LSWのちょっとかゆいところに手が届く「まごのてblog」

静岡LSW勉強会の管理人によるコラム集

【第19回】ジンバルド時間志向テスト

メンバーの皆さま

おはようございます。管理人です。

前回コラムの最後の方で、LSWの支援者自身が
「過去ー現在ー未来」「ポジティヴ・ネガティヴ面」
を観る視点や考え方が偏ったり狭まったりしているかも、ということを書かせてもらいました。

今回は、その偏りを測定する方法を一つ紹介します。

それが「ジンバルド時間志向テスト」です。


元ネタは、こちら。

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The Time Paradox: The New Psychology of Time That Will Change Your Life(2008)の訳書。

フィリップ・ジンバルドは「スタンフォード監獄実験」(1971)をした心理学者と言えば、ピンとくる方もいるのではないでしょうか。

この書籍のジャンルはなんと「ビジネス」でして、
自分の時間志向(=時間に対する姿勢、信条、価値観)を捉えることで自分の心理(思考、感覚、行動)が見えてきますよ、という自己啓発本的な分類をされています。

この本で扱われている「ジンバルド時間志向テスト」は56項目5段階評価の質問紙で、Google検索するとトップに出てくる「横浜国立大学服部泰宏ゼミナール」(経営学部)のHPでダウンロードも可能です。


そして、時間志向は6つのタイプに分類されているのですが、ジンバルド時間志向テストの面白い点は「過去ー現在ー未来」のどこを意識しているのか「どこか一つ」ではなく、その「バランス」を見ようとしている点です。

そして、どのタイプが良い悪いでなくバランスが大事であると。

以下に、6つのタイプを簡単に紹介しますがネタバレになりますので、興味あれば、まず質問紙をやって見てから読んで見てください。


◆過去肯定型
過去を実際に起こったことより過去に起こったと思っている。嫌な出来事を経験しても、それを肯定的に思い出せる人は強いバネのような抵抗力があり、楽観的になりやすい。

◆過去否定型
過去の辛い経験や記憶にとらわれた選択をする。実際に嫌な出来事を経験しているかも知れないし、実際にはいい出来事だったのに、頭の中で嫌な出来事にすり替えてしまっていることもある。

◆現在快楽型
刹那的な満足を追いかけて求める。めずらしいものや刺激のあるものを求める傾向が強く、エネルギーに満ちあふれている。

◆現在宿命論型
運命は決められていて、何をしたところで無駄だし変わらないと諦める考え方。宿命論的な傾向が強くなると、若者は攻撃的になり、不安になり、うつ状態に陥りやすい。

◆未来型
将来の大きな見返りのためなら、現在の満足を先延ばしにして、我慢や努力ができる。

◆超越未来型
来世の幸福のために、現世の衝動を抑えることができる。


補足すると、現在志向はネガティヴ面だけでなく、今の作業に集中して没頭したり、運動にエネルギッシュに取り組んだりする良さもあります。

一方、未来型はポジティヴ面だけでなく、未来型が高すぎると、例えば健康や将来のためと言いながら、現在の生活や楽しみを過度に犠牲にするような節約節制に走る側面もあるわけです。

やはり、どのタイプが良い悪いではなく大切なのはバランスです。そして、その価値観のバランスは人生観なので、当然、支援者の支援に対する考え方にも影響してきます。

なので、お仕事として専門家として不特定多数の人の人生に関わるなら、自分の価値観や傾向を見つめて受け入れて、「自分がしたいこと」だけに流されず、「相手の最善の利益」に貢献できる関わりができるよう、自律・自己コントロールすることが必要と思うのです。

ちなみに、2年前くらいに僕がやった時には「過去肯定」「未来」が3.5~3.7、他は2.8~3.1位でした。僕は良く言えば冷静、見方を変えれば一歩引いたところがあるので、子どもと関わる際には、意識して今を楽しむ「現在快楽」的になるようにしています。


また、日本で「ジンバルド時間志向テスト」を使った報告では、愛知県がんセンターの小森康永氏が、乳がん患者への緩和ケア前後の時間志向を測定したものがあります。

結果は、緩和ケア前には「過去否定」が強めだった方が、緩和ケア後には「過去肯定↑」「未来↑」「過去否定↓」となり、不安・抑うつの尺度とも相関が見られた、とのことです。
(※『バイオサイコソーシャルアプローチ:生物・心理社会的医療とは何か?』(2014)より。この本は、別の機会にじっくり紹介しますね。)


この報告はとても興味深く、おそらくLSWを実施した子どもの中でも、時間志向の変化が起こっているだろうな、とイメージしています。

ただし、これは乳がん患者(58歳女性)の一例に過ぎず、LSWを始める前の子どもの時間志向バランスの組み合わせのタイプは、年齢性別、性格や生い立ちによって本当に様々で、必要な支援や健康的なバランスもまた違うだろうなと思います。

例えば、現在志向が高くないバランスの取れた子どもって「子どもらしいの?」とも思いますし、
未来志向はマシュマロ実験(数分後に2個のために、目の前の1つを食べずに我慢できるか)でもあるように「自制心」「衝動性」や発達的な要素も絡んでくると思うので。

加えて、ジンバルド時間志向テストは「アメリカ、フランス、スペイン、ブラジル、イタリア、ロシア、リトアニア南アフリカなどの国で広範に活用され、その有効性が実証された」とは書いてありますが、日本の児童にも有効かは不明です。内容的にもこのまま児童に使うのはどうかなと思いますし、日本人の平均値サンプルもありません。

