LSWのちょっとかゆいところに手が届く「まごのてblog」

静岡LSW勉強会の管理人によるコラム集

【第102回】原則に基づく「判断」と「技術」

メンバーの皆さま


こんにちは。管理人です。

気がつけば2月も最終日。

先日、仕事で車を走らせていたら、田舎の川沿いに大量のピンク色の樹と「さくらまつり」というノボリを発見。

どうやら「河津桜という早咲きの桜を植えた場所が浜松にもあるようで、平日の夕方にも関わらず、そこそこの人が賑わっていました。

早咲きの桜とは言え「もう春間近だな」という感じがしました。



で、今回取り上げる話題は、またしてもサッカーに…。

サッカー談義は、なぜいつも結果論なのか?

たびたび引用させてもらっている元サッカー日本代表鹿島アントラーズ岩政大樹氏の記事。

上の記事は、2月6日発売「フットボール批評issue23」の一部抜粋だそうですが、やはり、この人の言語化の能力はハンパないですね。

本質的なことを、よくここまで短くシンプルに、かつ的確にわかりやすく言語化できるなと。

ホントに短い記事なので、是非読んでほしいのですが、内容はピッチにおけるサッカー選手のプレーを構成する要素は、原則・判断・技術の3つに分類できる」という話しです。

これ、サッカーだけではなく、臨床場面にとても似てるなぁと思います。「原則・判断・技術」の記事の部分を順番に見ていきます。


1.「原則」
〜プレーを構成する一番深いところにあるのは「原則」です。サッカーで同じ場面は二度とありませんが、実際には「こういう場面では基本的にこうすべき」と定められたいくつかの決まりごとがあります。

〜攻撃の優先順位であれば、“まず前”を目指していくのが「原則」であり、決して横や後ろの選択を先に探してはなりません。

〜この括りの中には、チームの「約束事」や個人の「セオリー」、あるいは局面における「判断基準」なんかも含まれます。ボールを大事にするスタイルなのかどうか。自分なりに「こうなったらこうなるはず」と考えたもの。迷った時に選択するのはリスクか、リスク回避か。様々な要素が各チーム、あるいは選手には設定されています。

●コメント
ここまででも随分、頭の整理が進みました。「二度と同じ場面はない」というのは臨床場面でも本当にそうですし、「ケースバイケース」ってよく耳にする言葉ですけど、それは「判断」の話であって、まずは「原則」の共通理解があった先のことだと思うんですよね。

最近、一緒にペアを組む担当ケースワーカーに、

「この●●という状況の場合、▲▲という対応をするのが一般的と言うかセオリーだとは思うんだけど、このケースの場合はどう思います?」

なんて形で質問をすることが僕自身増えたなぁと、ぼんやり自覚していたんですが、そういうことを伝えようとしていたのかと、この記事を読んで気づかされました。

この場合に気をつけている事は「それって普通(セオリー)なんですか?こう言う風に思ってたんですけど」みたいな、異なる考えを持っていることを伝えてOKな対話的な雰囲気にしておくこと。

「あ、そういう考え方や価値観でこの人は考えてるんだ」という"両方ありだよね"という相互理解を大切にしたい。これ管理人的「多職種連携の原則」です。(この時、私は違う!というツッコミはOKという感じですかね)

というのも、原則と呼ばれる考え方や価値観って、職種や立場、教育課程によって認識が異なる事って結構あると思います。

その違いを扱わず、なんとなくで話が進んでいくと、どんどん"ボタンの掛け違い"が進んで行って、後々気付いた時には「そんなはずじゃなかった」「先に言ってよ」となんて事が起こる事は珍しくないからです。


僕の中での原則って「軸」とか「芯」とか「型」とかいうイメージ。対応の幅や遊びは持たせるけど、真ん中にしっかり持っている基本的なもので基準となるもの。

そのモノサシの共通理解があって、「で、このケースの場合、あえてセオリーを外します?」「その意図や理由は?」という議論が初めて成り立つと思うんです。

でも、その原則の共通理解がないと、「この場合は、あえてセオリーを外す」という判断に繋がらないので、いつまでたっても「一か八か」の"運まかせ"みたいな対応が繰り返されます。

そうなると、いつまでも判断力が磨かれない対応になるので、現場経験をどれだけ積んでも、自信がなかったり、経験年数ほど伸びしろが見られないということが現実起こると思います。

セオリーや基本軸なしの「自由」は、ただの無茶苦茶に過ぎないわけで、セオリーから外れている自覚があるからこそ、一見無秩序と思える対応でも、本当に危なくなったら戻ってこれる感覚を確認しながら、ギリギリの所まで攻めれるわけです。

逆に、セオリーなしに突っ込めるのは、若さゆえいうか命知らずというか、それで大成功することもあるかもしれませんが、プロとして仕事を続ける以上、年間のリーグ戦をしているようなものですから、大怪我してシーズン全体を棒に振るような勝負はしたくないわけです。

しかも相手や同僚も巻き込んだ話になるわけですから、プロとして成功率をなるべく高い選択肢を選ぶ準備や責任があると思いますし、「共に死なない」というリスク回避、時には撤退する勇気も必要だと思います。


ですから。生きていれば(臨床においては誰かがつながっていれば)挽回・リカバリーのチャンスはやってきますので。

そうなると次に大事なのは「判断」になると思いますので、記事の続きを見てみます。


2.判断
〜大元となる「原則」の上に「判断」があります。

〜サッカーの試合は、原則を基にプレーをし続けていれば必ず勝てるわけではありません。原則とは「そうした方が一番成功する確率が高い」と言えるようなものですが、サッカーの場合、そもそも攻撃が成功する確率が低いため、成功する確率が低い選択をした方が勝ってしまうことだって往々にしてあるのです。

〜そこで選手たちにはいつも「判断」が求められます。ここでは「認知」「状況把握」という要素もあえて「判断」に含めて説明しますが、状況把握をして、できるだけその状況に即した的確な判断を下し、そして瞬時に実行に移していかなくてはならないのがサッカーです。ここはサッカー選手にとって終わりがないもの。取り組み続けて高め続けていかなければいけない、プレーする上で最も重要な要素と言っていいでしょう。


●コメント
毎回言いますが、サッカーはつくづく児童福祉、特に児童虐待に関わる分野に近いなと思います。

上にある通り、圧倒的に思い通りにならない確率が高いですし、その混沌としたやり取りの中で、セオリーを超えた偶然的な要素によって思わぬような好転をすることも少なくない。

そういう事が続くと「原則の軽視」みたいなことが起こって「なるようにしかならないから」と目の前の出来事に対処していく感じになりがちだと思うんですけど、それを永遠続けるのは、終わりの見えないマラソンというか精神的にシンドイんですよ。振り回され感がハンパないですし。

そうではなくて、こうなれば、こうなるはずというセオリーがあれば、うまくいっている時に「うまくいっている」という認識ができますし、逆にうまく進んでいない場合にも「なんかズレてる」「ヤバイ」と早めに悪い流れを察知して、大怪我になる前に修正を試みる事が可能になると思うんです。

しかも、それを瞬時に「判断」してアクションを起こすみたいか瞬発力も同時に求められる。判断の正確さもさる事ながら、その判断をスピードを磨くということも非常に大事な要素かなと。

それは、"タイミング"が命だから。どんな言葉もどんな対応も、旬を逃すと効果は激減。相手に同じ事をしたり言ったりするにも、その"タイミング"や"間"がとても重要な要素になるので、チャンスと見るやその瞬間を逃さない瞬発力というのは、どうしたって求められると思います。

そして、これは人に言われてやれるようになると言うより、自分で感覚的に掴んでいくしかないものかもしれません。判断って頭で考えてはすでに遅くて、もはや直観的にしていくものかなと。

さらに、その狙ったタイミングで、狙った通りの表現ができる、それが「判断+技術」。

サッカーで言うならイメージした所にボールを"正確に止める蹴る技術"になると思いますが、臨床だと、それはコミュニケーションになるんですかね。相手の気持ちを受け止めたり、こちらから投げ掛けたり伝えたり。その加減や範囲の調整のスキル。それが記事の最後の部分。


