LSWのちょっとかゆいところに手が届く「まごのてblog」

静岡LSW勉強会の管理人によるコラム集

【第140回】LSWブーム再来⁉︎

お久しぶりです。管理人です。

 


今回は近況報告的な内容を。

 


ここ数年、児童福祉・社会的養護に関わる職員研修を依頼される機会がとても増えました(ありがたいことに!)。

 


研修内容は様々で、参加者が現在求めていること、研修がどんな未来に繋がるきっかけにしていきたいのか、そんなことを研修企画者とお話ししながら、内容や構成を一緒に決めていくのが僕のスタイルです。

 


まぁ、当事者の意向を尊重しながら扱う内容や頻度を決めていくLSWのプロセスと行っていることは同じですね。

 


そんな一つひとつオリジナルのオーダーメイドな研修準備をしていると時間がいくらあっても足らず…今年度も順当にblog更新と静岡LSW勉強会開催が滞るという感じの今日この頃。

 

 

 

そんな中、何の偶然か、施設関係者から

 


「今年の研修はLSWでお願いします!」

 


という依頼がいくつか続いているんです。お話を聞くと、時々LSWはやっているものの、他の職員がそのことをあまり知らないとか、数年に一回しか実施しないからLSW普及を今後どうしていったらいいのか、という感じで各施設で自然発生的にニーズが湧いてきいてるよう。

 

 

 

いや〜、かつては「LSW実施をする/しない」の交渉で結構なエネルギーを費やしていたことを考えると、本当に時代が変わりましたね。

 


研修の依頼者の中には、静岡LSW勉強会で一緒にワイワイ話していたメンバーさんもいて、いまや施設で職員研修を担う立場となり研修企画をしていて…

 


そして、研修に行くと僕が知らない新しい職員さんが沢山いて、いつのまにか自分が歳を重ねたことを否応なしに突きつけられるみたいな(苦笑)。

 


20代の時に、自分のケースで困ってLSWを調べ始め、気がつけば40代に突入してますから、そりゃそうですね。

 


当時、蒔き続けた種が、収穫の時期を迎え、新たな種を蒔いていくフェーズに入ったというか、と、LSWの地域普及がepisode2に進んでいるような感覚と嬉しさを最近感じています。

 

 

 

一応、勉強会を立ち上げ時に以下のような目標というか計画を掲げたんですけど、

 


【短期】ネットワーク、つながり作り(1〜2年)

【中期】尊重し合う相互体験の積み重ね(3〜5年)

【長期】専門性を共有する「共進化」(5〜10年)

 


なんとなくそれっぽい形に結果的になってきたような、勉強会を開催していない現状を思い描いた形と言って良いのか、正直よくわかりません。

 


この間、コロナという超予測不可能な事態もありましたが、そんな訳わかんない事が突然起こるのも児童福祉らしいと言えばらしいなぁ、とも思ったり。

 


ちょっと、この先、停滞している勉強会をどうして行くのが良いのかなと思いつつ、LSW関連の活動は色んな縁と偶然で続けています、という報告でした。

 


ではでは。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【第139回】心理職の役割と現実のギャップ

こんにちは。

 


本格的に梅雨入りし、スッキリしない天気

が続いている今日この頃。

 


仕事的なやりとりで、スッキリしない気分

が続いている管理人です。

 


皆さまは、いかがお過ごしでしょうか。

 

 

そんな季節に、紹介する図書はこちら。

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ご存知の方も多い、日本子ども虐待防止学会(JaSPCAN)の学術雑誌の最新刊です。

 

 

 

ざっくり内容をまとめると、

 


虐待を扱う分野における心理職への期待は、

①心理教育、②コンサルテーション

 


言い換えると、

虐待やトラウマの心理的影響について、

・チーム内の他職種に事前説明(心理教育)

・相談者に起きている事を共有(コンサル)

 


をして当事者にも支援者にもトラウマインフォームドケアの考え方を広めていきましょ!

 


と言う事かなと。

(もちろん他にも色々と書かれていますよ)

 


ただ、児相、市区町村、病院、施設、里親支援どの分野においても概ね似た内容が指摘されていたのが印象的で、改めてトラウマケアの時代なんだなと感じました。

 

 

 

虐待を扱う以上はトラウマの扱いは避けて通れないですし、その過程で支援者の二次受傷(傷ついた人に関わる支援者が負う傷つき)は必ず起きるんですよね。残念ながら。

 


言い換えれば、支援者の二次受傷が大きければ大きい程、相談者が負っているダメージが大きいという事なのですが、支援者も人間ですし、まず支援者が守られることも重要になってくる。過去に自分がやられたから他人を傷つけていいという事にはならないので。

 


対応は「肉を切らせて骨を断つ」と言いますか、クライエントの虐待的な対人パターン(支配ー被支配関係)の変容に取り組むには、「お前もどうせそうなんだろ!」と“試し行動“的に挑発しかけてくる相手に、「そのパターンは知ってる」と間に受けずひらりひらりと調整的やりとりしていくと、「何かコイツは違うな」「ちゃんと話しを聞いてくれるぞ」となって、相手の防衛的な攻撃性が減少していく。

 


こんな見通しや心構えを支援者側が持てているか、もしくは支援者を支える人(同僚やSV)が気づかせてあげられるかで、相談者との関係はもちろん、支援者のメンタルヘルスが全然違ってくることは言うまでもないですよね。

 


こんなトラウマあるあるを職場で事前に共有しておいたり、面接の振り返りやケース会議等で「あの人は○○という経験があるから、他者から責められるのが不安で攻撃的になっているんだと思いますよ」と話し合ったりすること、これがトラウマインフォームドケアの普及であり、虐待分野の心理職に期待されている役割かなと思います。

 


また、

 


LSWにおいても、虐待やトラウマを受けた過去の扱いをどうするのかは、頭を悩まされる問題ですよね。もちろんトラウマだけでないですけど、目に見えない心理面の影響について、他職種にわかりやすく説明して、支援者や支援チームに安心感を与えるような存在、心理職がそんな貢献をできるといいなぁ。

 

 

 

そんなことを思いながら、雑誌の記事を読んでいた訳ですけど、以下は現実の話し。

 

 

 

スッキリしない“もやもや“エピソードです。

 

 

 

 


最近ですね、

 


関係機関(学校、病院、施設、警察等)から

 


心理検査結果を教えてください!」

心理検査を早く取ってください!」

 


と言われることが割とあります。昔もありましたが、最近より増えた印象があります。

 


まぁ心理職以外の方にも「心理検査というものがあって、どうやら役に立ちそうだ」と認識されてきたと言う事なのかもしれません。

 

 

 

回答としては、まぁ個人情報なので、

「本人や保護者の了解があれば」とか、

「正式な依頼文章があれば回答できます」

 


という感じにはなるんですけど、

 


「やった検査の種類、全部教えてください」

 


とか聞かれるパターンもあって、

 


(名前だけで何の検査かわかるんかな?)

