LSWのちょっとかゆいところに手が届く「まごのてblog」

静岡LSW勉強会の管理人によるコラム集

【第118回】感情分化と身体感覚

メンバーの皆さま

こんにちは。管理人です。

ヤバイ論文を見つけてしまいました!
(もちろん良い意味で)

前回コラムで「感情の円環モデル」を紹介しましたが、感情と身体のつながりについて、もっともっマニアックに解説している論文が、ネット上にあるんです‼︎

タダより高いものは…なんてコトワザもありますが、ホントいい時代に生まれなぁ。

論文を見つけて興奮したり感動できる自分って、我ながら変態だなと思っちゃいますけどね(笑)


で、その論文がコレです。

身体を通じて感情を知る―内受容感覚からの感情・臨床心理学― 福島宏器(2018.心理学評論 Vol. 61, No. 3)


内容はタイトル通り「身体を通じて感情を知る」そのメカニズムについて説明したもの。現在(2018)までの研究・知見をまとめてみた的なやつです。

全20ページのうちの1/4(=5ページ半)が「引用文献」のリストに費やされていて、しかもその引用の9割以上は英語論文。もう間違い探し程度にしか日本語論文がない状態。

英語論文を訳してくれるだけでありがたいのに、ここまで丁寧にまとめてくれているのはホント凄いの一言。

内容ひとつひとつ取り上げでいくと、たぶんメチャクチャ長くなるので、すごーくざっくりした僕なりの解釈で紹介しますね。



まず副題にある「内受容感覚」ですが、その字の通り身体の内側を感じる感覚で、別名「内臓感覚」とも言うそう。

逆に、外からの刺激を感じる視覚や聴覚、肌感覚といった感覚は「外受容感覚」と言うと。

そして、内受容感覚の対象は、内臓系・自律神経系・ホルモン系・免疫系などの多種多様。だから内受容感覚の脳内処理は「情報統合」(感覚統合)を伴う点が特徴であると。



で、その身体状態と感情がどうつながっているかのモデルの一つが前回紹介した「ラッセルの感情円環モデル」です。

f:id:lswshizuoka:20220404073729j:plain


ラッセルらは、身体状態がいきなり種々の感情として解釈されるのではなく、まず原初的で単純な身体認識のプロセス(横軸:快ー不快)があって、その「感情のもと」が文脈や記憶等の情報と合わせて解釈されるという認知プロセス(縦軸:覚醒度)によって、感情の種類が決まると考えた、と。

ちなみに、横軸(快ー不快)は心拍状態、縦軸(覚醒度)は脳波によって測定できることは前回コラムで扱いましたね。

そして、感情の判別は、まず第一に横軸(快ー不快)の認識が主軸にあって、その後に縦軸(覚醒度)の認識が乗っかって判別される、と言う順番は子どもも大人も変わらない、とのこと。


(B)は感情価(横軸)や覚醒度(縦軸)を感じる幅にはそれぞれ個人差があること、つまり感情には獲得しているボキャブラリーの差以外に、感覚としての感じる感情分化に差があるという図。

(C)は覚醒度(縦軸)のフォーカスが小さい、つまり覚醒度の違いをうまく感じられないと、多くの感情を一色単に感じてしまうという図です。

これについて論文では、

〉子供のうちは、単純な良い・悪いの二分法であることが多く(つまり感情価にだけ焦点が当てられており)、覚醒度次元の識別力は、発達にしたがって増してゆく

と説明されていますが、児童福祉の現場にいる方なら、思い当たる節があると思います。それは、なんでもかんでも「うぜー」「ダルい」「ふつう」と答える思春期児童を思い浮かべてください。

通常、赤ちゃんの時にお腹が空いたら泣く、眠なくなったら泣くと言った「快ー不快」の判断レベルから、「喜怒哀楽」の原始的な感情分化に至るのは概ね1歳6ヶ月程度と言われています。

ただし、その乳児期にスキンシップが不足していたり、微笑みかけてもらったり、泣いているのをなだめてもらうという非言語的な情緒的関わりや情動調律をあまり経験していないと、自分の身体感覚、その中でも感覚統合を伴う内受容感覚の発達は遅れることは想像できますよね。

だから情緒的なネグレクト状態で育った子どもが、不快感情を一色単に「ウザい」「ダルい」とかいうのは、自分の覚醒度を感じる身体の内側のセンサーが鈍い(うまく働かない)もんだから、ボキャブラリーが乏しいだけじゃなくて、本当に「不快」という以上に自分がどう感じているか判別不能なんだ、と理解することができると思います。