なので、このデザインそのままでLSWの効果測定というわけにはいきませんが、支援者の自己理解や子どもの状態理解や考え方の切り口としては「ジンバルド時間志向テスト」は面白いなと思います。


脱線はここまでにして、次回コラムはさすがに
「あいまいな喪失」に戻ります。

ではでは。

【第18回】「cure」と「care」の違い

メンバーの皆さま


おはようございます。管理人です。

今回は僕の中で引っかかっていたことについて。

「治療」と「ケア」

この言葉は、書籍や会話でサラッと使われますが、これがクセ者で、同じ言葉を使っていてもお互いの頭の中のイメージがズレてることって結構あるなぁ、と感じます。

そこで、今後のコラム内容、書籍の紹介内容でそのようなズレをなるべく防ぐために、今回は、

「治療(=キュア)」と「ケア」の違い

について考えてみます。


「キュア(治療)」と「ケア」の違いは、癌などの終末期医療の分野で、時々話題になるようです。

まずは、成り立ちと辞書的な整理ですが、どちらも語源はラテン語の【curare】「治療する、世話をする」だそう。そこから、

→キュア【cure】「治療、治癒、治す」

→ケア【care】「注意する、世話をする、手当て」

と派生したみたいです。

例えば、癌治療で、癌細胞をなくす医学的処置が「キュア」、完治はしなくとも痛みや悩みを軽減して生活の質を高める取り組みが「ケア」。緩和ケアと言えば「キュア」との違いがイメージしやすいかもしれません。

ケアがたくさんでcareful=「注意深い、慎重に」と考えると、ケアは気遣い心遣いの「お世話・手当て」なんだと腑に落ちます。

僕の理解だと、

【cure】問題を解消したり、病気の原因を除去したり局部に直接アプローチして「治す」

【care】もっと心身や生活全体を俯瞰的に見て、QOL生活の質)を高めための「お世話」

というイメージです。


ここで少し体験談を。実はここ2年程、僕は鍼灸(針お灸)の「お世話」になっています。

きっかけは、久しぶりのバスケの試合後に右足の腰の辺りに突くような痛みが出まして。腰痛持ちでしたが1ヶ月も痛みがあるなんておかしいなと思っていたら足がシビれてきまして。これはヤバいとMRI撮ったら見事な「椎間板ヘルニアだったんです。

下の図を参照ください。椎間板とは、骨と骨の間のクッションみたいなやつで、それが神経を圧迫すると痛みやシビれになるんです。

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僕の腰画像も椎間板がブチューと出てまして、医者から「手術する程じゃないけど、痛みが増してきたらブロック注射(麻酔、痛み止め)しますか」と言われ、渡されたのは痛み止めの飲み薬。

困りました。すでに腰痛で目が醒める毎日だけど、手術後の生活やリハビリの大変さを考えたら手術も嫌だし、痛み止め飲んだって一時の気休めだとわかっているけど、一生こんな生活はゴメンです。

そこから色んな試行錯誤をしまして、最終的に辿り着いたのが「鍼灸」でした。どうやら針を打つことで、細胞を活性化させて自己治癒力を高めるそうなんです。

すると、2~3ヶ月で足の痺れは無くなり、1年後にはなんと腰痛は消失。ターニングポイントは、途中で「肩や背中の張りが、腰に負担を掛けている」と肩背中の鍼灸も同時に始めたこと。この時期から腰の痛みは劇的に改善し、今では腰には一切さわらず、肩背中だけの施術を継続しています。

これが良い例えかわかりませんが、直接的に原因患部や問題を取り除く【cure】的なアプローチだけが、有効かつ現実的な方法とは限らないわけです。

ちなみに肩背中の張りの原因は、おそらく仕事のストレスや電車通勤だと思っていますが、これは今の仕事をする以上、ある程度は仕方がないと思っています。なので【care】しながら長期的にうまく共存・お付き合いしていく道を選んだわけです。

福祉の現場にいると、成育歴上の問題が複雑に絡みすぎて、もはや原因の根が深過ぎて直接アプローチしようがなかったり、そもそも何が原因なのかスッキリ特定できないことの方が多い気がします。


そこで、もう1つ言葉を紹介。

「治療」「癒す」と訳される言葉に【heal】があります。語源ギリシャ語の【holos】「完全な姿(本来のあるべき姿に戻る)」だそうで、healに状態を表すthを付けて【health】「健康」になる、と。 

【healing】「ヒーリング」と聞くとスピリチュアル的なちょっと怪しいなぁと思う方もいるかもしれませんが、西欧的に言えば、競争社会で交感神経(興奮覚醒)過多になりやすい現代人の「副交感神経を優位にする」癒し系音楽とか、東洋的に言えば「気の流れが良くなる」ツボとか、一つに繋がっている心身のバランスや流れの「偏り」や「滞り」を整えて、心身が本来の持っている健康的な状態に「調整」するのが、僕の【heal】イメージです。

僕の「椎間板ヘルニア」へのアプローチもそうですし、例えば家族面接も、悪い人を見つけて正したり治すんじゃなくて、家族システムの対話交流の上手く流れていない滞ってる所をほぐす【heal】のイメージが、僕はやっててしっくり来るというか、性に合ってるんですよね。

もちろん手っ取り早く問題を【cure】する考え方もあるし、状況によっては必要です。例えば骨折してるとか。ただ治療後にリハビリできる環境の準備や、そもそも悪くなった習慣の見直しがなければ、再発したり別の所が悪くなったり、全体のバランスが崩れてかえって生活トータルは悪化する場合もありますよね。


