【第88回】ベビザらスで見つけた「男の育児」
メンバーの皆さま
こんにちは。管理人です。
この前の日曜日、はじめて「ベビザらス」に行きました。 1歳3ヶ月の息子を連れて。
「ベビザらス」は、その名の通り「トイザらス」の赤ちゃん版・ 拡張版って感じで、普通のトイザらスのフロアに併設されている、 オムツとかベビーカーとかアンパンマンラーメンという謎のメニュ ー(笑)とか、とにかく0歳以降の乳幼児用品なら何でも揃うぜ! 的な感じのお店です。
オモチャ屋さんなんて何年振り?いや何十年振り? 最後に行ったの何歳と時かな? というくらい久しぶりだったのですが、
いや〜、面白かったです!
最新のオモチャとか幼児イスとか、こんな感じになってるのかと。 シーズン推しの家庭用プールなんて、 屋根付きの家みたいなやつとかスベリ台付きのやつとか、 知らないうちにビニールプールがめちゃめちゃ進化してる。
やはり実物を見て、触って、感じると全然違いますね。
実際にそんなプールは大きすぎるので買わないんですけど、 想像しただけでワクワク楽しい気持ちになりましたし。
そして、気を付けないといけないのは、 実際に足を運ぶって渋滞とかあるし面倒くさいんですけど、 ネットやTVで生活が便利になる世界で生きていると、この様な「 五感」を使って感じる場は、 どんどん減っていってしまいますよね。
なんて思ってたら、 出口付近で面白そうなフリーペーパーを見つけたので、 本題はソレから。
「村田諒太選手」好きなんですよね。フリーマガジンだし、 ついつい手に取ってしまいました。
雑誌の8〜9割は抱っこ紐とかベビーカーの宣伝なんですけど、 合間合間に入っているインタビュー記事がなかなか面白い。
今回は紹介する記事は、この3つ(タイトルは管理人アレンジ)。
①村田諒太のコーチ体験と子育て観
②育休リアル語り人「うがえり」さん
③子どもとの対話とアクティブラーニング
話題を欲張って3つも書くもんだから、 少々長くなってしまいました。時間がある時に眺めてください。
■村田諒太(プロボクサー)
「子供の夢に親の口出し無用」
で、 現役引退後も母校の東洋大学の大学職員をしながら大学ボクシング 部のコーチを続けるわけなんですけど、 2009年に不祥事で部が活動停止になったと。 今のレスリングやアメフトみたいな報道のはされてないですけど、 そうだったようです。
その時、 自分でやると決めてボクシングをやっている子は大学外で練習でき る道をなんとか探したと。一方、親にやらされていたり、 親の口出しが多い子はチャンスとばかりに「部を辞めよう」 としたと。
そういう子が何か失敗した時の言い訳は、
「俺はこんな人生を歩みたくなかった」
ですからね、と。
そんな経験もあり、村田選手は子育てにおいて、
・物事を嫌いならないようにサポートすること
・親が子どもの世界に入り過ぎないようにすること
この2つは常に意識している、と。
これはLSW的にかなり考えさせられる話しですよね。
そして、この不祥事を機に現役復帰した村田選手にとっても「 自身の在り方」 について深く考えさせられる出来事だったのではないでしょうか。
その後の金メダル獲得、プロ転向、 世界チャンピオンと駆け上がる村田選手の活躍は皆さん、 ご存知の通りですが、 数々のインタビューで見られる自分を飾らない姿勢、 自分の弱さを隠さずに向き合う姿勢、 ブレないメンタルの一端を垣間見たインタビューでした。
次に紹介するのは、この人。
■魚返洋平(電通コピーライター)
「うがえり」さん、と読むそうです。珍しい苗字ですよね。 あの過労死ニュースで記憶に新しい広告会社「電通」 のコピーライターさんで、「育休リアル語り人」として、 半年間の育児休業についてのこんなコラムを連載されている方です 。
電通報「男コピーライター、育休を取る。」
雑誌はこのコラムの短縮版・ ダイジェスト版という感じでなんですが、 さすがコピーライターだけあって言葉遣いがキャッチーで面白い。
例えば、「いきなり結論!」と吹き出しがついたタイトル
『育児は当たり前にできない!
夫婦ですることでより絆が深まる』
が一番に目に付くところあって、0〜 3ヶ月の育児のリアル24時間の細切れタイムスケジュールが表に してあったり、想定外の反射的な対応に追われてばかり「き、 キツすぎる…」 と無力感にさいなまれる日々がセキララに綴られています。
そんな過酷さの中、夫婦で同じ景色を見られたことで、 部活でハードな練習を共に耐えたような強い仲間意識や絆がうまれ 、感覚を共有できる夫婦の共通言語がたくさんできた、と。
これってリアルな生活場面での「プロセスの共有」や「 共に変化にすること」についてのわかりやすい例だと思います。 対話は言葉のやりとりだけではなくて、 非言語のやりとりや体験の共有によって深まることの実例かと思い ます。
内容もさる事ながら、その表現力や言葉選び、 HPのデザインといった「見せる工夫・伝える工夫」 も非常に勉強になるなと思いました。
最後は、この人。
■宝槻泰伸(探求学舎代表)
「対話とは、未来のビジョンを一緒につくっていくプロセス」
「対話」「ビジョン」「プロセス」という言葉は、 この数年の僕のテーマ的なワードなので「お⁉︎」 となるわけです。
下の宣伝で、
〜FQ JAPAN雑誌版(500円)では、夢を見つける力の大切さや、 話題の「アクティブラーニング」について特集。 目からウロコの宝槻先生のインタビューは必見!
