【第34回】フィッシュボール
静岡LSW勉強会で「フィッシュボール」
そして、フィッシュボールの特徴と効果として、
- グループの気風・規範や、それを形成しているメンバーの態度・
行動についての「気づき(自覚、洞察)」を深めることにある。 - グループ同士で相互にフィードバックしあうことによって、
他者の言動に対して率直にフィードバック(指摘) するときの効果的なやり方、 および他者からフィードバックされたときに、 謙虚にそれを受け止めるやり方を学習することも大きなねらいであ る。
【第33回】Action Inquiry「行動探求」
個人・組織の変革の鍵である「意識レベルの変容」は、
「『行動探求』はビル・トルバートの最高傑作であり、
―― ロバート・キーガン(ハーバード大学教育大学院教授、『
まず、自分の意識や注意が向けられる領域についての整理です。
第一領域)外部の出来事や結果
第二領域)自分の認識する行動・身体
第三領域)自分の内面・行動論理・認知・思考
第四領域)自分の源・進行中の意図・ビジョン
~ふつう、人生の中で、言語を学んだばかりの時期は、
~その次に、私たちは、十代の友だちや、
~大学生か20歳代前半になるまでには、私たちの多くが、
もっと具体的にいうと今コラムを読みながら自分の意識が、①
~個人レベルの行動探求(アクション・インクワイアリー)は、
~ここで提案する注意の訓練は、最初に必要になる「気づき」
◆話し方・関わり方としての行動探求
そして、4つの体験領域は、
例えば、二者間での話し方(問いかけ、主張、説明、枠組み)
『問いかけ』→私たちを超えた外の世界における、
『説明』→
『主張』→私たちの思考に焦点を合わせる(第三領域)
『枠組み』→私たちの注意に焦点を合わせる(第四領域)
集団の組織化に関わる時の説明は省略しますが、言いたいことは、
◆7つの行動論理の発達プロセス
~私たちが変容するとしたら、これらの4つの行動論理(前期)
(前期)
1.機会獲得型(オポチュニスト)
物理的あるいは外の世界における結果の体験領域(第一領域)
2.外交官型(ディプロマット)
3.専門家(エキスパート)
戦略の体験領域(第三領域)を主な現実として扱い、
4.達成者(アチーバー)
目標の達成に情熱を傾ける。
~本書では取り上げないが、私たちの人生はまず「衝動的な」
~大部分の人は、体験領域のうちの戦略・行動・結果を(
~あらゆる業界・
~私たちは、
~(ここまでの)在来型の行動論理が「共通性」と「安定性」
(後期)
5.再定義型
戦略・手段・意図の一貫性を問いながら独創的に行動する。
~ポスト在来型的な理解に対する気づきを得始める時期は、
6.変容者型
主な特徴は、行動中の自己への気づき。相互性、
【第32回】現役目線「プロとしての成長とは」
〜ピッチの中で自分を表現するために、
\ /
体験(身体)
というような円環的なバランスをあげていますが、
〜ピッチの中で自分を表現するために、
【第31回】雀鬼 桜井章一 × 羽生善治「負けない生き方」
「雀鬼(ジャンキ)桜井章一」
二十年間無敗の伝説を持つ雀士、皆さまはご存知でしょうか?
