LSWのちょっとかゆいところに手が届く「まごのてblog」

静岡LSW勉強会の管理人によるコラム集

【第107回】支援者の健康と安全からはじまる子どものケア

メンバーの皆さま


ご無沙汰してます。管理人です。


ブログ更新も滞っていましたが、公認心理士試験も終わり、ようやくひと段落しました。


さすがに第2回公認心理士試験にも「ライフストーリーワーク」は出ませんでしたが、出題問題はなんとなく児童虐待やトラウマ・神経系が多かった気がしまして、世の中(問題作成者?)の関心を掴むいい経験になりました。


と言うことで、ブログ更新もがんばるぞー!と言いたところですが、この蒸し暑さとこの半年程の忙しさで少しバテ気味


今年度のバタツキ感はなんとなく例年と質が違う気がします。ニュース報道の影響なのか、令和とはそういう時代なのか、働き方改革がそうさせているのか、よくわからないですれど


試験のせいではないことが、試験が終わって分かりました(苦笑)


全体的に疲弊感が漂っているというか、やる気や活気、エネルギーが湧いてこないというか、忙しすぎて頭がスッキリ働かない感じというか、もやっとした嫌な感覚にハマりつつある感じがします。



そんなようにお疲れ気味な支援者の方がいれば、支援者こそ積極的にセルフケアが必要ですよ、という話題を今回以降のコラムでは取り上げたいと思います。


具体的にはトラウマインフォームド・ケアについて。今まで取り上げたくて、なかなか手が出せていなかったトピックなんですが、一回ではとても扱え切れないので、小刻みに何回かに分けて取り上げます。



百聞は一見にしかず、まずは参考サイトの紹介。


「性的搾取からの子どもの安全」サイト

http://csh-lab.com/3sc/document/



この研究サイトのページでは、トラウマインフォームド・ケアのリーフレット・資料が紹介されています。[支援者向け][子ども向け]とそれぞれあるんですが、内容がまた秀逸なんです。


トラウマインフォームド・ケアとは、このサイトの言葉を借りると「トラウマとその影響を理解しながらの支援」。


ちなみに、これは[支援者向け]リーフレット表紙ですが、

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「トラウマとその影響を理解しながらの支援」とは、相談者のトラウマを専門的に治療をすることではなくてですね。


トラウマを抱える人に関わった時、支援者自身に起こる影響についての知識を持っておくことが、防護服を着るように支援者自身や周りの人を守ることにつながりますよ、という意味での理解。


「あ、これってトラウマの影響かも」ってセルフモニタリングできることが、自分を積極的にケアして良い状態を維持することにつながり、また良い支援が提供できる、という循環を生みます。


逆にいうと、虐待ケースの保護者や子どもの支援って、支援者自身が「こころのケガ」をしてしまうことがある程度避けられない危険業務なので、常にケアし続けないと、どんどんこころが痛んできます。



例えば、虐待ケースの対応って、いきなり罵声を浴びせてきたり、イライラを爆発させてくることって珍しいことではありませんよね


そんな対応ばかり続くと、支援者だって人間なので怒れて当然だし、「あの人に関わりたくないな」「連絡とりたくないな」という思うのは当たり前の反応です。


しかし、そのような大変さへの労いや共感もなしに、「あなたが悪い」「よくある事だから」「そういう経験も必要」と我慢を強いられたり、周りから放っておかれることって、割と起こりがちだと思います。


そうやって「こころのケガ」が放置されていくと、支援者自身がイライラしやすく切れやすくなったり、被害的に受け取りやすくなったりします。また、どんどん自信がなくなって、また何か責められるんじゃないかと周囲に相談できずに孤立し、一人で大変さを抱えやすくなります。


この悪循環サイクルは、虐待を受けて適切なケアがされてこなかった子どもたち、また虐待を受けながら年齢を重ねて親になった大人が体験している事そのものなのですが、支援者自身が虐待ケース対応をすればする程、相手が経験してきた気持ちや精神状態を再体験するようなことが起きます。


すると「ミイラ取りがミイラになる」ように、相手を支援に行ったつもりが、支援者自身が傷ついてトラウマを受けて帰ってきて、その傷が癒されないと、知らず知らずのうちに支援者自身が周囲の人(同僚や家族)を傷つけてしまう側になっているなんてことは珍しくないんですよね。


児童虐待ケースで言えば、

「親子関係」「支援関係」「職場関係」

こんな感じで次から次へとトラウマ関係の再演が起こっていきます


この関係性の連鎖は「並行プロセス」と呼ばれているものですが、こんなことがよく起きることを各々が理解して気をつけておかないと、あっという間に殺伐とした雰囲気が職場に蔓延しちゃいます。


さらには、関係機関同士で責め合いになって連携が上手くいかない場合も、そのような「並行プロセス」が起こっている事って結構あると思います。トラウマ関係の再演で、みんな再トラウマ受けちゃうみたいな。



じゃあ、どうすればいいかということのヒントがトラウマインフォームド・ケア。僕の理解では、


「こころが傷ついていることに皆んなで気づき」

「傷口をさらに広げるような再被害を減らして」

「傷が浅く、傷が新しいうちにケアし合う」


負ってしまったケガに対しての、適切な早期ケアを行うための共通理解、基礎知識なんて感じかなと思っています。



あえて、「足首のねんざ」で例えると、


歩いて足をくじいたり、スポーツをしていて足首がグキッとねんざした後って、足首がジンジンして腫れてきます。(症状の理解)


そんな時は、まず患部を冷やしたり湿布を貼ったり、固定してなるべく動かさないでおく、みたいな応急処置ってほとんどの人が知っているし、実行してますよね。(早期ケアの理解)


それでも痛みが引かなければ、病院に行ってレントゲン撮って、骨折に異常がないのか、サポーターやリハビリが必要なのか等々、さらに個別的な症状に合わせたケアや再発予防策を検討することになります。(相談先の理解)


こんな感じで、

①自分に何が起こっていて、

②応急処置はどうすればいいか、

③それ以上ケアが必要な場合はどういう時か、

④それをどこに相談すればいいか、


について事前に知って見通しが立っているかどうかは、いざケガをした時に慌てず冷静に対応できる具合を随分と左右しますよね。


また足首のねんざに限らず、ケガを負った時に適切な「早期ケア」がなされるか否かによって、完治までの期間が長引くか、古傷が痛む的な後遺症が残ってしまうかは、「からだのケガ」も「こころのケガ」も同じかなと。


仮に虐待を受けていたとしても、その時に守ってくれる人がそばにいたのか、ただただ一人で我慢するしかなかったのかのフォロー状況の違いによって、先々の影響はだいぶ変わってくるんですよね。


虐待を受けた人が、虐待を世代間連鎖で行なってしまう割合は約3割と言われていて、昔それを聞いた時は「7割もの人が連鎖を断ち切れるんだ」と驚いたのを覚えています。


色々な要素はあるのでしょうが、きっと虐待を受けたとしても、その時にフォローしてくれたり、理解して支えてくれた人がいた、ということが大きいのではないでしょうか。


確かに、虐待の通告件数はうなぎ登りですが、一度言えば、気をつけて再虐待をしない保護者の割合の方が圧倒的に多いのは事実。


逆に言えば、わかっていても止められない、虐待の連鎖を繰り返してしまう3割の方々は、自分のこころやからだが傷ついても、フォローもされず、ただただ自分が頑張ってサバイバルするしかなかったって、そういうことをお話しされる方たくさんおられます。「自分が子どもの時は誰も助けてくれなかった」と。


傷は古く、重なり、もはや何の傷だかわからないような状態。本当は痛んでいるけど、なんなら変形しちゃってるけど「もう慣れちゃって痛みは感じなくなりました」という状態です。


そこまでいってしまうとかなり専門的な治療が必要になっちゃいますが、本来はそうなってしまわないように、傷ついた時は早めに手当てして早めに治しましょうというサイクルにしたいですよね。


もちろん重症化するまで支援につながらない人が一定数いるのは現実としてあるんですけど、予防的にそういう人を減らす取り組み、そして重症化した人をケアする人が重症化しないようにする取り組み、それがトラウマインフォームド・ケアが言わんとするところではないかな、と思っています。


