メンバーの皆さま
おはようございます。管理人です。
前回のエピローグに続き、今回は
「はじめにー喪失とあいまいさ」を取り上げます。
正直「はじめに」からお腹いっぱいになる内容の分厚さにも関わらず、トピック一つだけで結構な長文になってしまいました。ご勘弁下さい。
●目次
はじめにー喪失とあいまいさ
第I部 あいまいな喪失の理論の構築
第1章 心の家族
第2章 トラウマとストレス
第3章 レジリエンスと健康
第II部 あいまいな喪失の治療・援助の目標
第4章 意味を見つける
第5章 支配感を調整する
第6章 アイデンティティーの再構築
第7章 両価的な感情を正常なものと見なす
第8章 新しい愛着の形を見つける
第9章 希望を見出す
エピローグーセラピスト自身について
●内容&コメント
まず、題名である「あいまいな喪失」について。
本書では、あいまいな喪失には二つにタイプが存在すると説明しています。それは、
1)身体的には存在していないが、心理的には存在している状況
2)身体的には存在しているが、心理的には存在していない状況
です。順番に見ていきます。
【タイプ1】身体的には存在していないが、心理的には存在している状況
ー愛する人が身体的に失われている状態、肉体が消失している状態。
・悲惨な例としては、戦争やテロ、地震や津波、殺人や事故などで遺体が見つからない場合。
・日常的な例としては、離婚による親の不在、養子家庭における生物的な親の不在、赤ちゃんの喪失や死産、子どもを養子に出すこと、青年が家を離れて自立すること、など。
・これらの場合、諦めるべきなのか、戻ってくるまで待っているべきなのか分からなくなってしまう。また、人々は失われた人のことで頭がいっぱいになり、他のことをほとんど考えられなくなってしまう。その結果、家族はもはや通常の役割やお互いの関係性における機能を果たさなくなってしまう。
これは、親と離れて暮らす社会的養護の子ども達のLSWでよく扱われるタイプの喪失ですよね。よくある「今お母さんは何しているの?」のやつです。
さらに言うと、考え方によっては、例えば乳児院から施設育ちとか、父親は出産前に離婚してるだとか、そもそも実親と一緒にいた事実や記憶がなければ、もともと無いんだから「喪失」ではないし、「心理的には存在するわけない」という見方もあるかと思うんです。
けれど、仮に実親と暮らした記憶がなくとも、他児が親子交流をしていたり、幼稚園や学校の友達は両親と暮らしている事実を目の当たりにする状況であれば、幼い子どもだって、薄々、
「みんなにはお母さん、お父さんがいる。自分のお母さん、お父さんはどこにいるんだろう?」
って思ってる方が自然だと、僕は思うんです。そうしたら、顔も姿もはっきりしないけど、心の中には父母があいまいに存在していると言っていいのではないでしょうか。
そして、
「失われた人のことで頭がいっぱいになり、他のことをほとんど考えられなくなってしまう」
まさにこれが、LSWで生い立ちや家族の話題を扱う理由じゃないかなと僕は思います。
続いて、もう一つの喪失。
【タイプ2】身体的には存在しているが、心理的には存在していない状況
ー人々が心理的になる不在になること、すなわち情緒、認知のレベルで失われてしまうこと。
・例えば、アルツハイマー病、その他の認知症、脳外傷、自閉症、うつ病、依存症、その他の身体疾患や精神疾患で記憶がなくなったり感情の表出がなくなったりする状態。
・日常的な例としては、ワーカホリック、ホームシック、再婚により義理の子ども/親を得ること、ゲーム・PCへの過剰な熱中、など。
・このタイプのあいまいな喪失では、関係性や情緒的な過程が凍結した状態になる。日に日にその人の機能や役割が果たせなくなっていく。役割や立場が混乱していく。人々はどう振る舞ったらよいのか、何をしたらよいのか分からなくなることがよく起こる。
これは思わず「なるほどぉ~」と心の中で唸ってしまいました。この喪失って、目に見えないのでわかりにくですけど、結構こたえますよね。