僕は最後に麻雀打ったのが20年前ですし、
その雀鬼こと桜井章一氏と、説明不要の羽生善治氏、
【負けない生き方】(致知2017.10月号)より一部抜粋。
~麻雀が面白いのは、
~でも、
~勝負どころで面白いのは、やっぱり自分の都合が悪い時。…
~だから麻雀は、いい手が回った時だけ頑張るんじゃなくて、
~例えばスポーツなんかで「競技を楽しんでやりたい」
~そうそう。その楽しみってのは、
●コメント
僕は「どうせやるなら楽しんだ方がより良い仕事が出来る」
例えば、麻雀でもトランプ(大富豪とか)でも、
でも、その負けて当然、最悪の状況から、
対談を読みながら、仮に児童福祉に置き換えると、
児童福祉って子ども支援の中で言うと、
ところが、
限られた時間と枠の中で、
こう言う時って、
【対談の続き】
~考えすぎると、怪我が多くなるんです。心の怪我、
~僕が見てて、
~考えるって意外といい結果に結びつかないこともあるんです。
~僕は「間に合う」ってことも大切にしていて、
~人間はどこかに、頭を使うことが高等で、
~考え過ぎることがよくないように、
~車の運転もアクセルとブレーキの加減が大事で、
~
~僕の場合、
~僕は流れっていうのを体で分かっているんですよ。
~羽生さんの場合は、
~やっぱり羽生さんは、
●コメント
例えば、身体で言うと、どこかに力が入り過ぎてると、
対談に出てきた、考えすぎによる「こころの怪我、考え方の怪我」
(脳)認知・思考 - 感情(気持ち)
\ /
体験(身体)
の円環的な人間全体バランスが崩れているのと近いイメージなのか
【第30回】「希望を見出す」ことと「感情焦点セラピー」
●目次
はじめにー喪失とあいまいさ
第I部 あいまいな喪失の理論の構築
第1章 心の家族
第2章 トラウマとストレス
第3章 レジリエンスと健康
第II部 あいまいな喪失の治療・援助の目標
第4章 意味を見つける
第5章 支配感を調整する
第6章 アイデンティティーの再構築
第7章 両価的な感情を正常なものと見なす
第8章 新しい愛着の形を見つける
第9章 希望を見出す
●内容
いよいよ第9章「希望を見出す」です。
~私たちは今、円を一巡して始まりに戻りました。意味を見つけること、人生の支配感を調節すること、アイデンティティーを再構築すること、両価的な感情を正常と見なすこと、そして新しい愛着の形を見つけることが、理想的には希望を見出すという最高地点に到達し、この円のプロセスを一巡し、また意味を見つけるところに戻って繋がるのです。意味がないところに希望はありません。そしてまた、希望がないところには意味もないのです。
◆対話療法
~あいまいな喪失というトラウマのなかに、何らかの新しい希望を見出すことがなければ人生に意味はなく、人生に意味がないのであれば、新しい希望を発見する可能性もありません。
~希望は意味と密接に結びついているので、第4章で述べた社会構成主義の理論が、この章でも有効なものとなります。感情に焦点を当てたセラピーや、認知的介入、心理教育的な介入もまた適切な介入方法と言えます。
~特に感情に焦点を当てたセラピーは、希望を見つけるうえで重要です。なぜなら、いなくなっている人に対して抱いていた古い希望を手放せるくらい十分に安心感が得られるようになるためには、人との繋がりが必要なのですが、この感情に焦点を当てたセラピーはまたに人との繋がりに中核を置いているからです。
~米国の管理型医療システムでは、保険適応となるセラピーの種類に制約があるにもかかわらず、感情に焦点を置いた対話療法(talk therapy)が見直されてきています。
~しかし、私たちは、対話療法を行うセラピストが、クライアントが親のことについて治療的な話し合いをするよりも、むしろ親と子を含む合同面接をセッションに取り入れていることを確認しなければなりません。
~合同面接は、実際に同席できなければ、原家族をふりかえるワークを通して、心理的に同席した形で行うことも可能です。クライアント個人とセラピーを行う時でも、心の家族は同席できるのです。
◆希望と治療・援助
~希望は、自分の意思で作り出すものではありません。それは、望みがかなうことや、再び幸せになること、もっと大きな望ましい目標に到達できるような可能性のある時に、そのわくわくする感じのなかから現れ出るものです。セラピーの務めは、希望のない人々が希望を見つけられるよう援助することです。
~希望は、その人の内的な感情に基づいて見出されます。したがって、この段階でのセラピーのプロセスでは、認知的な手法や心理教育を伴った精神力動的なアプローチをまず用います。セラピーの目標は、自分自身を、信じる気持ちや、個人の力を育むことです(たとえば、人生の支配感を和らげること)。
~信頼している人々からのサポートは、「私にはそれができる!」という感覚の後ろ盾になります。自分の物語を語ることを通して、希望が見出され、再構成さらるようになります。
~私たちはこのプロセスで、創造することと探求していくことを奨励し、実際に、様々な活動の中でも特に、絵画、音楽、ダンス、イメージ、即興劇の技法を使ってきました。動くことが重要なのです。
