LSWのちょっとかゆいところに手が届く「まごのてblog」

静岡LSW勉強会の管理人によるコラム集

【第61回】喪失体験のストレスとシコリ

メンバーの皆さま


こんにちは。管理人です。

気がつけば、もう2月。早いですねぇ。

と自分で書きながら、月が変わる度に「もう◯月、早いですねぇ」と言ってるような…。

いつもiPhoneで書いているんですけど、先日、「メモ」アプリ機能で、太字や表が簡単に入れられることに、今更ながら気付きました。

こうやって段々と、世の中の進化のスピードについて行けなくなるんだろうなぁ、なんて感じます。

なので、今回から時々、文字が太くなったり「メモ機能」を発動させますが、まぁオモチャ買いたての子どもがはしゃいで遊んでると思って、優しい眼差しでご覧ください。


■ストレスの要素

今回扱うのは前回に引き続き「ストレス」
そんなメモ機能を眺めていたら、偶然、一年程前に自分で書き残していた「ストレス」の内容。

ハッキリ言って何度も読み返しても、いつ、何の本を見てメモしたのか、全く思い出せません。たぶん、いつか見直したいと思って書き残したんでしょうけど…。

まぁ「まごのてblog」の過去の記事見ても「当時の俺ってこんなこと考えてたんだぁ」って感じなので大して変わらないですけどね(笑)


で、本題ですが、心理学で「ストレス」と言えば必ず教科書に出てくるのがセリエ。そのセリエが、一般にストレスを招く要素として、

「不安」「情報の欠如」「主導権の喪失」

を挙げているようです。お、これはなんだか「LSW」や「あいまいな喪失」と重なりますね。

また、
「不安、葛藤、無力感、情報不足などの精神的要素は最大のストレス刺激であり、視床下部ー下垂体ー副腎の軸を強力に活性化させる。自分がコントロールできるという気持ちと完了行動は、その軸における活動を即座に抑制する」
(Rajesh K.Naz 1997)

であると。さらに加えると、ストレスとは必ずしも危害を受ける可能性など外部からの客観的な脅威だけじゃなくて、自分が絶対必要だと思うものがないという内的な認識もストレス刺激になりうる、と。

だからこそ無力感情報不足精神的欲求たとえば愛情を求める気持ちなど)が満たされないことも連なる軸(視床下部ー下垂体ー副腎)を活性化させる、と。そして、そうした精神的な欲求が達成されるとストレス反応は終わると。

ちなみに、この軸が活性化されて血中に放出されるのが通称ストレスホルモンと呼ばれるコルチゾール。そして、コルチゾールは唾液を使って簡単に測定できるようです。

ただし、「ストレスホルモン」なんて名前だと何だか悪いヤツというか放出されない方がいいんじゃないか、という連想をしがちですが、逆にストレス時に身体を活性化させて身を守ろうとする役割を担っているようです。

【参考】ストレスに反応するコルチゾールは敵か味方か(毎日新聞

前回、前々回コラムの図でも、[赤エリア]の危機状態(闘争、逃走モード)時は、ノルアドレナリンが分泌されて身体能力UPするけど激しくエネルギー消費する状態であることに触れました。

喪失体験時には、コルチゾールがたくさん分泌されるようです。つまり喪失体験は、非常にストレスフルで生理的には危機状態と感じているという事。

喪失体験を「ストレス」「ホルモン」の切り口で捉えるとこんな感じになるのかな、と。


■コメント

率直に思うのは、まさに施設入所や措置変更は、
「不安」「情報の欠如」「主導権の喪失」
のストレスを招く要素の三拍子が完璧に揃っているよなぁ、と。

支援者の中には、「安全な環境で…」と家庭分離や施設変更をゴリ押しする人や、「動機付け」とか言って本人のやる気をうんぬんとか言う人がいるんですけど、基本的には施設入所や措置変更がライフイベントの中でもかなりトレスフルな出来事と言う大前提、本人目線の体験を想像することがおざなりになっていないかな、と思うことがあります。

社会的養護(里親・施設)に行く子というのは、現実状況的に「行かざるを得ない」「家には戻れない」ことが実際はほとんどだと思います。

しかし「肉を切らせて骨を断つ」ではないですけど、本人目線では喪失という痛み・ストレスを伴わない里親委託・施設入所・措置変更は有り得ないと思います。「家に帰りたくない」という子ですら、友人や地域のつながりが切れてしまうわけですし、家族全員の全てが嫌なわけではないハズなので。