3.技術
〜判断と並ぶように、もう一つ「技術」という要素があります。
 
〜ここには「フィジカル」という要素も含まれます。「原則」を基にプレーをしても、それを可能にする技術やフィジカルがなければ、そのプレーは成立しません。技術を高め、フィジカルを鍛えて、プレーの精度をより高めていくことも当然、サッカーにおける大事な部分です。

〜原則(約束事、セオリー、判断基準)に基づいてプレーする中で、判断(認知、状況把握)と技術(フィジカル)が選手たちにはいつも試されています。原則は頭にありながらも、それを基に実行すべきなのか否か。それを実現する状態に自分がいるのか否か。それを瞬間的に考えて選手はプレーをしています。


●コメント
臨床場面において、上の"フィジカル"という言葉は何に置き換えるとしっくりきますかね。

僕の感覚では、技術というは「言語と非言語」を扱う力、フィジカルは技術を安定的に発揮できる「メンタル、精神力」というイメージです。

どんな素晴らしい技術を持った人でも、慣れない環境、物凄いプレッシャーのかかる状況、後半残り○分の局面といった肉体的に疲弊し、精神的にも余裕のない場面では、いつも通りのパフォーマンスを発揮できない事って分野を問わずあると思います。

逆に言えば、その勝負を決める重要なので場面において、自身の持っている「判断力」や「技術力」を発揮しながら、原則を軸にした柔軟な対応ができるためのトレーニングや準備性が自分の中に、そして組織の中にあるのか。

体力やペース配分もそう。「ここぞ!」と言う場面で、もうひとつギアを上げられる"余力"を残しながら日常の業務をこなしていけるか。決して楽しているわけじゃなくて、余力って「リスクマネジメント」の一つだと僕は思うんですよね。


そんなことを考えると「じゃあ、LSWの原則・判断・技術ってなんだろう」という話になると思うのですが、皆さんはどう思われますか?

僕的には、上の括りでも何となくこうだろうなと思うところはありますが、どちらかと言うともっと大きな括りで、

①対人支援や児童福祉の「原則」があって、
②そのために今LSW的な支援が必要なのかの「判断」があって、
③それを本人の意思を尊重しながら共有し、協働しながら実現する「技術」を持ったスタッフがいるのか。

という感じがしっくりきます。これはミクロマクロの見方の違いなので、どちらが正解ということでもないんでしょうけど。


とか何とか色々考えましたが、最終的には、

「原則を持ちながら、判断し、それを実行する技術力があってプレーの精度が向上していく」

「状況把握をして、できるだけその状況に即した的確な判断を下し、そして瞬時に実行に移していかなくてはならないのがサッカーです。ここはサッカー選手にとって終わりがないもの。取り組み続けて高め続けていかなければいけない」

は本当そうだなと。向上とは終わりがないのも。現状に満足せず、学び続け、取り組み続けないといけないな、と。

年度終わりを告げる桜を見た後、そんなことを思う二月の最終日でした。

三月は、ラストスパート頑張ります。

ではでは。

【第101回】私も「移動する子ども」だった

メンバーの皆さま
 
こんにちは。管理人です。
 
バタバタしてまして、気がつけば1ヶ月近く更新が滞っていました。日が流れるのはホント早いですね…。
 
今回取り上げる本は、実は2019年の始めに紹介することを昨年暮れから決めていた本なのですが、ズルズル今日に至るという具合です(本当は第100回のつもりでしたが…)。
 
そんな、ようやく紹介する本とは『コレ』。
 
 
『私も「移動する子ども」だった――異なる言語の間で育った子どもたちのライフストーリー』

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2010年に出版された本なんですけど、本ブログ開設当初に、ある勉強会メンバーさんから「もし良かったら」と貸して頂きまして。それから、はや一年半が経過…。なんと言ったらよいのやら。
 
最近はその時に書きたいこと書きすぎて、若干何のブログだかって感じになってきちゃいましたが、ブログの趣旨「LSW=ライフストーリーワーク」の原点に戻る意味でも、blog開設当初の初心を思い出す上でも、参考になる本です。
 
(こういう昔や当時のことを思い出す "きっかけ" ってLSWっぽいですね)
 
 
 
まず表紙の写真でお分かりの通りの豪華メンバー。目次をかりて一応、人物紹介すると、
 
●目次
【第一部】
 幼少の頃,日本国外で暮らし,日本に来た「移動する子どもたち」
1 セインカミュ(マルチ・タレント)
「外人」と呼ばれて,外人訛りのない日本語で返そうと思った
2 一青妙(女優・歯科医師 
台湾で中国語を話し,自分は台湾人と思っていた
3 華恵(作家) 
ニューヨークで英語の本を読みふけっていた
4 白倉キッサダー(社会人野球選手) 
長野に着いたとき「タイ語,禁止」と言われた
5 6 響彬斗&響一真(大衆演芸一座) 
ブラジルで日本舞踊,和太鼓,三味線,歌を習っていたさ
 
【第二部】 
幼少の頃から日本で暮らし,複数の言語の中で成長した「移動する子どもたち」
 大阪で生まれ,大人が韓国語交じりの日本語を話すのを不思議に思った
8 フィフィ(タレント) 
名古屋で育ち,アラビア語を話さなくなった
9 長谷川アーリアジャスール(プロサッカー選手) 
埼玉で生まれ,イラン語を「使えないハーフ」と語った
10 NAM(音楽家・ラッパー)
 神戸で生まれ,「ベトナム語は話さんといて」と親に言った
 
終章「移動する子ども」だった大人たちからのメッセージ
 
 
TVや雑誌等で、誰かはご存知な顔ぶれではないでしょうか。
 
皆、子ども時代に「移動」したという共通点を持ちながら、【第1部】は物心ついた時点で外国から日本に来た経験を持つ方々、【第2部】は物心ついた時から日本で生活しているが外国語コミュニティー中で育った経験を持つ方々。
 
人生の途中から全く違う文化・言語圏に移動し適応することの苦悩、また日本で育ち日本しか知らないのに日本人でないという曖昧なアイデンティティー
 
料理研究家コウケンテツさんの「韓国人からは"お前は俺たちとは違う"と言われ、日本人からも"お前は俺たちとは違う"と言われた」という言葉は、生い立ちにおける「移動」の影響の大きさについて改めて考えさせられました。
 
また、コウテンケツさんは「両方の気持ちがわかる事が自分の強み」「物事を客観的に見るという姿勢形成に役立った」ともインタビューの中で、語っていますが、その境地に至るまでにはかなりの葛藤があったはず。
 
中高生年代になれば、自身の葛藤や苦悩を言語化できるようになりますが、幼少期の子どもは母国語であっても体験や感情を上手く言語化できないし、ましてや不慣れな言語ならなおさら。
 
今後、日本で外国人労働者が増えていくでしょうから、確実にこのような体験をする外国籍やハーフの子どもたちが日本で増えてくると思うんですよね。
 
そんな移動する子どもの体験を、専門家視点ではなく、当事者視点でその人の言葉による「ライフストーリー」が読めるのは貴重です。
 
 
というのも、僕自身が働く地域は外国人が多い所なので、これまでに沢山の「◯歳から日本に来た」という外国籍やハーフの子ども、または「中身は日本人」と語る母国語を話せない子どもとたくさん出会ってきたんですよね
 
国は、ブラジル・フィリピン・中国あたりが多いですかね。僕の職場は常駐のポルトガル語通訳さんがいますし、英語、スペイン語タガログ語を話すお客さんと出会うのはもはや日常的。(僕は日本語しか話せませんが…)
 
このような家庭で育つ子どもは、日本で日本語の教育を受けて育つので、当然、日本語が上手くなる(友だちとのやりとりがありますから)。しかし、親は日本語を話せない。すると、子どもは「外では日本語、家の中では母国語」という風になって、親は日本語を話せないけど、子どもがバイリンガルトリリンガルで日本語を通訳をするなんて光景も珍しくありません
 
