LSWのちょっとかゆいところに手が届く「まごのてblog」

静岡LSW勉強会の管理人によるコラム集

【第86回】対人援助と「左脳右脳の使い方」

メンバーの皆さま

こんにちは。管理人です。

昨日、36歳の誕生日を迎えたのですが、驚くほど自分が40歳になるという実感が無いです…。気が付いたら、20後半の後輩が「え?8コ下⁉︎」という感じです。

今回紹介するのは、そんな僕にピッタリの記事から。

会話が弾まない原因は「脳の使い方」にある!

記事の内容は、歳を取ると若い人の話が聞けなくなる、と言うもの。

実感がないと言いながら、40近くになって来ると偉そうに物をいう機会も時々あって、内心では自分のことを「何様だ」と思うことがあります。(話を聞いてもらえない反面教師的な体験からの「気づき」かもしれません)

ホント、いつまでも子どもや若い人の話しを興味を持って耳を傾けられるオトナでいたいものです。

本題は、そんなボヤキではなくてですね。話が聞けなくなるのは[脳の使い方]にあると言うのが今回の話しです。

著者の加藤先生によると、学校教育やら受験やら就活やらで現代人の8割は左脳を使いすぎていて、論理や言語に偏ったアンバランスな「左脳グセ」「脳のゆがみ」が生じている、と。

詳しくは記事を参照いただいて、ざっくり言うと、人間の脳は[左脳]と[右脳]に分かれていて、主に、
[左脳]言語・論理的な処理
[右脳]感覚的なこと、映像系の処理
をするときに活発になると言われています。


記事内のエピソードで言うと、こんな感じ。

〜私は小児科医をしていました。診察で子どもと接する際にはそれ用のモードになります。「先生大大大好き!」「いい子ちゃんだねー」という会話が続くわけです。すると、診察後の看護師(成人女性)との会話にとても苦労します。そんなテンションで何時間も診察しているので、ナースセンターに戻って、モードを切り替えるのに時間がかかるわけです。脳が子どもと接する仕様になっているので、元に戻りにくくなっているのです。

〜その後、小児科の臨床を辞めて渡米しました。子どもと接する時間がなくなり、同世代の研究者と長時間過ごしました。あるとき突然子どもたちと接する機会があったのですが、なかなか、「いい子ちゃんだね~」というモードの言葉が出てきませんでした。前できていたことがまったくできなくなったわけです。


このエピソードは「右脳」と「左脳」の使い方やバランスの切り替えをわかりやすく説明してくれているなぁ、と思います。

「右脳」は感覚的なチャンネル。子どもとのコミュニケーションは感覚的なもの中心。非言語的な[表情][手振り・身振り]などを通じた感情・感覚的なやりとり。特に言葉が話せない赤ちゃんとのコミュニケーションはこの傾向が一層強くなる。愛着行動もそうですし、言葉が通じない外国人・赤ちゃん・ペットとの意思疎通のアレです。

一方、「左脳」は思考・論理的なチャンネル。大人のやりとり、特にビジネスの世界は思考・論理のやりとり中心と思います。文字情報の羅列を解読して理解することや合理的の説明がつくロジックに従った客観的判断が求められます。

しかし、実生活では、
「頭ではわかってるんだけど…」
「言葉じゃなくて誠意を見せろ」
なんて、論理と感情がつながらないと納得して行動に移せないなんて事は良くあります。

この[左脳]と[右脳]の使い方の偏り、つながり、二刀流は、これまでのコラム注目記事で触れている内容を[脳の使い方]という切り口で説明したものかな、と思います。

例えば、
【第48回】神田橋処方とLSW、より
・精神療法でいろいろ難しいことをいうのは全部、根本の外なんです。ちょっとマニアの世界。やはり精神療法というものも本当に治療である限りは、犬や猫にもできる部分が本質。人間にしかできないのは趣味の世界でしょう。


【第31回】雀鬼 桜井章一 × 羽生善治 「負けない生き方」より
・考えすぎると、怪我が多くなるんです。心の怪我、考え方の怪我が。考えるのにも怪我があると僕は思うんです。
・僕が見てて、こいつ考え過ぎて怪我してやがるなって人がいっぱいいる。自分は頭がいいとか、考えることはすべていいことだと思い込んで、精神や肉体をおかしくしてしまっているんです。


【第18回】「cure」と「care」の違い、より
・「治療」「癒す」と訳される言葉に【heal】があります。語源はギリシャ語の【holos】「完全な姿(本来のあるべき姿に戻る)」だそうで、healに状態を表すthを付けて【health】「健康」になる、と。 
・一つに繋がっている心身のバランスや流れの「偏り」や「滞り」を整えて、心身が本来の持っている健康的な状態に「調整」するのが、僕の【heal】イメージです。


と言った感じ。記録って、どうしても文字のやりとり中心になってしまうのですが、人間同士のやり取りは、その行間や文字に乗せた[非言語のやり取り]が同時進行で行われている。表情、言い方、雰囲気、間といった要素です。これらの読み取りや発信する時に使う脳は、感覚的なものを扱う[右脳]メインとなるわけです。

しかし、現実的な人とのやりとりの中では「右脳・左脳」は同時進行で稼働しているということ。当たり前といえば当たり前ですが。

そして、僕が思うこととして、対人援助の支援者に求められるスキルは「右脳」「左脳」のコミュニケーションの割合を、相手のニーズ(チャンネル)に合わせて調整・調律することだろうと思っています。

言葉にならない、言語化できないけど、相手が求めている応答・ニーズをいかに汲み取れるか。期待している応答が「知識・理解」を深める左脳的やりとりなのか、それとも赤ちゃんとの情動調律と呼ばれる「関係性・安心感」を深めるような非言語的よしよし、相手の状況を察して表情や音リズムで応答する右脳的で感覚的なやりとりなのか。一対一の関係構築、リアルな最前線の対人支援はこの使い分けに尽きると思います。


ただし、左右の脳をバランスよく使うって、そんなに簡単ではなさそうです。例えば、

自閉症に男子が多いのは?
(国立特別支援教育総合研究所HPより)

を参照いただきたいのですが、

〜脳の構造や機能に関する男女差については、まだ十分に確立された所見とはいえないものも多いので、留意することが必要

との但し書きがある上での話としてお読みください。

左右の大脳をつなぐ「脳梁」という部分があるのですが、この脳梁が男性より女性の方が大きいことは各研究で言われます。

で仮説的にですが、自閉症は男性の方が多い(確か女性の3倍くらい?)のは、この脳梁の大きさが関係しているのではと言われています。

女性が男性より共感能力(EQ)が高いと言われていますが、それは女性が言語機能(左脳)を使う際に左右両方の脳を活動させるのに対して、男性は左半球を主に活動させることと関連しているのでは、という事です。

個人的には、女性が男性より感情豊かで、ある意味で感情に左右されやすい側面がある(感受性の諸刃の剣)と思っていますが、それは子育てに纏わる生物的機能の差なのでは、と思っています。赤ちゃんのアタッチメント形成、情緒的な成長には非言語的な感情的なやりとりは欠かせないものなので。

一般的に友人関係も、男子は単純なのでサッパリしているけど、女子はドロドロめんどくさいなんて言われますけど、コミュニケーションの優位なチャンネルの男女差による影響もあるんだろうなと。超頑固者アスペでも男性オジサンなら「まぁ、そう言うオヤジもいるよね」で済まされることもありますが、「女子」だとより際立つし、当の本人も苦労が多いのではと感じる事があります。相対的な周りとの比較から来る許容度の違いと言うか。

またASDや被虐待児は、この「脳梁が縮小していると報告している研究もあります。これは現場感覚だと非常に腑に落ちて、ASD的な「文字通りの受け取り」「理屈へのこだわり」なんかは、被虐待経験があると、感情感覚をまともに「右脳」で受けたら身がもたないので、脳のつながりをシャットダウンして精神を守っていたんじゃないかと酷いケースでは感じる事があります。

逆に、支援者はこの状態を「利用」する事もあって、例えば「ブロークンレコード」と呼ばれる壊れたレコードのように同じ言葉を淡々と繰り返すという対応がありますが、あれは敢えて「右脳(非言語)」を切り離して「左脳(言葉)」のみで対応する事で、情緒的な刺激を加えない、相手の怒りに巻き込まれない事をしていると思うんです。

共感には「認知的共感」と「情動的共感」があると言われていますが、ブロークンレコードは表情模倣などによる身体レベルでの共感はせず、頭による状況把握はしている。状況把握は視覚による「観察」を伴いますから全く右脳を使ってない訳ではないんですけど、身体的な応答を切ることで感情リンクを制限している。

激おこプンプン丸に対峙すると、こちらの心臓もバクバクして来ますから、それまともに受けてたらコチラも怒れて攻撃的な対応になってしまうので。

大事なのは、それを意図的に「技」として選択しているのか、無意識に日常化してしまっているのか。そこに「主体性」があるのかです。

もし後者となると、日常的な脳の使い方は、左脳だけが活性化して、感覚的な右脳が全然働いておらずに、相手の表情や雰囲気と言ったものを察することが出来ていない状態。冒頭で述べた、

〜現代人の8割は左脳を使いすぎていて、論理や言語に偏ったアンバランスな「左脳グセ」「脳のゆがみ」が生じている

のさらに極端な状態かなと思うんです。もちろん「生物×育ち」のかけ算だとは思うんですが、LSWに限らず児童福祉の現場で出会うような、相手の気持ちを察するのが苦手な子どもや大人たちは、脳の左右の使い方やつながりはどうか?ということです。

そう考えると、左右両方(言葉・感覚)を同時にバランス良く使えている人たちは本当に少数派のように思います。


さらに、LSW的に言えば「過去ー現在ー未来」の時制を扱う時、左脳と右脳とどちらがより活性化しているのかな、と。

例えば、まず支援者(聞き手)の視点。

言葉が話せない赤ちゃんとのやりとりは基本的に「今ここ」で起きている感覚的な現象ですよね。お腹減ったとか眠いとかあれ触っちゃダメとか。その瞬間、子どもの内面で起こっている感覚や体験は、言葉ではなく大人側の視覚・聴覚・触覚・嗅覚・味覚といった五感で感じ取るものだと思います。これは、かなり「右脳的」な作業。

大人同士で言えば、食事をして「何これ⁉︎メッチャ美味い」と感動したり、スポーツやゲームをして一緒に驚いたり楽しんだりした気持ちは、言葉を使わなくたって表情や雰囲気で伝わるものですよね。しかし、ここに長々とウンチクが入ると脳の使い方が「左脳的」になってしまうわけです。


一方、「過去」や「未来」を題材にやりとりをする場合、それは目の前では起こっていない現象についての「会話」になりますから、言葉抜きにはイメージ共有が難しい。

現実では「あの時はこんなことがあって」「将来はこうなってたらいいな」など言葉での説明を試みますよね。聞き手がこの時、状況を理解するために使っているのは認知言語をメインで扱う「左脳」中心。


視点を変えて、当事者側に立つと…。

これまでLSWで感情面の語りも扱えたら治療的ということは何度か触れていますが、左脳と右脳のつながりが薄い人は、言語(左脳)によるやり取りだけでは、感覚(右脳)とつながりが強い「感情」にはリンクしにくい、ということが起こるだろうと。

と考えると、アルバムとか場所訪問は「感覚(右脳)」を刺激する方法だとは思うのですが、左脳と右脳のつながりが薄い人は、今度はその湧き起こる感覚を上手く言葉に変換できないという事が、LSW実施の現場で起こっていると思います。

その時、当事者は湧き起こっている感情は表情や音声などの非言語で表現されます(これすら薄い反応かもしれない)から、支援者は「右脳」でその変化を感じ取り、表情や声のトーンなどを相手に合わせ、非言語での「右脳的リターン」と共に、その感覚・感情を言語化ような「左脳的リターン」も必要に応じて行う。

LSWに限らないんですが、その人の感情を扱うという事はどっちかに偏っている左脳(言葉)と右脳(感覚)のバランスを整えて統合するような支援イメージを僕は持っています。

バランスを整えるという事は、支援側は左脳も右脳も両方使えないといけない。相手の得意なチャンネルを活用しつつ、相手の苦手な凝り固まったチャンネルを地道にほぐして耕していく微細な反応をキャッチして相手が痛くない程度にやりとりしながら凝りをほぐしていく、高い感受性と細かい応答のアクセルワークが求められると思います。

左脳右脳なんて切り口にすると小難しい話に感じますが、非言語的なやりとりは情緒的交流と言われているもので、実は普通の子育て、普通のコミュニケーションで私たちが何気なく日常的に行なっていること。

それを、非言語的な応答・ラリーが苦手な人に対して、不器用なテニス初心者を相手にするように、乱暴な球でも追いついて、相手が打ちやすく返球をフォア・バック(右打ち・左打ち)バランス良くなるように丁寧に繰り返す。

そんな非言語的な応答やりとりが、オキシトシン分泌による身体レベルでの安心感につながり、右脳による感情・感覚の扱いや、左脳による理解・認知を促して、左脳右脳の使い方のバランスを整えたり、機能を回復したり、育てたりすることつながると思っています。

LSWで感情を扱うには、支援者自身が相手に合わせた脳の右打ち左打ちをバランス良くできないといけないと思いますし、そのためには自身の右脳⇆左脳のつながりが統合的に使える必要があるだろうと思います。

右脳による「なんとなくの感覚」を感じる感性を大事にしながら、「なんとなくで済まさず」左脳で意識的に言語化する。カメラの焦点を広くしたり絞ったりするように、右脳と左脳の機能を調節する。

「まごのてblog」は臨床感覚(右脳)→言語(左脳)に変換したり、本の内容(左脳)→日常感覚(右脳)に例えたりする自主練みたいな感じかなと書きながら、ふと思いました。

ではでは。



【第85回】主体性を育む幼児教育とは?

