LSWのちょっとかゆいところに手が届く「まごのてblog」

静岡LSW勉強会の管理人によるコラム集

【第104回】LSWとバイプレーヤーズ

メンバーの皆さま

こんにちは。管理人です。

「令和」になりましたね。10連休のGWいかがお過ごしだったでしょうか?

僕はこれといった大きな予定を入れず、ダラダラ過ごしていまして、ホント仕事で朝起きるのが辛いです。(※連休でなかった方、スミマセン…)

ダラダラと行っても、息子(2歳)と公園に行ったり映画に行ったり、子守り疲れも若干…しかし、こんなに仕事もイベントもなしに、家族でじっくり過ごせる機会は滅多にないよなぁ、と。

どうやらGW明けに「仕事が嫌になって辞める」人が例年に増しているなんてニュースがあるようですが、日本人はもう少し上手い休み方というか「働き方改革」ならぬ「休み方改革」、オンオフの切り替えに対する意識変容や練習も必要かもなぁ、なんて思う連休でした。

そんなこんなで、ブログも1ヶ月放置してしまいましたが、休みモードが抜けきれない今回は、連休中にAmazon prime見ていたドラマから。


ドラマ24「バイプレーヤーズ〜もしも6人の名脇役がシェアハウスで暮らしたら〜」HP
https://www.tv-tokyo.co.jp/byplayers1/smp/


俳優:大杉漣さんが2018年2月に亡くなる直前に放送していたドラマとして有名ですよね。

ドラマとは言え、蓮さんの元気な姿見ると、未だに亡くなったなんて信じられず「また何かの作品に出演するんじゃないか」なんて思っちゃいます。

扱いたいのは、そんな心霊的な話ではなくて、ドラマの最後に2〜3分「バイプレトーク」という出演者6人が酒飲みながら"脇役"について語るみたいなコーナーがありまして。

50代60代の酔っ払いのオッサン達が、コタツや居酒屋でベロベロになりながら語るだけなんですけど、だからこそリアルで面白いんです。
光石研さんなんて、赤い顔でつまみ食いながらマジで一言もしゃべりませんしね 笑)

そして、ある話題がLSW的にもそうだよなと思うところがありまして。


それは脇役としての"役作り"の話し。


昔話しで、三國連太郎さんの役作りは凄かった、○○さんは「こんなに書くことある⁉︎」ってくらい台本に書き込んでいた、とか色々と言いながら

「で、みんなは、役作りどうしてるの?」
という投げかけ。

そうすると、名脇役たちが

「いや〜、結局、主役がどう活きるかだから、俺らが事前に役を固めすぎてもね」

「主役の人がどう役を作ってくるかなんて会うまで分からないわけだから、ある程度はイメージするけど、あとはその場のやりとりで対応するしか基本できないよね」

「ある舞台で殺陣のフリを完全に飛ばしちゃって、真田広之さんが『いいよ、適当に撃ってこい』って言ってくれて、殺陣ってこう来たらこう返すってだいたいはあるんだけど、完璧に合わせてくれるわけ。あの人の対応力は凄い」

なんて対話をするんですね。


LSWに限らないと思うんですけど、対人援助における主役は「クライエント」であって、支援者は「脇役=by player」だと僕は思うんです。

援助も支援も「サポート」なので、当たり前といえば当たり前ですけど。この立場、役割をわきまえておくって結構大事じゃないかなと思うんです。

主役にどう活き活きしてもらうのか。ただ、主役が映える作品というのは、それを支える名脇役や名スタッフの存在が欠かせません。

時々、その存在感ゆえに脇役が主役を食ってしまう作品も映画ドラマではありますが、対人援助でも支援者が主役を差し置いて前に出ようとする(アレコレ決めようとする)ことって、特に主体性や相談意欲の低いケースでは割とよく起こるように思います。

しかし、作品全体のある場面、局所的に脇役にスポットが当たることはあったとしても、それは主役や作品をより際立たせるための伏線的な演出や構成の一部に過ぎないと思うわけです。

6人の名バイプレーヤー方々も、俳優を志した時から脇役志望であったわけではないのですが、「芝居が好きだから」「役者という仕事が好きだから」、自分に与えられた仕事があるのであれば、その作品を作りたいと思う人のために一生懸命に頑張るだけ。

そんな風なやりとりもドラマ本編の中にあって、苦労の末にたどり着いた「脇役」としての職人的な生き方、考え方を随所に感じるんですよね。


話しは変わって、LSWにおいても、
「どう事実を伝えればいいのか?」
「いつ、やればいいんですか?」

等々の質問はよく挙げられるんですけれど、その質問や話しの主語が「支援者」から抜け出せない場合、それは支援者自身の「私はどうしたらいいのか?」という不安の言葉だと思うので、どんな準備をしたとしても、実際の場面では本人の気持ちに寄り添った「やりとり」にはなりにくいのではと想像します。

主役がどう感じるかは、その場でやりとりしてみないと結局はわからないわけで。冷静な場面でも相手の立場に立った視点で話ができない人に(上手く言語化できないけど素晴らしい対応をする人はいます)、リアルタイムのライブのやりとりで相手の機微な反応を感じ取った細かな対応は難しいだろうと思ってしまいます。

大人がどう伝えるか以上に、本人がどう受け止めるかが大事なわけなので。

「それを知ることを、本人は望んでいますか?」

「それを聞いたら(見たら)、本人はどう感じると思いますか?」

「事前事後の準備として、支援者として配慮できることはありますか?」

と、まず本人の気持ちや立場に寄り添って想いを馳せて考えて、それから自分が支援者として出来ることを考える他ないのかなぁ、と思います。

でも、大事なのは普段から何気ないことから本人視点に寄って「通じ合う」体験や関係性がないと、本人視点に寄れない(陰性感情から)とか、予想が大幅にズレるということが起きますよね。

逆に言えば、普段の些細なスレ違い、思い違いの積み重ねが、結果として関係性の大きな溝やこじれとなっていたりすることは珍しくないと思いますし、問題が表面化して困った時にはだいたいその状態になっている気がします。

やはり直接本人の言葉を聞き、様子を見ながら、対話の中で物事をプロセスって、相手の考えや気持ちを知ること、相手の想いや立場に思い馳せる体験のベースになりますから、LSWに限らず大事だろうなと思います。

名バイプレーヤー達が語る"脇役論"、そういう相手が自分の中で感じたり作り上げていることを、直接会ったやりとり対話の中で感じて、それに合わせて自分の役割を作っていくプロセスって、普段の臨床で行なっていること、そのものだよなって思いました。

それは準備なしの自分勝手なアドリブではなくて、一緒にいい作品を作るためのチームワーク、自分の役割を全うするプロフェッショナリズム、そして期待に応えるための事前準備や日々の稽古などなど。

決して本人達は表には出さないけど、不遇の時代や苦労を重ねているから出せる味、滲み出る雰囲気は絶対ありますよね。

主役ではないけれど、作品の中で唯一無二に輝く名バイプレーヤー。自分が50代60代になった時に、こんな格好いいオッサンになれたらいいなぁ、なんて思った今年のGWでした。

ではでは。

【第103回】ますれどうすろがず

メンバーの皆さま

お久しぶりです。管理人です。

約1ヶ月blog更新できませんでしたが、生きてます。元気です

3月末は、10月からの半年在学した大学の論文締切だったんですけど、年度末の仕事なんて調整できるハズもなく…。

通常業務の書類作成も自転車操業状態の中、
さらに通勤時間+夜な夜な論文を書く日々。

その物書きのプロセスで、紹介したい本や論文は山ほど見つけたんですけど、それはひとまず横に置いておいて。

今回はそんな日々から解放されて、ボッーと読んだ本の言葉がとても今の僕に染みました、という対談の紹介です。


【対談】 磨すれど磷(うすろ)がず
https://www.chichi.co.jp/info/chichi/pickup_article/2019/04_kuma_kuriyama/
致知2019年4月号)

題名のように全部ひらがなにしてもすんなり読めない題名ですが、『論語』にある言葉のようでして、

(意味)
堅いものは、いくら磨いても薄くはならない。
→信念のある人は、どのような環境におかれても、くじけたり駄目になってしまうことはない。

ということみたいです。染みた言葉はこれではなくて(読み方すらわかりませんでしたから)。


対談者、
「建築家・隈研吾」×「日ハム・栗山英樹監督」

の話し。もはや説明不要なお二人かと思いますが、

東京オリンピックパラリンピックで注目を集める「新国立競技場」の設計に携わる建築家

と、

世界から注目を集める野球選手「大谷翔平」を二刀流として育てた野球監督


そんなお二人の対談を読めば読むほど、僕が半年間あーでもない、こーでもないと悩んで書いた「多職種多機関連携」のキモが、実にシンプルに体験談で語られている。

ストーリーの持つ力は偉大だなと思うと同時に、やはり分野を越えて大事なことは共通するんだなぁ、僕が感じていることは間違ってなかったんだなぁ、と勝手に励まされた気がしたんです。


