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静岡LSW勉強会の管理人によるコラム集

【第119回】安定した愛着パターンと自己調整

メンバーの皆さま

こんにちは。管理人です。

今回からようやく、この本に戻ります。


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今回取り上げるのは、そのうちの

第3章 愛着:二者間の相互調整における身体の役割
・愛着パターンと身体
・愛着パターンと自己調整
・センサリーモーター(感覚運動)セラピー
    不安定-回避型愛着の治療
    不安定-アンビバレント型愛着の治療
    無秩序-無方向性型愛着の治療
などなど


の「安定した愛着パターン」の場合。通常、どんな風に調整能力が育っていくのか、という部分。

これだけでも結構お腹いっぱいになります。


まず、本題に入る前に「愛着」という言葉の復習を。


【愛着】あいちゃく

人や物への思いを断ち切れないこと。「―を感じる」

○心理学辞典
【アタッチメントとは何か】 アタッチメントとは,一般的に人が特定の他者との間に築く緊密な情動的絆emotional bondのことをいう。もっとも,ボウルビィが示した原義は,より限定的なものであり,危機的な状況に際して恐れや不安などの負の情動を経験したときに,特定対象との近接を求め,またこれを維持しようとする生物個体の傾性というものであった。彼は,こうした近接関係の確立維持を通して,自らが安全であるという感覚felt securityを絶えず確保しようとするところに多くの生物個体,とりわけヒトの本性があると考えた。別の言い方をすれば,アタッチメントとは心理行動的な安全制御システムともいうべきものであり,それは,体温血圧などを適正な一定範囲内に保持・調整する生理的システムと同じように,他個体との近接関係の確立・維持・回復をホメオスタティックにコントロールしているのだという。



辞書にケチつけるのはどうかと思うんですけど、心理学辞典の冒頭、「アタッチメントとは、…情緒的絆emotional bondのことを言う」って、いきなり別の言葉に言い換えちゃってるし、もう訳わかんなんなくないですか(苦笑)

少なくとも、僕はよくわからないので、僕なりの整理を。

アタッチメントの原義は、困った時に誰かにピターッとくっついて生理的に回復する、元の状態を取り戻すこと。
 
attachmentは、at(点)tach(触れる)ment(こと)ですから。

そして、愛着の一般的用法は、「大事な人との精神的な絆」「特定の物や場所への想い」。

一見、「大事な人との精神的絆」とemotional bond は同じような気がしますが、おそらくボウルビィの言っているemotional bondは、その人が愛着対象として安心感やエネルギー補給を与えられる存在を想定しています。

そして、emotional bond(情緒的絆)ができた特定の愛着対象に近づいて生理的回復をしてエネルギー補給をする、その一連をひっくるめたやつを「アタッチメント理論」と呼んでいるんじゃなかろうか、


と理解しています。



なので、会話の中で「愛着」という単語が出てきたら、その人がイメージして使っている「愛着」の意味が、文脈的に[一般的な愛着]なのか[原義のアタッチメント]なのかを受け手が考えてないと理解の齟齬が生まれる言葉、

それが「愛着」だと思っています。


あー、めんどくさー。


こんなに共通理解を破壊する言葉なかなかないですよ。僕は愛着という言葉が心底嫌いです。


と、愚痴を言っても、すでに広まっているものは止められないので先に進みますね。


で、この本で使われる「愛着」は、原義のアタッチメントの意味合いが強いと思われるので、以下はそのつもりでお読みください。


まず紹介するのは、早期の愛着形成を通じて形成される「自己調整能力」には2種類あるという話し。


〉自己調整は2つの戦略ー自動的と相互的ーの双方をふくみ、…一人の心理を通じた自律的なコンテクストをおける自動調整」「二者間の心理を通じた相互接続的(社会的関わりシステムを通した)相互作用的調整」があります。

