LSWのちょっとかゆいところに手が届く「まごのてblog」

静岡LSW勉強会の管理人によるコラム集

【第25回】あいまいな喪失とトラウマからの回復⑨

メンバーの皆さま


おはようございます。管理人です。

世間は昨日がUターンラッシュのピークだったようですね。皆さま混乱はなかったでしょうか?

僕は、仕事移動で乗るはずだった路線バスが、普段30分に1本のところ、お盆ダイヤで1時間に1本に減っているという嫌がらせのようなアクシデントはありましたが、なんとかことなきを得ました。昼間の新幹線も思ったより混んでなかったですしね。

Uターンと言えば、今回でようやく本章の折り返し5章までたどり着きました。勝手に続けておいて何ですが、既に⑨になっている事に若干やりすぎじゃないか感を感じています。

でも、逆にここまで来たら全章1つ残らず制覇してやる!なんて少し意地になってる部分もありますので、しばらくお付き合いください。

今回はそんな(?)支配感にまつわるお話しです。

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●目次
はじめにー喪失とあいまいさ

第I部   あいまいな喪失の理論の構築
第1章  心の家族
第2章  トラウマとストレス
第3章  レジリエンスと健康

第II部   あいまいな喪失の治療・援助の目標
第4章  意味を見つける
第5章  支配感を調整する
第6章  アイデンティティーの再構築
第7章  両価的な感情を正常なものと見なす
第8章  新しい愛着の形を見つける
第9章  希望を見出す

エピローグーセラピスト自身について


●内容
今回は第5章「支配感を調節する」です。まずは言葉の定義から。

◆「支配」と「自己効力感、統制の所在」の違い
【支配】人生に対するコントロールの感覚。支配の表すコントロール感とは「源がなんであれ、それらの力の行使をコントロールすること」

【自己効力感】何らかの課題を遂行するために人が行なっているコトロールに焦点が当てられている

統制の所在】(locus of control
自分の人生に影響を与えている源を強調


◆支配感とあいまいな喪失のレジリエンス
~この章における大切な点は、人々の持つ標準的な、支配感が調節されないでいるために、その人の無力感か増していくということ

~支配感を過大評価、または過小評価してしまうこと、あるいは、時宜に適っていない支配感はレジリエンスを弱めてしまいます。

~この本で主眼を置いているのは、無力感という危険な状態は、しばしば私たちのコントロールの域を超えていることから引き起こされる点です。

セリグマンは、心身症的疾患が形成される要因の中でも、「環境的要因に降伏せざるを得ない」状況よりもむしろ、個人が「意志を放棄する」ことが最も影響力を持つことを見出しました(1992,p.184)。

無力感という感情によって変化への動機が阻害されるということです…個人が持つ将来のストレスへの支配感も、同様に阻害されてしまいます。なぜなら、セリグマンよれば、学習性無力感は、自分は有能であるという感覚に認知的な歪みをもらたすからです(1992,p.74)。


◆支配感を調節するためのセラピー
~トラウマを経験している人々にとって、自分が話したい相手、そして話をする時を選ぶことができることが重要となります。

~あいまいな喪失後の支配感を調節するには、ナラティヴの技法を用いることをお勧めします。

~物語を通して認知の再構成を行うことは、喪失後の問題解決、意思決定、役割を割り当てること、またそれらにどのような期待を持てば良いかなどを関係性のなかで行なっていくための良い方法となります。

~それだけでなく、ナラティヴの技法は、極めて必要とされる体験的側面、つまり、ナラティヴの視点を使うことで、トラウマや喪失後に関係した経験の意味を調節することができるのです。

~ディッカーソンはナラティヴ・アプローチを用いる時に、単に認知を扱うよりも広い視点を持つことを勧めており、「…つまり、人生の物語は、経験的であり意味を見出すという作業であるから、ナラティヴ・アプローチはそれほど認知行動的なアプローチではない」(2004,p.340)と述べています。

~私たちは、人々が語る物語のなかに、その人のレジリエンスや能力を示すようなサインがあるのではないかと耳を傾けながら、この人の過去の体験のなかにそのようなサインが垣間見られる場合には、それらを繋ぎ合わせてみることにより、その人は適切な支配感を持つことができます。