メンバーの皆さま
 
こんにちは。管理人です。
 
今回は、雑感的なコラムを。
 
先日、近所の中型ショッピングモールみたいな行きつけのスーパーに買い物に行った時の話しです。
 
妻が用を済ませる少しの間、ちょっとしたキッズコーナーで息子(1歳2ヶ月)と時間潰してたんですね。
 
2×4m程しかないクッションスペースなんですけど、お昼時のせいか他には親子1組しかおらず、僕も一緒に入ってゴロゴロしてたんです。
 
「人見知り」真っ盛りの息子は、数分間フリーズしてたんですけど、慣れていつもの様子でバタバタ歩き回るようになったら、しきりに壁に向かって「あー!あー!」って指差しするんです。
 
それが、でかい「ドラえもん」の絵。たぶん2mくらいですかね。他にも、赤いドラえもんの絵が数台並んでいて「ミニドラなんて久しぶりに見たなぁ」なんて眺めていたら、
 
 
・2020年に教育が変わる
・何を知っているか(知識)+何ができるか
・思考力、判断力、表現力
・主体的に取り組む力
 
 
なんて内容のチラシが貼ってあるんですね。前回、前々回のコラムで「乳幼児期からの子供の教育支援プロジェクト」(東京都教育委員会)を扱ってますから「おや?」となるわけです
 
子育て世代の方はピンと来ていると思いますが、小学館が運営する「ドラキッズ」という幼児教室の隣にあるキッズスペースだったんですね。
 
いつもは混んでいるので「なんか幼児教室あるなぁ〜」くらいの認識だったんですけど、気になってHP調べて見たんです。
 
そうしたら「脳育」的な内容もふんだんにあって、小1プロブレムなんかにも触れられていて、丁寧に動画紹介とかもされている。しかも30年程の歴史があるらしい。
【参考】ドラキッズの特徴
 
で、さらに口コミを調べると、主に月謝8000円(週一月4回)という価格が争点になっていて、
 
●高い。一回休むともったいない。家でもできる内容。
◯他の幼児教室に比べたら安い。プロに育児の悩みを相談できる。子どもから離れる時間ができて助かる。
 
なんて賛否の意見がそれぞれある。HP閲覧時は、まぁ一回2000円なら高くないかなぁなんて正直こころが揺れたんですけど、ちょっと待てと。
(以下は、さらに管理人の主観ですので、そのつもりで)
 
・2020年に教育が変わる
 
って言うけど、小学校の指導要領が変わるから、
 
・思考力、判断力、表現力
・主体的に取り組む力
 
を育むの?
 
 
もちろんチラシには「これからは先が読めない社会になるから」とも書かれていて、確かにそれはそうなんですけど、そんな大変な世の中を生き抜くための
 
・思考力、判断力、表現力
・主体的に取り組む力
 
なの?
 
ビジネス的な理由をあることは承知してはいますが、もう少しポジティブな理由付けはないのかなぁ、と。
 
一応、誤解の無いように言いますけど、ドラキッズの理念や内容は、自分の息子にも体験させたいと思うほど、僕が大切と思うことと一致してます。
 
しかし僕が素朴に思ったのは、そのストーリーと、
「現在の日本では、月8000円の教育費を追加しないと、このような思考力・判断力・表現力・主体性を育む教育が受けられないの?」「いまの保育園・幼稚園・こども園はそうではないの?」
ということ。
 
「家でもできる内容」「自分の家であるもので工夫してやります」という口コミが本質を突いていて、まさに子育てって本来そういう事なんだと思うんです。
 
子どもとの「遊び」を通じた関わり、対人交流や五感を刺激する体験は、これまでは家庭内や地域内で、ごくごく当たり前に行われていた。
 
「遊び」とは、そもそも楽しいと思うことを主体的に取り組むものだし、その中で思考力、判断力、表現力が養われていくもの。
 
それが核家族になり、共働きになり、ご近所づき合いも減り、日常的に子どもが人と遊べる時間がどんどん減って、大人が子どもと試行錯誤する時間や経験をお金で買っている。
 
もちろん相談先のない人にとっては、1つのコミュニティとなるし、育てる側の安心感が子どもに与える安心感になりますから、それを30年前から実施している小学館は凄いですよね。
 
しかし、そんな月8000円を払って幼児教室に通う時間とお金のない家庭の子どもは…。お金がないと現代の日本システムでは、子どもが思考力、判断力、表現力、主体的に取り組む力を養うチャンスすら失ってしまうのだろうか。
 
おそらく、このようなことを公的に子ども全体にサポートしようとする仕組み作りの1つが、
「乳幼児期からの子供の教育支援プロジェクト」東京都教育委員会)なんだろうと思います。
 
子どもの貧困、教育格差とはこういう事なんですよね。児童福祉にくる子ども達の育ち生い立ちを考える上で、このような環境や機会は無視できない要因です。
 
ドラキッズの内容が真っ当なだけに、コレが有料であることに余計、切なさを感じてしまいました。
 
キッズスペースでふと見たチラシから、こんなこと考えるなんて、かなりの職業病ですね。
 
ではでは

 

【第84回】愛着のコミュニケーション理論

メンバーの皆さま
 
こんにちは。管理人です。
 
前回コラムでは、東京都教育委員会による、
「乳幼児期からの子供の教育支援プロジェクト」
の[指導者向けスライド教材]のラインナップから、[愛着]をメインテーマとして扱っている
4.ふれあって、親子の絆を」
について紹介しました。
 
今回は取り上げたい3つのうちの後半ふたつ
(1)愛着行動の4段階 (p.6)
(2)人見知りと分離不安 p.7
(3)言葉の発達のすがた p.20
について見ていきます。
 
ちょっと長くなったので要点を先に言うと、
「愛着形成」「安心感の獲得」「言語の発達」そして「LSW」いずれにおいても非言語的な応答・コミュニケーションがベースになるということ。
 
あとは、その理由や説明がダラダラ書いてありますので、今回はそのつもりでお付き合いお願いします。
 
 
 

◆(2)人見知りと分離不安 ◆

 
次に資料から紹介するのは、Bower (1977)の
「愛着形成のコミュニケーション理論」です。
 
従来「人見知り」という現象は、他の人を見ることで母親のいないことを思い出すことで起こるとされてきました。言い換えると「母親がいる=快」だから「母親が離れる=快がなくなる」。それを予期する不安から派生したものが「人見知り」と思われてきたが、それを否定したのがBowerによる「愛着形成のコミュニケーション理論」ということ。
 
例えば、お母さんに抱かれた状態で他の大人を見た時、もしかしたら「ハイ」と渡されてしまうのではないか、それが従来考えられてきた人見知り。けど、1歳くらいの双子の赤ちゃんは、お母さんの代わりに世話をするハズのない双子の片割れにも人見知りするんだそう。また、分離不安の対象は、必ずしも身体的な世話をしてくれる人に限らず、しばしば乳児とよく遊んでくれる人であることも分かってきた、と。
 
つまり、分離不安は「母親限定」ではないと言うこと。乳児は生後1ヶ月頃には見知らぬ人と馴染みのある人を区別するようになり、生後7、8か月頃にはやりとりの機会の多い相手(たいてい母親であることが多い)と意思疎通のための「コミュニケーション・ルーティン(決まりきった手順)」を形成するんだと。
 
しかし、このルーティンは、その慣れた人にしか通じない“個人的な”砕けた言い方をすれば"内輪ネタ"ですから、見知らぬ人にはそれが通じず意思疎通ができない。そのように「人見知り」とは、馴染みのやり方(身振りや声)でわかってもらえない、“応じてもらえるはず”なの に応じてもらえない、期待が外れることが乳児に恐怖や不安を引き起こしている現象である、いうことなんです。
 
つまり、人見知りの源泉は「コミュニケーションの不成立」だから誰にでも通じる「言葉」を獲得すると分離不安は減っていくハズ、そう考えたバウワーが先行研究の知見を調べたところ、グラフように語彙が増えて文を話せるようになる2歳代で分離不安は減少し、5歳では分離不安がほとんどなくなることがわかった、と言うことなんですね。

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正直、今まで「人見知り」について、ここまで突き詰めて考えたことはなかったです。乳児は目新しい人を見て「何を」「どんな状況を」不安がっているか、ということです。この情報は目から鱗でした。
 
 
そして、
〜分離不安の対象は、必ずしも身体的な世話をしてくれる人に限らず、しばしば乳児とよく遊んでくれる人であることも分かってきた。
 
これは愛着対象は決して母親だけではないこと、「三歳児神話」の否定の理由になりますよね。乳児の些細な発信ニーズに合わせた応答ができれば、たとえ母親が働いていたって家族や集団養育の複数の担い手で健全な愛着形成は可能ということです。
 
また同時に、子どもにとっての「遊ぶこと」の重要性、愛着形成に果たすスゴさやパワーに改めて気づかされます。
 
 
それと、先日TVを観ていたら、人見知りの源泉である「コミュニケーションの不成立」「応じてもらえるはずなのに応じてもらえない」ことの恐怖や不安って、大人に例えたらこんな状況かもと言うものを見かけました。
 
それは日曜夜の「イッテQ」スペシャル番組。ANZEN漫才みやぞんがアメリカでお使いするみたいなコーナーで、スタッフからお題の紙が渡されて、全く英語を話せないみやぞんが、アメリカ現地の通行人とコミュニケーションして、お題の答えや目的地まで辿り着くというもの。
 
想像してみて下さい。もし自分が全く言葉が通じない外国に1人きりで放り込まれたら…。相当不安な状況ですよね。けど、言語獲得していない乳児が人見知りで示す、馴染みのやり方が通じなさそう、どうしよう、困ったといった不安感ってそんな感じかもしれないな、と。
 
けど、みやぞんは満遍の笑顔がスゴイから通行人にとりあえず話しを聞いてもらえるし、相当メチャクチャな英語なんですけど、想いが通じた時は本当に嬉しそうに感謝のリアクションをするんですよね。そうすると親切な人なんかは目的地まで案内してくれりなんかして、ありがとうみたいなコミュニケーションが成立している。
 
みやぞんが人気なのは、赤ちゃん的な無条件の可愛らしさピュアさ無垢さで、見てて癒される的な要素は大きいと思うんです。赤ちゃんがみんなに声かけられて可愛がられて、言葉通じないけど助けてもらっての感じって「あ、コレかも」と。
 
一寸先は闇みたいな本当に困り果てた状況で、誰かが助けてくれた時の嬉しさ、不安で重苦しい感じから解消された解放感、身がホッと軽くなったような安堵感や安心感って、なんとも言えない感覚がありますよね。
 
乳児は基本的生活の全てを大人に依存していますから、相手と意思疎通が取れないのは死活問題です。仮に大人で例えるなら、見知らぬ外国で一人きり、お金も持たず頼れる人もいない、飲み水やトイレの確保すらままならない、少し先の自分の行く末の見通しが全然立たない、そんな状況下の精神状態に近いのかもしれません。その不安感や焦燥感はハンパないですよね。
 
