LSWのちょっとかゆいところに手が届く「まごのてblog」

静岡LSW勉強会の管理人によるコラム集

【第104回】LSWとバイプレーヤーズ

メンバーの皆さま

こんにちは。管理人です。

「令和」になりましたね。10連休のGWいかがお過ごしだったでしょうか?

僕はこれといった大きな予定を入れず、ダラダラ過ごしていまして、ホント仕事で朝起きるのが辛いです。(※連休でなかった方、スミマセン…)

ダラダラと行っても、息子(2歳)と公園に行ったり映画に行ったり、子守り疲れも若干…しかし、こんなに仕事もイベントもなしに、家族でじっくり過ごせる機会は滅多にないよなぁ、と。

どうやらGW明けに「仕事が嫌になって辞める」人が例年に増しているなんてニュースがあるようですが、日本人はもう少し上手い休み方というか「働き方改革」ならぬ「休み方改革」、オンオフの切り替えに対する意識変容や練習も必要かもなぁ、なんて思う連休でした。

そんなこんなで、ブログも1ヶ月放置してしまいましたが、休みモードが抜けきれない今回は、連休中にAmazon prime見ていたドラマから。


ドラマ24「バイプレーヤーズ〜もしも6人の名脇役がシェアハウスで暮らしたら〜」HP
https://www.tv-tokyo.co.jp/byplayers1/smp/


俳優:大杉漣さんが2018年2月に亡くなる直前に放送していたドラマとして有名ですよね。

ドラマとは言え、蓮さんの元気な姿見ると、未だに亡くなったなんて信じられず「また何かの作品に出演するんじゃないか」なんて思っちゃいます。

扱いたいのは、そんな心霊的な話ではなくて、ドラマの最後に2〜3分「バイプレトーク」という出演者6人が酒飲みながら"脇役"について語るみたいなコーナーがありまして。

50代60代の酔っ払いのオッサン達が、コタツや居酒屋でベロベロになりながら語るだけなんですけど、だからこそリアルで面白いんです。
光石研さんなんて、赤い顔でつまみ食いながらマジで一言もしゃべりませんしね 笑)

そして、ある話題がLSW的にもそうだよなと思うところがありまして。


それは脇役としての"役作り"の話し。


昔話しで、三國連太郎さんの役作りは凄かった、○○さんは「こんなに書くことある⁉︎」ってくらい台本に書き込んでいた、とか色々と言いながら

「で、みんなは、役作りどうしてるの?」
という投げかけ。

そうすると、名脇役たちが

「いや〜、結局、主役がどう活きるかだから、俺らが事前に役を固めすぎてもね」

「主役の人がどう役を作ってくるかなんて会うまで分からないわけだから、ある程度はイメージするけど、あとはその場のやりとりで対応するしか基本できないよね」

「ある舞台で殺陣のフリを完全に飛ばしちゃって、真田広之さんが『いいよ、適当に撃ってこい』って言ってくれて、殺陣ってこう来たらこう返すってだいたいはあるんだけど、完璧に合わせてくれるわけ。あの人の対応力は凄い」

なんて対話をするんですね。


LSWに限らないと思うんですけど、対人援助における主役は「クライエント」であって、支援者は「脇役=by player」だと僕は思うんです。

援助も支援も「サポート」なので、当たり前といえば当たり前ですけど。この立場、役割をわきまえておくって結構大事じゃないかなと思うんです。

主役にどう活き活きしてもらうのか。ただ、主役が映える作品というのは、それを支える名脇役や名スタッフの存在が欠かせません。

時々、その存在感ゆえに脇役が主役を食ってしまう作品も映画ドラマではありますが、対人援助でも支援者が主役を差し置いて前に出ようとする(アレコレ決めようとする)ことって、特に主体性や相談意欲の低いケースでは割とよく起こるように思います。

しかし、作品全体のある場面、局所的に脇役にスポットが当たることはあったとしても、それは主役や作品をより際立たせるための伏線的な演出や構成の一部に過ぎないと思うわけです。

6人の名バイプレーヤー方々も、俳優を志した時から脇役志望であったわけではないのですが、「芝居が好きだから」「役者という仕事が好きだから」、自分に与えられた仕事があるのであれば、その作品を作りたいと思う人のために一生懸命に頑張るだけ。

そんな風なやりとりもドラマ本編の中にあって、苦労の末にたどり着いた「脇役」としての職人的な生き方、考え方を随所に感じるんですよね。


話しは変わって、LSWにおいても、
「どう事実を伝えればいいのか?」
「いつ、やればいいんですか?」

等々の質問はよく挙げられるんですけれど、その質問や話しの主語が「支援者」から抜け出せない場合、それは支援者自身の「私はどうしたらいいのか?」という不安の言葉だと思うので、どんな準備をしたとしても、実際の場面では本人の気持ちに寄り添った「やりとり」にはなりにくいのではと想像します。

主役がどう感じるかは、その場でやりとりしてみないと結局はわからないわけで。冷静な場面でも相手の立場に立った視点で話ができない人に(上手く言語化できないけど素晴らしい対応をする人はいます)、リアルタイムのライブのやりとりで相手の機微な反応を感じ取った細かな対応は難しいだろうと思ってしまいます。

大人がどう伝えるか以上に、本人がどう受け止めるかが大事なわけなので。

「それを知ることを、本人は望んでいますか?」

「それを聞いたら(見たら)、本人はどう感じると思いますか?」

「事前事後の準備として、支援者として配慮できることはありますか?」

と、まず本人の気持ちや立場に寄り添って想いを馳せて考えて、それから自分が支援者として出来ることを考える他ないのかなぁ、と思います。

でも、大事なのは普段から何気ないことから本人視点に寄って「通じ合う」体験や関係性がないと、本人視点に寄れない(陰性感情から)とか、予想が大幅にズレるということが起きますよね。

逆に言えば、普段の些細なスレ違い、思い違いの積み重ねが、結果として関係性の大きな溝やこじれとなっていたりすることは珍しくないと思いますし、問題が表面化して困った時にはだいたいその状態になっている気がします。

やはり直接本人の言葉を聞き、様子を見ながら、対話の中で物事をプロセスって、相手の考えや気持ちを知ること、相手の想いや立場に思い馳せる体験のベースになりますから、LSWに限らず大事だろうなと思います。

名バイプレーヤー達が語る"脇役論"、そういう相手が自分の中で感じたり作り上げていることを、直接会ったやりとり対話の中で感じて、それに合わせて自分の役割を作っていくプロセスって、普段の臨床で行なっていること、そのものだよなって思いました。

それは準備なしの自分勝手なアドリブではなくて、一緒にいい作品を作るためのチームワーク、自分の役割を全うするプロフェッショナリズム、そして期待に応えるための事前準備や日々の稽古などなど。

決して本人達は表には出さないけど、不遇の時代や苦労を重ねているから出せる味、滲み出る雰囲気は絶対ありますよね。

主役ではないけれど、作品の中で唯一無二に輝く名バイプレーヤー。自分が50代60代になった時に、こんな格好いいオッサンになれたらいいなぁ、なんて思った今年のGWでした。

ではでは。