~物語や会話をしながら、個人や家族が持つ運命観や人生観を見極めることができます。

~語られる物語が、時機に適っていない支配への努力だったり、問題解決に固執しすぎたりしているなら、人々に、もし違う対処法が可能ならどのようにしたいと思うか、将来どんな風に同じ状況に際して対処できると思うかなどを質問して、新しい物語を語れるように援助することが有益です。

~ここでの主な目標は、適切な支配感を提示することであり、別の言い方をすれば、レジリエンスや健康を維持できるよう調節する能力が必要なのです


◆離別よりも、人との繋がりを増やす
~トラウマや喪失の後、愛する人と繋がっているという感覚は、その痛みから癒されていくなかで、中核をなしているものということができます。

~危機介入や悲嘆専門とするカウンセラーは、関係性のネットワークや被害者が既に持っている自然な社会的ネットワークをその支援に取り込む必要があります(Groopman,2004)。


◆援助的関係
~臨床家にとって大切なのは、クライエントが持つ見方、感じ方を尊重することです。

~すべてを知ることができない、目の前の状況を支配できない不快感は、専門家の訓練過程においてもほとんど話題にされていません。

~むしろ、私たちの訓練は治すことや癒やすことにあります。私たちがこの視点に固着すると、クライエントの痛みが取り去れないことは治療援助の失敗と捉えるしかなくなってしまいます。

~私たち自身についての学びこそ、支配感を調節する第一歩になります。クライエントの支配感の欠如に対してより共感できるようになるために、私たち自身の不完全さを認識する必要があります。


●コメント
キーワードは「無力感」ですよね。「意志を放棄する」とか自分は有能であるという感覚に認知的な歪みをもらたす」とか、よくLSWの対象としてイメージされるポジティヴな未来を描けない子どもと非常に重なる気がします。

そして興味深いのは、無力感を生みだす「支配感」の存在を全否定するわけでなく、支配感を調節して適切に"ほどほど"にするという視点です。

僕の理解としては「支配感」は、物理的な支配というより、極端に振れた精神的な「支配され感」and「支配できる感」というイメージを持ちました。

よく虐待関係は「支配ー被支配」関係と言われますが、虐待者から支配される関係はイメージに容易いと思います。しかし、そこから派生して、自分の人生や相手を支配できる感が強くなる→自分の思った通りにならないと気が済まない→自己中心的、というような支配側に反転する視点も大事な気がします。「支配ー被支配」関係の連鎖と言いますか、「無力感」と反対の「万能感」と言いますか。

とくに自然を相手にする産業やスポーツをやっている方は体験的にかると思いますが、基本的に自然の前では人間の思い通りになんてならないことが普通ですよね。

しかし、それでは効率が悪いし不測の事態に咄嗟に対応できないので、予測可能な科学やテクノロジーで固められた現代社会で我々は生きてるわけです。日本の電車の正確さなんて世界的に見ても異常な位なのに、それがスタンダードになると、ちょっとしたダイヤの乱れや公共バスの数分の誤差にさえ不寛容になりますよね。

物理的な便利さの追求って表裏一体で、時間のコントロール感が高まる分、精神的な「支配できる感」を助長する側面もあるし、逆に物理的な便利さが実は精神的な「支配され感」が増しているジレンマ的な状況ってありませんか?最近で言えばSNSやLINEとか。

つまり、支配感を調節するとは「無力感」と「万能感」のバランス取りと言うか、「自分でなんとかなる部分もあるけど、どうにもならない部分もある」「AでもありBでもある」という視点や思考の柔軟性を持つ事に繋がるんだろうな、と。

例えば、旅行が計画スケジュール通りに進まないと気が済まないか、ふいのアクシデントも含めて旅行だと楽しめるか。冒頭で路線バスの話に触れましたが、仕事も人生もアクシデントなんて山程ありますよね。アクシデントにも適度に対応できるか、これが柔軟性であり、レジリエンスなんだと思います。

逆に言うと、支援に手がかかる人は、やはり思考が極端に振り切って柔軟性に乏しい事が多いなと思います。そして支援者は、そうすることで自分を守るしかなかったクライエントの歴史背景まで理解して対話を重ねることが、支配感を調節することに繋がると言うことを本章は言わんとしているような気がします。