 
しかし、日本語を話せている=勉強についていけるわけではなくて、この本で指摘されているように学習の遅れは「言葉の不慣れ」によるものだけではなく「文化の違い」による部分もあるんだという視点は目から鱗でした。
 
例えば、国語や社会は「日本文化」を知っている暗黙の前提で物語や話が構成されていて、実は日本人が常識と思い聞き流すところで、外国から来た子どもたちは「?」が浮かび、話についていけなくなるんだ、と。
 
確かに。単語もそうですし、風習なんかもそうです。例えば昨日は「節分」でしたが、何で豆を撒くのか、何で歳の数だけ豆を食べるのか、なんて大半の日本人もよくわかってないですし。
(チコちゃんに"ボーッと生きてんじゃねーよ!"と怒られるやつです)
 
文化って、生まれた時から当たり前にあって、それが「日常」となっていることだと思うんですけど、それは国なんて大きなレベルではなくても、職場、地域、家レベルでもそれぞれの文化差ってありますよね。
 
ただ、タレントのフィフィさんが「外国人が理由でイジメられたことはない」「見た目が明らかに日本人でないと、あの子は外人だから仕方ないよね、と許される部分がある」というのも、なるほどと思わせる言葉で、確かに、明らかに相手と自分が違うことがわかれば、「文化の違い」を受け入れる素地は多分にあるのかもしれません。
 
しかし、そうは言っても、外国人なら英語を話して当たり前に思われるといったステレオタイプ的な思い込み、異なるものに対する「不理解」「勝手なイメージ」「価値観の押し付け」の体験はあったようで。
 
そんなフィフィさんが、『終章「移動する子ども」だった大人たちからのメッセージ』で語っている「結局、親がポジティブにいられるかどうか」という言葉は、「自分は何者?」アイデンティティーが揺さぶられる時期に、如何に身近な家族が支えてくれることが大切なのかを端的に伝えてくれていると思いました。
 
 
このようなことを考えると、異文化を移動する子どもが、さらに社会的養護(里親・施設)への「移動」を重ねると、より一層問題が複雑だし深刻になります。
 
年齢が小さいと母国語をどんどん忘れていくし、日本人と日本人としての生活をしていると、言葉もそう食事もそう母国の文化がどんどん馴染みない「非日常」のものとなっていきます。
 
そうすると、いざ親子交流しようと思っても、時間が経てば経つほど言葉も通じない、文化的な感覚も合わない、それを「親子」と呼んでいいのかという距離を生んでしまう可能性が大いにあると思うんです。
 
さらに、日本語に壁のある外国人の親がつながれる社会資源は本当に限られる。コトバわかりませんから。また、その地域のある外国人コミュニティーは非常に狭い人間関係ですから、言葉が通じる=だいたい知り合いというリスクもありますし、外国人で虐待が絡むと「オフィシャル」な関係機関で支援体制を構築するハードルが格段にあがります。
 
安全第一で家庭から分離した、問題はソノサキ。例えば、宗教上の理由で食事制限があったりする子どもを受けてくれる里親や施設がどれ程見つかるか。
 
また、介入という名の「異文化間移動」を強制された子どもの未来、将来的な自立をどう考えて、どう支援していくのか。そして、その人のアイデンティティー形成をどう支えていけば良いのか。
 
多文化共生が進むと、それに対応していない制度との間に生まれるヒズミってあると思うんですよね。そんな少し先の未来について、その一端をすでに経験している身としては、考えてしまいます。
 
 
最後に、
 
編著者である「川上郁男」教授の研究室にある『書評』を紹介。
 
異文化の移動を経験した方々から、数多くのコメントが寄せられていて、コレを読むだけでもかなり参考になります。
 
そして、そんな書評の中で、
「ライフストーリーは、聴き手との化学反応によって生まれる」
「インタビュアーの聴く技術も必見」
 
というコメントを見つけ、やはりLSWの本質は「語り」であり「対話」であり、支援者に求められる基本は「聴くこと」なんだよな、と改めて思いました。
 
 
以上、散文ですが、初心を思い出させてくれた一冊の紹介でした。
 
 
ではでは。
 
 
 
 
 

 

【第100回】世界一のパンコントマテ

メンバーの皆さま
 
あけましておめでとうございます。管理人です。今年もよろしくお願いします。
 
記念すべき100回目がこんな脱線話しでいいのかと思いつつも「やはり、書きたいことを書く!」ということで、2019年はじめのコラムはこれ。
 
 
アナザースカイ〜2019年最新版!食の街バルセロナが誇る美食店巡り1/4放送、日テレ)
 
 
放送を観た方なら思わず食べたくなったのではないでしょうか「パンコントマテ」。
 
パンコントマテとは、「パン・コン・トマテ」。放送中は、司会がお笑い芸人の今田耕司なので「パン・コント・待て!」みたいに勝手にお笑いに寄った脳内変換になっていましたが(苦笑)
 
英語で言えば「パン・with・トマト」。
つまり「パンとトマト」。焼いたバケットにトマトをこすり付けて、オリーブオイルと塩胡椒を振るだけのシンプルなスペイン・カタルーニャ地方の郷土料理。
 

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これ、僕が3年前にバルセロナで食べたパンコントマテ。確かに「コレうまいな」と思った記憶が放送を見て蘇りました。
 
 
で、番組内容はというと、食雑誌「dancyu編集長の植野広生氏(自称、食いしん坊)が、バルセロナのレストランを紹介しながら、最後は植野氏が10年追い求めた念願の「世界一のパンコントマテ」を食すというもの。
 
美味しそうなのはもちろんなんですけど、とにかく放送中の植野氏の言葉が名言すぎ」でして、その食に対する姿勢や言葉は、LSWや臨床に通じるものがあるなぁ、と思ったんですよね。
 
 
そんないくつも出た名言の中でも一番はコレ。
 
 
「刹那的爆発ではなく、普遍的な味わい」
 
 
植野氏いわく「パンコントマテはスペイン人にとって、日本人の味噌汁のようなもの」。シンプルゆえにお店によって千差万別だとか。
 
そんな数々のパンコントマテを食べ尽くした植野氏がレストラン「La Venta」を訪れ、「世界一のパンコントマテ」を食べた時の言葉。
 
 
〜刹那的爆発ではなく、普遍的な味わい。
 
〜一口でぶっ飛ぶような料理じゃないけど、食べ続けることができてじわじわ美味しくなってくる。世界一がここに行きつくのは納得。感動しかない。
 
 
「シンプルイズベスト」とは言いますが、ただシンプルしか知らなければ、それはただの単純。そうではなくて、色々知った上で無駄なものを削ぎ落とし、必要なものだけをシンプルに残したものって理屈抜きの美しさがありますよね。
 
福祉のような「日々の生活を支える」仕事で目指すところは、こういうところな気がします。決してやっていることは特別な事ではない。しかし、その何気ない表情や何気ない一声が、じわじわ染みる、こころに伝わる。
 
こころをホッとさせてくれて、元気になれる。それでいて、かましくなく飽きもこない。
 
刹那的に爆発的に楽しいわけではないが、世代を超えて普遍的に人が求めるあたたかさ。「家庭的」や「ふるさと」と呼ばれるものって、僕の中ではこんなイメージです。
 
児童福祉、特に社会的養護に関わるような子どもには、そんな関わり、そんな体験の場を提供したりコーディネートしていくことが仕事なんだろうと最近思います。
 
と、しみじみ植野氏の言葉が染みました。
 
 
 
また面白かったのは、 
バルセロナは日本と「食」への向き合い方が同じ
という話し。季節感を大事にしていて「旬のものを美味しく食べる」精神を大事にしていると。
 
そんなバルセロナでは最近、オープンキッチンの店が増えているらしいのですが、それは日本の寿司屋・天ぷら屋に行ったスペイン人が「これイイじゃん」と取り入れていると。
 
また、調理前の魚に切れ目を入れる包丁技術は元々スペインにない日本の食文化を取り入れたものだし、出汁を取る「椎茸」が「shiitake」そのままの名前で普通にバルセロナの市場に並ぶようになっている、と。
 