まさに「支援の土台づくり」ですよね。



これ以上の再トラウマを防ぐ手立てとして、支援のいいサイクルを作っていくために、リーフレットの副題である


支援者の健康と安全からはじまる子どものケア


忘れないでおきたいコトバだなと思いました。



ではでは。


【第106回】受験勉強とLSW

メンバーの皆さま
 
お久しぶりです。管理人です。
 
ようやく各地で梅雨入りで、じめじめした季節になってきましたね。
 
僕はというと、多くの方は昨年受けた「公認心理師試験」を諸事情により今年受けるので、現在、受験生やってます。
 
試験を控えるって言うのは、早く終わって楽になりたい気持ちと、試験までに勉強できる時間がどんどんなくなっていく不安が入り混じる複雑な状態に置かれますね。
 
モヤモヤした感じのピークは、身分も定まっていない「大学浪人」時代だったんだろうなぁと思い出すアノ頃から既に20年近くの月日が経っていることにもビックリですけど。
 
そして、8/4の試験本番を約1ヶ月後に控え、未だ受験票も届かず、受験会場すらわからないので、ホテル予約して前泊するのか当日行くのかも決められない日々が続いています。
(受験する職場の同僚も「まだ届いてない」と言っていたので、きっと条件は皆一緒のはず…)
 
こんなモヤモヤっとした中、通勤時間の合間に受験勉強をしていまして、気がつけば6月はブログ放置…
 
言い訳をすると、一応、心の何処かで「ブログのネタ無いかな」と思いながらテキストを眺めていました。(そう思うと少し楽しい気分で読めますし)
 
やはり、公認心理師試験のテキストや問題集に「ライフストーリーワーク(LSW)」は出てきませんです、さすがに。
 
公認心理師試験で求められる知識は、広く浅くのようで、例えば児童福祉領域で求められる知識レベルは「通告義務とは?」児童福祉施設とは?」という感じ。当然、LSWはマニアック過ぎます。
 
ただしかし、広く色んな分野のことを勉強すると、自分があまり注目しない分野の知識から新鮮な気づきが得られるのも事実。試験でもなければ、なかなかこういう体験は出来なかったかもしれないですね。
 
 
そんな中から、私がLSWについて考えさせられた、ある問題集の練習問題を一つ紹介。
 
 
答えは「⚪︎」か「×」の2択で考えてください。
 
 
 
 
 
【問題】
キャリア・カウンセリングの目的は、問題行動の治療や改善ではなく、よりよい適応と成長、個人の発達を援助することである。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
【答え】は…
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「⚪︎」です。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
僕もキャリア・カウンセリングについて深くは学んだ事はないんですけど、この問題自体は、それほど悩まずに答えられるかなと。
 
ただ、この問題を解いた時にキャリア・カウンセリングの部分を「ライフストーリーワーク」に替えたらどうなる?と、ふと思ったんですよね。
 
 
 
こういうことです。
 
 
 
 
 
【問題(改)】
ライフストーリーワークの目的は、問題行動の治療や改善ではなく、よりよい適応と成長、個人の発達を援助することである。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
このように試験問題として改めて聞かれたら、「×」と答える人はあまりいないかもしれません。
 
 
 
しかし、現実の臨床場面において、里親宅にいる子どもや施設入所児に対して、LSWの実施をするか否かという検討が行われる場合はどうでしょうか。
 
子どもの成長のため、子どもの将来のより良い適応のため、子どもの人生のためという議論になっているでしょうか。
 
子どもが問題行動を起こすのは、自身の生い立ちや親の存在があやふやだからではないか、だから落ち着かせるためにLSWが必要だ/もっと荒れてしまうからLSWはやめて欲しい、そんな話しの流れって割と起きがちだと思います。
 
もちろん、何でもかんでもLSW実施する事が良い、実施しない事が悪いということではありません。条件やタイミングは何が適切かということなのですが、前提として【問題(改)】のような問い、「なぜ」「誰の何の為に」実施するのか、そこ目的って非常に大切ですよね。
 
 
 
受験勉強でいくつも問題を解いて気づいた事ととして、キャリア・カウンセリングに関する問題では「キャリア・カウンセリングと通常カウンセリングの違い」について問う内容がとても多いんですね。
 
少し調べて見たところ、キャリア・カウンセリングの幅の広さは「面接の三態様」(育成面接/開発面接/治療面接)として整理できるようで、キャリアカウンセラーは開発面接を主としながら、本人の持つ課題、問題から両隣の面接を求められることがあり、自分が扱える領域をきちんと認識することが必要であるとされているようです。
 
参考)キャリア形成支援とキャリア・コンサルティング
 
 
 
では、LSWと通常カウンセリングの違いって何でしょうか?
 
支援者は面接で何を主として扱いながら、本人の持つ課題や問題から何を同時に扱うことが求められるのか。
 
色んな考え方があるとは思いますが、傾聴で自己への気づきを促す通常カウンセリングと比べて、LSWは本人が知らない事実を支援者が調べたり伝えて共有していく点が、明らかに通常のカウンセリングとは違う特殊なところかなと思います。
 
でも、じゃあ何をどこまで扱うのかと言う点においては、本人の意志や同意がとても大切なので、カウンセリング的に聴くことが非常に求められる。
 
で、本人のニーズ的にはLSWで扱おうとする軸は何なのか、その時にLSWを難しくさせる別の要因は何なのか、この辺りを整理して、自分の扱える領域でなければサポーターを増やす。
 
LSWと言うと、自身の生い立ちや過去を振り返ること全般をイメージする人は多いと思いますが、何を目的に、何の内容を扱うのか、それによってLSWで扱う範囲は変わって良いわけで、何でもかんでも出生から現在まで洗いざらい全てを振り返らなければならないということはないと思います。
 
 
 
これ受験勉強も似てるかなぁと思いまして、例えば、テキストの一番前から最後まで全部順番にやる必要は全然なくて、まだ覚えてないところ苦手なところを重点的に勉強すればいい。
 
むしろ、わかってるところ何度やっても仕方ないわけで。勉強してる気にはなりますが時間がもったいないですよね。(ただ自信をつけるという意味では重要かも)
 
そして目的は試験に合格する事ですから、そんなに一つ一つを深掘りする必要はなくて、各分野の要点だけ広く押さえてチェックしておきたい。
 
ただ、自分が何を知ってて何を知らないのか、それすらわからない場合は全体を一通り眺めてみて「自分はここが苦手なんだ」と自分について知る作業がまず必要な段階もある。
 
試験1ヶ月前で、その「まず」の段階だから焦るわけですけど、今の自分には何が必要なのか、何を知りたいニーズがあるのか、それは何の目的なのか、そんな問いってLSWに限らず大事だなぁと思ったという話でした
 
 
試験勉強がんばります。
 
 
 
ではでは。

 

【第105回】エネルギー・マインドセット・アクションの三段階

メンバーの皆さま

おつかれさまです。管理人です。

5月なのにすっかり「夏」の暑さですね。

先日、北海道で39.5度なんてニュースになっていましたが、各所で5月の最高気温を更新しているようで、今年も異常気象の予感…。

皆さま、熱中症にはお気をつけください。



そんな今回取り上げるのは、もうすぐ日本でワールドカップが開催され、競技的なイメージも熱い"アノ"スポーツの話題から。


勝敗を決するもの

致知2019.6月号より)

の対談から、今回注目するのは、帝京大学ラグビー部の岩出監督が語る「チームづくり」について。

大学ラグビーの伝統校といえば早稲田・慶応・明治が有名ですが、それら伝統校を差し置いて、平成最後の大学選手権を準決勝で破れるまで、前人未到の全国大学選手権"九連覇"を果たしていたのが帝京大学ラグビー部。

もしかしたら、"平成"世代の方は早慶明のラグビー部が強かったことすら知らないかもしれませんよね。それくらい帝京大学は平成の終わりに勝ちまくった絶対王者なんですね。

そして、大学スポーツは毎年主力選手が入れ替わるので、連覇し続けるっていうのは偶然できることではなくて、「大切なのはいかに『チームカルチャー』を築いて、選手層を厚くしていくかだと思います」と岩出監督は語っています。

そして、コーチ陣に徹底して共有しているのが、
・やる気の元になる「エネルギー」
・行動を生むための「マインドセット
・成果に結びつく「アクション」
の順番で、選手にアプローチすることだと。

岩出監督はマズローの欲求階層説を引き合いに出していますが、これってラグビーに限らず全ての対人援助に共通する原則的なものですし、LSW実施の際に、子どもの状態として、支援者チームの状態として是非気に留めて欲しい視点なので、順番に紹介します。


やる気の元になる「エネルギー」
なんと言っても有名な帝京大学ラグビー部の功績は、それまで学生スポーツで支配的だった上下関係、根性論を廃して強いチームを作ったこと。

体力的に未熟な下級生(1〜2年生)にグラウンド整備など雑用をさせる上下関係を撤廃。掃除や食事当番も最上級生(4年生)が行い、食のサポート、最新理論に基づいたトレーニング、さらに定期的な血液検査も実施して疲労状態を検証し、休養を与える等々。