と書いてあるんですけど、貧乏性で500円が惜しいので、 ネットに上がっている別の対談を読ませていただきました。
【宝槻泰伸×矢萩邦彦】対談1「これからの教育を考える」~ 興味開発で想像力を育む探究型学習の可能性
最近コラムでも取り上げている「アクティブラーニング」は、 2020年に変わる学習指導要領の軸の1つになっていると思いま すが、そもそも「アクティブラーニングって何?」 という根本的な疑問について議論を深める対談になってます。
で、読み進めていくと、LSW的に「おやおや〜?」 と言う内容のオンパレードなんです。
インタビューの一部を抜粋すると、こんな感じ。
〜要は子どもに自分の人生を自分で決めて欲しいと思っているし、 自分の好きなことを見つけてチャレンジして欲しい
〜 好きなこと見つけてチャレンジするっていう子どもの将来に寄り添 おうとしたら、能力だけじゃ無理で、 その能力を何に使いたいかっていう、 自分がやりたいことを見つけるってプロセスが必要
〜つまり自分が何を知りたいのか、 何をやってみたいのかっていう興味の的を一緒に考えてあげる。 今まででいうと進路創造みたいな感じですね。そういう役割・ 機能をこれからの教育って持つ必要があると思ってるんです
〜自分が何者なのかをまず知ることが大事。「何がやりたいの?」 「分かりません」っていう子が多いんですよね。
〜まず何を学んでもらいたいかというと、「自分を知る」 ということと、「他者を理解する」ということ。話を聞いて、 理解して、共感して、「仲間を増やしていく」ということ。 その力が今後すごく大事になって行くだろうと思っているんですね 。
〜やっぱり「ワクワク」ってキーワードはすごく大事で、 学校がつまんないとか塾がつまんない子って、 すごくいっぱいいるわけじゃないですか。 それはすごく残念なことで、なんでつまんないのかっていうと、 絶対に教えてる方が面白くないと思ってることを教えてるんですよ 。
〜面白いドラマやストーリーっていうのを見つけてきて、 それを子どもたちにシェアするっていう。「どう、コレ。 ヤバくない?」みたいな。要するに映画見たときに、 興奮して友達に語りかけるような、 あんな感覚で自分は授業している。
あれ?
これってLSWで良く議論に上がるような、
「肯定的な未来の想像」
「自分とは何者か」
「アイデンティティの確立」
「ストーリーをシェアする」
「対話を通して関係を作る」
という話題とほぼほぼ重なってますよね。
このインタビューでは、 これまでの紋切り型の進路指導をバッサリ切っていますが、 これは決して笑えない話しで、 社会的養護における自立支援でも同じことが起こっていると思うん ですよね。
もうこうするしかないから、これで頑張れみたいな。 確かに現実はそうかもしれないけど、そこに至るまでに、 本人の自己理解や状況理解を深めて「未来のビジョン」 を共に創りあげる対話がどれほどなされてきたきたのか。
その選択・決断に至るまでの気持ちの整理、 意思決定のプロセス次第で、 その後の生活で本人が主観的に描くストーリーはまるで別物になる はず。ここまでやったなら、 そこまでやってくれたのなら仕方がないと、[過去〜 現在のプロセス]に気持ちに区切りがついて[未来] に気持ちが向けられるのか。
そして、それは「生き方」「在り方」を考えることだから、 1つの正解があるわけではないし、 答えのない不確実なものに耐えながら対話を続けることでしか自分 の納得する区切りの付け方や着地点は見えてこないと思います。
「アクティブラーニング」って、 1つ間違えると実習系の授業を増やして「あとは各々で感じろ!」 的な丸投げになる危険性も僕はあると思っています。アクティブ= 能動的ということなんでしょうけど、宝槻氏のいう「興味開発」 はされずに「興味を持つか持たないかは、あなた次第です!」 なんてことになりかねない。
そして、興味をそそるようなアプローチがあって、 その体験の後に「どう感じた?どう思う?」 という対話のやりとりを通じて自己理解や他者理解を深める作業が あって、はじめて深みが出るものだと個人的には思うし、 そうなると大人には対話を進める技術が求められるわけです。
議論や討論ではなく「対話」です。何か正しいとか、 誰が勝つ負けるではなくて、多様な価値観に気づいて認めて、 受け止め咀嚼する体験です。
こう言うような[興味を惹く力]+[聞く力」+[質問力]+[ ファシリテーション力]が、 LSWの支援者には必要だと思っていますし、 学校の先生はコレを子ども集団に対して一人でやることを求められ るわけですから、これは大変だと思います。
