LSWのちょっとかゆいところに手が届く「まごのてblog」

静岡LSW勉強会の管理人によるコラム集

【第80回】タイプ別「幼児期記憶の語りと再構成」

メンバーの皆さま
 
おはようございます。管理人です。
 
今日は、担当児童の入学式に出るため「スーツ&ネクタイ」で出勤しています。
 
いつも「ノーネクタイ・ノージャケット」でいることが多いので、カチッとした格好をすると、改めて「新たなスタートだな」と身も心も引き締まるような気持ちになります。
 
そんな初心の大切さ、今やっていることの大事さを改めて振り返させてくれた論文を今回は紹介します。

 

 

幼児期記憶を再構成する語りの一分析例 

ー記憶イメージと感情体験を探る一

(林 2005)
 
この研究の目的を要約すると、
・これまで自伝的記憶の一部とされてきた「幼児期記憶」に焦点を当て、「自分の特殊と思われる体験を話すことで長い間抱えていた不安が軽減する」等の先行研究を踏まえ、静的な記憶の想起にとどまらず、動的な語りによる再構成の視点も取り入れ、青年にとっての幼児期の持つ意味を考察する。
 
というもの。表現こそ違うものの、まさにLSWの臨床で行なっている事"そのもの"なんですよ。また内容や考察も「まさにLSW」という感じで、非常に参考になる点が多いですので、『考察』にコメントを挟みながらを紹介したいと思います。興味ある方は是非原文も参照下さい。
 
では、さっそく。

 

 

考察1)幼児期記憶の語り分析から

〜研究では、幼児期記憶について語ることで生じる再構成の視点を取り入れた。 そして語りの特徴から3群に分けてその様相を比較検討した。 
 
3群とは、
①知的理解群、②感情表現群、③象徴化表現群この分類は質問紙調査(131名)→インタビュー調査(13名:全て女性)を元に、下図のような分類をしたということです。

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なるほど。確かに、過去の記憶を「客観的に・知的に語れることと、「主観的な体験・感情を表現した語りができるかどうか、またその気持ちを具体的かつ整理を持って想起する感情に巻き込まれずに語れるかどうかによって、語りの"質"はかなり異なりますよね。
 
それは、あいまい喪失で触れた「未完の感情」が扱えているかどうかにも大きく関わってくる話かなと思いますがこういったフローチャートによる視覚化や分類はとてもわかりやすく、語り手の状態像がよく整理されますよね。
 
ちなみに、この3分類は、
■記憶想起のパターン4類型 (林,2004)
①知的な理解の優位な群
ー感情表現も見られるが、知的な理解が先行し、認識の改めや理解したことが語られる
②直接的な感情表現群
ー感情語を用いてストレートに表現する 
③感情の言語化が困難な群
ー何らかの感情を体験していると思われるが,言語での表現が伴わない
④記憶想起の困難な群 
ー記憶の正確さにこだわる、記憶のなさについて語る
 
などの先行研究を参考にしたという事ですが、この研究調査では④に該当する人がいなかったため分類から除外した、ということなんです。
 
興味深いですね。おそらく社会的養護でLSWを検討する児童は結構④がいると思うんですが、一般大学生を対象にした本研究では記憶のなさについて語る④はいないと。
 
これこそ措置変更を重ねたり生活環境を転々する社会的養護の子と一般家庭の子との根本的な状態の違いを表していると思います。そして、以下の研究内容は、社会的養護の児童に対して過去を語れるように[情報整理][施設訪問]などのLSW的サポートをした後の話しになろうかと思います。
 
 
 
〜その結果、感情表現群が知的理解群・象徴化表現群と比較して、より自身の感情に根ざした体験が語られていたように思われる。 また他の群よりも、今後も続いていく人生の一時期として、時間的な展望の元に自己の体験を位置づけることも可能であった。
 
まぁ、そういうことで、この辺はLSW臨床の感覚と一致します。最終的にそうなることが理想的に思い描く子どもの姿なんですが、社会的養護でLSWを検討する児童は、とにかく記憶もないし、感情表現や感情コントロールも苦手だしみたいな、何段階か前の状態であることが実際は多いですよね。
 
それは、愛着・トラウマ・グリーフ・発達凸凹・家族関係のなかの忠誠葛藤(三角関係)などの影響が混在しているケースが多いのかな、という感じが僕の臨床感覚としてはあります。
 
さらに、
〜知的理解群は、記憶の鮮明さや映像の面では記憶の質が最も良いようにも思えるが、語りの質と必ずしも一致しているとは言えないのは興味深い点である。 感情を伴った衝撃的な出来事、個人的な意味を持つ出来事ほど正確に鮮明に記憶される (大矢,1999)のであれば,知的理解群の想起した記憶はかなりの正確度・鮮明度を維持しており、個人にとっても何らかの感情を喚起される、本人にとっての意味深いものであろう。 さらに、この群のみ幼い自分の視点から見た風景が報告されたことからも,あたかも「今ここで」の出来事のように体験されている可能性がある。したがって、知的な理解は,生々しい記憶に巻き込まれずに距離を置くための方策と言えるかもしれない。 
 
 
まぁ、そういうことなんだと思います。知的水準がある程度高い子は、トラウマ体験による恐怖の身体感覚」、グリーフの「未完の感情」そして複雑な家族関係の中で起こる「忠誠葛藤」を認知的に距離を置いて防衛できちゃうんですよね。
 
でも、それは地雷(未完の感情)と距離を置いてとりあえず放置したに過ぎない。地雷撤去出来ないから、結局、危険地帯に踏み込んで地雷に当たってしまうと、感情爆発に巻き込まれすぎてコントロール効かなくなる。
 
でも、知的に高くなかったり発達凸凹である部分の感受性が高すぎる子は、「未完の感情」と上手く距離取れなくて無自覚に危険地帯に踏み込んじゃうから、苦しさや葛藤を感じ過ぎちゃって我慢できず暴れちゃうんだと思います。
 
 
〜あたかも「今ここで」の出来事のように体験されている可能性がある。
 
 
なんて"フラッシュバック"ですものね。ただトラウマのように恐怖を感じるような体験でなければ、とりあえず「現在の安全感」は損なわれないですが、
 
 
〜知的な理解は,生々しい記憶に巻き込まれずに距離を置くための方策と言えるかもしれない。
 
 
という記述は、乖離とまでは言わないまでも「認知ー感情」のつながりが薄いような状態を想像させますよね。
 
そういう意味では、
 
 
〜以上のことを踏まえると、知的洞察よりも情感を伴った情緒的洞察の方が治療的で あるという精神分析の見解 (小此木,2002)と類似した結果が得られたと考えられよう。
 
 
は、記憶と感情が一致して語れているというか、「認知ー感情」のつながり、アクセスが良い状態を想像します。
 
なのでLSWでも過去を大人から一方的に伝えるだけではなくて、その情報を知って「何を感じたのか?」「どんな想いが湧き起こってきたのか?」という現在の感情に加えて、未完の感情も扱える方が確かにより治療的だと感じますし、僕はLSWに限らずソレを意識しています。
 
 
〜さらに、象徴化表現群の擬態語使用が功を奏しないという、従来の比喩研究とは異なる結果となったが、一因として比喩の使用が的確に行われなかった可能性が推測される。一方で、過度の象徴化・抽象化は語り手側の拡散や混乱を招く恐れがあるとも言え、注意を要するかもしれない。この点については今後の研究で明確にしていく必要があると考えられる。
 
この辺りは、トラウマとグリーフの扱いの違い(=身体的な恐怖反応があるかどうか、語りの想起が安全安心の感覚を脅かすかどうか)に関わってくることかなと思います。また別のコラムで詳しく触れていきますね。
 
やはり大事なことは、LSW実施前にその人の状態・心情を把握するための情報収集の正確さとキメ細かさ(=アセスメント)、そしてその情報から「こう支援したらこうなるだろう」という予後を予測する想像力(=見立て)なんだと思います。
 
 
 

考察2)再構成する幼児期

 

〜青年期にある者から想起した幼児の姿としては、自己中心性 、大人びた子ども像 、人見知りす る子どもが特徴であるとの結果を得た。これは、幼児期という時期が、自我が芽生え、第一反抗期と呼ばれる時期を経験するなど、自分への意識が強まる時期であり、自分でできることが重要な意味を持つため、このような幼児像が報告されたと考えられる。 
 
これは言葉変えると「アタッチメント(分離ー個体化)」の話しなのかな、と。全ておんぶに抱っこの時期を過ぎて、1歳児が少しずつ歩けるようになって、いつでもエネルギー補給できる安全基地があって、外への探索に意識が向いて色々経験して、でも不安になったら戻ってきて、なんてことを繰り返してお母さんと自分の区別がついてくるような時期の話しと重なるなぁ、と思います。
 
この春から新生活を送っている学生や新社会人も多いと思いますが、親離れ子離れ・一人暮らしは分かりやすい「分離体験」ですよね。期待と不安が入り混じった"葛藤"を多かれ少なかれ誰もが感じているハズです。
 
しかし、社会的養護に関わる子どもも保護者も「自分が望まない」「仕方なく」「無理やり」の分離体験をたくさん経験している場合が多く、本対象の一般大学生が抱える葛藤とは、その"質や量"が圧倒的に違うということは想像に難くありません。
 
その葛藤する気持ち、自分の中のポジティブ・ネガティブ感情の両方を素直に認めて語れるか。感情表現群は「語り」のプロセスの中でそのような気持ちの整理、まさにストーリーの再構成が進んだということなんだと思います。
 
 
〜また、両親や家庭が記憶物語に登場しないケースや、登場したとしても関与の度合いの低いケースも多く、一見したところ、青年の想起する内容は先行研究で言われているほど肯定的な意味を持ったものとは言えないようにも見受けられる。
 
〜しかし、わがままで怖いもの知らずだった自分、今から考えると恥ずかしくなるような自分の姿を抵抗なく、初対面の調査者に対して口にできるという点は注目すべきである。それは、幼児期にその人がわがままを許され、そのままでいいと受け入れられてきた証拠であろうと推察される。中には、「そんな自分だったけど小さい頃のことだから別にいいと思う」と語ることのできる被験者もいた。なかなか本人の口からは話題に上らないが、その背後には許し、見守り続けてくれた環境の存在が感じられ、本人たちにも意識されていたのではないだろうか。
 
なので、結局のところ、そのような深い語りが他人にできるかどうかは、幼い頃のアタッチメント形成や基本的信頼感の獲得がどうか、ありのままの自分を受け入れられた原体験があるかどうかが大きく影響するということですよね。
 
そして、そのような他者への基本的信頼感が薄い人は、この研究のように初対面の人にここまで自己開示して内省できないわけです。信頼できないし、安心できないので。
 
結局LSWでも違うアプローチでも、われわれ支援者は、生育歴を丁寧に追って原体験をアセスメントし、まずは安心して話せる関係性を構築すること、それが支援やケアの第一歩という事になるということだと思います
 
 
 

考察3)今後の検討課題および臨床場面との接点

 

〜記憶とは現在の気分や心理状態を反映するものであり、過去の記憶も現在の視点から読み解かれるものである (仲,1994)ため、現在にも注目して行う必要があったが、本研究ではその点が十分に考慮されていなかったと思われる。
 
まさにこれは、LSWにおける「現在」の支援の話で、まず今の生活、今の人間関係、今の信頼関係によって想起できる質が変わってくるという話し。前回SFAで扱った話しと重なっていて、現在のポジティブが何にも無ければ、過去のポジティブも思い浮かばないでしょう、ということなんだと思います。
 
 
〜また、今回は記憶イメージと感情体験の変化を主に扱ったが、語りの重要な要素であるストーリー性やまとまりという観点からの分析も、今後検討されるべきであろう。
 
〜今回の結果はあくまで一般大学生で行ったものであって、そのまま臨床群を理解する手だてとして用いるのは危険である。 しかし、幼児期記憶の危険な側面も十分踏まえつつ 、今まで肯定的に扱われることの少なかった幼児期記憶を、その人の生き方を支える方向で臨床に活かす何らかの手がかりを探っていくことへとつなげていきたい 。
 
