メンバーの皆さま
おつかれさまです。管理人です。
8月に入りましたが、暑い日が続いていますね。
皆さま、夏バテなどされていないでしょうか?
今回は予告通り「あいまいな喪失」に戻ります。
●目次
はじめにー喪失とあいまいさ
第I部 あいまいな喪失の理論の構築
第1章 心の家族
第2章 トラウマとストレス
第3章 レジリエンスと健康
第II部 あいまいな喪失の治療・援助の目標
第4章 意味を見つける
第5章 支配感を調整する
第6章 アイデンティティーの再構築
第7章 両価的な感情を正常なものと見なす
第8章 新しい愛着の形を見つける
第9章 希望を見出す
エピローグーセラピスト自身について
●内容
今回は第2章「トラウマとストレス」。以下は僕なりに順番を変えて抜粋したものです。
~実際、PTSDの診断や治療に対して最近批判されていることは、それが体系的でも文脈的でもなく、個人の病理に焦点を当てすぎているということです。
~逆説的ですが、PTSD診断があまりにも医学的になっているということを、私たちは内科医に教えられました。
~DSM-Ⅳ-TRにおいては、PTSDは、第一に精神障害として、第二に個人的な疾患として評価、治療されます。一方、あいまいな喪失は精神の機能障害ではなく関係性の障害です。ストレス要因によって外的に引き起こされたものです。
~それゆえ、治療や介入には、関係性的アプローチや精神力動的アプローチに加えて、ストレス・マネジメントが含まれなければなりません。
~あいまいな喪失とPTSDの主な相違点は明白であり、それはトラウマの元となる出来事が続いているということです。
~今日では、PTSDは、単に個人の精神的または身体的弱さとしてではなく、苦痛に満ちた、トラウマ的な文化的文脈から生じうる状況としても見直されています。
~関係性の問題の治療には、関係性を扱う介入が必要なのです。
~現在の治療技法の偏狭さーそれはしばしば研究資金に影響されているわけですがー家族療法家との協働を妨げています。
~個人を重んじ、自分のことは自分でやるということに価値を置く文化のなかで社会化されているセラピストにとって、このようなやり方に変えていくことは難しいです。
~トラウマの治療と介入を提供すること専門家は、異文化とうまく付き合えなくてはなりません。なぜならトラウマを障害として理解するやり方は文化に寄ってかなり異なるからです。
~レイズ(Leys,2000)によると、トラウマには二つの立場があり、どちらの立場であるかによって変わります。①一つは、症状軽減と再教育を支持する立場です。②もう一つは、トラウマは症状を超えたものであり、現在の関係性の文脈や、その人の原家族から現れる、より深い意味を持つと主張する立場です。
●コメント
本の引用をしていると、どこかのTV報道みたいに「印象操作だ」と言われるんじゃないかとヒヤヒヤした気持ちになりますね。あくまで一個人の感想として読んでください。
この章に限りませんが「研究資金に影響されているわけですが」とか書き方が本当に生々しいですよね。これも見方のひとつとは言え、「高値」が付く=価値があるというような、お金や経済が人の価値観や思考に影響を及ぼしている側面は、否定できない現実かなと思いました。
話をトラウマに移すと、僕個人的には、レイズの言う「トラウマへの二つの立場」はどちらもありだと思います。
もちろん、どちらの視点もバランス良く持っている方もいますが、確かにどちらかに偏りがちになっている印象の方って少なくないな、と感じます。
それは個人的要因が大きい場合もありますが、業務の性質のせいもあるかなと思うこともあって、例えば患者メインで扱う病院や子どもに直接処遇するケアワーカーは①的な、家族や保護者へのアプローチ可能な児相やFSW(ファミリーソーシャルワーカー)は②的な視点を持つ方が多いかもと。
それは、その人の職務体験やトレーニングの幅が狭かったり、他者や他機関の異文化を取り入れて物事を考える余裕がないということかもしれないと。
どちらのアプローチが良い悪いではなく、どちらも必要な視点だから、クライエントの受け入れやすい文化に合わせて選択使い分けできたらベストなんだと思います。
でも、1人で全てのアプローチを習熟することは無理なので、違ったアプローチが出来る他機関と「連携」しましょうという話しなんです。「なんでこんな事も分かんないだよ」とヤキモキするでなくて、異文化が集まったチームの方が支援の幅が増えると考えて、自分にない視点をリスペクトして学び合いながら協力する、それでいいんじゃないのかな、と思います。
ここまでは、トラウマに向き合おうとする立場に違いがある場合のお話し。