例えば、

新国立競技場みたいな建物を作るには、設計・工事監理、施工それぞれ大小のチームが混ざり合う何千人規模の「巨大チーム」が力を合わせないといけない。

数多くの有名建築を手がけてきた隈研吾が今回最も心掛けてきたもの。

それは、簡単に言うと『仲よくする』ことだと。


もう少し詳しく紹介すると、

〜設計者、建築家と呼ばれる人は、割合に威張っている人が多くて、そうなると周囲は言いたいことも言ってくれなくなる。だけど、問題があったらきちんと指摘してもらうのはすごく大事なことですよね。普段からそういう空気を作っておけば「こんな問題が起きているから、皆で知恵を出して解決しよう」という話が自ずと生まれてくるんです。

〜逆方向の意見を言いやすい雰囲気を作っておくことが大事だと思うんです。「この人になら、何を言っても怒られないぞ」という空気感ですね。というのも、僕自身が何かを見落としたり、見誤ったりしていることだってあるわけでしょう?それを指摘してもらえる雰囲気を作っておくことが、最終的にはプロジェクトの成功に繋がるわけですから。


このチームワークに関するくだりは、以前のコラムで取り上げたGoogleの研究結果とか、相互性を大切にするチームワークの「インターモデル」「トランスモデル」と言ってる事と驚く事にほぼ同じなんですよね。

参考1)心理的安全性とLSW
http://lswshizuoka.hatenadiary.jp/entry/2018/11/07/080941

参考2)職種による「チームワーク」の認識差
http://lswshizuoka.hatenadiary.jp/entry/2018/11/30/084109


特に「設計者、建築家と呼ばれる人は、割合に威張っている人が多くて」と言うのは、建築の世界もそうなんだと。

これを児童福祉の世界に置き換えると、医者、心理士、ベテラン職員なんかは要注意ですよね。現場で実際に子育てするのは「保護者」や「ケアワーカー」なのに、自分の言っているアセスメントや見立てなんて間違っているかもしれないのに、周囲が何も言えなくなっちゃう雰囲気になってたら、ちょっと危険

僕も気をつけてはいても、知らず知らずそんな雰囲気になっているという時があって、そんな時に自分の至らなさを痛感します。もっと現場で感じている感覚を大事に話を聞かないといけない。過去に自分がされて嫌だった事を無意識に繰り返している。

児童虐待の世代間連鎖もまさにそうだと思うんです。自分では、そのつもりがなくても、体験が持つ影響力の大きさと言いますか、「習慣が大事」なんて何事にも言われますけど、日々の積み重ねによって身体に染み付いたものは、そう簡単に変えられない。

だからこそ、他の人の助けも必要ですし、「日頃の行いが…」なんて言うのもあながち間違っていないよな、なんてアラフォーになってようやく身に染みて思うわけです。そして習慣って行いだけではなくて、思考・発想も含まれますよね。


なので、大人になっても謙虚な心と学ぶ姿勢が必要。とわかってはいるけど、もう忙し過ぎて「時間」も「余裕」もないし、疲れ果てて「気力・体力・エネルギー」が湧いてこないというのが現実ではないでしょうか。

でも、これはまた保護者や子どもが抱えている現実の状態とも言えると思います。ある意味、寄り添おうとするから似たような世界を体験している。それを知りながら支援者として何を考え、何ができるか…


というようなことを読みながら考えていた時に、目に飛び込んで来隈研吾の言葉。


〜野球も建築も「いつまでに」という期限がありますよね。僕は人間にこの期限があるのはとても幸せなことだと思うんです。制限時間の中で結果を出さなくてはいけない以上、どこかで迷いを断ち切る必要もある。ここが建築家とアーティストとの大きな違いです。「限界の中で最善を尽くす」という点では、建築はむしろスポーツに似ているとさえ思います。


期限があるのは幸せなこと。なるほど。

確かに、今回の論文作成も3月末という期限があったから、ラストスパートでギアを上げて形に出来たなと。何回か徹夜に近い日もありましたし。

だけれども、最終的には当初考えていた内容の半分くらいしか実は書けていない。それは、制限時間の中でやる必要があったから、次年度に持ち越すことが許されないものだったから。

でも期限があったから「迷いを断ち切って」「無駄を削ぎ落として」「いい意味で割り切って」完全体ではないけれど、とりあえずの形にして、一区切りつけることが出来たわけです。

100を目指した結果、何も成果が残せなくて0になるのは本末転倒ですし、30でも40でも残して土台を作ることが次にバトンを繫ぐことになります。一人で全てをやることは不可能なので。

この時間で区切る、全てを背負わず人の助けを求める、役割として出来る限界の中で最善をつくすというバランス感覚は、対人援助、特に児童福祉やLSWにおいて非常に重要だと思っています。

理想はありながらも現実との折り合いをつける。
そんな話しを最後に紹介。


建築学科の学生ってどこかマニアっぽいところがあるんですよね。建築オタクなんですよ。建築雑誌を見ることしか楽しみがないような学生もいますが、建築は人間が使うものだから、人間が分かっていないといい建築はつくることができない。

〜建築写真を見て格好いいとか悪いとか言うのは建築学科の学生だけで、ほとんどのユーザーが重んじるのは「この空間にいると気持ちがいい」「癒やされる」という感覚です。

〜偉いボスが「建築は美が大事だ」とばかり言っていたら、スタッフは安全性よりも見かけの美しさを優先することになりかねない。実際そういう組織が多い。…理想を唱えるのも大切だけど、現実はこうだということもしっかりと伝えるのがボスとしての役割だと思っています。


建築マニア、建築オタク。

僕もLSWマニアと呼ばれたことがありますけど、やっぱり専門家って呼ばれる人って、「マニア」「オタク」的な要素は絶対あると思うんですよね。人生の大半の時間をそこに注ぎ込んでいるわけですから。

こだわりだって強い。じゃないと、そんなに一つのことにハマれないと思うんです。癖だって強いし、普通の範囲を超えているから専門家なんだと思うわけです。


ただ隈研吾は、建築は自己満足ではなく、使う人の為なんだから、使う人が「いい」と思うモノを作らないと、ユーザーファーストにならないと「いい建築」にはならないと言っている。

確かに、王様が自分の権力を示すための建築なら自分の理想に向かって妥協なき投資をしたらいい。でも報酬を頂く仕事をするということは、依頼主があって、サービスを受ける人があって、対価を支払う契約があって初めて成り立つものですよね。


〜人間が生活する上で建築はもちろん大事だけど、一方では環境問題もあるし、建築は税金の無駄遣いという批判もある。目の前の仕事にばかり目を奪われず、そのような問題にもしっかりと目を向けて、自分自身を醒めた目で、ちょっと突き放して見てみる。この視点はこれからの建築家には特に必要になってくると思います。


日本の医療や福祉サービスは、その対価の多くは目の前の人から貰うでなく、税金によって支払われるシステムになっていますから、建築の話しはホントそのまま当てはまるよな、と思います。

ということで、特に児童福祉は、偉いボスが「安全第一だ」と言って、家庭分離を躊躇わず、虐待してる親の逮捕も躊躇わず、という強化プランがガンガン打ち出されているわけですが、これってどうなるかなと。

現場が建築オタクにみたいに理想ばかり言ってきる集団であれば、現実を伝えてバランスをとらせる必要がある。

しかし、現場は若手職員で溢れていて、じっくり一つのケースの理想の支援なんて考える暇なんてない程に現実的な対応に追われている。

そうする中で、現実的で効率的な思考がさらに強化されると「理想を考える」プロセスがどんどん省かれていく。

思考を振り子のように、いったん理想まで振って現実に戻すから、ちょうど良い着地点が探せるわけで。最初から現実しか見えてないと「どうせ出来ないから」「やらないアイツが悪い」で検討が終了してしまうことって、割とあると思います。

でも、それって何の専門家が言うことかと。

少なくとも児童福祉の理念は「子どもの健全な成長」ですから、児童福祉の専門家というのは「子どもの成長」を支援するプロフェッショナルなんですよね。

100が見えている人は、たとえ今は30か40の道半ばでも、こうすれば50、60と少しずつ100に近づく道すじや方法を模索できると思うんです。

しかし、もう出来ることは30でおしまいと考えている人に、31の世界は見えてこないんですよね。自分の殻や限界を自分で決めてしまって、実際できるのはせいぜいその半分くらいで。