バウワーの調査によると、言葉や文法を獲得するに従って、子どもの「分離不安」が減っていくという事ですが、確かに、上記のような一人きりの状況であったとしても、その場所が英語も通じない外国であるのと、言葉が通じる日本であるのとでは「誰かに何とか助けてもらえるだろう」という希望的観測や見通しは全然違うと思います。
 
私たちは、いかに社会的動物であるか、いかに普段「言語によるコミュニケーション」に頼って生活しているかを再認識させられます。
 
日常生活ではあたかも「言葉だけ」でやりとりしているように思いがちですが、「非言語的」な身振り手振り、表情や視線の向き、目や口の形、声のリズム大きさトーン等々の情報を、五感をフルに使って受信して、相手の状況を総合的に判断しています。普段は無意識的に。
 
言葉が話せない赤ちゃんやペットとのコミュニケーション、そして海外に行った時だって、言葉が通じない相手にもカタコト単語と身振り手振りでなんとかコミュニケーションを取ろうとしますよね。
 
それは前回コラムで扱った愛着形成の発達プロセスで行われている言葉のやりとり以前の、非言語的なやり取りコミュニケーション。これが原始的な意思疎通の形ですし、この言語的ではなく五感による感覚的・音楽的コミュニケーションが、ゴリラとか類人猿・原始人もしているコミュニケーションの形。
 
「言葉」という便利なツールを身につけても、原点的なコミュニケーションは人間という生き物らしく成長する以上は必要なことなんです。しかしながらPCやスマホの普及は、画面上の文字・画像以外の情報(微妙な表情変化や声のトーンなど)はカットされますから、ホント文字通りのやりとりになる。
 
そもそも人間は自分の気持ちを正確にピタリと当てはまる文字に落として言語化できるわけではないですよね。それが成長過程の子どもであれば尚更ですし、生身の人間とのやり取りする経験が減れば減るほど、五感をフルに使って非言語的情報を送受信するコミュニケーション力を鍛え成長させる機会をどんどん失っていきます。そのように育った子ども達がやがて親となり、子育てをしたら乳児期のコミュニケーションや愛着形成は…ということです。
 
 
原点に戻ると「人見知り」とは、
・馴染みのやり方(身振りや声)でわかってもらえない、“応じてもらえるはず”なの に応じてもらえない、期待が外れる「コミュニケーション不全」が恐怖や不安を引き起こしている現象
 
なので、逆に言えば、特定の大人と意思疎通の「馴染みのやり方」が確立していなければ人見知りは起こらない。児童福祉で見られるような幼児期以降に無差別的な愛着行動が見られる子どもは、目が悪くて顔の区別がつかないわけではなくて、「馴染みのやり方」を構築する経験が欠如しているということ。そもそも「特定のわかってくれるパターン」獲得がなければ「期待が外れる不安」なんて起きないわけで。
 
だから「人見知り」は子どもの生育歴を聞く時にものすごく重要なPointになります。危ないのは、人見知りがなく誰にでもニコニコして、構って構ってもなかったし小さい頃はホント手がかからなかったです、というパターン。親が関わっても子ども側の受信が弱かったのか、そもそも子どもの愛着行動を親が察知せずスルーしていたのか、子どもが諦めて発信しなくなったのか。
 
愛着形成を見る上では、乳児期の何気ないやり取りのエピソード、こんな時よく喜んだとか、嬉しそうにしてたとか、親が子どもの様子から気持ちを察していたのかの「応答」が伺えるエピソードの有無はとても重要な情報です。
 
 
最近コラムでよく使う「この図」で言うと、「基本的信頼感」が心理社会的発達の一番根っこにありますよね。

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やはり自分の言葉にならない信号を相手に察してもらって期待した応答をしてもらった経験の積み重ねが大切だと言うことなんだと思います。【個別】的な関わり、馴染みのやり方で気持ちが通じる経験です。
 
しかしながら、マズローの欲求階層説を参考にすると【社会・集団】に世界が広がるベースには、[生理的欲求]や[安全的欲求]があります。つまり、個別的なコミュニケーションが取れることで生活の根本である[生理的欲求]や[安全的欲求]が満たされる見通しが持てて安心できる。その安心感があって、個別的関係から社会・集団の世界に対人関係を広げることができる。
 
前回紹介した愛着行動でいうと、[第3段階]までは個別的関係で、[第4段階]が社会・集団的関係の世界に踏み出すタイミングかと思います。
【参考】
● 1段階(出生~12週):愛着の相手は不特定であり、生得的な反応傾向によって人に注意を向けたり、働きかけを行ったりする。
● 2段階(12~6か月):接触頻度の高い人や、乳児と社会的やりとりをしてくれる相手に対して結びつきができる。
● 3段階(6か月~23歳)見知った人と見知らぬ人に対して明らかに識別して反応するようになる。いわゆる「人見知り」が出る。また、母親がいなくなるとパニック状態に陥り「ママ」と叫んだり、泣いたりすねたりなど混乱状態になる。
● 4段階(3歳頃~):子供の認知能力や言語能力が発達して、母親の設定目標を推測し、「目標修正的パートナーシップ」が成立するようになる。この段階の最初の頃は、子供は母親との関係を「安全基地」として外に向かって出ていき、すぐに不安になり、母親のところに戻ってきて安心する「行って帰ってくる遊び」を繰り返す。この遊びが見られなくなる頃、いよいよ子供は自律・自立への道を進んでいく。
 
つまり、自分の気持ちを言葉にできるようになる3歳くらいまでの成長過程では[生理的欲求][安全的欲求]を満たすと同時に[脳育][愛着形成][基本的信頼感・自律性の獲得][言語獲得]と言った、
 
自分の内側の感覚
自分の外側の他者との関係性
自分の内側と外側をつなぐ五感や言語
 
成長が同時並行的に起こっている。
 
ざっくり言うと[身体が満たされること]こころが満たされること]。そのどちらも人間には重要で、一般的な子育ての中では、身体的なお世話をしながら非言語的な愛着行動への応答(声かけ・スキンシップ・アイコンタクト)をする、同時に身体的な反応としてホルモン分泌がされるというサイクル自然と行われています。

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通常と思われている子育てや成長過程も、実は色んな理論で色んな言葉で説明すると、とても複雑なことを色々同時に行っていると思います。そして、各理論もそれぞれ独立しているわけではなくて【心理ー生物ー社会】(バイオサイコソーシャル)の範囲が違うだけで重なったり繋がっている部分も結構ありますよね。
 
しかしながら、児童福祉が関わるような家庭は、同時並行どころか、その片方すらも難しい状況のことが多い。つまり[基本的生活リズム]も崩れているし[親子関係も希薄]な子ども。それじゃあオキシトシン分泌もセロトニン分泌も少ないでしょうから、それは意欲や集中力も低かったり、情緒は安定しにくい。

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この状態が乳幼児期からの子供の教育支援プロジェクト「1.子ども親の問題」であげられている内容そのもので、そりゃその両方を学校教育だけでカバーしきれるわけがなく、各分野と連携して就学前から地域で段階的にフォローして行きましょう、となるのは当然の流れです。
 
そして、どこから立て直すかというと、脳の構造レベルやマズローの欲求階層説の順番で考えて、①[身の安全]カエル脳の生命維持の欲求を満たしてから②[心の安心]ネコ脳の感情レベル、人間関係の良い体験によって情緒的な成長に必要な心の栄養を蓄える、③[頭の理解]ニンゲン脳の言葉・認知という順番になる。
 
これが[身の安全]が第一で、それが家庭で確保されなければ、一時保護や社会的養護(施設や里親)を理由になるわけです。が実際の支援はそれがスタートであって、安全確保のための物理的な環境調整はもちろん、その後の生活において[心の安心][人間関係の良い体験]を子どもが積めるのかを確認して家族関係の調整や再構築を行わないと、[心が満たされること][身体が満たされること]の両立、つまり、子どもの健全な成長を支える支援としては片手落ちだと思うんです。
 
それは、このベースがない中での、日常的な「気持ちの言語化」と気持ちやりとりを通じた情緒的成長、心の成長が望めないから。
 
 

◆(3)言葉の発達のすがた ◆

 
じゃあ、そもそも言葉を獲得する前の[0〜2歳]の時期に「どう関わったらいいの?」というのが、スライドp.20に具体的に書かれているまので、その一部を紹介します。
 
おっぱいのリズムは会話のリズム
・赤ちゃんがおっぱいを吸い、 休むとそれに応えるようにお母さんが声をかける。この繰り返しこそ、赤ちゃんとお母さんとで作る会話のリズムなのです。このリズムは、赤ちゃんが話せるようになった時に自然と受け継がれていきます
 
話せる前は「アイコンタクト」で以心伝心 
・何も話さない赤ちゃんに不安になった時は、ぜひ赤ちゃんの顔を見ながら「べー」と舌を出してみてください。繰り返しているうちに、赤ちゃんもしだいに口もとをもぞもぞと動かし始め、かわいい下をちょろりと出します。コミュニケーションとは、話しかけるだけではなく、こうした表情のやりとりからも生まれるものです。
 
言葉を覚えるには「やりとり」は必要不可欠 
喃語はたいてい赤ちゃんがごきげんなときに出てきます。このとき「そうだね」「ごきげんだね」とどんどん話しかけてあげると、赤ちゃんは喜んで「アー」「ダー」と答えます。赤ちゃんの、言葉になる前の「言葉」に答えてあげてください。
・話しても分からないから、と話すのをあきらめるのでなく、世話をしながらどんどん話かけましょう。赤ちゃんは周りの大人とやりとりをしながら言葉を覚えていくのです。
 
 
わかりやすいですよね。言語獲得の前段階では非言語的コミュニケーションや応答遊びの積み重ねが大切ということ。そして、これは言語獲得のプロセスであると同時に、愛着形成の応答プロセスでもあるわけです。
 
この内容こそ、この図で、

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下から伸びている「矢印」で表現しようとしたことなんです。
 
物の名前とかアニメのキャラクターでさえも、指差して一緒に同じもの見て「アンパンマン!」とか大人が言葉をかけて物と名前が結びついて覚えていくもの。ましてや、自分の気持ちの言語化については、今まさに身体で起こっている子どものリアルタイムな感覚を、その様子から大人が「ネムネムだね〜」「嬉しいね〜」と察して+非言語で応答しながら+言葉で伝える]をセットにした体験を繰り返さないと、「感覚ー気持ちー言語」の結び付きができてこない。
 
しかしながら、児童福祉で関わる人は、この[察して+非言語で応答しながら+言葉で伝える]関わりをしてもらえず、気持ちの成長が伴わずに身体だけが大きくなっているような人が珍しくない。子どもだけでなく、親自身も。
 
だから、自分の気持ちをうまく言葉にできないし、そもそも自分の中で起こっている感覚が上手く掴めていないし、それで自分の意図がうまく伝わらないと感情コントロール出来ずに怒ったり拗ねたり、担当変更になると赤ちゃんの「人見知り」のように泣いて喚いて不安と怒りを露わにすることが、小学生でも中学生でも成人になっても普通に見られます。
 
何歳どころか何ヶ月レベルの発達課題が満たされていない、そういう愛着形成に課題がある大人が子どもを育てるとどのようになっていくのか、下図はわかりやすく整理されています。改めて1歳くらいまで愛着形成は重要だなと思います。

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ポイントは安定型の親に[求める以上抱かない]と言う内容がある点。これが単なる関わりではなく[応答]が重要ということを端的に表していると思います。オッパイも食事も際限なく与えてブクブク太らせればいいってもんでもなくて、その子の様子から「主観的世界」を想像して、必要なものを必要な分だけ与える「程よい加減」が大事。子どものニーズを無視して、抱き続けたり関わり過ぎるのは、大人の自己満足のための過干渉だったり、大人が子どもに癒しを求めて「依存」したり「乱用」だったりする。
 
子どもを育てるハズの親自身がある程度満たされていないと、子どものニーズを充分に満たす存在にならないどころか、負荷がかかった時に親自身の課題を子どもにぶつけるようなことが起きると思います。これは支援者も同様です。
 
なので、アタッチメント(愛着)が十分に育ってない親子のニーズに合わせた支援は、親子それぞれ[基本的信頼感][生理的欲求][安全的欲求]レベルになるし、その応答は0〜2歳の時期に必要な[スキンシップ・呼吸リズム合わせ・アイコンタクト・表情のやりとり]と言った非言語的コミュニケーションによる関係構築の経験の積み直しになるわけです。
 