(そもそも、それ知ってどうするの?)

 


と思いながら、

 


「WISC-Ⅳ、バウム、人物画、TSCC-A、PARS-TR、ADHD-RSと…」

 


って検査名をツラツラと答えるとですね、

 


「よく分かんないんで、WISCだけ」とか、

「数値が出る検査だけ後で教えてください」

 


という返事が返ってくることが、偶然では

片付けられない程の色んな場面で出くわすんですよ。

 


で、何回も対応したおかげで、"ある法則"を

発見してしまったんです。

 

 

 

それは、

 


心理検査=知能検査」

心理検査=WISC」

 


と、思われがち。ということ。

 

 

 

これがどのような誤解かと言うとですね、

 


「外国=欧米」

「外国=アメリカ」

 


みたいな感じ。認識に癖あり過ぎというか、

メチャクチャ偏りがありますよね。

 

 

 

そんなバカなと思う方もいるかもしれませんが、これが起きているのが現実なんです。

 

 

 

TVの海外ニュースは、欧米、中露ネタがほとんどですが、世界にはスポットライトが当たらない色んな地域が世界にはありますよね。

 


心理検査も同様です。WISCばかりにスポットライトが当たっていますが、WISCでわかることには限界があるし、むしろ心理状態そのものは知能検査ではわかりません。

 


知的能力はその人が生きる世界を知るための重要な手掛かりのひとつではありますが、それは多くある要素の一部に過ぎないです。

 


誰しも、それまで歩んできた歴史(生育歴)があり、その積み重ねや連続性の中で今の心理状態や認知傾向が出来ています。その心理状態や認知傾向を知ることも心理検査の重要な役割で、その歴史の積み重ねと現在地の「材料」があって、その人がこの先どういう歴史を刻んでいく事がいいのかという将来について考えることが出来ると、僕は考えています。

 


これはLSWの支援にも通じるというか非常に近い考え方かなと個人的に思いますが。

 

 

 

しかし、実際の支援の現場において、

 


目に見えない、数値化もできないような心理的要素には、あまり重きを置かれなかったり、重きどころか、そんなよく分からないことに配慮した対応なんで出来るかという反発すら受けかねない、そんなことが現実にあると思います。

 


補足すると、

 


そのような心理的配慮を否定しようとする人ほど、トラウマ(二次受傷)のダメージが重いと言うか、他人の感情を扱う以前に、自分自身の感情を扱う余裕がない場合が多いと僕は理解しています。

 


逆に健康度の高い方ほど、その職種に限らず相手の心理面の話しについてすんなり理解してもらえる、そんな印象を持っています。

 


支援者自身の状態や健康度が、いか「対人援助において重要かを表す良い指標かもしれません。

 

 

 

 

 

 

話しを戻すと、

 


前半紹介された「心理職に期待される役割」

 


つまり、目に見えない心理的影響やクライエントの心理状態の見立てについて、他職種にわかりやすく伝えて共有する役割ですが、

 


後半のエピソードからわかる通り、「現場では、そんな期待されているとは限らない」という事。

 

 

 

それは言い換えると、

 


他職種に心理職が何ができるか十分理解されていなきから、わかる範囲での期待しかされない場合が多々ありますよね、と。

 


当たり前と言ったら当たり前の話し、決して

心理職に限った話しではないですよね。

 


心理職が関わると面倒臭いし…ではなくて、

期待されているだけ、だいぶマシです。

 

 

 

なので、心理職が、

 


児童虐待分野における心理教育やコンサルテーションの貢献をしようとするなら、

 


トラウマの知識や見立てを伝える以前に、

 


まず「心理職はそのような事が出来ますよ」という共通認識を周囲に持ってもらうための宣伝活動や営業活動を一生懸命やる必要があるだろうな、と。

 


相手のニーズが無いところに訴えかけても、

ただの押し付けになってしまったり、偉そうにものを申しているように相手側が受け取ってしまいますから。

 


そんな必要がない文化が醸成されている職場は、きっと前任の心理職の方々が、そういうベースの耕し作業を地道に頑張ってくれたんだと思います。

 


また心理職は配置人数が少ないので、良くも悪くもその職場にいる心理職個人のイメージが、職場全体の心理職イメージに結びついてしまう側面がありますね。構造的に。

 


日常の影響の大きさと言いますか、先ほど例に挙げた「心理検査=WISC」という方程式は、もしかすると身近な心理職の方からそんなイメージを刷り込まれている可能性だって十分ありますから。

 

 

 

日本で児童虐待問題にスポットライトが当たり始めたのが1990年後半以降ですし、もっと言えば日本でトラウマインフォードケアの重要性が言われ始めたのは、この10年くらいの話しで、まだまだ普及し始めの段階。

 


僕が学生だった約20年前に、現在知っているようなトラウマの話しを、少なくとも児童虐待に関するトラウマの話しを聞く機会はなかったですし、今リアルタイムの児童虐待対応の、更にはトラウマの話しをできる大学教員の方は日本でもかなり限られると思います。

 


つまり、

 


児童虐待に関わる様々な分野(行政、病院、施設、里親支援など)のトップランナー達は、心理職にはトラウマインフォームドケアの心理教育やコンサルテーションでの貢献が必要だし期待すると言いながら、心理職なら誰しも標準装備としてトラウマの知識を持っている訳ではないと言うのが現実だと思います。

 

 

 

なので、

 


他職種の方々が、心理職にトラウマインフォームドケアの心理教育やコンサルテーションを期待しないなんて当然と思いますし、逆にそんなこと依頼されても出来ないし困ります、という心理職の方も相当いらっしゃると思います。

 


サッカー選手でも足元のテクニックに長けている選手もいれば、足の速さや運動量を売りとしている選手がいるように、心理職でも得意不得意分野がありますから。

 


でも、児童虐待分野に関わるならトラウマのことは学んで貢献して欲しい、これが始めに紹介した雑誌の筆者の方々の想いではないかなと思う訳です。

 

 

 

 


そして、最後に、

 

 

 

何を話したのではなく、何が伝わったのか。

 

 

 

他職種の状態や認識を見立てた上で、他職種の方にとって、そしてその方が対応するクライエントにとってプラスになるような声かけを、タイミングを測りながら、説明の長さや内容を調整して伝える配慮が現実求められます。

 


これはカウンセリングでも、心理教育でもコンサルテーションでも、もっと言えば営業や教育でも、相手に何かを伝えるということはそう言う事なんだと思います。

 


相当手間ですけど、実際そうですよね。

 

 

 

なので、

 


トラウマインフォームドケアへの貢献。

 


言うは易し、やるは難し。

 

 

 

心理職の役割と難しさについて、考えさせられる今日この頃でした。

 

 

 

ではでは。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【第138回】支援者の気持ち

お久しぶりです。管理人です。

 


年度末から年度明けはバタバタでして。

 