こういう理想と現実のせめぎ合いのやり取りは、LSWを実施しようとする際に、支援者同士での衝突の原因となることが多いと思います。

でも、相手が子どもだったら、子どもの持っている可能性を最大限に伸ばすなら、どんな関わりどんな声掛けをしますか。「将来のことなんて」「どうせ私なんて…」と思う子どもにどうアプローチするか。

支援者同士も似たような関係性が起こるわけです。なかなか変化の見えない保護者や子どもに対応に疲弊すると、支援者自身が自信を失くし、前向きに考える意欲がなくなってくる。もしかしたら、そうかもしれないという視点を持ったら、支援者は聴く姿勢や掛ける言葉をどうするのがよいか。

人間を分かった上でサービスを提供するって、そういう事なんじゃないかな、隈研吾の建築に対する考え方とさほど変わらないよなと思ったんですよね。

なので人間を知るために、専門家であればある程、他の世界を知る、他の人がどのように感じているかを学ぶ、自分の専門外のことは他人から学ぶ。そういう学び合いや相互理解のプロセスを体験することってとても大事だと思うんです。

良いものができていくのは、建築でもスポーツでも対人援助でも似てるんじゃないかなと。

そういう事を「多職種多機関連携」の研究として僕はまとめたかったんですけど、経験豊富な人のストーリーの方が断然わかりやすし、心に響きますね。やっぱり世に出る人というのは言葉の表現も洗練されているよな、と。


そういう意味では、今回全然紹介できなかったし栗山監督は、自分は選手として一流でもないし、監督の経験もないから、自分より知っている人の意見をたくさん聴きながら自分自身が成長しなくてはいけない、と謙虚な姿勢を持ち続けています。

「僕を監督にするなんて僕ならしない」と言いながら、そのキャスター時代に色んな人の話を聞く経験があったから今があるなんて語りを聞くと、おそらく人から話を引き出す力、安心させる人間性ストーリーをプラスに転換して伝える力、その辺りを見抜いて抜擢した人がいるんですよね。

栗山監督は、チームの結果が出ないときは「私の責任です」と徹底して選手を守る監督だよなと言うのが僕のイメージなんですが、きっと栗山監督も「責任は私が取るから」という方から監督を頼まれたのではないかなと想像します。

日本ハムファイターズは、いまや「あそこでやれば成長できる」と思わせる組織イメージが完全に定着した感がありますが、それは監督自身が監督として成長し続ける、選手の成長を応援するという強い信念を持ち、その姿勢を選手が学びながらチャレンジする、そんな組織になっているのではないかなと。


つまりは、相手も自分も尊重され大切にされて、共に歩み、共に成長する関係性。

子どもを育てるということは、子どもを育てる親も親として、支援者も支援者として共に育つことなんだろうなと僕は思うのですが、真の意味で共有したり定着させるには手間も時間もかかりますね。

ちょっとでも伝え方、共有の仕方が上達するように、これからも他分野を学び、組織を学び、人についてもっともっと広く学ばないといけないなと、対談を読んで改めて思いました。


そんな感じで、令和元年になる今年もボチボチblogアップしていこうと思います。

今年度もよろしくお願いします。


ではでは。



【第102回】原則に基づく「判断」と「技術」

メンバーの皆さま


こんにちは。管理人です。

気がつけば2月も最終日。

先日、仕事で車を走らせていたら、田舎の川沿いに大量のピンク色の樹と「さくらまつり」というノボリを発見。

どうやら「河津桜という早咲きの桜を植えた場所が浜松にもあるようで、平日の夕方にも関わらず、そこそこの人が賑わっていました。

早咲きの桜とは言え「もう春間近だな」という感じがしました。



で、今回取り上げる話題は、またしてもサッカーに…。

サッカー談義は、なぜいつも結果論なのか?

たびたび引用させてもらっている元サッカー日本代表鹿島アントラーズ岩政大樹氏の記事。

上の記事は、2月6日発売「フットボール批評issue23」の一部抜粋だそうですが、やはり、この人の言語化の能力はハンパないですね。

本質的なことを、よくここまで短くシンプルに、かつ的確にわかりやすく言語化できるなと。

ホントに短い記事なので、是非読んでほしいのですが、内容はピッチにおけるサッカー選手のプレーを構成する要素は、原則・判断・技術の3つに分類できる」という話しです。

これ、サッカーだけではなく、臨床場面にとても似てるなぁと思います。「原則・判断・技術」の記事の部分を順番に見ていきます。


1.「原則」
〜プレーを構成する一番深いところにあるのは「原則」です。サッカーで同じ場面は二度とありませんが、実際には「こういう場面では基本的にこうすべき」と定められたいくつかの決まりごとがあります。

〜攻撃の優先順位であれば、“まず前”を目指していくのが「原則」であり、決して横や後ろの選択を先に探してはなりません。

〜この括りの中には、チームの「約束事」や個人の「セオリー」、あるいは局面における「判断基準」なんかも含まれます。ボールを大事にするスタイルなのかどうか。自分なりに「こうなったらこうなるはず」と考えたもの。迷った時に選択するのはリスクか、リスク回避か。様々な要素が各チーム、あるいは選手には設定されています。

●コメント
ここまででも随分、頭の整理が進みました。「二度と同じ場面はない」というのは臨床場面でも本当にそうですし、「ケースバイケース」ってよく耳にする言葉ですけど、それは「判断」の話であって、まずは「原則」の共通理解があった先のことだと思うんですよね。

最近、一緒にペアを組む担当ケースワーカーに、

「この●●という状況の場合、▲▲という対応をするのが一般的と言うかセオリーだとは思うんだけど、このケースの場合はどう思います?」

なんて形で質問をすることが僕自身増えたなぁと、ぼんやり自覚していたんですが、そういうことを伝えようとしていたのかと、この記事を読んで気づかされました。

この場合に気をつけている事は「それって普通(セオリー)なんですか?こう言う風に思ってたんですけど」みたいな、異なる考えを持っていることを伝えてOKな対話的な雰囲気にしておくこと。

「あ、そういう考え方や価値観でこの人は考えてるんだ」という"両方ありだよね"という相互理解を大切にしたい。これ管理人的「多職種連携の原則」です。(この時、私は違う!というツッコミはOKという感じですかね)

というのも、原則と呼ばれる考え方や価値観って、職種や立場、教育課程によって認識が異なる事って結構あると思います。

その違いを扱わず、なんとなくで話が進んでいくと、どんどん"ボタンの掛け違い"が進んで行って、後々気付いた時には「そんなはずじゃなかった」「先に言ってよ」となんて事が起こる事は珍しくないからです。


僕の中での原則って「軸」とか「芯」とか「型」とかいうイメージ。対応の幅や遊びは持たせるけど、真ん中にしっかり持っている基本的なもので基準となるもの。

そのモノサシの共通理解があって、「で、このケースの場合、あえてセオリーを外します?」「その意図や理由は?」という議論が初めて成り立つと思うんです。

でも、その原則の共通理解がないと、「この場合は、あえてセオリーを外す」という判断に繋がらないので、いつまでたっても「一か八か」の"運まかせ"みたいな対応が繰り返されます。

そうなると、いつまでも判断力が磨かれない対応になるので、現場経験をどれだけ積んでも、自信がなかったり、経験年数ほど伸びしろが見られないということが現実起こると思います。

セオリーや基本軸なしの「自由」は、ただの無茶苦茶に過ぎないわけで、セオリーから外れている自覚があるからこそ、一見無秩序と思える対応でも、本当に危なくなったら戻ってこれる感覚を確認しながら、ギリギリの所まで攻めれるわけです。

逆に、セオリーなしに突っ込めるのは、若さゆえいうか命知らずというか、それで大成功することもあるかもしれませんが、プロとして仕事を続ける以上、年間のリーグ戦をしているようなものですから、大怪我してシーズン全体を棒に振るような勝負はしたくないわけです。

しかも相手や同僚も巻き込んだ話になるわけですから、プロとして成功率をなるべく高い選択肢を選ぶ準備や責任があると思いますし、「共に死なない」というリスク回避、時には撤退する勇気も必要だと思います。


ですから。生きていれば(臨床においては誰かがつながっていれば)挽回・リカバリーのチャンスはやってきますので。

そうなると次に大事なのは「判断」になると思いますので、記事の続きを見てみます。


2.判断
〜大元となる「原則」の上に「判断」があります。

〜サッカーの試合は、原則を基にプレーをし続けていれば必ず勝てるわけではありません。原則とは「そうした方が一番成功する確率が高い」と言えるようなものですが、サッカーの場合、そもそも攻撃が成功する確率が低いため、成功する確率が低い選択をした方が勝ってしまうことだって往々にしてあるのです。