~ただ発見したことについて話すだけではありません。私たちは行動的に希望を探し求めなくてはなりません。慣れ親しんだ状況と様々な状況の両方で、新しい経験をすることがこのプロセスに役立つのです。
◆まとめ
~(意味と希望の)二つは、メビウスの輪のような繋がっています。意味と希望はお互いがなくては存在できないものです。
~意味と希望の両方がレジリエンスと健康には必要です。意味を見つけることと希望を発見することの間には、人生の支配感を調節し、アイデンティティーを再構築し、両価的な感情を正常なものと見なし、新しい愛着の形を見つけるというプロセスが含まれています。
~セラピーのプロセスは円環的であり、直線的に段階を経て進むものではありません。ストレスやレジリエンスに焦点を置きますが、医療的な治療が必要な症状を見過ごすということではありません。全体としての目標はスキルを協働して動員することであり、これはクライアントとセラピストだけでなく、個人、夫婦、家族の援助をする専門家たちの間の協働でもあります。
~内省は、希望と意味を見つける複雑な弁証法的プロセスのなかの非常に重要な部分です。このことは、クライアントと同じように、セラピストにも当てはまることなので、この後のエピローグではセラピストの自己に焦点を当てます。
~あいまいな喪失をセラピーで扱う時、セラピストとして有用でありたいという私たちの希望は、セラピストがあいまいさにどれだけ耐えれるのかということと、答えのない問いがあっても安定していられることにかかっているのです。
●コメント
『エモーション・フォーカスト・セラピーによるうつへのアプローチ -恥の変容に注目して- 』(山内、2015)より一部抜粋。
http://klibredb.lib.kanagawa-u.ac.jp/dspace/bitstream/10487/14218/1/06-4.pdf
~1990年代以降,思考や認知,行動に注目する心理療法とは異なり,クライエント(以下 Cl.)の感情に注目する心理療法が北米を中心に発展している(Barlow et al., 2011/2012;Fosha, 2000;Greenberg, 2011/2013, Linehan, 1993/2007)。
~中でも,エモーション・フォーカスト・セラピー(以下,EFT)は,現代の認知科学と感情理論に基づき、…感情と体験を重視する統合的心理療法である(Greenberg, 2011/2013)。
~EFT のセラピーは,治療関係の原則と治療課題促進の原則に基づいている。創始者の Greenberg 氏はこの 2 つの原則を「共感の海に浮かぶ,治療介入の小島」と表現した。つまり,EFT の立場をとるセラピスト(以下Th.)の役割は,Cl. が共感や肯定によるあたたかい治療関係を拠り所としながら,Th. との協同的な相互作用の中で感情体験を深め, 治療課題へ取り組めるよう援助することである。
~さらに,EFT のもう一つの特徴は,単に感情を体験することを目指すのではなく,感情体験がどのように自己を作り出し,自己によって感情体験がどのように作り出されるかという循環的なプロセスを重視する点にある(Greenberg, 2011/2013)。
~EFT の Th. は,瞬時ごとの Cl. の感情状態の変化に注目し,そこ で Cl. が示す主要なプロセス指標に応じたいくつかの介入課題を提案する(Greenberg et al., 1993/2006)。
冒頭の説明から察すると、2017年の今でこそ脳科学や身体志向の心理アプローチにスポットが当たっているので、
(脳)認知 ー 感情(こころ)
\ /
行動 (身体)
を円環的な繋がりで考えることが自然となってますが、1980~90年代では認知と感情と行動を統合して考えるなんて革新的だったというこということですよね。
その状況は、
「米国の管理型医療システムでは、保険適応となるセラピーの種類に制約があるにもかかわらず、感情に焦点を置いた対話療法(talk therapy)が見直されてきています」
からも読み取れて、保険適応のセラピーの制約って、システムが作られた当時の時代背景に影響されていると思うんです。「思考や認知、行動に注目する」1990年代以前の。客観的にわかりやすく測定しやすい「行動」が、制度や法律と相性が良いという側面もあるとは思いますが。
本来、クライアントの状態に合わせて、「認知」ー「感情」ー「行動」が過度に偏りなく、その人の無理のない最適なバランスが取れる一番効果的な支援方法が選択されるべきだし、それを話し合うのが治療関係の原則なんだと僕は思います。
しかし、経済的メリットがあるとは言え、保険適応というシステムに囚われて、目に見えやすい「行動」にばかり焦点が当たりバランスを欠いては本末転倒。
その意味では「感情に焦点を置いた対話療法(talk therapy)が見直されてきています」は非常に明るい兆しですが、はたして日本でも似たような議論の方向性になって行くでしょうか?