LSWでいうと、

僕はLSWを、頭の中での「過去ー現在ー未来」の行き来のバランスや流れをスムーズにする【heal】的なイメージで考えています。

スムーズでない状態とは、全ての道が遮断されているばかりではなくて、通じる道はあるけど、どこかにこだわって動けなくなっていたり、全く行く気や見る気がなかったり、どこか一部に偏ったり流れが滞っていたりする場合もあるかな、と。

例えば、未完の感情が残っているから過去にとらわれる、トラウマの再体験の苦痛があるから想起を避ける、予期不安が高すぎるから未来のことは考えない、想起想像の情報材料がないから過去・未来にアクセスしようがない、とか。

その詰まり方や滞り方によって、どこを【care】「お世話・手当て」するのか、どこか【cure】「治療」する必要があるのか、はたまたバランスを整える【heal】なのか、その状態によって様々な戦略やアプローチがあるだろう、と。

しかし時々お話を聞いていると「LSWをやるからには過酷な過去のトラウマを扱って【cure】しなければならない」とか「振り返る生い立ちは、幸せなものでなければならない」とか、人生のネガティヴ・ポジティヴ面だけに焦点化した極端に振り切った思考に陥っていないかな、と感じるがあります。

仮に癌を取り除く手術(キュア)が出来なくても、その人の人生は続くのであって、これからの人生の質(QOLを高めるために出来る「ケア」は他にもたくさんあることは説明不要ですよね。


『三人寄れば文殊の知恵』

という「ことわざ」がありますが、1人で考えられることは高々知れているので、なるべく頭は柔らかく、色んな人の視点を柔軟に取り入れながら、常に一歩でも半歩でも良い支援を考えて行きたいですね。

長くなりました。

ではでは。 


【第17回】 あいまいな喪失とトラウマからの回復⑤

メンバーの皆さま

おはようございます。管理人です。


前回コラムを見て、海外留学生の受け入れを長年されている方から、これまで遭遇してきた状況を話題に取り上げる人が出てきて本当に嬉しい、というコメントをいただきました。


思いがけず、コラムblogで発信することが誰のためになっている実感をいただけて、とても励まされました。


ありがたいですね。


では、昨日の続きのコラムです。

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●目次
はじめにー喪失とあいまいさ

第I部   あいまいな喪失の理論の構築
第1章  心の家族
第2章  トラウマとストレス
第3章  レジリエンスと健康

第II部   あいまいな喪失の治療・援助の目標
第4章  意味を見つける
第5章  支配感を調整する
第6章  アイデンティティーの再構築
第7章  両価的な感情を正常なものと見なす
第8章  新しい愛着の形を見つける
第9章  希望を見出す

エピローグーセラピスト自身について


●内容
今回は、前回に続いて第1章の後半です。

【支配感・コントロール感】
~自然を支配することや、自分の人生を思い通りにすることに価値を置く文化のなかでは、ある人がいるのかいないのか決して知りようもない状態は、ひときわ高いストレスを引き起こし、トラウマ化しやすいもです。

~つまり、人生に対するコントロールと支配感と環境に対する優位性に価値を置けば置くほど、人々は喪失が明確でなく終結も見られない状態に対してますます苦悩することになってしまいます。

~セラピーの目標として喪失の終結を挙げることは、人間の環境に対する優位性と人生への支配感とコントロール感を目標とすることになります。それは、喪失とあいまいさによる痛みを閉じ込めてしまう必要があることを意味します。

~専門家は、この世の全ての人が、自分の運命を支配できるわけでない、ということを認識するべきなのです。

~実際、私たち西欧文化以外の文化に属する多くの人は、喪失に終結があるという考え方を拒絶しています。

~様々な文化の人々を援助してきた経験から、ごく限られた特権階級の、人生を支配したいと望む人たちだけが、喪失と悲嘆を終結せることに価値を見出してる、と思うようになってきました。


●コメント
この前の日曜日に「インフェルノ」(2016)という映画を観たんです。有名な『ダヴィンチ・コード』シリーズの第3弾(原作:ダン・ブラウン)です。そこでも似たようなことがテーマになっていたので少し紹介。

トーリーの大枠は、天才的カリスマが人口爆発による人類絶滅を防ぐために、人口半分を淘汰するウィルス拡散を企てる、というもの。

正直「ダヴィンチ・コード」「天使と悪魔」のシリーズ作品と比べて宗教感が薄いというか、よくあるテロ映画みたいになっちゃったな、という感想でした。

本書を読み直すまでは。

映画「インフェルノ」で全面に押し出されていた
カリスマによる人類の「支配感・コントロール感」。

確かに思い起こせば「ダヴィンチ・コード」「天使と悪魔」でも秘密結社による支配感はテーマになっていたな、と。

もしかするとダン・ブラウンはシリーズ作品を通して、本書と同様に、特権階級による支配感・コントロール感という西欧文化に根付く価値観への警鐘を訴えたかったのではないか、と思うようになりました。

そして、著者クーリン・ボスは本書を通じて、自分の思考や価値観が絶対的なものでなく、いかに文化的・環境的・教育的影響を受けているのかをよく見つめなさい、と言っているような気がします。


では、「日本文化」はどうでしょうか?

よく日本人は海外で日本の素晴らしさを説明できない、自国のことを知らない、なんて言われます。

確かに、日常生活で日本人であることを意識することはあまりないです。


じゃあ「県民性」についてはどうでしょう?