もちろん今までも対話を大切にしてくれている現場の先生はたくさ んいますけれど、 これまでの教育課程を受けてきた大人側のマインドと体制がいかに 変われるのか。 子どもよりも大人側が変われるかが問われていると思います。
教育界では、トップダウンで子どもも大人も一緒に変わって創り上げる対話プロセスの重要性が 打ち出されて、2020年に変革の年を迎えます。
医療では「オープンダイアローグ」が黒船のようにやってきて、服薬中心の医療にメスを入れるようなボトムアップの普及活動がじわじわ始まっています。
障害福祉では、当事者の自己決定、 意思決定が盛んに言われるようになってきています。
さて、児童福祉、社会的養護では、今後どんな文脈で「対話」 の重要性が共有されていくのでしょうか。
ニュースで取り上げられている東京の死亡事例を受けて、 さらなる虐待対応の強化、警察や他自治体との連携強化、 受け皿となる里親・施設の強化が、もともと「新しい養育ビジョン」で言われていたことを、総理から改めて打ち出され加速しそうな様相となっています。
その強化は、単なる虐待の事後対応の「取り締まり」「指導」 強化のみ方向性だけで語られるのではなく、 虐待しなくてもいい家族支援、子育て支援、 自立支援につながる十分な「相談」「支援」「対話」 ができる体制への強化につながって欲しいなと陰ながら思っています。
ではでは。
【第87回】オープンダイアローグ対話実践ガイドライン
メンバーの皆さま
こんにちは。管理人です。
突然ですが、
【第34回】「フィッシュボール」
で紹介した「金魚鉢」のような二重の輪になる話し合い形式を覚えているでしょうか?
そのコラムでは「リフレクティング」と言う対話技法の紹介や、最後に「オープンダイアローグについてはまたの機会に紹介します」なんて書いたのが昨年9月でした…。月日が流れるのは早いですね。
そんなこんなしているうちに、こんないい冊子が公開されるようになっていました。
それが表題のコレ、
(第1版 2018.3)
オープンダイアローグを広く普及するために作られた冊子で、「オープンダイアローグ・ネットワーク・ジャパンHP」からダウンロード可能です。
ここには、オープンダイアローグの基本的な考え方、そして対話技法である「リフレクティング」「フィッシュボール」等についての説明と練習ワークについて書かれています。
コレ本当にわかりやすいですし、何が良いって、文字が少なくて、冊子が薄い!
すぐに読めちゃいます。
ちゃんと広い普及を考えてる方は、読み手に最後まで読んでもらう配慮に富んでいて流石だなぁ、と思います。
「理解を共有すること、『これが答えだ』というものはなく、答えを一緒に作り上げていくこと、それが一つのプロセスにしか過ぎないということ」
ということで、この言葉だけでもLSWの考え方や実践と重なっていることが伝わるかと思います。
そして、オープンダイアローグは単なる技法ではなくて、「サービス提供システム」であり、その背景にある「世界観」でもあると。
世界観とか言われると、ちょっと仰々しく聞こえるかもしれませんが、ガイドラインに書かれていることは支援者としての基本的な心構えというか、対人援助とは、目の前の人との関わりの中で、何のために誰に何を提供しようとしているものなのか? 、そんな根本的な問いへの整理とそのトレーニング方法を示してくれている、そんな風に僕は受け取りました。
また、
〜オープンダイアローグの対話実践は医療機関に限らず、福祉や教育など、あらゆる対人支援の現場で応用することが可能です
ということで、もちろんLSWにおける対話において参考になる点が非常に多いですので、今回はガイドラインを感想メインに紹介したいと思います。
(詳細は是非ガイドラインを参照ください)
具体的なところで見ると、例えば、
[オープンダイアローグの7つの原則]
- 即時対応
- 社会的ネットワークの視点を持つ
- 柔軟性と機動性
- 責任を持つこと
- 心理的連続性
- 不確実性に耐える
- 対話主義
について、それぞれの項目の「考え方」だけでなく「まず目指すこと」という補足を合わせて書いてあります。それも、わずか数行でまとまっていて、初めて見る人でも明日からでも出来ること、やってみようと思える配慮を感じます。
ちなみに「まず目指すこと」の一部はこんな感じ。
〜ニーズに合わせてできるだけ即座に対応する
〜大切なつながりのある人はなるべく招く
〜今ある制度の中でできる工夫を何でも試す
〜異動等があっても、可能な限り誰か 1 人はチームに残って橋渡し役となる
これらはまさにLSW実践でも必要だし、実際にしていることかな、と思います。
また、最後の2つ「不確実性に耐える 」「対話主義」については、オープンダイアローグの根幹をなすものだから“当面の目標”を示すことはしなかったというメリハリのつけ方で、その内容は、