なかなか更新もままならず…。

 

 

 

とりもなおして、

 


今年度もよろしくお願いします。

 

 

 

で、今回コラムは、

 


そんな年度末バタバタと並行して準備した

ある事例検討での出来事について。

 

 

 

あらかじめ言っておきます。

 


かなり愚痴っぽい内容です。

 

が、LSWにも、かなり通じる話しです。

 

 

 

おそらく、コラムを見ていただいている方は

対人援助職の方が多いと思うので、事例検討についての説明は不要かもしれませんが、

 


一応、事例検討会とは、

 


「こういう事例がありまして、

 私はこんなことを考えて、こう関わって、

 現在こうなってるんですけど、

 今後どうしたらいいと思いますか?」

 


的なことを第三者に客観的に聞いてもらい、

意見やアドバイスをもらう会をいいます。

 

 

 

僕の職種は心理士ですが、その日の検討会

の参加者の職種は「心理士」に限らず、

 


医者、施設職員、ソーシャルワーカー

教員(中学・高校・大学)、相談員など

 


幅広い分野の、幅広い職種の人が、その日は

オンラインで50人くらい集まっていました。

 

 

 

で、

 

 

 

僕の報告は、

 


親子で相談に来ている事例で、

 


大人は、

 


医者「継続受診の必要はない」

母親「子どもが望めば相談を続けたい」

 


こどもは、

 


「色々あったけど、今は大丈夫だし、

 困った時は、自分でまた連絡します」

 


と言って、相談を終了した事例でした。

 

 

 

 


すると、事例検討の参加者から、

 


「医者は継続受診の必要ないと言うけど、

 どこかの機関に関わってもらった方が…」

 


「私はよく、○○を紹介します」

 


という声が、割とたくさんあがったんです。

 

 

 

 


その光景、その空気感…

 

 

 

 


正直、すごく違和感を覚えたんですね。

 

 

 

 


事例検討会に限らず、相談現場においても、


「心配だから、とりあえず関わって欲しい」


という支援者の声は珍しくはありません。

 

 


では、

 

・心配だから

・関わってもらえると安心だから

 

という声の「心配」や「安心」は、


いったい誰の心配や安心でしょうか。

 

 

 


はい。

 

 

 

それは、当事者本人の気持ちではなく、


「支援者」自身の気持ちですよね。

 

 

 


もちろん心配をすることは悪いことでは

ありません。問題は「心配」の扱い方です。

 

 

 

心配とは、


「心配り」を音読して作られた和製漢語で、江戸時代から使われ始めた。 心を配る意味から、気にかける意味となり、気がかりで思い煩うことも意味するようになった。 気がかりで「心を支配される」の意味から、「心配」になった訳ではない。(語源由来辞典より)

 

 

とあるように、

 


「相手に心を配る」という語源だったものが、気がかりや不安な気持ちが「自分」の中

でいっぱいになるような意味合いで使われる

ことが増えてきている、そんな雰囲気や愚痴

っぽさが上の説明から滲み出てますよね。

 

 

 

もちろん僕がここで言いたいのは、言葉の

使い方が正しい間違っている、ではなくて、

 


支援者が「相手のため」と言いながら、実は

支援者側の不安に掻き立てられて、声かけを

していること、ありません?という事。

 

 

 


「専門家なのに、そんなんでいいのか⁉︎」

 

 

 

との意見は、実に正論だと思います。

 

 

 

ただ実際は、

 


支援者が対人援助職を選んだ動機があり、

「人を助けたい」気持ちが強い人ほど、

前のめりな支援を行ってしまいがちである

という現実が、現場にはあると思います。

 


例えば、病院に代表される一般的な相談は、

困った人が動機を持って相談に来るので、

支援者があれこれ勧めたり助言する対応で、相談関係が成立するという側面があります。

 


しかし、子育てや教育など人生相談的な

この方法を使えば万事解決といった唯一の

正解がないような分野の相談においては、

 


本人や家族は気にしてはいないんだけど、

周囲で関わっている先生や支援者は非常に

心配しているといった問題意識や認識のズレ

があるケースが結構ありますよね。

 


本来は、認識のズレがあることを前提に、

自分の心配を相手に伝えて、対話を重ね、

それぞれの考えが違うことを認め合いつつ、「確かに、そういう見方もアリだね」と、

相手にこちらの考えを受け入れてもらう。

 


そのような「心配」を共有するアプローチが動機が薄い相談者に対しては必要なのですが

その必要性や方法論は、相談業界の常識ですと言える程、広まってはいないかなぁ、と。

 


自分のアドバイスを受け入れなかったり、

返事をしながら行動が伴わなかったり、

相談に訪れなかったりする相談者に対して、

支援者側に湧き起こる失望や怒りの感情が、態度や雰囲気に表れ、相談関係に大きく影響

していることに無自覚な方は実際にいます。

 


そして、そういう人ほど、

「自分が言った通りにしないのが悪い」と

自分が相手に与えている影響を棚に上げて、

相談関係について他責的に認識する傾向が

あるような、そんな気がします。

 


また、良かれと思って色々やってあげると、かえって相手の経験値を削いでしまったり、

「あなたは、自分だけでは何もできない」

という無言のエンパワメントとは逆効果のメッセージとして受け取られている可能性があり、結果、自立の芽を積んでしまう危険性についての自覚も、支援者には必要な視点だと僕は思っています。

 

 

 

 


話しを事例検討会に戻しますと、 

 


そんな些細な攻撃性や過干渉的な雰囲気を、参加者のコメントの節々から感じたのです。

 

 

 

もしかしたら僕の杞憂かもしれないと、

知り合いの参加者にグループワークの様子を

聞いてみたところ、やはりそんな空気感は

あったようです。

 

 

 

この例で、僕が何を言いたかったのか、

もう皆さんは、お察しかと思います。

 

 

 

LSWの実施をめぐる、やり取りでも

似たような状況はきっとありますよね。

 


LSWがメジャーになってきたからこそ、

LSW実施することが目的やゴールになって

しまっていないか、考える必要があります。

 


もちろん、生い立ちや過去の整理をすること

自体は否定されるものではないですが、

その動機が「支援者自身の不安」がメインと

なっていて「当事者本人の希望、準備性」が

取り残されていることになっていないか。

 

 

 

支援者が、自身の感情に向き合い、自覚し、

感情をコントロールしながら立ち振る舞えるかどうかは、やっぱり難しいことだよな。

 

 

 

10年ぶりくらいに発表した事例検討は、

そんな現実をまざまざと見せつけられた、

そんな会でした。

 

 

 

ある意味、すごく勉強になりました。

 

 

 

 


ではでは。

 

 

 

 

【第137回】対話型AIにLSWについて聞いてみた

おつかれさまです。管理人です。

 


「ChatGPT」、皆さま、ご存知でしょうか?