〜そこで選手たちにはいつも「判断」が求められます。ここでは「認知」「状況把握」という要素もあえて「判断」に含めて説明しますが、状況把握をして、できるだけその状況に即した的確な判断を下し、そして瞬時に実行に移していかなくてはならないのがサッカーです。ここはサッカー選手にとって終わりがないもの。取り組み続けて高め続けていかなければいけない、プレーする上で最も重要な要素と言っていいでしょう。


●コメント
毎回言いますが、サッカーはつくづく児童福祉、特に児童虐待に関わる分野に近いなと思います。

上にある通り、圧倒的に思い通りにならない確率が高いですし、その混沌としたやり取りの中で、セオリーを超えた偶然的な要素によって思わぬような好転をすることも少なくない。

そういう事が続くと「原則の軽視」みたいなことが起こって「なるようにしかならないから」と目の前の出来事に対処していく感じになりがちだと思うんですけど、それを永遠続けるのは、終わりの見えないマラソンというか精神的にシンドイんですよ。振り回され感がハンパないですし。

そうではなくて、こうなれば、こうなるはずというセオリーがあれば、うまくいっている時に「うまくいっている」という認識ができますし、逆にうまく進んでいない場合にも「なんかズレてる」「ヤバイ」と早めに悪い流れを察知して、大怪我になる前に修正を試みる事が可能になると思うんです。

しかも、それを瞬時に「判断」してアクションを起こすみたいか瞬発力も同時に求められる。判断の正確さもさる事ながら、その判断をスピードを磨くということも非常に大事な要素かなと。

それは、"タイミング"が命だから。どんな言葉もどんな対応も、旬を逃すと効果は激減。相手に同じ事をしたり言ったりするにも、その"タイミング"や"間"がとても重要な要素になるので、チャンスと見るやその瞬間を逃さない瞬発力というのは、どうしたって求められると思います。

そして、これは人に言われてやれるようになると言うより、自分で感覚的に掴んでいくしかないものかもしれません。判断って頭で考えてはすでに遅くて、もはや直観的にしていくものかなと。

さらに、その狙ったタイミングで、狙った通りの表現ができる、それが「判断+技術」。

サッカーで言うならイメージした所にボールを"正確に止める蹴る技術"になると思いますが、臨床だと、それはコミュニケーションになるんですかね。相手の気持ちを受け止めたり、こちらから投げ掛けたり伝えたり。その加減や範囲の調整のスキル。それが記事の最後の部分。


3.技術
〜判断と並ぶように、もう一つ「技術」という要素があります。
 
〜ここには「フィジカル」という要素も含まれます。「原則」を基にプレーをしても、それを可能にする技術やフィジカルがなければ、そのプレーは成立しません。技術を高め、フィジカルを鍛えて、プレーの精度をより高めていくことも当然、サッカーにおける大事な部分です。

〜原則(約束事、セオリー、判断基準)に基づいてプレーする中で、判断(認知、状況把握)と技術(フィジカル)が選手たちにはいつも試されています。原則は頭にありながらも、それを基に実行すべきなのか否か。それを実現する状態に自分がいるのか否か。それを瞬間的に考えて選手はプレーをしています。


●コメント
臨床場面において、上の"フィジカル"という言葉は何に置き換えるとしっくりきますかね。

僕の感覚では、技術というは「言語と非言語」を扱う力、フィジカルは技術を安定的に発揮できる「メンタル、精神力」というイメージです。

どんな素晴らしい技術を持った人でも、慣れない環境、物凄いプレッシャーのかかる状況、後半残り○分の局面といった肉体的に疲弊し、精神的にも余裕のない場面では、いつも通りのパフォーマンスを発揮できない事って分野を問わずあると思います。

逆に言えば、その勝負を決める重要なので場面において、自身の持っている「判断力」や「技術力」を発揮しながら、原則を軸にした柔軟な対応ができるためのトレーニングや準備性が自分の中に、そして組織の中にあるのか。

体力やペース配分もそう。「ここぞ!」と言う場面で、もうひとつギアを上げられる"余力"を残しながら日常の業務をこなしていけるか。決して楽しているわけじゃなくて、余力って「リスクマネジメント」の一つだと僕は思うんですよね。


そんなことを考えると「じゃあ、LSWの原則・判断・技術ってなんだろう」という話になると思うのですが、皆さんはどう思われますか?

僕的には、上の括りでも何となくこうだろうなと思うところはありますが、どちらかと言うともっと大きな括りで、

①対人支援や児童福祉の「原則」があって、
②そのために今LSW的な支援が必要なのかの「判断」があって、
③それを本人の意思を尊重しながら共有し、協働しながら実現する「技術」を持ったスタッフがいるのか。

という感じがしっくりきます。これはミクロマクロの見方の違いなので、どちらが正解ということでもないんでしょうけど。


とか何とか色々考えましたが、最終的には、

「原則を持ちながら、判断し、それを実行する技術力があってプレーの精度が向上していく」

「状況把握をして、できるだけその状況に即した的確な判断を下し、そして瞬時に実行に移していかなくてはならないのがサッカーです。ここはサッカー選手にとって終わりがないもの。取り組み続けて高め続けていかなければいけない」

は本当そうだなと。向上とは終わりがないのも。現状に満足せず、学び続け、取り組み続けないといけないな、と。

年度終わりを告げる桜を見た後、そんなことを思う二月の最終日でした。

三月は、ラストスパート頑張ります。

ではでは。

【第101回】私も「移動する子ども」だった

メンバーの皆さま
 
こんにちは。管理人です。
 
バタバタしてまして、気がつけば1ヶ月近く更新が滞っていました。日が流れるのはホント早いですね…。
 
今回取り上げる本は、実は2019年の始めに紹介することを昨年暮れから決めていた本なのですが、ズルズル今日に至るという具合です(本当は第100回のつもりでしたが…)。
 
そんな、ようやく紹介する本とは『コレ』。
 
 
『私も「移動する子ども」だった――異なる言語の間で育った子どもたちのライフストーリー』

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2010年に出版された本なんですけど、本ブログ開設当初に、ある勉強会メンバーさんから「もし良かったら」と貸して頂きまして。それから、はや一年半が経過…。なんと言ったらよいのやら。
 
最近はその時に書きたいこと書きすぎて、若干何のブログだかって感じになってきちゃいましたが、ブログの趣旨「LSW=ライフストーリーワーク」の原点に戻る意味でも、blog開設当初の初心を思い出す上でも、参考になる本です。
 
(こういう昔や当時のことを思い出す "きっかけ" ってLSWっぽいですね)
 
 
 
まず表紙の写真でお分かりの通りの豪華メンバー。目次をかりて一応、人物紹介すると、
 
●目次
【第一部】
 幼少の頃,日本国外で暮らし,日本に来た「移動する子どもたち」
1 セインカミュ(マルチ・タレント)
「外人」と呼ばれて,外人訛りのない日本語で返そうと思った
2 一青妙(女優・歯科医師 
台湾で中国語を話し,自分は台湾人と思っていた
3 華恵(作家) 
ニューヨークで英語の本を読みふけっていた
4 白倉キッサダー(社会人野球選手) 
長野に着いたとき「タイ語,禁止」と言われた
5 6 響彬斗&響一真(大衆演芸一座) 
ブラジルで日本舞踊,和太鼓,三味線,歌を習っていたさ
 
【第二部】 
幼少の頃から日本で暮らし,複数の言語の中で成長した「移動する子どもたち」
 大阪で生まれ,大人が韓国語交じりの日本語を話すのを不思議に思った
8 フィフィ(タレント) 
名古屋で育ち,アラビア語を話さなくなった
9 長谷川アーリアジャスール(プロサッカー選手) 
埼玉で生まれ,イラン語を「使えないハーフ」と語った
10 NAM(音楽家・ラッパー)
 神戸で生まれ,「ベトナム語は話さんといて」と親に言った
 
終章「移動する子ども」だった大人たちからのメッセージ
 
 
TVや雑誌等で、誰かはご存知な顔ぶれではないでしょうか。
 
皆、子ども時代に「移動」したという共通点を持ちながら、【第1部】は物心ついた時点で外国から日本に来た経験を持つ方々、【第2部】は物心ついた時から日本で生活しているが外国語コミュニティー中で育った経験を持つ方々。
 
人生の途中から全く違う文化・言語圏に移動し適応することの苦悩、また日本で育ち日本しか知らないのに日本人でないという曖昧なアイデンティティー
 
料理研究家コウケンテツさんの「韓国人からは"お前は俺たちとは違う"と言われ、日本人からも"お前は俺たちとは違う"と言われた」という言葉は、生い立ちにおける「移動」の影響の大きさについて改めて考えさせられました。
 