 
この論文は2005年の13年前のものですから、当時の情報でここまで詳細に分析されているは驚きでもあり、ある意味「やっぱり昔から気づいている人は気づいているし、大事なことって普遍的だよなぁ」と確認できたことに安心もしました。
 
現在ではLSWの認識が広まったことで、幼児期記憶を臨床に活かす認識は随分進んでいるとは思いますが、「危険な側面も十分踏まえつつ」の点については「何を踏まえたらいいんだろう?」とまだまだ手探りでLSWに取り組んでいる方が多いのではないか、と思います。
 
ちなみに、僕は過去の情報や心理検査から、こんな5点にポイントを置いて、LSW実施前の状態をアセスメントしています。

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詳しくは別コラムでじっくり書きますが、簡単にまとめると、
【アタッチメント(愛着)】が対人経験を積むベースになっていて、安心感のある人と関わりの中でどれだけ情緒的なやりとりの重ねてきたかで、自分の感情を出したり納めたり言語化する力の育ち・基礎が違ってくるイメージ。
 
ただし、そんな感情体験を通して情緒的に成長する過程が色んな要因によって妨げられることがあって、例えば【発達障害のような感受性凸凹があると同じ刺激でも人より「痛み」を敏感に感じやすかったり、逆に「感情」が動くほどの刺激をキャッチできなかったり。
 
また【忠誠葛藤】と言って三角関係に挟まれて自分の気持ちを押し殺すようなことが続く環境下にあったり、【喪失体験】の悲嘆(グリーフ)の感情を表出する場や機会が与えられずモヤモヤを抱えたまま放って置かれていたり、【トラウマ】の恐怖体験から心身を守るために感情を麻痺させて対処していたり
 
そんなこんなで、感情を豊かに表現したり、感情のアクセルとブレーキを細かく使い分ける経験値を年齢相応に積めていないから「情緒的に未熟」なままの状態になるイメージ。こころの運動不足、こころの運動神経、こころの怪我・リハビリみたいな感じでしょうか。
 
なので僕は【愛着・発達障害・忠誠葛藤・喪失体験・トラウマ】の生育歴上の掛け算で、現在の状態と今後の支援の優先順位を考えるようにしています。
 
 
そして、最後にはやっぱりコレ。
〜その際に、援助者の側に焦点を当てることも、一つの方法として有効ではないだろうか。臨床場面で出会うのは不幸な記憶を背負ってきた人々であることが多いが、そのような彼らを取り巻く援助者側の幼児期記憶観が、クライエントに何らかの影響を及ぼすであろうことは十分考えうることである。多くの先人による文献や臨床経験でも、こころの糧はその個人の子ども時代と深い関連を持ち、子ども時代に根ざすものと言われている(村瀬,2003)。そこで、広く対人援助に関わる人々の子ども時代、記憶観についての検討も視野に入れておく必要があるだろう。
 
 
鋭い指摘ですよね。苦しい時にその人の本性が現れると言いますが、苦しい時に踏ん張れるかどうかは、これまでの不安な時にどのような支えがあったかの原体験、つまり支援者自身の獲得しているアタッチメントパターンが如実に現れます。
 
これは他人事ではなくて、この論文で扱われている内容は、そっくりそのまま支援者自身に適応できると僕は思っています。
 
支援者自身が自分の幼児期記憶をどのように思い出し、感情を伴う語りとして、葛藤も含めて自覚してこころの整理をつけて語ることができているのかどうか。つまり、自己覚知とセルフケアの重要性です。
 
しかし、原体験の親との関係が悪いとアタッチメントパターンは変われないのかと言えばそうでは無くて、LSWのように信頼できる人に寄り添ってもらった経験とこのような自己物語の再構成によって、幼児期に獲得したアタッチメントパターンも成人期には変化できると言われています。
 
また成人になると愛着の対象は親から別の人(恋人・パートナーなど)に移行するということですから、【第46回】で触れた「オキシトシン・システム」で考えると、オキシトシンが分泌されるような同調行動をしてくれる存在、つまり自分の味方になってくれて「癒し」を与えてくれる存在が今の生活にいれば、支援者自身がストレス負荷を抱えても「現在」の安全基地に戻ってエネルギー補給して、また仕事に戻ればいいわけです。
 
やっぱり相談者の苦しみを一緒に抱えるのは、支援者にとってもシンドイこと。それを「そんなこと思ってはいけない」と否定してしまうのは、感情抑圧や自己否定そのものだと思います。そして、その「苦しい感じ」や「いっぱいいっぱい」のサインは、そんなに隠し切れるものではないし細かい言動の端々に現れてしまうので、実は結構バレていると思った方がいいです。本当に相手の顔色に敏感な相談者は多いですから。
 
だからこそ、支援者も支えてくれる人が必要で、支援者がすでに経験しているそのような支え合い助け合いの「関係性の連鎖」を相談者に体験として伝えていく。そして、いずれ相談者がそんな体験を身近な人に与える側になっていく。そういう「体験のバトン」を渡して広げていく、僕のイメージする対人援助ってそんな感じです。
 
 
〜こころの糧はその個人の子ども時代と深い関連を持ち、子ども時代に根ざすものと言われている(村瀬,2003)。そこで、広く対人援助に関わる人々の子ども時代、記憶観についての検討も視野に入れておく必要があるだろう。
 
本当にそう思います。
 
もちろん支援者にも、それぞれの過去があり、それぞれの今がある。もちろん良い事もあれば悪い事もある。そして、対人援助は生身の人と人とのぶつかり合いになりますから、どうしたって自分の価値観や人生観が現れる。それは否定がしょうもない現実で、隠し切れないことだと思います。
 
だから、そう言った自分の人生経験を、どのように解釈し、自分の資質として上手く利用したり、苦手を意識してコントロールに努めたり、そのような事にLSW実施者は向き合わなくてはいけない。なぜなら、LSWはそのようなことを相手に求めることになるから。
 
LSWに限らず、実際にやったことない人にやったことない事を勧められたり、大丈夫なんて言われても、信じられないし「本当に大丈夫?」ってなりますよね。
 
やっぱり、なんの苦労も経験していない人の言葉より、自分がやってみた失敗や後悔を糧にして上手くいかない葛藤や劣等感も理解しながら、よりよい経験を相手にしてもらうためにサポートしようとしてくれる、そんな人の言葉やアドバイスというのは、やはり重みや渋さが違うなと思います。
 
そして、その軽さや重みの違いは、言葉でなく非言語的な雰囲気で相手に伝わるもの。
 
もしかしたら、LSWにおける支援者の"覚悟"とは、支援者自身が「ありのままの自分」を受け入れて、自身の人生経験を仕事の糧にできるか。
 
そのようなことを言うのかもしれませんね。
 
 
ではでは。
 

【第79回】LSWと「ソリューション・フォーカスト・アプローチ」

こんにちは。管理人です。
 
新年度のスタートです。皆さま、いかがお過ごしでしょうか。
 
平成30年度。平成生まれが30歳ですよ。時の流れは早くて恐ろしいですね。そして平成31年4月30日には、ついに「平成」の時代が終わり2019年5月1日から「新年号」が始まります。
 
つまり今年が「平成」年度の"ラストイヤー"なんです。思えば、この平成30年間のPC・スマホの普及で、暮らし方・働き方はホント様変わりしましたね。
 
昭和世代の人間からすると、今後、AIの進化が著しい時代の変化の"波"にドンドン乗り遅れていくのではないかと、いささか不安になります。
 
新年度最初のコラムは、そんなように不安が募り、ポジティブな将来や明るい未来がなかなか描けない相談者へのアプローチの紹介。
 
 
それは、

『ソリューション・フォーカスト・アプローチ』

 
英語だとSolution Fouced Approach(SFA)。
 
1978年にミルウォーキーに設立されたBFTC(Brief Family Therapy Center)で開発された短期療法(ブリーフセラピー)の一つ。
 
日本語では「解決志向アプローチ」と呼ばれているもので、ご存知の方も多いですよね。
 
Wikipediaの説明を借りると、
「従来の心理療法諸派とは異なり、原因の追究をせず、未来の解決像を構築していく点に特徴があり、結果的に短期間で望ましい変化が得られるとされている」
 
という特徴があって、僕はこのSFAの考え方や質問の仕方は、とてもLSW的で重なる点が多いと思っています。
 
実は以前【第25回】あいまいな喪失とトラウマから回復⑨http://lswshizuoka.hatenadiary.jp/entry/2017/08/16/081320
で紹介されている質問や考え方、
 
〜「問題解決に固執しすぎたりしているなら、人々に、もし違う対処法が可能ならどのようにしたいと思うか、将来どんな風に同じ状況に際して対処できると思うかなどを質問して」
 
まさにコレなんです。SFAというのは。【第25回】からだいぶ時間は経ってしまいましたが、今回はそんなSFAの僕なりの解釈をまとめます。(ちゃんとした話は書籍を参照ください)
 
 
まず「解決志向アプローチ」を辞書的に整理からすると、デジタル大辞泉には、
 
 
【解決】
  1. 問題のある事柄や、ごたごたした事件などを、うまく処理すること。また、かたづくこと。「紛争を解決する」
  2. 疑問のあるところを解きほぐして、納得のいくようにすること。また、納得のいくようになること。「疑問が解決する」
 
【志向】
考えや気持ちがある方向を目指すこと。
 
ちなみに、
・【指向】も志向とほぼ同義で使われるますが、志向の方がより「気持ち(志)が向く」の意。
・【思考】考えること。経験や知識をもとにあれこれと頭を働かせること。
 
 
とあります。なので「解決志向」を噛み砕くと、「問題や疑問がうまく処理されたり納得のいく状態に考えや気持ちが向いて目指すこと」なんて感じでしょうか。
 
当たり前と言えば当たり前のことなんですが、注目すべきは【解決】の説明の中に「原因」という言葉は一つもないこと。
 
そうなんです。問題解決=問題や原因を取り除く的なイメージをどうしても浮かべがちですが【解決】のそもそもの意味自体「原因特定&原因除去」にアプローチを限定していないんです。
 
もちろん原因を特定して取り除くアプローチが有効な場合もあります。例えば品質管理やウィルス疾患など、医学モデルの治療的(cure)な、直線因果で捉えられる現象の場合です。
 
しかし、人生や人間関係における問題はそんなに単純ではありません。児童福祉の分野もそうです。貧困、親子関係、発達障害知的な問題などなど色んな要因が秘伝のタレのように継ぎ足し継ぎ足し家族何代も連鎖して複雑に絡み合って現在の形に至っているケースが多いですよね。
 
じゃあ、原因が特定せずに何をサポートするのか?
 