僕は「秘密のケンミンSHOW」「笑ってコラえて」「月曜から夜ふかし」とか県民性を扱うバラエティ番組が結構好きなのですが、オモシロおかしく編集しているとはいえ、郷土愛の強さというか、その地域住民にしか理解できない文化的アイデンティティってあるなぁ、と。

僕自身、新潟県出身の静岡県在住12年目でして、だいぶ慣れましたが、未だに言葉や食事の文化差に違和感や新鮮さを感じることがあります。同じ県内でも地域による文化差を感じますし、県外にいると新潟県の事も客観的に見えることもあるな、と思います。

つまり、違うことに触れることで、自分への新たな気づきが生まれるって事ってあるんじゃないかと。海外に行くと、自分が日本人であることを自覚するというみたいに。

LSW的なことで言うと、転居や離婚再婚による喪失という視点はもちろん大事ですが、その人がどこの地域文化に影響されて価値観を形成したのかって、その人の人生やアイデンティティを理解する上で非常に意味があることだと思うんです。

言葉とか食事の味付けとか。「故郷」とか「ホーム」って、理屈抜きに心がホッと出来る場所だと思います。かつていたという歴史事実だけじゃなくて、大事なのは、そういう感覚的な安心感だと思うんです。

同じ日本人だからって、価値観が同じなんて幻想です。だいの大人2人が結婚しただけで、味噌汁の味付けがどうだこうだ言ってるわけですから。

人口が一億人超えている国って、世界で現在12ヶ国だけだそうです。豊臣の時代まで日本も違う国の集まりだったわけですし、日本国内だけでも地域の文化差はあるだろうと。例えば、家族観、男性女性観、喪失に対する考え方、お祭りの違いとか。

異文化を受け入れるって、行き過ぎると我慢や被支配につながりますが、上手に使えば、お互いの良さに気づくきっかけになったり、掛け算的な相乗効果を生む可能性にもなると思います。

たぶん、受け入れる受け入れない、どちらかに合わせる合わせない、0か100かじゃなくて「異文化交流」。お互い違う事を認めながら、その中でも共通する点や交われる点を見つけていく「対話」。

前回コラムのように、人種や国が違えば、ある意味「違う」と言う前提がハッキリしているし、違いを理解したり発想の転換をしやすいのかもしれません。

でも、同じ国民であったって「育ってきた環境が違うからぁ~、好き嫌いは否めないぃ~」というセロリ的な前提があってもいいんじゃないでしょうか。

異文化交流の姿勢で話を聞くと、常に新たな発見や気づきがあるし、この面白みが僕自身の臨床や勉強会へのエネルギーやモチベーションの1つになっているなぁ、とコラム書きながら思いました。

ではでは。

【第16回】あいまいな喪失とトラウマからの回復④

メンバーの皆さま


おはようございます。管理人です。

先日、三重の山本さんにLSWの全国メーリングリストで当コラム集「まごのてblog」

を紹介していただいた所、24時間で100アクセスを突破していました。

自分でblogにしておいて何なんですが、たくさんの知らない人に見られると思うと、コラムの言い回しや文面に多少迷ってる自分がいることに気づきまして。

思ってる以上に、自分は気にしいでビビリだなぁと再確認しました(笑)

なので、もしかすると今までより多少文章が固めになってるかもしれませんが、すぐに戻ると思いますので、気にせずにお願いします。

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●目次
はじめにー喪失とあいまいさ

第I部   あいまいな喪失の理論の構築
第1章  心の家族
第2章  トラウマとストレス
第3章  レジリエンスと健康

第II部   あいまいな喪失の治療・援助の目標
第4章  意味を見つける
第5章  支配感を調整する
第6章  アイデンティティーの再構築
第7章  両価的な感情を正常なものと見なす
第8章  新しい愛着の形を見つける
第9章  希望を見出す

エピローグーセラピスト自身について


●内容
第1章からトピックを2つ取り上げます。それは、「心の家族」「支配感・コントロール感」について。

【心の家族】(一部抜粋)
~人間の心のなかに本質的に存在しているもの。

~セラピーの観点から見て、その人が誰を家族と見なしているかは重要です。

~つまり誰を援助している時でも、家族をどのように定義し、家族構成には誰がいて誰がいないのか、セラピストとして私たちは、柔軟に見ていく必要があります。

「あなたにとって家族とは誰ですか」
「そのなかに入っていないのは誰ですか」
「あなたにとっての故郷はどこですか」

~このような質問に対して返ってくる答えにはよく驚かされます。

~多くの場合、セラピストは関係性の物理的な構造を見るように訓練されており、自分たちがきちんと仕事をしていれば、クライエントは喪失体験を克服し、ある程度すぐに、目の前にいる誰かに愛着を持つようになると考えています。世の中には、健康的な人間は、喪失に終結を見出すという神話が存在しています。

~大切な人が、肉体的にも情緒的にもいなくなってしまった時、終結を探し求めるより、あいまいさに耐えれられるような臨床的アプローチが重要です。


●コメント
これを読んだ時、心にグサッと突き刺さるものがありました。家族状況を尋ねる時、
「お家には誰がいるの?」と「家族は誰がいるの?」の使い分けの意識ってなんとなくだったなぁ、と。  

児相にいると、虐待防止法もあるし住基システムもあるし戸籍も取れるし、当人に直接聞く前に、家族構成や転居歴、離婚再婚歴などの客観的な基本情報は事前に知れちゃうんですよ。ホント至れり尽くせりです。