また、コウテンケツさんは「両方の気持ちがわかる事が自分の強み」「物事を客観的に見るという姿勢形成に役立った」ともインタビューの中で、語っていますが、その境地に至るまでにはかなりの葛藤があったはず。
 
中高生年代になれば、自身の葛藤や苦悩を言語化できるようになりますが、幼少期の子どもは母国語であっても体験や感情を上手く言語化できないし、ましてや不慣れな言語ならなおさら。
 
今後、日本で外国人労働者が増えていくでしょうから、確実にこのような体験をする外国籍やハーフの子どもたちが日本で増えてくると思うんですよね。
 
そんな移動する子どもの体験を、専門家視点ではなく、当事者視点でその人の言葉による「ライフストーリー」が読めるのは貴重です。
 
 
というのも、僕自身が働く地域は外国人が多い所なので、これまでに沢山の「◯歳から日本に来た」という外国籍やハーフの子ども、または「中身は日本人」と語る母国語を話せない子どもとたくさん出会ってきたんですよね
 
国は、ブラジル・フィリピン・中国あたりが多いですかね。僕の職場は常駐のポルトガル語通訳さんがいますし、英語、スペイン語タガログ語を話すお客さんと出会うのはもはや日常的。(僕は日本語しか話せませんが…)
 
このような家庭で育つ子どもは、日本で日本語の教育を受けて育つので、当然、日本語が上手くなる(友だちとのやりとりがありますから)。しかし、親は日本語を話せない。すると、子どもは「外では日本語、家の中では母国語」という風になって、親は日本語を話せないけど、子どもがバイリンガルトリリンガルで日本語を通訳をするなんて光景も珍しくありません
 
 
しかし、日本語を話せている=勉強についていけるわけではなくて、この本で指摘されているように学習の遅れは「言葉の不慣れ」によるものだけではなく「文化の違い」による部分もあるんだという視点は目から鱗でした。
 
例えば、国語や社会は「日本文化」を知っている暗黙の前提で物語や話が構成されていて、実は日本人が常識と思い聞き流すところで、外国から来た子どもたちは「?」が浮かび、話についていけなくなるんだ、と。
 
確かに。単語もそうですし、風習なんかもそうです。例えば昨日は「節分」でしたが、何で豆を撒くのか、何で歳の数だけ豆を食べるのか、なんて大半の日本人もよくわかってないですし。
(チコちゃんに"ボーッと生きてんじゃねーよ!"と怒られるやつです)
 
文化って、生まれた時から当たり前にあって、それが「日常」となっていることだと思うんですけど、それは国なんて大きなレベルではなくても、職場、地域、家レベルでもそれぞれの文化差ってありますよね。
 
ただ、タレントのフィフィさんが「外国人が理由でイジメられたことはない」「見た目が明らかに日本人でないと、あの子は外人だから仕方ないよね、と許される部分がある」というのも、なるほどと思わせる言葉で、確かに、明らかに相手と自分が違うことがわかれば、「文化の違い」を受け入れる素地は多分にあるのかもしれません。
 
しかし、そうは言っても、外国人なら英語を話して当たり前に思われるといったステレオタイプ的な思い込み、異なるものに対する「不理解」「勝手なイメージ」「価値観の押し付け」の体験はあったようで。
 
そんなフィフィさんが、『終章「移動する子ども」だった大人たちからのメッセージ』で語っている「結局、親がポジティブにいられるかどうか」という言葉は、「自分は何者?」アイデンティティーが揺さぶられる時期に、如何に身近な家族が支えてくれることが大切なのかを端的に伝えてくれていると思いました。
 
 
このようなことを考えると、異文化を移動する子どもが、さらに社会的養護(里親・施設)への「移動」を重ねると、より一層問題が複雑だし深刻になります。
 
年齢が小さいと母国語をどんどん忘れていくし、日本人と日本人としての生活をしていると、言葉もそう食事もそう母国の文化がどんどん馴染みない「非日常」のものとなっていきます。
 
そうすると、いざ親子交流しようと思っても、時間が経てば経つほど言葉も通じない、文化的な感覚も合わない、それを「親子」と呼んでいいのかという距離を生んでしまう可能性が大いにあると思うんです。
 
さらに、日本語に壁のある外国人の親がつながれる社会資源は本当に限られる。コトバわかりませんから。また、その地域のある外国人コミュニティーは非常に狭い人間関係ですから、言葉が通じる=だいたい知り合いというリスクもありますし、外国人で虐待が絡むと「オフィシャル」な関係機関で支援体制を構築するハードルが格段にあがります。
 
安全第一で家庭から分離した、問題はソノサキ。例えば、宗教上の理由で食事制限があったりする子どもを受けてくれる里親や施設がどれ程見つかるか。
 
また、介入という名の「異文化間移動」を強制された子どもの未来、将来的な自立をどう考えて、どう支援していくのか。そして、その人のアイデンティティー形成をどう支えていけば良いのか。
 
多文化共生が進むと、それに対応していない制度との間に生まれるヒズミってあると思うんですよね。そんな少し先の未来について、その一端をすでに経験している身としては、考えてしまいます。
 
 
最後に、
 
編著者である「川上郁男」教授の研究室にある『書評』を紹介。
 
異文化の移動を経験した方々から、数多くのコメントが寄せられていて、コレを読むだけでもかなり参考になります。
 
そして、そんな書評の中で、
「ライフストーリーは、聴き手との化学反応によって生まれる」
「インタビュアーの聴く技術も必見」
 
というコメントを見つけ、やはりLSWの本質は「語り」であり「対話」であり、支援者に求められる基本は「聴くこと」なんだよな、と改めて思いました。
 
 
以上、散文ですが、初心を思い出させてくれた一冊の紹介でした。
 
 
ではでは。
 
 
 
 
 

 

【第100回】世界一のパンコントマテ

メンバーの皆さま
 
あけましておめでとうございます。管理人です。今年もよろしくお願いします。
 
記念すべき100回目がこんな脱線話しでいいのかと思いつつも「やはり、書きたいことを書く!」ということで、2019年はじめのコラムはこれ。
 
 
アナザースカイ〜2019年最新版!食の街バルセロナが誇る美食店巡り1/4放送、日テレ)
 
 
放送を観た方なら思わず食べたくなったのではないでしょうか「パンコントマテ」。
 
パンコントマテとは、「パン・コン・トマテ」。放送中は、司会がお笑い芸人の今田耕司なので「パン・コント・待て!」みたいに勝手にお笑いに寄った脳内変換になっていましたが(苦笑)
 
英語で言えば「パン・with・トマト」。
つまり「パンとトマト」。焼いたバケットにトマトをこすり付けて、オリーブオイルと塩胡椒を振るだけのシンプルなスペイン・カタルーニャ地方の郷土料理。
 

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これ、僕が3年前にバルセロナで食べたパンコントマテ。確かに「コレうまいな」と思った記憶が放送を見て蘇りました。
 
 
で、番組内容はというと、食雑誌「dancyu編集長の植野広生氏(自称、食いしん坊)が、バルセロナのレストランを紹介しながら、最後は植野氏が10年追い求めた念願の「世界一のパンコントマテ」を食すというもの。
 
美味しそうなのはもちろんなんですけど、とにかく放送中の植野氏の言葉が名言すぎ」でして、その食に対する姿勢や言葉は、LSWや臨床に通じるものがあるなぁ、と思ったんですよね。
 
 
そんないくつも出た名言の中でも一番はコレ。
 
 
「刹那的爆発ではなく、普遍的な味わい」
 
 
植野氏いわく「パンコントマテはスペイン人にとって、日本人の味噌汁のようなもの」。シンプルゆえにお店によって千差万別だとか。
 
そんな数々のパンコントマテを食べ尽くした植野氏がレストラン「La Venta」を訪れ、「世界一のパンコントマテ」を食べた時の言葉。
 
 
〜刹那的爆発ではなく、普遍的な味わい。
 
〜一口でぶっ飛ぶような料理じゃないけど、食べ続けることができてじわじわ美味しくなってくる。世界一がここに行きつくのは納得。感動しかない。
 
 
「シンプルイズベスト」とは言いますが、ただシンプルしか知らなければ、それはただの単純。そうではなくて、色々知った上で無駄なものを削ぎ落とし、必要なものだけをシンプルに残したものって理屈抜きの美しさがありますよね。
 
福祉のような「日々の生活を支える」仕事で目指すところは、こういうところな気がします。決してやっていることは特別な事ではない。しかし、その何気ない表情や何気ない一声が、じわじわ染みる、こころに伝わる。
 