それは【第18回】「cure」と「care」の違いhttp://lswshizuoka.hatenadiary.jp/entry/2017/07/25/200117
で触れたcare[ケア]の部分かと思います。人生や生活全体を見て、出来るケアを考えるわけです。
 
じゃあ何が必要という話しですが、SFAの基本姿勢は、相談者こそが自分の解決の方法を知っているハズ、カウンセラーは知らない方法を教えてもらう not knowing(知らない)の姿勢です。
 
なので僕の中でケアやSFAに共通するイメージは、相談者の自分自身をケアする力を引き出す(エンパワメント)する感じです。
 
 
例えば、頭の中が「問題」でいっぱいの相談者がいるとします。
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だけど、それまで何とか人生やってきたわけですから、人生の中で「マシな時期」「そこまで悩まない時期」もあるハズなんです。
 
しかし、「いま」に余裕がなくなると…。

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ですよね。問題が無い状態は「当たりまえ」。アノ問題コノ問題さえなければ「上手くいく」のにと、自分を苦しめている"原因"や"問題"を取り除くことで頭がいっぱいです。
 
僕はこれまで相談の中で幾度となく、
「この子が私を苦しめる」「この子さなければ」
という台詞を聞いてきました。
 
よく親なんだから「もっとこうして」「我慢して」なんて更なる苦行を強いるような支援者の言葉を耳にする事があるのですが、これは目の前の相談者の気持ちに寄り添えて無いと思うんです。
 
だって、子育てシンドイですもん。身体は疲弊しきって、自分の時間もロクに取れやしない。家族からは協力どころか「ちゃんと躾けろ」と責められたり、おまけに学校や地域から「あなたのお子さんは◯◯で困るんですよ。どういう教育してるんですか⁉︎」なんて責められたら、もうやってられない、やってられない、「てられな」(引用:ブラマヨ吉田)って感じになりますよね。言うまでもなく、まず必要なのは、その人自身が余裕を持てるようにケアされることだとおもいます。
 
そして、そんな余裕のない状態で「今後どうしていきたいですか?」なんて聞かれても、

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そりゃ、明るい未来なんて想像できないし、この先だって上手くいきっこないと思いますよね。とりあえず「ラク」になれれば、それでいいと思うのは当然です。
 
なので、まずは大変な話しを共感的に聞いて、「この人なら話してみよう」と思う安心感を持ってもらう事がまず支援・ケアの第一歩かなと。
 
そして、そう言った「いま」の安心やポジティブな感覚がある中であれば、「過去」の安心やポジティブにもアクセス想起しやすくしやすくなります。
 
例えば、いま相談に来られるくらいの生活は送れているわけですから、1日の中で「少しマシな時間」や「誰かの支え」がきっとあるハズ。
 
そして、意識からは逸れているけど、もっと長いスパンで見たら「よく分からないが上手くいった時期」「良くも悪くもない時間」もあるハズ。
 
そんな「例外さがし」を相手ペースに合わせながら少しずつ繰り返して、影の部分に少しずつスポットライトを当てて行く作業をしていきます。

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もちろん「でも…」「そうは言っても…」とネガティヴトークに戻ることは多々ありますが、そんな苦しい気持ちにまず寄り添って「いま」の安心感の中で、少しずつ「過去」の安心を掘り起こしていく。
 
別に初めからポジティブトークにならなくていいんです。「なんでもない」「どうでもいい」トークで、とりあえず頭の中の「問題志向」「問題への意識」が薄れていけばいい。
 
視野を広く、頭の中の柔軟性を高めるイメージ。「問題問題問題」で凝り固まった志向や思考をストレッチして徐々にほぐしていく感じ。
 
そして【志向】が「過去ー現在ー未来」の横軸と「プラス・マイナス」の縦軸を動く自由度が高まっていくと、だんだん連想が広がって「あ、そう言えば」と芋づる式にエピソードが出てきます。
 
そうやって「現在」も「過去」のポジティブな事もあればネガティヴな事も受け入れて、「人生山あり谷あり」だから「未来」だって大変で辛いこともあるけど良いことや楽しいことだってあるはず、とバランスを取れた将来を展望できるようになると思うんですよね
 
こんな感じで、その人の人生に対する「プラス・マイナス」「過去ー現在ー未来」のマッピングのバランスを整えていく、そんな支援やLSWのイメージを僕は持っています。
 
当然、相談はじめに持っている【志向】のバランスや傾向は人それぞれで、そのタイプは、
『【第19回】ジンバルド時間志向テスト』
でも扱っていますので参考にしてください。
 
そして、そのバランスを整えたり[過去ー現在ー未来][ポジティブ・ネガティヴ]それぞれをつなぐには、まず未開の部分に意識を向けられることから始めないといけない。
 
それは今までの慣れたモノの見方から、少し慣れない方法で物事を見る作業をすることになるので、考え方の「柔軟性」が必要になってきます。
 
そのプロセスを最近ニュースが多い野球で例えると、いきなりポジティブな未来を想像させるのは、いきなり[遠投]したり[速球]を求めるようなもの。投げようとしても上手く動かないし肩を壊してしまいます。
 
なので、ウォーミングアップのジョギングやストレッチをして身体全体を温めて可動域も広げて、ボール握った感触確かめて、軽いキャッチボールのやりとりから初めて、ちょっとずつ投げる距離やスピードを伸ばしていきますよね。
 
凝り固まった「思考」「志向」にも、そんな柔軟性を段階的高めるアプローチは必要だと思うんです。
 
ただし、発達障害みたいに認知や感覚に偏りがあると、そもそもの柔軟性が低いのでそれは特徴に合わせたストレッチが必要。
 
そしてトラウマ症状が出ている人は、炎症を起こしているので、まずは炎症を押さえることが必要。また炎症が治まっていても「古傷」がある状態ですから、固定して痛くないからOKではなくて再発予防のために可動域や柔軟性をある程度取り戻すリハビリはしておたい。
 
また喪失体験が放置されている人は「未完の感情」が凝り固まっているので、動かす前に温めたりマッサージしたり徐々にほぐしていくことが必要。
 
という感じで、それぞれの状態によって【志向】や【思考】をほぐす方法や段階は違ってくるだろうと思います。
 
また「人生、山あり谷あり」といっても、児童福祉に関わる親も子も過酷な生い立ちを辿っている場合は珍しくありませんから、

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確かに似たような[悩み]を抱えていても、使える資源や過去のプラス体験の量に"個人差"があるのは否定しようの無い現実だと思います。
 
さらにLSWを検討する子どもというのは、生活場所や身近な人の変遷が多すぎて、そもそも過去を想起する手がかりが乏しいがゆえに、自分の人生そのものがイメージできない状態と思います。
 
もちろん家庭で暮らせない原因・理由だけを辿っていけばネガティヴな情報で溢れていくとは思います。しかし、生い立ちを丁寧に追っていけば、その子にとっての大切な人の存在や、その子に関わってきた大人たちの「主観的な想い」は必ずあると思います。たとえ思い出せなくても、その人がアクセスできる意識や記憶にない「例外」の情報はきっとあるはず。
 
そんな情報収集からLSWは始まりますが、その情報収集そのものが「その子」を深く理解するプロセスになります。
 
で、収集した情報をどんな範囲や順番で本人と扱っていくかというアプローチのイメージは、SFAと似ていると思います。
 
それは、SFAの「原因の追究をせず、未来の解決像を構築していく」基本的な考え方が、
LSW後の支援者が期待する子どものイメージ
将来に向かって前向きになれること
と重っていると思うから。
 
よくLSWについて、こんな質問を受けます。
「どんな情報を集めたら良いですか?」
「どこから整理をしたらいいんですか?」
「親の事をどう伝えたらいいんですか?」
 
その時の僕の応答はだいたい同じ気がします。
「本人は何を知りたいと思っているの?」
「知ることで子どもにどうなって欲しいの?」
 
そして、子どもの想い・大人の想い、それぞれを確認して大切にしながら、あとは本人と何をどこまでどう扱っていくのか相談して決めたらいいんじゃないの?、と。
 
でも、これはLSWに限らない相談援助の全般に言えることだと思うんです。相手の状態やニーズに合わせて、それこそ答えは相談者こそが知っている、支援者の姿勢はnot knowingが基本だと思うんですよね。
 
なので、まずは相談者が落ち着いて話せること、さらには表現された気持ち感覚をそのまま受け止めてもらえる安心感が重要で、それが信頼関係や関係性構築ということにつながるんだと思います
 
他人から気持ちや存在を大切にされて、自分の気持ちや存在を大切する感覚を体感して掴んで、それから少しずつ自分で自分自身を認める大切するセルフケアができるようになっていく。
 
そして、そういう自分自身の感覚や気持ちの尊重があって、ようやく他人の感覚や気持ち尊重できるようになっていく。
 
虐待の世代間連鎖、支配ー被支配と言った悪い意味で「関係性の連鎖」はよく扱われますが、その連鎖は悪い環境から一刀両断で切り離せば解決ではなくて、断ち切られた痛みも癒されながら、少しずつオセロの黒を白に変えていくように地道に「良い関係性」を積み重ねて全体の割合バランスを変えていく支援が必要と思います。
 
その良い関係性とは、自分の気持ちも相手の気持ちも大切にする「協働」の姿勢、これが関係構築だと思います。
 
なので「親だから」「お兄ちゃんだから」「支援者だから」何でも受け入れなさい我慢しなさいという関係は、無理や不満が積もるので、結局は長い目で見ると安心で安定的な関係にならないと僕は思います。
 
なので、支援者もセルフケアが必要だし、安全や安心感を守るための限界「枠」の設定も必要。支援者ひとりで相談者の人生を抱えることは出来ませんから、多職種で多機関で手を取り合って、協働でその人を支える体制を作る。
 
そんな家族関係や機関連携の話も、家族・チーム全体の「バランス取り」で考えることができます。
 
LSWが「特定のプログラム」でない理由は、その支援や目指す姿が「バランスを取る」ということであることで説明がつくかな、と思っています。
 
元々のバランスが違えば、支援やアプローチの仕方も当然異なるから。
 
そういったアプローチや考え方のヒントになりそうなトピックを、今年度も引き続き紹介していきたいと思っています。
 
 
でも、どんな支援でも共通することは、
 
「答えのないことだから、一緒に考える姿勢」
「落ち着いて・安心して・協働して」
 
このような体験の連鎖を提供する関わりなんだろうな、と思っています。
 
この「まごのてblog」がそんなLSWについて考えるプロセスの手助けになれば幸いです。
 
ということで、今年度もお付き合いよろしくお願いします。
 
ではでは。

【第78回】「育成の可視化」で見えた"日本的"組織の課題

メンバーの皆さま
 
こんにちは。管理人です。
 
いよいよ今年6月に行われるサッカーW杯ロシア大会まであと3ヶ月を切りました。
 
親善試合のマリ戦、ウクライナ戦は散々でしたね。あの内容なら不安を煽るニュースが多いのは当然ですが、一部ではハリルホジッチが本戦に向けて手の内を隠しているのでは、という説も出ています。
 
「敵を欺くには、まず味方から」と言いますが、監督の意図は選手にも隠されている?ようで。「戦術の浸透が…」「連携構築が…」と言う声もありますが、歴史をたどればメンバー固定して連携を高めてスカウティングで丸裸にされて玉砕したのがザックJAPANの2014年ブラジルW杯。
 
そのブラジルW杯でアルジェリアを率いて、毎試合メンバーや戦術を変える「カメレオン戦法」でベスト16で優勝国ドイツをギリギリまで追い詰めたのが現日本代表監督ハリルホジッチ
 
確かに、海外クラブに所属する日本人選手は増えましたが、世界トップリーグ目線で見れば中位〜2部チームの「並」の選手の集まり。客観的には決して個人のクオリティーで他国を圧倒できるメンバーが揃っているわけではありません。
 
実力的には出場国ほとんどが日本より格上ですから、まともにやり合っても勝算は低いわけで。もしかしたら水面下で「弱者の兵法」としての戦略が着々と進んでいるのかもしれません。
 
果たして。いったい3ヶ月後にどのような結果と報道になっているのか。
 
まぁ監督目線で考えれば、代表チームはどうしたって練習時間や活動時間が限られますから、クラブのような「戦術や連携を深める」アプローチより、限られた手持ちの「駒」を活かしてどう最大限の成果に繋げるか、といった将棋的・軍師的なアプローチになるのは当然かと思います。
 
実際に、ロシアW杯出場を逃した強豪国イタリアのある代表選手は解任された前べンドゥーラ代表監督について、こんな発言を残しています。
「ベントゥーラが持っていたのは(高度に)戦術的なビジョンだった。クラブチームであればうまくいったとしても、時間が限られた代表チームでは戦術的な概念を(しっかり)落とし込むのが難しい。時折、ボールを持った局面で、(ピッチ上の)全員が混乱した。たしかに組織は重要だが、代表チームでは戦術がすべてではない」(2018年3月19日『ガゼッタ・デッロ・スポルト』電子版より。カッコ内は筆者が補足)【引用】http://number.bunshun.jp/articles/-/830304
 