 


2022年11月に公開後2ヶ月余りでユーザーが推定1億を超えたと言われる、対話型AI。

 


OpenAIという会社が開発した対話型AIチャットボットで、質問に対して行間を高精度で読み取ってAIが回答してくれるというもの。

 


しかも、それが無料で誰でも使えて、日本語にも対応してくれる!

 


と言うことで、LSWについて質問してみました。

 

 

 

例えば、こんな感じです。

 

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web上のテキストデータを学習して、回答する仕組みのようですね。間違えることもあるとの指摘もありますが、そもそもネット上の情報だって間違えていることもありますし。

 

 

 

ちなみに、同じ質問でも毎回答えは違うそうで、一部では使い手の質問力が試されるとも言われています。

 

 

 

例えば、こんな風に質問してみると、

 

 

 

Q.ライフストーリーワークを知っていますか?

 


A.はい、私はライフストーリーワークについての知識があります。

ライフストーリーワークは、社会福祉、カウンセリング、心理学などの分野において使われる方法論の一つです。このワークは、クライアントの人生の歴史、文化、人間関係などに焦点を当て、その人生において重要なエピソードやトラブル、解決策などを明らかにすることを目的としています。このワークは、クライアントの自己認識や自己理解を促進することを通じて、問題解決や心理的な改善を図ることができます。

 

 

 

なるほど、確かにと思わせる回答ですが、上の写真の回答とは微妙に違いますよね。良いか悪いかは置いておいて。その都度、AIが考えているみたいです。

 


他にも、

 

 

 

Q.ライフストーリーワークの注意点を教えてください

 


A.ライフストーリーワークは、過去の経験や人生の歴史を探求することで、個人の認識や自己理解を促進する技法です。以下が、ライフストーリーワークにおいて注意すべきポイントです。

適切な環境の作り: ライフストーリーワークを行う際には、安心して話すことができる安全な環境を作ることが大切です。
過去の経験に対する敏感なアプローチ: 過去の経験に関する情報を収集する際には、個人の感情や経験に敏感にアプローチすることが大切です。
過去の経験を再体験することに注意: 過去の経験を再体験することは、強い感情やトラウマを引き起こす可能性があります。そのため、個人が話すのを押さえずに、再体験することができる環境を整えることが大切です。
適切な指導: ライフストーリーワークを行う際には、適切な指導者が必要です。指導者は、個人の感情や経験を理解し、問題解決のヒントを提供することが大切です。
個人の意思に基づいて行う: ライフストーリーワークは、個人の意思に基づいて行われるべきです。個人が話すことを強要しないように、自分のペースで進めることが大切です。
これらの注意点を守りながら、ライフストーリーワークを行うことで、個人の認識や自己理解が促進され、問題解

 

 

 

なんか急に、回答が止まっちゃいました。たぶんネット回線の問題でしょうけど、AIならではの愛嬌とも受け取れるかもしれません。

 


日本語対応はものすごく助かるんですけど、テキストデータは英語を元に探しているそうで、どうやら同じ質問でも英語にすると精度がより増すとのこと。

 


いやいや英語なんて出来ませんと思った方もいると思いますが、それもAIがやってくれます。

 


『「ライフストーリーワークの注意点を教えてください」を英語に訳して』

 


と入力すれば、

 


『Please teach me the precautions for Life Story Work.』

 


と回答してくれるので、それをそのまま質問にコピペ。すると…もちろん英語で回答が返ってくるので、

 


『上の回答を日本語に訳して』

 


と入力すれば、↓の回答が返ってくる。

 

 

 

A.ライフストーリーワークを行う際には、以下の注意点を心がけることが重要です:

倫理的考慮:ライフストーリーワークは敏感で個人的な内容が含まれます。参加者に対する同意、秘密保持、参加者への損害の未然防止などの倫理的考慮を維持することが重要です。
文化的意識:参加者の文化的差異や信念に対する意識と尊重が重要です。これには価値観、信念、メンタルヘルスや人生の経験に対する考え方などの差異も含まれます。
研修や経験:ライフストーリーワークを行うには専門的な研修と経験が必要です。参加者を有効に支援するために必要な知識やスキルを持っていることが重要です。
セルフケア:ライフストーリーワークは感情的に要求が高い場合があります。セルフケアを優先し、必要なときに支援を求めることが大切です。
適応性:ライフストーリーワークのプロセスは、参加者の個別のニーズや能力に合わせて適応する必要がある場合があります。柔軟性と創造力が成功するために重要な役割を果たします。
これらの注意点を心がけることで、ライフストーリーワークは主催者と参加者の両方にとってポジティブで支援的な経験になります。

 

 

 

日本語の時と全然違う回答だけれども、確かに!という内容ですよね。

 


という感じでですね、対話型で色んな知識や気づきを与えてくれそうなAIがChatGPT。

 


わからない時は「○○については知りませんが…」と断りを入れたり、200字以内で、とか文字制限を加えるとそれに収まる回答をしてくれる気遣いも出来ちゃいます。

 


しばらく活動停止している静岡LSW勉強会は、参加者の対話型の会なのですが、今度の勉強会にはChatGPTにも参加してもらいましょうかね、という精度ですよね。

 

 

 

ちなみに、こんなことも質問してみました。

 

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スマホ持ってる子なら、すでに、こんなことをAIに相談していてもおかしくない。

 

 

 

すごい時代になりましたね。

 

 

 

最後に、

 


こんな質問をしてみました。

 

 

 

Q.ライフストーリーワークにおける支援者の資質について教えて

 


A.ライフストーリーワークを支援するための資質としては、以下のようなものが挙げられます。

寛容な心と目: 支援者は、他人の思いや経験を理解し、相手を尊重することが大切です。
コミュニケーションスキル: 聞き手としてのスキルや相手の意見を正確に理解する能力が必要です。
エモーショナルマインド: ライフストーリーワークは、感情やトラウマを伝えることが含まれます。支援者は、相手の感情に敏感であり、適切に対応することができることが必要です。
癒しの力: 支援者は、相手の支えとなり、支援することで癒しを与えることができることが必要です。
専門的な知識: ライフストーリーワークに関連する知識や技術を有することが望ましいです。
これらの資質を持つことで、支援者は、より効果的なライフストーリーワークを行うことができます。

 

 

 

いや〜、良いこと言いますね。

 

 

 

寛容な心と目。

 


エモーショナルマインド。

 


癒しの力。

 

 

 

自分の脳内LSW辞典にはなかった単語。

 

なかったというか、支援者としての前提というか、しかし確かにつまるところそこだよな、と。


LSWの話題って、目先のどうする的な対処法の議論が多い印象を僕は持っているんですけど、こんな本質的なことをAIは付いてくるかと。

 


初心に戻らざるを得なくなりますよね。

 

 

 

ちょっと人気過ぎてアクセスが悪くなっているそうですが、面白いです。

 

 

 

ネット上にダウンロードや使い方の情報は沢山ありますので、気になる方は是非使ってみてください。

 