岩出監督に言わせると、

〜選手たちが自分を信頼するといいますか、自信を積み重ねていくのはそう簡単なことではありません。やっぱり自信や心の余裕がない状態では、どれだけフィジカルやスキルを持っていても試合で力を発揮できないんですね。
 
〜毎年毎年、先輩たちからたくさんのサポートを受けつつ、自信のもとになる心の余裕、体の余裕、プレーの余裕を一・二年生は学ぶ。先輩から後輩へ経験値や考え方を伝承し、共有する。そういう文化を心掛けてつくってきました。

ということ。その中でも僕が特に印象的だったのが、地方から出てきた一年生なんか生活環境もガラッと変わって大変なわけだから、早く安心できる生活を送れるようにして、いちはやく練習に集中できる環境を整えてあげることがまず大事、という話。

高校で全国レベルの実績を残してきたムキムキの大学生ですら、このような安全安心な生活への配慮サポートが必要で、それによって持っているポテンシャルが十分に発揮できると。

このblogの読者の皆さまならご察しと思いますが、では様々な家庭事情(多くは虐待)によって親元を離れて里親・施設で暮らすことになった成長期の子ども(乳幼児・小学生・中学生)についてはどうでしょうか。全く同じことが言えますよね。

ましてや、施設における子どもグループの集団力動ってかなり体育会系。僕も運動部で上下関係はずっと経験してきましたが(特に中高は先輩が怖かった)、施設も似た構造がありますよね。新しい環境で、新参者は周りに気を遣いますし、それだけで気疲れしてまうのは子どもも大人も一緒です。

それでも頑張ろうと思う、やる気の元になる「エネルギー」って、安全基地として頼れる人やホッとできる場所があって、はじめて自分の内側から自然と湧いて出てくるものだと思います。

だけど例えば、息をつくハズのお家で、過剰適応や過緊張を強いられている子は、ずっと力を入れている状態で、さらにコレも頑張れと言われる。けどエネルギーが残っていないから、やる気が起きないし踏ん張れない。だから、より怒られ厳しくされるの悪循環って割と起きてますよね。

学校の勉強を頑張る、自分の課題に向き合い行動修正をはかる、そんなためにはエネルギーが必要で、エネルギー不足では新しいことに前向きに、主体的に取り組むことなんて難しいですよね。

そして、よく「オンオフの切り替え」とは言いますが、ずっと「ON」だとOFFの感覚がわからないから、切り替えなんて上手くなりっこない。頑張らせる踏ん張らせる感覚を身につけさせるためには、あえて"抜く"、そのギャップを経験することも必要と思います。

集中力ある人って、みんなとは言いませんが、実は結構サボり方がうまいかったりしません?バレないように省エネタイムを作って、ここぞって時にエネルギー溜めてたりする。部活の練習とかで監督にそれが見つかるとスゲー怒られますけど(苦笑)

でも、実際に試合で相手に勝つにはそういう"したたかさ"は必要。監督に頑張る姿を見せるために試合してる訳じゃないですから。監督に怒られないように顔色伺っているうちは、同等かそれ以上の力を持った相手には絶対勝てないし、成長はないと思います。使うべき所に、エネルギーを使って出し切ってないわけですから。

ただ当然「OFF」から「ON」に入れることも始めか上手くできるわけではないので、やる気を「ON」にする訓練、枠組みやサポートも同時に考えなくてはいけないと。

その一つが、モチベーションを上げるとか、動機付けとかになると思うのですが、そんな話が次の話題かなと思います。



行動を生むための「マインドセット

そもそも「マインドセット」とは。
【mind set】
経験、教育、先入観などから形成される思考様式、心理状態。暗黙の了解事項、思い込み(パラダイム)、価値観、信念などがこれに含まれる。

マインドセットという言い方は、人の意識や心理状態は一面的なとらえ方はできず、多面的に見てセットしたものがマインドの全体像を表しているということから来ている。
【引用】グロービズ経営大学院 MBA用語集


なるほど。これを踏まえて、岩出監督の話し。

〜細かなことを挙げればたくさんあるんですけど、我われコーチングスタッフが学生に教え過ぎていないか。彼ら自身が悩み苦しみながら答えを見つけていくアプローチができているか。

〜無理な課題に挑戦して挫折するのではなく、最適なレベルの課題に挑戦し、ちゃんとやり切れているか。そういったことをお互いに、もう一度見直しています。ですから、三月は練習時間を大幅にディスカッションに割きました。

技術よりも考え方の部分を重点的に。

〜はい。成果に結びつくアクション、行動を生むためのマインドセット正しい考え方を身につけることが必要です。ただそれだけでは不十分で、やる気のもとになるエネルギーも高めねばなりません。逆に、エネルギーやマインドセットを抜きにいきなりアクションを求めてもダメ。

〜この「エネルギー、マインドセット、アクション」という三段階を我われコーチングスタッフも選手たちも理解して、急がずに余裕を持ちながら取り組んでいます。


なんか、この辺りのくだりだけ読むと、もはや子育て論、教育論ですよね。これがプロではなく学生スポーツの醍醐味かもしれませんけど。

忙しくて余裕がないと、どうしても「どうしたらいいんですか?」と即解決策、即方法論に飛びつきたくなるんですけど、それってその人の人間的な成長につながるのかということを考えさせられます。

子どもの習い事もそうですけど、極論で言えば学生はプロではないので、ラグビーをしなくても生きていけるし、卒業後はラグビー以外の仕事で生きていく学生の方が圧倒的大多数

もちろん、チームスポーツなので全員がレギュラーになれるわけでも、試合に出られるわけでないでもない中で、「なぜ自分はラグビーをやっているのか?」「試合には出られないが、チームの勝利に貢献する自身の役割をどう受け入れるか」。

そんな自問自答の意味って、対人援助のケース会議と似ているなぁと思いまして。

例えば「役割分担」ってよく言いますけど、人から「コレやれ」って他人から言われた事ってあんまり質のいいアクションに繋がらないことを経験則で僕も実感しています。

たぶん、自分の中で腑に落ちていないと「いつやるのか」の判断が主体的に行われないので、効果的なタイミングかどうかはさておき「やったか、やらないか」に焦点が当たる傾向があると思います。しかし同じ事をやったり伝えたりしたとしても、その流れや意味づけによって、印象や受け取りは全然違うものになりますよね。

逆に、自分で考えて「コレやります」と自分の口から出たアクションはやはり実行の質が高い。おそらく主体性のあるアクションは、軸となるマインドセットがしっかりしているので、状況に応じた微調整や応用が効くんだと思います。

支援者の中で「何を目指しているのか」は自分の中で整理されていれば、「どうするのか」の方法論や道筋は柔軟に変更できるし、当事者とそれを対話しながら決めることができるから。

そうやって、相互性を大切にやりとりの中で意思決定するプロセスって、まさにチームとしての「何を大事に」「何を目指して」「どのような協力関係を作っていくのか」を共有していくことなのかなと思います。


〜我われコーチングスタッフが学生に教え過ぎていないか。

でも何も言わないわけでもない。スタッフも選手も監督も、それぞれの役割があるだけで「ある目的」を共有する同じチームの一員ですから、お互いに「果たす役割」について考え、伝えあうこと、対話による相互理解は必要不可欠だと思います。

この関係性って児童福祉をにおける、子ども、養育者、支援者といったチームの構造と似ているよなと対談を読んでいて思ったんですよね。




成果に結びつく「アクション」

素朴に思うのが、"成果"を何と捉えるかによって求めるアクションの質は変わるだろうと言うこと。

例えば、単純作業のようにやればやっただけ成果に結びつくようなことの場合、つべこべ考えずにやる方が良いこともあるかもしれませんよね。

その点で岩出監督は、指導者のマインドセットとアクション、そして成果について興味深いことを語っています。


〜「勝ちたいな」と思っていた時は勝てなくて、「勝たせたいな」と思っていると少しずつ勝てるようになって「幸せにしてやりたい」と思うようになって、一気に優勝が続いたという感じですね。

〜自分が勝ちたいから選手たちを勝たせたい。そして、目の前の勝利だけじゃなくて、彼らを育ててあげたい。こう思うようになったら、勝利が来るようになった。

桶の水を自分のほうに寄せようとすると向こうに逃げてしまうけれども、相手にあげようと押しやれば逆に自分のほうへの返ってくるのと同じで、自分のためにやるではなくて相手のために一生懸命やると、物事はうまく運んでいくのではないかと思います。