〜答えのない不確かな状況に耐える。
〜すぐに解決したくなる気持ちを手放す。
〜葛藤や相違があったとしても、その場にいる人々の多様な声を共存させ続ける。
〜対話を続ける中でこそ、そのクライアントと家族ならではの独自の道筋が見えてくる。
〜対話を続けることを目的とし、多様な声に耳を傾け続ける。解決はその先に現われるものである。
と、かなり本質的なもの。この内容は以前のコラムで取り上げた「あいまいな喪失」の話とかなり重なる部分が多いよなぁ、なんて読みながら思いました。
※【第11回〜第30回】あたりを参照ください。
それにしても「対話を続けることが目的」という言葉には心を射抜かれました。そうなんですよ。対話を続けられる=関係が途切れない、ということが本当に意味があることなんですよね。
特に、LSWを検討するような社会的養護に関わる児童は、生い立ちの中で居住地や養育者がコロコロ変わるような喪失体験を繰り返していますから
「特定の人との関係やりとりが続いていく」
そんな体験が人生に与える意味の大きさは言うまでもないと思います。
また、やりとりが続く中で、その人の考え方や価値観、またお互いの価値観の相違も見えてくる。それが対話だと思います。そのお互いが分かち合える部分もそうでない部分も両方あることを理解する、それを丁寧に聞いて共有していく相互理解のプロセスが信頼関係構築の第一歩だと、僕は思います。
そして、それは安全な場における安心感に包まれたオープンな対話の中で、言葉や表情のやりとりや空気感の共有があって、たとえ言葉にならないとしても相手の本音や真のニーズを感じ取ることができるんだと思います。
よく「アレが心配、コレが心配」と言って何とかしようと動きたがる人は少なくありませんが、最終的に当事者の意見や価値観が盛り込まれていない支援計画は一方的な支援の押し付けだと思うし、それは相手の主体性や問題解決のために考える力を育む経験を削いでいる可能性だってあります。
じゃあ、相手の「言いなり」になればいいのかということではなくて、考え方や価値観の違いを尊重した「対話を続けること」が大事。それは一方が一方を一方的な価値観で説得するのでなくて、双方向のコミュニケーション。
相手の考え方や心情を相互理解する「対話」のやりとりの中で、お互いが目標を共にした1つのチームとなり、チームとしての考え方や価値観を共に作っていくプロセスなんだと思います。
ということで、
「研修や指導のためのガイドライン(p.17)」
というページには、中堅〜ベテランには耳が痛い話が書かれています。
例えば、
■教える者と学ぶ者は対等の関係を保つべき。
■教える者が場の主導権を取り上げて、自分自身の専門的なやり方で「正解」を指し示したいという誘惑を感じたら 、それは治療においても研修においても、つまり 対話主義にとって危機的状況 であるということを意識する。
■教える者が「重要なこと」や「正しいと思われること」を学ぶ者にそのまま「教え」たいという誘惑に対しては、禁欲的であることが望ましい。
■あるメンバーの発言に不適切な傾向がある、あるいはミーティング全体が行きづまり停滞していると感じられた場合は、メタコミュニケーション、すなわち「対話についての対話」を試みる。
端的にいうと「教える側が偉そうに正論や知識をダラダラ語ることをやめろ」と言うことなんだろうと思います。概ね、その場の安全感や安心感が損なわれる時、だいたい相手の非言語的反応を無視して話し過ぎている、それは不安の表れか自己陶酔している場合が多いかと思います。
相手が話しをしたそうにしているのに一方的に長々話を続けたり、聞きたいのはその話ではないと表情で訴えている(場合によってはストレートに言葉で伝えても)のに、話し手が話しを辞めないことって思っている以上に多いし、ついついやってしまいがち。
そうではなくて、あくまで教える者と教わる者であっても双方向の対話が大切なんだと。僕はこれを「関係性の連鎖」とよく言うのですが、最終的には「保護者ー子」の間でして欲しいコミュニケーションを、まずは「支援者ー保護者」でその体験を提供して欲しいし、そうなるためには職場内や関係機関同士の「支援者ー支援者」関係でその体験を提供して欲しい。
相手の考え方や価値観を尊重した安全な対話です。支援者自身がそのような原体験がなければ、現場の最善の担当者が家族の大変さに寄り添って安全な対話の場を提供することなんて出来るわけないと思います。
特に「子ども」に接する時は注意が必要で、概ね子どもを教えたりコントロールしようとする関わりに大人は慣れ過ぎています。これは、前回コラムで言うと、理屈的な[左脳]での関わりです。