 

 

ではでは。

【第136回】じぶんとパーツ、スマホとアプリ

おつかれさまです。管理人です。

 


前回コラムで、

 


「こころは複数の部分(パーツ)で出来ている」

 


というモデルが、児童福祉やLSWで役立ちそうですよ、という話しをしました。

 


今回は役に立ちそうポイントについて、もう少し深掘っていけたらと思います。

 

 

 

正直、「本当?」「怪しい…」「解離、多重人格と何が違うん?」と思った方も少なくないと思うんです。

 

 

 

その直感的な感覚、

 

 

 

大事にしてほしいてす。

 

 

 

 


『全人格パーツを歓迎する』

 

 

 

それは内的家族システム療法と自我状態療法に共通する素晴らしい考え方と思っていまして、

 

 

 

疑問に感じる自分の存在を認める、その自分とコミュニケーションが取れる状態、それが本来の状態であり、目指す状態なんです。

 

 

 

そして、

 

 

 

『症状や問題行動を歓迎する』

 

 

 

これも上記の療法の特徴的かつ素敵な捉え方の一つかな、と。

 

 

 

その理由は、症状や問題行動は「防衛パーツさん」の情報を教えてくれるものだから。

 

 

 

 


防衛反応って、過酷な状況で生き残るための最適解ですよね、生物としての本能的な。ということは、症状や問題行動はその人の歴史を教えてくれる、ということになりますね。

 

 

 

もちろん、こころのパーツは、防衛的パーツ以外にも色々あって、幼児期にはほとんどの人格パーツが作られるそう。

 


そして、あらゆる人生の状況に適応することができる人格パーツ布陣は青年期後期までに整えられる、なんてゲームで装備品を揃えていくみたいですよね。

 

 

 

で、手持ちのパーツで対処できない事態に遭遇した時には、大人になってからも新しいパーツが増えることもあると。

 

 

 

例えば、トラウマティックな被害体験や被災体験または転勤、出産など人生の大きな変化において、手持ちパーツでうまく対応できる者がいない時に。

 

 

 

 


そんな説明を本で読んだ時に、「スマホとアプリ」の関係が頭に浮かんだんですよね。

 


スマホ本体だけでは何も出来なくて、何かするには、必ずアプリを開きますよね。

 


電話かけるにもメールするにも、何か設定変えるにも、画面上の四角いやつ押すじゃないですか。

 


パーツ(部分)って、そういう感じかもと。

 

 

 

さらに初期設定で入っているアプリはありますけど、あとはライフスタイルや好みに合わせてアプリを追加しますよね。

 


面白そうなゲームアプリを入れたり、お店のポイントが付くアプリを入れたり、動画配信アプリを追加したり。

 


でも歳を取るにつれて、生活が単調というか忙しくなるにつれて、使うアプリは段々と固定化されてくることが多いかなと。

 


iPhoneって時々アプリ使用時間をお節介に知らせてくるんですけど、僕の場合、YouTubeとその時にハマってるゲームでほぼ独占されてます(苦笑)

 


ただ、トータル使用時間は少ないけれど、LINE連絡は頻繁にしますし、電車乗換案内アプリは毎日見ますし、Google mapsがないと見知らぬ土地では迷子になってしまう必須アプリです。

 


同じ本体を使用しているけれど、開くアプリによって全然違う顔を見せるし、使用時間は短いけれど重要性がメチャクチャ高いアプリもある。そして、どんなアプリを使用しようとも、自分のスマホであることには変わらない。

 

 

 

スマホ本体」と「アプリケーション」。

 


「身体的自分」と「こころのパーツ」。

 

 

 

身体は身体、でも色んなモードの自分が自分の中にある。

 


こころは複数の部分でできている、とはそういうことかなと。

 

 

 

そしてスマホの中には、たまにしか使わない、また昔はよく使っていたけど今は全然使っていない、この先もしかしたら一生使わないかもしれない、そんなアプリって残っていません?

 


でも、過去にはそのアプリを入れた経緯があって、良い悪いは別にして、そのアプリを使った思い出や歴史がありますよね。

 


こころにおけるパーツも、ほぼ同じようなことが言えるかなと。

 


乳幼児期に色んな刺激を受けて、色んな脳の使い方を学ぶ中で、色んなモードの自分ができる。

 


脳は一つの塊ではなく色んな部位の複合体だから、それぞれ違った脳部位使用の組み合わせ状態を、それぞれ異なるこころの状態だと仮定することって、そんなに不自然な考え方ではないかなと。

 


人間の脳はざっくり3層構造。爬虫類脳ー哺乳類脳ー人間脳の部分があります。すごく本能的な衝動に正直なモードの自分もいれば、理性的に社会的に振る舞うモードの自分もいる。どの側面も自分であって、それぞれの側面をパーツ(部分)として捉える考え方です。

 


小さい頃に出来たモードの中には、中学生になったら大人になったら適応的な状況に置かれないから、こころの奥底で待機状態が続いている、もしらすると存在すら忘れられている、そんなものも少なくないそう。

 


表に出てきていないだけで、心のどこかでは繋がっている。だから、記憶としては繋がっている。これが通常の健康な状態。

 

 

 

ただ、モード同士、パーツ同士の仲が悪くなって話し合わない隠し事をする状態。そうすると記憶が繋がらない、覚えていないという現象が起きる。

 

 

 

精神医学的に言われる「解離」を、パーツ心理学では、このように捉える、と。

 

 

 

そして、目から鱗でしたが、この考え方だと「解離はスペクトラム=連続体」という説明がとてもしっくりきます。

 


解離は有無ではなく、程度のグラデーションであると。

 

 

 

ちなみに『精神医学的な判断をしない』というのもパーツ心理学の特徴なんですけど、

精神医学的な考えが強くなると、診断が付くか否かという思考に陥りがちだと思います。

 


○○障害か否か。みたいな。

 


例えば、発達障害と言ったって、我々はみな能力凸凹や発達凸凹があって、その特性によって社会適応が難しくなった状態になって初めて「disorder=障害」と診断されますし、同じ診断名が付いていたとて、特性の程度は人それぞれで全然ちがう。

 


記憶が無くなる、いわゆる「解離」にも似たようなことが言えそうです。

 


考えてみてください「記憶がなくなる」と言う人は必ずしも、ここはどこ?私は誰?みたいに全て1分以前の記憶が綺麗さっぱり無くなっている訳ではないですよね。

 


記憶の中にも、繋がっている部分と繋がってない部分がある。

 


これは脳内の伝達物質や導線の一部に不具合が起きていると脳科学的には言えるかもしれません。

 

 

 

なるほど、確かに今朝話したこと、昨日話したこと、一言一句覚えているわけではない。

 


皆、自分の話した事なんてだいたいな感じで覚えていて、前と言ってること違うじゃんと相手にツッコミ入れたくなるような事って結構あるな、と。

 


