繋がっています。意味と希望はお互いがなくては存在できないものです。

~意味と希望の両方がレジリエンスと健康には必要です。意味を見つけることと希望を発見することの間には、人生の支配感を調節し、アイデンティティーを再構築し、両価的な感情を正常なものと見なし、新しい愛着の形を見つけるというプロセスが含まれています。

~セラピーのプロセスは円環的であり、直線的に段階を経て進むものではありません。ストレスやレジリエンスに焦点を置きますが、医療的な治療が必要な症状を見過ごすということではありません。全体としての目標はスキルを協働して動員することであり、これはクライアントとセラピストだけでなく、個人、夫婦、家族の援助をする専門家たちの間の協働でもあります。

~内省は、希望と意味を見つける複雑な弁証法的プロセスのなかの非常に重要な部分です。このことは、クライアントと同じように、セラピストにも当てはまることなので、この後のエピローグではセラピストの自己に焦点を当てます。

~あいまいな喪失をセラピーで扱う時、セラピストとして有用でありたいという私たちの希望は、セラピストがあいまいさにどれだけ耐えれるのかということと、答えのない問いがあっても安定していられることにかかっているのです。


●コメント
特にこの章では「感情に焦点を当てたセラピー」が繰り返し紹介されるんですが、読んでいて途中から、
 
「そもそも感情を扱わないセラピーなんてあるの?」
 
という違和感がフツフツと湧いてきました。が、何度も出てる「感情焦点化セラピー」について、少し調べてみると合点がいきました。
 

『エモーション・フォーカスト・セラピーによるうつへのアプローチ -恥の変容に注目して- 』(山内、2015)より一部抜粋。

http://klibredb.lib.kanagawa-u.ac.jp/dspace/bitstream/10487/14218/1/06-4.pdf

~1990年代以降,思考や認知,行動に注目する心理療法とは異なり,クライエント(以下 Cl.)の感情に注目する心理療法が北米を中心に発展している(Barlow et al., 2011/2012;Fosha, 2000;Greenberg, 2011/2013, Linehan, 1993/2007)。

~中でも,エモーション・フォーカスト・セラピー(以下,EFT)は,現代の認知科学と感情理論に基づき、…感情と体験を重視する統合的心理療法である(Greenberg, 2011/2013)。

EFT のセラピーは,治療関係の原則と治療課題促進の原則に基づいている。創始者の Greenberg 氏はこの 2 つの原則を「共感の海に浮かぶ,治療介入の小島」と表現した。つまり,EFT の立場をとるセラピスト(以下Th.)の役割は,Cl. が共感や肯定によるあたたかい治療関係を拠り所としながら,Th. との協同的な相互作用の中で感情体験を深め, 治療課題へ取り組めるよう援助することである。

~さらに,EFT のもう一つの特徴は,単に感情を体験することを目指すのではなく,感情体験がどのように自己を作り出し,自己によって感情体験がどのように作り出されるかという循環的なプロセスを重視する点にある(Greenberg, 2011/2013)。

EFT の Th. は,瞬時ごとの Cl. の感情状態の変化に注目し,そこ で Cl. が示す主要なプロセス指標に応じたいくつかの介入課題を提案する(Greenberg et al., 1993/2006)。 

 

冒頭の説明から察すると、2017年の今でこそ脳科学や身体志向の心理アプローチにスポットが当たっているので、

(脳)認知  ー  感情(こころ)

                \         /

                  行動 (身体)

を円環的な繋がりで考えることが自然となってますが、1980~90年代では認知と感情と行動を統合して考えるなんて革新的だったというこということですよね。

その状況は、

「米国の管理型医療システムでは、保険適応となるセラピーの種類に制約があるにもかかわらず、感情に焦点を置いた対話療法(talk therapy)が見直されてきています」

からも読み取れて、保険適応のセラピーの制約って、システムが作られた当時の時代背景に影響されていると思うんです。「思考や認知、行動に注目する」1990年代以前の。客観的にわかりやすく測定しやすい「行動」が、制度や法律と相性が良いという側面もあるとは思いますが。

