LSWのちょっとかゆいところに手が届く「まごのてblog」

静岡LSW勉強会の管理人によるコラム集

【第133回】(後編)世代論とチームビルディング〜新しい景色を見せる日本代表〜

こんにちは。管理人です。

 


サッカー同様、前後半で終えようと思っていた今回コラムですが、まさかの三部作に。

 


引き分けなしの決勝トーナメント延長戦みたいな感じで、お付き合いください。

 

 

 

最後に取り上げるのは、対人援助における「チームワーク」「連携」について。

 


昨今、虐待対応件数がとどまることを知らない伸び率でして、当然ながら悲しい事件報道が起きると、

 


「組織内の連携」が取れてないとか、

「民間と行政の連携」が取れてないとか、

「行政と警察の連携」が取れてないとか、

「縦割り行政で部署間連携」が取れてない…

 


などなど、とにかく「連携!連携!」の連呼になるんですね。

 


しかしです、

 


「では、連携って何ですか?」

 


と聞くと、各個人の認識やイメージに差があることが研究で明らかになっています。

 


過去コラム↓を参照いただきたいのですが、

【第98回】職種によるチームワークの認識差

https://lswshizuoka.hatenadiary.jp/entry/2018/11/30/084109

 


対人援助のチームワークには大きく3つあると言われています。

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ひとつは「マルチモデル」という医療モデルで役割分担がきちっと決められ、階層性もハッキリしているモデル。原因結果が分かりやすいモデルに有効で、Dr.の指示のもと正確に役割をこなしていく感じ。

 


ふたつめの「インターモデル」は慢性疾患患者の支援からできたモデル。投薬などの治療は症状抑制であって病気が完治するわけでないので、社会的心理的にその人の生活の質を向上させるような支援が求められる状況。この状況だと、誰かが唯一の正解を知っているという訳ではないので、専門職同士が話し合ってアイデアを出し合って支援していく。そうすると、どの専門職がやってもいいよねという「曖昧な領域」が生まれるので、その隙間部分は誰がやるという争いや押し付け合いが起きやすいモデル。

 


みっつめの「トランスモデル」は障害児教育から生まれたインターモデルの派生モデル。特別支援学校に通う肢体や聴覚視覚等にハンディを持つ子どもは、見た目でわかりやすい障害以外にも慢性疾患や難病を患っていることは珍しくないですね。なので特別支援学校の教員は、肢体・視聴覚・知的なハンディの知識に加えて、子ども一人ひとりが抱える難病の知識も把握した上で日々の学校生活を支える必要があります。

 


しかし、何万人にひとりの難病の知識、Dr.ですら実際に診るのは初めてなんて場合もある病気と対応を、特別支援教育の養成課程だけで教員が全て網羅しておくことなんて不可能ですね。そんな極めて個別性が高いケース対応については、その都度勉強、色んな専門家が集まって、それぞれが持っている知識やアイデアを持ちよって、お互いに学び合い、お互いに役割を解放して、お互いにお願いし合う、そんなチームワークがトランスモデルと呼ばれるものです。

 

 

 

これはですね、言うは易し、やるのは難しなんです。

 


例えば、LSWを検討するような施設暮らしの子どもと家族の支援のために、ケース会議を開くとします。

 


すると、集まる関係機関は施設・学校・児相はもちろん、こどもや親がかかっている病院、親が利用している福祉サービス担当(生活保護とか精神障害とか)などなど、教育・医療・福祉さまざまな分野の専門家が集まるわけです。

 


多機関多職種が集まる良い面としては、色んな視点やアイデアが集まるということですね。ただ悪い面としては意見や価値観の食い違いが起きやすい。いや起きて当然です、色それぞれがそれぞれの考え方があり、事情や常識もそれぞれ違うんですから。

 


例えば、医療関係者はDr主導のトップダウン的な「マルチモデル」組織に慣れているかもしれませんし、児童福祉関係者はケース対応は複数要因が重なり合う複雑系なので「トランスモデル」に慣れているかもしれません。

 


縦社会が強い文化ほど「マルチモデル」的で、虐待死亡事例でよく言われる「児相と警察との連携」においても、警察はマルチモデル的な連携に慣れていて、児相はインター・トランスモデルの連携に慣れている、そんな事が起きているかもしれません。

 


しれませんと言うか、僕は現場でそんな場面を何度も見聞きしています。もちろん全部が全部そうではなく、所属や職種に関係なく柔軟にオープンにやり取りできる方もたくさんいらっしゃいますが。

 


チームワークの価値観の違いは「業種」だけでなく「職種」にも影響されると言われています。例えば、学校と一括りに言っても、担任、養護教諭、発達支援コーディネーター、SSW、SWでは専門性や教育課程における学び文化的背景は全然違いますよね。医療・福祉機関においても一つの組織に色んな専門職が同居しています。

 


これが多機関多職種が集まる連携の複雑さと難しさです。大変ケースほどたくさんの人に関わってもらいたい一方で、集まってみたらお互いに知らない専門性の学び合い助け合いみたいな事が起きるのでなく、「何もわかってくれない」「何もしてくれない」と自分が思った通りに別機関が応じてくれないことに対する不平不満ばかりが募り、どこかの機関が一方的に責められ、最悪「二度と集まりたくない」という関係崩壊が起きるなんてことは決して珍しいことではないんです。

 

 

 

この現象は、話しを前回コラムに絡めると、各国のサッカー代表がW杯中に監督や選手間で揉めて内部分裂する過程とよく似てるかなと思うんです。各選手が思い描いているサッカーと周囲の意見や理解とのズレや乖離が、衝突を生みチーム崩壊につながっていく。まだ結果が良ければ不満も表面化しませんが、悪い結果が続くとリスクは跳ね上がりますね。

 


なので、たいていのサッカーチームは監督やコーチが基本戦術の方針を定めてチームに落とし込み、相手の反応に合わせた応用はピッチ上の選手の個人戦術で行う、というのがこれまでの常識的マネージメントだったよう。

 


しかしながら、森保JAPANは「基本戦術すら選手の話し合い、合議制で決めていた」ということが明らかになって、海外から驚きの声があがっている、というのが今回のW杯で起きたこと。

 


ただこれは、行き当たりばったり結果論でこのようなチームになった訳ではなくて、実は4年前の森保監督就任時にすでに「選手同士で戦術を教え合えるチームにしたい」とコメントを残しているんです。狙ってこのようなチームビルディングをしていた、ということですよね。

 


また、このチームビルディングは別のところでも確認できます。今回W杯から1試合の交代枠が3人→5人に増えましたよね。コロナの影響もあって。

 


そこで、森保JAPANのコーチ陣揃って、同じサッカー協会内に事務所を構える「フットサル日本代表監督」のところに勉強しに行っていたことも明らかになっています。

 


 森保監督は「フットサル日本代表は、いろんな戦い方のパターンを持っていますが、パターンという型にハメるのではなく、たくさんあることが判断につながる。『型』をしながらでも、相手がそれを止めにきた時は、違う判断をしないといけない。その判断のベースと柔軟性という部分を学ばせてもらいました」とコメントしていますが、

 


フットサルは5対5で行われる選手交代が自由な室内競技。選手交代によって攻撃守備戦術を変えていく競技と言われています。サッカー日本代表が世界を驚かせた選手交代による戦術変化、時間限定の超ハイプレス戦術は、フットサル戦術にヒントを得ているようなんです。

 


この過程を聞いた時、まさにトランスモデルの「役割の開放」じゃんと思った訳です。戦術は監督が考えて決めるものという常識を破って戦術構想の役割を選手に開放したり、サッカー先進国でなく他競技から学びを得ようとしたり。

 


しかし、これって「サッカーのチーム戦術はトップダウンのマルチモデルで監督が決めるもの」「戦術強化は強豪国と同様のことができるようになること」と考えている多くの人からは、監督は何もしていない、選手に丸投げと批判されることは容易に予想できますよね。

 