こころをホッとさせてくれて、元気になれる。それでいて、かましくなく飽きもこない。
 
刹那的に爆発的に楽しいわけではないが、世代を超えて普遍的に人が求めるあたたかさ。「家庭的」や「ふるさと」と呼ばれるものって、僕の中ではこんなイメージです。
 
児童福祉、特に社会的養護に関わるような子どもには、そんな関わり、そんな体験の場を提供したりコーディネートしていくことが仕事なんだろうと最近思います。
 
と、しみじみ植野氏の言葉が染みました。
 
 
 
また面白かったのは、 
バルセロナは日本と「食」への向き合い方が同じ
という話し。季節感を大事にしていて「旬のものを美味しく食べる」精神を大事にしていると。
 
そんなバルセロナでは最近、オープンキッチンの店が増えているらしいのですが、それは日本の寿司屋・天ぷら屋に行ったスペイン人が「これイイじゃん」と取り入れていると。
 
また、調理前の魚に切れ目を入れる包丁技術は元々スペインにない日本の食文化を取り入れたものだし、出汁を取る「椎茸」が「shiitake」そのままの名前で普通にバルセロナの市場に並ぶようになっている、と。
 
面白いですね。思わず「へぇー」と心の中でボタン押しちゃいました。
 
「旬」のものを扱うタイミングを逃さない感覚って対人援助でも非常に大切ですし、自分たちが大事にするものがありながら、他文化の良いものを積極的に取り入れる柔軟性な姿勢は、僕も忘れずに追い続けたいなと思いましたね。
 
 
 
最後にもう一つ。「食いしん坊」という言葉を世界に広めたいという植野氏が行った言葉を。
 
「食べ物にA級もB級もない」
 
300円の立ち食いそばも3万円のフレンチも同じように「目の前の料理をどう美味しく食べられるか」を楽しめる人が"食いしん坊"だと思っているし、そうなりたいと。
 
 
食べることがホントに好きなことが伝わってくるセリフですよね。好きこそ物の上手なれです。
 
僕もある人から「LSWマニア」と言われた事がありますが、人に関わる事が好きだから対人援助の仕事を続けられている所はあるし、「人をつなげる、つながる」ことが好きで、それがLSW勉強会やblogの原動力に結局はなっているなと思います
 
そんな仕事をさせてもらっているからには「目の前の相談者や仲間に対して、どう自分が役に立てるか」を真摯に考える姿勢は忘れちゃいけないなと感じたので、2019年の書き初め的blogとさせていただきました。
 
今年も一年よろしくお願いします。
 
ではでは。
 
 

 

【第99回】ゴールキーパーと児童相談所の特殊性

メンバーの皆さま
 
こんばんわ。管理人です。
 
いよいよ2018年も残りわずか。皆さま、師走をいかがお過ごしでしょうか。
 
気がつけば、blog更新せず1ヶ月…。今思えば、今月はちょっと最近ストレスフルで、blog開始と共に封印したスマホゲームを現実逃避的に始めてみたり…。
 
日記のように続けているモノサシがあると、その時々の「自分の状態」の変化がよくわかりますね。予定が詰まりすぎてました。
 
(※文字の色が薄いのは現実逃避して意識が遠のいているから…ではなくて単に僕の修正技術不足。途中から直ります。スミマセン)
 
 
そんな今年を締めくくる(だろう)【第99回】コラムで取り上げる記事はコレです。
 
 
 
川島永嗣への“総叩き”で感じた、日本でGKが育たなくなる危機感
 
 
もうすっかり過去の出来事になってしまいましたが、2018年を代表するビッグイベントと言えば「W杯ロシア大会」。おかけで今年もLSWブログなのに、サッカー記事を多用しちゃいましたし(苦笑)
 
まぁ、何でサッカー記事を多用するかと言うと、単に僕の趣味嗜好の部分だけではなくて、マイナーな児童福祉の世界で起こっていることを世間の興味関心が高まっている事に例えて、少しでもわかりやすく多くの人と共有する方法を模索しているから。ですが、かえってわかりにくかったらスミマセン…。
 
 
で、懲りずに今回取り上げるのは『ゴールキーパーに関する特集記事なのですが、その内容を読んでいると、どうにも他人事には思えないんですよね。
 
詳しい内容はリンク参照ですけど『GK→児童相談所に置き換えて読むと、ビックリするほど置かれている立場がそっくりなんです。
 
W杯グループリーグ第1戦第2戦での失点シーンについての「GK川島永嗣への"総叩き"」は記憶に残っている人も多いと思いますが、記事内容をざっくりまとめるとこんな感じ。
 
GKは『プロの監督でも技術的なことは説明できない』特殊なポジション。国によっても流派(アプローチ)が違う。
GKは『10のファインセーブが1つのミスで吹き飛ぶ』特殊なポジション。他メンバーのミスは見逃され、GKのミスが目立つのでそこだけを理不尽に叩かれ続ける。
GKの『フィールドプレーヤー化』ルール変更や戦術進化によって求められる役割スキルが進化(バックパスで手を使えなくなってから、最後尾からゲームを組み立てる足技も求められる)。
 
 
例えば①に関して、日本の虐待対応は"何でもかんでも"児童相談所に権限を持たせて「介入しながらも支援もやらせる」システムですけど、これは俗に言う「ガラパゴス化」で司法・警察等とで分業がされている欧米と比べかなり特殊なんです。
 
この辺の誤解はかなり深いなと思っていまして、最近しきりにニュースになっている児童相談所の介入強化なんて、この1〜2年の改正『児童福祉法の全体の一部に過ぎないんですよね。
 

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サッカー図は僕のイメージですけど、児童相談所はあくまで『児童福祉法』の理念である子どもの健やかな成長・発達・自立を支える機関なんです。そのために「保護者を支援しなければならない」ともはっきり書かれています。

 
ただ、子どもが伸び伸び持っている力を発揮するには「からだが安全であり」「こころが安心できる」環境は必要。
 
なので、子どもの成長とそれを支える家庭に関わるための、介入は目的ではなく手段なんです。そして必要あれば、やむなく一時保護や里親委託・施設入所しますけど、それは親子関係再構築子どもの自立支援ためなんですね。
 
ところが、その手法はかなり特殊で、例えば保健医療教育の相談は、在宅と任意相談を前提としてます。それに比べて、介入して一旦家庭分離しておいて親子関係を再構築する「介入と支援」を組み合わせたアプローチなんて他の分野ではあり得ないことなんですよね。
(上のサッカー図で言うと中央突破ではなくて、サイドを経由したビルドアップという感じ)
 
だからこその期待はあるのでしょうが、そこの調整・折衝で求められる技術は、おそらく多くの児相職員ですら上手く説明できない「ピッチに立った者にしかわからない景色」と「周囲の不理解」がそこにはあります。
(これらの整理と言語化が今後の課題です)
 
ただし、それは児童相談所・一時保護所が構える最後尾ゴール前)まで来てしまった場合であって、「子どもの育ち」を支えるアプローチはその前から行われている。
 
それは社会全体で子育てをする「保護者」を支えるシステム、妊娠期から子育て期までの切れ目ない支援システムであって、改正児童福祉法ではその支援の中心を市区町村が担ってください、ということなんです。よく見ると。
 
ちなみに下は国が示す「イメージ図」ですけど、

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このように一番上「子育て世代包括支援センター」や中段の「市区町村子ども家庭総合拠点」が全体の連絡調整役となっていて、リスク高になると「児童相談所」も加わる形になってるんです。
 
その間にはキチンと『役割分担・連携を図りつつ、常に協同してを実施』と書いてあります。
 
なので、サッカーの図のように前線で家族親族・母子保健・学校でスクラムを組んで「子どもの成長」をどんどん促せるケースはそれで済むわけですが、「ちょっと育て難いな」とか「他人になんて相談できない」というケースが段々危険になってくると下に降りてくる。けれど、それは関わる機関や人を増やして、子どもの成長と子育てする家庭を支えましょう、ということ。
 
 
ですけど、②GKは『10のファインセーブが1つのミスで吹き飛ぶ』のように児童相談所は「一つの失点」でW杯の川島永嗣のように偉い叩かれるわけです。ニュースになる児童の死亡事例がソレです。
 
でも川島選手は、第3戦ポーランド戦でFIFAが公式に認める「スーパーセーブ」を連発していて、おそらくその活躍がなければ日本は決勝トーナメント進めてないし、物議を醸した"時間稼ぎ"をする土俵にすら乗れなかったと思うんです。その功績は一瞬で忘れ去られますけど。
 