だいたい自分が他人から受けてきた扱いを、他の相手にしてしまう「関係性の連鎖」「関係性の再演」は起きてしまうもの、そのつもりが当人になくても。じゃあ、逆にそれを利用して「良い体験の伝言(シェア)ゲーム」にすればいいと言うのが僕の発想です。
良い体験とは、もちろん相手を尊重した安心な対話の[快]の体験はもちろんですが、実際に起きる不確実な事態や葛藤場面を抱えてながら安全を維持した対話を続けて相互理解やお互いのニーズを深める体験を共に作るという[不快→快]や安心のリカバリー体験も含みます。
ですので「リフレクティング・ワーク」(p.19)
の説明として、例えば、
▼話し手は 「今この瞬間に、心の中にある思いや身体に起きてきた反応」について話します。
▼聞き手は「話を聞いてどんな感覚が自分の中に生じたか」に注意を向けながら聞きます。
(その感覚をたよりに相手に応答するので、とても重要な作業になります)
▼お互いに「今この瞬間の自分自身」に注目しながら、話すと聞くを繰り返して思いをシェアしていきます。自分の思いが十分に受け止められたか、そのときにどんな感覚が生じたかについても後でお互いにシェアしてみてください。受け止めてもらうことで安心・安全な感覚が生まれると理想的です。
なんてことが書かれています。受け止めてもらうことで生まれる安心・安全な感覚 って、以前コラムで触れた、子育てにおける非言語的な応答や同調行動によってオキシトシン分泌が起こっている感覚に近いと思うんですよね。
そうなると、ワークで鍛えようとしていることは、相手の様子を伺って、非言語的な応答をするスキル。それは泣いている子どもを見て「何を感じているかな?」と察して、ニーズを満たしてあやすような応答、つまり情動調律(よしよし)に近い感覚。
それは[左脳]の理屈でアレコレ何を言おうと考えるのではなくて、その場や相手の「安全な感覚、安心感の揺れ・ズレ」を[右脳]つまり自分のこころや身体感覚の変化で感じ取って、それに適切に応答しながら、お互いの言語と非言語の対話によって場の安全、こころの安心のコントロールを取り戻していく敏感かつ繊細な感覚的共同作業だろう、と思います。
あと、オープンダイアローグにおいて場の安全を維持するシステムとして役立つなぁと実感していることとしては、「リフレクティング」ワークに象徴されるような三項関係を維持する、必ず第三者の中立的立場のファシリテーターがいるというのも。
◯⇆◯
◯↗︎
二項関係では対立した時に「責められている」と感じやすいし、就職面接みたいに複数人と対面していたら余計にそうです。視線も固定化しがちで感情を切り替えようと思っても、脳が切り替わらないのでコミュニケーションパターンを変化させるのってホント難しいと思うんです。
それを「ちょっと相談するので、聞いててください」と一旦ブレイクして、相談者の目の前で支援者同士が話し合う。
◯ ◯
⇅
◯
そうすると、相談者は一旦会話から離れて距離ができるし、[左脳]優位で視野が狭まっていた状態から、全体的な把握をする[右脳]が働いたり(カメラのズームを引くような感じ)、なんなら左右の会話の行き来を眺めるので、それが視線誘導につながって脳の偏りをほぐすような効果もあると思います。
そして、重要なのは、リフレクティングで話している内容も[左脳]的な理論や知識による解釈ではなくて、[右脳]的に感じたこと自分の中で起こった感覚・感情について語ること。その事によって、場の雰囲気やチャンネル全体が、あたまの思考中心ではなくて、自分のこころや身体の内側に注意が向いて内省を促すものに変化していくと思います。
そして、自身のこころや身体感覚の語りというのは、非常にオープンで包み隠していない印象を受けるというか、正直で誠実な語り、そこまで思ってる事を語っていいんだという安心感につながっているんだろうなと実体験から思います。
そんなオープンな感覚的なやりとりを磨く練習方法について、このガイドラインはわかりやすく説明してくれていますが、実は静岡LSW勉強会でコンセプトにしていて、「場の体験」で狙っていることはまさにこんな事だったりします。
なので、このようなガイドラインが出てくれると、非常に説明の参考になるし、正直助かりますね。
是非、ガイドライン参考にしてみてください。
ではでは。
【第86回】対人援助と「左脳右脳の使い方」
メンバーの皆さま
こんにちは。管理人です。
昨日、36歳の誕生日を迎えたのですが、驚くほど自分が40歳になるという実感が無いです…。気が付いたら、20後半の後輩が「え?8コ下⁉︎」という感じです。
今回紹介するのは、そんな僕にピッタリの記事から。
会話が弾まない原因は「脳の使い方」にある!