そんな既存のモデルから外れたチームづくりを行なっていたのが森保JAPANだったようです。なかなかできることではないですよね。

多くの選手がヨーロッパのトップリーグで活躍し、監督より最近の戦術に精通しているという状況があったとしても、そのマネージメント方法を決断したのは監督ですから。

 


ただ誤解の無いように説明を加えると、チームワークやチームビルディングは、トップダウン的組織とボトムアップ的組織のどちらが良い悪いとは一概に言えないものなんです。

 


例えば、見通しや予測がわかりやすく正確性やスピードが求められる分野の場合はマルチモデルの方が効率よく機能しますし、逆に状況が複雑で曖昧で中長期的展望の中でイノベーションが求められる分野であればインターモデル、トランスモデルの方が適していると思います。

 


難しいのは、一つの分野でも目まぐるしく状況が変わるので、ある時にはトップダウン的なリーダーシップが必要となり、ある時にはボトムアップ的な合議制が必要となると言った「状況判断+チームワークの使い分け」、つまり両刀使いが求められると言うところ。

 


これは、児童虐待分野では「支援と介入」の両刀使いが必要、サッカーでは「攻撃と守備」の両刀使いが必要という事とさほど変わらないと思います。

 


どちらか一方に偏るのではなく、どちらも使える臨機応変さや柔軟性を持っているチームがどのような状況でも困難を乗り越えられるチームであると思うので。

 


しかし、これも言うが易し、やるは難しで、サッカーで言うと、どんな戦術でも戦えるようになると言うことは、攻撃の質を高める、守備の質を高める、状況判断の質を高める、戦術共有の質を高める等々、色んな部分で個人と組織の総合力を向上させていく必要がありますよね。

 

しかも、各個人組織で長所短所は必ずありますから、何でも出来るようになりながらも、長所を忘れずに器用貧乏、どれも中途半端にはならずにと言うのは、なかなか簡単では無いです。

 


サッカー日本代表のアジアや世界における戦い方が時代によって変化しているのは、まさにそういうことかなと思っていて、周囲の状況と自分の力量のバランスを見ながら、限られた時間の中で強化する部分を選択、決断していく、成長ってそんなことの繰り返しだと思うんです。

 


そう考えるとですね、自分個人や所属組織がどういう状態であって、社会状況や求められる役割は何になっていて、成長のために現在何に取り組もうと選択、決断を行なっているのか…

 


そんなことを今回のカタールW杯のサッカー日本代表の戦いに熱狂しながら考えさせられたなぁ、という話しでした。

 

 

 

残念ながら日本代表は敗退してしまいましたので、残りのW杯は単純にサッカーを楽しもうと思います。

 

 

 

ではでは。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【第132回】(中編)世代論とチームビルディング〜新しい景色を見せる日本代表〜

こんにちは。管理人です。

 


前回コラムは完全にサッカーコラムでしたね(苦笑)

 


まぁ、ホットな話題なので勘弁して下さい。森保ジャパンばりに伏線回収して対人援助やLSWに繋がるよう頑張りますので。

 

 

 

まず世代論について。

 


前回紹介した小澤一郎さんチャンネルでも、

「指示されるのを嫌がるZ世代の選手達に、"監督何か指示して下さい"と言わせるまで我慢した森保監督がスゴイ!」

と言う話題がありました。

 


『Z世代』

 


最近たびたび言われるコノ言葉、皆さんご存じでしょうか?

 


語源等の細かい話しは↓の記事などを参照いただきたいのですが、

 


Z世代の特徴は?他世代との違いや仕事観なども紹介 | リクナビNEXTジャーナル(2022.6.23)

https://next.rikunabi.com/journal/20220630_t01_s/

 


簡単に言うと、Z世代とは、現在の10代〜20代半ば (1990年中盤〜2010年頃に生まれ)の世代を指す言葉です。彼らは「デジタルネイティブ」と呼ばれ、生まれた時からインターネットが当たり前の環境で生まれ育っている世代。

 


Y世代はその一つ前の世代。現在の20代後半〜40前後(1980年頃〜1990年中盤生まれ)の世代のことで、家庭用ゲーム機やポケペル、携帯電話、インターネットが世間に徐々に浸透していった時代に生まれ育った世代。

 


そんな感じで、デジタル普及の時代変化に合わせてX世代→Y世代→Z世代→α世代という区切り方と世代特徴が言われています。

 


例えば、子どもの遊び方で言うと、X世代の1960年〜70年代の子ども同士の遊びって外遊びメインだったと思うんです。それがY世代になると1984ファミコン発売から1994年プレステ発売等の家庭用ゲーム機の普及によって友達の家に集まってTVの前でゲームをする遊び方が浸透していきます。

 


Z世代になると、1999年docomoiモードが開始、2004年任天堂DS発売と、自宅外でのインターネット接続やゲーム機遊びが爆発的に普及。当時の小学生はだいたい公園に集まって友達とポケモンやってましたもんね。

 


そして、α世代は現在の0〜12歳前後まで、2010年以降生まれのSNS普及後に生まれ育った世代。連絡手段はLINEが当たり前、若い20代前半の親だと対面よりもインスタやTikTokのストーリーやダイレクトメッセージでコミュニケーションを取り合う、そんなZ世代に育てられているのがα世代の子どもたち。

 


これだけでも、人との距離感やコミュニケーションのあり方を取り巻く環境が、世代によって随分と差があることがわかります。そりゃ世代間の価値観の相違が生まれない訳がないですよね。

 


Z世代の話しに戻ると、SNSが当たり前なので受信するだけでなく発信することにも興味があるし、多様な情報と選択肢がある中で育ってきているので、「自分の時間を大切に」「自分で選んでいる感覚」をとても大切にする世代と言われます。働き方の選択(リモートなど)や仕事へのモチベーションなんか、まさにそれを象徴しているかもしれません。

 

 

 

話題をぐっとサッカーに戻すと、サッカー日本代表の選手って、20代前半から半ばの「Z世代」が中心で、ベテランと呼ばれる20代後半から30代の選手は「Y世代」。そして森保監督をはじめとしたコーチ陣は、1960年代〜70年代生まれの「X世代」。

 


一般的な日本の会社組織だと、大多数はおじさんおばさん、そして組織決定権はX世代もしくはもっと年上という事が握っている事が多いですね。

 


しかしW杯の場合、実際に試合の中心を担うのはZ世代、それをピッチ上でY世代が支え、ピッチ外からX世代が支える。そんなチーム構成になってますね。

 


で、森保監督が取ったマネージメント方法は…自分たちで話し合って納得した戦術で戦う。

 


ちょっと鳥肌ものですよね。

 

 

 

そこで、児童福祉や社会的養護の現場を考えてみて下さい。

 


里親や施設での生活を検討する子どもは、0歳から10代前半の「α世代」。

 


社会的養護を検討する子どもの親は、若年出産だであったり、精神的に未成熟な20代の「Z世代」が中心。

 


そして、地域小規模が進む「施設」のケアワーカーの多くも、また20代の「Z世代」。

 


このように児童福祉分野は他業種に比べて、圧倒的にストーリーの中心人物が若いんです。サッカー日本代表のように。

 


しかも複雑なことに、国が委託推進する「里親」の多くは、40代以降のY世代を通り越した「X世代」という日本の現実。

 


この人生観というか子育て観のジャネレーションギャップは、世間があまり気づいてないだけで相当混乱をきたしてます。里親支援の現場において。

 

 

 

そういう肌感覚をここ数年感じていた中での、森保ジャパン快進撃で上がったテンションからの、組織マネージメントストーリーですから、本当驚き以外のなにものでもないですよ。

 


児童福祉現場における、新世代に合わせた新しい組織マネージメント、これから目指すべき「新しい景色」をサッカー日本代表が、W杯という4年に一度の舞台で見せてくれてるんですから。

 


もしかすると、デジタル化のネガティブな側面ばかりを触れてしまったかもしれませんが、日本代表のそんな組織の裏話し的なことがリアルタイムで共有されるのもSNS普及のおかけですよね。

 


また吉田選手や長友選手はチームカメラを入れてYouTubeでサポーターと共有するように、日本サッカー協会と随分と交渉をしたという話しもあります。

 