同じサッカーと言えども、クラブにはクラブの、代表チームには代表チームの持ち時間に合わせたアプローチが必要なようです。そして、代表選手「個」の育成は、その国の育成アカデミーの仕事であって、代表監督の仕事は「その素材をどう活かすか」だと思うんですよね。
 
アイルランドみたいに人口33万人の国なら、市内選抜レベルなので同じメンバーでずっとやってますから連携も抜群なんでしょうけど。
 
今回コラムは、そんな個を育てる「育成システム」に焦点を当てた記事から。
 

村井チェアマンが語る育成の可視化

『フットパス』で見えたJの現在地

https://www.footballista.jp/interview/43046

 
2015年からJリーグで導入されている『フットパス』とは、ベルギーのベンチャー企業が独自に開発した「クラブの育成組織を評価するシステム」このこと。簡単に言うと第三者評価です。
 
いま児童福祉の施設に盛んに入ってきているアレですが、サッカー界の第三者評価『フットパス』システムと日本に対する評価が面白いんです。
 
まず記事で紹介されているのが前回2014年W杯ブラジル大会の優勝国ドイツ。今でこそ現代的なサッカーを展開していますが、過去には「ゲルマン魂」という名の根性や屈強なフィジカルを、武器に戦っていた時代がありました。
 
しかし、2000年EURO(ヨーロッパ選手権で1勝もできずグループステージで敗退。どん底まで落ちた時に始めた育成改革の一つとしてドイツ・ブンデスリーガで広く採用された仕組みが『フットパス』。
 
その仕組みの中で育成された「フットパス申し子」たちが、見事2014年W杯優勝の原動力となったと言う話しです。
 
以下は村井チェアマンのインタビューの一部。
〜「フィジカルで戦うチームというイメージだったドイツが、あの細かいパス回しをやるわけです。私はDFB(ドイツサッカー連盟)がしばらく開示していたユースのサイトを見ていましたが、それが面白いんですよ。U-17ドイツ代表の合宿中、宿舎で普通なら『明日の試合はこうだ』というミーティングをやると思いきや、ですよ。こっちの部屋は数学の授業で先生が関数を教えている。またこっちの部屋では地理の授業をやっている。落ちこぼれの子に向けた補習かと思ったら、そうじゃないんです。自分で観察し、“考える力”が最後には大事になるから、選手たちみんなにそれらを行っている、と。片や我われが何をしていたかというと、シュート練習やフィジカルトレーニング、つまりテクニカルな部分が主軸でした。もちろんそれらも大切なことですが、ワールドカップ優勝国の育成はそれだけではなかった、ということです」
――ドイツでは育成年代から「考える力」がより重要と捉えているんですね。
「考える力、自分で判断する力、ゲームのオーナーシップを持つ力は、前提として絶対必要なものなんです。『フットパス』の指標でもそこは大きく求められるし、ドイツは以前からそれをやっている。『フットパス』の評価で欧州が『100』とすれば我われはまだ『40』くらいという自分たちの現在地をつかんだので、ようやくそこに着手し始めたところです。育成の課題にいち早く気づいた勘のいいJクラブは、どんどんエンジンがかかっていますよ」
 
足元の技術だけでなく『自分で考える力、自分で判断する力、ゲームへの影響を与える力』の育成も必要である、と。
 
現代サッカーにおける判断スピードの重要性は、以前に【第64回】コラムhttp://lswshizuoka.hatenadiary.jp/entry/2018/02/09/104303
で「脳内インテンシティ」というトピックで扱いましたが、
 
日本のシステムが個人の「考える力」や「判断する力」の育成することについては、欧州の半分以下の評価であると。
 
これは果たして、Jリーグクラブに限られた話しでしょうか。
 
 
話を続けます。
 
 
で、フットパスはどのような観点でクラブの育成システムを評価するかと言うと、
・各クラブから提出された資料
・訪問してのヒアリング
・練習や試合の分析
を通じてクラブの「フィロソフィー」「カリキュラム」「メソッド」「ミーティング」「選手評価」「情報共有」「戦略」「構造」「HRM(人事管理)」「運営管理」「チーム強化」「個の育成」「タレント発掘(リクルート)」「スタッフ」「施設」「生産性」など幅広い項目からトータル5000点満点で査定すると。
 
クラブへの質問項目は300件くらいあって「とにかく細かい」ことが特徴で、指導者のことから経営者のことまでホント根掘り葉掘り聞かれるということです。で、そのフィードバックは感情抜きで、課題をズバッと指摘してくるんだそう。
 
評価基準の明確化と客観化ですよね。
 
特に日本は"外圧"への抵抗が強いと言われていて、児童福祉施設でも第三者評価の話題が上がった時は相当の反発があったと聞きます。
 
どうやら評価と聞くと「出来ないことを責められる」「粗探しをされる」そんな心理が働くようです。僕はこれは日本の文化・教育で積み重ねられた価値観の影響が多分にあるのではないか、と思ってしまいます。
 
声をかけられるとには注意される時、怒られる時。「自分を見つめる=反省」、自己理解は自己成長のためではなく、弱点を修正するため周囲に合わせて迷惑をかけないための叱責。
 
そんな思考パターンが染み付いたような、日本社会は子どもの頃からそんな体験を繰り返して育った大人たちの集まりなのかもしれません。
 
だって第三者評価なんて、組織のトップが「われわれの組織の成長のために、自分たちで気づけない点を教えてもらおう」とポジティブ変換して説明すれば済む話ですよね。
 
三者評価は「受験本番」ではなく謂わば「模試」ですから、評価をもらうことがゴール目的ではなくて、監視されることが目的ではなくて、その結果をどう解釈して自己成長にどう活かすか、より良いパフォーマンスにどう繋げるかが大事なハズだし、それが本来の目的なわけですから。
 
 
で、「日本の評価は?」というのが次の記事。
 
Jクラブのアカデミーを世界基準で査定すると? 育成評価システム「フットパス」が指摘した"日本的"組織の問題
 
フットパスが指摘した日本的組織の問題とは、
「属人的な指導」と「指導者の育成計画」。
 
つまり、指導者個人に委ねられる裁量の幅が大きく
ー「クラブとしてどういうチームを目指すのか」
ー「どういう選手を育てたいのか」
の共有が曖昧であると。
 
チームの哲学(フィロソフィー)や方向性(ビジョン)の話しですよね。
 
選手評価やコーチングの手法が現場に委ねすぎている点が問題視されていて、監督が代わればサッカーも変わる、個人に対する評価やアプローチも変わるといったことを「当たり前」にすべきではないと。
 
まさに、サッカー日本代表が陥っているのがこんな感じですよね。W杯終わって監督が変われば、目指すサッカーもガラッと変わる。監督の人選が強化ビジョンや育成フィロソフィーと連動したものとは思えないし、そもそもの考え方の軸もあるようには外からは見えない。
 
しかし、これもサッカーに限った話しでしょうか。
 
よくあるのは私立強豪校は、1人の指導者が20年も30年も同じチームをみることで、組織としての一貫性をカバーしているのですが、それこそ「属人的な指導」の象徴です。
 
個人に頼った組織運営です。
 
しかし、組織の哲学を共有した複数の目が入ることで「あいつはこっちのポジションのほうが生きるんじゃないか?」なんて議論が、異なる視点や感性を持った指導者同士で自然と成立するようになると。
 
あれ?
 
これは「多職種・多機関連携」におけるオープンな対話そのものですよね。
 
このようにフットパスで指摘されている状況は決してサッカーに限った話しではなくて、日本的組織の課題を象徴しているような気がするんです。理念や哲学を抜きにした「なんとなく空気を読んだ場当たり的な」組織運営が当たり前に行われている。
 
逆に言えば、日本人は「気が効き過ぎる」ので、なんとなくマネジメントでなんとかなっちゃう。でも、そういう組織は「気が効く個人」が抜けた瞬間に一気にバランスを失って崩壊します。
 
こんな危うい組織で、安心して個のポテンシャルを発揮したり能力開発に力を注ぐことができるわけがありませんよね。個の役割ミッションに向けるべきエネルギーが、組織維持や安定のために持っていかれるわけなので。
 
フットパスが指摘する、
ー「組織としてどういうチームを目指すのか」
ー「どういう人材を育てたいのか」
ー その共有が曖昧。
 
言葉を少し変えれば、日本の多くの組織や多機関連携、子育て方針等々に広く当てはまることのような気がします。
 
 
さらに、もう一つフットパスがJクラブの指導に関して疑問視したのは「IDP(インディビジュアル・ディベロップメント・プラン)がない」ということ。
 
つまり「個別の育成計画」です。
 
〜Aという選手がいたときに彼個人のどこをどう強化し、心理的にどう導いて、最終的にどういう選手にしていくのか(場合によっては、そしてどう売るのか)という計画がそもそもない。…そして、チーム全体の練習が重視されるなか、個別的なトレーニングがなされていない。
 
〜全クラブの平均で最低評価が「個の育成」であったのはこのためと言っていい。
 
いかにも日本的な組織の「なんとなく周りに合わせて見て学べないやつが悪い的な」「空気を読んで右へならえ的な」の問題点のど真ん中をズバリ指摘していますよね。
 
そして「IDPがない」と指摘されたのは選手の育成だけでなく、実は"指導者の"育成計画についても。
 
〜その指導者はどういう部分に強みがあって何を苦手としていて、これからどう育てていくべきなのか。そうした個別的なファイルや計画がない点についてもフットパスでは疑問が示された。
 
逆に言えば、海外サッカークラブには指導者の特性に合わせた指導者の育成計画や個別ファイルが存在して当たり前、ということですよね。
 
この情報は斬新でした。
 
もうすぐ新年度が始まりますが、この4月から採用や異動してくる職員は、子どもの社会的養育を担う大人たちです。職員はどういう部分に強みがあって何を苦手としていて、これからどう育てていくべきなのか。
 
さすがに、これに異論はないと思いますし、チューターや先輩指導員と呼ばれる人は、全体的な育成計画はあっても、その人の特徴を掴みながら、個性に合わせて個別フォローをしているハズです。
 
がしかし、これが明文化されていたり形に残っていなければ、そんなスペシャルな個別的な育成支援は「個人のサービス」として扱われて適切な評価もされないし、組織でそのノウハウは伝承されていかない。そんなことをフットパスは指摘してくれていると思います。
 
また新人の個別育成計画はあったとしても、新人を育成する中堅ベテランをどう育てていくのかの個別の育成計画やファイルまでは聞いたことがありません。
 
これこそ組織のフィロソフィーやビジョン
ー「組織としてどういうチームを目指すのか」
ー「どういう人材を育てたいのか」
の共有が不可欠ですよね。その大枠が示された中で、個性を発揮して、職種別の多様な視点を活かして対話して、一つの組織として成長発展を目指していく。確かにその通りですし、多職種連携や地域連携の形そのものだと思います。
 
でも村井チェアマンが、
「育成の課題にいち早く気づいた勘のいいJクラブは、どんどんエンジンがかかっていますよ」
 
と言うように、日本の児童福祉分野でもこのような育成の課題にいち早く気づき、エンジンかけている人たちはもちろんいます。
 
例えば、施設の小規模化ユニット化の議論はここ数年間続いていますが、国乳児福祉協議会HP

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乳児院における小規模化あり方検討委員会」の報告書(H26.9)より
 
このように理念に基づいた組織運営の必要性が掲げられていますし、「改訂 乳児院の研修体系― 小規模化にも対応するための 人材育成の指針 ―」(H27.3)には、人材育成の必要性についてかなり熱く書かれていて、かつスッキリまとめられています。

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「初任職員にむけた研修小冊子 ~乳児院の養育を担うスタートをきるために~」より
 