面白いですね。思わず「へぇー」と心の中でボタン押しちゃいました。
 
「旬」のものを扱うタイミングを逃さない感覚って対人援助でも非常に大切ですし、自分たちが大事にするものがありながら、他文化の良いものを積極的に取り入れる柔軟性な姿勢は、僕も忘れずに追い続けたいなと思いましたね。
 
 
 
最後にもう一つ。「食いしん坊」という言葉を世界に広めたいという植野氏が行った言葉を。
 
「食べ物にA級もB級もない」
 
300円の立ち食いそばも3万円のフレンチも同じように「目の前の料理をどう美味しく食べられるか」を楽しめる人が"食いしん坊"だと思っているし、そうなりたいと。
 
 
食べることがホントに好きなことが伝わってくるセリフですよね。好きこそ物の上手なれです。
 
僕もある人から「LSWマニア」と言われた事がありますが、人に関わる事が好きだから対人援助の仕事を続けられている所はあるし、「人をつなげる、つながる」ことが好きで、それがLSW勉強会やblogの原動力に結局はなっているなと思います
 
そんな仕事をさせてもらっているからには「目の前の相談者や仲間に対して、どう自分が役に立てるか」を真摯に考える姿勢は忘れちゃいけないなと感じたので、2019年の書き初め的blogとさせていただきました。
 
今年も一年よろしくお願いします。
 
ではでは。
 
 

 

【第99回】ゴールキーパーと児童相談所の特殊性

メンバーの皆さま
 
こんばんわ。管理人です。
 
いよいよ2018年も残りわずか。皆さま、師走をいかがお過ごしでしょうか。
 
気がつけば、blog更新せず1ヶ月…。今思えば、今月はちょっと最近ストレスフルで、blog開始と共に封印したスマホゲームを現実逃避的に始めてみたり…。
 
日記のように続けているモノサシがあると、その時々の「自分の状態」の変化がよくわかりますね。予定が詰まりすぎてました。
 
(※文字の色が薄いのは現実逃避して意識が遠のいているから…ではなくて単に僕の修正技術不足。途中から直ります。スミマセン)
 
 
そんな今年を締めくくる(だろう)【第99回】コラムで取り上げる記事はコレです。
 
 
 
川島永嗣への“総叩き”で感じた、日本でGKが育たなくなる危機感
 
 
もうすっかり過去の出来事になってしまいましたが、2018年を代表するビッグイベントと言えば「W杯ロシア大会」。おかけで今年もLSWブログなのに、サッカー記事を多用しちゃいましたし(苦笑)
 
まぁ、何でサッカー記事を多用するかと言うと、単に僕の趣味嗜好の部分だけではなくて、マイナーな児童福祉の世界で起こっていることを世間の興味関心が高まっている事に例えて、少しでもわかりやすく多くの人と共有する方法を模索しているから。ですが、かえってわかりにくかったらスミマセン…。
 
 
で、懲りずに今回取り上げるのは『ゴールキーパーに関する特集記事なのですが、その内容を読んでいると、どうにも他人事には思えないんですよね。
 
詳しい内容はリンク参照ですけど『GK→児童相談所に置き換えて読むと、ビックリするほど置かれている立場がそっくりなんです。
 
W杯グループリーグ第1戦第2戦での失点シーンについての「GK川島永嗣への"総叩き"」は記憶に残っている人も多いと思いますが、記事内容をざっくりまとめるとこんな感じ。
 
GKは『プロの監督でも技術的なことは説明できない』特殊なポジション。国によっても流派(アプローチ)が違う。
GKは『10のファインセーブが1つのミスで吹き飛ぶ』特殊なポジション。他メンバーのミスは見逃され、GKのミスが目立つのでそこだけを理不尽に叩かれ続ける。
GKの『フィールドプレーヤー化』ルール変更や戦術進化によって求められる役割スキルが進化(バックパスで手を使えなくなってから、最後尾からゲームを組み立てる足技も求められる)。
 
 
例えば①に関して、日本の虐待対応は"何でもかんでも"児童相談所に権限を持たせて「介入しながらも支援もやらせる」システムですけど、これは俗に言う「ガラパゴス化」で司法・警察等とで分業がされている欧米と比べかなり特殊なんです。
 
この辺の誤解はかなり深いなと思っていまして、最近しきりにニュースになっている児童相談所の介入強化なんて、この1〜2年の改正『児童福祉法の全体の一部に過ぎないんですよね。
 

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サッカー図は僕のイメージですけど、児童相談所はあくまで『児童福祉法』の理念である子どもの健やかな成長・発達・自立を支える機関なんです。そのために「保護者を支援しなければならない」ともはっきり書かれています。

 
ただ、子どもが伸び伸び持っている力を発揮するには「からだが安全であり」「こころが安心できる」環境は必要。
 
なので、子どもの成長とそれを支える家庭に関わるための、介入は目的ではなく手段なんです。そして必要あれば、やむなく一時保護や里親委託・施設入所しますけど、それは親子関係再構築子どもの自立支援ためなんですね。
 
ところが、その手法はかなり特殊で、例えば保健医療教育の相談は、在宅と任意相談を前提としてます。それに比べて、介入して一旦家庭分離しておいて親子関係を再構築する「介入と支援」を組み合わせたアプローチなんて他の分野ではあり得ないことなんですよね。
(上のサッカー図で言うと中央突破ではなくて、サイドを経由したビルドアップという感じ)
 
だからこその期待はあるのでしょうが、そこの調整・折衝で求められる技術は、おそらく多くの児相職員ですら上手く説明できない「ピッチに立った者にしかわからない景色」と「周囲の不理解」がそこにはあります。
(これらの整理と言語化が今後の課題です)
 
ただし、それは児童相談所・一時保護所が構える最後尾ゴール前)まで来てしまった場合であって、「子どもの育ち」を支えるアプローチはその前から行われている。
 
それは社会全体で子育てをする「保護者」を支えるシステム、妊娠期から子育て期までの切れ目ない支援システムであって、改正児童福祉法ではその支援の中心を市区町村が担ってください、ということなんです。よく見ると。
 
ちなみに下は国が示す「イメージ図」ですけど、

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このように一番上「子育て世代包括支援センター」や中段の「市区町村子ども家庭総合拠点」が全体の連絡調整役となっていて、リスク高になると「児童相談所」も加わる形になってるんです。
 
その間にはキチンと『役割分担・連携を図りつつ、常に協同してを実施』と書いてあります。
 
なので、サッカーの図のように前線で家族親族・母子保健・学校でスクラムを組んで「子どもの成長」をどんどん促せるケースはそれで済むわけですが、「ちょっと育て難いな」とか「他人になんて相談できない」というケースが段々危険になってくると下に降りてくる。けれど、それは関わる機関や人を増やして、子どもの成長と子育てする家庭を支えましょう、ということ。
 
 
ですけど、②GKは『10のファインセーブが1つのミスで吹き飛ぶ』のように児童相談所は「一つの失点」でW杯の川島永嗣のように偉い叩かれるわけです。ニュースになる児童の死亡事例がソレです。
 
でも川島選手は、第3戦ポーランド戦でFIFAが公式に認める「スーパーセーブ」を連発していて、おそらくその活躍がなければ日本は決勝トーナメント進めてないし、物議を醸した"時間稼ぎ"をする土俵にすら乗れなかったと思うんです。その功績は一瞬で忘れ去られますけど。
 
社会的養護におけるLSWって似たようなところがあって、子どもに安全な環境を整えて、被虐待に安心感を与える信頼関係を育んで、ようやく過去や未来に向き合えるようになるわけですから、LSWを実施できる時点で、相当なスーパープレーをしていると思うんですよね。「子どもの成長」に向けて。
 