しかし辛口に言えば、日本に限るのかわかりませんが、児童福祉関係者の中には「自分はトラウマ治療をしないので、トラウマは遠いの世界のお話です」みたいな、①②どちらにも立たない、③そもそもお手上げです的な方って、残念ながら割といるなぁ、と思います。
著者の愚痴っぽい米国の状況の段階まで、そもそも日本は至っていないのでは、と。
例えば「LSWをすると荒れる」という文脈で、トラウマの話が出てこないのは、明らかに不自然だと僕は思います。
LSWで「荒れる」視点として
「トラウマ記憶は過去にないのか?また恐怖体験を想起させるような触れ方はしていないか?」→「恐怖体験でない未完の感情の蓄積は?ケアの必要性は?」→「アイデンティティの混乱だけか?」
みたいな、この流れが正しいかはさておき、荒れる要素の理解に基づいて、複雑なケースについては全体をアセスメントして段階的に対応を検討しておかないと、どこで何の地雷を踏んだかわかりません。
おそらく後の章に出てきますが、サポート側の理解や見通しや予測付いていることは、支援者の耐える力(レジリエンス)を高めると思いますし、それが心理教育と呼ばれる事前知識を入れて心の準備を高めておくメリットだと思います。
でも実際には、大人が無自覚に何回も地雷を踏んでおいて、暴れたら我慢できない人が悪いです、危ないので禁止です、個別対応です、ってことって起こってると思うんです。
正直、多くの支援者にとって「PTSDなんて難しい話しされてもわかりません」が本音なんだと思います。僕もDSMを暗記しているわけでないので「ちゃんと知ってる?」と聞かれたら、今でもそんなに自信はないです。
だけど、現実的にはトラウマを抱えた子が、わんさか現場に流れ込んでくるわけですから、わかりません相手できません、というわけには行きません。なので、大変ですけど学ばないと前に進まないかな、と。
そこで、おそらく壁になってる一つは「治療」と「ケア」の考え方。つまり「トラウマ治療」と「トラウマケア」の混同が、トラウマ治療なんて出来ません触れられません医療分野の不可侵領域ですみたいな一線を引かせているところがないかな、と。
例えば、骨折している人に、医者は手術(キュア)することが出来ますが、他の人は何も出来ないわけではありません。手術時なら麻酔医がいて、看護師が術前後のお世話(ケア)をするわけです。家に帰った後だって、早く治るようにバランスの良い食事を用意したり、お風呂の介助をしたり、包帯を巻き直したり、寝る姿勢を気をつけたり日常的に出来るお世話(ケア)はたくさんあります。
トラウマも同様に、トラウマに直接アプローチする治療者でなくても、日常的にトラウマ症状を緩和させたり悪化させないようにする配慮やお世話(ケア)はたくさんあると思います。ホッと安心する楽しい食事の時間があるとか、遊びに行く約束がきちんと守られるとか、お薬を忘れないように飲ませるとか。
そのような個別的なケアを考えるには、その人が単に「虐待を受けてました」という表面的な理解じゃなくて、どれくらいの年齢でどのくらいの身体の大きさの時に、どのような場面で、どのようなインパクトのある体験をして、どのような気持ち感覚になったのか、支援者が映画の役者になってその人の役を演じるくらいの情報収集と想像力が必要なんだと思います。
そうすることで、例えば他児の喧嘩や暴言で興奮する、食事場面でキレやすい、注意されると暴れる等々、大人から見たら「問題行動」と思われる背景にある「殴られるか怖い」とか「このイライラがいつ終わるのかわからない不安」とか、または言語化すら出来ないソワソワした身体感覚にまで、想いを巡らすことが出来ると思います。
そして「トラウマをどうにかする」治療技法ばかりに注目するのでなく、「トラウマにあえて触れずに」日常生活を送らせたり会話をしたり、望まない過去の想起が多少起こっても話を逸らしたり意識を現実生活に戻して安心感を与えたり、落ち着いた何気ない日常生活を支えることは、実はとても専門的でスキルフルな対応だし、スペシャルな「トラウマケア」だと僕は思います。
そう考えると、LSWで過去にトラウマがあるのがわかっていて、それを意図的に避けながら、他の部分の過去を取り扱いながら、もしもトラウマにかすってしまったら「ゴメンゴメン」って現実に戻しながら安全に対話を進めるのって、実はとても専門的でスキルフルでスペシャルな対応ということになってしまいますね(苦笑)
でも実際、専門性って特別なアクロバティックなことばかりじゃなくて、細かなポイントにこだわって配慮した観察、行動、言葉選び、素人がパッと見てもわからない何気ない連続の中に「専門性」が散りばめられているから、何事もなかったように事が美しくスムーズに流れて行くんだろう、と思います。
トラウマについては、また別図書で触れたいですが、僕もまだまだ勉強中なので、できればライトでわかりやすい本を紹介しながら、皆さんと共に学んでいけたらな、と思います。
ではでは。