 
成長に必要な項目も分かりやすしい、全ての項目について同時並行で学んでいくというもの現実に即していますよね。これを作成するだけでもすごいエネルギーですし、かなりわかりやすく整理されていると思います。是非、原本をHPにて確認してみてください。
 
しかし、『フットパス』はこのような組織理念や人材育成の体系の有無は言うまでもなく、これがどう浸透し、どう実行されているのか細かく査定し、さらにJリーグは「個別の育成計画」「指導者の育成計画」がないと指摘しているわけですから、たしかに手厳しい。
 
いったい児童福祉分野の組織が、フットパスで査定されたら5000満点で何点の評価が下されるのか、という感じですよね。
 
しかし、よく考えたら欧州の伝統的なサッカークラブは創設100年を超えていますが、Jリーグは発足1993年発足でその歴史はわずか25年。
 
そして、児童福祉の歴史をたどると、日本が「子どもの権利条約に批准したのが1994年と、偶然にもJリーグ発足とほぼ重なるんですよね。
 
なので、もしかしたら日本のJリーグ児童虐待も似たような段階で、てんやわんや試行錯誤でとりあえず一周やってみましたくらいの時期と言えるのかもしれません。
 
"キングカズ"というレジェンドはバリバリの現役ですが、多くのJリーグ初代の選手は引退して監督や指導者となっています。そこでようやく二代目三代目と組織を発展させることが必要と勘付くいた人達が、本腰を入れて組織の理念や継続的な人材育成計画が取り組み始めた、「計画作って→普及して実践して→チェックして→改定して」PDCAサイクルで言えばようやく「P」が出来つつある、そんな段階ではないでしょうか。
 
組織的な発展や成熟は、まだまだこれからと言うことですかね。まぁ人材確保の観点でいうと、Jリーグと児童福祉は雲泥の差がある気がしますが、街クラブが各地に散らばっている点も似ているし、結局は各クラブの運営努力なしには組織の発展はないと思います。
 
ー『自分で考える力、自分で判断する力、ゲームへの影響を与える力』を育成する点において、日本のシステムは、欧州の半分以下の評価である。
 
いま児童福祉ではしきりに「専門性の向上」と叫ばれていますが、何が専門性なのか、その専門性を使って何を目指すのかの共有がイマイチだと個人的には思います。
 
確かにサッカーでいう足元の技術も大事ですが、それ以上に「自分で考える力、状況把握、状況判断の力」が大切で、相手のペースと支援や関わりのタイミングが合って、はじめて持っている技術が活きてくると僕は思います。
 
そして、それら「個」を伸ばす「組織」の発展・成長も同時に考えていかなければいけない。
 
そう思うと現場に求められている力も、人材育成の課題も、Jリーグ・児童福祉ともに共通している点は多いよなぁ、と感じます。
 
各コラムで海外のやり方をそのまま輸入して「考えなし」に日本に当てはめることへの警鐘は鳴らしていますが、このフットパスは「多職種連携コンピテンシー」(参考【第24回】コラム)の組織版のような印象で、個人ではなく組織の「自己理解」や「自己内省」を深めるシステムとして、他分野でも応用できる面白い取り組みだなぁと思いました。
 
ではでは。
 
 

【第77回】人生のバランスを整える仕事

メンバーの皆さま
 
こんにちは。管理人です。
 
いよいよ今年度も今週で終わりです。早いですね。
 
来年度に向けた準備で、バタバタ忙しくしている方も多いのではないでしょうか。
 
そして「まごのてblog」も気がつけば【第77回】。
次にラッキーセブンが並ぶには、あと700回更新が必要ですから…何年後ですかね。
 
こんなくだらない事を言うような、全体的に落ち着かずフワフワした雰囲気が、毎年この時期から5月くらいまではあるなぁと思います。
 
そんな感じも春らしいなぁ、と。
 
 
で、今回はアメリカの大学スポーツの記事からの話なのですが、バスケ歴25年の僕からすると、嬉しい日本人の話題を少し。
 
アメリカの大学スポーツは人気面、興行面ともにプロスポーツ顔負けの規模をほこりますが、その中で今シーズンはかつてないほど「NCAAアメリカ大学バスケ)」のニュースが日本で取り上げられていました。
 
その理由は、この2人の存在。
 
渡邊 雄太(わたなべ ゆうた、22歳、206cm)
八村塁(はちむら るい、20歳、203cm)
 
2人ともこのサイズでありながら身体能力も高く、ドライブ有り3ポイントシュート有りの日本規格外オールラウンダーで、高校時代の無双っぷりは日本バスケ界では有名でした。そんな若者が今アメリカの大学一部リーグNCAAで注目される存在に。
 
現在、渡邊 雄太はジョージ・ワシントン大の4年。このサイズに加えて長い腕、俊敏性で相手のガードからインサイドまで抑えられる「ディフェンダー」として評価が高く、3年時からはチームのエースとして活躍。惜しくもNCAAトーナメント本戦出場ならずしてシーズン終了してしまいましたが、来年以降の活躍の場が楽しみな選手。
 
ちなみに、ジョージ・ワシントン大は2016年8月に来日し、日本代表と琉球ゴールデンキングスと親善試合をしていますが、日本代表もキングスも主力抜きのジョージ・ワシントン大にボコボコにされています。
【参考】
 
 
そして、八村塁の活躍とポテンシャルはさらに上をいっています。現在ゴンザガ大の2年ですが、すでにU-17世界選手権で得点王、昨年U-19世界選手権でも日本を過去最高10位に導く得点ランク2位の実績。さらにゴンザガ大1年目は出場時間こそ少ないもののNCAAトーナメント準優勝を経験し、2年生の今年は本戦ベスト16で敗れはしましたが、シックスマンながらチームの得点源としてチームを牽引。
 
ベナン人(父)と日本人(母)のハーフである八村は、アメリカ人の中に混ざってもトップクラスの身体能力を示していて、すでに来年3年生のシーズン終了時の「2019年NBAドラフト」で全体5位指名を予測するサイトもあるほど全米から注目される選手に成長しつつあります。
 
そんな2人に当然メディアや国民の期待が膨らむものですが、しきりにゴンザガ大のHC(ヘッドコーチ)は「日本の皆さんが期待するのは分かるが経験を積む必要がある」「塁には、まだ時間が必要」とじっくり育てる必要性を訴えています。
 
確かに、英語もわからず文化も違う異国の地での生活は、想像以上にストレスフルなはず。世界中から有望なアスリートの金の卵が集まるアメリカの大学ではその環境適応や競技に集中するためのメンタルサポートへの意識に余念がありません。
 
競技でのハイパフォーマンスを維持し続けるには、技術だけはなくメンタル面の安定、さらにはベースとなる私生活での安定が必要であるということです
 
前置きが長くなりましたが、今回コラムはこのような選手への「メンタルサポート」はプロだけでなく大学レベルでも浸透しつつある、という記事の紹介から。
 
そして、この4月から新しい職場に異動する方も、新任さんを受け入れる先輩たちにも、是非ぜひ気にかけて欲しい内容です。
 
 
米スポーツ界とメンタルセラピー。
恋人と別れる時期が競技成績に影響?
 
この記事は「プロチーム、五輪代表チーム、そして大学レベルでもスポーツ心理学者やセラピストが常駐するのをご存知だろうか」という問いから始まります。
 
スポーツ大国アメリカの4大スポーツ(NBAMLBNFLNHL)やゴルフ、五輪チームでは早くからスポーツ心理学がパフォーマンスに取り入れられていて、ここ10年程でスポーツ強豪大学でも専属の心理学者やセラピストが雇れるようになっていると。
 
ご存知の方も多いと思いますが、アメリカだけでなく、ヨーロッパや南米の各団体球技の代表チームには専属のメンタルコーチやセラピストが帯同するのは割とメジャーになってきてますよね。
 
日本では、ラグビーW杯で「五郎丸」ブームが沸き起こった時、あの "ルーティン" をメンタルコーチと一緒に作り上げていった話しは何度もTVで取り上げられていました。
 
メンタルコーチとは、どんな仕事なのか?その内容は浸透しておらず、一般的イメージは、悩む選手と共に密室にこもって何やらコソコソ話を混むような得体の知れない仕事ではないでしょうか。
 
その点、この記事で紹介されているセラピストの仕事の説明は非常に簡潔で分かりやすい。
 
「人生というのはバランスによって成り立っていて、1つが乱れれば、ほかの部分にも影響してきます。悩みがあれば練習や勉強にも集中できないし、食欲や睡眠にも問題がでますから」
 
これは決してトップアスリートに限った話ではないですよね。我々のような一般社会人でもそうですし、社会的養護で暮らす子どもたちだって誰だって、人間誰しも当てはまると思います。
 
そしてセラピストの仕事は「人生のバランスを整える仕事」だと、この記事では紹介されています。
 
 
なるほど。
 
 
僕はLSWに関わる児童福祉の心理職として10年働いていますが、僕が普段から考えて実践している仕事の感覚やイメージに、この紹介文はピタリとハマると言うか、とてもしっくりくるんです。
 
自分の普段の仕事について、一般の人にもこのように説明すれば、わかりやすいのかもしれませんね。
 
 
そして、
〜学生の悩みは多岐にわたる。スポーツで成功したい本人のプレッシャー、成功してほしいと願う家族からのプレッシャー、怪我による焦り、学業との両立、コーチ、チームメイト、教授、友人との人間関係など。こういった事がパフォーマンスに影響してくるという。
 
こんな状態って、日本の部活やスポーツ少年団に所属する子どもでも普通にありますよね。このような様々なプレッシャーや焦りの中で子どもが日々生活しているという事を、子どもに関わる援助職の大人はしっかり想い巡らせて想像できなくてはいけないと思います。
 
しかし日本の部活だと「メンタルが弱い」→「根性が足りない」→「メンタルと根性を鍛え直す」と休みもなしに過酷な練習を課すアプローチしか頭にない"スポ根"コーチも未だにいるようです。
 
児童福祉に携わる人なら、いやいや学校の先生でも、スポーツのコーチでも「その子」「その人」全体をしっかり見ている人は、自身のポテンシャルや集中力を発揮できない理由の1つに、愛着や家族関係の葛藤、日常的な心のモヤモヤがある事を肌感覚として知っていますよね。
 
そして、社会的養護の子どものモヤモヤのうちの1つに「自分の家族・過去を知らない」という"曖昧な喪失"があるということ。もちろん在宅の子どもだって、急にお母さんがいなくなったり、新しいお母さんがやってきたり、いきなり引越しがあったりしたら当然混乱はするし、何があったのと疑問に思います。
 
しかし「子どもだから」とろくな説明もされず、戸惑いや悲しみ等の感情が適切なタイミングで扱われなかったり、「知りたい」と言う機会も与えられずモヤモヤした状態が放置されているケースが実際はたくさんあるという事。
 
 
〜「あるバスケットの選手は、子供の頃の問題が心に刺さっていて、それが解決できていなかった。家族を呼んで話し合いをしたところ心が軽くなったようで、プレーが見違えるようによくなり、得点率が高くなったケースもありますよ」
 
〜「五輪の年に、新しいことへの挑戦は基本的に勧めません。大きな飛躍を求めてコーチを代えたり、練習環境を変えたりする選手がいるけれど、成功例はとても少ないです。今までやってきたことを続ける方が効果があります」
 
人生のバランスとは、こういう事ですよね。スポーツをしている数時間だけでなく、24時間365日、人生◯年の生活をトータルで考えて、何が必要な支援かを考える。
 
僕はこれが「見立て」であって、スポーツや児童福祉といった分野を問わず"その人"を支える対人援助として共通した姿勢や考え方のような気がします
 
そして、その延長線上の支援の選択肢1つとして「LSW」があるに過ぎない、僕の感覚はそんな感じです。
 
 
そして、LSW実施のタイミングについても参考になりそうな話が続きます
 
〜「もしどうしても変えなければならない部分があるなら、シーズンインする前に解決しなさい、とアドバイスします。コーチとどうしてもソリがあわず変えたい場合は冬季練習の前に変えなさい、と。恋人やパートナーとうまくいっていなくて、『そのうち別れたい』と思っていたら、今すぐ別れなさい、と伝えます。五輪選考会の前にもめて別れるなんてことになったら、目も当てられない状態になります。今別れられないなら、五輪が終わってから別れなさい、と言いますね」
 