それは、③GKの『フィールドプレーヤー化』ような取り組みで、ただ失点を防ぐだけでなく、子どもの未来」に向けた丁寧ルドアップ、周囲と連携しながらパスをつないでサッカー図の上の方に再浮上するようなイメージ。
 
しかしながら、うなぎ登り通告対応に追われる児童相談所は、はや波状攻撃を弾き返すのに精一杯のDF・GK状態。マイボールにして丁寧に味方につないで、攻撃参加してなんて前に出ていく余力なんてない状況。そもそも毎年異動があって替わりに新人が送り込まれるので、そんな攻守にわたってソツなくこなせる経験者自体が多くない。
 
サッカーだと足元の技術になりますが、児童福祉で言えば「ソーシャルワークの力」になるのかなと里親推進が進む中で、児童福祉施設も入所児童を見るだけでなく里親支援・地域支援等の多機能化が求められていますから、「ソーシャルワーカー」だけでなく「ケアワーカー」でも「心理」でも多職種に求められソーシャルワーク水準はますます高くなると思います。
 
サッカーでは戦術進化によって、FWでも守備を、DF・GKでも足元の技術が当たり前に求められる時代。〇〇だけやってればいい時代は終わり、攻守共にチームのタスクをこなせるのは当たり前、さらに+α個人で何をチームにもたらせるか、そんな時代に突入しています。
 
前回コラムで「役割の解放」が特徴のチームワークのトランスモデルを紹介しましたが、まさに児童福祉の虐待対応に求められるのはそれかなと。もはや保健教育医療どこでも虐待ケースに遭遇する事は避けられなくて、ある程度の知識や技術は持って望まないと行けないし、もちろん得意分野の違いはあれ、機関・職種を超えて様々な専門家の知識・技術をシェアしたチーム対応が必要な時代に突入している、そんな気が僕はしています。
 
 
日本経済新聞(12/18)によると、
児童虐待、児相職員2900人増 全市町村には支援拠点
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目黒区の事件をきっかけに、前々から言われていた「児童福祉司2000人増員」に加えて「児童心理司・保健師も大幅増員」となるようです。
 
しかし、川島永嗣"総叩き"に似たような児童虐待対応の社会状況で、だって今の日本で俺が子供だったら、絶対にGKをやろうと思わないからね」ということ。
 
この状況で成り手がいるのか?数だけ集めて潰れたら使い捨てのような状況にならないか?
 
当たり前ですが、「自分が大切にされている・支えられている」と思えない人に、他人を大切にするような葛藤に寄り添うような支援はできないと思うんです。
 
・そもそも何を目指した「児相の体制強化」なのか
・増員した人材を誰がどう育てるのか
・保護者の相談などに応じ、機関調整の中心となる「子ども家庭総合支援拠点」の人材確保はどうするのか
・妊娠期の支援の入り口である「子育て世代包括支援センター」とはどうのように連携していくのか
 
人数が増えるのは喜ばしいことですが、教員や看護師等の専門職とは違い「児童福祉司・児童心理司養成校」は存在しませんから、職場配置されてから「実務と養成」が同時スタートするのが現実。
 
若手を積極的に使い育てながら、チームの成熟度も上げつつリーグ残留を狙うサッカーの中堅チームのようなマネジメントが現場では求められます。増えた人数をどうチームにするのか、ということが今後の大きなトピックになるはずです、というかなって欲しいですね。
 
実はこのあたりのチームの土台、支援者同士の安心感・安定感が、回りに回ってLSWを実施できるか、子どもの揺れを抱えるチームになれるかの鍵になってくると思うんです。
 
どうしたって、LSWは「プラスα」的な支援で、効果的なものもすぐに見えにくいので、余程の意識や精神的余裕がなれけば後回しになりがちな取り組みだと思うので。正直。
 
 
 
今年の締め括りに、記事のラストを紹介。
 
〜GKのミスってわかりやすし、海外でも失点や敗戦に直結しているから凄く叩かれるじゃないですか。ただ、日本の場合はそもそも『ミス=悪』みたいな図式が強過ぎるのも良くないな、と。これは社会や文化にも起因していると思うんですが。ただ、僕がより深刻に感じたのはGKが『褒められない』ことですよ
 
〜では、(海外で)なんでGKが人気ポジションなのかと言えば、ビッグセーブした時にムチャクチャ褒められるから。無失点なら絶賛される。まさしく英雄になれる。『お前のおかげで勝ったぞ』と言ってもらえる。日本のGKについても、そういう加点方式の発想をしていくことが大事なんじゃないでしょうか。『凄いGKは誰が見ても凄い』(by川島永嗣)わけで、もっとGKを褒めましょう(笑)
 
 
僕が思うに、児童福祉でも大人同士が「子どもの成長を共に喜ぶ」機会がもっともっとあっていいでしょうと。大概、関係機関で集まる時は"困った時"で、それはそれで必要なんですけど、だからこそポジティブフィードバックの場面を意図的に作ることも必要なんだろうなと。
 
そして、もっともっと大人のいい取り組みに対して『あなたのおかげで、こんなに良くなったよ!子どもが幸せになったよ!』と褒めましょう、絶賛しましょう。
 
支援者だって大人だって親だって人間です。モチベーションひとつで変わる部分はどうしたってあります。
 
LSWは、もちろん本人の為なんですけど、大人側にとっても忙しい中でもふと立ち止まって、子どもの成長を振り返り、共有することの喜びを思い出させてくれる、そんな機会でもある気がします。
 
また、それは多忙な業務に追われるなか、忘れ去られがちな児童福祉の原点・理念「子どもの健やかな成長・発達・自立」を支えるのが今の仕事のミッションであることを思い出させてくれる場、でもある気がするんですよね。
 
 
「この仕事って、いいな」
 
「人と関わることって、悪くないな」
 
 
陽の目には当たりにくい仕事ではあるけれど、この世界に触れた人には、そんな風に思ってもらえるように、目の前の人との関わり・つながりを大切に、丁寧につむぎ対応していく。
 
そんなことを、改めて考えさせられ、もがいてみて、自分の中では2017年よりも少し整理がついた2018年だった気がします。
 
その整理はblogを書きながら進んだ部分もありますし、また増加するアクセス数を励みに感じながら、12月は若干怪しかったですが、無事一年間blog継続できたおかげかなと思います。
 
一年後。2019年の暮れに、自分が何を書いているのか全く想像がつきませんが、そんな予測不能な自分自身の変化を楽しみにしつつ、来年もblogを続けていきますので、今後もお付き合いよろしくお願いします。
 
 
それでは、皆さま良いお年をお過ごしください。
 
 
ではでは。

【第98回】職種による「チームワーク」の認識差

メンバーの皆さま
 
こんにちは。管理人です。
 
JaSPICANおかやま大会に向かっています。移動でまとまった時間があるので11月二度目の更新。
 
約一年前、2017年末コラムで勝手に掲げた「来年で更新100回」の目標まであと3回。何とか年内に区切りをつけて、晴れ晴れした気持ちで2019年を迎えたいたいものです。
 
という事で【第98回】コラムは、前回に引き続きLSWに欠かせない「チームワーク」について考えてみます。
 
今回紹介するのは、この論文。
 
 
チームワークの認識に関する研究ー自記式質問紙を用いた専門職間比較ー (松岡、石川 2000
 
 
【論文紹介】(by管理人)
まず筆者はチームワークを、
「専門職間連携の一方式」で「主体性を持った多様な専門職間にネットワークが存在し,相互作用性,資源交換性を期待して、専門職が共通の目標達成を目指して展開するプロセス」
 
と定義した上で、メンバー間の「チームワーク」モデル認識のズレがチームワークを阻害する一要因として働くことを指摘。
 
そして、
・専門職として社会化される過程で独自の文化(考え方)を身につけていく
・各職種が実践している組織環境の相違
(例えば、医療現場と比べると,社会福祉現場では職員の対等性が強調される傾向がある)
 