ちなみに日本で、医師によるうつ病に対する認知行動療法(CBT)が医療保険点数の適応となったのが2010年…統合的な支援や考え方が理解され浸透するには、もう少し時間がかかりそうな気がしますよね。
それは日本のLSWにまつわる状況でもなんとなく感じられて、過去の生い立ちに対する子どもの認識の変化「認知面」、出身施設の訪問やLSW後の行動変容等「行動面」にばかり焦点が当たり、それに伴う「感情面」の扱いや検討が軽視されたり蔑ろにされる雰囲気や危険性を感じるのは僕だけでしょうか?
大事なことは、「頭の理解」と「身体の感覚」と「内面の気持ち」が一致できる状態になるよう、どこかを強めたり弱めたりして適切なバランスになるような支援を考えること、それには目に見える事と見えない事の両方に注意を払う必要があって、それはLSWに限ったことではないだろうと僕は思います。
その点で、感情焦点化セラピーの特徴である、
「感情体験がどのように自己を作り出し,自己によって感情体験がどのように作り出されるかという循環的なプロセスを重視する」
という部分は興味深いですね。感情体験の積み重ねが自分の価値観や自己像を作り、その価値観のフィルターや自己イメージを通して新しい体験をどう感じるかが決まる、なるほど感情体験はアイデンティティー形成の写し鏡のような存在と言えるのかなぁ、と思いました。
感情焦点化セラピー、またの機会にしっかり勉強してみたいですね。
最後に、希望について、
「セラピーの務めは、希望のない人々が希望を見つけられるよう援助することです」
これまで本書で色々な技法や理論に触れてきましたが、全ての手段はここに集約されるんだと思います。
そして、本書で言うように、クライアントの内側から自然に沸き起こってくる期待感や「この人となら頑張れる」と思う安心感を与えられる存在になるには、やはり支援者自身のレジリエンス、
「セラピストがあいまいさにどれだけ耐えれるのかということと、答えのない問いがあっても安定していられることにかかっているのです」
だよなぁ、と思いました。そこで本文は「エピローグーセラピスト自身について」に続くわけですが、コラムでエピローグを扱ったのはちょうど2ヶ月前。なんと【第11回】までさかのぼります。今回コラムが【第30回】ですから、改めて本書を通して本当に色々なことを考えさせてもらったんだなと改めて感じます。
本書との長い付き合いを振り返ると、最後の最後で、
「希望は、…そのわくわくする感じのなかから現れ出るものです」
という言葉が出てきたのが、これまで小難しい理論的な内容が続いていた中で、表現がスゴく丸くて際立ったというか、著者の感覚や人間味が感じられる言葉のようで印象的でした。
僕自身、本なんて夏休みの読書感想文くらいでしか読まなかった不読学生だったのですが、こんなにマニアックな専門書や論文を読み漁るようになったのは、LSWに出会ったのがきっかけです。
きっと僕自身LSWに意味や希望を見出して、LSWに役立つ新しい学びを得る事に「わくわくする感じ」を得ているんだろう、という気づきと共感を与えてもらったようで嬉しい気持ちになりました。
これで『あいまいな喪失とトラウマからの回復』のコラムは終了です。脱線も多い中、長い間お付き合いありがとうございました。
今後も僕が「わくわくする感じ」の本やネタを随時ご紹介していきますので、これからも「まごのてblog」をどうぞよろしくお願いします。
【第29回】新しい愛着の形を見つける
●目次
はじめにー喪失とあいまいさ
第I部 あいまいな喪失の理論の構築
第1章 心の家族
第2章 トラウマとストレス
第3章 レジリエンスと健康
第II部 あいまいな喪失の治療・援助の目標
第4章 意味を見つける
第5章 支配感を調整する
第6章 アイデンティティーの再構築
第7章 両価的な感情を正常なものと見なす
第8章 新しい愛着の形を見つける
第9章 希望を見出す
●内容
今回は第8章「新しい愛着の形を見つける」より。言葉の定義、
◆言葉の定義
~本書で私は、
~愛着は、伝統的には、
~本書では、愛着をもっと一般的な観点で、夫婦や家族、
◆新しい愛着の形を見つけることとレジリエンス
~失われた人を見つけることができない時に、
~そのような融通のきかない極端な反応は、不適応な状態であり、
~あいまいな喪失から生じる不安は、
~悲惨な状況でのあいまいな喪失においても、
◆セラピーの方法と治療的関係
~多くの人は、自分自身の力で、
~外的な状況が愛着や喪失を複雑にしている時には、
~より明確にすると、関係性へのアプローチや深層心理学は、
~たとえば、夫婦や家族とのセラピーでは、
学校、クリニック、職場、
まず「愛着」について。
〔小さな物が大きな物に〕付着する、付随する
〔小さな物を大きな物に〕取り付ける、添付する
にment(すること)をつけた名詞です。
ちなみにカメラの部品なんかを「アタッチメント」
☆セラピーの目標は、
☆安定で支持的な環境と、
☆あいまいな喪失によってトラウマを受けた人々の援助には、
☆個人、夫婦、家族を対象としたグループワークが、
☆規模の大きなあいまいな喪失やトラウマが起こった場合、
☆セラピストが、自分のオフィスから出て、
☆
☆もしトラウマのために生活が脅かされていたり、
☆あいまいな喪失のセラピーでは、
☆倫理的な理由から、
【第28回】両価的感情を正常なものとみなす
メンバーの皆さま
こんにちは。管理人です。
気がつけば8月最後の週末ですね。皆さまいかがお過ごしでしょうか?