なので、なるべくその時の喪失ダメージをその時に手当てしたり、傷口を最小限に留める努力が必要だろうと思うのです。

具体的に言うと、次の生活場所について、言葉だけじゃなく視覚や体験も利用した(見学や慣らし保育)丁寧な説明をしたり、「行きたくない」と言う気持ちも言ってもいい安心感やわかってくれるはずという関係作り。そして、悲しい寂しい気持ちの言語化や共有をするプロセスやりとりが出来るかどうか。

子どもが「行きたくない」と言っても施設に行かないといけない状況は現実的にありますから、タイムリミットがある中で「不安」「情報の欠如」「主導権の喪失」という要素を0%には出来ないにしろどこまで解消してあげられるか。

特に「主導権」については見解が割れる所だと思いますが、僕自身は施設入所措置変更という結論(着地点)は変えられないにしても、そこに至るプロセスやスピードは可能な限り本人の意向を確認し取り入れたいと思っています。もちろん「伸ばせても◯◯まで」なんて限界設定はしますけど。

どうしても大人側に余裕がないと「ここしか行く所がない」「とにかく頑張れ」という励まし動機付けと言う名の「押し付け」なりがちと思います。

しかしながら、勝負所は、子どもの喪失に対する(当たり前の)ネガティヴな感情を受け止めながらも、いかに大人が考える「子どもにとっての最善の利益」のストーリーを語ってあげられるか、だと思うんです。

『このままだと、こうなる事が心配』
『こんな気持ちで日々の生活を送ってほしい』
『将来こんな風になって欲しい』

など。この支援者の想い」が「重い押し付け」になるかどうかは想いを伝える前にどれだけ相手の話を聞いているか。最低でもトントン社会的養護に行くレベルの子は10倍は聞いて受け止めて、その1/10聞いてもらえれば御の字ですかね。

その時は表面上「は?何言ってんの?」的な反応だったとしても、自分の事にしっかりと関心を向けて、真剣に考え心配してしてくれた人がいた、という経験の積み重ねは、数年後に必ずジワジワ効いてきます。

この喜怒哀楽ポジティブ/ネガティヴ感情リアルタイムで満遍なく扱っておくことは、マッサージにも似てるな、と思います。


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例えば、肩でも背中でもいいんですけど「コリ」って放っておくと「シコリ」になりすよね。そして、シコリを抱えていると身体が重かったり痛かったりして、可動域が狭くなって自由が効かなくなるじゃないですか。

僕も椎間板ヘルニアで腰が悪くて鍼灸に通っているというのは以前コラム(【第18回】「cure」と「care」の違い)に書きましたが、
やっぱりシコリ」を押されると痛い。

それを、触診して状態確かめて、温タオルで温めたり針を打ったりして解(ほぐ)して、最終的には手でマッサージしてもらいます。丁寧なプロセスを経ても痛い場所は痛い

でも、「この先生がやるなら間違いない」「この後の生活は楽になる」という信頼や見通し、実感があるから通い続けるわけです。

しかし本来なら、普段から姿勢や日常生活を整えて、適度な運動とウォーミングアップ・クールダウン、そうでなくても入浴後にストレッチをして、自分で出来るセルフケアをして身体をほぐして状態をキープ出来れば、言い換えれば自分の身体を大切にする時間と習慣を作ればそもそも鍼灸に通う必要はないわけです。


個人的にはこの関係と「未完の感情」「あいまいな喪失」は似ている気がします。

その場その場で、その時に自分の中で沸き起こる「喜怒哀楽」の感情を抑え込まないといけない場面が続くと、それは感情の「コリ」となり、やがて「シコリ」となります。

シコリ」にまでなってしまうと、解すのにも痛みを伴う場合がありますが、「コリ」段階で適度に揉んでもらえば気持ちよく癒される。気持ちの共感です。

ネガティヴ感情=「何でもトラウマ」と単純に考えてしまう人もいるようですが、そうではない。トラウマは安全感が脅かされる「恐怖」体験なので、トラウマ治療は認知的身体的な恐怖反応を「もう大丈夫」と取り除いてあげるとになります。なので今が安全で大丈夫でない人にトラウマ治療やっても「焼け石に水」です。

対して、喪失の悲嘆(グリーフ)によ「怒り」「哀しみ」は、もちろん体内にはコルチゾールノルアドレナリンが分泌されているとは思いますが、安全安心な環境や関係性の中で、話を聞いてもらって共感してペースを合わせてもらって「幸福ホルモン」オキシトシンが分泌されば、赤ちゃんが泣き止むように徐々に癒され、落ち着きを取り戻せます。

例えば失恋した時に失恋ソングを聴くのも、悲嘆のプロセスや「わかってもらえる共感」に近いと思います。でも、恐怖体験した後に自ら「恐怖ソング」聴きませんよね。恐怖ソングって何だって感じですけど(苦笑)あえて言うなら、映画ジョーズのテーマとか?