ストーリーの共有の仕方が、今までとは確実に変わってきている。これは、対人援助的にもLSW的にも非常に考えさせられることですよね。

 

 

 

そんなこんなで、チームビルディング的な内容はまだまだあるのですが、だいぶ長くなったので、一旦ここで切ります。

 

 

 

続きは後編で。

 

 

 

ではでは。

【第131回】(前編)世代論とチームビルディング〜新しい景色を見せる日本代表〜

おつかれさまです。管理人です。

 


いや〜、凄かったですね。

カタールW杯、日本代表vsスペイン代表。

 


結果はご存じ通り2対1で日本勝利なんてすが、試合後の各選手監督へのインタビューから、森保監督のサッカーの常識を覆すチームビルディングが注目されていますね。

 


そんなホットな話題は、対人援助における「連携」「チームづくり」において非常に学べる点が多いので、まとめておこうと思います。

 


まず試合の話しをしますと、後半開始早々、日本代表が前半とは打って変わった怒涛のハイプレスをかけ、0-1からあっという間に試合をひっくり返しました。

 


スペイン代表のいくつかの選手やルイスエンリケ監督は、そのわずか数分の逆転劇について、完全にパニックに陥っていたことをインタビューで認めています。

 


日本対ドイツの戦い方から、世界中の誰もが、日本が後半にギアを上げて反撃に出てくることは予想できたにもかかわらずです。

 


いかにして日本代表は、百戦錬磨のスペイン代表をパニックに陥らせる状況を作ったのか。そのプロセスが報道にて明らかになってきています。

 


ある分析によると、日本代表はスペイン戦のひと試合、わずか90分間の中で、守備時・攻撃時合わせて6〜7個のフォーメーションを上記に応じて使い分けていたそうです。

 


そして前半45分の間にも何度かフォーメーション変更が行われていた、と。僕も含め素人じゃ、リアルタイムでパッとその変化に気づいて理解するなんて出来ないですよ、とても。

 


せいぜい「アレ、なんとなく流れ変わってきた?」「今のはちょっとアグレッシブにいった?」程度の感覚でした、僕は。でも、それは日本代表が緻密にデザインして用意していた守備だったと。

 


上空からのTV中継視点ですら気付けないことを、実際にプレーしている選手がピッチ視点では人が重なりまくっている状況で把握し、即座にピッチ上の11人が変化と対応策を共通意識を持って対応するなんて至難の業。

 


しかし、FCバルセロナの選手を中心に構成された百戦錬磨のスペイン代表は、ものの数分で日本の可変式フォーメーションに気づいて対応。対する日本代表はスペイン代表の修正に合わせて次の一手となるフォーメーションに移行。

 


そんな戦術的攻防を、前半開始から日本は仕掛け続けていたと。

 


これだけでも驚きなのですが、この緻密な可変式フォーメーションはチームとして4年間コツコツ積み重ねてきたものではなく、コスタリカ戦から中3日で仕上げたものだった!と言う事実が世界に衝撃を与えているんです。

 


森保ジャパンは選手とスタッフが同席して戦術ミーティングを行ない、そこでは若手からベテランまで年齢を問わず活発な意見が飛び交う。そのうえで、森保監督が選手起用と戦い方を決定し、選手に指示を出す。世界的に見ても希有なアプローチ法でW杯を戦っているそう。

 


スペイン戦に関しては、コスタリカ戦後に予定していたプランをチームで練習したら、選手からいろいろ提案があって、スペイン戦まで残り2日で話し合いと戦術の落とし込みを行なった、と森保監督や各選手コメントから聞かれています。

 


フォーカスされているのは、鎌田選手が所属フランクフルトでバルセロナに勝った時のやり方ですが、久保選手もスペインリーグでバルセロナと何度も対戦していますし、スペイン戦終盤で見られた冨安選手の守備固めのサイドバック起用もプレミアリーグアーセナルでよく見る形。

 


今回の日本代表は、単に海外組の人数が増えただけでなく、選手の所属リーグは、日本、ドイツ、スペイン、フランス、イングランドスコットランドポルトガル、ベルギーの8か国。この所属リーグの多様さは他出場国にはあまり見られないよう。

 


その多様な経験を持った選手たちがアイデアを出し合って最終的に戦術を決めた、とのこと。確かにスペイン戦2日前にして「まだチームの軸は決まっていない」との選手コメントがあり、未だ軸が決まってないってヤバいでしょ、という報道がされていましたね。

 


そんな試合前日だけの練習で戦術が浸透するわけもないし、付け焼き刃戦術でスペイン相手いやW杯本戦で通用するわけがない。それを日本がやってのけた訳ですが、そのやり方がオープンになった今も「日本以外の国では絶対にできない」と言われています。

 


そして元日本代表FWドラゴン久保竜彦は、エゴの強い選手が集まる代表であんな戦い方(合議制+前半耐えしのぶ)したら普通チームが空中分解する、相当選手の信頼を得て森保監督が上手くやっているはず、と解説しています。

 


確かに、過去のW杯において、監督の戦術や采配に選手が納得いかずに内部分裂、なんて報道は他国でチラホラありましたよね。

 


また今回の日本代表では、前線の前田選手、鎌田選手、久保選手に対して直接得点に絡んでないことの批判の声もありますが、8割と相手がボールポゼッションする展開において、日本のファーストDFとして守備的タスクを戦術的にこなし、相手の体力と思考力を削ることが後半反撃の伏線になっているとの解説を複数の専門ジャーナリストはしています。

 

 

 

森保監督は4年の準備期間で戦術的な積み上げがないという批判を受けていましたが、実は4年間で積み上げていたのは、チーム内の信頼関係構築と選手の自主性・主体性、フォアザチーム精神の浸透だった、どうやらそれは結果論ではなく計画だったようなんです。

 


メンバー選びもそうです。監督が軸として考えていた戦術に合う選手を選ぶだけなく、臨機応変に対応できるサッカーIQや自己犠牲を厭わない献身性、所属リーグやチームの戦術とコミュニケーション力などなど。

 


吉田選手、長友選手はもちろん、出場がない柴崎選手、川島選手は監督と選手をつなぐ中間管理職的な役割を果たしているという話しもあるよう。前回W杯まで長谷部元キャプテンがしていた役割ですよね。

 


(個人的には、コスタリカ戦に柴崎出なければ何で連れてきたんだよ!と思っていましたが、まさかこんな役割だったとは…)

 

 

 

長くなってきたので、一度まとめます。

 


もともと周囲に合わせる力が高い日本人。

 


日本人は、今や欧州の多様なトップリーグで最先端戦術を経験しながら戦っている。

 


そして、森保監督はトップダウン的な組織運営でメンバーを決められたフォーメーションや戦術の型にはめようとするのではなく、各選手が戦術コーチ的に自分の経験を周囲に積極的に還元できるようなボトムアップ式の組織づくりを行った。

 


そんな現在のサッカー日本代表は、経験的「多様性」と国民的「協調性」が共存するチームとなっている。

 


そんな解釈ができるかな、と。

 

 

 

世代論と対人援助との関連については、後半で。

 


ちなみに、いくつかある解説で、一番参考にしているは小澤一郎さんのチャンネルです↓

 

新しい景色は今の「日本代表」そのもの|木崎伸也さん スペイン戦 振り返り

https://youtu.be/mAYpc6WlhmQ


今回コラム副題は完全にパクリです。


ご興味ある方は見てみてください。コメント欄の皆さんの組織論もなかなか興味深いです。

 

 

 

ではでは。

【第130回】Re:日本文化と即興性

こんにちは。管理人です。

 


カタールW杯。なんだかんだ盛り上がってますね。色んな意味で。

 


日本代表にフォーカスすると、ドイツ戦はいい意味で予想を裏切られ、コスタリカ戦は予想外に高まった期待を裏切られた、そんな国民感情がネット上で吹き荒れてます。

 


世間の反応を、TVよりもネットで感じるって、時代の変化を感じますね。

 

 

 