記事の内容は、歳を取ると若い人の話が聞けなくなる、と言うもの。
実感がないと言いながら、40近くになって来ると偉そうに物をいう機会も時々あって、内心では自分のことを「何様だ」と思うことがあります。(話を聞いてもらえない反面教師的な体験からの「気づき」かもしれません)
ホント、いつまでも子どもや若い人の話しを興味を持って耳を傾けられるオトナでいたいものです。
本題は、そんなボヤキではなくてですね。話が聞けなくなるのは[脳の使い方]にあると言うのが今回の話しです。
著者の加藤先生によると、学校教育やら受験やら就活やらで現代人の8割は左脳を使いすぎていて、論理や言語に偏ったアンバランスな「左脳グセ」「脳のゆがみ」が生じている、と。
詳しくは記事を参照いただいて、ざっくり言うと、人間の脳は[左脳]と[右脳]に分かれていて、主に、
[左脳]→言語・論理的な処理
[右脳]→感覚的なこと、映像系の処理
をするときに活発になると言われています。
記事内のエピソードで言うと、こんな感じ。
〜私は小児科医をしていました。診察で子どもと接する際にはそれ用のモードになります。「先生大大大好き!」「いい子ちゃんだねー」という会話が続くわけです。すると、診察後の看護師(成人女性)との会話にとても苦労します。そんなテンションで何時間も診察しているので、ナースセンターに戻って、モードを切り替えるのに時間がかかるわけです。脳が子どもと接する仕様になっているので、元に戻りにくくなっているのです。
〜その後、小児科の臨床を辞めて渡米しました。子どもと接する時間がなくなり、同世代の研究者と長時間過ごしました。あるとき突然子どもたちと接する機会があったのですが、なかなか、「いい子ちゃんだね~」というモードの言葉が出てきませんでした。前できていたことがまったくできなくなったわけです。
このエピソードは「右脳」と「左脳」の使い方やバランスの切り替えをわかりやすく説明してくれているなぁ、と思います。
「右脳」は感覚的なチャンネル。子どもとのコミュニケーションは感覚的なもの中心。非言語的な[表情][手振り・身振り]などを通じた感情・感覚的なやりとり。特に言葉が話せない赤ちゃんとのコミュニケーションはこの傾向が一層強くなる。愛着行動もそうですし、言葉が通じない外国人・赤ちゃん・ペットとの意思疎通のアレです。
一方、「左脳」は思考・論理的なチャンネル。大人のやりとり、特にビジネスの世界は思考・論理のやりとり中心と思います。文字情報の羅列を解読して理解することや合理的の説明がつくロジックに従った客観的判断が求められます。
しかし、実生活では、
「頭ではわかってるんだけど…」
「言葉じゃなくて誠意を見せろ」
なんて、論理と感情がつながらないと納得して行動に移せないなんて事は良くあります。
この[左脳]と[右脳]の使い方の偏り、つながり、二刀流は、これまでのコラム注目記事で触れている内容を[脳の使い方]という切り口で説明したものかな、と思います。
例えば、
【第48回】神田橋処方とLSW、より
・精神療法でいろいろ難しいことをいうのは全部、根本の外なんです。ちょっとマニアの世界。やはり精神療法というものも本当に治療である限りは、犬や猫にもできる部分が本質。人間にしかできないのは趣味の世界でしょう。
・考えすぎると、怪我が多くなるんです。心の怪我、考え方の怪我が。考えるのにも怪我があると僕は思うんです。
・僕が見てて、こいつ考え過ぎて怪我してやがるなって人がいっぱいいる。自分は頭がいいとか、考えることはすべていいことだと思い込んで、精神や肉体をおかしくしてしまっているんです。
【第18回】「cure」と「care」の違い、より
・「治療」「癒す」と訳される言葉に【heal】があります。語源はギリシャ語の【holos】「完全な姿(本来のあるべき姿に戻る)」だそうで、healに状態を表すthを付けて【health】「健康」になる、と。
・一つに繋がっている心身のバランスや流れの「偏り」や「滞り」を整えて、心身が本来の持っている健康的な状態に「調整」するのが、僕の【heal】イメージです。
と言った感じ。記録って、どうしても文字のやりとり中心になってしまうのですが、人間同士のやり取りは、その行間や文字に乗せた[非言語のやり取り]が同時進行で行われている。表情、言い方、雰囲気、間といった要素です。これらの読み取りや発信する時に使う脳は、感覚的なものを扱う[右脳]メインとなるわけです。
しかし、現実的な人とのやりとりの中では「右脳・左脳」は同時進行で稼働しているということ。当たり前といえば当たり前ですが。
そして、僕が思うこととして、対人援助の支援者に求められるスキルは「右脳」「左脳」のコミュニケーションの割合を、相手のニーズ(チャンネル)に合わせて調整・調律することだろうと思っています。
言葉にならない、言語化できないけど、相手が求めている応答・ニーズをいかに汲み取れるか。期待している応答が「知識・理解」を深める左脳的やりとりなのか、それとも赤ちゃんとの情動調律と呼ばれる「関係性・安心感」を深めるような非言語的よしよし、相手の状況を察して表情や音リズムで応答する右脳的で感覚的なやりとりなのか。一対一の関係構築、リアルな最前線の対人支援はこの使い分けに尽きると思います。
ただし、左右の脳をバランスよく使うって、そんなに簡単ではなさそうです。例えば、
自閉症に男子が多いのは?