社会的養護におけるLSWって似たようなところがあって、子どもに安全な環境を整えて、被虐待に安心感を与える信頼関係を育んで、ようやく過去や未来に向き合えるようになるわけですから、LSWを実施できる時点で、相当なスーパープレーをしていると思うんですよね。「子どもの成長」に向けて。
 
それは、③GKの『フィールドプレーヤー化』ような取り組みで、ただ失点を防ぐだけでなく、子どもの未来」に向けた丁寧ルドアップ、周囲と連携しながらパスをつないでサッカー図の上の方に再浮上するようなイメージ。
 
しかしながら、うなぎ登り通告対応に追われる児童相談所は、はや波状攻撃を弾き返すのに精一杯のDF・GK状態。マイボールにして丁寧に味方につないで、攻撃参加してなんて前に出ていく余力なんてない状況。そもそも毎年異動があって替わりに新人が送り込まれるので、そんな攻守にわたってソツなくこなせる経験者自体が多くない。
 
サッカーだと足元の技術になりますが、児童福祉で言えば「ソーシャルワークの力」になるのかなと里親推進が進む中で、児童福祉施設も入所児童を見るだけでなく里親支援・地域支援等の多機能化が求められていますから、「ソーシャルワーカー」だけでなく「ケアワーカー」でも「心理」でも多職種に求められソーシャルワーク水準はますます高くなると思います。
 
サッカーでは戦術進化によって、FWでも守備を、DF・GKでも足元の技術が当たり前に求められる時代。〇〇だけやってればいい時代は終わり、攻守共にチームのタスクをこなせるのは当たり前、さらに+α個人で何をチームにもたらせるか、そんな時代に突入しています。
 
前回コラムで「役割の解放」が特徴のチームワークのトランスモデルを紹介しましたが、まさに児童福祉の虐待対応に求められるのはそれかなと。もはや保健教育医療どこでも虐待ケースに遭遇する事は避けられなくて、ある程度の知識や技術は持って望まないと行けないし、もちろん得意分野の違いはあれ、機関・職種を超えて様々な専門家の知識・技術をシェアしたチーム対応が必要な時代に突入している、そんな気が僕はしています。
 
 
日本経済新聞(12/18)によると、
児童虐待、児相職員2900人増 全市町村には支援拠点
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目黒区の事件をきっかけに、前々から言われていた「児童福祉司2000人増員」に加えて「児童心理司・保健師も大幅増員」となるようです。
 
しかし、川島永嗣"総叩き"に似たような児童虐待対応の社会状況で、だって今の日本で俺が子供だったら、絶対にGKをやろうと思わないからね」ということ。
 
この状況で成り手がいるのか?数だけ集めて潰れたら使い捨てのような状況にならないか?
 
当たり前ですが、「自分が大切にされている・支えられている」と思えない人に、他人を大切にするような葛藤に寄り添うような支援はできないと思うんです。
 
・そもそも何を目指した「児相の体制強化」なのか
・増員した人材を誰がどう育てるのか
・保護者の相談などに応じ、機関調整の中心となる「子ども家庭総合支援拠点」の人材確保はどうするのか
・妊娠期の支援の入り口である「子育て世代包括支援センター」とはどうのように連携していくのか
 
人数が増えるのは喜ばしいことですが、教員や看護師等の専門職とは違い「児童福祉司・児童心理司養成校」は存在しませんから、職場配置されてから「実務と養成」が同時スタートするのが現実。
 
若手を積極的に使い育てながら、チームの成熟度も上げつつリーグ残留を狙うサッカーの中堅チームのようなマネジメントが現場では求められます。増えた人数をどうチームにするのか、ということが今後の大きなトピックになるはずです、というかなって欲しいですね。
 
実はこのあたりのチームの土台、支援者同士の安心感・安定感が、回りに回ってLSWを実施できるか、子どもの揺れを抱えるチームになれるかの鍵になってくると思うんです。
 
どうしたって、LSWは「プラスα」的な支援で、効果的なものもすぐに見えにくいので、余程の意識や精神的余裕がなれけば後回しになりがちな取り組みだと思うので。正直。
 
 
 
今年の締め括りに、記事のラストを紹介。
 
〜GKのミスってわかりやすし、海外でも失点や敗戦に直結しているから凄く叩かれるじゃないですか。ただ、日本の場合はそもそも『ミス=悪』みたいな図式が強過ぎるのも良くないな、と。これは社会や文化にも起因していると思うんですが。ただ、僕がより深刻に感じたのはGKが『褒められない』ことですよ
 
〜では、(海外で)なんでGKが人気ポジションなのかと言えば、ビッグセーブした時にムチャクチャ褒められるから。無失点なら絶賛される。まさしく英雄になれる。『お前のおかげで勝ったぞ』と言ってもらえる。日本のGKについても、そういう加点方式の発想をしていくことが大事なんじゃないでしょうか。『凄いGKは誰が見ても凄い』(by川島永嗣)わけで、もっとGKを褒めましょう(笑)
 
 
僕が思うに、児童福祉でも大人同士が「子どもの成長を共に喜ぶ」機会がもっともっとあっていいでしょうと。大概、関係機関で集まる時は"困った時"で、それはそれで必要なんですけど、だからこそポジティブフィードバックの場面を意図的に作ることも必要なんだろうなと。
 
そして、もっともっと大人のいい取り組みに対して『あなたのおかげで、こんなに良くなったよ!子どもが幸せになったよ!』と褒めましょう、絶賛しましょう。
 
支援者だって大人だって親だって人間です。モチベーションひとつで変わる部分はどうしたってあります。
 
LSWは、もちろん本人の為なんですけど、大人側にとっても忙しい中でもふと立ち止まって、子どもの成長を振り返り、共有することの喜びを思い出させてくれる、そんな機会でもある気がします。
 
また、それは多忙な業務に追われるなか、忘れ去られがちな児童福祉の原点・理念「子どもの健やかな成長・発達・自立」を支えるのが今の仕事のミッションであることを思い出させてくれる場、でもある気がするんですよね。
 
 
「この仕事って、いいな」
 
「人と関わることって、悪くないな」
 
 
陽の目には当たりにくい仕事ではあるけれど、この世界に触れた人には、そんな風に思ってもらえるように、目の前の人との関わり・つながりを大切に、丁寧につむぎ対応していく。
 
そんなことを、改めて考えさせられ、もがいてみて、自分の中では2017年よりも少し整理がついた2018年だった気がします。
 
その整理はblogを書きながら進んだ部分もありますし、また増加するアクセス数を励みに感じながら、12月は若干怪しかったですが、無事一年間blog継続できたおかげかなと思います。
 
一年後。2019年の暮れに、自分が何を書いているのか全く想像がつきませんが、そんな予測不能な自分自身の変化を楽しみにしつつ、来年もblogを続けていきますので、今後もお付き合いよろしくお願いします。
 
 
それでは、皆さま良いお年をお過ごしください。
 
 
ではでは。

【第98回】職種による「チームワーク」の認識差

メンバーの皆さま
 
こんにちは。管理人です。
 
JaSPICANおかやま大会に向かっています。移動でまとまった時間があるので11月二度目の更新。
 
約一年前、2017年末コラムで勝手に掲げた「来年で更新100回」の目標まであと3回。何とか年内に区切りをつけて、晴れ晴れした気持ちで2019年を迎えたいたいものです。
 
という事で【第98回】コラムは、前回に引き続きLSWに欠かせない「チームワーク」について考えてみます。
 
今回紹介するのは、この論文。
 
 
チームワークの認識に関する研究ー自記式質問紙を用いた専門職間比較ー (松岡、石川 2000
 
 
【論文紹介】(by管理人)
まず筆者はチームワークを、
「専門職間連携の一方式」で「主体性を持った多様な専門職間にネットワークが存在し,相互作用性,資源交換性を期待して、専門職が共通の目標達成を目指して展開するプロセス」
 
と定義した上で、メンバー間の「チームワーク」モデル認識のズレがチームワークを阻害する一要因として働くことを指摘。
 
そして、
・専門職として社会化される過程で独自の文化(考え方)を身につけていく
・各職種が実践している組織環境の相違
(例えば、医療現場と比べると,社会福祉現場では職員の対等性が強調される傾向がある)
 
によって各職種の「チームワーク」モデル認識がズレがあること検証したというのが研究内容。
 
 
ちなみに「チームワーク」モデルはこの3つ。

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●マルチモデル(権威モデル)
発祥は医療領域。医師が中心となって他の専門職からの情報を受け取りながら治療に関する意思決定を行う。原因ー結果という直線因果的な問題に有効。職種間の「 階層性 (ヒエラルキー) 」が存在。いわゆるトップダウン型。
 
●インターモデル(相互モデル)
発祥はヘルスケア領域。慢性疾患や高齢者ケアなど心理ー社会的な多問題を抱える領域に適している。多職種が平等な立場から相互に意見交換し、チームメンバー全員で意思決定を行うプロセスを踏む。
 
●トランスモデル(縦断モデル)
乳児・幼児療育や障害児教育の場面から生まれてきたもの。「役割の解放性」が特徴で、例えば家族が看護者の役割を担ったり、教師が教育という本来の役割を超えて一部の理学療法を行ったりと専門性をシェアして学び合うモデル。
 
そして、成人の介護施設
  1. 看護職
  2. 介護職
  3. 生活指導員ソーシャルワーカー)
の職種間で「チームワーク」 に対するモデル認識の差を調べたら…
 
 
◼️結果→考察
看護職:「インター・トランス」モデルを想定
・医師の強いリーダーシップの下でチームのメンバーとして機能する「マルチモデル」をそのまま施設場面にも持ち込む予想とは違う結果。
→介護は多職種との連携や協働する形へ変化し、そこではすべての職種が「同じステージ」 で仕事をすることが求められていることが反映された?
 