本来、クライアントの状態に合わせて、「認知」ー「感情」ー「行動」が過度に偏りなく、その人の無理のない最適なバランスが取れる一番効果的な支援方法が選択されるべきだし、それを話し合うのが治療関係の原則なんだと僕は思います。

しかし、経済的メリットがあるとは言え、保険適応というシステムに囚われて、目に見えやすい「行動」にばかり焦点が当たりバランスを欠いては本末転倒。

その意味では「感情に焦点を置いた対話療法(talk therapy)が見直されてきています」は非常に明るい兆しですが、はたして日本でも似たような議論の方向性になって行くでしょうか?

ちなみに日本で、医師によるうつ病に対する認知行動療法(CBT)が医療保険点数の適応となったのが2010年…統合的な支援や考え方が理解され浸透するには、もう少し時間がかかりそうな気がしますよね。

それは日本のLSWにまつわる状況でもなんとなく感じられて、過去の生い立ちに対する子どもの認識の変化「認知面」、出身施設の訪問やLSW後の行動変容等「行動面」にばかり焦点が当たり、それに伴う「感情面」の扱いや検討が軽視されたり蔑ろにされる雰囲気や危険性を感じるのは僕だけでしょうか?

大事なことは、「頭の理解」と「身体の感覚」と「内面の気持ち」が一致できる状態になるよう、どこかを強めたり弱めたりして適切なバランスになるような支援を考えること、それには目に見える事と見えない事の両方に注意を払う必要があって、それはLSWに限ったことではないだろうと僕は思います。

 

その点で、感情焦点化セラピーの特徴である、

感情体験がどのように自己を作り出し,自己によって感情体験がどのように作り出されるかという循環的なプロセスを重視する」

という部分は興味深いですね。感情体験の積み重ねが自分の価値観や自己像を作り、その価値観のフィルターや自己イメージを通して新しい体験をどう感じるかが決まる、なるほど感情体験はアイデンティティー形成の写し鏡のような存在と言えるのかなぁ、と思いました。

感情焦点化セラピー、またの機会にしっかり勉強してみたいですね。

 

最後に、希望について、

「セラピーの務めは、希望のない人々が希望を見つけられるよう援助することです」

これまで本書で色々な技法や理論に触れてきましたが、全ての手段はここに集約されるんだと思います。

そして、本書で言うように、クライアントの内側から自然に沸き起こってくる期待感や「この人となら頑張れる」と思う安心感を与えられる存在になるには、やはり支援者自身のレジリエンス

セラピストがあいまいさにどれだけ耐えれるのかということと、答えのない問いがあっても安定していられることにかかっているのです」

だよなぁ、と思いました。そこで本文は「エピローグーセラピスト自身について」に続くわけですが、コラムでエピローグを扱ったのはちょうど2ヶ月前。なんと【第11回】までさかのぼります。今回コラムが【第30回】ですから、改めて本書を通して本当に色々なことを考えさせてもらったんだなと改めて感じます。

 

本書との長い付き合いを振り返ると、最後の最後で、

「希望は、…そのわくわくする感じのなかから現れ出るものです」

という言葉が出てきたのが、これまで小難しい理論的な内容が続いていた中で、表現がスゴく丸くて際立ったというか、著者の感覚や人間味が感じられる言葉のようで印象的でした。

僕自身、本なんて夏休みの読書感想文くらいでしか読まなかった不読学生だったのですが、こんなにマニアックな専門書や論文を読み漁るようになったのは、LSWに出会ったのがきっかけです。

きっと僕自身LSWに意味や希望を見出して、LSWに役立つ新しい学びを得る事に「わくわくする感じ」を得ているんだろう、という気づきと共感を与えてもらったようで嬉しい気持ちになりました。

 