なので「実は事実は知ってるんけど、認識や想いはどうなのよ?」という状態から面接スタートできちゃうんです。

だけど、民間の相談機関なら、情報は来所した人が語ってくれた事のみです。すると、得られる情報の幅や精度は、語り手のインプット(認知)とアウトプット(言語化)の傾向、そして聞き手の面接技術に左右される具合が非常に大きくなると思います。

そうなったら当然、面接者の聞き方や言葉選びの感度は鋭くなりますよね。この感覚を忘れてたんだな、と。システムというぬるま湯に浸かって、その恩恵を当たり前に感じていた自分を反省しました。

あと話題をトピックに戻すと、体験的には、なるほど家族の中に「ペット」を入れる子どもって時々いるなぁ、と。これも「心の家族」なんですよね、きっと。

日本では「家族は一緒に暮らすもの」という価値観が一般的に強い気がしますが、家族や故郷の定義は人それぞれである、ということですよね。

僕が仕事をしている浜松市は外国人(ブラジル・フィリピン・中国・ペルー等)が多くて、保護者と話していると本当に国それぞれで基本的な家族観や養育観って違うなぁ、と感じることがあります。

そして、最近はハーフのタレントやスポーツ選手の活躍が注目されますが、見た目バリバリの外国人でも、浜松生まれ浜松育ち中身浜松人って子どもが割と普通に学校にいます。あえて言うなら母国語は遠州弁です。

すると、相談に来る家庭の子どもは、保護者の母国的価値観と、友だちやTVネットから影響受ける日本的価値観の間で板挟みにあったり衝突して苦しんでいるケースが多々あるな、と思います。

そして、施設入所して親と離れて過ごす期間が長くなるほど、その文化のギャップはどんどん広がっていきます。そういう子どもが、将来どう自立し、どう家族と折り合いをつけ、何を拠り所にどのコミュニティで生きていくことが幸せなのか、本当に答えが出ません。

もちろん日本人同士でも結婚や再婚で文化の衝突は少なからず起こると思いますが、異国文化の相違や衝突を目の当たりにする体験は、自分が当たり前と思ってる常識や価値観を「日本文化」と言う枠組みで客観的に見直したり、疑問に思う機会になっているなぁ、と思います。

児童福祉では「家族再統合」なんて言葉がよく話題にあがりますが、『そもそも家族って何?』という根本的な問いを冒頭の章で突きつけられた気がしました。


長くなったので、一旦終わりにして、
「支配感・コントロール感」はまた次回に。

ではでは。


【第15回】ヴァガボンドとカルチャーダイブ

メンバーの皆さま


こんにちは。管理人です。

3連休いかがお過ごしでしょうか。

僕は家でダラダラ過ごしていたところ、ふと目にしたマンション情報誌に面白いキーワードを見つけましたので、今回はここから。

ヴァガボンド】(放浪する者)
まず思いつくのが、スラムダンクで有名な井上雄彦氏が宮本武蔵を描いた作品「バガボンド」。今まで意味を知らずに読んでましたが、こういう意味だったんですね。

で本題は、自らを「ヴァガボンド」と称するテンギョウ・クラ氏のインタビュー記事から。 http://vagabond.link/archive


〈テンギョウ・クラ〉
教師・コミュニケーター・ストーリーテラー

ヴァガボンド(放浪する者)を自身のライフスタイルとして、教師の活動をベースに国や地域を問わず移動と滞在をくり返しフォト・ストーリーを制作している。滞在した地域の人々のと交流を通じて在住者(ネイティヴ)と来訪者(アウトサイダー)の関係性に揺らぎを生み出し、そこに多用なコミュニケーションの可能性を見出す。

◆インタビューの一部
〜自分の知らない場所で知らない人たちと出会いを重ねると、自分の想像力がどんどん広がっていく。想像力が拡がると、自分の人生の可能性が広がっていく。そうすれば「自分の人生が豊かになって楽しいだろうな」という思いが沸き立ったんです。

〜しかし人は誰しも「自分が育ってきた文化を守りたい」という本能があると思うんですね。文化というのは、日々の習慣と傾向ですから。でも、僕は、いつまでもそれに引きずられたくないんですよ。できるかぎりそれを破壊し、再構築していきたい。

〜もちろん不快で不安な作業になりますが「自分の文化を一度無にして、1から作り直す」ことを続けたい。僕には日々自分を変えていくことがいちばん興味のあることですし、楽しいですからね。僕はそれを『カルチャーダイブ』と呼んでいます。


◆コメント
社会的養護で施設を転々としている子って、まさに望まない「ヴァガボンド」だな、と。そして、在宅の子でもヴァガボンドはたくさんいて、転居や親の再婚やパートナーが変わるたびに、望まない「カルチャーダイブ」をくり返しているよなぁ、と。

しかし、クラ氏が語るように、新しい出会いは逆に自分の可能性を広げるチャンスでもあるわけです。

例えば、地域や職種が違う人たちが集まる静岡LSW勉強会は、「交流を通じて在住者(ネイティヴ)と来訪者(アウトサイダーの関係性に揺らぎを生み出し、そこに多用なコミュニケーションの可能性を見出す」の感覚に近いのかな、と。

また、子どもにとっては、仮にきっかけは悲惨な状況だったとしても、我々支援者との出会いが、人生の可能性を広げるチャンスになるかも知れないわけです。

そして、相手に変化を求めるということは「自分の文化を一度無にして、1から作り直す」ことを求めることだと思います。

もし、子どもたちや保護者にそれを求めるなら、まずそれを言う支援者自身が、自らの価値観や文化を「一度無にして、1から作り直す」ことを恐れてはいけないし、自身が変化し成長する努力を続けなければその言葉に説得力はないだろうな、と思いました。