で現在11/30、グループリーグ第3戦のスペイン戦前日ですが、この時点での感想を綴りたいと思います。

 


お断りをしておくと、これはサッカー評論blogではないので、試合の勝負や戦評について語るものではありません。

 


内容は、対人援助に関わる「人」について。

ワールドカップで各国集まると、国の特色、やはり日本の国民性について考えさせられるなぁ、そんな話しです。

 


実は5年前、このblogでサッカー選手育成について、欧州と日本の文化差について取り上げました。

【第13回】日本文化と即興性、育成論

https://lswshizuoka.hatenadiary.jp/entry/2017/07/14/074307


簡単に要約すると、欧州人から見た日本人は「即興性に頼りすぎる」と。

 


日本人はオールスターの即席チームで、驚く程のコンビネーションを見せるがそれは再現性に乏しく、即興性が消されると体もスピードも決定的な強みがない、とのこと。

 


この指摘、驚くほど今回の「ドイツ戦」「コスタリカ戦」の良し悪しと重なるんです。

 


森保監督「さほど練習してないフォーメーションでもイメージ共有できる選手が揃ってる」とのコメント、選手の主体性に任せすぎて4年間のチームの戦術的な積み上げがないという批判などなど。

 


「即効性に頼りすぎる」

 


個性や世代の差はあれど、チームの集合体としては良くも悪くも日本人らしさって出るんだなぁ、と他国との比較を通して改めて浮き彫りになると言うか気付くことができるとなぁ、と。

 


実はこれ、サッカーに限った話ではなくて、対人援助における多職種多機関連携においても、海外に比べて日本人は「阿吽の呼吸」に頼りすぎているという指摘があります。

 


日本社会では、協調性に乏しい人は「空気読めない(KY)」と罵られ、同調圧力が強く、出る杭は打たれ、偉い政治家への忖度で組織のバランスを取ろうとする国、個人差こそあれ日本人の特性として言われることです。

 


よく言えば「気がきく」ので、サッカーの話に戻すと、欧州のチームでは日本人選手は総じて勝手にチームのために献身的なプレーをするもんだから、それを評価してくれる監督やチームであれば良いですが、数字に表れない活躍を監督は求めていなかったり、他チームへのステップアップの評価には繋がらないという、主張⇔献身のジレンマはよく起こるようですね。

 


もっと感情表現して、周囲に要求にしないと海外ではわかってもらえない。むしろ、察するという特性は、自己主張できないやつという日本にいる時とは真逆の評価につながることもある。

 


環境、文化、時代によって、同じ現象でも評価が変わる価値観の違い、相性の問題です。

 


また育成に関して言うと(詳細は以前コラム)、欧州人は自己主張が強く、育成年代でもなかなかコーチの指示通りやろうとしない、素直に教えられた通りにする方が少数派だから、みっちりセオリー(理論)を教え込まれる。一方、日本人は素直に監督に従って、むしろ言う通りにしようとしすぎて、それ以外のことをしようとしなくなる。だから、欧州式の育成方法が日本人に合っているかと言うとまた別の話しがあります。

 


主張が強い子には行動枠やコントロールを身につけさせる、逆に控えめな子には自由と主体性を育てる。

 


そんな「主張⇔調和」「自分を大切にすること⇔周りに合わせること」のバランス取りというか、どちらも上手にできるようにする成長プロセス、それはサッカーだけじゃなくて、子育て子育ち全般に共通するものかなとも思うんです。

 


発達的には、自分が大切にされて自分の感情を素のまま出せる乳幼児期(イヤイヤ期とか)、他者との調和を少しずつ学ぶ就学前(3〜6歳)、自律と規律の中で集団生活を送る就学期(小学生)というプロセスなんですよね。

 


でも、周囲に迷惑をかけるな、大人になる前に教え込まないと、と幼児期からビシビシやって抑制されると自分をコントロールする自律性が育たず、怖い人がいなくなれば抑圧の反動で自分の好き勝手やるという悪循環が起きることって珍しくないです。

 


感情のアクセルをまず練習して、それからブレーキによる減速を練習する感じ。危ないからと始めからブレーキばかりかけて自走させないと、そりゃアクセルの踏み加減わからずに感情出そうと思うとブォーンって吹かしちゃう、そんな幼児みたいな感情表現をその年齢でやる?ということが起こるんです。

 


身体に比べて中身(情緒)が未熟ってやつです。

 


なので、自分の感情を出して受け止めてもらうこと、感情の出し加減を学ぶことが、相手に合わせた自己主張をする第一歩なんです。相手を見るのは自分自身のコントロール感を掴んだ後の話し。

 


そして、加速したり減速したりを振り子みたいに行ったり来たりして、例えば中学生の反抗期にメチャクチャやって、自分は何なんだと自意識過剰気味に自分に目を向け、まぁこんなもんかと気が済んで、なんとなく自分はこの辺かなって所に段々と落ち着いてくる。

 


そんな、意識を自分に向け、他者に向け、ということを繰り返しすることで、自分を理解し周囲を理解し、自分と周囲との折り合いの付け方をだんだんと学んでいく。

 


そして、日本人は「他者意識」が他国より、どうも強いらしい。

 


俗に言われていて、みんな薄々は感じている国民性。もしかすると、日本生まれ日本育ちの日本人より、日本を外から俯瞰的に見れる人の方が、日本の長所短所を的確に捉える事ができるかもしれませんよね。

 


そんなこんなで、サッカー日本代表監督は、

2018ロシアW杯 西野監督

2014ブラジルW杯 ザッケローニ監督

2010南アフリカW杯 岡田監督

2006ドイツW杯 ジーコ監督

2002日韓W杯 トルシエ監督

1998フランスW杯 岡田監督

 


と日本人監督やJリーグで日本人をよく知るオシム監督などが歴任してきた訳ですが、その中でもトルシエ監督とロシアW杯直前に解任されたハリルホジッチ監督は強烈なキャラクターでしたよね。

 


ちなみにハリルホジッチは今回カタールW杯でもモロッコ代表を本戦出場させ直前で解任されてます。またも選手との軋轢とかで。

 


実際の所は現場の人でしかわからないのですが、推測では「抑圧と解放」みたいな現象が起きているような気がするんですよ。

 


ハリルホジッチはすごい自分の考えを明確に持っていて、良くも悪くも譲らない感じ。意見が合わない選手を排除的に扱うなんてことも一部報道ではされている。一方、記者会見などではユーモアに溢れる一面も見せる人でしたよね。

 


一方、後任の西野監督は調整型の人で、戦術はさほど無いけど選手の考えを尊重して調和を大切にする考え方のようですね。西野監督のインタビューを聞いていると。ちなみに森保監督はその西野監督をロシアW杯で間近に見て参考にしていると述べてます。

 


しかし、ハリルホジッチ監督と西野監督、どちらが良い監督なのかという問題は非常に難しい問いだと思います。

 


ロシアW杯で日本はベスト8まであと一歩でベルギーに2-3で負け、カタールW杯ではモロッコが予選リーグで世界ランク2位のベルギーを2-0で見事倒す結果を出している。

 


その両チームのベースを作ったのはハリルホジッチとも言えるわけで。ただ「規制⇔自由」のバランスが偏りすぎると「支配⇔放任」にもなる。それは同じ方法をとっても受け取る側の主観にも関わる話だから余計に難しい。

 


やはり、どちらが良い悪いではなくてバランスや調整、相性の問題だと思うんです。

 


サッカー日本代表監督の人選をみると「緊張と弛緩」を繰り返しているようにどうも思えて、管理の厳しい監督の後には、選手に自由を与える監督に、やっぱりチームの軸になるスタイルを構築できる監督に…という具合に。

 


それを一貫性がない、4年ごとに監督が変わるごとに方針が変わるという切り口もありますが、恐らく人選する側も監督を引き受けた側もそれがその時の日本に必要なもの、足りないものと判断してたんだろうと思わざるを得ない監督人選かなと。

 


いやいや、日本代表チームの方向性は、サッカー協会が示し、それに従って育成強化し、その延長線上にA代表チームがあるべきでしょ。

 