あと、支配感を調節するために「ナラティヴ」「人との繋がり」「援助的関係」が挙げられていますが、

前回触れた第4章「意味を見つける」のアプローチ
①ナラティヴ・アプローチ
弁証法的アプローチ「AでもありBでもある」
③家族と地域社会のシステム的アプローチ

と内容は類似していて「相手・環境・自分」の価値観や影響ついて偏りなくバランス良く考えること、それらをお互いに影響を与え合う相互関係のシステムとして見ていく大切さを繰り返し強調しているのかな、と思いました。


最後に、テクニック的なことで言うと、
「問題解決に固執しすぎたりしているなら、人々に、もし違う対処法が可能ならどのようにしたいと思うか、将来どんな風に同じ状況に際して対処できると思うかなどを質問して」

ってサラッと書かれていますが、これって素人が簡単に出来る面接ではないです。書かれている内容と求められる質問テクニックは、SFA(ソリューション・フォーカスト・アプローチ)そのものに僕には思えます。

例えば、過去の「例外的に上手くいった状況」や「ちょっとマシだった状況」に焦点を当てて聞いたり、対処できている未来を想像させた質問の類です。

おそらく健康的で協力的な高齢者の回想法のように、だいぶ安全度とバランスが良い相手なら、SFA的な質問技法を使わなくても傾聴的姿勢さえあればナラティヴによる語りはスムーズに進むし、勝手に話も展開もしていくかもしれません。

しかし、クライエントの思考が偏っていたり柔軟性が乏しい場合、ただ傾聴的姿勢のみで聞くだけでは問題解決への固執を「そうそう」と余計に強化してしまい、クライエントが実は持っている別の視点への気づきに至らなかったり、クライエントに全然変わる気や資質がないという見立て違いが起こりうると思います。

そんな時、SFA的な質問技法は随分と役立ちそうな気がしています。どこかの章で著者は「SFAとは同義ではない」と述べてはいましたが、あいまいな喪失を扱うナラティヴ・アプローチと組み合わせて使うと効果的ではなかろうかと僕は思います。

僕も理解できてない時代は「ソリューションなんて難しそうな横文字使われても…」という抵抗感が正直ありましたので、別にSFAを知っているか使っているかに固執するつもりは全然ありません。

ただ繰り返し言いたいことは、
「問題解決に固執しすぎたりしているなら、人々に、もし違う対処法が可能ならどのようにしたいと思うか、将来どんな風に同じ状況に際して対処できると思うかなどを質問して」

って、サラッと言うほど簡単なことではないし、専門的な面接トレーニングを要するスキルフルな対応である、言うことです。特に、思考の偏りが強いASD的な人を相手にした場合には。

加えて社会的養護のLSWで考えた場合、そもそもナラティヴや面接が成立しないくらい低年齢だったり、中高生年代でも自分の考えや感情を語れる程の言語性や感受性が育っていない子の方が多いですよね。

なので、心理教育と呼ばれる「こんな状況に陥ったら、こうなりがち、こう思う人は結構いるよ」というお話しは、自分に何が起こっているか知る→意味を考えて見つけるプロセスを助ける重要な情報だろうと思います。

それを子どもにわかりやすく伝えるには、当然まず伝える側の大人が理解整理が必要ですよね。例えば、「生い立ちを知らない社会的養護の子ども」「忠誠葛藤」「トラウマ」「グリーフ」等の一般的な知識です。もちろん、子どもの年齢や能力を考慮したアレンジも含めて。

そして何より、普段の何気ない生活の中で「今日は何があった?」「楽しかったことは?」「元気なさそうだけど何があった?」など、「自分の経験」を感じて考えて語って「体験」として整理することを積み重ねないと、いくら心理教育や真実告知後をしたところで自分の語りや経験を整理して体験として腑に落とす所には繋がっていかないのは、言うまでもないと思います。

ですので、本書で言うように、まずは支援者自身の価値観や考え方にフォーカスして自覚すること重要で常に必要ではありますが、初級を超えて+α中級以降、次の段階ではLSWにおいても、支援者の聞く技術、質問の技術のトレーニングや研鑽ってやっぱり必要だし、支援者自身の知識の整理も必要だろうと思います。

当たり前ですが、支援者の聞き方や非言語の聞く姿勢、伝える内容と伝え方(これは上達に上限がない専門的スキルと思います)次第でナラティヴや対話の展開も全然違うものになるよなぁ、と想像します。

「最後に」が長くてすみません。

ではでは。