そして、そのようなクライエント内面の育っていない赤ちゃん部分を扱い、赤ちゃんの相手をするかのように激しく揺さぶられる児童福祉の現場の職員のメンタルヘルスは、職員自身の[基本的信頼感][生理的欲求][安全的欲求]を守るところがベースになります。
 
一般的な社会生活を送りお仕事を営める人達は、[基本的信頼感][生理的欲求][安全的欲求]が満たされて社会・集団に世界を広げられた人たちがほとんどですから、一般的なビジネスシーンではお互いそこはクリアされてる前提でやりとりコミュニケーションが展開されていきます。
 
しかし、[基本的信頼感][生理的欲求][安全的欲求]が満たされていない人が生きる世界は、個別的な関係構築のレベルですから、もちろん社会集団のルールに適応するのは難しいし、赤ちゃんのように特定人に身の回りのお世話を頼ったり、思った通りにならないと泣いたり叫んだりするような行動が現れるし、その愛着行動に応答するような個別的支援が必要なんです。
 
子育ても臨床もそうですが、このような相手の愛着行動を扱うということは、ただでさえ自身の愛着パターンを無意識レベルで想起しやすい状況です。さらに負荷が高くなって余裕がなくなる程、認知的なコントロールが効かなくなるので、自身のもともとの愛着パターンが表出しやすい。支援者が自身の生い立ちの整理、原家族を含んだ自己覚知が必要な理由はコレです。
 
 
【第80回】タイプ別「幼児期記憶の語りと再構成」で、以下のような類型を紹介をしましたが、幼児期記憶を感情を伴って話せるということは、その辺の気持ちに整理がついていて適切な距離を取りながらコントロールできるという事。
 
■記憶想起のパターン4類型 (林,2004)
①知的な理解の優位な群
ー感情表現も見られるが、知的な理解が先行し、認識の改めや理解したことが語られる
②直接的な感情表現群
ー感情語を用いてストレートに表現する 
③感情の言語化が困難な群
ー何らかの感情を体験していると思われるが,言語での表現が伴わない
④記憶想起の困難な群 
ー記憶の正確さにこだわる、記憶のなさについて語る
 
しかし、[トラウマ×喪失体験×忠誠葛藤×発達障害が混在していると、①感情体験に蓋をして距離を取っている状態、②あまり激しいなら過去の感情体験と距離が近すぎる場合や、③その場の安心感が十分でなく感情を語れない場合or感覚を上手く感情に言語化できない場合、等があると思います。
 
さらに、④は記憶のある無しもさることながら、そもそも幼児期のその時に感情的体験があったのか、そして、その幼児期までに自身の感情体験を言葉で認識できるほど言語獲得や愛着形成プロセスを踏んでいたのか、ということも影響していると思うんですよね。
 
そう考えると、当たり前ですが[過去]の感情体験を想起して語るという前段には、[現在]の感情体験を扱う体験の積み重ねが必要で、その積み重ねがなかったり難しかった場合と、[ある時]から感情が凍結して積み重ねが難しくなてしまっている場合など、色々なパターンがあり得るわけです。
 
それが、LSWで気持ちの言語化が難しいだろう場合に、まず検討していく点だと思います。そして、気持ちの言語化する力が未熟であっても、感情が凍結していたとしても、どちらにせよ安心して話せるかどうかは本人の主観的・感覚的な安心感ですから、やはり支援は[基本的信頼感][生理的欲求][安全的欲求]をまず満たすことになるんでしょうし、関係構築でまず行うことは前回今回で扱ったような非言語的な応答・コミュニケーションで相手とペースを合わせる、二人の世界だから通じるコミュニケーションのやり方や体験を積み上げるというということになると思います。
 
乳幼児期愛着(アタッチメント)形成に課題を抱えた人を支援する児童福祉の現場では、特に。
 
言語ではなく非言語、理屈ではなく感覚を扱う大切さを、これだけダラダラ言葉で綴るのも矛盾しているよな、と途中から思いながらの今回のコラムでした。
 
お付き合いありがとうございました。これで終わりです。
 
ではでは。

【第83回】「乳幼児期からの子供の教育支援プロジェクト」と「愛着行動」

メンバーの皆さま
 
こんにちは。管理人です。
 
あっという間にGWも終わり、また日常の日々がやってきました。雨続きですし、もう海の日まで祝日は無いんですよね。長いですね…。
 
前回コラムでは、下の図の根っこ部分、

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アタッチメント形成の基礎となる「脳の発達」について、わかりやすくかつ1300円とは思えない半端ないコスパである図書「しつけと脳育」(成田奈緒子先生監修)を紹介しました。
 
で今回は「アタッチメント(愛着)」と少し「発達障害について扱おうと思うのですが、前段は今回のネタとなるウェブサイトの紹介です。
 
それがコレ。
「乳幼児期からの子供の教育支援プロジェクト」
 
 
東京都教育委員会が平成20年度から行なっているプロジェクトで詳しくはウェブサイトにキレイにまとまっているので参照してもらいたいのですが、概要はこんな感じ。

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(プログラム事例集 ~地域プログラムの試行的取組、第1章より)

 
赤枠は管理人的注目ポイントで、左の施策に、
【乳幼児期からの発達の重要性】
が挙げられていて、真ん中の施策の柱の1つが、
【乳児期から子供の教育の重要性について全ての保護者に伝える(広域的事業)】
となっていて、右の具体的事業の1つとして、
【ウェブサイトの開設〜若い親にとって身近な情報入手の手段を活用した普及啓発】
となっています。
 
上のリンクは、それに当たるのかなと思いますが、このサイトの凄いのは[保護者向け資料]だけではなくて、[指導者向け資料]に加えて、[指導者用スライド教材]まで準備されていて、保護者に説明する時に必要なところを部分的に使ってください(教育委員会に連絡入れて)という手厚さ。
 
で、そのスライド教材のラインナップがコチラ。
◆乳幼児期を大切に ~心と体の基礎を育てるとき~ 
  1. 脳と心の発達メカニズム ~五感の刺激の大切さ
  2. 生活リズムの確立のために 
  3. 運動能力の発達と『遊び』の大切さ ~運動遊びを通して育つもの~ 
  4. ふれあって、親子の絆を 
  5. 乳幼児期からの「食」を育む ~食文化と、体の中の食べ物の通り道~ 
  6. 豊かな心と社会性の成長・発達のために ~子供の自立・自律を目指して~
 
となっていて、題名でご察しの通り1.脳と心の発達メカニ ~五感の刺激の大切さは、前回紹介した「しつけと脳育」の成田奈緒子先生が監修で、内容的にはほぼ同じ(汗)
 
これが7年前の平成23年にすでにウェブ上でオープンに公開されていたなんて…。「タダより高いものはない」なんて言いますが、ここまで親切が突き抜けるとコスパうんぬんを超えて何かあるんじゃないかと思ってしまうレベルです。
 
それだけ東京では、就学時には既に手に負えない状態の子どもが多いということなのか、とにかく東京都教育委員会の本気度が伝わるプロジェクト。
 
東京は人口1000万超えですし経済格差も広く、親族が近くにいる層は地方に比べて少ないですし、経済的余裕がある層は私立の幼稚園や学校に入る傾向がありますから、「経済的に苦しい層」「共働きの中間層」ら公立小学校が受け入れることになる。
 
そうなると、地区によっては愛情不足で「かまってかまって」の落ち着きがない児童がドバーッと入学してくる可能性があって、すぐに支援員を追加することも難しいし、支援級に移るのも教育委員会の調査+親の同意がいるし、とても学校だけではカバーしきれない状況が想像がつきます。
 
その辺の「子育ての支援の地域体制づくり」が施策の柱(2)になると思うですが、10年以上前から始動しているこのプロジェクトは「先見の明がある」とも言えますし、見方によっては当時から「要支援状態」で就学してくる児童・保護者の数が相当深刻だったことを物語っているのかもしれませんね。
 
図下にある「連携協力」先も医療・福祉・民間と幅広くて、この音頭取りが「教育委員会という地域事情も個人的には興味深いです。
 
 
そんな勝手な推測・想像はここまでにして、ようやく本題のウェブサイト資料について触れます。「まごのてblog」的に注目はこの3つの章。
 
1.脳と心の発達メカニズム ~五感の刺激の大切さ
【前回コラム】
4.ふれあって、親子の絆を 【愛着】
6.豊かな心と社会性の成長・発達のために ~子供の自立・自律を目指して~ 【まとめ的】
 
[第1章]には、前回取り上げたように脳の発達の順番、それを促す五感の刺激の話や、これまでにコラムで扱ったセロトニンドーパミンノルアドレナリンの話も解説されています。
 
 
で、今回紹介するのは、
[第4章]ふれあって、親子の絆を
ここには愛着(アタッチメント)の説明がコンパクトにまとまっていて本当にわかりやすい。是非、子育てに関わる全ての方にチェックして欲しい内容です。
 
これにある【指導者向けメモ】というコラムから
(1)愛着行動の4段階 (p.6)
(2)人見知りと分離不安 (p.7)
(3)言葉の発達のすがた (p.20)
の3つをピックアップします。
 
 

(1)愛着行動の4段階

まず乳児の人に対する愛着行動として現れる行動は「定位」「信号」「接近」などであると。
 
「定位」:目で養育者の姿を追ったり、養育者の声を耳で聞こうとする行動
「信号」:人に注意を向けたことのしるしとして、微笑する、声を上げる、手を上げて合図するなどの行動
「接近」:人に近づく、しがみつく、 後追いするなどの行動
 
そして、これらの愛着行動は、4つの段階を経過して発達していくと。
● 1段階(出生~12週):愛着の相手は不特定であり、生得的な反応傾向によって人に注意を向けたり、働きかけを行ったりする。
● 2段階(12~6か月):接触頻度の高い人や、乳児と社会的やりとりをしてくれる相手に対して結びつきができる。
● 3段階(6か月~23歳)見知った人と見知らぬ人に対して明らかに識別して反応するようになる。いわゆる「人見知り」が出る。また、母親がいなくなるとパニック状態に陥り「ママ」と叫んだり、泣いたりすねたりなど混乱状態になる。
● 4段階(3歳頃~):子供の認知能力や言語能力が発達して、母親の設定目標を推測し、「目標修正的パートナーシップ」が成立するようになる。この段階の最初の頃は、子供は母親との関係を「安全基地」として外に向かって出ていき、すぐに不安になり、母親のところに戻ってきて安心する「行って帰ってくる遊び」を繰り返す。この遊びが見られなくなる頃、いよいよ子供は自律・自立への道を進んでいく。
 
 
この4段階の内容は「子育て支援」に関わる仕事をしていれば、どこかで聞いたことある話しかなぁと思います。不特定への無差別愛着とか、人見知り、安全基地とか。
 
しかし今回の注目は、その前にある愛着行動そのもの「定位行動・信号行動・接近行動」の3つ。愛着はこれら非言語的なやりとり、コミュニケーションの積み重ねで形成され発達していく、と。
 
なるほど乳児が微笑したり声をあげたりというのは、単なる反射ではなくて、目や耳で注意を向けたしるしとしての応答なんですね。この行動内容は、以前コラムで取り上げたこれ、

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オキシトシンシステムの獲得プロセスで行われる非言語的コミュニケーション(スキンシップや視線、表情の応答)と同じですよね。この辺からも愛着がバイオ的視点では「オキシトシンで説明できることがわかります。
 
そこに前回の「脳育」的な話しを踏まえると、「愛着形成」をするための定位行動・信号行動・接近行動(見たり聞いたり思った通りに動いたり)のベースとなる、感覚凸凹や発達凸凹・五感で刺激を感じたり発信する癖が、「愛着形成」のプロセスに大きく影響するだろうと思います。
 
例えば、自閉スペクトラムASD)によくある「視線が合いにくい」や「感覚過敏」など受け側のアンテナの凸凹によって、仮に他の子と同じ環境で同じように育てていたとしても、本人が受信する刺激や身体に染み込む体験は千差万別ですよね(たとえ同じ家庭であっても、その時の兄弟の数によって親の経験値も違えば、家族システム人数が違うので全く同じ環境なんて、そもそもあり得ないわけですけど)。
 
感覚過敏であるがゆえに、通常なら心地よい強さの刺激も、触られて痛いとか、楽しい歌がうるさいとか、臭いが我慢できないとか刺激の弱さによってイライラを経験しやすかったり。また逆に鈍感な部分では、他の子が感じる体験がスルーされてしまったり、一般では強すぎる刺激を求めたり
なんてことが起きやすい。
 