〉自動調整能力と相互作用的調整能力の双方によって、人は観察でき、自分の考えを表現でき、一人で情緒ならびに感覚運動反応を統合できます。

〉早期の相互的体験は、後の危機に際して、自分が人間関係のサポートを求めて他者のところに行くのを許せるかどうかを決定します。


漢字が多いので難解に感じますけど、つまりは自己調整能力には、内側と外側の2つがあると。

自分の内側だけで耐えたり調整したりする能力だけを指すのではなくて、人とやり取りの中で調整する相互調整能力も含まれると。

例えば、他人に愚痴を聞いてもらったり、共感してもらったり、身体をさすってもらったり、抱きしめてもらったりするやつですかね、相互調整とは。


うまく助けを求める、これも自己調整だと。


確かに、自分がピンチだと気付いていないと、SOSも出せませんから、自分の状態に気づいて、自分だけじゃ調整しきれなさそうだから、人に協力をお願いする。

普通の大人が日常的にやっていること、それもある意味、自己調整と言えるかもしれませんね。



〉安定した愛着の状況では、子どもは自分の歴年齢に適した洗練された自動調整能力を増加させながら発達します。

〉自己調整する能力は、自己の機能的感覚が発達する基礎です。自己感覚というのは、何をおいてもまず身体感覚です。言語を通して経験したものでなく、身体の感覚や動きを通して体験したものです。

〉乳幼児の情動調整構造は、調律のあった相互作用でき調整を通して発達するので、外部調整への依存してから内部調整能力へと進んでいきます。

〉安定的愛着の関係性においては、…自動調整と相互調整戦略バランスを学びます。



なるほど、まず外部調整をしてもらって、徐々に内部調整する力がついてくる。次第にバランスの取り方を覚えてくる、そういう獲得の順番なんですね。

これ読んだ時にふと思い浮かんだのが自転車の練習。

子どもが自転車を練習する時って、はじめは補助輪つけたり、後ろから大人が支えてあげたりしますよね。
はじめのこぎ出しとか、なかなかバランス取るの難しいですし。

それがだんだん慣れてきて、大人が少しずつ支える手を離していって、最終的にはひとりでバランス取って自転車に乗れるようになる。


自己調整能力って、まさにそんな感じのことなのかなとイメージしました。

まず身体感覚って書いてありましたし。


本の内容を続けますね。


〉人生の初期、新生児は環境と相互作用をするのに感覚運動能力(声を出す、動くなど)に依存しています。しかし、社会的能力、情緒的能力が急速に発達して、2ヶ月目が終わる頃には乳児は母親と顔と顔の相互作用で集中的で長いアイコンタクトを使ってかかわることができるようになります

〉このときには相互作用的遊びも始まっており、高度に覚醒した情緒や感覚運動の交換が行われ、その中で母親が乳幼児のリズムと発音を真似し、独自に創りあげます。この身体と身体、脳と脳の対話は「情動の調律性」と呼ばれます。


このあたりは非言語的コミュニケーション、右脳的コミュニーケーションの話ですね。

右脳的コミュニーケーションについて気になる方はこちらをどうぞ
     ↓
【第86回】対人援助と「左脳右脳の使い方」

補足すると、アイコンタクトとか非言語コミュニケーションって、ASD自閉スペクトラム症)の人は苦手ですよね。

目と目が合いにくい(口元みたり下の方を見がち)とか、感覚過敏が酷いと抱っこを嫌がるとか。

だから、顔と顔の相互作用、身体と身体、脳と脳の対話の回数がASDの子は相対的に少なくなるので、情緒的な成長ができないわけじゃないんですけど、同年代と比べて遅れがちになることが多いかと。

しかも、母親(養育者)もASDだと、お互いに非言語のノンバーバルコミュニケーションが苦手なもんだから、情緒的、感覚的な経験不足の傾向は一層強まるかと。

人間って集団的養育をする動物と言われてまして、昔だったらおじいちゃんとおばあちゃんが同居していたり、親族が家にいたり、母親がASDだとしても、他に相手をしてくれる人が身近にいたので、ある程度はフォローされていたんだと思います。

もっともっと昔には、近所の人や同じ集落のひとも一緒になって養育すると言ったように、何かの病気なんかで一気に絶滅しないように、種の保存のために発達障害とか統合失調症とか遺伝子的に少しズレたマイナー種が一定数生まれるようになっている、とどこかで聞いたことがある気がします。

そのマイナー種の子育てを補う意味で、人間は社会的集団的生き物であるとも言えると思うんです。

ただしかし、現代社会においては、核家族化が進み、きょうだいも少ない、夫は帰りが遅い、そもそも夫がいない(シングルマザー)、家事する間はスマホに子育てを任せざるを得ない、家事もままならない程に母親の精神状態が悪い、などなどマイナーな特徴の人にとっての子育てはかなりハードモード。