考え事をしながら家で過ごしていると、「あれ?この部屋に何しに来たんだっけ?何か探しに来たんだけど…」みたいな事だって。

 


ない方もいるかと思いますが、僕は時々あります。歳ですかね…それもあるかもしれません。

 


脳科学的に捉えれば、この部位が…伝達物質が…との説明も出来るかと思いますが、身体を動かしているパーツと、考えているパーツがそれぞれ別で、上手くコミュニケーションが取れていないという捉え方もできる。

 


脳の使い方の状態を「こころのパーツ」と捉えるとしたら、複数いるパーツの脳内会議、心中会議…会合場所はどこでも良いんですけど、自分という集まりの中で、ある人物(パーツ)だけみんなへの報連相を怠っている状態。

 


あえて「解離」という言葉を使って、記憶の連続性のなさを表現するなら、我々は皆、大なり小なり「解離」を起こしているとも言えて、それを前々回コラムで扱った脳内解釈人「インタープリター」が辻褄が合うように隙間を埋めてくれている、とも言えるのかなと。

 


また、急に過去の話題を振られても思い出せないけど、話をしているうちに段々とその事を思い出してくる、それは散らかっている部屋の状態から該当する記憶を探している頭の状態とも言えるかもしれませんし、今と過去のその時に活性化している脳部位が異なればそれぞれのパーツ同士が情報伝達している状態とも言えるかもしれません。

 

 

 

発達障害に話題を絡めると、

 


「トラブルの後、何事もなかったかのように接してくる。切り替えが良すぎて、こちらが戸惑うし、正直腹が立つ。少しは反省の色をみせてほしい」

 


家族にASDの方がいる場合、こんな相談をよく受けます。

 


ASDの特徴には、意思疎通の苦手さがありますが、それは他人に対してだけでなく、自分の中の複数の自分パーツにも漏れなく当てはまる、そんな感じだと思うんです。

 


ASDの人は、インタープリターの働きが弱いと言われていて、パーツ間やモード間の切り替えが良すぎるというかコミュニケーションや引き継ぎが苦手という捉え方もできるかなと。

 


しかし、精神医学的な「解離」という考え方は、トラウマティックな体験があって感情麻痺とか離人感とかの症状が起きること。

 


トラウマティックな体験がない人でも、我々は皆少なからず記憶が繋がらないことがあるしASDの人はよりその傾向が強い、そう言うことを「みんな大なり小なり解離がある」と括ってしまうのは、ちょっと乱暴というか逆に混乱を招くかなとも思います。

 


なので、記憶が繋がらない、という現象について、パーツ心理学では、こころを構成する複数の部分(パーツ)同士のコミュニケーションが上手くいっていない状態と捉えて、傷ついているパーツを癒し、そのコミュニケーションの衝突や不具合を解消して、お互いがお互いを尊重してやり取りできる状態にする。そんなアプローチなんだそうです。

 

 

 

これ、自分史を扱うLSWにめちゃくちゃ応用できるというか、必要な視点ですよね。

 


特に社会的養護(里親、施設)にいる児童は、主要な人格パーツが作られる乳幼児期に過酷な環境下に置かれている場合がほとんどですから。

 


症状や問題行動を起こしているパーツは、生き残るために必要な存在なわけで。

 


症状は抑えて治すもの、問題行動は無くした方がいいもの。これが一般的に思われている常識だし、身体疾患における医学的モデルのアプローチ的な考え方です。

 


しかし、スマホのアプリの例えで言うと、古いアプリは使わないから要らないよね、無かったことにして削除しよう、となったら「アプリさん」はどう思うと思います?

 


お前、昔は散々使ってたくせにあっさり捨てる気かと、悲しんだり怒ったりするかもしれませんね。

 


「行動は否定しても、存在や人格は否定する言葉を子どもに向けないでください」

 


児童虐待対応では、よく話題に上がるワードなんですけど、パーツさんへの対応も似ているかなと。

 


例えば、外側から何かのウィルスが侵入してきて、身体的な免疫による抵抗でめっちゃ高熱が出てる。ただ高熱はウィルスを倒すために身体を守るための反応、本来排除すべきものではないハズなんです。

 


その高熱に当たる部分が、「症状」や「問題行動」です。

 


もし症状や問題行動が、「発熱」みたいな役割を果たしているのなら、いたのなら、それを排除しようとする動きには、意義あり!となりますよね。

 


なので、いやいや抗生物質という薬もあるから、発熱して身体にしんどい思いさせなくても治りますから大丈夫です安心してください、発熱さんは休んどいてください、心配してくれてありがとう。

 


そんな風に、防衛パーツさんと話をして、了解を得る。

 


もちろん、セリフは適当に作ったものですけど。

 


特に日本は、人様に迷惑かけるなとか、人と同じでいたいみたいや気持ちが強くて、発熱しても仕事が忙しいとか仲間に迷惑をかけるとかって言って、解熱剤を飲んで仕事に行くとか超不健康な生活をしていましたね。

 


コロナのおかげでだいぶ体調不良と仲良く付き合うようになってきたと思いますが。

 


弱っていたり疲れていたり傷ついている自分の部分(パーツ)の存在を否定せずに認めて、うまく共存できるようになる。

 


緊張しないように強く意識し過ぎて、かえって緊張しちゃうみたいな。そうじゃなくて、緊張する自分を認めて上手く付き合う、お前は出てくるなではなく、自分で自分をなだめて癒して落ち着かせてあげる。

 

 

 

例え話はあっちに行ったりこっちに行ったり、とっ散らかってしまいましたが、内的家族システム療法や自我状態療法で行うことは、ざっくりこんな感じなのかなと。

 

 

 

もちろん、パーツへのアクセス方法は各療法あるのでここでは省きますが、パーツに向き合う姿勢と言うか、すべてのパーツに対してリスペクトを示す心構えは、すぐにでも役立つ視点かなと。

 

児童福祉の現場では「パーツ変わったかも」と思わせる場面に結構出くわしますね。

 

こども保護者はもちろん、支援者関係者も、です。

 

みんな色んなパーツを持っている。

 

それでいい、という話しでした。

 

 

まとまりませんが、今回は終わります。

 

 

 

ではでは。

【第135回】LSWとパーツ心理学

こんにちは。管理人です。

 


この数日、blogのアクセス数が右肩上がりに増えています。

 


注目記事ランキングで、ランク外→2位に突如躍り出た【第9回】コラムが読まれている影響だろうと思うのですが、実はこのコラムは5年前のものなんですよ。

 


誰かが、インフルエンサーとなって拡散してくださっているんだと思うんですけど、何かのきっかけで注目していただいて、5年前の記事が誰かの何かのお役に立っているとしたら、本当にありがたい限りです。

 


そして過去に残した記録が、数年後に誰かの役に立つって(←僕の勝手な脳内変換)、LSWの支援プロセスで起こる現象とにてるなぁ、と思うんです。

 