そんな情緒的に未熟で、感情分化が進んでいない子どもの感情価と覚醒度の状態が(C)です。

論文では、精神疾患うつ病、失感情症)の患者さんの理解を中心に書かれていますが、児童福祉で考えると、

例えば、

「自分のことなのに何で自分のことがわかんねーんだよ!」

と怒られてる子ども達に僕はよく出会います。仕事柄。たぶん彼らは本当にわかんないんですよ。

身体感覚が育っていない、もしくは麻痺しているから。

そして「育っていない=愛着形成不全」「麻痺=トラウマ」を疑うんですが、まぁだいたい両方の掛け算になってるので、そこのところを生育歴と心理検査で探っていく、という感じに毎回なりますね。


ここまで話しを進めておいて今更ですが、「覚醒水準」と「覚醒度」はほぼ同じ言葉として考えてます。水準と度が類義語なので。

ちなみに「感情価」(快ー不快)の強度はその感情をどの程度ネガティブ (もしくはポジティブ) だと感じるかの強さにかかわるけど、「覚醒度」は興奮か沈静かの身体的・認知的喚起の程度を示すもので、感情の強度には影響しないようです。


最後に、ASDについて触れておきます。

自閉症当事者の報告によると、身体感覚の主観的経験として、様々な情報が統合されないままに感じられ、適切に認識・対処しづらいというケースがしばしば見られる

〉例えば、「膀胱が拡張している」ことは知覚しても,尿意が感じら れにくかったり、「胃がへこむ」「血の気が失せ る」「頭が重い」等の情報がバラバラに感じられ る一方で、自分が空腹であるのか疲れているのかがわかりづらいのだという


ASD自閉スペクトラム症)の特徴として、感覚過敏や興味の偏りがありますし、冗談が通じない・文字面だけで受け取ると言ったコミュニケーションの特徴は情報統合する脳の部分が弱いから、というところがありますよね。そして、内受容感覚についても漏れなくその特徴が当てはまる、ということのようです。


論文では、こんな説明になってます。

自閉症の情報処理の特徴のひとつが,局所的(部分的)な情報処理と,大域的(全体的)な情報処理のバランスに表れている。定型発達者の情報処理の傾向は、個別の情報(局所的情報)を統合して,全体的なパターン(大局的情報)を見出すことに長けており, しばしば局所的情報よりも大域的情報が優先される…これに対して自閉症では,全体的に統合された知覚がしづらく,局所的情報が重視されがちである。


細かいところが気になるASD特有の「こだわり」は局所的な情報処理と言い換えることができて、それは内臓感覚にも言える、と。


なので先ほど「身体感覚が育っていない=愛着形成不全」「麻痺=トラウマ」を疑うと述べましたが、さらにそこに「感覚過敏・こだわり=ASDの要素が掛け算で乗っかってくる可能性があるわけです。

この愛着・トラウマ・ASDの全部乗せ状態は、育てにくさを倍増させますし、そこに親の愛着・トラウマ・精神疾患発達障害が絡んでくるので、こんがらがり過ぎて、どれかひとつだけの要因がこれだけ影響を与えているみたいな因果の関係の特定は不可能だと思います。はじめの時点では。

ただ、ひとつひとつ紐を解いていって、ひとつひとつの対処を施していけば改善は見られますし、最終的に水回りの頑固な汚れのように最後の最後まで残る要因を見て、「やはり根っこはそこだったか」と種明かしのように分かる、という感じになるかと。

なので、ひとつひとつの対処法を知っていることはとても役に立ちますし、アセスメント(情報収集)によってこじれている構成要素にあたりがつけられるだけでも、支援の方向性にかなり光が見えます。

変化がないから予想が外れたか、なんてことも珍しくありませんが、その要素の仮説がひとつ消えたことは、また一つ核心に近づけたことになるので、それはそれで良しです。


だんだん脱線をしてきた気がしますが、そんな構成要素の「愛着、トラウマ」について、『身体とトラウマ』は丁寧に解説してくれていますので、次回以降は本の内容に戻りますね。

本文に突入する前の補足だけで、コラム二回を費やしてしまいましたが、きっとコレが後々活きてくるハズ。

僕はこんな風に理解・整理したんですけど、次回以降のコラムを読んで「余計にわかりにくいわ!」と思う方は、管理人はそういう理解の仕方をするんだなぁ、という個人差の話しとして捉えてくださいね。

ではでは。