LSWのちょっとかゆいところに手が届く「まごのてblog」

静岡LSW勉強会の管理人によるコラム集

【第103回】ますれどうすろがず

メンバーの皆さま

お久しぶりです。管理人です。

約1ヶ月blog更新できませんでしたが、生きてます。元気です

3月末は、10月からの半年在学した大学の論文締切だったんですけど、年度末の仕事なんて調整できるハズもなく…。

通常業務の書類作成も自転車操業状態の中、
さらに通勤時間+夜な夜な論文を書く日々。

その物書きのプロセスで、紹介したい本や論文は山ほど見つけたんですけど、それはひとまず横に置いておいて。

今回はそんな日々から解放されて、ボッーと読んだ本の言葉がとても今の僕に染みました、という対談の紹介です。


【対談】 磨すれど磷(うすろ)がず
https://www.chichi.co.jp/info/chichi/pickup_article/2019/04_kuma_kuriyama/
致知2019年4月号)

題名のように全部ひらがなにしてもすんなり読めない題名ですが、『論語』にある言葉のようでして、

(意味)
堅いものは、いくら磨いても薄くはならない。
→信念のある人は、どのような環境におかれても、くじけたり駄目になってしまうことはない。

ということみたいです。染みた言葉はこれではなくて(読み方すらわかりませんでしたから)。


対談者、
「建築家・隈研吾」×「日ハム・栗山英樹監督」

の話し。もはや説明不要なお二人かと思いますが、

東京オリンピックパラリンピックで注目を集める「新国立競技場」の設計に携わる建築家

と、

世界から注目を集める野球選手「大谷翔平」を二刀流として育てた野球監督


そんなお二人の対談を読めば読むほど、僕が半年間あーでもない、こーでもないと悩んで書いた「多職種多機関連携」のキモが、実にシンプルに体験談で語られている。

ストーリーの持つ力は偉大だなと思うと同時に、やはり分野を越えて大事なことは共通するんだなぁ、僕が感じていることは間違ってなかったんだなぁ、と勝手に励まされた気がしたんです。


例えば、

新国立競技場みたいな建物を作るには、設計・工事監理、施工それぞれ大小のチームが混ざり合う何千人規模の「巨大チーム」が力を合わせないといけない。

数多くの有名建築を手がけてきた隈研吾が今回最も心掛けてきたもの。

それは、簡単に言うと『仲よくする』ことだと。


もう少し詳しく紹介すると、

〜設計者、建築家と呼ばれる人は、割合に威張っている人が多くて、そうなると周囲は言いたいことも言ってくれなくなる。だけど、問題があったらきちんと指摘してもらうのはすごく大事なことですよね。普段からそういう空気を作っておけば「こんな問題が起きているから、皆で知恵を出して解決しよう」という話が自ずと生まれてくるんです。

〜逆方向の意見を言いやすい雰囲気を作っておくことが大事だと思うんです。「この人になら、何を言っても怒られないぞ」という空気感ですね。というのも、僕自身が何かを見落としたり、見誤ったりしていることだってあるわけでしょう?それを指摘してもらえる雰囲気を作っておくことが、最終的にはプロジェクトの成功に繋がるわけですから。


このチームワークに関するくだりは、以前のコラムで取り上げたGoogleの研究結果とか、相互性を大切にするチームワークの「インターモデル」「トランスモデル」と言ってる事と驚く事にほぼ同じなんですよね。

参考1)心理的安全性とLSW
http://lswshizuoka.hatenadiary.jp/entry/2018/11/07/080941

参考2)職種による「チームワーク」の認識差
http://lswshizuoka.hatenadiary.jp/entry/2018/11/30/084109


特に「設計者、建築家と呼ばれる人は、割合に威張っている人が多くて」と言うのは、建築の世界もそうなんだと。

これを児童福祉の世界に置き換えると、医者、心理士、ベテラン職員なんかは要注意ですよね。現場で実際に子育てするのは「保護者」や「ケアワーカー」なのに、自分の言っているアセスメントや見立てなんて間違っているかもしれないのに、周囲が何も言えなくなっちゃう雰囲気になってたら、ちょっと危険

僕も気をつけてはいても、知らず知らずそんな雰囲気になっているという時があって、そんな時に自分の至らなさを痛感します。もっと現場で感じている感覚を大事に話を聞かないといけない。過去に自分がされて嫌だった事を無意識に繰り返している。

児童虐待の世代間連鎖もまさにそうだと思うんです。自分では、そのつもりがなくても、体験が持つ影響力の大きさと言いますか、「習慣が大事」なんて何事にも言われますけど、日々の積み重ねによって身体に染み付いたものは、そう簡単に変えられない。