介護職:「マルチ」モデルを想定
・看護職と正反対の認識傾向を示す。
→看護職と介護職の軋轢、介護中心の職場でありながら介護職が看護職の 助言・指導を受けつつケアを行っているという実態が反映された?
 
生活指導員:看護職と介護職の中間モデルを想定
ソーシャルワーカーという職種が持つ「連絡・調整」機能は、日常業務の中で大きな位置を占めるものの一つで、調整役として中立的な立場にあることが求められることが反映された?
 
その他:
インター・トランスモデルが混合されて認識
→トランスモデルはインターモデルから派生。理論的に把握されるようになった歴史も浅く、障害児教育という特殊な分野で発展してきたため、今回の調査対象であった成人施設職員においては馴染みがなく区別が不可能であったのではないか。
 
 
【コメント】
初めて読んだ時は、心の中の「あるある」が止まらなかったですね。
 
「連携!連携!」と仕切りに言ってはいるけれど、各々が想定している連携の形、チームワークの形がそもそもズレている気がするって事、あなたの組織、あなたの地域でもありませんか?
 
何でこんなに分かってくれないんだ!って、それぞれ思っているわけです。そりゃ、いつまでも噛み合わないです「目指している形」が違うんですから。
 
この研究は2000年の成人施設職員での結果ですが、僕が児童福祉の世界に足を踏み込んでからのこの10年、ホントに個人間、職種間、組織間の「連携・チームワーク」の認識のズレに苦しんできたんですよね。
 
 
では、現在2018年の児童福祉はどうでしょうか…?
 
差異がないなんてことはないと思います。
 
 
思うんですよね。おそらく、この認識の差異はいつの時代もなくならない。育ってきた環境が違うから。時代と共に問題と求められる形が変わるから。むしろ考え方や文化の多様性は、状況変化に対応する強みにもなり得る。
 
だから考え方を均一化する方向ではなく、ギャップがある事を前提として、ギャップを認めながら共存する形を模索すること、その際に生じる衝突・葛藤に対処するスキルを伸ばす方向性、つまり「ファシリテート能力」にもっと焦点を当てていく必要があるのだろうと。
 
この数年、児童福祉施設の中堅〜ベテランの職員さんから、「昔は力で抑えていたけど、今は時代が違うので」という内容を耳にする機会が増えたなという感覚が僕にはあるのですが、児童福祉分野はちょうど支援観・価値観の移行期にあるのかなと思っています。
 
発達障害系の児童の割合が増えているのは教育現場も福祉現場も同様。母子世帯、貧困世帯、ステップファミリーと多問題を抱える家族背景を抱えるケースに山積する中で、「マルチモデル」は通用せず→「インターモデル」→「トランスモデル」への支援形態の移行が時代の流れと共に求められているのかなと。
 
だけれども、個人も組織も柔軟性に差はありますから、時代の流れにスムーズに乗れる人、昔のスタイルに固執する人、変化しようとしても思うように出来ない人、それぞれがいるはずなんです。
 
それは児童福祉分野に限らず、2010年代に入って以降、経済界各所で「VUCA(ブーカ)時代」が到来した呼ばれるように、経済、企業組織、個人のキャリアにいたるまで、ありとあらゆるものを取り巻く環境が複雑さを増し、将来の予測が困難な状況になっている時代の流れかなと。
 
・Volatility(変動性)
・Uncertainty(不確実性)
・Complexity(複雑性)
・Ambiguity(曖昧性)
 
VUCAはもともと1990年代にアメリカの軍事領域において用いられてきた言葉で、一言でいうと「予測不能な状態」を意味していて、現代のカオス化した経済環境を指す言葉です。
 
ちょうど日本で児童虐待が扱われ始めたのも1990年代ですし、児童虐待分野の支援者にとって「予測不能な状態」は当たり前の日常ですし、今更それ言うか感すらありますが、軍事領域において用いられた言葉が当てはまると知った時は、やはり「戦場」なんだなと思いが一層強くなりました。
 
現代社会に合わせたベンチャー起業は、とにかくスピード感を大切にしますし、やればやるだけ利益が出た大量生産大量消費の時代から、いかに時代のニーズに合ったサービスを提供できるか、企業も明らかにモデルチェンジが求められていると思います。
 
そんな時代の変化に伴い「ただ決められたことをきちんとこなす人材」よりも「主体性を持って考え柔軟に行動する人材」が求められていますし、組織のあり方も「マルチモデル」から「インターモデル」「トランスモデル」的なものが求められている気がしますが、その変化に人や組織の方が付いていけてないのかな、と。
 
受験スタイルにしても、リーダーシップにしても、急な変化に適応できる人は出来るけど、できない人は出来ない。2020年に学習指導要領も変わりますが、適応できる人と出来ない人の差がより一層はっきり現れると思います。特に児童福祉に多い発達障害系の人は「変化に弱く」「曖昧なことが苦手」ですから、そんな社会に適応できないと見なされた人達がどんどん来る。
 
しかし、それを支援する側のチームワークで求められる「トランスモデル」の特徴である「役割の解放」は、悪く言えば「役割の境界が曖昧」になりやすいので、よほどチームメンバーがそれぞれの自分の役割をきちんと自覚して実行できないと、役割の押し付けが始まったり、結局できる人に負担が一極集中したりと、「柔軟性」と「不安定さ」って表裏一体。
 
子どもの事は「何でもかんでも児童相談所に」と通告が増え過ぎて、時間制約上かえって出来る役割が限られてしまっているし、上記の衝突葛藤も各地で起きている、現代日本の児童福祉の流れはまさに移行期の混乱やバランスの悪さを象徴している気がします。
 
ただ決して、マルチモデルが劣っていて、トランスモデルが優れているとかいう単純なものではなくて、要はある問題に対して適切なチームワークを適応できるかという戦術的柔軟性の問題。
 
当コラムでは、よくサッカーの例えを出しますけど、対戦相手や戦況、残り時間によって効果的なフォーメーションは異なりますし、チームメンバーの特性や能力によってもフォーメーションの合う合わないはありますよね。
 
これはLSWにおいても同様で、刻々と変わる子どものニーズや状態だけでなく、支援する施設や児相の担当者も年度で刻々と変化する。
 
例えば、暴力や自傷他害など「安全に関わる」早急な問題の対応判断は「マルチモデルのトップダウン的対応」が必要ですし、生活場面で日常的に行われる成長を促す関わりやケアは、各々の立場や経験、専門性をシェアして力を合わせる「インターモデル」「トランスモデル」が必要なんだろうと思います。
 
その戦況に合わせた柔軟なフォーメーション変化を「監督コーチの指示なし」で「ピッチに立っている選手同士で対応しろ」というのは、余程の各々の経験と戦術理解度が高く、阿吽の呼吸で通じ合えるような関係性でないと難しいだろうと思います。けれど、僕が現場で連携がうまくいっているなと思う時ってそれが可能なメンバーが集まっている時なんですよね。だいたい。
 
それは、前回コラムのGoogleの研究結果で言う、
・メンバーの人の気持ちへの感受性の平均値が高い
 
ということなるのかもしれませんが、それだけではなくてメンバーの発言量がだいたい同じ」になるような雰囲気づくり、つまり心理的安全性を高める」ファシリテート能力というは、天性のセンスに頼るだけでなく、そのコツみたいなものを皆で共有してシェアしていくことが今後は必要だよな、と思っています。
 
 
ということが、僕が学生として今研究でまとめようとして、全然まとめきれていない事の一部です。
 
来年3月までにまとまるのかな…。
 
 
ではでは。