〜世の中も変わり、その影響を受けている学生たちも変わっていく中で、どこを変えてどこを変えないかということを押さえながら、チーム全体がさらに伸びるようにする。

〜僕は何連覇という数字にはあまり拘ってなくて、一つひとつの試合で、自分たちがやってきたことの成果を実感できるほうが大切だと思っています。


監督として選手の成長をサポートする視点がこんなストレートな言葉で語られています。

これって養育者、支援者としての正しいマインドセットそのものじゃないかなと。

勝たせることが目的ではなく、選手の成長の延長線上に勝利がある。だから、目の前の勝ち負けに一喜一憂しないし、成果=成長を実感できる方が大切。

しかし、その成長プロセス、成長アプローチは決して一つじゃないですから、自分達の目標は何なのか、それに対するアプローチをどうするのか、それを話し合いながら考える。そして、やってみて振り返る。


話を聞いてもらう、労われる → 【元気になる】
意見を交換する、対話を続ける → 【理解を深める】
やってみて、振り返る → 【より良い行動を探る】


こんなエネルギー、マインドセット、アクションの順番って、児童福祉で行われている生活支援、自立支援、家族支援プロセスと同じだなって思うんですよね。

そして、エネルギーも無いのにマインドセットにアプローチしたり、マインドセットそっちのけでアクションにアプローチしようとして空回りしていることって、結構起きてないかなぁと思います。

おそらくマインドセットを細かく見ていくと、認知、思考、価値観、信念、スキーマ等々の話しになっていくとは思うんですけど、僕の中ではそれぞれの関係性がうまく整理できないと言うか、細か過ぎていまいちスッと入ってこなくてですね。
(僕が勉強不足なだけなんですけど、世間一般に通用しない言葉は大概の場合、他職種には通じないし連携においては変な誤解の元だと僕は思っています)

クリニックのような相談意欲があって通所できる人を対象のベースにした場所であれば、いきなり認知行動でいいと思うんですけど、児童福祉は人に助けを求めない、生活基盤が脆弱、暴力被害に合っている等々といったエネルギーが少ないor消耗が激し過ぎる環境にいる人達が支援対象のメイン。

もちろん、細かく突き詰めるアプローチも必要なんですけど、「木を見て森を見ず」にならないようまず全体を見て、手当が必要な場所や優先順位の当たりをつけて、それから徐々にズームを拡大していくように細部を見ていく。

このようなアプローチの流れの原則的なものって意外と共有が難しくて、「この子の見立てはどうなってる?」と一言でいっても、それぞれの領域や教育課程によってイメージしていることや重点的に考えることって結構バラツキが出ると思います。

方法論として色んな意見が出ることはむしろ歓迎されることですが、共有できる原則的なものは欲しいですよね。根本から話が噛み合わないみたいなことになるので。

LSWで言えば、まずは支援者チームが現在の対応に疲弊していて過去を扱う「エネルギー」まで残っているのか。そして、長期的な子どもの成長や自立支援の視点での検討ができているのかマインドセット)。そのことをどう子どもに伝えて共有していこうと考えるか(アクション)。

次に、子どもに過去に向き合うだけの「エネルギー」が現在あるのか。そしてLSW実施についての動機が本人にあるのか(マインドセット)。その方法を本人と対話をして一緒に決めているか(アクション)。



「人が覚えれるのは3つまで」「物事を3つにまとめられない時はまだ整理が足りない」なんて言葉がありますが、色んな人達とイメージを共有するための合言葉は、
「エネルギー、マインドセット、アクションの三段階」
くらいにシンプルにした方がやはり共有しやすいよなぁ、と思って紹介させてもらいました。

ではでは。


【第104回】LSWとバイプレーヤーズ

メンバーの皆さま

こんにちは。管理人です。

「令和」になりましたね。10連休のGWいかがお過ごしだったでしょうか?

僕はこれといった大きな予定を入れず、ダラダラ過ごしていまして、ホント仕事で朝起きるのが辛いです。(※連休でなかった方、スミマセン…)

ダラダラと行っても、息子(2歳)と公園に行ったり映画に行ったり、子守り疲れも若干…しかし、こんなに仕事もイベントもなしに、家族でじっくり過ごせる機会は滅多にないよなぁ、と。

どうやらGW明けに「仕事が嫌になって辞める」人が例年に増しているなんてニュースがあるようですが、日本人はもう少し上手い休み方というか「働き方改革」ならぬ「休み方改革」、オンオフの切り替えに対する意識変容や練習も必要かもなぁ、なんて思う連休でした。

そんなこんなで、ブログも1ヶ月放置してしまいましたが、休みモードが抜けきれない今回は、連休中にAmazon prime見ていたドラマから。


ドラマ24「バイプレーヤーズ〜もしも6人の名脇役がシェアハウスで暮らしたら〜」HP
https://www.tv-tokyo.co.jp/byplayers1/smp/


俳優:大杉漣さんが2018年2月に亡くなる直前に放送していたドラマとして有名ですよね。

ドラマとは言え、蓮さんの元気な姿見ると、未だに亡くなったなんて信じられず「また何かの作品に出演するんじゃないか」なんて思っちゃいます。

扱いたいのは、そんな心霊的な話ではなくて、ドラマの最後に2〜3分「バイプレトーク」という出演者6人が酒飲みながら"脇役"について語るみたいなコーナーがありまして。

50代60代の酔っ払いのオッサン達が、コタツや居酒屋でベロベロになりながら語るだけなんですけど、だからこそリアルで面白いんです。
光石研さんなんて、赤い顔でつまみ食いながらマジで一言もしゃべりませんしね 笑)

そして、ある話題がLSW的にもそうだよなと思うところがありまして。


それは脇役としての"役作り"の話し。


昔話しで、三國連太郎さんの役作りは凄かった、○○さんは「こんなに書くことある⁉︎」ってくらい台本に書き込んでいた、とか色々と言いながら

「で、みんなは、役作りどうしてるの?」
という投げかけ。

そうすると、名脇役たちが

「いや〜、結局、主役がどう活きるかだから、俺らが事前に役を固めすぎてもね」

「主役の人がどう役を作ってくるかなんて会うまで分からないわけだから、ある程度はイメージするけど、あとはその場のやりとりで対応するしか基本できないよね」

「ある舞台で殺陣のフリを完全に飛ばしちゃって、真田広之さんが『いいよ、適当に撃ってこい』って言ってくれて、殺陣ってこう来たらこう返すってだいたいはあるんだけど、完璧に合わせてくれるわけ。あの人の対応力は凄い」

なんて対話をするんですね。


LSWに限らないと思うんですけど、対人援助における主役は「クライエント」であって、支援者は「脇役=by player」だと僕は思うんです。

援助も支援も「サポート」なので、当たり前といえば当たり前ですけど。この立場、役割をわきまえておくって結構大事じゃないかなと思うんです。

主役にどう活き活きしてもらうのか。ただ、主役が映える作品というのは、それを支える名脇役や名スタッフの存在が欠かせません。

時々、その存在感ゆえに脇役が主役を食ってしまう作品も映画ドラマではありますが、対人援助でも支援者が主役を差し置いて前に出ようとする(アレコレ決めようとする)ことって、特に主体性や相談意欲の低いケースでは割とよく起こるように思います。

しかし、作品全体のある場面、局所的に脇役にスポットが当たることはあったとしても、それは主役や作品をより際立たせるための伏線的な演出や構成の一部に過ぎないと思うわけです。

6人の名バイプレーヤー方々も、俳優を志した時から脇役志望であったわけではないのですが、「芝居が好きだから」「役者という仕事が好きだから」、自分に与えられた仕事があるのであれば、その作品を作りたいと思う人のために一生懸命に頑張るだけ。

そんな風なやりとりもドラマ本編の中にあって、苦労の末にたどり着いた「脇役」としての職人的な生き方、考え方を随所に感じるんですよね。


話しは変わって、LSWにおいても、
「どう事実を伝えればいいのか?」
「いつ、やればいいんですか?」

等々の質問はよく挙げられるんですけれど、その質問や話しの主語が「支援者」から抜け出せない場合、それは支援者自身の「私はどうしたらいいのか?」という不安の言葉だと思うので、どんな準備をしたとしても、実際の場面では本人の気持ちに寄り添った「やりとり」にはなりにくいのではと想像します。

主役がどう感じるかは、その場でやりとりしてみないと結局はわからないわけで。冷静な場面でも相手の立場に立った視点で話ができない人に(上手く言語化できないけど素晴らしい対応をする人はいます)、リアルタイムのライブのやりとりで相手の機微な反応を感じ取った細かな対応は難しいだろうと思ってしまいます。

大人がどう伝えるか以上に、本人がどう受け止めるかが大事なわけなので。

「それを知ることを、本人は望んでいますか?」

「それを聞いたら(見たら)、本人はどう感じると思いますか?」

「事前事後の準備として、支援者として配慮できることはありますか?」

と、まず本人の気持ちや立場に寄り添って想いを馳せて考えて、それから自分が支援者として出来ることを考える他ないのかなぁ、と思います。

でも、大事なのは普段から何気ないことから本人視点に寄って「通じ合う」体験や関係性がないと、本人視点に寄れない(陰性感情から)とか、予想が大幅にズレるということが起きますよね。