によって各職種の「チームワーク」モデル認識がズレがあること検証したというのが研究内容。
 
 
ちなみに「チームワーク」モデルはこの3つ。

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●マルチモデル(権威モデル)
発祥は医療領域。医師が中心となって他の専門職からの情報を受け取りながら治療に関する意思決定を行う。原因ー結果という直線因果的な問題に有効。職種間の「 階層性 (ヒエラルキー) 」が存在。いわゆるトップダウン型。
 
●インターモデル(相互モデル)
発祥はヘルスケア領域。慢性疾患や高齢者ケアなど心理ー社会的な多問題を抱える領域に適している。多職種が平等な立場から相互に意見交換し、チームメンバー全員で意思決定を行うプロセスを踏む。
 
●トランスモデル(縦断モデル)
乳児・幼児療育や障害児教育の場面から生まれてきたもの。「役割の解放性」が特徴で、例えば家族が看護者の役割を担ったり、教師が教育という本来の役割を超えて一部の理学療法を行ったりと専門性をシェアして学び合うモデル。
 
そして、成人の介護施設
  1. 看護職
  2. 介護職
  3. 生活指導員ソーシャルワーカー)
の職種間で「チームワーク」 に対するモデル認識の差を調べたら…
 
 
◼️結果→考察
看護職:「インター・トランス」モデルを想定
・医師の強いリーダーシップの下でチームのメンバーとして機能する「マルチモデル」をそのまま施設場面にも持ち込む予想とは違う結果。
→介護は多職種との連携や協働する形へ変化し、そこではすべての職種が「同じステージ」 で仕事をすることが求められていることが反映された?
 
介護職:「マルチ」モデルを想定
・看護職と正反対の認識傾向を示す。
→看護職と介護職の軋轢、介護中心の職場でありながら介護職が看護職の 助言・指導を受けつつケアを行っているという実態が反映された?
 
生活指導員:看護職と介護職の中間モデルを想定
ソーシャルワーカーという職種が持つ「連絡・調整」機能は、日常業務の中で大きな位置を占めるものの一つで、調整役として中立的な立場にあることが求められることが反映された?
 
その他:
インター・トランスモデルが混合されて認識
→トランスモデルはインターモデルから派生。理論的に把握されるようになった歴史も浅く、障害児教育という特殊な分野で発展してきたため、今回の調査対象であった成人施設職員においては馴染みがなく区別が不可能であったのではないか。
 
 
【コメント】
初めて読んだ時は、心の中の「あるある」が止まらなかったですね。
 
「連携!連携!」と仕切りに言ってはいるけれど、各々が想定している連携の形、チームワークの形がそもそもズレている気がするって事、あなたの組織、あなたの地域でもありませんか?
 
何でこんなに分かってくれないんだ!って、それぞれ思っているわけです。そりゃ、いつまでも噛み合わないです「目指している形」が違うんですから。
 
この研究は2000年の成人施設職員での結果ですが、僕が児童福祉の世界に足を踏み込んでからのこの10年、ホントに個人間、職種間、組織間の「連携・チームワーク」の認識のズレに苦しんできたんですよね。
 
 
では、現在2018年の児童福祉はどうでしょうか…?
 
差異がないなんてことはないと思います。
 
 
思うんですよね。おそらく、この認識の差異はいつの時代もなくならない。育ってきた環境が違うから。時代と共に問題と求められる形が変わるから。むしろ考え方や文化の多様性は、状況変化に対応する強みにもなり得る。
 
だから考え方を均一化する方向ではなく、ギャップがある事を前提として、ギャップを認めながら共存する形を模索すること、その際に生じる衝突・葛藤に対処するスキルを伸ばす方向性、つまり「ファシリテート能力」にもっと焦点を当てていく必要があるのだろうと。
 
この数年、児童福祉施設の中堅〜ベテランの職員さんから、「昔は力で抑えていたけど、今は時代が違うので」という内容を耳にする機会が増えたなという感覚が僕にはあるのですが、児童福祉分野はちょうど支援観・価値観の移行期にあるのかなと思っています。
 
発達障害系の児童の割合が増えているのは教育現場も福祉現場も同様。母子世帯、貧困世帯、ステップファミリーと多問題を抱える家族背景を抱えるケースに山積する中で、「マルチモデル」は通用せず→「インターモデル」→「トランスモデル」への支援形態の移行が時代の流れと共に求められているのかなと。
 
だけれども、個人も組織も柔軟性に差はありますから、時代の流れにスムーズに乗れる人、昔のスタイルに固執する人、変化しようとしても思うように出来ない人、それぞれがいるはずなんです。
 
それは児童福祉分野に限らず、2010年代に入って以降、経済界各所で「VUCA(ブーカ)時代」が到来した呼ばれるように、経済、企業組織、個人のキャリアにいたるまで、ありとあらゆるものを取り巻く環境が複雑さを増し、将来の予測が困難な状況になっている時代の流れかなと。
 
・Volatility(変動性)
・Uncertainty(不確実性)
・Complexity(複雑性)
・Ambiguity(曖昧性)
 
VUCAはもともと1990年代にアメリカの軍事領域において用いられてきた言葉で、一言でいうと「予測不能な状態」を意味していて、現代のカオス化した経済環境を指す言葉です。
 
ちょうど日本で児童虐待が扱われ始めたのも1990年代ですし、児童虐待分野の支援者にとって「予測不能な状態」は当たり前の日常ですし、今更それ言うか感すらありますが、軍事領域において用いられた言葉が当てはまると知った時は、やはり「戦場」なんだなと思いが一層強くなりました。
 
現代社会に合わせたベンチャー起業は、とにかくスピード感を大切にしますし、やればやるだけ利益が出た大量生産大量消費の時代から、いかに時代のニーズに合ったサービスを提供できるか、企業も明らかにモデルチェンジが求められていると思います。
 
そんな時代の変化に伴い「ただ決められたことをきちんとこなす人材」よりも「主体性を持って考え柔軟に行動する人材」が求められていますし、組織のあり方も「マルチモデル」から「インターモデル」「トランスモデル」的なものが求められている気がしますが、その変化に人や組織の方が付いていけてないのかな、と。
 
受験スタイルにしても、リーダーシップにしても、急な変化に適応できる人は出来るけど、できない人は出来ない。2020年に学習指導要領も変わりますが、適応できる人と出来ない人の差がより一層はっきり現れると思います。特に児童福祉に多い発達障害系の人は「変化に弱く」「曖昧なことが苦手」ですから、そんな社会に適応できないと見なされた人達がどんどん来る。
 
しかし、それを支援する側のチームワークで求められる「トランスモデル」の特徴である「役割の解放」は、悪く言えば「役割の境界が曖昧」になりやすいので、よほどチームメンバーがそれぞれの自分の役割をきちんと自覚して実行できないと、役割の押し付けが始まったり、結局できる人に負担が一極集中したりと、「柔軟性」と「不安定さ」って表裏一体。
 
子どもの事は「何でもかんでも児童相談所に」と通告が増え過ぎて、時間制約上かえって出来る役割が限られてしまっているし、上記の衝突葛藤も各地で起きている、現代日本の児童福祉の流れはまさに移行期の混乱やバランスの悪さを象徴している気がします。
 
ただ決して、マルチモデルが劣っていて、トランスモデルが優れているとかいう単純なものではなくて、要はある問題に対して適切なチームワークを適応できるかという戦術的柔軟性の問題。
 
当コラムでは、よくサッカーの例えを出しますけど、対戦相手や戦況、残り時間によって効果的なフォーメーションは異なりますし、チームメンバーの特性や能力によってもフォーメーションの合う合わないはありますよね。
 
これはLSWにおいても同様で、刻々と変わる子どものニーズや状態だけでなく、支援する施設や児相の担当者も年度で刻々と変化する。
 
例えば、暴力や自傷他害など「安全に関わる」早急な問題の対応判断は「マルチモデルのトップダウン的対応」が必要ですし、生活場面で日常的に行われる成長を促す関わりやケアは、各々の立場や経験、専門性をシェアして力を合わせる「インターモデル」「トランスモデル」が必要なんだろうと思います。
 