僕は昨夜、スシローweb注文とやらに初チャレンジしてみました。今の技術はすごいですね、スマホ画面が完全に「注文タッチパネル」になって、お持ち帰りの時間指定まで出来るんです。
お店に着いたら、週末恒例、子ども連れ家族の長蛇の列。店の外まで並んでいて、ホント回転寿司屋の人気はエゲツないですよね。待ち時間は1時間では済まないでしょう。
その列を颯爽とかき分けて、自宅注文から約20分でお寿司GET。並んでる子ども達には申し訳ないですが、非常に爽快な気分に浸れました。
おそらく、これが今年の夏、最後の思い出になりそうです。ちなみに回転寿司なら僕は断然スシロー派。どうでもいい情報ですね。
それでは、本題のコラムです。
●目次
はじめにー喪失とあいまいさ
第I部 あいまいな喪失の理論の構築
第1章 心の家族
第2章 トラウマとストレス
第3章 レジリエンスと健康
第II部 あいまいな喪失の治療・援助の目標
第4章 意味を見つける
第5章 支配感を調整する
第6章 アイデンティティーの再構築
第7章 両価的な感情を正常なものと見なす
第8章 新しい愛着の形を見つける
第9章 希望を見出す
●内容
第7章「 両価的な感情を正常なものと見なす」より、「両価的な感情」「セラピー」「役立つこと」の3つについて紹介。
◆「両価的な感情」とは
~両価性は、…葛藤する感情や情動を示しています。あいまいな喪失の場合、相反する感情が、同時に、あるいは、揺れ動きながら表出してきますが、どちらの場合においても、その感情は相矛盾しています。二つの極端な感情に引き裂かれて、人々は不安に駆られます。そして、その不安感にうまく対処できない時、トラウマとなるほどのストレスに苦しむことになります。
~私たちが注目するのは、個人のなかに起きる心理的な両価性を作り出してしまう、あいまいさの外部の状況です。もし「あいまいさ」が認識されない場合、葛藤する感情は個人において、(配偶者、友達、そして家族との)関係生において、人々のレジリエンスをむしばんでいくのです。結果として起きる罪悪感や優柔不断さは、悲嘆を凍結し、対処していくプロセスや人間関係の動きなどを止めてしまうのです。
~私たちの愛する誰かが、身体的に、あるいは心理的にいなくなってしまう時、それに続いて起こる両価的感情は、当人を圧倒し、時として怒りの爆発や、不適切な行動につながる可能性があります。
~レジリエンスがあるということは、このような相反する感情を認識することであり、そうすることにより、両価的感情を適切に扱うことができ、後になって後悔するような有害な行為を避けることができます。
~もし、両価的感情の負の側面が正しく認識されずに、扱われないままであれば、不安感は抗いがたく高くなり、問題を引き起こす状態になってしまいます。そのなかには、全般性不安障害、パニック障害、強迫障害、PTSD、そして恐怖症が含まれます。
~両価性それ自体は病的ではありませんが、それに対処できない時、レジリエンスは崩れ、病的な兆候を表わすことがあります。愛と憎しみを同時に感じることこと、悲嘆から怒りへと行ったり来たりする状態は、もし、その二つの両極性が引き起こす緊張感を認め、うまく対処できなければ、人々にトラウマをもたらしてしまうことがあります。
◆セラピーで行うこと
~両価的な感情を正常と見なすことができるかどうかは、本質的には、人々が自分の中にある葛藤を認められるよう、治療的援助を提供できるかどうかに関わってきます。
~問題となっている現象に「あいまいな喪失」と名前を付けてみること、そして原因と思われることを外在化してみることは、両価性を正常なものとして捉えるプロセスの始まりです。
~認知療法と精神力動療法(たとえば、関係精神分析)の両方によって、このプロセスを続けていくために必要な方法・手段が提供されます。信頼できる人と自主的に語り合うナラティヴ・アプローチは、意識れていないことや象徴的なものを意識化させていくのに特に効果があります。