逆に言えば、普段の些細なスレ違い、思い違いの積み重ねが、結果として関係性の大きな溝やこじれとなっていたりすることは珍しくないと思いますし、問題が表面化して困った時にはだいたいその状態になっている気がします。

やはり直接本人の言葉を聞き、様子を見ながら、対話の中で物事をプロセスって、相手の考えや気持ちを知ること、相手の想いや立場に思い馳せる体験のベースになりますから、LSWに限らず大事だろうなと思います。

名バイプレーヤー達が語る"脇役論"、そういう相手が自分の中で感じたり作り上げていることを、直接会ったやりとり対話の中で感じて、それに合わせて自分の役割を作っていくプロセスって、普段の臨床で行なっていること、そのものだよなって思いました。

それは準備なしの自分勝手なアドリブではなくて、一緒にいい作品を作るためのチームワーク、自分の役割を全うするプロフェッショナリズム、そして期待に応えるための事前準備や日々の稽古などなど。

決して本人達は表には出さないけど、不遇の時代や苦労を重ねているから出せる味、滲み出る雰囲気は絶対ありますよね。

主役ではないけれど、作品の中で唯一無二に輝く名バイプレーヤー。自分が50代60代になった時に、こんな格好いいオッサンになれたらいいなぁ、なんて思った今年のGWでした。

ではでは。

【第103回】ますれどうすろがず

メンバーの皆さま

お久しぶりです。管理人です。

約1ヶ月blog更新できませんでしたが、生きてます。元気です

3月末は、10月からの半年在学した大学の論文締切だったんですけど、年度末の仕事なんて調整できるハズもなく…。

通常業務の書類作成も自転車操業状態の中、
さらに通勤時間+夜な夜な論文を書く日々。

その物書きのプロセスで、紹介したい本や論文は山ほど見つけたんですけど、それはひとまず横に置いておいて。

今回はそんな日々から解放されて、ボッーと読んだ本の言葉がとても今の僕に染みました、という対談の紹介です。


【対談】 磨すれど磷(うすろ)がず
https://www.chichi.co.jp/info/chichi/pickup_article/2019/04_kuma_kuriyama/
致知2019年4月号)

題名のように全部ひらがなにしてもすんなり読めない題名ですが、『論語』にある言葉のようでして、

(意味)
堅いものは、いくら磨いても薄くはならない。
→信念のある人は、どのような環境におかれても、くじけたり駄目になってしまうことはない。

ということみたいです。染みた言葉はこれではなくて(読み方すらわかりませんでしたから)。


対談者、
「建築家・隈研吾」×「日ハム・栗山英樹監督」

の話し。もはや説明不要なお二人かと思いますが、

東京オリンピックパラリンピックで注目を集める「新国立競技場」の設計に携わる建築家

と、

世界から注目を集める野球選手「大谷翔平」を二刀流として育てた野球監督


そんなお二人の対談を読めば読むほど、僕が半年間あーでもない、こーでもないと悩んで書いた「多職種多機関連携」のキモが、実にシンプルに体験談で語られている。

ストーリーの持つ力は偉大だなと思うと同時に、やはり分野を越えて大事なことは共通するんだなぁ、僕が感じていることは間違ってなかったんだなぁ、と勝手に励まされた気がしたんです。


例えば、

新国立競技場みたいな建物を作るには、設計・工事監理、施工それぞれ大小のチームが混ざり合う何千人規模の「巨大チーム」が力を合わせないといけない。

数多くの有名建築を手がけてきた隈研吾が今回最も心掛けてきたもの。

それは、簡単に言うと『仲よくする』ことだと。


もう少し詳しく紹介すると、

〜設計者、建築家と呼ばれる人は、割合に威張っている人が多くて、そうなると周囲は言いたいことも言ってくれなくなる。だけど、問題があったらきちんと指摘してもらうのはすごく大事なことですよね。普段からそういう空気を作っておけば「こんな問題が起きているから、皆で知恵を出して解決しよう」という話が自ずと生まれてくるんです。

〜逆方向の意見を言いやすい雰囲気を作っておくことが大事だと思うんです。「この人になら、何を言っても怒られないぞ」という空気感ですね。というのも、僕自身が何かを見落としたり、見誤ったりしていることだってあるわけでしょう?それを指摘してもらえる雰囲気を作っておくことが、最終的にはプロジェクトの成功に繋がるわけですから。


このチームワークに関するくだりは、以前のコラムで取り上げたGoogleの研究結果とか、相互性を大切にするチームワークの「インターモデル」「トランスモデル」と言ってる事と驚く事にほぼ同じなんですよね。

参考1)心理的安全性とLSW
http://lswshizuoka.hatenadiary.jp/entry/2018/11/07/080941

参考2)職種による「チームワーク」の認識差
http://lswshizuoka.hatenadiary.jp/entry/2018/11/30/084109


特に「設計者、建築家と呼ばれる人は、割合に威張っている人が多くて」と言うのは、建築の世界もそうなんだと。

これを児童福祉の世界に置き換えると、医者、心理士、ベテラン職員なんかは要注意ですよね。現場で実際に子育てするのは「保護者」や「ケアワーカー」なのに、自分の言っているアセスメントや見立てなんて間違っているかもしれないのに、周囲が何も言えなくなっちゃう雰囲気になってたら、ちょっと危険

僕も気をつけてはいても、知らず知らずそんな雰囲気になっているという時があって、そんな時に自分の至らなさを痛感します。もっと現場で感じている感覚を大事に話を聞かないといけない。過去に自分がされて嫌だった事を無意識に繰り返している。

児童虐待の世代間連鎖もまさにそうだと思うんです。自分では、そのつもりがなくても、体験が持つ影響力の大きさと言いますか、「習慣が大事」なんて何事にも言われますけど、日々の積み重ねによって身体に染み付いたものは、そう簡単に変えられない。

だからこそ、他の人の助けも必要ですし、「日頃の行いが…」なんて言うのもあながち間違っていないよな、なんてアラフォーになってようやく身に染みて思うわけです。そして習慣って行いだけではなくて、思考・発想も含まれますよね。


なので、大人になっても謙虚な心と学ぶ姿勢が必要。とわかってはいるけど、もう忙し過ぎて「時間」も「余裕」もないし、疲れ果てて「気力・体力・エネルギー」が湧いてこないというのが現実ではないでしょうか。

でも、これはまた保護者や子どもが抱えている現実の状態とも言えると思います。ある意味、寄り添おうとするから似たような世界を体験している。それを知りながら支援者として何を考え、何ができるか…


というようなことを読みながら考えていた時に、目に飛び込んで来隈研吾の言葉。


〜野球も建築も「いつまでに」という期限がありますよね。僕は人間にこの期限があるのはとても幸せなことだと思うんです。制限時間の中で結果を出さなくてはいけない以上、どこかで迷いを断ち切る必要もある。ここが建築家とアーティストとの大きな違いです。「限界の中で最善を尽くす」という点では、建築はむしろスポーツに似ているとさえ思います。


期限があるのは幸せなこと。なるほど。

確かに、今回の論文作成も3月末という期限があったから、ラストスパートでギアを上げて形に出来たなと。何回か徹夜に近い日もありましたし。

だけれども、最終的には当初考えていた内容の半分くらいしか実は書けていない。それは、制限時間の中でやる必要があったから、次年度に持ち越すことが許されないものだったから。

でも期限があったから「迷いを断ち切って」「無駄を削ぎ落として」「いい意味で割り切って」完全体ではないけれど、とりあえずの形にして、一区切りつけることが出来たわけです。

100を目指した結果、何も成果が残せなくて0になるのは本末転倒ですし、30でも40でも残して土台を作ることが次にバトンを繫ぐことになります。一人で全てをやることは不可能なので。

この時間で区切る、全てを背負わず人の助けを求める、役割として出来る限界の中で最善をつくすというバランス感覚は、対人援助、特に児童福祉やLSWにおいて非常に重要だと思っています。

理想はありながらも現実との折り合いをつける。
そんな話しを最後に紹介。


建築学科の学生ってどこかマニアっぽいところがあるんですよね。建築オタクなんですよ。建築雑誌を見ることしか楽しみがないような学生もいますが、建築は人間が使うものだから、人間が分かっていないといい建築はつくることができない。

〜建築写真を見て格好いいとか悪いとか言うのは建築学科の学生だけで、ほとんどのユーザーが重んじるのは「この空間にいると気持ちがいい」「癒やされる」という感覚です。

〜偉いボスが「建築は美が大事だ」とばかり言っていたら、スタッフは安全性よりも見かけの美しさを優先することになりかねない。実際そういう組織が多い。…理想を唱えるのも大切だけど、現実はこうだということもしっかりと伝えるのがボスとしての役割だと思っています。