なので、感覚凸凹や発達凸凹があると「体験」の積み上げに偏りが出やすいので同年代より愛着形成が遅れがちになる。けど、通常より積み重ねが不器用だったり時間がかかるだけで、愛着が獲得できないわけじゃない。安定した家庭環境で愛されて育っていると、仮に発達障害の診断があっても(診断なしの発達凸凹でも)可愛らしく安定的なお子さんはたくさんいますよね。
 
そして個人特性と環境のマッチング相性の問題は結構大きくて、例えば、テニスだって片方がド素人でも、もう片方が上手くて打ちやすい返しをすればラリーは続くわけです。コミュニケーションも同じように、子ども側に多少の癖があっても大人側が合わせてあげれば、情緒的な応答やりとりは可能なわけです。
 
しかし、応答する大人側があまりに余裕が無かったり、親も感覚凸凹発達凸凹持っていると、その鈍感さで子ども発信をスルーしたり、過敏さ(こだわりもそう)でお互いに譲れずイライラしあうと関係構築不全が起こる。すると、オキシトシンシステムも獲得されないのでイライラが収まりにくい。

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乳幼児期にこれが積み重なると[愛着障害と呼ばれる状態になる。つまり、愛着障害とは非言語的コミュニケーションの不具合による関係構築不全やオキシトシン・システム獲得の問題で、それは信号の出し手と受け手のお互い様の関係、相互作用によって作られるんですよね。
 
だから、子ども自身が一般的からハズれた感覚凸凹を持っていると、大人が子どもの体験を想像して関わっても「ちょうどいい加減」にズレが起きやすかったり、発信や反応が薄くて何考えてるか掴みにくくペースを合わせる難易度が高かったり、愛着形成に手間と時間がかかるということ。
 
愛着形成に限らず、その人の「主観的な体験」って五感・感覚の個体差の影響をものすごく受ける。特に感覚機能が育つ胎児期から0〜2歳代の脳育が「LSW的」にも大事と思う理由はそこにあります。
 
その人が自身の人生をどのような「主観的な体験」と共に歩んでいたのか。それは客観的情報が、その人の特性フィルターを通して、その人の感覚的・感情的・認識的にどのように染み渡り蓄積する体験だったのかを想像することだと思います。
 
その積み重ねの歴史の結果が「愛着」であり、その人が持っている「価値観」になると思うのですが、積み重ねのベースとなる0〜2歳の時期は、感情も未分化でもちろん言語獲得もしていない非常に感覚的な体験の積み重ねなので、何で今現在の「愛着パターン」や「価値観」になっているかなんて自分では説明できない部分であると思います
 
LSWはそんな本人が上手く言語化できない感覚的な[過去]も扱うわけですが、まず大事なことは[現在]上手く言語化できない本人の中で起こっている感覚的なものを支援者がキャッチして応答して扱えることだと思います。
 
それは、その場で本人の中で起こっている「主観的な体験」を想像して、視線や表情といった愛着行動に応答すること。オキシトシン分泌して安心感を持てたところで、気持ちを言語化できるのを待つがいいのか、気持ちの代弁が必要なのか、それも今ここの「主観的な体験」を想像して対応する。
 
それは、日々の関わりの中で当たり前に行われる愛着形成・関係構築のプロセスではありますが、LSWの場で起こる体験共有や関係性が深まるプロセスは、言葉のやりとりだけではなくて愛着形成と同様の非言語的な応答による要素が非常に大きいし、そこを支援者は意識して疎かにしないことが大事だよな、と愛着行動の内容を見て連想しました。
 
長くなったので、残りふたつ、
(2)人見知りと分離不安 (p.7)
(3)言葉の発達のすがた (p.20)
 
は次回コラムで。
 
ではでは。

【第82回】はじめてママ&パパの「しつけと脳育」

メンバーの皆さま
 
こんにちは。管理人です。
 
前回コラムでは、

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こんなイメージ図を使って、子どものアセスメントについて書きました。
 
僕の頭の中では、次回は「自分の気持ちを言語的に表現できるようになる」まで、そもそもどんな発達段階があるのか(樹の絵でいうアタッチメントの上矢印部)について、こんな表を使ってのイメージ共有や整理がいいのかな、となんとなく考えていたんです。

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自分の気持ちを言語的に表現できるようになるのは、通常に育って[3歳]くらいだから、そもそも3歳以前の発達課題が残っている子どもは、LSWで過去や生い立ちについての感情表現うんぬんの以前に、全般的に自分の気持ちを語れる力が未熟ないわけで、まずそこを育てないといけない。
 
そして、社会的養護の子どもって、そもそも0〜2歳の時期に受けるべきお世話、ニーズを十分満たされていない子が本当に多い。身体的には中学生だけど、感覚や情緒の発達段階は1歳前の[快/不快]レベルなんて子が、社会的養護じゃゴロゴロいます。これは大げさでも冗談でなく本当に。
 
なので、社会的養護の仕事は「育て直し」なんて言われることもあるわけですが、そもそも一般的な0〜2歳はどう育ち、親はどう育てているの?というベースラインを知らない大人に、「身体は大きいですけど、こころ(情緒)は2〜3歳児だと思って接してください」と言う子育てアドバイスは何の意味も持たない訳です。そもそもを知らないわけなので。
 
しかし、社会的養護の関わる子どもの保護者は、その生い立ちを聴くと、その保護者自身が0歳〜2歳までに当たり前に受けるお世話を受けていない、育てられていない、なんてことはよくありますよね。だから、相談に乗る側としては、具体的な行動レベルで保護者に伝えられないと「結局どうしたらいいんですか?」と言うところに戻ってきてしまう。
 
それは、新米里親や現場の若手ケアワーカーに対しても同様なのですが、実は相談乗る側も実際の子育て経験がないなんてことはよくあるし、実際に子育て経験があったとしても「気持ちの言語化を獲得させるためにコレやってました!」なんてことは恐らく少なくて、何か意識する訳でもなく普通に子どもに接していたら、いつのまにか育っていたというのが通常の子育てかと思います。
 
なので、よくある言って聞かせるペアトレや躾うんぬん以前の、もっともっと小さい0歳〜2歳くらいの言語獲得前の養育、言葉のやりとり以前の情緒を育てるプロセスって?いう感覚的なところをどうわかりやすく伝えるか、と言うところに支援者は四苦八苦していると思うんです。
 
なんてことを前回コラムを書きながらムニャムニャ考えながら自宅に帰ったところ、家に何気なく置いてあった本に衝撃を受けました。
 
それはコレ。

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主婦の友社の「はじめてパパ&ママ」シリーズは写真が多くてわかりやすくて、一歳の息子がいる我が家でも「離乳食」や「病気」編はお世話になっているんですよね。
 
その「しつけと脳育」編がコレなんですが、そのコスパたるや半端無いんです。ちなみに内容はこんな感じ。
 
 

内容紹介(Amazonより)

大ヒットシリーズの最新刊。 
子どもの“脳力"を最大限伸ばすために、0~3才でできることをまとめた、一家に一冊の保存版! 
 
●巻頭特集 
「0~5才まで見通せる! 心と体の発達カレンダー」 
「実例・脳を育てる 1日の過ごし方」 
 
●第1章 0才からの脳育てルール 
●第2章 時期別 発達と脳育てのコツ 
●第3章 もう迷わないしつけの方法 
  早寝早起き/公共マナー/イヤイヤ期の困った! /正しいおはしの持ち方/ 
  歯みがき/手洗い/着替え/トイレトレーニング 
●第4章 頭のいい子が育つ食事 
●第5章 カンタン! 親子遊びで脳育て 
●第6章 家庭教育と習い事 
英語教育/習い事人気ランキング/手作り知育おもちゃ/入園までにやっておくこと 
 
【専門家のスペシャルインタビュー】 
佐々木正美先生(児童精神科医)/高濱正伸先生(花まる学習会)/菅原裕子先生(コーチング) 
 
 
2017年3月初版なんですけど、これまで専門書を何冊も読んで勉強したのが馬鹿らしくなる程のわかりやすさ。写真や図解がふんだんに使われて、ここまで広範囲をカバーして、このクオリティーで1300円は正直、破格だと思います。
 
Amazonで初めの数ページ無料で見れますし、レビューのコメントも是非見ていただきたいんですけど、通常のお母さん視点からすると、子育てで何気なくやっていたことがこんなに脳を育てることにつながっていたんだという「整理」「確認」「安心」につながるみたいです。
 
具体的な本編の内容的には、そもそも脳の作りは、
 
(2階)おりこうさん脳(大脳皮質、小脳)
(階段)こころの脳(大脳皮質の前頭葉
(1階)からだの脳(大脳辺縁系、脳幹)
 
という2階建てなのだから、まず育てるのは1階の生命維持に必要な「からだの脳」。1階が不安定な家に重厚な2階は作れませんよ。脳の発達には段階や順番があって育脳の目的は「バランス脳」ですよと、よくある早期のお勉強的な知育に警鐘を鳴らすような内容が、専門用語を使わず図解と写真をふんだんに使って説明されています
 
そして、どの時期に子どもとどんな遊びをして、どんな刺激を脳に与えてあげることが必要なのか、現実場面の「しつけ、遊び、食事、TV、習い事」の取り扱いや困り感に対してどのように考えればいいのか、本当にわかりやすく説明されていて勉強になります。
 
これらの内容って、前回コラムで小難しい理論を大した説明なくサラっと載せたコレ、

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の話しですけど、こんな難しい言葉で覚えなくたって、この本1冊が手元にあれば全て解決!というレベルなんです。
 
脳育的には、3歳までは五感【視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚】を使って脳に刺激を与える「体験型」の育てが必要だと。見て・聴いて・触れて・嗅いで・舐めてという感覚や蓄積体験です。習い事や脳トレとか言って机の前に座ってお勉強はソノサキの段階であると、わかりやすく明確に説明されていますし。
 
また、専門家のインタビューと名を打って、
〇何よりまず親が笑顔で楽しんで生活すること。
〇親は見守る、転びそうになったらサポート。
〇0〜3歳までに手をかけなくても、実はすぐには困らない。困るのは大きくなってから。
〇子育ての目的は「自立」させること。
 
等々、子育てやアタッチメント形成で一番大事な親の心構えや精神状態、子育ての長期的展望などの本質的で大事な要素が、実例も合わせてわかりやすく書かれています。
 
子育て中のパパママが参考になるのはもちろん、社会的養護の現場にいる支援者にとっても非常に参考になるし、支援者チームで押さえておきたい共通理解しておきたい根っこになる内容がふんだんに散りばめられています。
 
 
ちなみに2018年6月には、本書を監修している成田奈緒子先生の最新書、
「子どもの脳を育てるペアレンティング・トレーニング育てにくい子ほどよく育つ」
が発売されるそうです。どのような内容になっているのか要チェックですね。
 
つまり何が言いたいかというと、LSWにおいて感情を表出を伴う幼児期の語りが出来ることが治療的なわけですが、そもそも「気持ちを言語化できるようになる」以前の段階の子どもたちには、五感全ての感覚的な刺激による「からだの脳」の育成、そして非言語的な視線や表情の応答による「こころの脳」の育成ステップや支援が必要ということ。
 
それが仮に小学生でも中学生であったとしても、この土台づくりのステップをすっ飛ばして、2階にある認知的な「おりこうさん脳」を大きくしようとしたって、そりゃ頭でっかちでバランスが悪い不安定な感じになっちゃうし、やっても積み上げに限界があるから効率が悪いんです結局。
 
例えるなら、昔の古いバージョンのスマホに最新アプリを入れようとするようなもの。スマホの性能に対してアプリの容量が大きすぎて、逆に動きが悪くなりますよね。「身の丈(1階の土台)」に合わない「頭(2階)」でっかちの脳トレはそんな感じかなと。なので、やはり大事なことは脳の育ちのバランスなんだろうと思います。
 
だから社会的養護に来る理由はさまざまですが、0歳〜2歳の間にネグレクトであった子は、脳のネットワークが爆発的に増える時期に刺激不足にあるわけですから、後々に本人や周囲を悩ませる「自己コントロールの問題への影響は本当に大きい。
 
社会的養護で代理養育を担う施設現場の方々は、たくさんの子どもを見る中でこのことを日々実感していると思いますが、委託率を増やせ増やせと言われている里親の多くは一般的な順調な子育てイメージを持っていて、子育ての比較対象が地域に住む一般家庭の子ども達になってしまいますから、子育て上手くいかないのは自分たちの対応が悪いからだと思い込みやすい。
 