~両価的な感情については、「このこととそのことの間で、気持ちが引き裂かれてしまうように感じますか」(Pillemer & Suitor,2002)と聞くことによって、直接アセスメントをすることができます。または、間接的に、質的な、あるいは精神力動的なインタビューを通して、アセスメントをすることもできます。
~しかし、どちらかというと私は、家族面接のなかでお互いに話されている物語を聞くことによって、両価的な感情の有無を見る方法を取りたいと思います(Boss et al.,2003)。
~様々なタイプのあいまいな喪失に関わる援助を数多く経験するなかで、トラウマ化しやすい両価的感情を適切に扱うには、個人セラピーや個人を中心としたアプローチを超えて治療方法を拡げる必要がある、という確信をますます強くしています。
~既に述べたように、感情焦点化セラピー、認知療法はどちらも役立ちます。それに加えて、心理教育的、認知的、精神力動的、そしてトラウマ・セラピーを組み合わせながら、家族と地域社会を基盤とした介入を加える必要があります。一人では、これらすべてをやりこなすことはできません。
~そのような訳で私は、ソーシャルワーカー、医師、心理士、精神科医との協働を勧めるだけでなく、聖職者や緊急事態に対処する職種の人たち(警察官や消防士)、地域の教育関係者などを含む、地域社会の重要な指導と共に、協働的な作業を構築していくことを勧めたいと思います。
~地域社会の準専門家たちも重要な存在であり、その人々が、行方不明者の家族支援の訓練を災害のない時に受けているのが望ましいでしょう。そうすれば、いざ災害が起きた時にすぐ支援に入ることができます。
◆両価的な感情を正常なものと見なすのに「役に立つこと」
罪悪感や否定的な感情を、普通に起こることだと捉える。危害を及ぼす好意に関しては、正常なものと見なさない/芸術やアートなどを使って、相反する感情に対する理解を深める/個人の行為主体性を取り戻す/
心の家族を、もう一度見直し再構築する/コミュニティを家族だと見なす/毎日の役割や日課の割り当てを見直す/置かれている状況や環境について、質問してみる/両価的な感情について聞いてみる/隠れた、意識されていない両価性を明らかにしてみる/いったん意識できたら、その両価的な感情に対処してみる/葛藤を肯定的に捉える/いろいろなやり方で、両価的な感情を扱うのをよしとする/終結は両価的な感情を軽減したりしないということを知る/緊張に耐える力を育てる/認知的対処の方法を用いる
●コメント
「相反する2つの感情を同時に持つ葛藤状態は正常なものである」という理解は、まずセラピーで相手に求める前に、支援者自身が自分の事として受け入れる必要があると思いました。
前々回コラムで、判断決断とは相反する2つの事象を天秤にかけて最適バランスを取ることではないか、という内容を書きましたが、葛藤を抱え続けられないので、自分のネガティヴな感情に目を伏せて、迷ったり考えることを停止して「スパッと答えを出すこと」が仕事であると思い込んでいる人って対人援助職に限らず少なくないと思います。
もちろん判断決断が必要な場面はありますし、最終的な「結論」は同じかもしれませんが、そこに至る検討プロセスが片手落ちであれば、当然その後の「対応力」つまりレジリエンスが全然違ってくることは言うまでもありません。
視点は変わりますが、アマチュア時代はただ楽しいだけでやれていたのが、プロや仕事になった瞬間、厳しさや様々な葛藤を抱えながらやっていかざるを得ないのはどの世界でも同じだと思います。でも、元々の正の側面を感じられなくなった人はきっと長続きしないと思いますし、両価的感情や葛藤を抱えながら進めることも専門性やプロフェッショナリズムの一つのような気がします。
しかしながら、
「両価的感情の負の側面が正しく認識されずに、扱われないままであれば、不安感は抗いがたく高くなり、問題を引き起こす状態になってしまいます」