そういう正論は所々で聞かれるんですが、なぜかそうならない。それはたぶんサッカー協会だけじゃなく、日本の組織運営が、日本式「阿吽の呼吸」「即興性」に頼るものだからってことで何となく納得できてしまう。

 


一つの方向性を打ち出して批判を受けるより、みんなの意見を良い所どりをして不満が最小限になる折衷案、玉虫色のそれらしいことは言っていてどれも間違っていないんだけど、結局なにを優先的に大事にするのかの方向性がよくわからないような方針。

 


これは別に悪い事ではなくて、日本人が小さな島国で、みんなと末永く円満にやっていくために経験的に蓄積されてきた、生存率が高い蘇生術なんだろうと思うんです。

 


ただ、それが対世界となると最適解か、と言う課題と課題解決の相性の話しかもな、とも思うわけです。

 

 

 

さて、特に答えのある話しではないですが、W杯を通じて「日本人」についてアレコレ考えますね、と言う話しでした。

 


将来的にはどうかわかりませんが、現日本人の特徴的には、ただでさえ色々考えやすいところがあるので、自由で選択肢が多い状況よりも、ある程度限定された状況下で迷いなく突き進める時の方が集中して良いパフォーマンスが出るかなと言う気がします。

 


そう言う意味では、日本代表にはチャレンジャー精神で、スペイン戦に全力を尽くして欲しいですね。

 


がんばれ日本。

【第129回】Just The Two of Us進行と面接の非言語性

こんにちは。管理人です。

 


前回まで割と真面目な会が続いたので、箸休め的な雑談コラムを。

 


先日、ぼーっと「関ジャム」観てたんです。

 


今揺れに揺れてるジャニーズ事務所所属の「関ジャニ∞」が音楽アーティストをゲストに呼んで音楽マニアックトークをするテレ朝系列のアノ番組です。

 


僕自身、音楽はもっぱら聴く専門なんですけど、この番組は素人がなんとなく聴くだけじゃ絶対気づかないような「音職人」のこだわりや細かい技術をわかりやすく紹介してくれるのが面白いんですね、僕的には。

 


で。今回のテーマは「お酒の名曲特集」。

 


例えば、歌詞の中に登場する酒銘柄が人物像を想像させたり、お酒の種類や量の表現から背景を想像させたり、歌詞では酒的フレーズを一切使ってないのにテンポやコード進行の雰囲気でほろ酔い気分を想像させたり。

 

 

 

その中で、僕に刺さったのが、

 


Just the two of us進行(別名、丸サ進行)

 

 

 

アメリR&Bの名曲「Just the two of us」で使われているコード進行だそうで、椎名林檎の「丸の内サディスティック」で使われていることから、丸サ進行とも言われている、と。

 


何やらメジャーコードとマイナーコードが交互に繰り返される浮遊感が、アダルトな大人の雰囲気にさせるそうですね。

 


言葉で雰囲気を説明するのは難しいんですけど、名曲J-POPで言うと、

 


「つつみ込むように...」(MISIA

「接吻」(ORIGINAL LOVE

A Perfect Sky」(BONNIE PINK

 


最近だと、

「愛を伝えたいだとか」(あいみょん

 


脱力感+アダルティー+カッコいい感じ。そんな感じの曲調を生み出すコード進行、それがJust the two of us進行とのこと。

 

 

 

で、話を戻すと、関ジャムで紹介された

 


『夜を使いはたして feat.PUNPEE』('16)

 


はSTUTS(東大修士卒のトラックメイカー)が有名になった曲とのことで、ただJust the two of us進行を使ってるだけじゃないと。

 


この曲はJust the two of us進行の中で、浮遊感や不安定感を出すために半音ズラされている音ひとつを、あえて半音戻してメジャーなコードにすることで、「日常感」を演出しているとの解説。

 


ハッキリ言って、超微妙な差ですよ。

 


でも、その微妙な差が何度も何度もループされて蓄積されることで曲全体の雰囲気や印象が変わってくると。

 


音楽素人の僕からすると、ビックリするほど微妙な調整なんですが、確かに聴くと違いはわかるんです、素人でも。

 

 

 

 


で、ふと思ったんです。

 


もしかしたら、普段の面接や研修でやってるやつと似てるかも、と。

 


どういうことかと言うと、僕に限らずコミュニケーションを取る人間の多くは、「言葉の意味」だけでなく、その言葉がどのような表情でどのような口調で語られたか、その非言語的な意味を加味して、この人が伝えようとしていることは何なのかを判断してますね。

 


最たる例は、赤ちゃんの泣き声、泣き方からお腹減ってるのか、おむつ変えて欲しいのか察知するお母さんの応答です。他人では判断できないような泣き方の微妙な差異を敏感に嗅ぎ分けますね。

 


僕たちは、そう言った話し方の微妙な変調や音の高低などなど、リズムやスピードの違いや変化から相手の感情を読み取ります。発している本人は無意識でも、受け手側はその変化に気づき、その意味を汲み取る。

 


そうして相手の感情や思考の状態を想像し、そのテンポに合わせてうなづき、全体的なリズムや繰り返しの流れに合うような相槌を打ち、相槌による「うん」とか「あぁ」とか一瞬の発声に高低長短さまざまな変化をつけて、相手にコチラの感情を伝えようする。

 


これを音楽的に解説するならば、○○進行でこのような感情を表現している時に、あえて半音ずらして、このような気持ちを伝えようとした、なんて事になりませんか。

 

 

 

面接で「子どもになんて言って聞かせたらいいですか?」と聞かれることって本当に多いんです。そんな時の僕なりの答えは、

 


「関係性によりますね」

 


なんです。同じ言葉でも、誰に言われるかによって、響き方って変わるじゃないですか。

 


なので、まず子どもにどのような姿になって欲しいのかを確認し、そのことを子どもに伝えるには、誰からどのように伝えるのが良さそうか考える。

 


言って聞かせるって発想の時点で支配関係、コントロールしよう感が滲み出てるような気がしますし、即効性や効率性を求めすぎていて、子どもの気づきや主体性を見守って育てようと言う感覚に乏しい感じしますよね。

 


なので、どのような関係ならば、どのような言葉に耳を傾け、響いてくれそうなのか。その関係を築くために日々なにが出来そうなのか、そんなことを一緒に考えます。

 


その一つが、普段の話し掛けのトーンや表情、応答リズムと言った非言語的メッセージの伝え方ですね。

 


単純に言うと、穏やかな気持ちと表情による、低くゆったりとした声かけです。

 


そんな安心感を相手に与え、信頼関係を築く対話コード進行の王道パターンがあるのだとしたら、「Just the two of us進行」のような呼ばれ方がされるのかもしれない。

 

 

 

そんなことを、何となく思いつつ、

 


もしかして普段面接で、普段研修で伝えていることは、相手にとっては「Just the two of us進行のアレンジ」みたいなマニアック中のマニアックな技術の話しかもしれない、とふと戒め的に思いました。

 

 

 

以上、そんな番組感想コラムでした。

 

 

 

ではでは。

 

【第128回】(あとがき)トラウマを抱えた児童へのLSW

おつかれさまです。管理人です。

 


前回『トラウマを抱えた児童へのLSW』(後編)を綴ってみました。

 


まぁ、個人的に思うところをツラツラと述べている訳ではあるんですけど自分で読み返してみて、正直ですね、

「じゃあ、どうすりゃあ良いの?」

と感想を持たれる方も少なくないかなと思いました。

 


絶対的な一つの答えはないです、というのが前回も書いたことなんですが、そうは言っても手がかりは欲しい、と思うのが人間なので、「あとがき」です。

 


以下に書く内容は、以前から紹介している『トラウマと身体』の後半(治療編)のまとめというか感想に当たるので、詳しくはそちらの書籍を参照いただきたいと思います。

 

 

 

で、ですね、本書の表現を借りると、トラウマを持つクライエントは、

 


「身体的・情動的・認知的に、過去と現在が混乱している」状態であり、

 


フロイトの時代から、たいていのセラピーのアプローチは、感覚運動よりも、認知と情動のプロセスに焦点づけ」されてきたが、

 