(国立特別支援教育総合研究所HPより)
を参照いただきたいのですが、
〜脳の構造や機能に関する男女差については、まだ十分に確立された所見とはいえないものも多いので、留意することが必要
との但し書きがある上での話としてお読みください。
女性が男性より共感能力(EQ)が高いと言われていますが、それは女性が言語機能(左脳)を使う際に左右両方の脳を活動させるのに対して、男性は左半球を主に活動させることと関連しているのでは、という事です。
個人的には、女性が男性より感情豊かで、ある意味で感情に左右されやすい側面がある(感受性の諸刃の剣)と思っていますが、それは子育てに纏わる生物的機能の差なのでは、と思っています。赤ちゃんのアタッチメント形成、情緒的な成長には非言語的な感情的なやりとりは欠かせないものなので。
一般的に友人関係も、男子は単純なのでサッパリしているけど、女子はドロドロめんどくさいなんて言われますけど、コミュニケーションの優位なチャンネルの男女差による影響もあるんだろうなと。超頑固者アスペでも男性オジサンなら「まぁ、そう言うオヤジもいるよね」で済まされることもありますが、「女子」だとより際立つし、当の本人も苦労が多いのではと感じる事があります。相対的な周りとの比較から来る許容度の違いと言うか。
またASDや被虐待児は、この「脳梁」が縮小していると報告している研究もあります。これは現場感覚だと非常に腑に落ちて、ASD的な「文字通りの受け取り」「理屈へのこだわり」なんかは、被虐待経験があると、感情感覚をまともに「右脳」で受けたら身がもたないので、脳のつながりをシャットダウンして精神を守っていたんじゃないかと酷いケースでは感じる事があります。
逆に、支援者はこの状態を「利用」する事もあって、例えば「ブロークンレコード」と呼ばれる壊れたレコードのように同じ言葉を淡々と繰り返すという対応がありますが、あれは敢えて「右脳(非言語)」を切り離して「左脳(言葉)」のみで対応する事で、情緒的な刺激を加えない、相手の怒りに巻き込まれない事をしていると思うんです。
共感には「認知的共感」と「情動的共感」があると言われていますが、ブロークンレコードは表情模倣などによる身体レベルでの共感はせず、頭による状況把握はしている。状況把握は視覚による「観察」を伴いますから全く右脳を使ってない訳ではないんですけど、身体的な応答を切ることで感情リンクを制限している。
激おこプンプン丸に対峙すると、こちらの心臓もバクバクして来ますから、それまともに受けてたらコチラも怒れて攻撃的な対応になってしまうので。
大事なのは、それを意図的に「技」として選択しているのか、無意識に日常化してしまっているのか。そこに「主体性」があるのかです。
もし後者となると、日常的な脳の使い方は、左脳だけが活性化して、感覚的な右脳が全然働いておらずに、相手の表情や雰囲気と言ったものを察することが出来ていない状態。冒頭で述べた、
〜現代人の8割は左脳を使いすぎていて、論理や言語に偏ったアンバランスな「左脳グセ」「脳のゆがみ」が生じている
のさらに極端な状態かなと思うんです。もちろん「生物×育ち」のかけ算だとは思うんですが、LSWに限らず児童福祉の現場で出会うような、相手の気持ちを察するのが苦手な子どもや大人たちは、脳の左右の使い方やつながりはどうか?ということです。
そう考えると、左右両方(言葉・感覚)を同時にバランス良く使えている人たちは本当に少数派のように思います。
さらに、LSW的に言えば「過去ー現在ー未来」の時制を扱う時、左脳と右脳とどちらがより活性化しているのかな、と。
例えば、まず支援者(聞き手)の視点。
言葉が話せない赤ちゃんとのやりとりは基本的に「今ここ」で起きている感覚的な現象ですよね。お腹減ったとか眠いとかあれ触っちゃダメとか。その瞬間、子どもの内面で起こっている感覚や体験は、言葉ではなく大人側の視覚・聴覚・触覚・嗅覚・味覚といった五感で感じ取るものだと思います。これは、かなり「右脳的」な作業。
大人同士で言えば、食事をして「何これ⁉︎メッチャ美味い」と感動したり、スポーツやゲームをして一緒に驚いたり楽しんだりした気持ちは、言葉を使わなくたって表情や雰囲気で伝わるものですよね。しかし、ここに長々とウンチクが入ると脳の使い方が「左脳的」になってしまうわけです。
一方、「過去」や「未来」を題材にやりとりをする場合、それは目の前では起こっていない現象についての「会話」になりますから、言葉抜きにはイメージ共有が難しい。
現実では「あの時はこんなことがあって」「将来はこうなってたらいいな」など言葉での説明を試みますよね。聞き手がこの時、状況を理解するために使っているのは認知言語をメインで扱う「左脳」中心。
視点を変えて、当事者側に立つと…。
これまでLSWで感情面の語りも扱えたら治療的ということは何度か触れていますが、左脳と右脳のつながりが薄い人は、言語(左脳)によるやり取りだけでは、感覚(右脳)とつながりが強い「感情」にはリンクしにくい、ということが起こるだろうと。
と考えると、アルバムとか場所訪問は「感覚(右脳)」を刺激する方法だとは思うのですが、左脳と右脳のつながりが薄い人は、今度はその湧き起こる感覚を上手く言葉に変換できないという事が、LSW実施の現場で起こっていると思います。