実は、胎児期から0歳〜1歳のあいだ育っていて欲しい脳の部分が十分に育っていないがための影響の可能性が多分にあるにもかかわらずです。育てる側は残っている発達課題の「育てなおし」の視点をどこまで受け入れられるかですし、お願いする側はきちんと説明できるほど子どもの状態をアセスメントできるか。
 
何より一番は社会的養護を必要としないで家庭で子育て出来ることがいいわけですから、子どもへの早期支援、そして乳幼児期に子どもを育てる養育者への支援が大切。それは産まれてからだけでなく胎児期からの母胎内での育てを含むので、産前産後ケア、産前のパパママ教育、もっと言うとパパママになる前の教育もそう。「そもそも人ってこう育つんだ」の共通理解は、中高生くらいでやって全然いいと個人的には思います。テレビやスマホの脳の影響なんて、全然考えていないと思いますし。
 
この時代、テレビやスマホ抜きには生活できませんが、どうしたって視覚や聴覚に刺激が偏ることをソレを使い与える大人側は承知しておかないといけないですよね。
 
本書では「子どもの"ボンヤリ時間"をキープ」と説明がありますが、暇そうだからとTVをつけると、頭の中で空想したり思考をつなげたり前頭葉(創造性・こころの脳)を活性化する時間を奪うことになることが書かれています。
 
大人の世界の「効率第一・コスト削減」世知辛い時代流れですが、大人になったら困るだろうと時期尚早にアレコレ忙しく詰め込むのは、かえって脳育的には逆効果ということです。
 
だから、子どもにとって「暇な時間、ボーッとする時間」ってとても意味があることだし、それを奪ってしまうと自分で何も考えない、想像力が乏しい、好きなこともやりたい事もわからない人間に育っていくんだろうな、と思います。
 
対人援助の専門家として以上に、いち父親として、とても勉強になる一冊でした。
 
ではでは。

【第81回】LSW実施前の「ダビスタ風」アセスメント

メンバーの皆さま

こんにちは。管理人です。

気づけば、もうGW直前ですが、皆さまの新年度スタートはいかがでしょうか?

僕は、年度当初のバタバタ具合から、ようやく徐々に日常業務のペースに戻ってきたかなぁ、というところです。

そんなこんなで、コラム更新も滞っていたわけですが、忙しくて書けない間にも[書きたいネタ]はどんどん増え続けるので、次のコラムで何を書くのか正直迷っていまして…。

色々迷った結論としては、年度始めですし、今後のコラムの目次・総論的(になるといいなぁ)な内容を今回は書くことにしました。

それは「LSW実施前のアセスメント」について。

前回コラムでは、幼児期の語りの中で「感情を扱える」のが治療的だし理想形はあるけれど、

〜今回は記憶イメージと感情体験の変化を主に扱ったが、語りの重要な要素であるストーリー性やまとまりという観点からの分析も、今後検討されるべきであろう。
 
〜今回の結果はあくまで一般大学生で行ったものであって、そのまま臨床群を理解する手だてとして用いるのは危険である。 しかし、幼児期記憶の危険な側面も十分踏まえつつ 、今まで肯定的に扱われることの少なかった幼児期記憶を、その人の生き方を支える方向で臨床に活かす何らかの手がかりを探っていくことへとつなげていきたい 。

と、2005年にすでにLSWの大切さと難しさが指摘されているのですが、「で、危険な側面って何を踏まえたらいいの?」という所はいまだに未整理でみんな苦労している所ではないか、ということを綴りました。

で、前回コラムで、管理人的な臨床感覚での「LSW実施アセスメントpoint(情報収集と査定)」を木の絵のイメージにのせて簡単に紹介したのですが、今回はそれについて、もう少し詳しく。

それがコチラの5点。ちょっとキレイに描き直してみました。

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要約すると、「子どもの状態」についてのアセスメント。何がその子の感情体験の語りを難しくしているか、生い立ちと現状から考える、ということ。

例えば「気持ちの言語化が難しい子ども」がいたとして、感情を感じたり言語化する力がそもそも育っていないのかそれとも感情を語れる力が育っているけど一時的に持っている力を発揮できない「状態」や「環境下」にあるだけなのか当然その違いによって、全然フォローの仕方が異なりますよね。

もっと言うと、LSWで一番心配するのが実施後に荒れないかということだと思うのですが、ソレが何から来そうなのか予測や仮説がいくつ想定されるか。

例えば、蓋をしていた侵入的なトラウマ体験を想起することで「安全感」が損なわれてしまいそうなのか、過去の喪失やネグレクトに対する「怒り」の感情がフツフツと沸いてきそうなのか、それとも現在の状況(家族交流が無いとか)に対する不満・寂しさ・イライラと言ったフラストレーションを自分だけでは抱えきれなそうなのか。

それを予想するには、まずその子の生育歴をなるべく丁寧に追える情報を集める。そして、現在の子どもの状態・特徴・価値観から、その子が生い立ちの中でどんな体験を、どのような受け取りで積み重ねて、現在まで育ってきたのかを想像してみる。

つまり[客観的な情報]と[現在の子どもの状態・特性]と現時点で語りうる[主観的な情報]を集める。そして、それらの「点」在する情報の隙間をつなぐ[体験・想い]を、本人が語りきれない「線・面・立体」的につながるストーリーを、まず支援者が想像してみる。

そして、あたかも本人になりきって追体験するように主観的なストーリーを想像してみる「手がかり」として僕が重要視しているのが、上の5つのpoint

・アタッチメント
・忠誠葛藤(家族関係、人間関係)
・喪失体験
・トラウマ

です。物事をまとめる時には「3つまで」が原則なのですが、現時点での僕の力では「5つ」に絞るのが限界でした。

ちなみに、これまでのコラムでは主に扱ってきたのは[喪失体験][アタッチメント]についてですが、気持ちの自由な表現を阻害する[忠誠葛藤]にはこれまで触れてこなかったですし、感情コントロールや感情抑圧を扱うには、やはり[発達障害][トラウマ]は外せない。

一つ一つのトピックについては、今後のコラムで少しずつ扱っていきたいと思います。しかし、冒頭に触れたように5点に絞ったのは「子どもの状態」についてのみですが、LSWで気をつけるのはそれだけではないですよね。

個人的な印象としては、これまでコラムは「子ども自身」のことよりも、子どもを支える【支援者】や【チーム】のあり方・心構えという内容が結構多かったかな、と思います。これも外せない大事な要素の一つ。

話題を広げて申し訳ないですが、「個人内/担当者内/組織内」の抱える中身と器のバランスや関係性について

[扱う話題]×[子どもの抱える力・準備性]
[子どもの状態]×[担当者の準備性]
[子ども・担当者の関係性]×[組織の支援体制]

と言った重層的な掛け算のアセスメントをして、
「=LSWが実施可能かどうか」を判断している、
というのが実際のところかと思います。簡単に言うと、子ども・支援者・組織それぞれのアセスメントが必要ということです。

ちなみに今回は、その全体的で感覚的な判断プロセスを、表題の「ダビスタ風」に例えて言語化することを試みてみます。ちょっとした遊び心ですが、競馬に興味がない方には、かえって分かりにくい説明になったらスミマセン。


ダビスタとは =「ダービースタリオン🏇」のこと。ご存知の方も多いと思いますが、1991年にファミコン版が発売されて以来、25年以上経った今でもシリーズ新作がリリースされる超有名な競馬シュミレーションゲームです。

僕も中学生の頃、スーパーファミコン版「ダビスタ3」にかなりハマり込んでいました。その頃は、三冠馬ナリタブライアンが現役で走っていたり、サンデーサイレンス産駒が日本競馬界を席巻していた時期でダビスタや競馬界が随分盛り上がっていたなぁ、と携帯アプリ版のダビスタが出てきた時は懐かしい気持ちになりました。

PS版とかアプリ版とかやってみましたけど、やっぱりスーパーファミコン的な昔ながらのの画面が僕は好きで、3DSで出てる「ダビスタゴールド」 はそんなオジサン層に合わせてくれた感じになってるんですね。

ちなみに、こんな感じです。

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で、こんな競馬の予想表がLSWにどう例えられるかと言うと、まず予想印。先程の5つの点を、

ア=アタッチメント
忠=忠誠葛藤(人間関係)
喪=喪失体験
ト=トラウマ

として、その健康度や資質やストレングス(強み)を予想印で表すイメージ。大事なことは減点法ではく、加点法で「健康的な部分」があれば良い印をつけていく感じです。

で、出走レースが「LSWの場」だと思ってください。生活場面でも面接セッションでも構いません。単なる例えなので。しいて言えば、レースグレード(新馬→条件→オープン→GⅢ→GⅡ→GⅠ)が上がるほど取り扱う話題の内容がグレードアップして重くなるイメージでしょうか。


例えば、圧倒的1番人気の【10】オルフェーブル

ア発忠喪ト
◎◎◎◎◎

[アタッチメント]は獲得できている、[発達障害]はない、生い立ち上の[忠誠葛藤]もない、[喪失体験]もない、[トラウマ]もない。そんな人はLSWなんて必要なく、普通に過去を感情をともなって語れるでしょ、GⅡくらいの話題なら余裕ですかね、という感じ。


2番人気は微妙ですが、【6カレンミロティック

ア発忠喪ト
▲▲

[アタッチメント]や[忠誠葛藤]はまぁ普通にOK、[発達障害]そこそこ、[喪失体験][トラウマ]もそこそこ。わりと社会的養護の子どもで、比較的安定していてLSW実施の検討にあがりやすいタイプかもしれません。[トラウマ]の内容が気掛かりですけど。


そして、おそらく2番人気を分け合っているのは、

ア発忠喪ト
  ◯◯

発達障害]はなく、[喪失体験][トラウマ]の影響も少ない。[アタッチメント]形成はやや。◯が多いので大丈夫そうに見えるですけど、実は[忠誠葛藤]を物凄く抱えている。ずっと同じ家庭で暮らして大きな喪失や被害体験はないけど、実の親子関係が在宅でうまくいっていないケースがこんなイメージですかね。家族内で味方になっていただろう▲の資源を活用しながら、現在の家族関係を調整していく感じでしょうか。


人気が落ちてくると、【9】トウカイパラダイス

ア発忠喪ト
△△

だいぶ使える資質が限られてきましたね。[アタッチメント]そこそこで、[発達障害]もややアリ。誰かに可愛がられたり守られたりした経験はありそうだけど、[トラウマ][喪失体験][忠誠葛藤]の影響やダメージが全然ある。穴馬というか、勝算は少なそうな買うには勇気がいる、GⅡ挑戦はちょっと早いかも?という感じ。この内容のLSW実施以前に、まずは現在の忠誠葛藤はないのか、トラウマ症状を服薬で緩和できないか、そんなアプローチかな、と。


最後は、【3ヒットザターゲット

ア発忠喪ト
△△

う〜ん、苦しいですね。[発達障害][トラウマ]はそこそこ。そして[アタッチメント][忠誠葛藤][喪失体験]の問題が大アリ。イメージ的には、生活場所や養育者が転々として、措置変更も繰り返しているようなケースがこんなイメージですかね。アプローチとしては、まずは現在の養育者との信頼関係、アタッチメント修復に全力を注ぐことから、みたいな感じになろかと思います。

こんな具合に、予想印があるほど個人のストレングスや資質が増えていき、実施後も良い経過イメージが湧いてきます。


そして、ここからは養育環境の話しです。競馬の予想印は「ポテンシャル+トレーニング+コンディション」によって左右されるわけですが、競走馬は牧場で産まれて、デビュー前に特定の調教師がいる厩舎に預けるんですね。

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厩舎ごとに特徴があって、例えば、仕上げが早く若いうちからビシビシ鍛えてレースに出走させながら育てる厩舎もあれば、じっくり育てながら大事にレースに使うタイプの厩舎もある。また短距離馬育てるのが得意、長距離馬を育てるのが得意といった違いもある。

もちろん、脚元の疲労を考えながら、鍛える育てることとレース間のコンディション調整を、その時の馬の様子を見極めて怪我をしないように同時並行してメニューを組み立てていく。それは調教師だけじゃなくて、実際に馬に乗ってトレーニングをつける調教助手や日常のお世話をする厩務員と話し合いながら進めるチームプレーです。