「身体表現性の症状が特にトラウマを抱えた人に顕著に見られるので、感覚運動プロセスを促進するような介入が加わることで治療はいっそう効果的になる」

 


「つまり、感覚運動的処理だけでは充分ではありません。感覚運動、情動、認知という3レベルでの処理の統合がトラウマからの回復には不可欠」

 


「こうした(=治療的な)身体行動は、クライエントが意識的、無意識的に抱え込んでいた過去のトラウマ関連の身体的、精神的なやり方を変容させます。今の生活において、反応する方法(認知的、情動的、身体的に)や、将来を心に描く方法も変容させます」

 


「こうしたボトムアップの介入とトップダウンのアプローチを統合させて、両方の一番よいものを組み合わせることで、長年トラウマに苦しんできたクライエントは、過去と現在、情動と意味、身体と信念、を統合し問題の解決を見出します」

 

 

 

かなり中間の治療プロセスを省いてますが、前回コラムの内容を書籍の文章に照らし合わせるとこんな感じです。

 


ずっーと以前のコラムで、過去想起時に使う脳部位が未来想像時に使う脳部位と一致していて、過去を遡れる年数分、未来想像も可能という論文を紹介したことを思い出しました。

 


上記に紹介した状態は、LSWを検討する児にしばし見られる「過去ー現在ー未来」の時間的展望や連続性がない状態例だと思います。

 


トラウマ反応、つまり無意識的な過去の身体的記憶の侵入によって、意識的な過去への認知的なアクセスを閉じている状態。

 


そう言った状態が、特定の脳部位を使う事を少なくするので、その部位を使う「未来想像」する力も衰える育たない、という連鎖。

 


これはごくごく自然な事で、例えばピアノやサッカーとか身体性を伴うことって、経験者でも毎日やらないと感覚的なものは鈍っていきますし、でも修練して一度身につけた神経系の動きは少しリハビリ的に練習すれば感覚的に戻ってくる。

 


まぁ運動に限って言えば、頭と神経的には昔の感覚で動いているけど筋肉的には衰えているので、イメージに身体がついてこられず怪我、ということが段々増えてきますね、加齢とともに。

 


何を隠そう、僕も少し前に小学生高学年との鬼ごっこでガチの肉離れ起こしました(苦笑)オシムサッカー日本代表監督が「兎はライオンから逃げる時に肉離れなんてしないでしょう。準備が足りない」と言う言葉がホント身に染みました。

 


そんな感じでですね(どんな感じだよ!とツッコミが入りそう)、LSW的な過去想起や未来想像にも、そのような精神的運動に慣れていない人には、やはり準備が必要だと思うんです。普段運動してない人にいきなり激しい運動求めたら、そりゃ怪我のリスク高いですよ。

 


それじゃあ、トラウマ体験によって、そういう「過去ー現在ー未来」を認知的に行き来する精神的運動みたいな事をしばらくお休みしている人にへの身体的アプローチの一つが、『トラウマと身体』で紹介されているセンサリーモーター・サイコセラピーになるわけです。

 


治療の3段階をざっくり書くと、

①リソースを増やす

②トラウマ反応の処理

③日常生活との統合

 


となるのですが、大きく捉えるとこの3段階はトラウマ治療の大御所ハーマンやジャネも他治療者も表現こそ違えど似たような段階で説明しているので、身体的認知的というアプローチ法の違いを超えたトラウマ治療の基本的原則なんだろうと、僕は理解しています。

 


センサリーモーター・サイコセラピー的なことで言うと、①は身体的リソースを増やすこと。つまり、自己調整=相互調整+自動調整をうまく使えるようになること。

 


相互調整は、安心できるセラピストと安定的な関係性を築いてお互いが安全な形で頼れるようになる愛着システムの獲得的なこと。

 


自動調整は、自律神経系の調整力で、信頼できるセラピストと例えばマインドフルネスとかグラウンディングとか自分の身体性への気づきを高めていく的なこと。

 


もちろん、心理教育的な事前案内は常にしますよ。

 


で、ある程度の安定性を獲得したら、②トラウマ反応の処理に向かう訳ですが、処理方法は治療法によって様々です。センサリーモーター・セラピーでは「未完の行動の完結」させることをするみたいですね。

 


例えば、ある人との場面想起で、本当は逃げ出したかったけど逃げることが出来なかったら、そんな時に起こる身体的反応、脚が緊張して固まるとか、そんな感覚運動を俯瞰的に認知的に把握して、とは言っても情動的には揺れ動きますから信頼するセラピストとの相互調整で落ち着かせてもらいながら、本当は逃げたかった「行動」を実際にやってもらって、身体的に閉じ込めていたエネルギーを解放する。

 


本当にざっくりですが、そんな感じ。上記のトラウマ体験の例は文字通り「未完の逃避行動」ですが、「イヤ」「やめて」という拒否が出来なかったというのも「行動」と捉えられるので、実際に声に出して気持ちと行動を一致させて統合させるなんてこともあります。

 


喪失体験を扱うセラピーで故人に言いたかった言葉を実際に言葉に出して言うなんていうのは「未完の感情の完結」とも言えるかもしれないし、そもそも声に出すことを「行動」と捉えれば身体的完結とも言えるかもしれません。きっと手紙に書くだけじゃなくて、実際に声帯を震わせて音として出すというエネルギー発散は必要なので、やっぱり身体的完結、身体的エネルギーの解放かなと思います。

 


そうやって、身体ー感情ー認識、感覚運動ー情動ー認知はそれぞれが影響し合いますし、そのような三位が一致する、統合される喜びや心地よさが、

 


「身体的、精神的なやり方を変容させます。今の生活において、反応する方法(認知的、情動的、身体的に)や、将来を心に描く方法も変容させます」

 


と言う事なんですよね。これ、LSWと関連ない訳ないですよね。

 

 

 

逆に、過去より未来を先に志向するアプローチもあります。例えば、養護施設等で行われているCCP(キャリアカウンセリングプログラム)であるとか、面接技法のSFA(ソリューションフォーカストアプローチ)やAD(未来語りのダイアローグ)とか。

 


やはり、その過程でも「ポジティブな未来が想像できない」と言って過去のネガティブイメージに戻っていくことは珍しくなくて、トラウマ治療において、身体志向のボトムアップと認知志向のトップダウンアプローチを組み合わせるように、「過去ー現在ー未来」の連続性を扱うものは、過去志向と未来志向を組み合わせながら、その人に合ったものを提供していくことになるんだろうと思います。

 

振り子のように、行ったり来たり、また戻ったりしながら、揺れながら落ち着きどころを見つけていくんですよね。

 

 

なんて色々書くと、LSWの敷居がメチャクチャあがって、誰も手をつけたがらなくなると言う草創期と似た状況が起こりそうな気もしますが、それだけ難しいことを扱おうとしているというのは逃れられない現実なんだろうとも思います。

 


知れば知るほど難しさを実感すると言うか、どこまで行っても完璧な支援などなく必ずもっと何かはできたはず、と思える奥深さ。

 


だからこそ、一人で抱え込まず色んな人と相談して知恵を出し合って進むチームアプローチ、それもLSWの難しさでもあり醍醐味でもあるかなと思います。

 

 

 

ホント語り出すと切りがないですね。

 

 

 

まさに沼。

 

 

 

でも、そんな奥深さが、社会的養護の子どもたちが感じている世界について、あれやこれやと考えるキッカケにもなっています。

 


また僕自身LSWを通じて各地の色んな方との出会いや繋がりを持てたし、成長できているは間違いないです。

 

 

 

そんなプロセスの一部をまたblogを通じて、皆さんと共有できたらと思っています。

 

 

 

今後もお付き合いよろしくお願いします。

 

 

 

ではでは。

【第127回】トラウマを抱えた児童へのLSW(後編)

おつされさまです。管理人です。

 


「トラウマを抱える児童のLSW(後編)」

 


なんと前編の最後で予告したことを、ほぼ触れずに中編を終わるという未計画さ(汗)