その戦況に合わせた柔軟なフォーメーション変化を「監督コーチの指示なし」で「ピッチに立っている選手同士で対応しろ」というのは、余程の各々の経験と戦術理解度が高く、阿吽の呼吸で通じ合えるような関係性でないと難しいだろうと思います。けれど、僕が現場で連携がうまくいっているなと思う時ってそれが可能なメンバーが集まっている時なんですよね。だいたい。
 
それは、前回コラムのGoogleの研究結果で言う、
・メンバーの人の気持ちへの感受性の平均値が高い
 
ということなるのかもしれませんが、それだけではなくてメンバーの発言量がだいたい同じ」になるような雰囲気づくり、つまり心理的安全性を高める」ファシリテート能力というは、天性のセンスに頼るだけでなく、そのコツみたいなものを皆で共有してシェアしていくことが今後は必要だよな、と思っています。
 
 
ということが、僕が学生として今研究でまとめようとして、全然まとめきれていない事の一部です。
 
来年3月までにまとまるのかな…。
 
 
ではでは。

【第97回】心理的安全性とLSW

メンバーの皆さま


おひさしぶりです。管理人です。


気がつけば11月。はやいですね。


もう年末に向けて師走が始まると思うと恐ろしい…。


という事で、なかなかブログ更新にまで手がつかないのですが、 最近注目していることについて手短に。
(※と書き始めは思っていましたが、 結果的にすごく長くなってます)

 

 

ここ数年、 もっぱらニュース確認はネット記事がメインになっちゃってるんで すが、Yahooのトップ画面って、 自分がよく見るニュースの関連記事を集めてくれるんですよね、 親切に。


でも、便利な反面ありがた迷惑な所もあって、 それが興味を狭める方向に、 似たような記事何回も見ちゃう側面もあるよなー、 と思いつつ元々興味はあるもんだから、 やっぱりついつい見てしまう。


そんなこんなで、 この数ヶ月やたらに読んでしまっているのが組織における「心理的安全性」についての記事。


詳しい話はググって調べて欲しいのですが、 まさにそのGoogleの本社が2012〜 2016の4年間かけて「チームの生産性」 を向上させる要因を調べた研究(プロジェクト・アリストテレス) についての話題。

 

 

参考)Google【re:Work】「 効果的なチームとは何か」を知る

https://rework.withgoogle.com/jp/guides/understanding-team-effectiveness/steps/introduction/

 

 

上記はGoogleが会社やチームのあり方の研究結果を丁寧にも 発信してくれている「re:Work」というサイトなんですが、 この内容の解説みたいな記事や本を目にする事がこの1〜 2年ホント増えました。ご覧になったことがある方も多いのでは。

 

内容を簡単にまとまめると、 生産性が高いチームの共通点の仮説として、
「 どれくらいの頻度でチームメイトとオフィス以外で交流しているか 」
「同じ趣味をもっているか」
「学歴が似ているか」
「全員の性格が似ているか」
等々を検証してみたが共通性は見いだせず、驚くことに「 メンバーの優秀さ」さえもチームの生産性には関係しなかった、 と。

 


唯一見出せたチームの共通点は、


・メンバーの発言量がだいたい同じ。

・メンバーの人の気持ちへの感受性の平均値が高い。

 

の2点のみ。ということから「心理的安全性」 が効果的なチームを作るのに一番重要というのが調査結果と概ねの記事の内容です。

 


これ、非常に心当たりがありまして、 あんまり機能してないケース会議とかチームって、 だいたい一人がバーっと喋ってるんですよね。 聞いている人が他人事のお客様状態だったり、 話す人が周囲から責められるのではないかという不安から防衛的になっていたり。矢印は常に「やるか→/やられるか←」 の一方的な感じ。勝ち負けやパワーゲームみたいな。


逆に、 いい連携いいチームワークが取れている場の雰囲気ってメンバーから自然と質問が出たり、それについて真摯に受け答えしたりと、 矢印は「やりとり⇄」の双方的な感じ。 メンバー間の対話的なコミュニケーションが生まれているなと、 体験的に思っています。


Googleって半年で集まって解散するプロジェクトチームの同時並行の連続。いわば「バンド掛け持ち」 みたいな働き方のようですが、 児童福祉ってそれに似てる気がするんです。


多問題を抱える「ひと家族」「ひとケース」 って単独の職種や機関で扱える課題は限られていて、 それぞれに得意分野を持った多職種多機関を集めたプロジェクトチーム(音楽で言えばバンド) を発足しているものだと僕は思います。


バンドにいいボーカルが一人いればいい音楽を作れるかと言えばそんなに単純なものではなくて、 音楽性の一致やメンバー間のバランスや役割分担が揃って、 はじめていいバンドになりますよね。


Googleの調査結果である、
・メンバーの発言量がだいたい同じ。

・メンバーの人の気持ちへの感受性の平均値が高い。


って僕のイメージでは、その場において「音を出していない」 メンバーがいない、 発言内容ではなく音やエネルギーが飛び交う場の空気感がハーモニー的であるか、相互作用・化学反応が起こっているか、 それぞれのメンバーが他の人の音や息遣いを感じながらも話し合いに参加しているか、 という非常に感覚的だった指標を表してくれているよなぁ、 と初めて見た時は思ったんですよね。

 


次は、そんな「心理的安全性」 についての数ある記事の中でも面白いものをひとつ紹介。

 


グーグル 成長のカギは「弱さを見せ合えるチーム」

https://style.nikkei.com/article/DGXMZO35776860W8A920C1000000?channel=DF070420172353&n_cid=LMNST011

 

 

これはGoogleのピープル・ アナリティクスのチームのシニアマネージャーへ直接インタビュー した「生のやりとり」が書いてある記事。


面白いのは、心理的安全性は「少し高めの目標設定」 とセットでなければ生産性に寄与する効果は出ない、と説明されているところ。


Googleでは、従業員に対して常に「少し高めの目標」 を設定していて、当然、 目標に到達するまでには時間がかかることもあって、 途中で進捗状況を報告してもらう時に「心理的安全性」が高いことが非常に重要になってくると。
 
つまり、
"進捗状況を、 うまく行っていない部分も含めて正直に伝えられるか。 そういった課題が早く共有されることが、結果として、 組織としての成果に結びつく"


と。これホント児童福祉でも同じですよね。 もう少し早めに相談してくれれば… いきなりそんな事言われても困る!なんて「抱え込み」 状況ってケース対応でも関係機関同士の連携でも実によく起こります。

 

でも、思うんですよね。 現実に起こっている難しい状況と目標設定がかけ離れればかけ離れる程、うまくいかない事が増えるのは当たり前。それが、これまで自分の慣れ親しんできた方法とは別の新しい方法に取り組んでいるのなら尚更。


うまくいかない時って、相手を責めたい気持ち( 自分は悪くないと思いたい気持ち)になりがちですが、 ひとつ俯瞰的な視点で考えると、果たして「うまく行っていない部分も含めて正直に話せる関係性づくり・ チームづくり」をどこまで意識して準備できていたのかは、 考える必要があると思います。

 

 

「相手も忙しいから、 こんな些細な事で相談しても迷惑をかけるに違いない」


「 こんなに事を伝えたら怒られたり責められたりするんじゃないか」


「こんな事も出来ない親として(専門職・上司として) 無能と思われるのではないか」


「どうせ聞いてくれないから、言ってもムダ」

 


そんな遠慮・不安・恐れ・ 諦めの感情がチーム内に渦巻いていないか。 相談関係やチーム内に本音を言っても大丈夫な「心理的安全性」はあるのか。

 

よくある「何か困ったら連絡してください」 というお決まりのフレーズで、 本当に連絡できるような関係性なのか?