想像してみてください。自分の母親が突然の精神疾患で、いきなり元気なくしたり、支離滅裂なことや「お前も殺して私も死ぬ」とか言いだしたり。
「いつものお母さんはどこへ行っちゃったの?」
「もう以前の優しいお母さんは戻ってこないの?」
きっと、寂しい切ない思いになりますよね。
僕も職場や関係者で「以前ならこんなこと言わなかったのに」というバーンアウト寸前の人を何人も見てきましたが、怒りを通り越して、悲しい気持ちになったのを覚えています。
さらに、身体が存在しない【タイプ1】のあいまいな喪失ですら「遺体」が見つからなければ、感情を表現し整理する儀式をする方法を我々は持っていない、と本書にあるのですが、身体が存在する【タイプ2】のあいまいな喪失なんて、なかなか他人には理解してもらえないだろうし、それを語れる機会なんてほぼ皆無だろう、と。だから、特に【タイプ2】には「未完の感情」がかなりの確率で潜んでいるじゃないかと思うんです。
児童福祉で関わる子も親なんて、成育歴を聞くと、言わば【タイプ1】と【タイプ2】のあいまいな喪失のミルフィーユ状態ですよね。
その全部の喪失体験には漏れなく「未完の感情」がビッシリ詰まってるわけで、そりゃ家族内の役割だの立場だのは機能しなくなるし、子どもはどうしたらいいかわからなくなるよな、と。
だから、やっぱり聞くことが大事だろうと思うのですが、最近ちょっと気になるのは、LSWにおいて「知る権利」とか「記憶をつなぐ」ことが強調され過ぎている印象(発信側はそのつもりがなくても、受け手側のインパクトの大きさとして)を僕は受けていて、どうも大人側の「伝えたい」「伝えなきゃ」が先行してしまっているケースが多々あるな、と思うことがあります。
前回の勉強会で「知りたくない権利もある」ということが話題に上がりましたが、もちろん正しい情報を伝えることは大切で、その準備をしておくことは重要だと思います。
でも、もっと根本的に大切なことは、対人援助の基本的な姿勢で、目の前の人の話をしっかり聞く、表情や声の調子などを観察して気持ちを察する、そして言葉のキャッチボールと非言語のキャッチボール(例:嬉しそうにしたら微笑み返すとか)を組み合わせた「対話」や「意思疎通」を重ねること、じゃないかと。
それは一般的には「LSWのベースとなる支援者との情緒的交流、信頼関係」という言葉で説明されていると思うのですが、もしかしたら、それだけでは通じていないかも、と感じることがあります。
前回コラムで扱ったように、対人援助を「教えてあげなきゃ、助けてあげなきゃ、全ての要求に全て応えてあげなきゃ」とか「自分」中心の文脈から抜け出せていない人は、そもそも論の共通理解がベースにないので、誤解が生じるのかもしれないな、と。
この辺は「永遠の課題」な気がしますが、最近、歴史を積み重ねると、良くも悪くも細かいことが削ぎ落とされていくので、10年ひと区切りで「原点回帰」って必要だな、と思います。個人も組織も。
その意味では、賛否両論ある「1/2成人式」も10歳の節目だし、意味はあるなぁ、と。
「親がいない子どもが傷つく、可哀想」という意見はよく耳して、教育業界には少数派に対する理解や配慮は求めたいのはもちろんですが、現場には新任の先生だっているわけです。施設や児相も病院だって人員配置は「お互いさま」ですよね。
なので福祉業界も、直前になって「1/2成人式」をただ批判するだけじゃなくて、その子が10歳までにどのような支援を受けることが必要なのかを支援者がきちんと考えて話し合って、それを内外の関係者(施設、児相、学校など)で対話する「きっかけ」にしたらいいのにと思います。それが、分野の垣根を超えたその子の「支援チーム・支援プロジェクト」になっていくと思うんです。
なかなか脱線してしまいましたが、脱線話しで結局言いたいことは、
「地域の支援者がチーム仲間になるためには、もっと対話が必要」
ということで、それが勉強会を立ち上げた理由の一つです。
次回も「はじめに」の続きです。この本でどれだけ書くつもりだ、と自分で思いますが、よろしくお願いします。
ではでは。