それにしても、いちばん驚いたのが、テンギョウ・クラ氏が1972年生まれということ。とても45歳には見えません。進化や変化を求める探究心・向上心を持つ人は、外見も内面も若いということですかね。

ではでは。

【第14回】あいまいな喪失とトラウマからの回復③

メンバーの皆さま

こんばんわ。管理人です。

流れで、1日に2つ目は張り切りすぎかもしれませんが、コラムの続きです

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●目次
はじめにー喪失とあいまいさ

第I部   あいまいな喪失の理論の構築
第1章  心の家族
第2章  トラウマとストレス
第3章  レジリエンスと健康

第II部   あいまいな喪失の治療・援助の目標
第4章  意味を見つける
第5章  支配感を調整する
第6章  アイデンティティーの再構築
第7章  両価的な感情を正常なものと見なす
第8章  新しい愛着の形を見つける
第9章  希望を見出す

エピローグーセラピスト自身について


●内容&コメント
今回も「はじめにー喪失とあいまいさ」から。

以下は、著者であるポーリン・ボスが開く、支援者トレーニングのワークショップで取り上げるテーマです。

・心の家族
・あいまいな喪失とは何か、それは通常の喪失とどのように違うのか。
・あいまいな喪失の二つのタイプとは何か、それらの二つのタイプが重なり合うことがあるのか?
・それが問題であるのか、またいつ問題になりうるのかが、どのように分かるのか?
・あいまいな喪失の原因や影響はPTSDとどのように違うのか?
・文化的な価値観や信念は、人々はあいまいな喪失に対処するうえでどのような影響を与えるのか?信仰や社会階層、人種、性別による違いはあるのか?
・あいまいな喪失に対するレジリエンスを強化するためには、意味を見つけ、人生の支配感を調整し、アイデンティティーを再構築し、両価的な感情を正常と見なし、新しい愛着の形を見つけ、希望を見出すことが重要だが、どのようなことが目標や指針となるのか?
・セラピスト自身について。

非常に興味深いテーマばかりですよね。「あいまいな喪失の2つのタイプ」については前々回コラムで取り上げた通りです。今回コラムの後半では「文化的な価値観や信念」について触れます。

そして、当然、参加者のニーズに合わせて上記のテーマは調整されるようですが、ワークショップを終了した段階で、二つの効果が現れることを著者ばかり期待しているそうです。

①参加者があいまいな喪失を認識し、その影響を理解し、未解決の悲嘆の症状を呈しているそれぞれのクライエントに介入や治療を行えるようになること
②参加者が自分自身のあいまいな喪失のその影響と意味を理解すること

そして、以下のように続きます。

~逆説的ではありますが、あいまいな喪失を研究する専門家にとって、第二の効果は、たいてい第一の効果より重要です。この2つは、個人的な体験が概念的に体験され、また治療的に体験されるなかで、並行して進展していきます。あいまいな喪失に関しては、専門家としての効果は、専門家個人の成長と切り離すことはできません。

この説明は、勉強会のコンセプトである「報告から連想されるオープンな体験の語り合い、内的な気づき、自己成長と共進化」の内容そのもので、勇気付けられると同時に驚きました。

勉強会コンセプトは、経営の神様「松下幸之助」や京セラ創始者稲盛和夫」の言葉からヒントを得て作ったのですが、「経営」と「家族療法、コミュニティ」と分野は違えど「人間集団」を大切にする立場の人間が本質を突き詰めると似たような考えに行き着くんだというのが、面白いなと。


そして、後半は著者が述べる「文化的な価値観や信念」についての指摘を2つ紹介。

1つ目は、専門家としての価値観。

~あいまいな喪失のモデルの概念的な基盤は、家族のストレス論にあります。

~文脈とレジリエンスを重視したストレスの視点は、医療的なモデルについて訓練を受けているけれども、それが有効でない答えのない疑問に直面している臨床家に新たな視点を与えてくれます。

~それぞれの分野や、それまで受けてきた専門的なトレーニングにかかわらず、セラピストはより広い治療援助の視点を持つことが必要です。

~災害やトラウマとときには、愛する人の行方が分からなくなっている個人や夫婦、家族、コミュニティの治療・援助の指針として、PTSDや古典的な悲嘆治療(個人向けの治療モデル)とは異なるモデルが必要になります。


2つ目は、人が喪失を明らかにしようと必死になる理由について。

①文化的なこと
米国の文化では、高く評価され期待される目標とは、直すこと(fix)、治すこと(cure)、勝利すること、解決することです。喪失とともに生きることは勧められません。むしろ、人はそこから早く回復しなくてはならないのです。~私たちは皆、明らかでない喪失に対する一般の人々や専門家の我慢のなさを打ち砕くために、もっとコミュニティとして、努力していく必要があります。

②認知や合理性
埋葬するべき遺体がないために、人びとは身体的、心理的早実両方に混乱を感じるのです。なじみのない状況のために認知が阻止されています。家族は、その状況に対処し、悼むことをはじめられません。決断もできないのです。人は、世界は公正であり、理解しうるもので、管理することができるという前提を持っていますが、それは愛する人の状況が恐ろしく不可思議な状態になってしまったことで打ち砕かれてしまいます。