人には得意不得意があるのに、子育てに関しては、「他の人はやってるんだから、やって当然」「母親なら当たり前」となりがちですから。

そんな環境で育てられる子どもは必然的に、身体と身体、脳と脳の対話の機会が減ってしまいますよね。


いかん、いかん。


今回は、安定した愛着パターンのお話でした。


戻ります。



〉乳幼児からの感覚的ふれあい、動き、さらに整理的覚醒を求めるシグナルに対し養育者による優しくて、調律のあった援助が身体的に経験されること、さらに、乳幼児の感覚的インプットや、その他の身体的欲求(たとえば食べ物、温かさ、水分)に関係した感受性・弱さに対して、情動調律の合った援助を身体的に経験することは乳幼児の最初の自己感覚と身体感覚を確立します。

〉主要な養育者、通常母親は、子どもの覚醒状態が高すぎるときに子どもを穏やかにし、低すぎるときに刺激することによって調整します。このようにしてその乳幼児が最適の状態にとどまることができるように助けるのです。

〉養育者は乳幼児の刺激の求めにも、また同じように、視線を避けることでかかわりをもたない必要性にも調律を合わせます。そうすると、子どもが耐性領域の限界を知り、過覚醒にならずに済むようになります。

〉同時に、子どもは必要なときには養育者が調整してくれることを求めることができ、覚醒を自分の耐性領域の枠内に留めるのに相互的調整を利用することにはほとんど抵抗がありません。


このへんを読んで、僕の情動調律の認識って間違っていたんだなと気づかされました。

僕は今まで赤ちゃんが「不快」になった時にあやして「快」に修正していくことを情動調律と思っていました。

でも、前回、前々回で紹介した感情の円環モデルで考えると「覚醒水準」(縦軸)と「快ー不快」(横軸)って軸の方向と測定方法が違ったじゃないですか。

そう整理すると、日常的なお世話の中でオムツを替えたり、空腹を満たしたりして、身体的な不快を取り除いてあげることも身体感覚を育てると思います。横軸の変化を感じるという意味で。


ただ、情動調律は覚醒水準(縦軸)の調整だと。


そして、調整とは高くあがり過ぎたテンションをあやして落ち着かせるだけじゃなくて、低すぎる覚醒状態に刺激を与えたり、高すぎる覚醒状態の時にはあえてスルーすることも「調律」だと。

確かに、音の調律を考えたら、低くても高くても適度な状態に戻すわけだから、言われてみればその通り。


だから、例えば、非言語コミュニーケーションが成長には必要だからと言って、赤ちゃんに対して何でもかんでも刺激を投げかけるようなことは情動調律ではない。

逆に興奮し過ぎたら、少し距離を置いてクールダウンさせることはすごく調律的ですよね

このあたりは、相手の状態や反応に合わせた情緒的応答とも言い換えることもできるかもしれません。


この応答がズレたり、過剰だったり不足したりすると、愛着が不安定なパターンになるお話は次回以降に。


安定した愛着の話に戻ります。



〉子どもを抱える環境を与えることにより、母親は子どもを文字通り身体的にも、また心の中でも抱くことになります。

Bionは乳幼児の自己調整能力を育てる主要な養育者の心理的境を表すのに「包み込み(コンテインメント)」という用語を使いました。

〉Winnicottの「抱える(ホールディング)環境」というのは、「乳幼児のメンタルヘルスを促進する身体的ケアと、環境の質についての同様な概念をさしています。

〉「『ほどよい』母親・養育者」は、自分の子どもを「メンタライズ(相手の気持ちを推測すること)」できます。子どもを独自の動機、欲望、必要性を持つ別の人格として認識できる養育者は、その子をメンタライズする能力をもっているのです。

〉そして、自分が子どもの生理的ならびに情動的状態もわかっていて、それらに効果的に対処できる能力があることを示すことができます

〉母親は、子どもの調整不全の状態にも耐えられるし、また、その子が調整不全となっている最中に「共にいる(stay with)」ことができます。



このあたりを読んで、今まで聞いたことあるけど、イマイチわからなかった言葉がようやく結びついた気がしたんですよね。

「ほどよい母親」「コンテインメント」「ホールディング」「メンタライジング」

これらは全部、子どもの自己調整能力を育てる養育者側の能力のことを指す言葉で、ほぼ同義と思って良いってことですよね。

なんとなくそんな気はしてましたけど、ちゃんと言ってもらえないと、やっぱり確信持てないじゃないですか。

全部について、なんとなく聞きかじっているだけで、ちゃんとした勉強したわけじゃない、と自分は思っているので。

そーいう意味で、とても安心しますね。
(時間、お金、頭のメモリーの節約という意味でも)