建築マニア、建築オタク。

僕もLSWマニアと呼ばれたことがありますけど、やっぱり専門家って呼ばれる人って、「マニア」「オタク」的な要素は絶対あると思うんですよね。人生の大半の時間をそこに注ぎ込んでいるわけですから。

こだわりだって強い。じゃないと、そんなに一つのことにハマれないと思うんです。癖だって強いし、普通の範囲を超えているから専門家なんだと思うわけです。


ただ隈研吾は、建築は自己満足ではなく、使う人の為なんだから、使う人が「いい」と思うモノを作らないと、ユーザーファーストにならないと「いい建築」にはならないと言っている。

確かに、王様が自分の権力を示すための建築なら自分の理想に向かって妥協なき投資をしたらいい。でも報酬を頂く仕事をするということは、依頼主があって、サービスを受ける人があって、対価を支払う契約があって初めて成り立つものですよね。


〜人間が生活する上で建築はもちろん大事だけど、一方では環境問題もあるし、建築は税金の無駄遣いという批判もある。目の前の仕事にばかり目を奪われず、そのような問題にもしっかりと目を向けて、自分自身を醒めた目で、ちょっと突き放して見てみる。この視点はこれからの建築家には特に必要になってくると思います。


日本の医療や福祉サービスは、その対価の多くは目の前の人から貰うでなく、税金によって支払われるシステムになっていますから、建築の話しはホントそのまま当てはまるよな、と思います。

ということで、特に児童福祉は、偉いボスが「安全第一だ」と言って、家庭分離を躊躇わず、虐待してる親の逮捕も躊躇わず、という強化プランがガンガン打ち出されているわけですが、これってどうなるかなと。

現場が建築オタクにみたいに理想ばかり言ってきる集団であれば、現実を伝えてバランスをとらせる必要がある。

しかし、現場は若手職員で溢れていて、じっくり一つのケースの理想の支援なんて考える暇なんてない程に現実的な対応に追われている。

そうする中で、現実的で効率的な思考がさらに強化されると「理想を考える」プロセスがどんどん省かれていく。

思考を振り子のように、いったん理想まで振って現実に戻すから、ちょうど良い着地点が探せるわけで。最初から現実しか見えてないと「どうせ出来ないから」「やらないアイツが悪い」で検討が終了してしまうことって、割とあると思います。

でも、それって何の専門家が言うことかと。

少なくとも児童福祉の理念は「子どもの健全な成長」ですから、児童福祉の専門家というのは「子どもの成長」を支援するプロフェッショナルなんですよね。

100が見えている人は、たとえ今は30か40の道半ばでも、こうすれば50、60と少しずつ100に近づく道すじや方法を模索できると思うんです。

しかし、もう出来ることは30でおしまいと考えている人に、31の世界は見えてこないんですよね。自分の殻や限界を自分で決めてしまって、実際できるのはせいぜいその半分くらいで。

こういう理想と現実のせめぎ合いのやり取りは、LSWを実施しようとする際に、支援者同士での衝突の原因となることが多いと思います。

でも、相手が子どもだったら、子どもの持っている可能性を最大限に伸ばすなら、どんな関わりどんな声掛けをしますか。「将来のことなんて」「どうせ私なんて…」と思う子どもにどうアプローチするか。

支援者同士も似たような関係性が起こるわけです。なかなか変化の見えない保護者や子どもに対応に疲弊すると、支援者自身が自信を失くし、前向きに考える意欲がなくなってくる。もしかしたら、そうかもしれないという視点を持ったら、支援者は聴く姿勢や掛ける言葉をどうするのがよいか。

人間を分かった上でサービスを提供するって、そういう事なんじゃないかな、隈研吾の建築に対する考え方とさほど変わらないよなと思ったんですよね。

なので人間を知るために、専門家であればある程、他の世界を知る、他の人がどのように感じているかを学ぶ、自分の専門外のことは他人から学ぶ。そういう学び合いや相互理解のプロセスを体験することってとても大事だと思うんです。

良いものができていくのは、建築でもスポーツでも対人援助でも似てるんじゃないかなと。

そういう事を「多職種多機関連携」の研究として僕はまとめたかったんですけど、経験豊富な人のストーリーの方が断然わかりやすし、心に響きますね。やっぱり世に出る人というのは言葉の表現も洗練されているよな、と。


そういう意味では、今回全然紹介できなかったし栗山監督は、自分は選手として一流でもないし、監督の経験もないから、自分より知っている人の意見をたくさん聴きながら自分自身が成長しなくてはいけない、と謙虚な姿勢を持ち続けています。

「僕を監督にするなんて僕ならしない」と言いながら、そのキャスター時代に色んな人の話を聞く経験があったから今があるなんて語りを聞くと、おそらく人から話を引き出す力、安心させる人間性ストーリーをプラスに転換して伝える力、その辺りを見抜いて抜擢した人がいるんですよね。

栗山監督は、チームの結果が出ないときは「私の責任です」と徹底して選手を守る監督だよなと言うのが僕のイメージなんですが、きっと栗山監督も「責任は私が取るから」という方から監督を頼まれたのではないかなと想像します。

日本ハムファイターズは、いまや「あそこでやれば成長できる」と思わせる組織イメージが完全に定着した感がありますが、それは監督自身が監督として成長し続ける、選手の成長を応援するという強い信念を持ち、その姿勢を選手が学びながらチャレンジする、そんな組織になっているのではないかなと。


つまりは、相手も自分も尊重され大切にされて、共に歩み、共に成長する関係性。

子どもを育てるということは、子どもを育てる親も親として、支援者も支援者として共に育つことなんだろうなと僕は思うのですが、真の意味で共有したり定着させるには手間も時間もかかりますね。

ちょっとでも伝え方、共有の仕方が上達するように、これからも他分野を学び、組織を学び、人についてもっともっと広く学ばないといけないなと、対談を読んで改めて思いました。


そんな感じで、令和元年になる今年もボチボチblogアップしていこうと思います。

今年度もよろしくお願いします。


ではでは。



【第102回】原則に基づく「判断」と「技術」

メンバーの皆さま


こんにちは。管理人です。

気がつけば2月も最終日。

先日、仕事で車を走らせていたら、田舎の川沿いに大量のピンク色の樹と「さくらまつり」というノボリを発見。

どうやら「河津桜という早咲きの桜を植えた場所が浜松にもあるようで、平日の夕方にも関わらず、そこそこの人が賑わっていました。

早咲きの桜とは言え「もう春間近だな」という感じがしました。



で、今回取り上げる話題は、またしてもサッカーに…。

サッカー談義は、なぜいつも結果論なのか?

たびたび引用させてもらっている元サッカー日本代表鹿島アントラーズ岩政大樹氏の記事。

上の記事は、2月6日発売「フットボール批評issue23」の一部抜粋だそうですが、やはり、この人の言語化の能力はハンパないですね。

本質的なことを、よくここまで短くシンプルに、かつ的確にわかりやすく言語化できるなと。

ホントに短い記事なので、是非読んでほしいのですが、内容はピッチにおけるサッカー選手のプレーを構成する要素は、原則・判断・技術の3つに分類できる」という話しです。

これ、サッカーだけではなく、臨床場面にとても似てるなぁと思います。「原則・判断・技術」の記事の部分を順番に見ていきます。


1.「原則」
〜プレーを構成する一番深いところにあるのは「原則」です。サッカーで同じ場面は二度とありませんが、実際には「こういう場面では基本的にこうすべき」と定められたいくつかの決まりごとがあります。

〜攻撃の優先順位であれば、“まず前”を目指していくのが「原則」であり、決して横や後ろの選択を先に探してはなりません。

〜この括りの中には、チームの「約束事」や個人の「セオリー」、あるいは局面における「判断基準」なんかも含まれます。ボールを大事にするスタイルなのかどうか。自分なりに「こうなったらこうなるはず」と考えたもの。迷った時に選択するのはリスクか、リスク回避か。様々な要素が各チーム、あるいは選手には設定されています。

●コメント
ここまででも随分、頭の整理が進みました。「二度と同じ場面はない」というのは臨床場面でも本当にそうですし、「ケースバイケース」ってよく耳にする言葉ですけど、それは「判断」の話であって、まずは「原則」の共通理解があった先のことだと思うんですよね。

