LSWのちょっとかゆいところに手が届く「まごのてblog」

静岡LSW勉強会の管理人によるコラム集

【第44回】水戸と「ひよっこ」とLSW

メンバーの皆さま
 
こんにちは。管理人です。
 
先ほど「LSW全国交流会@水戸」が終わりまして、ただ今、大型台風と正面衝突するような方向で静岡に帰っています。無事帰れるといいんですが…
 
全国交流会は今年も興味深い内容でしたが、それを書いてしまうと静岡LSW勉強会で話すネタが無くなってしまうので、それはいったん置いておきながらも、せっかく水戸に来たので、今回は茨城にちなんだこの記事から。
 
 

ひよっこ』医療監修者に聞く、あの感動の精神医学的なメッセージ

 
NHK朝の連続テレビ小説ひよっこ」。9月に放送が終わった時には「ひよっこロス(Loss=喪失)」と言う言葉が出るほどのヒット作でしたよね。
 
我が家では、妻(と息子:7ヶ月ですがオープニングが好きな様子)が観ていたのですが、僕は土曜日の再放送を、断片的に眺める程度でした。
 
妻から時々「〇〇ちゃんと△△さんがいい感じになって来た」とか報告されるんですけど、ストーリーは全然わかんないので、地元の誰それさんの息子が結婚して「良かったねぇ」みたいな感じで聞いてたんです。
 
そしたら昨日、水戸に向かっている時に上の記事を見て、「え、ひよっこって舞台が茨城で、父が記憶喪失の話だったんだ」と、今更ながらストーリーを掴めたと共に、急にLSWと結びついてしまいまして。
 
父の記憶喪失って、主人公みね子にとっては、まさにコラムで取り上げた「あいまいな喪失」体験ですよね。
 
そして記事の中で、“医療監修者”分子生物学者にして精神科医という異色の研究者・糸川昌成氏の話は、今コラムで扱っている細胞や遺伝子の記憶と非常に近しいものがあります。
 
〜糸川   人間の記憶には4種類ありまして、それぞれ脳の分担する場所が違うんです。そのなかの「エピソード記憶」というものは、脳の「海馬」という部分とその周辺が担当しています。いわゆる「昨日、友人とテニスをして帰りに映画を見た」といった生活史的な思い出とか、まさに私たちが普段「記憶」と言っているようなものです。今の田植えの話に関連するのは「手続き記憶」。これは自転車に乗れるとか、クロールで泳げるとか、カンナが引けるとか、運動機能についての記憶で、海馬とは全く違う場所に記憶として保存されているんです。ですから、田植え技術は「手続き記憶」として実の中に備わったままなので、自然と田んぼで体が動く。

――記憶を失っているはずなのに、なんで田植えはできるんだろうって、みんなが不思議そうにする場面があったように思いますが、これも医学的には正しいことだったんですね。

糸川 記憶はどこかで保たれているはずなんです。人間って分子レベルでいうとタンパク質の集合体なんですね。そのタンパク質は日々代謝され、食事で摂取するアミノ酸を再合成して作り替えられていますから、日々刻々と「私」というものは入れ替わっている。生物学的には一か月前の私と今日の私は別人間なんです。福岡伸一先生の言う「動的平衡」です。あるいは釈迦が言った「輪廻」というものが言い当てていることかもしれません。では、なぜ私は私と言えるのか。記憶が私を連続した個体として支えているからです。
 
 
この話は日常的な生活支援の大切さを、生物学的に言ってくれているのではないのかな、と。一時保護所に来て、規則正しい生活と健康的な食事をするだけでみるみる変化する子どもを時々見かけますが、分子やタンパク質レベルで見たら1ヶ月で別人間なんだと言うこと
 
でも一方で、記憶はどこかで保たれていて、田植えのような「手続き記憶」は記憶喪失でも忘れずに、言ってしまえば身体が覚えているとすれば、虐待で施設入所した児童の多くが経験してきた身体的な痛みを伴う恐怖体験というのは、頭で忘れていても身体が思い出して反応してしまう、なかなか忘れることは出来ないという事ですよね。
 
この辺りは、トラウマや身体志向アプローチの本を紹介する時に詳しく触れていきます。
 
 
記事の続きを紹介をすると、
――「悲しい出来事に、幸せな出会いが勝ったんだよ」というセリフが『ひよっこ』にありましたが、悲しい記憶を幸せな記憶によって克服するということはあるんでしょうか。

糸川 僕の専門である精神医学の世界では、疾患の原因になる出来事が「転落」や「挫折」ではなかったんだ、とストーリーをアップデートする作業も必要なんです。たとえば順調に仕事をしてきたサラリーマンが、急病で倒れて出世の道を諦めなければならなくなったと。単純にはこれ、挫折であり不運としか言いようのない事故だと思うんですが、もしそのおかげで家族との時間が増え、人生が本人も思いがけない形で充実したのだとしたらどうでしょう。急病のおかげで家族が取り戻せた、というストーリーにアップデートされるわけです。都合がいいと思う人がいるかもしれませんが、人生の急転はそういう「意味あるストーリー」として語れるようにならないと、逆にいろんな精神的症状が出てしまいがちです。たとえそれが楽観的すぎると思われても、悲しい出来事に幸せが勝てる物語は、人間にとって必要なものなんです。
 
 
と語られています。LSWで意図している過去ー現在ー未来をつなげる支援、未来に向けたナラティヴ的な支援、そのベースになる現在の日常生活を支える重要性は、もはや社会的養護(施設や里親)という枠を超えて、人生や生き方を支える対人支援として共通したものであるんだろうなぁ、と。
 
今年の交流会は、いろんな方々の話を聞いたり、語り合ったりする中で、割とこんな話の流れになることが多かった印象で、改めてLSWの広さというか深さを感じるような二日間でした。
 
ちなみに、昨夜の夜中1時頃にラーメン、焼きチャーシュー、ライスの暴食したにも関わらず、お腹具合は行きと違い穏やかに帰れました。美味しかったし、良かった良かった。
 
ではでは。