〜競技外での人間関係は競技には直接関係ないけれど、競技に集中する環境を作るためには、「確かに」と納得してしまうアドバイスだ。
 
LSWも似たようなことだと思うんですよね。一年や人生トータルで考えて、LSWで過去や現在の家族関係についてどの程度の内容を扱うのが良いのか。例えば、高校受験とかシーズンインしちゃってからガチャガチャやることが人生トータルで考えて、その人のプラスになるのか。
 
場合によっては、あえて今はステイ。人生にとって大事なことだから、現実のこれがひと段落してから、焦らずじっくり取り組もうという話し合いや決断も時として必要だと思います。
 
「人生のバランスを整える仕事」ですから、当然大事なことは、物事を捉えるバランス感覚。細かい部分に気を配りながらも全体的なバランス配分にも気をつける、一つの見方に凝り固まらないように「ミクロとマクロ」「主観と客観」の視点の切り替えを左右に揺れる振り子のように何度も何度も僕は繰り返します。
 
 
前置きでも触れましたが、生活環境や家族関係、友人関係、恋人関係が変わる時というのは、その人の人生にとっての転機、大きなライフイベントであるはずで、他人が思う以上にその精神的負荷や疲労プレッシャーは重いと思っておいた方がいい。
 
「安全第一」と言いながら、そんな大事なコトが何の前触れもなく起こるのは、子どもにとって相当な負担であるということを、里親委託や施設入所を勧める立場の人は、絶対にわかっていないといけない。
 
社会的養護(里親・施設)関係者は、たとえ善かれと思って里親委託したり施設入所させたとしても、子どもにとっての大切な家族や友達、慣れ親しんだ家や地域を喪失しているし、それをケアする(=悲しむ・惜しむ)必要もある意識を常に持っていて欲しい。
 
そして、これは児童福祉関係者だけでなく、阪神中越・東日本・熊本とあれだけの大地震を立て続いて経験し、今でも仮設住宅で住み続け、家族や自分たちの街を喪失した人を抱えている日本の社会全体で、もっともっと共有していかなけばいけないことだと僕は思います。
 
もちろん話した時には理解を示してくれる方も多いのですが、やはり自分自身に余裕がないと相手を想いやりケアすることは難しい。なので、まずは自分が安全で安心で癒されていること、頑張るためには頑張らない時間も必要、オンオフの切り替え、セルフケアの重要性がもっと強調されていいハズ。
 
自分自身に安全安心の感覚や適切なバランス感覚がない人が、人に安心感を与えたり、他人の人生のバランスを整える仕事が出来るとは、僕には思えません。
 
人に安心感を与える仕事をするのなら、まず自分自身、そして自分の仲間に安心感を与えたり維持すること、つまりは自分自身を大切にすることの重要性がもっともっと強調されていいと、僕は思います。
 
こう言う話をすると、どうも[自己犠牲的な考え方]と[自己中心的な考え方]のどちらかに極端に振り切ってしまう人が少なくないよなぁ、と感じることがあります。
 
最近なんだか社会全体が色々と窮屈で寛容性が乏しくなりつつある気がしてしまいますが、知っていても出来る余裕がない事と、全く念頭になくて何の配慮しない事では、個人の細かい所作やその積み重ねによる全体の雰囲気や空気感は全然違ってきますので、今後も来年度も地道に発信を続けていこうと思います。
 
 
人生のバランスを整える仕事。
 
 
来年度も継続します。
 
ではでは。
 

【第76回】シリーズ人体と「メッセージ物質」

メンバーの皆さま
 
こんにちは。管理人です。
 
静岡では桜もだいぶ咲いてきました。
 
この時期は、担当の子の卒業や自立に立ち会う機会が多くて、もちろん慌ただしくはありますが、初々しくウキウキした姿や新居を見ると、なんだかコチラまで嬉しい気持ちになりますね。
 
僕は来年度で児相在籍10年目になるのですが、幼児の頃から知っている子が立派な中高生になっていたり、自立していく姿を見るのは感慨深いものがあります。
 
そして、ようやく観ました。
 
NHKスペシャ シリーズ人体 6 " 生命誕生
 
この時期にこんなの観ると「こんな小さな受精卵から、よくここまで成長して…」なんて気持ちに拍車が掛かりますね。3月放送なんて、NHKはコレを狙ってたでしょうと思ってしまいます(笑)
 
 
シリーズ全体を通してのキーワードは「メッセージ物質」で、気持ち面だけでなく内容も非常に面白かったので、忘れないうちに感想を綴ります。
 
 
まず印象的だったのは、シリーズを紹介するエピローグ「命を支える "神秘の巨大ネットワーク"」
 
これまでの医学では、脳が各臓器に指示命令を出しているというのが定説だったのですが、最新の科学では各臓器がそれぞれ「メッセージ物質」を送り合って「対等に対話している」という。
 
例えば「疲れた」「水分が足りない」「食べ過ぎだ」と各臓器が直接メッセージを発信。そのメッセージ物質は血液を通じて各臓器に伝わり、それに反応して各臓器が色んな働きをすると。
 
脳から出されるメッセージ物質は「アドレナリン・ドーパミンセロトニン」など色々あるが、決して脳だけが他の臓器とやりとりしているわけでも一方的に命令を出しているわけではないと。
 
その話を聞いたタモリが語っていたのが「20年前にボツにした」ネタの話し。それは内臓の物語で、腸が他の臓器に「俺は内臓の中で虐げられている!」と訴えるネタだと。
 
俺は一番低い位置にいるし、脳は高い所から偉そうに支持するし、きっと俺が馬鹿にされるのは肛門に繋がっているからだ!なんて。
 
タモリは「シュール過ぎるかなと思ってやめた」と言っていましたが、ips細胞の山中教授は「まさに僕の学生時代はそう言う教育だった」と共感していて、博多華丸・大吉の大吉先生は「それ内村さんにお願いして(NHKのコント番組)LIFEでやってもらいましょう」なんて盛り上がっていました。
 
 
 
あれ? 
 
 
 
聞き覚えのある話し…。
 
 
 
この話ややりとりをTVで観ていて、僕は不思議な気持ちになりました。
 
 
 
当ブログ読者の方ならピンと来たかもしれません。「臓器同士の対等でオープンな対話」って、「まごのて blog」で何度も扱っている静岡LSW勉強会のコンセプト"そのもの"なんです。
 
勉強会で体験して、LSWの場で連鎖的に起こって欲しい現象、それは我々の人体の中で起こっている正常で健康的なやりとり"そのもの"なんだなぁ、と。
 
 
そして連想的に頭に浮かんだものは、
『【第18回】「cure」と「care」の違い』
で扱ったhealのイメージ。
 
〜語源はギリシャ語の【holos】「完全な姿(本来のあるべき姿に戻る)」だそうで、healに状態を表すthを付けて【health】「健康」になる、と。 
 
〜【healing】「ヒーリング」と聞くとスピリチュアル的なちょっと怪しいなぁと思う方もいるかもしれませんが、西欧的に言えば、競争社会で交感神経(興奮覚醒)過多になりやすい現代人の「副交感神経を優位にする」癒し系音楽とか、東洋的に言えば「気の流れが良くなる」ツボとか、一つに繋がっている心身のバランスや流れの「偏り」や「滞り」を整えて、心身が本来の持っている健康的な状態に「調整」するのが、僕の【heal】イメージです。
 
と、その時は書いたのですが、メッセージ物質が人体の中で上手くやりとりできている状態というのは、本来のあるべき姿【health】「健康」であって、その各臓器同士の正常で健康的なメッセージ物質のやりとりを東洋医学では「気の流れ」という言葉で表していたのではないかと。
 
言い換えれば、これまで東洋医学的に「気」として扱って来たものを、「メッセージ物質」という西洋医学的で科学的な用語と文脈に乗せて説明しただけではないかと。
 
これは、あくまで僕の連想とイメージですけど。そんなに目新しいことを言っているわけではなくて、人間が感覚的直観的に掴んでいることに科学が追いついただけ、そんな気がしたんです。
 
 
 
 
それと、今回放送の
“生命誕生”見えた!母と子 ミクロの会話
で印象に残った話を2つ。
 
ひとつは、受精卵が子宮に着床すると「ここにいるよ!」というメッセージ物質を出して、それが血管を通じて母体全体に浸透するから受精卵が流れないように身体が変化するという話。
 
受精卵の段階から「母と子の会話」は始まっているんだと。「ここにいるよ!」のメッセージ発信への応答を母体がしなければ、受精卵は排出され命として成長していかないんだなぁ、と。
 
これは愛着(アタッチメント)形成にとても重なるなぁ、と。愛着形成は、言語レベルのやりとりではなく、養育者が非言語レベルの目線や表情から子どもの気持ちをいかに察して想像し、情緒的な応答できるかによると言われていますよね。
 
簡単に言えば、言葉にならない鳴き声一つで、養育者がどの程度赤ちゃんの気持ちニーズを察知して、気持ちに合わせた応答してあげられるか。
 
受精直後から非言語の発信と応答はすでに始まっている、母体の一方的な察知や異物反応ではなくて「メッセージ物質による対話」であるというは驚きでした。
 
 
もう一つは、各臓器の作られ方について。臓器の中では心臓が最初にできるそうですが、そのあとは心臓が分裂する細胞に「お前◯◯になって」というメッセージを出して、その後は出来上がった臓器同士が「◯◯になって」というメッセージを細胞に出し合いながら、次に出来る臓器が決まっていく、このようなプロセスで人体ネットワークが出来ていくと。
 
そして、この"ドミノ式全自動プログラム"と呼ばれる細胞同士が対話して臓器が次々に作られていくプロセスを人口的に再現できるようになったのが、山中教授が発見したips細胞、その元になったES細胞なんだそう。
 
注目は山中教授のメッセージ物質の密度とタイミングが少しでもズレる」と、臓器の生成が上手くいかない、という話し。
 
メッセージの「密度」と「タイミング」が少しでもズレると、なんて…まさに子育てや虐待、家族関係の相談で支援者が扱ったり調整したりしているもの"そのもの"ですよね。
 
もちろん「LSW」でも、その重要性は変わりません。密度とタイミングか合っているかって、いかに相手のニーズをきちんと捉えているか、そこにかかっていると思います。
 
改めて思うことは、個の「人体」の中で自然と起こっている健康的なミクロのやりとりを、対人援助場面で、社会全体でという風にマクロでも再現する事がやっぱり自然で無理がない健康的なやりとりだよなぁ、と。
 
結局、人の集まりを「一つの集合体・生命体」として見れば、個でも家族でも組織でも地域でも、目指す健康的な形や本質はそう変わらない。
 
何となくは思っていたし考えていた事ではありますが、こうやって科学的にわかりやすく放送して伝えてもらえていることが、何か日々やっていることの励ましや応援のように勝手に思いながら観ていました。
 
まだ最終回は残っていますけど「シリーズ 人体」を通して、そんな連想や気持ちが浮かんだという感想でした。
 
ではでは。

【第75回】ソーシャルワークの新定義と「地域の知」

メンバーの皆さま
 
こんにちは。管理人です。
 
前回紹介した「シリーズ 人体」なんですが、放送時間が息子の寝かしつけの時間と重なり、さらに「99.9 ~刑事専門弁護士~season II 最終回」の録画とも被ってしまい、結局見逃してしまいました…。
 
もちろん再放送の録画はしたので、また機会に扱おうと思いますので、今回は別ネタで。
 
「99.9」と言えば、あるご当地キャラクターが頻繁に登場していたのをご存知でしょうか?
 