③死の明確な証拠がなければ、家族を支える儀式が何も存在しないから。

④失われた人との愛着
西洋の心理療法家にとって、悲嘆にくれる最終的な目標は脱愛着でした。フロイトとボウルビィによれば、脱愛着は、生きている人と新しい関係を形作るために、故人との間に持っていた情緒的な絆を手放すことを意味しています。
確かに、親密な関係性の終わりを証明する遺体がないことは、人々が新しい関係に進むことを困難にします。行方不明になっている人が、愛おしい人なのか、単なる顔見知りなのかということは、喪失を知り、その人がいない人生を生きることでその絆から解き放たれる時まで、どれほどその人を思い続けるのかということを決定しているかもしれません。
でも、このことは、彼らを忘れるということを意味しているのではありません。


僕は上記を読んだ感想として、完全な推測ですが、著者が感じているアメリカの専門家や一般人の極端な偏りに警鐘を鳴らしたいのではないか、と思いました。

特に、PTSDなどの医療モデルへのディスりみたいな表現が何度もあって、何か個人的に恨みでもあるの?と思うくらいです(苦笑)

でも、たぶんそこまで過激に書かないと届かないくらい、アメリカではエビデンスで証明できないもの、はっきりしないものや合理的でないものに価値が置かれにくい、ということなのかもしれません

はたまた今の日本はどうでしょうか?

世間一般や現実生活では「空気感」という極めてあいまいな東洋的なものに価値を置きながら、特に臨床現場では「医療モデル」「エビデンスがある」西洋モデルこそが専門的で価値が高いと思われている雰囲気を感じているのは、僕だけでしょうか?

西洋文化が、東洋古来の「禅」的な考え方の価値をようやく見出して「マインドフルネス」と名前を変えて取り入れているにも関わらずです。

もともと日本が大事にしている「東洋モデル」も大事にながら、「西洋モデル」も取り入れる、という感覚ならいいんですけど。

海外のプログラムが翻訳されて紹介される度に、そこも分かって紹介しているのか、「欧米は進んでて、日本は遅れているから丸パクリ」みたいな考え方なのか、常に僕は注目して聞いています。

これまで製造業でも食文化でも、日本は海外のものを取り入れては、より良いものに進化させてきた歴史、長所がありますよね。

それが臨床や福祉分野に限ってできない、なんてことは絶対にないと思うんです。

そして、LSWは定義が広いというか、器の中身の自由度が非常に高いことを考えると、「ラーメン」に近い発展の可能性があるのではと思っています。

器は一緒でも「博多とんこつ」「札幌味噌」「横浜家系」とか、ご当地で特徴が異なるような。

僕の個人的感覚では、すでに大阪や三重は、ご当地LSWが形になりつつある感じがします。

だけど、その味付けは決して唯一の正解ではなく、あくまで1つのアプローチであって、美味いラーメンの種類やブレンドは多種多様にあって、個人や地域や時代に合わせて研究されて進化していっていいものだと思うんです。

その意味では、勉強会やコラムを題材に、よりよいLSWの形やアイデアを、今後メンバーの皆さんと一緒に考えながら試行錯誤することを楽しんでいけたらな、と思っています。


ではでは、皆さま、よい週末よい連休を。

【第13回】日本文化と即興性、育成論

メンバーの皆さま


おはようございます。管理人です。

今回もコラム番外編です。

実は次回コラムで触れる予定の内容が、著者のお国柄(アメリカ)文化的背景に関わる話しです。

なので、その前に我々の「日本文化」について考えるいいニュースを見つけましたので、今回はそこから。


Jリーグからのベルギー派遣コーチに聞く
『欧州の育成は何が違うのか』
『日本人が10代後半で伸びなくなる理由』

ベルギー。人口約1100万人ながら、2016年にはFIFAランキング1位になるなど、近年サッカーの若手育成に定評のあるヨーロッパの国です。ちなみに僕の好きなビールも有名なところです。

そこに派遣されたコーチが語る前半は、日本とベルギーの文化の違い。面白いのが、14歳年代において、20にいたら、日本なら斜に構えていうこと聞かないのが3〜4人だけど、ベルギーでは言うこと聞くのが3〜4人だと。

そして、ベルギーでは『この技術でコントロールしたら、こっちに走れ、なぜならここから斜めにボールが受けれるだろう』という判断を奪うような練習も多く、細かいセオリーを徹底的に叩き込むらしいんです。

でも、ベルギーの子ども達は、徹底的に叩き込んでも、自分のやりたいことを積極的にやるんだ、と。

すると、しっかりと理論が整理されているし、子ども達も年齢が低いからどんどん吸収していく。そして、年齢が上がっていくにつれて、それを使ってどうプレーしていくか考えるようになっていく、と。

一方、日本だと、自分でチャレンジして気づいていくのが望ましくて、基本技術もこういうのが大事だよ、だからやろうというスタンスであると。

「理論」と「判断」を教える順番が、日本とベルギーでは逆らしいです。

でも、もしベルギーと同じテンションで日本で指導したら、それはそれで問題が出てくると思う、と。言われたことしかやらない選手も出てきそうだし、その傾向はサッカーだけじゃないと思う。どれくらいのさじ加減がいいのか、個人によっても違うと思うし、答えが出ない、と。


後半は「日本人が10代後半で伸び悩む理由」。
オランダの名門クラブ・アヤックスのオランダ人指導者とユース年代アナリストの日本人の話し。

Jリーグ選抜vsアヤックスの試合を観た時、アヤックスの指導者が「いつも思うだけど、どうして日本人は即興の連続でプレーできるんだ?」と尋ねるんだと。

アヤックスのユース年代アナリストの白井氏によれば、「日本人の良さとして、〜隣の人を気にかける習慣ができているから、隣の人を気にしながらやるということはすぐにできる」