これで『あいまいな喪失とトラウマからの回復』のコラムは終了です。脱線も多い中、長い間お付き合いありがとうございました。

今後も僕が「わくわくする感じ」の本やネタを随時ご紹介していきますので、これからも「まごのてblog」をどうぞよろしくお願いします。

 

【第29回】あいまいな喪失とトラウマからの回復12

メンバーの皆さま

こんにちは。管理人です。

昨夜、サッカー日本代表が2-0の快勝でロシアW杯出場を決めてくれまして、晴れ晴れとした気分で9月を迎えられました。

それにしても、井手口選手(21歳)素晴らしかったですね。後半37分のゴールはもちろんですが、90分間あれだけの守備に走りながら、セットプレーのキッカーも務め、終盤の苦しい時間帯に何度も攻撃に絡み、まさに神出鬼没の働きだったと思います。

乾選手を筆頭にFW陣の前線からの守備も良かったですし、「攻撃の選手」「守備の選手」という時代から、守備も攻撃も高いレベルをポジションに関係なく90分間維持できるハイブリッドな選手が求められる時代だな、と改めて感じました。

その攻守における質量の高レベルの状態が、僕の中ではコラムで扱っている「両価的感情」や「AでもありBでもある」という相反するものを同時に扱うようなイメージと非常にリンクしました。

日本の児童福祉の虐待対応システムは「支援と介入」の役割を分離していく方向に進んでいると思いますが、サッカーで言うとチーム内でフォーメンションのポジションを整理して割り当てて行くような作業に思えて、それ自体に異論はないです。

しかし、強いチームにはFWでもDFでも攻守両方おいて貢献できる選手が多く必要で、虐待対応的に言えば「支援もわかりながら介入する」「介入も見据えながら支援する」と言った本来のポジション外の部分でも、指示的/支持的アプローチ両方駆使してチームの支援や連携に貢献できるハイブリッドな人材が求められる時代に突入しているだろうし、そういうことを体現している21歳の若者にとても刺激を受けました。

前段が長くてすみません。そろそろコラム本編に入ります。


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●目次
はじめにー喪失とあいまいさ

第I部   あいまいな喪失の理論の構築
第1章  心の家族
第2章  トラウマとストレス
第3章  レジリエンスと健康

第II部   あいまいな喪失の治療・援助の目標
第4章  意味を見つける
第5章  支配感を調整する
第6章  アイデンティティーの再構築
第7章  両価的な感情を正常なものと見なす
第8章  新しい愛着の形を見つける
第9章  希望を見出す


●内容
今回は第8章「新しい愛着の形を見つける」より。言葉の定義、レジリエンスとの関係、セラピーと治療的関係、について。


◆言葉の定義
~本書で私は、愛着という言葉を近年の愛着理論の専門用語としてではなく、むしろもっと一般的な意味で使用しています。

~愛着は、伝統的には、特定の他者との相互の関係性の絆として定義されています。それは、人間が、一人の同じ対象との緊密な関係性を必要としていることを反映しています。

~本書では、愛着をもっと一般的な観点で、夫婦や家族、親しい他者との関係性のなかで、個々人がそれぞれの間に感じる深い絆と定義します。


◆新しい愛着の形を見つけることとレジリエンス
~失われた人を見つけることができない時に、残された人が極端な反応を見せる場合があります。たとえば、あたかも行方不明の人が既に亡くなってしまったかのように行動することで、早まって見切りをつけてしまうことや、あるいはその人がいないことを全く否定して、何も変わっていないかのように振る舞うことです。別の極端な反応としては、行方不明の人のことを全く考えないようにしたり、反対に終始考え続けていたりすることが挙げられます。

~そのような融通のきかない極端な反応は、不適応な状態であり、レジリエンスに必要な関係性の修復を妨げるものです。

~あいまいな喪失から生じる不安は、古典的に定義されている分離不安による愛着(Barry et al., 1965;Bowlby,1973)と同じではありません。しかし、あいまいな喪失には、愛する人を見つけられないことから生じる非機能的な不安(negative anxiety)の気持ちが存在します。(総称的な意味においての)非機能的な不安はまた、愛する人が身体的にはまだ存在していても、喪失するのではないかという恐れから生じることもあります。たとえば認知症や頭部損傷、嗜癖や慢性精神疾患のような場合です(Boss,1999)。