 


まぁ、そんな感じの思考がまとまったり拡散したりするLive的なプロセスを味わうblogなのでお許しください。

 


では、さっそく本題に。

 

 

 

前編では、過去の喪失に関する情報を扱うのが一般的なLSWですが、それだけで「過去ー現在ー未来」の時間の連続的感覚がつながらない児童がいますよ、という振りをしたんですよね。

 


それについて「身体性」という切り口から解説します。

 


身体性という言葉でお伝えしようとしているのは、身体的な覚醒度合いのこと。詳細な説明は117・118回あたりで触れていますが、興奮したり鎮静したり、朝起きて段々と活動的になって夜また寝ていく身体的なバイオリズム、簡単に言えば、目が冴えている時と落ちそうなほど眠い時の身体感覚的な違いです。

 


通常は適正範囲内で、覚醒バイオリズムが上下に変動するのですが、トラウマの防衛反応3F、ファイト・フライト・フリーズ状態になると、覚醒度が適正範囲を突き抜けて上がったり下がったりします。

 


脳で言えば、3層構造の一番外側、大脳新皮質という人間脳が動いている状態から、動物的生物的なサバイバルスイッチが入って、もっと内側の哺乳類脳(辺縁系)、爬虫類脳(脳幹)といった働きがメインになっている状態。

 


そんな状態では、当然、言葉による理解やコミュニケーションは難しく、より感覚的に本能的な行動を取るようになります。生存本能によって。

 


具体的に言えば、「ヤラれる!」と危機を感じた瞬間に先制攻撃をしかけたり、相手にそんな気がなくても(ファイト闘争)。また、怒られる雰囲気を察した瞬間に脳内シャットダウン、固まってうんともすんとも言わなくなる。イメージ的には、ボクサーがダメージを最小限に止めるために両腕上げてガチガチに防御固めてる感じですかね。嵐が過ぎ去るのを待つみたいな(フリーズ凍結)。

 


中間的に言えば、圧倒的に力が上の相手には歯向かえないから、叱られる(=殴られる)ような何かやらかしてしまった状況が起きてしまった場合、反射的に嘘をついて身体的被害を回避しようとする(フライト逃避)。物理的な逃走=家出とかは、さらに怒られるのがわかっているので、余程の限界に達してないとそこまでの行動は取れません。

 


そんな防衛スイッチを入れないと、とても生きていけない日常生活を送っているのが継続的な虐待やDVを受けている人たちです。

 


すると、警戒心が高くなって周囲の顔色へのアンテナが高くなって、今現在を生き延びることへの神経系エネルギーを注ぎ込む状態が常態化していくのは想像に難くないですよね。

 


そして、「過去ー現在ー未来」という時間軸において、過去=被害体験の恐怖、未来=危険が降りかかる不安、というイメージが大部分を占めるので、現在によりフォーカスする身体的な状態→思考もより現在にフォーカス、過去未来について考えるのを回避放棄する、という状態が常態化します。

 

 

 

 

 

 

フォーカス=焦点化というより、しっかり鍵を掛けて現在に過去や未来が入り込まないようにする、って言うのが僕のイメージですかね。

 


「過去ー現在ー未来」がぶつ切りになっていると言うより、ぶつ切りになることを望んで無意識ですが意図的にやっている。ちょっと矛盾した表現ですが、裏返すと自分の意図とは別に過去が現在に勝手に入り込んできちゃうのを防いでいるみたいな。泥棒や強盗みたいに突如強引に家(=現在)に入り込んでくるんです、過去が。

 


そのへんをもう少し深掘ります。

 

 

 

防衛スイッチが入りっぱなしの状態の児童が、社会的養護という社会が用意した別の生活場所(里親、施設)に移った後の話しです。

 


本来、安全安心なはずですね、社会的養護の里親宅や施設という環境は。

 


で、子どものダメージが軽ければ、「あぁ、もう理不尽に怒られたり殴られたりすることはないんだ、安心」と思えて、自然と身体的な防衛反応スイッチが入らない状態が当たり前になってきます。虐待を受けていても、虐待から守ってくれる大人もいたりして、大人への基本的信頼感がある程度育っていれば、こんな回復が望めます。

 


しかし、シングル家庭とか、片方の親から暴力を受けた後に更にもう片方から追い討ちをかけられるような(それは大人の被DV者が自分の身を守るためよ防衛反応とも言えます)、誰も自分を守ってくれる大人がずっといない状況をサバイバルしてきた子どもは基本的信頼感など育つわけもなく、むしろ基本大人はいつ怒るかわからない危険で信用ならない「不信感」を獲得していきます。

 


そーなると、こころは不信感、身体的には警戒心、認知思考的には様々ありますが、過度に被害的になっていたり自己否定的になっていたり、とにかく「身体ーこころーあたま」のつながりが全部影響し合って、今の状態が出来上がってる。

 


なので、「はい今日から生活環境が変わったので大丈夫です」と説明されたって、信用できないね、どうせこの人も裏切るんでしょ、と思うのは、ある意味当然と言えば当然ですよね。

 


と言うことで、安全な環境下ではミスマッチな、燃費がメチャクチャ悪くてエネルギー切れで勉強とか身が入らないんだけど、身体的な警戒心スイッチ(現在フォーカス)の癖はなかなか抜けない。前の環境で一番マッチしていた方法なので。

 


そんな不適応行動で大人から注意されると、「やっぱりそうじゃん!」「大人は私ばかりに怒る」とか言って、緩みつつあった防衛反応スイッチが再び強く押され直されるみたいな事が起こる。

 


またトラウマのフラッシュバックという観点で言うと、あるトリガー的な刺激を受けた際に過去の場面を視覚イメージ的に思い出すだけがフラッシュバックではなくて、過去の身体感覚、過去の感情、過去の思考回路など色んな形がフラッシュバックにはあります。

 


それは防衛反応、生物が危険な体験を忘れずに生き延びる確率を上げるための回避行動を取るための本能的な反応。その反応を「過去ー現在ー未来」の時間軸を加えて捉えると、現在の「身体ーこころーあたま」のつながりのどこか一部が過去に侵食され、その影響を受けて他の部分も過去に侵食される、そんな体験とも言い換えることができるかもしれません。

 


過去の嫌な事が頭から離れない、ふとした瞬間に頭に入り込んでくる、トラウマ反応の代表的な症状ですが、自分がわからないタイミングで、現在のこころや身体が過去の恐怖感に侵食され、自分で自分の感情や行動がコントロールできなくなる。

 


これが過去が現在に勝手に入り込んでくる状況の一部。で、ある程度回復していると、脳の一番外側の人間脳が通常に働いているので、「あんなこともあったよね」と過去を過去として俯瞰的に客観的に外側から良い意味で距離を置いて眺める事ができます。

 


ただそこに「身体ーこころーあたま」の身体やこころの状態まで過去のことを思い出すと、身体は心拍数も覚醒度もブワーって上がって興奮して、こころは恐怖や焦りで支配されて、現在のいまは全然そんな状況じゃないただの日常なのに、本人の主観的体験(身体やこころ)の中では緊迫状態に置かれたようになっている。

 


で、周囲から何で急にこんなに暴れるんだといって止められ、叱責され反省を促され、何があったと聞かれるので○○されたと被害的な認知を説明すると、そんなことはなかった、お前がおかしい間違っている、相手に謝れ、と自分の認識を否定される。

 


そんな現在を生きているのか過去を生きているのかわからない、時間感覚の境目のない生活が続けば、自分で自分がコントロールできない無力感、自分のことは誰も信じてくれない不信感が募っていくのは当然ですよね。

 


トラウマとは、直接の暴力被害だけでなく、圧倒的な力や状況によって何もできなくなる無力的な体験と言われています。森の中で大きな熊に睨まれるとか、大地震や大津波を目の前にして「もう終わった」と感じて動けなくなると言ったように。

 


そんな無力的な体験を、フラッシュバックという過去が勝手に入り込んでくるやつは再体験させるので、なるべくそうならないように「過去ー現在」の間に堅く鍵を掛けようとする。それが「過去ー現在ー未来」がつながらない人に起きていることだと思います。