なのでデビュー前に、その馬の資質(血統)や特性に合わせて、どの厩舎に預けるかというは相性があって結構大事な作業になるわけですが、これは社会的養護が必要な子どもをどの施設どの里親に預けるかの作業と似ていると思うんです。やっぱり子どもと養育者(里親・施設)それぞれに特徴やクセはあるので、お互いうまくハマるかの相性ってありますから。

そして、競走馬は疲労が溜まったら「生まれ故郷」である牧場に放牧します。

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そして英気を養ってから、また厩舎に戻ってくるわけですが、これがホッとできるアタッチメント対象のイメージ。本来、慣れ親しんだ地元があって、家族の中でこのような存在がいてエネルギーを養えるのが理想ですが、生活場所を転々としていてLSWを検討するような子どもは身近な家族でこのようなアタッチメント対象がいないことも多いので、そこから作りあげていく支援となる。

なので、支援の順番は、予想印の左から右に向かうイメージ、

ア発忠喪ト
→→→→→

最初の図で言うと、こんなイメージ。

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まずはポジティブ体験を増やす作業。安心できる[11の関係を作り、発達特性に合わせた対応や環境調整で[集団]で褒められる体験を増やし、肯定的な対人関係や成功体験を広げていく。その対人関係のやりとりの中で、感情を豊かに表現したり調節する力が育っていく。

そして、環境への安心感や自己肯定感が高まってきた段階に応じて、徐々にネガティブ体験の緩和に手をつけていく。それは、過去の[忠誠葛藤][喪失体験]で抱え込んでいた「未完の感情」「心のシコリ」の解放を試みたり、過去の[トラウマ]の「身体感覚」「恐怖反応」解放を試みる作業です。

この順番イメージはLSWに限らないんですけど、下の図のように、「バイオ・サイコ・ソーシャル」の視点で、

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脳の進化・心理社会的な発達・欲求階層を並べて比べて見ても、原則的な順番は「感覚→感情→理性(認知)」で[1対1]→[集団]というのは共通していると思うんです。

なので、ポジティブ体験の積み重ねは生理的・感覚的な根っこの部分から上の方に向かって、
→感覚(アタッチメント・オキシトシン
→→感情(褒められる体験、自己肯定感)
→→→理性(認知的に「これでいい」自信を強化)

の順番で扱い、逆にネガティブ体験は慎重に枝葉から徐々に根っこに近づいていく感じで
→理性(心理教育。「心身反応」の頭での理解)
→→感情(悲しい・寂しい、危険でない気持ち)
→→→感覚(痛い・怖い、恐怖体験、身体反応)

こんなイメージ。そして、疲れたりしんどくなったらアタッチメント対象(ホッとできる人や場所)に戻って英気を養う。これは全然新しい内容ではなくて、普段、現場で何気なく支援の中で行われ語られている内容を[理性・感情・感覚]で整理しただけです。

そして、予想印が豊富なほど引っかかりが少なく、この支援プロセスがスムーズだったり手のかかる部分が少なくなるイメージ。順番に完璧◎にならないと次に進まないわけではなくて、大事なことはバランスを整えること。例えば、まずは少なくとも全てに△が付くようにするとか、△→◯にするとか。原因追及・原因除去ではなくて、使える資源・資質を増やしてキャパシティ・抱える器を広げていくイメージ。

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このようにアセスメントpoint(点)をつないで、資質を色が付いた「面」や「立体」で捉える感じでしょうか。

どうしても現れが激しい子だと「生育歴に問題がある/ない」の二者択一で評価してしまいがちですけど、生育歴に問題なかったら社会的養護にまで来ていないでしょ(苦笑)と。大事なことは、ハッキリとした境目がないグラデーションや濃淡の程度をどう評価(アセスメント)するのか。

僕は心理職なので、面接・観察・周辺情報と心理検査でそれらを査定するのが仕事だと思っていますが、当然、心理検査や面接といった[非日常場面]で見せる顔、生活の場や学校などの集団の場たいった[日常場面]で見せる顔は違うのは当たり前で、どの情報もその子の全体像を表すパズルピースの一部ですから、自分が直接見て聞いて収集できる以外の情報とのバランスを大切にしているつもりです。

そして競走馬もそうですが、関われる時間と年齢に限りがありますから、限られた時間内でポテンシャルをいかに引き出して、レースの勝率をいかに高めることができるか。しかも競馬は5着までは賞金が出ますから、勝つか負けるかの二者択一ではなくて、結果も段階的に異なり少しでも着順をあげることに意味がある点も、人生的な例えとして面白いなと思います。


そして、最後にLSW実施について。競馬の本番のレースは、当たり前ですが予想通りの結果になるとは限らなくて、そこに大きく影響してくるなのが騎手の存在。一般的には「馬7:騎手3」なんて言われますけど、騎手の大事な役割はレース展開をリアルタイムで判断し、人馬一体となって息を合わせて馬のポテンシャルを最大限に引き出せるか。

デビュー当時から同じ騎手に乗ってもらって特徴を把握してながら信頼関係を深めていくことが理想ですが、もちろん騎手には腕の差がありますので、大事なレースには腕のいい外国人ジョッキーに任せたり、でも人気騎手は依頼も多いので乗り代わりになる可能性もあるわけです。また、この騎手は牝馬に強い、この競馬場ならこの騎手なんて得意分野もあったり、いい意味で騎手の乗り替わりが、その馬の別の一面が引き出すきっかけになったり。

そんな騎手のように、その場の流れを読んで対応したり、その子のポテンシャル(気持ちの言語化)を引き出せるかどうか、どれだけ安心して語れる場を作れるかどうかの手綱引きは、まさにLSW実施の場にいる担当者やファシリテーターの役割と重なるなぁ、と思います。騎手の乗り替わりの話は、施設や児相の担当者が変わることのメリット・デメリットとも似てますし。


そんな感じで僕がただダビスタ好きだからかもしれませんが、[デビュー前の入厩→トレーニング→レース出走→レース後の調整→次のレース]というプロセスと、一頭の競走馬に関わる人たちや想いは、社会的養護の集団養育やチームアプローチはとても重なるイメージを持っています。まぁ、子育ても馬育ても「育て」は共通なので。

今回の話しは、
・アタッチメント
・忠誠葛藤(家族関係、人間関係)
・喪失体験
・トラウマ

って、そもそも何?という方には、分かりにくかったかもしれませんが、これまでのコラムでも触れてきた部分も多いですし、インターネットでもたくさん説明がありますので参照ください。

また別コラムで掘り下げていこうと思います。

ではでは。

【第80回】タイプ別「幼児期記憶の語りと再構成」

メンバーの皆さま
 
おはようございます。管理人です。
 
今日は、担当児童の入学式に出るため「スーツ&ネクタイ」で出勤しています。
 
いつも「ノーネクタイ・ノージャケット」でいることが多いので、カチッとした格好をすると、改めて「新たなスタートだな」と身も心も引き締まるような気持ちになります。
 
そんな初心の大切さ、今やっていることの大事さを改めて振り返させてくれた論文を今回は紹介します。

 

 

幼児期記憶を再構成する語りの一分析例 

ー記憶イメージと感情体験を探る一

(林 2005)
 
この研究の目的を要約すると、
・これまで自伝的記憶の一部とされてきた「幼児期記憶」に焦点を当て、「自分の特殊と思われる体験を話すことで長い間抱えていた不安が軽減する」等の先行研究を踏まえ、静的な記憶の想起にとどまらず、動的な語りによる再構成の視点も取り入れ、青年にとっての幼児期の持つ意味を考察する。
 
というもの。表現こそ違うものの、まさにLSWの臨床で行なっている事"そのもの"なんですよ。また内容や考察も「まさにLSW」という感じで、非常に参考になる点が多いですので、『考察』にコメントを挟みながらを紹介したいと思います。興味ある方は是非原文も参照下さい。
 
では、さっそく。

 

 

考察1)幼児期記憶の語り分析から

〜研究では、幼児期記憶について語ることで生じる再構成の視点を取り入れた。 そして語りの特徴から3群に分けてその様相を比較検討した。 
 
3群とは、
①知的理解群、②感情表現群、③象徴化表現群この分類は質問紙調査(131名)→インタビュー調査(13名:全て女性)を元に、下図のような分類をしたということです。

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なるほど。確かに、過去の記憶を「客観的に・知的に語れることと、「主観的な体験・感情を表現した語りができるかどうか、またその気持ちを具体的かつ整理を持って想起する感情に巻き込まれずに語れるかどうかによって、語りの"質"はかなり異なりますよね。
 
それは、あいまい喪失で触れた「未完の感情」が扱えているかどうかにも大きく関わってくる話かなと思いますがこういったフローチャートによる視覚化や分類はとてもわかりやすく、語り手の状態像がよく整理されますよね。
 
ちなみに、この3分類は、
■記憶想起のパターン4類型 (林,2004)
①知的な理解の優位な群
ー感情表現も見られるが、知的な理解が先行し、認識の改めや理解したことが語られる
②直接的な感情表現群
ー感情語を用いてストレートに表現する 
③感情の言語化が困難な群
ー何らかの感情を体験していると思われるが,言語での表現が伴わない
④記憶想起の困難な群 
ー記憶の正確さにこだわる、記憶のなさについて語る
 
などの先行研究を参考にしたという事ですが、この研究調査では④に該当する人がいなかったため分類から除外した、ということなんです。
 
興味深いですね。おそらく社会的養護でLSWを検討する児童は結構④がいると思うんですが、一般大学生を対象にした本研究では記憶のなさについて語る④はいないと。
 
これこそ措置変更を重ねたり生活環境を転々する社会的養護の子と一般家庭の子との根本的な状態の違いを表していると思います。そして、以下の研究内容は、社会的養護の児童に対して過去を語れるように[情報整理][施設訪問]などのLSW的サポートをした後の話しになろうかと思います。
 
 
 
〜その結果、感情表現群が知的理解群・象徴化表現群と比較して、より自身の感情に根ざした体験が語られていたように思われる。 また他の群よりも、今後も続いていく人生の一時期として、時間的な展望の元に自己の体験を位置づけることも可能であった。
 
まぁ、そういうことで、この辺はLSW臨床の感覚と一致します。最終的にそうなることが理想的に思い描く子どもの姿なんですが、社会的養護でLSWを検討する児童は、とにかく記憶もないし、感情表現や感情コントロールも苦手だしみたいな、何段階か前の状態であることが実際は多いですよね。
 
それは、愛着・トラウマ・グリーフ・発達凸凹・家族関係のなかの忠誠葛藤(三角関係)などの影響が混在しているケースが多いのかな、という感じが僕の臨床感覚としてはあります。
 
さらに、
〜知的理解群は、記憶の鮮明さや映像の面では記憶の質が最も良いようにも思えるが、語りの質と必ずしも一致しているとは言えないのは興味深い点である。 感情を伴った衝撃的な出来事、個人的な意味を持つ出来事ほど正確に鮮明に記憶される (大矢,1999)のであれば,知的理解群の想起した記憶はかなりの正確度・鮮明度を維持しており、個人にとっても何らかの感情を喚起される、本人にとっての意味深いものであろう。 さらに、この群のみ幼い自分の視点から見た風景が報告されたことからも,あたかも「今ここで」の出来事のように体験されている可能性がある。したがって、知的な理解は,生々しい記憶に巻き込まれずに距離を置くための方策と言えるかもしれない。 
 
 
まぁ、そういうことなんだと思います。知的水準がある程度高い子は、トラウマ体験による恐怖の身体感覚」、グリーフの「未完の感情」そして複雑な家族関係の中で起こる「忠誠葛藤」を認知的に距離を置いて防衛できちゃうんですよね。
 
でも、それは地雷(未完の感情)と距離を置いてとりあえず放置したに過ぎない。地雷撤去出来ないから、結局、危険地帯に踏み込んで地雷に当たってしまうと、感情爆発に巻き込まれすぎてコントロール効かなくなる。
 
でも、知的に高くなかったり発達凸凹である部分の感受性が高すぎる子は、「未完の感情」と上手く距離取れなくて無自覚に危険地帯に踏み込んじゃうから、苦しさや葛藤を感じ過ぎちゃって我慢できず暴れちゃうんだと思います。
 
 
〜あたかも「今ここで」の出来事のように体験されている可能性がある。
 
 
なんて"フラッシュバック"ですものね。ただトラウマのように恐怖を感じるような体験でなければ、とりあえず「現在の安全感」は損なわれないですが、
 
 
〜知的な理解は,生々しい記憶に巻き込まれずに距離を置くための方策と言えるかもしれない。
 
 
という記述は、乖離とまでは言わないまでも「認知ー感情」のつながりが薄いような状態を想像させますよね。
 
そういう意味では、
 
 
〜以上のことを踏まえると、知的洞察よりも情感を伴った情緒的洞察の方が治療的で あるという精神分析の見解 (小此木,2002)と類似した結果が得られたと考えられよう。
 