~悲惨な状況でのあいまいな喪失においても、より一般的なあいまいな喪失においても、人々の健康やレジリエンスは、自分の生活から身体的あるいは、精神的にいなくなってしまった人たちとの新しい愛着をいつどのように修復し、再構築していくのかに、結局はかかっています。これは簡単なことではありませんが、臨床家はそれを手助けすることができるのです。


◆セラピーの方法と治療的関係
~多くの人は、自分自身の力で、あるいは心理教育や社会的支援の力を借りて愛着を見直すことができますが、あいまいな喪失からくる不安やトラウマがその人の機能を停止させている時には、愛着の新しい形を見つける際に専門家の援助が必要となります。

~外的な状況が愛着や喪失を複雑にしている時には、精神力動的なアプローチや関係性を重視したアプローチに変えていくように勧めています。

~重要なことは、私たちが、文脈や環境の観点からそのようなアプローチを行なうべきだということです、社会構成主義現象学を基礎とするナラティヴの技法は、前述したように、これらの視点やアプローチと両立できるものです。

~より明確にすると、関係性へのアプローチや深層心理学は、あいまいな喪失から人々を切り離すうえで役に立ちます。しかし、関係性や外的な文脈を含む、より広いシステム的な視点が不可欠です。

~たとえば、夫婦や家族とのセラピーでは、彼らの生活の拡大されたシステム、たとえば拡大家族や近隣
学校、クリニック、職場、宗教的なコミュニティのなかで情緒的な関係性を理解したりする改善したりするする方向にエネルギーが注がれます。より広いシステム的アプローチを用いることで、家族や地域社会のルールがその状況に十分には合っていないことが見えてするかもしれません(Imber-Black & Robert,1912; Lueqnitz,2002)


●コメント
まず「愛着」について。この言葉に触れるとドロ沼にハマる危険性がありますが、ほんの少し整理します。

愛着はアタッチメント(attachment)の訳語なわけですが、もともと

動詞》at-tach アタッチ
〔小さな物が大きな物に〕付着する、付随する
〔小さな物を大きな物に〕取り付ける、添付する

にment(すること)をつけた名詞です。語源はフランス語らしいですが、英語の音節で分けるとat(点に)tach(触れる)ment(事)なんだと思います。

ちなみにカメラの部品なんかを「アタッチメント」と言うみたいですね。要は付属品です。小さなものが大きなものにくっつくイメージです。

で、愛着理論の専門用語のアタッチメントは、赤ちゃんが親にピタ~っとくっついて落ち着く、肌感覚を通じた感覚感情の調整システムのことを言います。

一方、世間一般的な「愛着」の意味はと言うと、
①日本語の辞書では、
「なれ親しんだものに深く心が引かれること」
②本書では、
「夫婦や家族、親しい他者との関係性のなかで、個々人がそれぞれの間に感じる深い絆と定義します」

となっていて、アタッチメント〈小さな物が大きな物に〉at(点に)tach(触れる)ment(事)の意味から少し広がった印象を受けます。どちらかと言うと漢字の「愛着」の意味に近い感じがします。

ちなみに、attachmentの意味を英英辞典で引くと、
「 a feeling that you like or love someone or something and that you would be unhappy without them」あなたが好きな人や何かが好きで、あなたがそれらなしで不幸になる気持ち

となっていて、①とも②とも似ている様で違う様なという感じです。英語は英語で理解、言語が違うと思考法が違うと言いますが、やはり「愛/着」と「at/tach/ment」では、もともとの文字の表す意味や成り立ちが全然違いますし、異言語の一般的な翻訳って単語単語の意味やイメージが一対一でピッタリ当てはまる言葉があるわけではなくて、その文脈や背景を加味して言葉を加えたり微調整したりしますよね