の状態だろう支援者の方に出会う事って本当に珍しいことではありません。それは「こうあるべき」の正論をゴリ押しする人や白黒ハッキリしたい人、もしくは「いい子ちゃんでいること」「ダメな自分を認められない」人にこの傾向は強いと思います。
「両価性それ自体は病的ではありませんが、それに対処できない時、レジリエンスは崩れ、病的な兆候を表わすことがあります」
は、子どもやクライエントではなく、まず対人援助職のバーンアウト状況(落ちるだけでなく攻撃的になる状態にも含めて)を思い浮かべていただくと、他人事ではなくリアリティを持って想像できるのではないでしょうか。
そして、子どもに対するあいまいな喪失やLSWの扱いに関しては、大人側の「悲しいことを思い出させるのは可哀想」とか「ケロッとしているから、もう大丈夫」という一般的見解によって、子どもに両価的感情の負の側面が正しく認識させることへの抵抗が起こることは珍しくありません。
しかし、現実社会では「本音と建前」で言った言葉と思ってる感情は異なるなんて皆体験しているはずです。それなのに、なぜか対人援助になると「あの人はこう言ってますから」という言葉尻りや表面的な様子ばかり執われて、言動の裏に隠された心情に目を向けようとしない人が時々います。きっとそのような人は、自身の両価的で複雑な感情を正常に扱えない状態なんだと思います。
なので、支援や実践云々の前に「セルフケア」「自己覚知」が大切だと何度もコラムで取り上げているのは、今読んでいただいている方はご存知の通りです。
また、
「芸術やアートなどを使って、相反する感情に対する理解を深める」方法は"なるほど"と思いました。綺麗事では済まない人間のドロドロした部分を扱った芸術作品は多いですよね。
有る意味、芸術家は自身の複雑な感情や葛藤にトコトン向き合うスペシャリストで、その一般人とは外れた感覚感性をアートという形で解放し、理解や評価される機会を得ていると言えると思います。
しかし、芸術家と呼ばれる人たちは異才の中で光が当たったごく一部に過ぎませんし、芸術家や孤高の天才でも異才な感受性を持つがゆえの孤独感に苦しみ、悲惨な最期を迎えてしまう天才も少なくありません。
そして、我われ児童福祉分野で出会う子どもは常識の枠では収まらない感覚感性の持ち主が本当に多いと思います。対人援助職である僕らは、彼らの独特な奇抜な表現をアート作品を嗜むような枠に囚われない自由な感受性でもって、そこに含まれる複雑な感情をキャッチすることが求められるんだろうなぁ、と思います。
なので、絵画、音楽、映像その他ジャンルに囚われずに色んな芸術作品に触れて、自分の感性を磨く、感情への感受性を耕やすことって、とても臨床力を上げるんだと思いますが、なんでもかんでも仕事のため義務感だと苦しくなるので、「楽しいけど芸の肥やしにもなってる」「AでもありBでもある」といったリフレイミングによるお得感、自分の変化や成長を楽しめるマインドをいつまでも持っていたいですね。
おそらく「最終的には人間力だ」という話はこういう事を言わんとしていて、決して根性とか精神論ではなく、「理性と感性」「脳と身体」の両方を統合して駆使する生身の人間全体として感受性と対応の総合力みたいな話しなんだろうと思います。
そして、統合とは両極の中間バランスを取るという事ではなくて、中庸(どちらに偏りすぎるわけではなく、状況に応じて最適な位置を見いだす)という言葉で表されるような、どちらにも揺れ動きながら戻ってくる振り子になって両極を検討しながら最適ポイントを見つけるイメージを僕は持っています。
まぁ、ご察しの通り、こんなことをぐでぐで考えてblog発信してる僕も相当変な部類かと思いますので、皆さんの豊かな感受性でキャッチしていただけたら幸いです。
セラピーに関する部分も非常に興味深いですが、長くなったので、今回はこの辺で止めておきます。
ではでは。