 
は、記憶と感情が一致して語れているというか、「認知ー感情」のつながり、アクセスが良い状態を想像します。
 
なのでLSWでも過去を大人から一方的に伝えるだけではなくて、その情報を知って「何を感じたのか?」「どんな想いが湧き起こってきたのか?」という現在の感情に加えて、未完の感情も扱える方が確かにより治療的だと感じますし、僕はLSWに限らずソレを意識しています。
 
 
〜さらに、象徴化表現群の擬態語使用が功を奏しないという、従来の比喩研究とは異なる結果となったが、一因として比喩の使用が的確に行われなかった可能性が推測される。一方で、過度の象徴化・抽象化は語り手側の拡散や混乱を招く恐れがあるとも言え、注意を要するかもしれない。この点については今後の研究で明確にしていく必要があると考えられる。
 
この辺りは、トラウマとグリーフの扱いの違い(=身体的な恐怖反応があるかどうか、語りの想起が安全安心の感覚を脅かすかどうか)に関わってくることかなと思います。また別のコラムで詳しく触れていきますね。
 
やはり大事なことは、LSW実施前にその人の状態・心情を把握するための情報収集の正確さとキメ細かさ(=アセスメント)、そしてその情報から「こう支援したらこうなるだろう」という予後を予測する想像力(=見立て)なんだと思います。
 
 
 

考察2)再構成する幼児期

 

〜青年期にある者から想起した幼児の姿としては、自己中心性 、大人びた子ども像 、人見知りす る子どもが特徴であるとの結果を得た。これは、幼児期という時期が、自我が芽生え、第一反抗期と呼ばれる時期を経験するなど、自分への意識が強まる時期であり、自分でできることが重要な意味を持つため、このような幼児像が報告されたと考えられる。 
 
これは言葉変えると「アタッチメント(分離ー個体化)」の話しなのかな、と。全ておんぶに抱っこの時期を過ぎて、1歳児が少しずつ歩けるようになって、いつでもエネルギー補給できる安全基地があって、外への探索に意識が向いて色々経験して、でも不安になったら戻ってきて、なんてことを繰り返してお母さんと自分の区別がついてくるような時期の話しと重なるなぁ、と思います。
 
この春から新生活を送っている学生や新社会人も多いと思いますが、親離れ子離れ・一人暮らしは分かりやすい「分離体験」ですよね。期待と不安が入り混じった"葛藤"を多かれ少なかれ誰もが感じているハズです。
 
しかし、社会的養護に関わる子どもも保護者も「自分が望まない」「仕方なく」「無理やり」の分離体験をたくさん経験している場合が多く、本対象の一般大学生が抱える葛藤とは、その"質や量"が圧倒的に違うということは想像に難くありません。
 
その葛藤する気持ち、自分の中のポジティブ・ネガティブ感情の両方を素直に認めて語れるか。感情表現群は「語り」のプロセスの中でそのような気持ちの整理、まさにストーリーの再構成が進んだということなんだと思います。
 
 
〜また、両親や家庭が記憶物語に登場しないケースや、登場したとしても関与の度合いの低いケースも多く、一見したところ、青年の想起する内容は先行研究で言われているほど肯定的な意味を持ったものとは言えないようにも見受けられる。
 
〜しかし、わがままで怖いもの知らずだった自分、今から考えると恥ずかしくなるような自分の姿を抵抗なく、初対面の調査者に対して口にできるという点は注目すべきである。それは、幼児期にその人がわがままを許され、そのままでいいと受け入れられてきた証拠であろうと推察される。中には、「そんな自分だったけど小さい頃のことだから別にいいと思う」と語ることのできる被験者もいた。なかなか本人の口からは話題に上らないが、その背後には許し、見守り続けてくれた環境の存在が感じられ、本人たちにも意識されていたのではないだろうか。
 
なので、結局のところ、そのような深い語りが他人にできるかどうかは、幼い頃のアタッチメント形成や基本的信頼感の獲得がどうか、ありのままの自分を受け入れられた原体験があるかどうかが大きく影響するということですよね。
 
そして、そのような他者への基本的信頼感が薄い人は、この研究のように初対面の人にここまで自己開示して内省できないわけです。信頼できないし、安心できないので。
 
結局LSWでも違うアプローチでも、われわれ支援者は、生育歴を丁寧に追って原体験をアセスメントし、まずは安心して話せる関係性を構築すること、それが支援やケアの第一歩という事になるということだと思います
 
 
 

考察3)今後の検討課題および臨床場面との接点

 

〜記憶とは現在の気分や心理状態を反映するものであり、過去の記憶も現在の視点から読み解かれるものである (仲,1994)ため、現在にも注目して行う必要があったが、本研究ではその点が十分に考慮されていなかったと思われる。
 
まさにこれは、LSWにおける「現在」の支援の話で、まず今の生活、今の人間関係、今の信頼関係によって想起できる質が変わってくるという話し。前回SFAで扱った話しと重なっていて、現在のポジティブが何にも無ければ、過去のポジティブも思い浮かばないでしょう、ということなんだと思います。
 
 
〜また、今回は記憶イメージと感情体験の変化を主に扱ったが、語りの重要な要素であるストーリー性やまとまりという観点からの分析も、今後検討されるべきであろう。
 
〜今回の結果はあくまで一般大学生で行ったものであって、そのまま臨床群を理解する手だてとして用いるのは危険である。 しかし、幼児期記憶の危険な側面も十分踏まえつつ 、今まで肯定的に扱われることの少なかった幼児期記憶を、その人の生き方を支える方向で臨床に活かす何らかの手がかりを探っていくことへとつなげていきたい 。
 
 
この論文は2005年の13年前のものですから、当時の情報でここまで詳細に分析されているは驚きでもあり、ある意味「やっぱり昔から気づいている人は気づいているし、大事なことって普遍的だよなぁ」と確認できたことに安心もしました。
 
現在ではLSWの認識が広まったことで、幼児期記憶を臨床に活かす認識は随分進んでいるとは思いますが、「危険な側面も十分踏まえつつ」の点については「何を踏まえたらいいんだろう?」とまだまだ手探りでLSWに取り組んでいる方が多いのではないか、と思います。
 
ちなみに、僕は過去の情報や心理検査から、こんな5点にポイントを置いて、LSW実施前の状態をアセスメントしています。

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詳しくは別コラムでじっくり書きますが、簡単にまとめると、
【アタッチメント(愛着)】が対人経験を積むベースになっていて、安心感のある人と関わりの中でどれだけ情緒的なやりとりの重ねてきたかで、自分の感情を出したり納めたり言語化する力の育ち・基礎が違ってくるイメージ。
 
ただし、そんな感情体験を通して情緒的に成長する過程が色んな要因によって妨げられることがあって、例えば【発達障害のような感受性凸凹があると同じ刺激でも人より「痛み」を敏感に感じやすかったり、逆に「感情」が動くほどの刺激をキャッチできなかったり。
 
また【忠誠葛藤】と言って三角関係に挟まれて自分の気持ちを押し殺すようなことが続く環境下にあったり、【喪失体験】の悲嘆(グリーフ)の感情を表出する場や機会が与えられずモヤモヤを抱えたまま放って置かれていたり、【トラウマ】の恐怖体験から心身を守るために感情を麻痺させて対処していたり
 
そんなこんなで、感情を豊かに表現したり、感情のアクセルとブレーキを細かく使い分ける経験値を年齢相応に積めていないから「情緒的に未熟」なままの状態になるイメージ。こころの運動不足、こころの運動神経、こころの怪我・リハビリみたいな感じでしょうか。
 
なので僕は【愛着・発達障害・忠誠葛藤・喪失体験・トラウマ】の生育歴上の掛け算で、現在の状態と今後の支援の優先順位を考えるようにしています。
 
 
そして、最後にはやっぱりコレ。
〜その際に、援助者の側に焦点を当てることも、一つの方法として有効ではないだろうか。臨床場面で出会うのは不幸な記憶を背負ってきた人々であることが多いが、そのような彼らを取り巻く援助者側の幼児期記憶観が、クライエントに何らかの影響を及ぼすであろうことは十分考えうることである。多くの先人による文献や臨床経験でも、こころの糧はその個人の子ども時代と深い関連を持ち、子ども時代に根ざすものと言われている(村瀬,2003)。そこで、広く対人援助に関わる人々の子ども時代、記憶観についての検討も視野に入れておく必要があるだろう。
 
 
鋭い指摘ですよね。苦しい時にその人の本性が現れると言いますが、苦しい時に踏ん張れるかどうかは、これまでの不安な時にどのような支えがあったかの原体験、つまり支援者自身の獲得しているアタッチメントパターンが如実に現れます。
 
これは他人事ではなくて、この論文で扱われている内容は、そっくりそのまま支援者自身に適応できると僕は思っています。
 
支援者自身が自分の幼児期記憶をどのように思い出し、感情を伴う語りとして、葛藤も含めて自覚してこころの整理をつけて語ることができているのかどうか。つまり、自己覚知とセルフケアの重要性です。
 
しかし、原体験の親との関係が悪いとアタッチメントパターンは変われないのかと言えばそうでは無くて、LSWのように信頼できる人に寄り添ってもらった経験とこのような自己物語の再構成によって、幼児期に獲得したアタッチメントパターンも成人期には変化できると言われています。
 
また成人になると愛着の対象は親から別の人(恋人・パートナーなど)に移行するということですから、【第46回】で触れた「オキシトシン・システム」で考えると、オキシトシンが分泌されるような同調行動をしてくれる存在、つまり自分の味方になってくれて「癒し」を与えてくれる存在が今の生活にいれば、支援者自身がストレス負荷を抱えても「現在」の安全基地に戻ってエネルギー補給して、また仕事に戻ればいいわけです。
 
やっぱり相談者の苦しみを一緒に抱えるのは、支援者にとってもシンドイこと。それを「そんなこと思ってはいけない」と否定してしまうのは、感情抑圧や自己否定そのものだと思います。そして、その「苦しい感じ」や「いっぱいいっぱい」のサインは、そんなに隠し切れるものではないし細かい言動の端々に現れてしまうので、実は結構バレていると思った方がいいです。本当に相手の顔色に敏感な相談者は多いですから。
 
だからこそ、支援者も支えてくれる人が必要で、支援者がすでに経験しているそのような支え合い助け合いの「関係性の連鎖」を相談者に体験として伝えていく。そして、いずれ相談者がそんな体験を身近な人に与える側になっていく。そういう「体験のバトン」を渡して広げていく、僕のイメージする対人援助ってそんな感じです。
 
 
〜こころの糧はその個人の子ども時代と深い関連を持ち、子ども時代に根ざすものと言われている(村瀬,2003)。そこで、広く対人援助に関わる人々の子ども時代、記憶観についての検討も視野に入れておく必要があるだろう。
 
本当にそう思います。
 
もちろん支援者にも、それぞれの過去があり、それぞれの今がある。もちろん良い事もあれば悪い事もある。そして、対人援助は生身の人と人とのぶつかり合いになりますから、どうしたって自分の価値観や人生観が現れる。それは否定がしょうもない現実で、隠し切れないことだと思います。
 
だから、そう言った自分の人生経験を、どのように解釈し、自分の資質として上手く利用したり、苦手を意識してコントロールに努めたり、そのような事にLSW実施者は向き合わなくてはいけない。なぜなら、LSWはそのようなことを相手に求めることになるから。
 
LSWに限らず、実際にやったことない人にやったことない事を勧められたり、大丈夫なんて言われても、信じられないし「本当に大丈夫?」ってなりますよね。
 
やっぱり、なんの苦労も経験していない人の言葉より、自分がやってみた失敗や後悔を糧にして上手くいかない葛藤や劣等感も理解しながら、よりよい経験を相手にしてもらうためにサポートしようとしてくれる、そんな人の言葉やアドバイスというのは、やはり重みや渋さが違うなと思います。
 
そして、その軽さや重みの違いは、言葉でなく非言語的な雰囲気で相手に伝わるもの。
 
もしかしたら、LSWにおける支援者の"覚悟"とは、支援者自身が「ありのままの自分」を受け入れて、自身の人生経験を仕事の糧にできるか。
 
そのようなことを言うのかもしれませんね。
 
 
ではでは。