最近、一緒にペアを組む担当ケースワーカーに、

「この●●という状況の場合、▲▲という対応をするのが一般的と言うかセオリーだとは思うんだけど、このケースの場合はどう思います?」

なんて形で質問をすることが僕自身増えたなぁと、ぼんやり自覚していたんですが、そういうことを伝えようとしていたのかと、この記事を読んで気づかされました。

この場合に気をつけている事は「それって普通(セオリー)なんですか?こう言う風に思ってたんですけど」みたいな、異なる考えを持っていることを伝えてOKな対話的な雰囲気にしておくこと。

「あ、そういう考え方や価値観でこの人は考えてるんだ」という"両方ありだよね"という相互理解を大切にしたい。これ管理人的「多職種連携の原則」です。(この時、私は違う!というツッコミはOKという感じですかね)

というのも、原則と呼ばれる考え方や価値観って、職種や立場、教育課程によって認識が異なる事って結構あると思います。

その違いを扱わず、なんとなくで話が進んでいくと、どんどん"ボタンの掛け違い"が進んで行って、後々気付いた時には「そんなはずじゃなかった」「先に言ってよ」となんて事が起こる事は珍しくないからです。


僕の中での原則って「軸」とか「芯」とか「型」とかいうイメージ。対応の幅や遊びは持たせるけど、真ん中にしっかり持っている基本的なもので基準となるもの。

そのモノサシの共通理解があって、「で、このケースの場合、あえてセオリーを外します?」「その意図や理由は?」という議論が初めて成り立つと思うんです。

でも、その原則の共通理解がないと、「この場合は、あえてセオリーを外す」という判断に繋がらないので、いつまでたっても「一か八か」の"運まかせ"みたいな対応が繰り返されます。

そうなると、いつまでも判断力が磨かれない対応になるので、現場経験をどれだけ積んでも、自信がなかったり、経験年数ほど伸びしろが見られないということが現実起こると思います。

セオリーや基本軸なしの「自由」は、ただの無茶苦茶に過ぎないわけで、セオリーから外れている自覚があるからこそ、一見無秩序と思える対応でも、本当に危なくなったら戻ってこれる感覚を確認しながら、ギリギリの所まで攻めれるわけです。

逆に、セオリーなしに突っ込めるのは、若さゆえいうか命知らずというか、それで大成功することもあるかもしれませんが、プロとして仕事を続ける以上、年間のリーグ戦をしているようなものですから、大怪我してシーズン全体を棒に振るような勝負はしたくないわけです。

しかも相手や同僚も巻き込んだ話になるわけですから、プロとして成功率をなるべく高い選択肢を選ぶ準備や責任があると思いますし、「共に死なない」というリスク回避、時には撤退する勇気も必要だと思います。


ですから。生きていれば(臨床においては誰かがつながっていれば)挽回・リカバリーのチャンスはやってきますので。

そうなると次に大事なのは「判断」になると思いますので、記事の続きを見てみます。


2.判断
〜大元となる「原則」の上に「判断」があります。

〜サッカーの試合は、原則を基にプレーをし続けていれば必ず勝てるわけではありません。原則とは「そうした方が一番成功する確率が高い」と言えるようなものですが、サッカーの場合、そもそも攻撃が成功する確率が低いため、成功する確率が低い選択をした方が勝ってしまうことだって往々にしてあるのです。

〜そこで選手たちにはいつも「判断」が求められます。ここでは「認知」「状況把握」という要素もあえて「判断」に含めて説明しますが、状況把握をして、できるだけその状況に即した的確な判断を下し、そして瞬時に実行に移していかなくてはならないのがサッカーです。ここはサッカー選手にとって終わりがないもの。取り組み続けて高め続けていかなければいけない、プレーする上で最も重要な要素と言っていいでしょう。


●コメント
毎回言いますが、サッカーはつくづく児童福祉、特に児童虐待に関わる分野に近いなと思います。

上にある通り、圧倒的に思い通りにならない確率が高いですし、その混沌としたやり取りの中で、セオリーを超えた偶然的な要素によって思わぬような好転をすることも少なくない。

そういう事が続くと「原則の軽視」みたいなことが起こって「なるようにしかならないから」と目の前の出来事に対処していく感じになりがちだと思うんですけど、それを永遠続けるのは、終わりの見えないマラソンというか精神的にシンドイんですよ。振り回され感がハンパないですし。

そうではなくて、こうなれば、こうなるはずというセオリーがあれば、うまくいっている時に「うまくいっている」という認識ができますし、逆にうまく進んでいない場合にも「なんかズレてる」「ヤバイ」と早めに悪い流れを察知して、大怪我になる前に修正を試みる事が可能になると思うんです。

しかも、それを瞬時に「判断」してアクションを起こすみたいか瞬発力も同時に求められる。判断の正確さもさる事ながら、その判断をスピードを磨くということも非常に大事な要素かなと。

それは、"タイミング"が命だから。どんな言葉もどんな対応も、旬を逃すと効果は激減。相手に同じ事をしたり言ったりするにも、その"タイミング"や"間"がとても重要な要素になるので、チャンスと見るやその瞬間を逃さない瞬発力というのは、どうしたって求められると思います。

そして、これは人に言われてやれるようになると言うより、自分で感覚的に掴んでいくしかないものかもしれません。判断って頭で考えてはすでに遅くて、もはや直観的にしていくものかなと。

さらに、その狙ったタイミングで、狙った通りの表現ができる、それが「判断+技術」。

サッカーで言うならイメージした所にボールを"正確に止める蹴る技術"になると思いますが、臨床だと、それはコミュニケーションになるんですかね。相手の気持ちを受け止めたり、こちらから投げ掛けたり伝えたり。その加減や範囲の調整のスキル。それが記事の最後の部分。


3.技術
〜判断と並ぶように、もう一つ「技術」という要素があります。
 
〜ここには「フィジカル」という要素も含まれます。「原則」を基にプレーをしても、それを可能にする技術やフィジカルがなければ、そのプレーは成立しません。技術を高め、フィジカルを鍛えて、プレーの精度をより高めていくことも当然、サッカーにおける大事な部分です。

〜原則(約束事、セオリー、判断基準)に基づいてプレーする中で、判断(認知、状況把握)と技術(フィジカル)が選手たちにはいつも試されています。原則は頭にありながらも、それを基に実行すべきなのか否か。それを実現する状態に自分がいるのか否か。それを瞬間的に考えて選手はプレーをしています。


●コメント
臨床場面において、上の"フィジカル"という言葉は何に置き換えるとしっくりきますかね。

僕の感覚では、技術というは「言語と非言語」を扱う力、フィジカルは技術を安定的に発揮できる「メンタル、精神力」というイメージです。

どんな素晴らしい技術を持った人でも、慣れない環境、物凄いプレッシャーのかかる状況、後半残り○分の局面といった肉体的に疲弊し、精神的にも余裕のない場面では、いつも通りのパフォーマンスを発揮できない事って分野を問わずあると思います。

逆に言えば、その勝負を決める重要なので場面において、自身の持っている「判断力」や「技術力」を発揮しながら、原則を軸にした柔軟な対応ができるためのトレーニングや準備性が自分の中に、そして組織の中にあるのか。

体力やペース配分もそう。「ここぞ!」と言う場面で、もうひとつギアを上げられる"余力"を残しながら日常の業務をこなしていけるか。決して楽しているわけじゃなくて、余力って「リスクマネジメント」の一つだと僕は思うんですよね。


そんなことを考えると「じゃあ、LSWの原則・判断・技術ってなんだろう」という話になると思うのですが、皆さんはどう思われますか?

僕的には、上の括りでも何となくこうだろうなと思うところはありますが、どちらかと言うともっと大きな括りで、

①対人支援や児童福祉の「原則」があって、
②そのために今LSW的な支援が必要なのかの「判断」があって、
③それを本人の意思を尊重しながら共有し、協働しながら実現する「技術」を持ったスタッフがいるのか。

という感じがしっくりきます。これはミクロマクロの見方の違いなので、どちらが正解ということでもないんでしょうけど。


とか何とか色々考えましたが、最終的には、

「原則を持ちながら、判断し、それを実行する技術力があってプレーの精度が向上していく」

「状況把握をして、できるだけその状況に即した的確な判断を下し、そして瞬時に実行に移していかなくてはならないのがサッカーです。ここはサッカー選手にとって終わりがないもの。取り組み続けて高め続けていかなければいけない」

は本当そうだなと。向上とは終わりがないのも。現状に満足せず、学び続け、取り組み続けないといけないな、と。

年度終わりを告げる桜を見た後、そんなことを思う二月の最終日でした。

三月は、ラストスパート頑張ります。

ではでは。

【第101回】私も「移動する子ども」だった

メンバーの皆さま
 
こんにちは。管理人です。
 
バタバタしてまして、気がつけば1ヶ月近く更新が滞っていました。日が流れるのはホント早いですね…。
 
今回取り上げる本は、実は2019年の始めに紹介することを昨年暮れから決めていた本なのですが、ズルズル今日に至るという具合です(本当は第100回のつもりでしたが…)。
 