実際のケースでは、自分が残した記録がその後のどのようや役に立ったかどうかわからないことがほとんどですが、アクセス数というフィードバックがあるだけで、書き手は励まされますね。

 


改めて、読者の皆さまに感謝です。ありがとうございます。

 

 

 

 


前段はこのへんにしておきまして、今回の本題はここから。

 


前回コラムで「訳あって2冊の本を並行読みしています」と勿体ぶったことを書きました。↓がその本になります。

 

f:id:lswshizuoka:20230120215708j:image

http://www.iwasaki-ap.co.jp/smp/book/b585744.html

 

f:id:lswshizuoka:20230120215655j:image

http://www.iwasaki-ap.co.jp/smp/book/b599325.html

 


どちらも岩崎学術出版HPに概要が紹介されているので、ご参照ください。

 

 

 

で、この2冊を並行読みする訳はですね、

 


知り合いに本の訳者がいまして、勧められて買ったはいいけど、なかなか手を付けられず…という怠け者な自分にケツを叩く的な意味もあります。

 


それは半分冗談で、本当の訳(理由)としては、

 


「パーツ心理学」という考え方が、内的家族システム療法も自我状態療法も共通していて、実際に行うアプローチ(自分の中にいる自分達同士の対話を促す)もほぼ同じと言われていること、その内容自体はLSWと親和性が高くて参考になると思うから。

 


ただ、いかんせん専門的すぎると言うか、敷居の高さを感じさせると言いますか、心理職でさえこれらの療法を学んでいる人は少数派かなと思うんです。

 


このブログはLSWをテーマにしてますので、社会的養護の子どもに関わる施設の職員さんや児童相談所ケースワーカーさんに、まともに紹介するのはちょっとマニアック過ぎるというか、カロリー高すぎてつまんだだけでお腹いっぱい的になってもおかしく無いとも思いまして。

 


なので、ほぼ似たものと言われているものをあえて読み比べて、説明の引き出しを増やしたかったと言うか、多職種の方に面白そうだ、しっくりくるなと思ってもらえそうな表現を探したかった、というのが2冊同時読みの理由です。

 

 

 

 


僕自身がそう思うんですけど、自我状態とかパーツとか初耳の難しそうな用語が出てくると、説明を聞く前から、もう無理わからないみたいな拒否感が出てるくことって、ありません?

 


前段で5年前の記事の話題を出しましたけど、少なくとも当時の記事を書いていた頃の僕は「自我状態療法まではちょっとできません」と思ってたし、実際に口に出して言ってました。

 


日本では自我状態療法の方が早く広まっているらしく、僕もちょこっと話しを聞いたり研修を受けたことがあって、これはLSWにメチャクチャ関係するなとは思ってはいました。

 


その上で、

「今の自分は手をつけない方がいい」

と思ってたんです、5年前は。

 


もっと正確に言うと、

 


僕の中に、

「心理士として最新の知識技術を学ばなくていいのか?」と問いかける自分と、

 


「研修にかける時間とお金をかける余裕がどこにある?今より支援範囲を広げて何がしたい?」と問いかける自分と、

 


その両方の自分がせめぎ合ってたんですね。で当時は「やめとけ」と言う結論になってたんですよ、僕の中で。

 


こんな風に、自分の頭や心の中で、天使と悪魔が囁き合うと言いますか、例えば、欲望的な自分と規律的な自分、チャレンジしたい自分と保守的な自分が意見をぶつけ合うような「葛藤」を抱えることって、そんなに珍しい事ではないですよね。

 

 

 

パーツ心理学とは、そういう考え方です。

 


人はいくつかの部分の集合体でできている。前回コラムで脳は集合体という内容を扱いましたが、臓器にしてもそうですし、細胞レベルでもそう。人間は色んな部分(パーツ)が集まって構成されている。

 


パーソナリティ(人格)もそうだよね、というのがパーツ心理学で、フロイドやユングの意識と無意識や、交流分析エゴグラム)で使われる5つの状態の考え方もパーツ心理学に含まれるそう。

 


生活レベルで言うと、「会社モード」の自分と、「家でくつろぐモード」の自分は、肉体的存在としては同じ自分ですが、言動や振る舞いは違いますよね。

 


家であっても、子どもに接する「親モード」の自分もいれば、実家から電話がかかってきたらどれだけ歳を重ねても自分の親は親ですから「子ども」として親に接する部分はありますし、学生時代の友人から電話がかかってきたら「当時の学生モード」で話しますね。

 


そんな風に、自分の中には色んな自分の部分が存在していて、知らず知らずのうちに無意識に使い分けてる、それってごくごく自然なことかと思います。

 


ちなみに、上記の本によると、

〉平均的な人は、1週間を通じて普通に使用される自我状態をおおよそ5〜15個くらいは持っている

 


だそう。15とは結構あるなぁと思うのですが、それが普通だと。

 


LSWに絡めると、例えば、施設で暮らす児童の中では、家モードの自分と、施設モードの自分がいてもおかしくないし、むしろそれが普通なんだと思います。

 


社会的養護に限らず、「学校でやれていることを、家では全然やらないんです」なんて話しはよく聞きますが、学校と家では他の人の目も違うし、状況が全然違いますから、オンオフ具合に差はありますよね。

 


そして通常は、この部分(パーツ)同士のコミュニケーションを取れているから、お互いにやった事を覚えているし、ひとりの存在としての連続性を感じられる。

 


しかし、お互いのパーツ同士のコミュニケーションが取れなった時に記憶の断絶が起きる。これが解離(多重人格)の状態で、複数のパーツが存在する事自体は、多重人格とは全然違う。

 


そんな説明が、名称や表現の違いはあるものの、2つの本では丁寧に書かれています。

 


LSWでは「過去を扱った後に荒れる」「パンドラの箱が開く」という話題がたびたび出るのですが、これらの現象は、自我状態療法や内的家族システム療法の文脈で変換すると、

 


自分の中の「傷ついているパーツさん」を守ろうとする「防衛パーツさん」が出てきている

 


そんな風に言えるんだろうと思います。そして、上記の本にはそのようなクライエントに対して、どのような支援方法があるのか、パーツさんと話をする時にどんな配慮をするのか等々、色んなことが具体的に書かれています。

 


僕の場合、ちゃんとした自我状態療法を行う機会はないんですけど、LSWに限らず児童福祉の現場で出会う子どもや保護者の状態理解にパーツ心理学の考え方がとても役に立ってます。

 


他には、上記のような話しを心理教育として子どもや保護者に伝えて病院受診を勧めてみたり(身近な病院でやってくれるんで)、病院で受けた自我状態療法と自分の状態について子どもから教えてもらったり、なんてことも。

 


「身近にそんな病院ないよ」という方も多いかと思うんですが、児童福祉の現実は面接室で「自我状態療法をやっていきましょう」という枠組みを取れないだけで、突発的に起こる出来事に対応する中で、むしろ緊急的な状況だからこそ、明らかに普段とは別パーツの人格が実行的になっているよねという子どもや保護者にゲリラ的に対応せざるを得ない場合は少なくないかな、と思います。