だからこそ、他の人の助けも必要ですし、「日頃の行いが…」なんて言うのもあながち間違っていないよな、なんてアラフォーになってようやく身に染みて思うわけです。そして習慣って行いだけではなくて、思考・発想も含まれますよね。


なので、大人になっても謙虚な心と学ぶ姿勢が必要。とわかってはいるけど、もう忙し過ぎて「時間」も「余裕」もないし、疲れ果てて「気力・体力・エネルギー」が湧いてこないというのが現実ではないでしょうか。

でも、これはまた保護者や子どもが抱えている現実の状態とも言えると思います。ある意味、寄り添おうとするから似たような世界を体験している。それを知りながら支援者として何を考え、何ができるか…


というようなことを読みながら考えていた時に、目に飛び込んで来隈研吾の言葉。


〜野球も建築も「いつまでに」という期限がありますよね。僕は人間にこの期限があるのはとても幸せなことだと思うんです。制限時間の中で結果を出さなくてはいけない以上、どこかで迷いを断ち切る必要もある。ここが建築家とアーティストとの大きな違いです。「限界の中で最善を尽くす」という点では、建築はむしろスポーツに似ているとさえ思います。


期限があるのは幸せなこと。なるほど。

確かに、今回の論文作成も3月末という期限があったから、ラストスパートでギアを上げて形に出来たなと。何回か徹夜に近い日もありましたし。

だけれども、最終的には当初考えていた内容の半分くらいしか実は書けていない。それは、制限時間の中でやる必要があったから、次年度に持ち越すことが許されないものだったから。

でも期限があったから「迷いを断ち切って」「無駄を削ぎ落として」「いい意味で割り切って」完全体ではないけれど、とりあえずの形にして、一区切りつけることが出来たわけです。

100を目指した結果、何も成果が残せなくて0になるのは本末転倒ですし、30でも40でも残して土台を作ることが次にバトンを繫ぐことになります。一人で全てをやることは不可能なので。

この時間で区切る、全てを背負わず人の助けを求める、役割として出来る限界の中で最善をつくすというバランス感覚は、対人援助、特に児童福祉やLSWにおいて非常に重要だと思っています。

理想はありながらも現実との折り合いをつける。
そんな話しを最後に紹介。


建築学科の学生ってどこかマニアっぽいところがあるんですよね。建築オタクなんですよ。建築雑誌を見ることしか楽しみがないような学生もいますが、建築は人間が使うものだから、人間が分かっていないといい建築はつくることができない。

〜建築写真を見て格好いいとか悪いとか言うのは建築学科の学生だけで、ほとんどのユーザーが重んじるのは「この空間にいると気持ちがいい」「癒やされる」という感覚です。

〜偉いボスが「建築は美が大事だ」とばかり言っていたら、スタッフは安全性よりも見かけの美しさを優先することになりかねない。実際そういう組織が多い。…理想を唱えるのも大切だけど、現実はこうだということもしっかりと伝えるのがボスとしての役割だと思っています。


建築マニア、建築オタク。

僕もLSWマニアと呼ばれたことがありますけど、やっぱり専門家って呼ばれる人って、「マニア」「オタク」的な要素は絶対あると思うんですよね。人生の大半の時間をそこに注ぎ込んでいるわけですから。

こだわりだって強い。じゃないと、そんなに一つのことにハマれないと思うんです。癖だって強いし、普通の範囲を超えているから専門家なんだと思うわけです。


ただ隈研吾は、建築は自己満足ではなく、使う人の為なんだから、使う人が「いい」と思うモノを作らないと、ユーザーファーストにならないと「いい建築」にはならないと言っている。

確かに、王様が自分の権力を示すための建築なら自分の理想に向かって妥協なき投資をしたらいい。でも報酬を頂く仕事をするということは、依頼主があって、サービスを受ける人があって、対価を支払う契約があって初めて成り立つものですよね。


〜人間が生活する上で建築はもちろん大事だけど、一方では環境問題もあるし、建築は税金の無駄遣いという批判もある。目の前の仕事にばかり目を奪われず、そのような問題にもしっかりと目を向けて、自分自身を醒めた目で、ちょっと突き放して見てみる。この視点はこれからの建築家には特に必要になってくると思います。


日本の医療や福祉サービスは、その対価の多くは目の前の人から貰うでなく、税金によって支払われるシステムになっていますから、建築の話しはホントそのまま当てはまるよな、と思います。