それは、気仙沼市ゆるキャラ「ホヤぼーや」
 
気仙沼の特産物で「ホヤ」という少しグロテスクな珍味がありまして、「ホヤぼーや」はそれを頭に被ってるキャラクターで、手には気仙沼特産である「サンマ」を剣として装備。
 
妻の実家が気仙沼なんで「season Ⅰ」の時から「あれ?ホヤぼーや?」と思っていたんです。どうやら調べてみたら気仙沼でロケをした堤監督や木村監督が気仙沼応援するために「99.9」だけでなく色んな作品でホヤぼーやを使ってるんだそう。
 
【参考】なぜこんなにホヤぼーやが?にお答えします
 
僕も何かのお祝いやお返しなどには、気仙沼の商品を使って微力ながら復興のお役に立てればと思っているのですが、こんな僕ですらTVで「ホヤぼーや」を見て結構テンション上がりますから、地元の人は本当に嬉しいと思います。
 
今回コラムはそんな「地域を大切にして応援する気持ちが大事」というお話です。
 
 
そして今回紹介するのは、この論文。
IFSW ソーシャルワーク定義にみる世界情勢」
(松山、2015)
 
 
IFSWとは「国際ソーシャルワーカー連盟」のことで、約四年前の2014 年7月に、
新しい『ソーシャルワークのグローバル定義』
が国際ソーシャルワーカー連盟総会及び国際ソーシャルワーク学校連盟(LASSW)総会において採択された、と。
 
前回採択が2000 年なので14 年ぶりの改訂だそう。ちなみに、その前は1982年なので改定までの間は18年。まぁ概ね15年前後で一つの時代の節目が来るという事なんでしょうか。
 
で、この論文の目的は、
ソーシャルワークの新定義の特徴と、新定義に書かれた現在の世界情勢を明らかにすること」
なんですが、これがなかなか面白くて鋭いんです。
 
まず面白い点とは、その言葉選び・言葉遣いへのこだわりっぷり。
 
「新旧定義とも、定義本文について注釈が書かれ、一つ一つの言葉の意味や背景などを説明している。ここを注意深く読むことにより、定義本文がどのような価値に立ち、視座や姿勢を表そうとしているかその文言が使用されている歴史的経緯が理解出来る」
 
そこに込められた本質的な在り方(=Being)を伝えようとする明確なメッセージ性、ブレない軸や意志の強さを感じます。
 
 
例えば、新定義では定義の本文中重要な部分を、
(旧)「解説」(新)「中核となる任務」
とタイトルを付け直した。それで、ソーシャルワークおよびソーシャルワーカーが何をするかを明確に表そうとしている、と。
 
確かに読み手の視点に立てば、「解説」と「中核となる任務」では全然印象が違いますよね。「解説」なんか訳わからない時の補足程度のイメージですけど、「中核となる任務」となればセンターど真ん中ですから。
 
これが「伝える」と「伝わる」の差だと思うんです。本当に伝えたいものを共通理解してもらうために、プレゼン方法を相手視点を突き詰めて、どこまで細部まで気を配れるか。
 
LSWに限らず、対人援助に限らず、一流のお仕事をするプロフェッショナルの方々にほぼ共通して、素人では到底気づかないレベルのこだわりを持って、繊細で地道な努力をコツコツと積み重ねていますよね。
 
新『ソーシャルワークのグローバル定義』には、そんな職人気質の細かさを感じます。
 
他には「ソーシャルワークの目的」についての変更。
 ソーシャルワークの定義の根本にあたる所だと思うのですが、その文言の内容はウェルビーイングを高める(enhance wellbeing)」と旧定義と変わりはありません。
 
その変更点とは、
 (旧)「well-being (新)「wellbeing
 とウェルビーイングが一つの単語になっている事。これ福祉でない人から見たら「どうでもいいよ」レベルだと思うのですが、決してそうではない。「well-being」(翻訳は「良い状態」)という言葉は、1946 年に WHOが健康の定義をした際に用いられたという歴史的経緯を踏まえて、明確な意図を持って変更されているわけです。
 
その意図については、
 そこでは「福利」と訳されていた。「wellfair 福祉」とは異なる概念であることが強調されていたと考える。well は、良い、満足な、望むなどの意味 があり、being は生きる、在る、存在などと訳すことができる。
 
〜ここでは、健康などの身体的状態や精神的、経済的状態が満足できる、望むような状態であることを指すように思われる。
 
執筆者の推測になっているので、本当のところは新定義の英語原文をあたるか作成者に聞いてみないとわからないんですけどね(苦笑)
 
今週終了する「とんねるずのみなさんのおかげでした!」の人気コーナー『細かすぎて伝わらないモノマネ選手権に負けず劣らずのホントに細かすぎて伝わらないし、気づかれない変更です。
 (コーナー初期は本当に似てるか判別不能な細かいモノマネがホント多かった)
 
このようなマニアックな所に光を当てて、わかりやすく解説してくれるのは、本当にありがたいですよね。ニュース解説の池上彰さんがTVで重宝されるのと一緒です。
 
 
その他の注目内容としては、
ソーシャルワークが「実践に基づく」ものであると実践の位置づけを重要視し任務を具体的に列挙している
 
と前置きがあって、
 〜定義本文に原理として書かれた「人権」「社会正義」「多様性尊重」のほか、「人間の内在的価値と尊厳の尊重」と「危害を加えないこと」が追加されている。
 
〜「人権」は重要な概念ではあるが、「人々がお互い同士、環境に責任をもつ限りにおいて、はじめて個人の権利が日常レベルで実現される」とし、「多様性尊重」「危害を加えないこと」との関連性を説明し、「人権と集団的責任の共存が必要」とした。
 
と解説されている点。確かに、人権・権利・多様性・マイノリティを盾に自身の責任を放棄していたり、暴力的な主張で他人を傷つけるような事件やケースは報道もされているし、実際の現場でもよくありますよね。
 
このあたりは本当に鋭いですし、海外ではより表面化した切実な問題なのかもしれません。松山氏論文の中で世界的な経済格差、貧困、民族、宗教問題が影響していると指摘していますが、「人権と集団的責任の共存が必要」とはなるほどなぁ、と思います。
 
 
そして、さらに鋭すぎてキレッキレの改定部分について紹介します。
 
注釈において、2000 年旧定義では「理論」であったものが新定義では「知(knowledge)」のタイトルになっている部分で、著者もここには驚くほどの激しい文言を持って世界の現状が語られている」と述べている部分です。
 
その理由は、新定義の中で、
ソーシャルワークは特定の実践環境や西洋の諸理論(Western theories)だけでなく、先住民を含めた地域・民族固有の知にも拠っていることを認識している」
 
植民地主義の結果、西洋の理論や知識のみが評価され、地域・民族固有の知は、西洋の理論や知識によって過小評価され、軽視され、支配された」
 
つまり一般的な「理論」とは西洋の考えであって、その考えこそが正しくして、現地の人に価値観を押し付けるようなことがまかり通っていた、ということなんでしょう。なので、もっと現地の歴史の中で積み重ねられていきた固有の知(knowledge)」の価値を見直しましょう、と。
 
「ぶっちゃけたなー」というのが僕の初めの印象。だって西洋人が「植民地主義」という言葉を使って、自分達はソーシャルワーク理論においても「支配」していたとハッキリ明文化して発表しているんですから。
 
で、どうやら論文を読み進めると、2000 年のソーシャルワーク定義が採択された際に、西洋以外の国から結構な反発があったらしいんですね。その国独自の文化に根ざした考え方や理論や知識は軽視されている。自分たちは西洋の考え方こそ「是」という価値観に「支配されている」と。
 
改めて、数百年前の植民地支配の文化的影響は根が深いんだなぁ、と感じると同時に「1982年の改訂では、こうはならなかったんだ」とも感じました。1982年は僕が生まれた年なので、リアルタイムで社会情勢を感じたわけではありませんが、旧ソ連は健在でしたし、その後にはイラン・イラク戦争真っ只中の時代です。
 
もしかしたら、被支配の当事者国が声をあげられないような時代だったのかもしれませんし、声を上げても耳を傾ける西洋人は少なかったのかもしれません。しかしながら、2000年には、そのような声を発して、それを真摯に受け止める「対話」ができるような素地が国際学会の中にはあった、という事なんだと思います。
 
この構図は、僕が働く児童福祉の現場とよく似ている気がします。施設や組織に根付いている文化というのはそう簡単には変わらないし、社会的養護(里親・施設)を出た後に、当時の出来事や被害を当事者がぶっちゃけてカミングアウトする、なんて機会に触れることは決して少なくありません。
 
この論文を読んだ時に、どうやら世界中どこでも似たようなことが起こっていて、支援者が悩み抱えている本質的な課題は国を超えてもあまり変わらないのかな、と思いました。
 
なので、当事者国の声から、
〜世界の国々は、少なくともソーシャルワークの分野においては、西洋中心の考え方(グローバ リズムと言ってもよいと考えるが)に対して強い拒否感を持ち、自国の文化や知を再評価しつつソーシャルワーク実践を定義しようとした。
 
という動きになって、定義が改定されたことの意義は本当に大きいと思います。個人でも家族でも組織でも地域でもそうなんですが、結局やるのは「本人」たち。なので、自分たちの良い所も悪い所も受け入れて、納得して勇気付けられてエンパワメントされて、自分の心の底から「変わりたい」と思って動かないと、結局のところ良い変化は起こらないし継続しないですよね。
 
そして、そこに至るまでには、当事者による歴史・経緯の「語り」というプロセスが必要不可欠と思います。ところが、外から急にやってきて「お前らのやっている事は間違っている」と対話なしにアレコレ言ったって、権威や力の差があれば黙っているだけで、言われた側の心の底では「よそ者のオメーに何がわかるんだ」と反発心を強めるだけで、その人の前でだけポーズをとる見せかけの行動変化しか起こりませんよね。
 
歴史が長ければ長いほど、秘伝のタレみたいに継ぎ足し継ぎ足しで味が出来てますから、こってり系ラーメンをあっさり系に変えるような根本を変えようとしたら鍋自体を変えないと難しいと思います。無理やり変えようとしても味同士が主張し合って喧嘩して、もっとマズくなっちゃいます。
 
そして、現実は組織や地域のメンバー総取っ替えはあり得ないですから、元々の良さを活かしつつ時代に合わせて少しずつアレンジ、マイナーチェンジを繰り返し、地道な変化を重ねて進化していくしかない。
 
それは相手の歴史や価値観、地域の知を尊重した話し合い、共に変化していこうとする協働(working together)や共進化(co-evolution)の姿勢に基づいた「オープンな対話」「信頼感」の積み重ね以外に成り立たないと思います。
 
そういうことが、
〜旧本文の「人間関係における問題解決を図り」というミクロの機能が削除され、旧定義の「社会変革」 に「社会開発・社会的結束の促進」という機能が追加されている。全体としてマクロを強調する内容となっている。
 
の中にある「社会開発・社会的結束の促進」という言葉に込められているような気がします。
 
 
で、ここまでは『新グローバル定義』の鋭さについてですが、最後に論文著者による鋭い指摘も紹介しておきます。
 
それは日本について。
 
日本に導入されているソーシャルワーク理論や知識は西洋というよりもほとんどアメリカのみである。同じ西洋でもフランスの理論などはほとんど紹介されていない。
 
〜まして、発展途上国においてソーシャルワークがどのように展開されているのか、知ることが無いというのが日本のソーシャルワーク教育の現状ではないか。
 
〜だからといって、アメリカ ・ イギリス以外の国にソーシャルワークは無かったはずはない。IFSWに90ヶ国も加盟し、各国は団体を構成するソーシャル ワーカーが実際に居るのであるから。
 