しかし、おそらく愛着理論の話の中で使われる専門用語としての「愛着」と「アタッチメント」は全く同じ意味を表す同義語という前提で使われているというのが、まず特殊なんだと思います。これが理論を輸入する時の難しさですよね。

そして話題を現場に移して考えると、例えば「別れ際の寂しがる様子から母への愛着はあると思われる」という表現があるとすると、一般的な意味の愛着なら「◯」の使い方なんだと思います、きっと。

しかし、専門用語の愛着として使っているのなら「?」で、「別れた時の感情表出→別れた後の感覚感情が収まり方→再会後にどう反応するか」そこまで見てようやく愛着のA~Dタイプ(回避型、安定型、アンビバレント型、無秩序型)のどれかな、と言う話しになるわけです。専門用語の愛着を語るなら、別れ際や欲求不満時の状態だけでなく、その後の調整回復プロセスまで見ないと情報不足と思います。

という、ややこしい違いがあるので、「アタッチメント」と言えば専門用語の話しをしているのだとすぐにわかるし、いっそのこと児童福祉現場で言う「愛着」は全て専門用語のアタッチメントのこと!なんて縛りがあればわかりやすいんですけど、現場の様々な場面の会話を聴いていると「ん?一般的な愛着イメージだよな文脈的に」と感じることが結構あります。

日本語を使っていても受け手側の解釈によって、「え?そんな話でしたっけ?」という理解の違いや誤解って頻繁に起こるなと最近思いますし、それはクライエントだけでなくて支援者同士でも本当に多いですよね。対人援助者でも「相手がどう言ったのか」と「自分がどう受け取ったのか」の違いがあまりに無自覚に混同して話されることって少なくありません。

そんな現場の状況なのに、同じ言葉で一般的用法と専門的用法で意味が(しかも微妙に)違うなんて、もう誤解の元以外の何物でもなくて、僕の中ではなるべく使用を避けて通りたい言葉です、愛着は。

そういう愛着の理解にまつわる混乱が日本の福祉現場で起こっている中で、第8章「新しい愛着の形を見つける」で言う「愛着」は、伝統的なボウルビィやエインズワースの愛着と違います、もっと一般的な愛着の意味ですよ、と本書では言っているわけです。

しかし、本書は訳書ですから本来「もっと一般的なattachmentの意味ですよ」という意図で著者は書いているはずなんです。すると、そもそも一般的な日本語の「愛着」と英語の「attachment」の意味って同じなの?という疑問が湧いてくるわけで、わざわざ英英辞典を引いたわけです。

そのような面倒くさいことを全部カットして、
「本書では、愛着をもっと一般的な観点で、夫婦や家族、親しい他者との関係性のなかで、個々人がそれぞれの間に感じる深い絆と定義します」

と宣言してくれているので、あいまいな喪失を考える上では「そういうもんだ」の理解でいいんですが、そもそも本文はアタッチメントの専門的理解や整理がある前提で進んでいく感じで、もはや専門知識の向こう側の話というか、常々書いてますがサラッと書いてあるけど超高度な内容だよなぁ、と思います。まぁ専門書ってそういう物なのかもしれませんけど。

ちなみに超高度と言うと、前章あたりから「そもそも、それがよくわからないんですけど」と言われそうな◯◯主義◯◯療法◯◯学という言葉が使われている部分をたくさん引用しました、意図的に。

お伝えしたかったのは、もちろん僕自身も全部に精通しているわけでないし、支援者のバックボーンはそれぞれ違うので得意不得意はあって当然だということです。そして、◯◯療法をやること自体が目的じゃなくて、大事なのは自分の選択できる◯◯療法の中でクライエントとどんな対話が行われるか、「あいまいな喪失」の理解があれば、いろんな方法論があってOKむしろ多様性が必要という著者のスタンスに非常に共感した、ということです。