 


もちろん治療的な関わりではなく、火消し的な対応になってしまいますが。

 


児童福祉でよく遭遇する、喉元過ぎれば的にコロコロ意見が変わったり、ちょっと考えればこんな風になることわかるでしょ的な言動をする人は、パーツ間のディスコミュニケーションが起きている可能性って結構あるかなと思います。

 

 

 

 


つまり何が言いたいかと言うと、

 

 

 

児童福祉で「パーツ心理学」は役立ちそう

 

 

 

ということ。

 

 

 

 


今回のblogで、パーツ心理学に拒否感出てしまったら、僕の文才不足で申し訳ですが、上記の本はホント良い内容です。

 

 

 

しばらく、この話題は続けていきますので、よかったら次回以降もお付き合いください。

 


ではでは。

【第134回】自分の内なる解釈人「インタープリターモジュール」

あけましておめでとうございます。2023年もよろしくお願いします。

 


昨年はLSW勉強会開催も一回でしたし、blog後半はW杯一色でしたし、今年は気持ちを新たにLSWについて考えていこうかな。

 


そんな風に思って、パラパラ読みで放置してしまっていた本を再び読み始めています。

 


内容は「自我状態療法」と「内的家族システム療法」。と言うか、それぞれ別の2冊を並行読みしてます。

 

 

 

全然LSW関係ないじゃん!

 

 

 

と思われる方もいるかと思いますが、かなり関係ありそうなんです。そして、2冊並行読みという「こじれた」読み方をしているのにも訳がありまして。

 


もちろん普段からそんな器用な読書の仕方してないですよ。マルチタスクは効率悪いこと知っていますから。(仕事は結構そうなっちゃいますが…)

 


その訳については今後触れていくとして、今回はそれらの本では触れられてはいないけど、大いに関係する点についての紹介。

 


つまり、前フリです。

 

 

 

 


で、今回の本題はここから。

 


話題は「インタープリター」について。

 

 

 

インタープリターとは、

 


interpreter

1 通訳する人。通訳者。

2 BASIC、FORTRANなどのプログラミング用の高級言語を、コンピューター用の機械語に翻訳するプログラム。

3 国立公園に常駐し、その自然や歴史を旅行者に解説する人。

        (デジタル大辞泉より)

 


という感じで、通訳する人、解説する人、的に色んな分野で使われる言葉のよう。

 

 

 

そして今回扱う「インタープリター」は、通訳人、解説員みたいな機能が我々の脳の中にはありますよ、と言う話しです。

 


まず人間の脳は一つの塊のように見えて実は複数のモジュール(機能単位)の集合体と言えますよね。例えば、大きくは左脳右脳で分かれてますし、記憶を司る「海馬」とか、○○を司る△△みたいなことです。

 


インタープリター」とは、左脳の機能単位の一つで、情報と情報の隙間を埋めてつなぎ合わせてくれる役割を果たしてくれる「解釈システム」なのだそう。

 

 

 

情報と情報の隙間を埋めてつなぎ合わせる、ってメチャクチャLSWっぽくないですか⁉︎

 


言い換えると、別々に散らばっている情報の隙間をつなぎ合わせて一つのストーリーとして解釈する役割とも言えて、ここまで言うと、もはやLSWで当事者の内面で起きる事だったり、支援者がサポートする内容そのものですよね。

 


こじつけではなく、脳にそのような機能を果たす部位があるという内容説明で、ここまでLSWと重なるんですから、面白い。

 

 

 

更に続けます。

 


インタープリター」の役割について細かく言うと、

・感覚器から得られる五感(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)情報をつなぎ合わせて自己の認識としてまとめる

・比喩表現の間を埋めて理解につなげる

・大勢の人々の別々の感情を読み取って、場の空気感として理解する

 


そんな役割を果たしていると…

 

 

 

おや?

 

 

 

文脈を読む、場の空気を読む。

 


そんなことが苦手な特徴を持つ人に、児童福祉分野ではよく出会いますね。

 

 

 

そう、これはASD自閉スペクトラム症)の特徴でよく言われることなんですが、ASDの人は「インタープリター」が上手く働かないことがわかっているそうなんです。

 


これは以前コラムで紹介した内容↓でして、

 


参考)【第118回】感情分化と身体感覚

https://lswshizuoka.hatenadiary.jp/entry/2022/04/04/074637

 


自閉症の情報処理の特徴のひとつが,局所的(部分的)な情報処理と、大域的(全体的)な情報処理のバランスに表れている。定型発達者の情報処理の傾向は、個別の情報(局所的情報)を統合して、全体的なパターン(大局的情報)を見出すことに長けており、しばしば局所的情報よりも大局的情報が優先される…これに対して自閉症では、全体的に統合された知覚がしづらく、局所的情報が重視されがちである。

 

 

 

と言うことなんだそうです。

 


人によって運動神経や歌の上手さに違うように、「木を見て森を見ず」にならず情報を大局的に統合できるかどうかは、脳の機能的に得意不得意の個人差がありそうということ。

 


世間一般的に言うと「センスのあるなし」なんでしょうけど、ASDの考え方はスペクトラムという連続体。情報の大局的な統合能力も「ある無し」「0か100」の二極ではなくて、どれくらい得意か苦手かということだと思うんです。

 

 

 

で、インタープリターは情報の隙間を埋めてくれるだけでなく、時間の隙間も埋める役割を担っている、と。

 


つまり、インタープリターは、「昨日の自分」と「今の自分」が同じ人物であるという連続性の理解をまとめてくれる役割を果たしていて、インタプリターが上手く働かないASDの人は「いま現在」の自分と「昔」の自分がひとつの繋がりだと感じにくい、と。

 

 

 

これは、LSWを考える上で非常に重要な視点ですよね。

 


社会的養護で暮らし、あるいは転居や養育者の変更を繰り返していて、過去の情報に身近にアクセスしにくいから「人生の連続性」が感じられない子がいる。

 


これが一般的に考えられているLSW支援の対象者なんだと思います。

 


しかし、過去の情報があったとしても、過去の様々な情報をつなぎ合わせ、自分や家族のストーリーとして構成すること自体そもそも苦手な人が少数ですが一定割合で存在する。

 


苦手だからこそ、定着するまで何度も何度も繰り返し、個性に合わせた継続的なサポートが必要になる。これは、スポーツや音楽、勉強の世界とも似ているかもしれません。

 

 

 

小さい頃からアルバムを見たり、親や親戚から昔話しを聞かされて、なんとなく自分史が出来上がってくる。

 

そんな自然発生的に行われている「自分史」の構成具合は、同じ情報や環境に置かれていても実は個人差がありそうです、という話しでした。

 

 

 

今回このへんで。

 

 

 

ではでは。