というように、米英以外の国から学ぼうとしていない視野の狭さをズバリ指摘しています。
 
僕は社会福祉士の資格を取っていないのでソーシャルワークの教育課程はよくわからないのですが、確かに児童福祉でもよく耳にするのは英米の話し、それとイギリスの流れ組むオーストラリアが多い印象。児童福祉法の改正の話題もそう。
 
そして僕は運良くカナダ・アジアの話を聞ける仲間が身近にいたのですが、他のヨーロッパ諸国や南米がどうなっているか質問しても、知っている人はほとんどいない。
 
この一部の地域の取り組みに偏って倣うことに、僕はすごく違和感を持っていたのですが、やっぱり変ですよね。
 
そして、
〜さらに、日本においてソーシャルワークはどのように発展してきたのだろうか。「ソーシャルワークということばが輸入される前に、実際の活動や政策はあったはずである。聖徳太子開いたとされる四箇院や大宝律令に救済対象を明記したことは、 社会保障制度といえるのではないか。
 
と著者も主張しているように、日本が積み重ねてきた良さ・歴史を踏まえて、海外の良い所をどう取り入れるかという建設的な議論がそれほど聞かれないのは、僕の情報収集が偏っているのでしょうか。
 
日本は◯◯年遅れている。なので、米英に早く追いつかなくては。
 
もちろん、そういう側面があることは認めますが、米には米の、英には英の「負の歴史」もあって、その反省を踏まえて変わろうと努力しているだけであって、新定義にあるように世界のソーシャルワーカーは西洋の自国制度が「是」とも「成功」とも決して思っていないわけです。
 
 
そういう意味では、正直、現在の日本は、
 
新定義で、
〜この定義は、世界のどの地域・国・区域の先住民たちも、その独自の価値観および知を作り出し、それらを伝達する様式によって、科学に対して計り知れない貢献をしてきたことを認める。
 
ソーシャルワークは、世界中の先住民たちの声に耳を傾け学ぶことによって、西洋の歴史 的な科学的植民地主義と覇権を是正しようとする。
 
とハッキリと明文化されていることに加えて、
 
著者も、
〜日本のソーシャルワーカーたちが現場で実践しているソーシャルワーク実践に耳を傾け学ぶ必要がある。西洋の理論に拠っているもののみを評価するのではなく、実際に効果がみられる実践について吟味し、 それを実践知として認め、まとめていくことが重要であると考える。
 
と主張するような、現在の世界的なソーシャルワークの基本に立ち返る考え方の流れに乗り遅れていると言わざるを得ないかな、と感じます。
 
もちろん地域で素晴らしい実践をされている方々に直接話を聞くと、共通してこのような「グローバル基準のソーシャルワークの考え方」を当たり前とした臨床活動をされていることも肌で感じます。
 
やはり児童福祉という領域に身を置き、医療=MSW、精神=PSW、施設=FSW、学校=SSWなど色んな分野のソーシャルワーカー(SW)と関わる仕事をしている立場としては、
 
ソーシャルワークとはそもそも」
 
ということ知らずして、協働・連携はありえないと僕は思っています。
 
まぁ個人的には、児相の児童福祉司がSWではなく、CWケースワーカーと呼ばれることに非常に腹が立っています。児童福祉司こそ地域に働きかけるソーシャルワーカーでしょうと。
 
まぁ『ソーシャルワークのグローバル定義』では、
 
〜旧本文の「人間関係における問題解決を図り」というミクロの機能が削除され、旧定義の「社会変革」 に「社会開発・社会的結束の促進」という機能が追加されている。全体としてマクロを強調する内容となっている。
 
となっていて、まぁ児童福祉司の仕事は「人間関係における問題解決を図り」のミクロの関係調整の連続だよなぁ、と思うと複雑ではありますけど…。
 
なので裏を返せばミクロもマクロもこなせるソーシャルワーカーSW)や児童福祉司は本当にスーパーなパフォーマンスをするし、新のプロフェッショナルだと思います。
 
だから日本ではソーシャワーカーの仕事がもっと評価されるべきだし、もっと専門的価値を置かれてもいい。
 
それが個人のセンスと努力に委ねられているもんだから、頑張る人できる人にどんどん負担やシワ寄せが行くシステムで日本は良しとしている気がします。
 
今の日本に必要だし実際に現場のニーズとして高いのは、各機関や資源をつないでコーディネートしてくれる人だと感じますし、それはまさにソーシャルワークの部分。
 
LSWだって、ソーシャルワークの部分抜きでは何も進まないのが実際ですから。ソーシャルワークは全ての支援の土台と思います。「木を見て森を見ず」の支援はホントに足元をすくわれます。
 
そう思うと真の意味でのLSW普及って、「連携」や「ソーシャルワーク」の概念の普及から始めないと行けないのでは、それはもう果てしない道のりのように最近感じてしまいます。
 
だけど出来ることは「地域の知」に根差した地道な取り組みを重ねることだけなので、焦らず一歩一歩進んでいくしかないですね。
 
と自分に言い聞かせるような今回コラムでした。
 
ではでは。

【第74回】《予告》 見えた!母と子 ミクロの会話

メンバーの皆さま
 
おはようございます。管理人です。
 
昨日、僕の息子が1歳の誕生日を迎えました。本当にあっと言う間ですね。
 
日進月歩とはまさにこのことで、もちろん大人の生活は様変わりしましたけど、シンプルに可愛いし面白い。成長を見ることの嬉しさ楽しさってコレだよなぁ、と。
 
この時期を見逃さないように、子どもが起きているうちに帰れるように、今年度は周りに助けられながら仕事をやりくりしていたなぁ、と思います。
 
実は「まごのてblog」をはじめたH29.6の終わりは、ちょうど里帰り出産から妻と息子が静岡に戻ってきた時期と重なってまして。
 
その時は全くの無意識でしたけど、「まごのてblog」は僕が子育てをしながら、その時々で感じ考えていたことの記録、親育ちblogでもあるんだなぁ、と。
 
今回は、そんな子どもが産まれる前後、妊娠期・新生児期のことを振り返させられるような、そんな番組の紹介です。
 
 
NHKスペシャル シリーズ 人体 神秘の巨大ネットワーク 第6集 “生命誕生” 見えた!母と子 ミクロの会話
 
 
NHKの人体シリーズ、ご存知でしょうか?
 
IPS細胞の山中伸弥教授とタモリさんが司会を務めるシリーズ番組です。
 
前回の第5集 "脳" では、芥川賞作家のピース又吉直樹さんの脳が徹底スキャンされ、創造性やひらめき、意識、記憶について扱われていました。
(再放送:2018年3月19日(月) 午前2時40分)
 
 
で、次回3/18(日)に放送される第6集のテーマが“生命誕生”。
 
もちろん番組内容は、まだ観ていないのですが、番組HPの案内によると、
 
「母親の胎内で赤ちゃんはどうやって成長していくのか。実は、たった一つの受精卵が赤ちゃんに育つプロセスこそ、細胞が発する“メッセージ物質”が大活躍する舞台であることが最先端の研究で分かってきた」
 
 
あれ?
 
これって以前【第41回】〜【第45回】コラムで取り上げた、

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の内容なのでは…。
 
特に続きの、
「最初に生まれる臓器は心臓。その後、細胞同士が次々とメッセージ物質を交わしながら、ひとりでに体が作られていく神秘的な様子が浮かび上がってきたのだ。さらに、胎内の赤ちゃんがメッセージ物質を使って、母親とまるで会話をするように情報をやりとりしていることも明らかに」
 
は、【第43回】子宮内の胎児の意識と発達
で取り上げた胎児期の発達、および母体・外界とのやりとりに近いのでは、と。
 
ただし、原書「Pre-parenting:Nurturing Your Child from Conception」は2003年、訳書である本書「胎児は知っている母親のこころ」は2007年、引用論文はだいたい90年代のもの。
 
なので、今回の
《NHKスペシャル シリーズ 人体 神秘の巨大ネットワーク 第6集 “生命誕生” 見えた!母と子 ミクロの会話》
では、2018年現在における、かなり最新の情報が紹介されるのではないか、と期待しています。
 
さすがNHKですね。要チェックです。
 
 
LSWのコラムで胎児期・新生児期の話しにあえて注目して取り上げているには、もちろん理由があります。
 
1つは、胎児期・新生児期の育ちにおける環境が、その人の人間としての基本的プログラム、基礎に与える影響が非常に大きいから。
 
一般的に、妊娠期の過ごし方、飲酒や喫煙、カフェイン等々は「産まれつき障害がある/ない」という文脈で語られることが多いと思います。
 
しかし、妊娠期の環境の影響というのは「障害さえ」ならなければ全てOKなのか?障害のある/なし、オールorナッシング、0か100で捉えらえていいものなのか。そうではないですよね。
 
当然、胎児期における環境が、子どもがお腹の中で順調にすくすく育つかどうか、その細胞や臓器の構築から始まる「発達」に与える影響が少ないわけがありません。
 
そして、胎児期の環境というのは、母体の心身の健康度がモロに影響するというかそれが環境の全てになる。なので、もちろん身体面の健康は大事なのですが、神経質になり過ぎて追い詰められる母親の精神面もかなり胎内環境には影響します。なので、やはり「ほどよい母親」のバランスは妊娠期から必要ということですよね。
 
一般的なLSWでは「生い立ち」つまり「産まれてから」の歴史に焦点が当たりがちですが、その子の「育ち」「育て」を深く理解しようとすれば、生命が誕生した何ミクロンの時代から、つまり妊娠期の母親自身の生活、母親の客観的・主観的な体験を捉えることは非常に意味があると思います。
 
LSW実施前には、そもそも支援者がその子の状態を捉えるために、支援者がその子の客観的な生い立ちを整理しておく必要がある。で、基本ラインは、まずは子ども自身の認識をどう確認し、支援者が知り得ている情報をどう提示し、その子が主観的にどう味わうか、という順番なんだとと思います。
 
 
 
そして、もう一つLSW的に、忘れてならない視点があります。
 
それは、どのような母親であっても、受胎から出産までの約10月は、誰でもない実母が実母の胎内で子どもを養育していた、という事実です。
 
さらに、例え実親に育てられていない子どもだとしても、この世に存在しているということは、母親が中絶も産後遺棄もせずその子の命をつなぎ、誰かに養育を託したという事。
 
もちろん、産前の喫煙や飲酒、産後の行動など胎児・新生児にとって望ましくない行動もあったかもしれません。子どもを社会的養護(里親・施設)に預ける親情報の表面だけ見れば「育てられないくせに子ども作って」と一般的にはナジなられる無計画な妊娠だったかもしれません。
 
でも、その背景にまで想像を膨らませてください。もしかしたら母親がDVや暴力支配を受けていたり、経済的に精神的に追い詰められていなかったのか。生きていくために、パートナーとの関係維持のために、性交渉を断る選択肢を取れる状況に、その時あったのか。
 
無計画な、望まない妊娠をした。その時に周囲のサポートがあったのか。
 
子どもが産まれてからでないとサポートが受けられない社会というのは、胎児期の子どもはワンオペ育児、全て母親任せで母親の責任で育ててください、というメッセージになってしまいます。
 
妊娠期からの母親の心身状態が、胎児の発達に大きく影響するということは、社会的・集団的「子育て」は産前の母親ケアから始まっていると言えるハズ。
 
子どもの育ちや発達を支える援助者なら、産前の母親へのケアは絶対に見逃せない分野だし、抑えるべき情報と思います
 
理由は前述の通り。胎児期は母親と伝達物質を通じたメッセージのやりとり「対話」を通じて、その子の基礎を作り上げる時期だから。
 
番組の内容は見てのお楽しみですが、胎児期・新生児期の育ちが子どもの成長発達に及ぼす重要性を通して、産前産後ケアの重要性もっと注目が集まって欲しいと思います。
 
欲を言えばいま話題の「働き方改革」「待機児童問題」も働く大人視点の議論だけでなく、将来を担う子ども視点で「社会的な子育て改革」につながるような議論発展していって欲しいですね。
 
ではでは。