さらに、見ていきます。


〉ほどよい母親は、その乳幼児との遊び心いっぱいの体験に積極的にかかわり、高い覚醒状態を人と人との関係性や喜びとともに繰り返し与えるので、それによって子どもが覚醒状態が素早く変わるのに耐えることを学ぶのを助けます。

〉遊びに熱中している間に、母親と乳幼児は心臓交感神経の加速状態を示し、それから、相手の笑顔に反応して副交感神経を減速させます。

これらの相互作用はその乳幼児に喜びと興奮に耐えることを教え、「肯定的に蓄えられた好奇心は、成長する自己が新しい、情緒的かつ身体的環境で自己の探索をするのに傾注するように促します。


〉情動調整は単に情動の強度を低減させるものではなく、否定的情動を鈍らせることでもありません。それは肯定的情動を拡大したり、強化したりという、より複雑な自己組織化に必要な条件をふくむものです。


アクセルとブレーキを同時にかけていると。楽しい感覚に共感を示しながら、興奮を落ち着かせる応答も同時にしているんですね。

たぶん、やってる母親(養育者)は無意識というか本能的に自然とやってるのではないでしょうか。

いやー、改めて考えると、凄いことしてますね。


あと「苦しいとか悲しみに耐える」じゃなくて「喜びと興奮に耐える」って、僕は初めて聞く言い回しで、はじめは違和感ありました。

でも、確かに臨床現場では、担当の子どもが「楽しい時にテンションが上がり過ぎてハメを外す」「興奮し過ぎてなかなか落ち着かない」なんて報告よく受けるんですよね。僕は。

自分の中で興奮し過ぎないように調整する成長の過程って、そういうことだったんだと、自己調整能力の内側と外側の話を読んで、すごく腑に落ちました。

長くなってきました。

もう終わります。


〉ほどよい養育者は子どもとの調律でいくらか一貫性を
失わざるをえないことがありますが、相互作用的な修復を与えて調律を回復するようにします。

〉たとえば、両親が就寝時間のために子どもの遊びを中断しなければならいときは、そのフラストレーションをなんとか処理するサポートを与えます。

〉子どもが転んで膝をけがしたとき、適切な相互作用的な修復では、慰めと再び遊びに注意を振り向かさせることの双方を与えます。

〉このような否定的情動から肯定的情動への移行は、子どもが回復力(レジリエンス)を発達させるのを助け、柔軟な適応力を伸ばすのを助けます。

〉否定的な体験の後で肯定的な情動を再体験するプロセスは、否定的なことは耐えることができ、そして克服できるのだということを子どもに教えるでしょう。



現実の子育てを考えるとホント納得です。いつもいつも子ども状態に合わせる情動調律の一本槍じゃあ、こちらの身が持たないっていうか、注意をそらしたり、別のことに移行させたりしないと現実生活は回らないですよね。

やっぱりその辺も「ほどよく」が肝要と言うか、バランス感覚っていうか、真面目なお母さん、うまくサボったり手を抜くのが苦手な人、常に全力じゃないといけないと思い込んでる人は、自己否定や自己嫌悪の底なし沼にハマりやすいというか…

「ほどよく」ってホント難しい。相手や状況ありきの判断だから。

あと、自分の状態を含めての「ほどよく」なので、自分自身をわかってないといけない。

親自身の内側の身体感覚がそもそも育ってなかったり、ASDで焦点化や統合がうまくできなかったり、うつやトラウマによって感覚麻痺してたら、やっぱり「ほどよく」の判断って難しいと思うんですよ。


〉愛着の必要性は、まず最初に身体ベースの必要性として体験され表現されます。したがって、愛着関係の質は養育者の一貫した的確な調律と、二者間の感覚運動的相互作用の中での子どもの身体への応答の上に築かれていきます。

〉永続的で全般的な覚醒傾向やストレス下での反応、さらに、精神的障害に対する脆弱性すらも形成します


だから、親自身が育てられてないから、精神的に脆弱だし、それで子育てや家事もままならないし、内側の自己調整もうまくなければ、人にうまく頼る外部調整の使い方も下手で、結果的にどの支援機関にもつながらずに虐待に至ってしまう。


そんなケースって、本当に多いですよね。


次回以降は、そんな安定的な愛着パターンを獲得できなかった人は、どんな風に育っていて、どう支援すればいいのか、そんなところを深掘っていきます。


ではでは。