「オランダのサッカーはある程度『型』があって、その中でプレーしているから15.16歳で、それと全く違うことをされると対応できない。速くて捕まえきれないと感じる」

「でも18歳くらいを過ぎると、トップに残る選手はインテリジェンスもある選手だから、だんだん対応できてくる。そうなってくると日本は打つ手がない。即興性が消されたら、何で勝負するか。体もスピードも、決定的な強みがない」

「即興性の良いところは相手が読めないこと。デメリットは同じことをもう一度やることができないこと」

と。それを受けてJリーグのベルギー派遣コーチは、

「僕も指導中に、相手を見なさい、味方を見なさい、スペース、流れを見なさい、と言います。日本の教え方は気にすることが多いんですね。ベルギーでも気にすることはありますが、少なくとも味方のことは気にしなくていいくらい、ステマティックに、こうすればここにいるはずというのが各チームにあるんです。『日本も即興性だけに頼らなくなったら、あっという間に強くなるのではないか』と白井さんに言われたんです」

と。


僕にとっての日本人イメージは、
「監督の言われたことをやろうとしすぎる」
昔は中田英寿が、今は本田圭佑が、歴代の日本代表外国人監督がしきりに言っている日本人像です。

自分で判断できない、融通が利かない、みたいな。

なので「日本人は即興性がある」という切り口が、僕にって非常に新鮮でした。そういう見方もあるかと。

確かに日本文化は「空気を読む」「雰囲気を察する」話題の「忖度(そんたく)」など、非言語的な情報を読み取って相手に合わることが非常に求められる社会だな、と。

先日6/25の静岡県知事選挙のポスターになった内田篤人清水東高出身、シャルケ所属)のメッセージ、

「海外で意思表示の大切さを強く感じた」

これって、海外の人は察してくれないから、ハッキリ言葉にしないと理解してもらえないってことですよね。

おそらく、日本人の細かい非言語情報の読み取り能力って平均的に高くって、海外の人からしたら、「YOUはどこかで専門的なトレーニングを受けたのかい?」というレベルの人が日本にはゴロゴロしてると思うんですよ。生まれ育った環境で自然にトレーニングされて身についていると言ったような。

一方で、白井氏の「日本人は即興性に頼りすぎている」という指摘もまた新鮮ですね。

僕が思うに日本文化的に「他人との即興性」には優れているが「自分との即興性」は弱いのかな、と。

自分の感覚や直感に合わせて、自由に表現をしたり、身体でリズムを取ってみたり。忍耐とか献身性って日本人の価値観にとって「美徳」なので。

言いたいことは、どっちが良い悪いではなくて、なんでも偏り過ぎは良くないだろうと。自分も相手も感じる感性が両方大事だろうと思うのです。

そして、両方扱えるようになるには、意識的にトレーニングでは、得意な方、今偏ってる方とあえて逆をやってみる必要がある、ということをベルギーの育成は言っているような気がします。

持っている長所を活かすために、あえて逆の事に取り組むんです。サッカーなら、細かい技術に優れるファンタジスタに、運動量やハードワークを求める。激しさの中でしなやかさを発揮したら鬼に金棒ですから。

でも常に100%発揮では、すぐエネルギー切れちゃいますから、ある意味長所を「奥の手」で残しながら、発揮する割合を状況に応じてギアを調整する。それだけで戦い方の幅がグッと広がるし、ここぞでアクセル全開にする長所はより活きますよね。

しかし、慣れるまでは一時的に長所も発揮できなくなる落とし穴はあるので、いきなり本番じゃなくて練習で長所と「逆」を繰り返して慣らすんですよね。長所に頼りすぎないように。

なので僕は、コラムでこれでもかと「セルフケア」を取り上げるし、勉強会では「自由なオープンな」を繰り返すのかなと、この記事で気付かされました。


また、
ベルギーでも気にすることはありますが、少なくとも味方のことは気にしなくていいくらい、ステマティックに、こうすればここにいるはずというのが各チームにあるんです」

これもその通りだなと。LSWでも、
「そろそろ〇〇を伝えていい時期だと思うんで、何歳の〇〇と情報欲しいですよね」
くらいまでは、何にも考えなくても関係者内外の味方同士は分かっていて準備されていて、

「じゃ足りない情報どうしましょうか?説明の仕方はどうしましょうか?」

という相手に合わせる部分で、ようやく自分の持ってる大事なエネルギーと時間を費やしたいですよね。

すると、やっぱり再現性を高めるためには、理論的に整理して共有するということは必要で、今の日本のLSWはそこを作ることを模索している段階なのかな、と。

ただ理論的に整理されたものは、大事なことにエネルギー使うための「手法」「戦略」であって、それで完了じゃないですよ、目の前の人に集中して下さい、ということは常に意識しておきたいですよね。

そして、目の前の人の機微を「察する力」は、おそらく多くの日本人の長所に関わらず、謙遜して無自覚なので、「当たり前」ではなく、自身の長所を意識して上手に活かす思考になったら、支援の質がまた一段階変わってくるんじゃないかなぁ、と思います。

また、それを際立たせるのが「理論的な理解、整理」で、その両輪を意識してトレーニングすれば相乗効果が生まれて、きっとお得だよなぁ、と思っています。


次回は、あいまいな喪失の援助者のトレーニングについて触れます。

ではでは。