LSWに限らず、どのような方法論を用いるかは、常に自分と相手の相互関係、つまり支援者が使える方法の中で相手にとって一番有益な方法を一緒に考えて選んでいく、そのやりとり自体が治療的なプロセスなんだと思っています。◯◯療法の違いはあっても最大の治療効果の要因は共通して「信頼関係」であることは研究でも示されていますし、本質は「いかに安心で正直なやりとりができるか」であって◯◯療法はその「方法」に過ぎないと僕は思います。

なのでLSWの本質も「生い立ちを題材にした両価的感情(未完の感情)について、いかに安全で安心で正直なやりとりができるか」だと思いますし、どの本や研修でも強調されているはずですが、どうしても方法論ばかりに話題の興味関心が向きがちですよね。

これはおそらく、世間一般の「これをやればこれが治る」という直線因果的な単純効率的な思考の傾向の現れのような気がします。また、負の側面を発信することのリスクが大き過ぎて、皆正論しか言えないような雰囲気の蔓延ってありませんか?でも、現実の家族や対人関係の問題はいろんなドロドロした要素が複雑に絡み合っていて、スパッと答えや解決法が出る事の方が少ないと思います。

なので、凝り固まったものがスッキリ取れないにしても、ストレッチのように少し緩めて柔軟性(レジリエンスを持たせる支援も意味があると認識すること、「原因除去の治療できなくても人生が生きやすくなるケアには意味がある」という発想の転換や思考の柔軟性を支援者がまず持つことが、より良い支援の第一歩ではないかなぁ、と僕は思います。

最後に、イレギュラーではありますが、本書の引用で終えたいと思います。内容は、新しい愛着の形を見つける治療関係の「留意点」の項目です。対人援助の心構えや適切なバランスについて「そうだよなぁ」と思うことばかりですので、ちょっと長いですが是非参考にしていただけたらと思います。

ではでは。

◆治療関係の留意点
☆セラピーの目標は、今はいない対象との愛着に新しい形を見つけることであるため、クライエントもセラピストの間に肯定的な絆や陽性転移が生じることが重要である…複数の家族成員に会うときの目標は、転移ではなく、セラピストとそれぞれの同席者同士の間に信頼を築くことであり、システムとしての関係性のプロセスに積極的なつながりを形成することです

☆セラピストが多様性を安定した気持ちで迎え、様々な文化に対応する能力を持っている時には、絆と信頼がより容易に築かれる

☆現家族の振り返りを行い、文化的家系図を用いることが、クライエントが愛する人を失った状況に対応する援助の準備として重要である 

☆安定で支持的な環境と、セラピストとクライエントの間の信頼関係は、その人を脅かすような感情、特に罪責感、恥、怒り、無力感を表出するうえでも不可欠なものである

☆あいまいな喪失によってトラウマを受けた人々の援助には、より長い時間が必要とされる。…本章で私は、深層心理を扱うセラピーと体験的セラピーに焦点を当てていますが認知行動療法的な手法を用いた介入もまた、治療の過程には必要です。複雑であるが故に時間と様々な方法が必要なのです。

☆個人、夫婦、家族を対象としたグループワークが、新しい絆を構築するうえで有用である

☆規模の大きなあいまいな喪失やトラウマが起こった場合、その地域のなかで行われる複数の家族によるグループが、愛着を見直すうえで有用である

☆セラピストが、自分のオフィスから出て、あいまいな喪失によってトラウマを受けた家族のセラピーや援助を行う場合は、より高いレジリエンスを持つ必要がある

解決を見つけるようにトレーニングを受けたりセラピストや医療者は、あいまいな喪失について自分たちが持つ葛藤を、クライエントや患者に転移してはいけない

☆もしトラウマのために生活が脅かされていたり、機能が停止してしまっている状態が続いていたりする場合には、専門家は投薬治療が必要かもしれないので、精神科に相談するべきである

☆あいまいな喪失のセラピーでは、私たちは通常より忍耐強くあることが必要である

☆倫理的な理由から、協働的なアプローチを指示的なアプローチに変えなければならない時がある