そんな、ようやく紹介する本とは『コレ』。
 
 
『私も「移動する子ども」だった――異なる言語の間で育った子どもたちのライフストーリー』

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2010年に出版された本なんですけど、本ブログ開設当初に、ある勉強会メンバーさんから「もし良かったら」と貸して頂きまして。それから、はや一年半が経過…。なんと言ったらよいのやら。
 
最近はその時に書きたいこと書きすぎて、若干何のブログだかって感じになってきちゃいましたが、ブログの趣旨「LSW=ライフストーリーワーク」の原点に戻る意味でも、blog開設当初の初心を思い出す上でも、参考になる本です。
 
(こういう昔や当時のことを思い出す "きっかけ" ってLSWっぽいですね)
 
 
 
まず表紙の写真でお分かりの通りの豪華メンバー。目次をかりて一応、人物紹介すると、
 
●目次
【第一部】
 幼少の頃,日本国外で暮らし,日本に来た「移動する子どもたち」
1 セインカミュ(マルチ・タレント)
「外人」と呼ばれて,外人訛りのない日本語で返そうと思った
2 一青妙(女優・歯科医師 
台湾で中国語を話し,自分は台湾人と思っていた
3 華恵(作家) 
ニューヨークで英語の本を読みふけっていた
4 白倉キッサダー(社会人野球選手) 
長野に着いたとき「タイ語,禁止」と言われた
5 6 響彬斗&響一真(大衆演芸一座) 
ブラジルで日本舞踊,和太鼓,三味線,歌を習っていたさ
 
【第二部】 
幼少の頃から日本で暮らし,複数の言語の中で成長した「移動する子どもたち」
 大阪で生まれ,大人が韓国語交じりの日本語を話すのを不思議に思った
8 フィフィ(タレント) 
名古屋で育ち,アラビア語を話さなくなった
9 長谷川アーリアジャスール(プロサッカー選手) 
埼玉で生まれ,イラン語を「使えないハーフ」と語った
10 NAM(音楽家・ラッパー)
 神戸で生まれ,「ベトナム語は話さんといて」と親に言った
 
終章「移動する子ども」だった大人たちからのメッセージ
 
 
TVや雑誌等で、誰かはご存知な顔ぶれではないでしょうか。
 
皆、子ども時代に「移動」したという共通点を持ちながら、【第1部】は物心ついた時点で外国から日本に来た経験を持つ方々、【第2部】は物心ついた時から日本で生活しているが外国語コミュニティー中で育った経験を持つ方々。
 
人生の途中から全く違う文化・言語圏に移動し適応することの苦悩、また日本で育ち日本しか知らないのに日本人でないという曖昧なアイデンティティー
 
料理研究家コウケンテツさんの「韓国人からは"お前は俺たちとは違う"と言われ、日本人からも"お前は俺たちとは違う"と言われた」という言葉は、生い立ちにおける「移動」の影響の大きさについて改めて考えさせられました。
 
また、コウテンケツさんは「両方の気持ちがわかる事が自分の強み」「物事を客観的に見るという姿勢形成に役立った」ともインタビューの中で、語っていますが、その境地に至るまでにはかなりの葛藤があったはず。
 
中高生年代になれば、自身の葛藤や苦悩を言語化できるようになりますが、幼少期の子どもは母国語であっても体験や感情を上手く言語化できないし、ましてや不慣れな言語ならなおさら。
 
今後、日本で外国人労働者が増えていくでしょうから、確実にこのような体験をする外国籍やハーフの子どもたちが日本で増えてくると思うんですよね。
 
そんな移動する子どもの体験を、専門家視点ではなく、当事者視点でその人の言葉による「ライフストーリー」が読めるのは貴重です。
 
 
というのも、僕自身が働く地域は外国人が多い所なので、これまでに沢山の「◯歳から日本に来た」という外国籍やハーフの子ども、または「中身は日本人」と語る母国語を話せない子どもとたくさん出会ってきたんですよね
 
国は、ブラジル・フィリピン・中国あたりが多いですかね。僕の職場は常駐のポルトガル語通訳さんがいますし、英語、スペイン語タガログ語を話すお客さんと出会うのはもはや日常的。(僕は日本語しか話せませんが…)
 
このような家庭で育つ子どもは、日本で日本語の教育を受けて育つので、当然、日本語が上手くなる(友だちとのやりとりがありますから)。しかし、親は日本語を話せない。すると、子どもは「外では日本語、家の中では母国語」という風になって、親は日本語を話せないけど、子どもがバイリンガルトリリンガルで日本語を通訳をするなんて光景も珍しくありません
 
 
しかし、日本語を話せている=勉強についていけるわけではなくて、この本で指摘されているように学習の遅れは「言葉の不慣れ」によるものだけではなく「文化の違い」による部分もあるんだという視点は目から鱗でした。
 
例えば、国語や社会は「日本文化」を知っている暗黙の前提で物語や話が構成されていて、実は日本人が常識と思い聞き流すところで、外国から来た子どもたちは「?」が浮かび、話についていけなくなるんだ、と。
 
確かに。単語もそうですし、風習なんかもそうです。例えば昨日は「節分」でしたが、何で豆を撒くのか、何で歳の数だけ豆を食べるのか、なんて大半の日本人もよくわかってないですし。
(チコちゃんに"ボーッと生きてんじゃねーよ!"と怒られるやつです)
 
文化って、生まれた時から当たり前にあって、それが「日常」となっていることだと思うんですけど、それは国なんて大きなレベルではなくても、職場、地域、家レベルでもそれぞれの文化差ってありますよね。
 
ただ、タレントのフィフィさんが「外国人が理由でイジメられたことはない」「見た目が明らかに日本人でないと、あの子は外人だから仕方ないよね、と許される部分がある」というのも、なるほどと思わせる言葉で、確かに、明らかに相手と自分が違うことがわかれば、「文化の違い」を受け入れる素地は多分にあるのかもしれません。
 
しかし、そうは言っても、外国人なら英語を話して当たり前に思われるといったステレオタイプ的な思い込み、異なるものに対する「不理解」「勝手なイメージ」「価値観の押し付け」の体験はあったようで。
 
そんなフィフィさんが、『終章「移動する子ども」だった大人たちからのメッセージ』で語っている「結局、親がポジティブにいられるかどうか」という言葉は、「自分は何者?」アイデンティティーが揺さぶられる時期に、如何に身近な家族が支えてくれることが大切なのかを端的に伝えてくれていると思いました。
 
 
このようなことを考えると、異文化を移動する子どもが、さらに社会的養護(里親・施設)への「移動」を重ねると、より一層問題が複雑だし深刻になります。
 
年齢が小さいと母国語をどんどん忘れていくし、日本人と日本人としての生活をしていると、言葉もそう食事もそう母国の文化がどんどん馴染みない「非日常」のものとなっていきます。
 
そうすると、いざ親子交流しようと思っても、時間が経てば経つほど言葉も通じない、文化的な感覚も合わない、それを「親子」と呼んでいいのかという距離を生んでしまう可能性が大いにあると思うんです。
 
さらに、日本語に壁のある外国人の親がつながれる社会資源は本当に限られる。コトバわかりませんから。また、その地域のある外国人コミュニティーは非常に狭い人間関係ですから、言葉が通じる=だいたい知り合いというリスクもありますし、外国人で虐待が絡むと「オフィシャル」な関係機関で支援体制を構築するハードルが格段にあがります。
 
安全第一で家庭から分離した、問題はソノサキ。例えば、宗教上の理由で食事制限があったりする子どもを受けてくれる里親や施設がどれ程見つかるか。
 
また、介入という名の「異文化間移動」を強制された子どもの未来、将来的な自立をどう考えて、どう支援していくのか。そして、その人のアイデンティティー形成をどう支えていけば良いのか。
 
多文化共生が進むと、それに対応していない制度との間に生まれるヒズミってあると思うんですよね。そんな少し先の未来について、その一端をすでに経験している身としては、考えてしまいます。
 
 
最後に、
 
編著者である「川上郁男」教授の研究室にある『書評』を紹介。
 
異文化の移動を経験した方々から、数多くのコメントが寄せられていて、コレを読むだけでもかなり参考になります。
 
そして、そんな書評の中で、
「ライフストーリーは、聴き手との化学反応によって生まれる」
「インタビュアーの聴く技術も必見」
 
というコメントを見つけ、やはりLSWの本質は「語り」であり「対話」であり、支援者に求められる基本は「聴くこと」なんだよな、と改めて思いました。
 
 
以上、散文ですが、初心を思い出させてくれた一冊の紹介でした。
 
 
ではでは。