 

 

 

じゃあ、どうやって「過去ー現在ー未来」がつながるように支援するかと言うと、それは「身体ーこころ」レベルは過去のことを思い出さずに現在に地に足をつけた状態で、「あたま」だけが過去や未来に行き来できるようになれればいい。

 


これは大多数の人はごくごく当たり前すぎて意識もしないと思いますが、昔のことを思い出して「あぁ、あの頃は楽しかったなぁ」と思うのは、現在から過去を振り返った時の気持ちですよね。過去の楽しかったアノ瞬間の楽しさや興奮を同じレベルでリアルに再現している訳ではないですよね。

 


それくらい、過去と距離を置ければ、怖かった過去の出来事を思い出しても、現在の安全が脅かされることはないですよね。その距離を置くという作業が防衛反応スイッチの解除です。

 


トラウマ治療法はいくつもありますが、概ね「身体ー感情ー認知」どこにフォーカスするか、扱う順番や割合が違うとか、そんな違いで分類できるのかなと思ってます。

 


そして最近は、認知的なトップダウン的アプローチと身体的なボトムアップ的アプローチの両面からのアプローチがトラウマ治療には必要と言われていますね。

 


例えば、まさにTF-CBT(トラウマフォーカスト認知行動療法)は認知→感情アプローチと言えますし、何も語りをさせないTFTやソマティックエクスペリエンスは身体→感情へのアプローチの一例と言えると思います。

 


他にもNET(ナラティヴエクスポージャーセラピー)、EMDR、ブレインスポッティングもありますし、最近コラムで扱っている『トラウマと身体』で紹介されているSP(センサリーモーターセラピー)、あとは自我状態療法とか内的家族システム療法とか、その他にも追いきれない方法が数々ありますね。

 


話をLSWに戻すと、一般的なLSWは言語とイメージ(写真見るとか訪問するとか)による記憶想起がメイン作業と言えると思うんです。それは認知→感情のアプローチに近い形かと。

 


一方、もしその想起記憶の中に、トラウマに触れるトリガー刺激があったとしたら、身体→感情のアプローチで、身体やこころの防衛スイッチを解除していく作業をLSWより先にしておくといった戦略もあるかもしれません。

 


ただし、トラウマ反応の除去を全て完了しないとLSWができないと言うわけでもないと僕は考えます。例えば、ケアリーヴァーと呼ばれる社会的養護出身者が自身の過去を語る時、その語りの主体は話し手にあり、語る内容や深さを自身でコントロールできることが重要と言われますね。

 


それは、語り手が自身のトラウマを刺激するトリガー刺激を理解していたり、それに伴う身体感覚の変化に気付ける段階で行える、自分自身の語りの安全性の確保と言えると思います。

 


過去の記憶が統合されて「身体ーこころ」において現在と過去がはっきり区別できる状態になるのがトラウマ治療の最終段階とは思うのですが、実際はその段階に至る前にも日常生活は続いているし、そのような治療を受けなくても日々生活している人はたくさんといます。

 


それは、安全安心な生活が続く中で自然治癒していく場合もあるでしょうし、トリガー刺激と上手く付き合う術を身につけて対応している人もいると思います。

 


ただ、過去の被害体験があまりに未整理で、つまり無力的に何も抵抗できない、逃げられない、声に出して「嫌」とも言えない、痛いのに「痛い」と言えない、そんな「逃げたい避けたい」身体感覚や感情に逆らった「行動」を取った時に身体に起こる、発散しきれないエネルギーの蓄積、それがトラウマとなって残ります。

 


肩こりのシコリの部分みたいに。ケアしないとシコリはだんだん大きくもなるし、いきなり中心をグリグリしたら痛いですよね。なので、周囲から徐々に周囲からほぐして行ったり、ピンポイントで針を使って緊張を解いたりしていきますね。

 


シコリを完全に無くしてから運動を始めるか、シコリが残った状態で無理のない運動をしながらセルフケアし続けたり、日時生活でうまく付き合っていく方法を見つけていくか。考え方は人それぞれなので、どちらが良いとか正しいとかはないと思います。

 


トラウマとLSWは、シコリと運動の関係に似ているかもしれません。大事なのは、本人がどのような形を望んで、それが尊重されることなのかなと。

 


ただ、いま自分に何が起こっていて、どうケアを受ければそのシコリがどうなるかの情報を知らなければ、自分で考えて主体的に選択するということは出来きないですよね。

 


なので、支援者がアナウンスする。トラウマ反応とは何なのか、過去を知ると言うことはどう言うことなるか、それに伴うリスクや必要な準備はなんなのか。それで一緒に考える、いつ誰とどうしたいか。

 


それはインフォームドコンセントや心理教育と呼ばれる過程と思うのですが、それはLSWに限ったことではなくて、相談援助活動全般に言えることだと思うんです。

 


だから、支援者は何が起きるか知っておかないといけないし、それを相手の理解やペースに合わせて、わかりやすく説明したり翻訳できるようにしておかないといけない。

 

 

 

まとめると、大人や支援者主導のLSW、本人の意思やペースを無視した過去の記憶想起は、トラウマを刺激する二次受傷が起きていたから、LSW後に子どもが荒れるということが実際起きていたんだと思います。

 


もちろん、トラウマを扱う目的で、本人もそれを承知で、深部の悪いところ治す手術のためにお腹切りますね、治るまでの間は安静にしないとダメですよ、というコンセンサスが皆にあれば「荒れる」ということは治療のプロセスなので悪いことではないと思います。

 


良くないのは、本人も周囲も意図せずに、本人が自分過去を知りたいと言ってるから伝えようって言って、知らず知らずのうちに本人が過去の記憶想起の中でこころが斬られまくっていて、よく言う「蓋の開いた状態」になって自分のコントロールを失い、現在の生活や人間関係が壊れていくというパターン。

 

 

 

 


「トラウマを抱えた児童へのLSW」の第一歩は、支援者がトラウマについて知ること。

 

 

 

トラウマを抱えた児童の過去を扱うんだから、トラウマについて知らないといけないのは当たり前。

 


しかし、トラウマについて知ると、「この子はトラウマを抱えているかもしれない」という視点を持てるようになる。これすごく大事。

 


つまり、これまではトラウマなんてないだろうと思ってLSWやったら、え!トラウマありました。みたいなこと起きてたんじゃないかなと想像します。

 


なので、身体なら健康診断して、身体に異常が見つかって、精密検査したからどうやら病気があることがわかって、どう治療しようかみたいな話しをするプロセスを、こころも同様に行うこと。

 


こころの状態を普段の様子や心理検査で査定(=アセスメント)して、何がありそうだと仮説を立てて、さらに追加の検査を行ったり、自宅や学校の様子の情報を加えて、おそらくこんなことになっていけど、どうケアしよう、という話し合いをする。

 

 

 

トラウマの治療法や心理療法は数多くありますが、どれが優れているとか劣っているとかはなくて、その人の状態や特性的にどれが一番相性がよさそうか、治療者の習熟度合いはどうか等々、複数要因の掛け算なので、唯一無二の絶対的な必殺技はないんです。

 

 

 

だからこそ、よく相手のことをよく知り、支援者自身の力量や特性や限界をよく知り、サポートしてくれる資源のことをよく知り、本人とみんなが一番納得して安心できる方法を一緒に探すこと。それが、いま僕が考えている

 

 

 

『トラウマを抱える児童へのLSW』

 

 

 

です。

 

 

 

途中から話の納めどきが見つからずにダラダラしてしまいましたが、1人語りというblog形式の限界を今回は感じました。

 


相手の反応がないので、どのような文脈や言葉が相手に伝わるか伝わっているのか補足が必要そうなのかわからず、ついつい長めになってしまいます。

 


そう言う意味では「対話」形式の勉強会での学びや気づきは、知識と体験が結びつく「腑に落ちる」身体性を伴った理解なんだなぁ、としみじみ。

 

 

 

また、勉強会再開したいですね。

 

 

 

 


ではでは。