イメージ的には、人生トータルの経験で、
  「自分が尊重され合わせてもらう」
                            >「自分が周囲に合わせる」
というバランスにならないと、人の話を聞いたり人の立場に立って物事考えるのは難しいかな、と。普通は、乳幼児期で「自分中心」を経験するわけですけど、社会的養護まで来る子はそうでない子が多いので。


LSWというと、どうしても[過去]の生い立ちを振り返ることに注目がいきがちですが、まずは生活場所の変更という喪失体験ストレスや変更後の生活を送る中で、まずはその時の感情を可能な限り取り扱って「シコリ」をなるべく残さない[現在]に配慮をすることが、まず大事だと思います

でも現実生活で何でもかんでも思った事を好きなように言っていたらトラブルだらけになりますから、やはり現実場面とは違い、思った事を自由に安心して語れる[非日常]的空間も用意してあげる。これがLSWに限らず、一般的な心理士・カウンセラー枠を作って果たそうとする役割なハズです

ただ、社会的養護の子どもも大人も、かなり曖昧なボーダレスな世界を生きていると思います。それは、そこにいる子どもたちが、そもそも境界(=自分のペースやスペース)を守ってもらえない生育歴を辿ってきていて、その集まりであるということです。

なので「枠を守れ/守らない」のやりとりではなく、まずは、自分のペースやスペースが尊重されて心地よい感覚を感じてもらう体験してもらうことから始めなければ「約束」は守ってもらえません。

なので、支援者はかなりの柔軟性を持ちつつブレない「軸」も持ち合わせているか試されると思います。ここで、相手をこちらの理屈に従わせるのではなく、可能な範囲で遊んで配慮できるかが、さっき触れた

自分の事にしっかりと関心を向けて、真剣に考え心配してしてくれた人がいた、という経験の積み重ねは、数年後に必ずジワジワ効いてきます」やつです。

なかなか普段、支援者たちが普段何気なくやっていることの意味意図を語り合う機会はないのではないでしょうか?

考え方は、職種や所属機関の立場によって違う事は当然で、その相手の立場に立って考える相互理解の姿勢がないばかりに連携がうまくいかない」というボヤキで終わることが多いような気がします。

子どもに「相手の立場に立って考える」ことを求める前に、まず大人たちが「相手の立場に立って考える姿」を見せる。子どもの目の前で、職員や関係機関とやりとりするわけじゃないですけど、その基本姿勢何気ない言葉の節々や非言語の仕草に知らず知らず出てしまうと思います。

いつ書いたんだか覚えてない自分メモの一部にこんな物が残ってしました。


ロス・バック
感情レベル3
自分の内部から発する主観的な体験。私たちがどう感じるか。怒り、喜び、恐れなどの心の状態と、それに伴うからだの感覚は意識れている。

感情レベル2
それを意識しているかどうかに関わらず、他者がそれを見てとった感情。ボディーランゲージによって伝えられる。言葉にならない信号、独特の行動様式、声の高低、動作、顔の表情、軽く触られること、何かをするタイミングや言葉と言葉のあいだの間の取り方によってさえ伝えられる。多くの場合、本人たちはそれを意識していない

感情レベル1
感情からの刺激によって起こる生理学的な変化。例えば、脅威に対する「闘争が逃走」反応をもたらす神経系、内分泌系、免疫系の活動。意識的にコントロールされたものではなく、外からは直接見ることができない。本人の自覚も感情の表現もなしに起こる場合もある。



子どもたちは本当に大人の姿をよく見ています。見られているな、と最近よく感じます

[感情レベル]で考えても、やはり支援者の自己知覚、自分の中で起こっていることへの「気づき」は不可欠でそれがあってようやく他者理解だな、つくづく思います。

子どもの支援順番も「まず自分を大切に」それから「相手のことも大切に」ですよね。

だから、大人も「まずは自分や家族を大切に」。その感情葛藤全てを抑圧して「相手のことも大切に」しようとしても、その苦しさ無理感が相手に伝わってしまっている。そう言う自覚は支援者として必要かな、と思います。

ではでは。