ということで、特に児童福祉は、偉いボスが「安全第一だ」と言って、家庭分離を躊躇わず、虐待してる親の逮捕も躊躇わず、という強化プランがガンガン打ち出されているわけですが、これってどうなるかなと。

現場が建築オタクにみたいに理想ばかり言ってきる集団であれば、現実を伝えてバランスをとらせる必要がある。

しかし、現場は若手職員で溢れていて、じっくり一つのケースの理想の支援なんて考える暇なんてない程に現実的な対応に追われている。

そうする中で、現実的で効率的な思考がさらに強化されると「理想を考える」プロセスがどんどん省かれていく。

思考を振り子のように、いったん理想まで振って現実に戻すから、ちょうど良い着地点が探せるわけで。最初から現実しか見えてないと「どうせ出来ないから」「やらないアイツが悪い」で検討が終了してしまうことって、割とあると思います。

でも、それって何の専門家が言うことかと。

少なくとも児童福祉の理念は「子どもの健全な成長」ですから、児童福祉の専門家というのは「子どもの成長」を支援するプロフェッショナルなんですよね。

100が見えている人は、たとえ今は30か40の道半ばでも、こうすれば50、60と少しずつ100に近づく道すじや方法を模索できると思うんです。

しかし、もう出来ることは30でおしまいと考えている人に、31の世界は見えてこないんですよね。自分の殻や限界を自分で決めてしまって、実際できるのはせいぜいその半分くらいで。

こういう理想と現実のせめぎ合いのやり取りは、LSWを実施しようとする際に、支援者同士での衝突の原因となることが多いと思います。

でも、相手が子どもだったら、子どもの持っている可能性を最大限に伸ばすなら、どんな関わりどんな声掛けをしますか。「将来のことなんて」「どうせ私なんて…」と思う子どもにどうアプローチするか。

支援者同士も似たような関係性が起こるわけです。なかなか変化の見えない保護者や子どもに対応に疲弊すると、支援者自身が自信を失くし、前向きに考える意欲がなくなってくる。もしかしたら、そうかもしれないという視点を持ったら、支援者は聴く姿勢や掛ける言葉をどうするのがよいか。

人間を分かった上でサービスを提供するって、そういう事なんじゃないかな、隈研吾の建築に対する考え方とさほど変わらないよなと思ったんですよね。

なので人間を知るために、専門家であればある程、他の世界を知る、他の人がどのように感じているかを学ぶ、自分の専門外のことは他人から学ぶ。そういう学び合いや相互理解のプロセスを体験することってとても大事だと思うんです。

良いものができていくのは、建築でもスポーツでも対人援助でも似てるんじゃないかなと。

そういう事を「多職種多機関連携」の研究として僕はまとめたかったんですけど、経験豊富な人のストーリーの方が断然わかりやすし、心に響きますね。やっぱり世に出る人というのは言葉の表現も洗練されているよな、と。


そういう意味では、今回全然紹介できなかったし栗山監督は、自分は選手として一流でもないし、監督の経験もないから、自分より知っている人の意見をたくさん聴きながら自分自身が成長しなくてはいけない、と謙虚な姿勢を持ち続けています。

「僕を監督にするなんて僕ならしない」と言いながら、そのキャスター時代に色んな人の話を聞く経験があったから今があるなんて語りを聞くと、おそらく人から話を引き出す力、安心させる人間性ストーリーをプラスに転換して伝える力、その辺りを見抜いて抜擢した人がいるんですよね。

栗山監督は、チームの結果が出ないときは「私の責任です」と徹底して選手を守る監督だよなと言うのが僕のイメージなんですが、きっと栗山監督も「責任は私が取るから」という方から監督を頼まれたのではないかなと想像します。

日本ハムファイターズは、いまや「あそこでやれば成長できる」と思わせる組織イメージが完全に定着した感がありますが、それは監督自身が監督として成長し続ける、選手の成長を応援するという強い信念を持ち、その姿勢を選手が学びながらチャレンジする、そんな組織になっているのではないかなと。


つまりは、相手も自分も尊重され大切にされて、共に歩み、共に成長する関係性。

子どもを育てるということは、子どもを育てる親も親として、支援者も支援者として共に育つことなんだろうなと僕は思うのですが、真の意味で共有したり定着させるには手間も時間もかかりますね。

ちょっとでも伝え方、共有の仕方が上達するように、これからも他分野を学び、組織を学び、人についてもっともっと広く学ばないといけないなと、対談を読んで改めて思いました。


そんな感じで、令和元年になる今年もボチボチblogアップしていこうと思います。

今年度もよろしくお願いします。


ではでは。