 


そんなことが、ケースの家族の中で、自分の組織の中で、 関係機関との連携の中で、ありとあらゆる場面で起こっているし、 その関係性や葛藤を調整することが仕事のほとんどになっていると日々感じます。


そんな心理的安全性を実現するために「弱さを見せ合える関係性」をつくることが必要で、 それは難しいことなんだと記事では扱われています。


そして、
心理的安全性が低いという問題は個人のせいではなく、 チーム全体の問題である場合がほとんどです。 一人ひとりの能力は豊かであっても、 社会的なパワーバランスがうまくいっていないことが原因です。 そういったときに、 チームの関係性を再構築するサポートはしています"


という事で、 深い問題を抱えているチームを発見した場合には人事部門が介入し 、特に関係性づくりの個人トレーニングは実施していないと。


最終的な記事のまとめは、日米の文化差に触れながら、 どちらが良いではなく「お互いに学び合う」という姿勢が大切で、 「心理的安全性があるからこそ、チャレンジができ、 意見の対立や失敗を次の成果に生かすことができる」 という事になっているのですが、これってまさにOJT( オンザジョブトレーニング)そのものだなと。


上手く機能しないチームが出てくることを前提としてサポート体制 を整えておく。その調整されていく体験を通じてチームの中で「 お互いに学び合う姿勢」「チャレンジをして、 意見の対立や失敗を次に生かすこと」 が実務の中で積み重ね鍛えられていく。


なるほど、これは実に現実的なOJTであり、 コストパフォーマンスも結果的に非常に高いとは思います。 しかし「ただ背中を見て学べ」 というだけでは学ぶまで時間がかかり過ぎてしまうので、 全く個人の資質を高めるトレーニングなしという割切りまで僕の中では出来ないんですよね。きっと、それはどこまでいっても十分なフォロー体制を整えることが難しい現実を思い知らされているから。


身近に相談サポートを受けられる第三者的な立場から「研修体系+ フォロー体制」を整えるのが現実的かつ効果的、 おそらく新しい養育ビジョンで乳児院児童養護施設が地域の子育てサポート・ 里親支援を行うイメージはこういうことなんだと思います。


しかし、現実は人様の家庭をサポートする前に、 自分の組織はどうなんだという感じで、人員も時間も足りず、 専門性を期待されながらも経験が浅い職員(3年未満)ばかりで、 その日その日をギリギリの所でしのいでいる現場はホントに多い。

 

バーンアウトで人が辞めちゃうことも珍しくありませんし、 将来に向けた「人材育成」なんかより、今をまわす「人材確保」 もままならない大人の状況や悲鳴はどの対人支援の現場からも聞こえてくる気がします。


LSWって過去を整理しながら気持ちを未来に向けて考えていくプロセスだと僕は思っているのですが、 それを支える大人や支援者が未来を考える余裕がない程に今の現実に追われていれば、 やはりその姿勢や心の状態は子どもに伝わってしまうものではないかなと感じます。

 

子どもの「育ちの環境」はもちろん、子育てをする保護者・ 養育者の「育ての環境」、それを支える支援者の「支えの環境」 それぞれを整えていかないと。 1つのチームのようにどこかがどこかに影響を及ぼすように結局は 繋がっているので。 システム論を現場目線で平たくいうとこういう事かなと。

 


「お互いに学び合うという姿勢が大切」

 

心理的安全性があるからこそ、チャレンジができ、 意見の対立や失敗を次の成果に生かすことができる」

 


ホントその通りですが、 それを組織として地域として実現し維持していくことは簡単ではなく、 情熱やエネルギーを持ち続けないととても続けていける事ではないなぁ、と。

 

組織論を学べば学ぶ程、 現実に起こっている事がスッキリ整理されて認識できる反面、 それを実行実現していくことの大変さに頭を抱える今日この頃です 。

 


モヤモヤした感じの終わり方ですみません。

 

モヤモヤしています。


まぁ、これが「弱みを見せる」ということですかね。

 


ではでは。

 

【第96回】語りの「場の設計」と「エンパワメントの獲得過程」

メンバーの皆さま
 
こんばんは。管理人です。
 
個人的な話しですが、今月から「学生」やってます。別に、仕事を辞めたわけではなくて、
【委託学生】
団体などが学費を支給し、教育機関に指導を依頼する学生。委託生。
 
という、仕事をしながら大学で研究をできる制度がありまして。週一で大学に通い始めたわけですが、10年ぶりの学生って、かなり新鮮です。
 
期間は来年3月まで(つまり半年間)なんですけど、卒論や修論を書いた経験のある人なら想像つくと思うのですが、スタート時点で大学4年・修士2年時の10月ですから、時間的には思った以上に厳しいです💦
(まぁ、知ってて応募してるんですけどね…)
 
ちなみに、研究テーマは「LSW」ではなくて、ざっくり言うと「連携・協働」について。とは言え、LSWはこれまで取り上げてきたように多職種多機関によるチームアプローチになるので、かなり活用できると思っていますけれども。
 
そんなこんなで、つまり何が言いたいかと言うと、
「学生の本分があるので、blog更新のペースが落ちます!」
という宣言的な言い訳なわけですけど、この間にも論文や書籍は読み漁ってますし、これまで扱えていないネタのストックは沢山あるので、今後もLSWのちょっとかゆいところに手が届くようなネタをボチボチのペース更新して行きます、しばらくはという事です。
 
 
で、ここからは本題。前回「Strategic Shearing:ストラジェック・シェアリング」という戦略的なライフストーリーの共有について触れましたが、今回はそれに関連するような論文を二つ紹介。
 
 
精神障害当事者にエンパワメントをもたらす公共の語りの場の設計 語り部グループ「ぴあの」の実践事例をもとにー (栄、2015
 
詳細は原文を読んでもらえればと思うんですが、この論文は題名そのままに、精神障害当事者が自身の体験を語る「場」を、どのようにして当事者をエンパワメントする場として機能させるかということを研究したもの。
 
この語り部がライフストーリーを語ることによって自身をエンパワメントする視点は、社会的養護当事者を対象としたLSWとも非常に重なる点が多いですし、何より「語りの場」の設定や比較を扱っている点は、僕にとって非常に斬新でした。
 
それを表にしてくれているのがコレです。

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(栄、2015より)

 
 
場の設定を「個人的・対人関係的・組織的」次元の三段階に分けて、語り手・聞き手の特徴やエンパワメントの効果について整理されている。
 
これ、非常にわかりやすいですよね。(そうでもなければ是非、原文を読んでみて下さい)
 
表のド真ん中にある「言いっぱなし・聞きっぱなし」の原則は、まさに静岡LSW勉強会の実践そのものですし、聞き手の態度(共感性)によって安全性や語り手の傷つくリスクが変化する点も見事に整理されていて、スッと腑に落ちました。
 
表右の「学校における教育講演会」における
・聞き手のニーズに即した内容
・語り手の一方向性
・社会的貢献の認識、自己統制感の向上
なんて項目は、かなり「Strategic Shearing」と重なってますし。
 
興味深いのは、「みんなの前」で話す前には、「一対一で聞いてもらえた安心感」があって「グループで認めてもらった自己肯定感」の積み上げ土台があって、はじめて大勢の一般の方の前でも語れるようになれるという事。
 
この辺りは続きの論文、
 
公共の場の語りによる精神障害当事者のエンパワメントの獲得過程とその特徴(栄、2017
 
の中で、わかりやすい図になってまして、

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(栄、2017より)

 
 
リカバリーできる自分を信じる」
 
 
素敵な言葉だなと。
 
表現を変えればレジリエンスということなんでしょうけれども、図の右側に積み重なっている「自分を大切にする」「学びあえる仲間ができる」「社会貢献ができる」なんて表現だと、一般感覚で染み込んできますよね。
 
 
改めて思うのは、この「場の設定」や「エンパワメントの獲得過程」って、結局は、養育者が自分を受け止めてくれる安全基地となって、一人遊びや二人遊びが出来るようになって、徐々に学校や一般社会へと世界を広げていくというアタッチメントや社会性の獲得過程となんら変わりはないということ。
 
言葉や切り口は変わるものの、人に関わる、人を支援するということの原則的なもの・本質的なものは、集約していくと似たものになるよなぁ、と思いました。
 
ではでは。