その時、当事者は湧き起こっている感情は表情や音声などの非言語で表現されます(これすら薄い反応かもしれない)から、支援者は「右脳」でその変化を感じ取り、表情や声のトーンなどを相手に合わせ、非言語での「右脳的リターン」と共に、その感覚・感情を言語化ような「左脳的リターン」も必要に応じて行う。
LSWに限らないんですが、その人の感情を扱うという事はどっちかに偏っている左脳(言葉)と右脳(感覚)のバランスを整えて統合するような支援イメージを僕は持っています。
バランスを整えるという事は、支援側は左脳も右脳も両方使えないといけない。相手の得意なチャンネルを活用しつつ、相手の苦手な凝り固まったチャンネルを地道にほぐして耕していく。微細な反応をキャッチして相手が痛くない程度にやりとりしながら凝りをほぐしていく、高い感受性と細かい応答のアクセルワークが求められると思います。
左脳右脳なんて切り口にすると小難しい話に感じますが、非言語的なやりとりは情緒的交流と言われているもので、実は普通の子育て、普通のコミュニケーションで私たちが何気なく日常的に行なっていること。
それを、非言語的な応答・ラリーが苦手な人に対して、不器用なテニス初心者を相手にするように、乱暴な球でも追いついて、相手が打ちやすく返球をフォア・バック(右打ち・左打ち)バランス良くなるように丁寧に繰り返す。
そんな非言語的な応答やりとりが、オキシトシン分泌による身体レベルでの安心感につながり、右脳による感情・感覚の扱いや、左脳による理解・認知を促して、左脳右脳の使い方のバランスを整えたり、機能を回復したり、育てたりすることつながると思っています。
LSWで感情を扱うには、支援者自身が相手に合わせた脳の右打ち左打ちをバランス良くできないといけないと思いますし、そのためには自身の右脳⇆左脳のつながりが統合的に使える必要があるだろうと思います。
右脳による「なんとなくの感覚」を感じる感性を大事にしながら、「なんとなくで済まさず」左脳で意識的に言語化する。カメラの焦点を広くしたり絞ったりするように、右脳と左脳の機能を調節する。
「まごのてblog」は臨床感覚(右脳)→言語(左脳)に変換したり、本の内容(左脳)→日常感覚(右脳)に例えたりする自主練みたいな感じかなと書きながら、ふと思いました。
ではでは。
【第85回】主体性を育む幼児教育とは?
メンバーの皆さま
こんにちは。管理人です。
今回は、雑感的なコラムを。
先日、 近所の中型ショッピングモールみたいな行きつけのスーパーに買い 物に行った時の話しです。
妻が用を済ませる少しの間、ちょっとしたキッズコーナーで息子( 1歳2ヶ月)と時間潰してたんですね。
2×4m程しかないクッションスペースなんですけど、 お昼時のせいか他には親子1組しかおらず、 僕も一緒に入ってゴロゴロしてたんです。
「人見知り」真っ盛りの息子は、 数分間フリーズしてたんですけど、 慣れていつもの様子でバタバタ歩き回るようになったら、 しきりに壁に向かって「あー!あー!」って指差しするんです。
・2020年に教育が変わる
・何を知っているか(知識)+何ができるか
・思考力、判断力、表現力
・主体的に取り組む力
いつもは混んでいるので「なんか幼児教室あるなぁ〜」 くらいの認識だったんですけど、 気になってHP調べて見たんです。
そうしたら「脳育」的な内容もふんだんにあって、 小1プロブレムなんかにも触れられていて、 丁寧に動画紹介とかもされている。 しかも30年程の歴史があるらしい。
【参考】ドラキッズの特徴
で、さらに口コミを調べると、主に月謝8000円(週一月4回) という価格が争点になっていて、
●高い。一回休むともったいない。家でもできる内容。
◯他の幼児教室に比べたら安い。プロに育児の悩みを相談できる。 子どもから離れる時間ができて助かる。
なんて賛否の意見がそれぞれある。HP閲覧時は、 まぁ一回2000円なら高くないかなぁなんて正直こころが揺れた んですけど、ちょっと待てと。
(以下は、さらに管理人の主観ですので、そのつもりで)
・2020年に教育が変わる
って言うけど、小学校の指導要領が変わるから、
・思考力、判断力、表現力
・主体的に取り組む力
を育むの?
もちろんチラシには「これからは先が読めない社会になるから」 とも書かれていて、確かにそれはそうなんですけど、 そんな大変な世の中を生き抜くための
・思考力、判断力、表現力
・主体的に取り組む力
なの?
ビジネス的な理由をあることは承知してはいますが、 もう少しポジティブな理由付けはないのかなぁ、と。
一応、誤解の無いように言いますけど、 ドラキッズの理念や内容は、 自分の息子にも体験させたいと思うほど、 僕が大切と思うことと一致してます。
しかし僕が素朴に思ったのは、そのストーリーと、
ということ。
「家でもできる内容」「自分の家であるもので工夫してやります」 という口コミが本質を突いていて、 まさに子育てって本来そういう事なんだと思うんです。
子どもとの「遊び」を通じた関わり、 対人交流や五感を刺激する体験は、これまでは家庭内や地域内で、 ごくごく当たり前に行われていた。
「遊び」とは、 そもそも楽しいと思うことを主体的に取り組むものだし、 その中で思考力、判断力、表現力が養われていくもの。
しかし、 そんな月8000円を払って幼児教室に通う時間とお金のない家庭 の子どもは…。お金がないと現代の日本システムでは、 子どもが思考力、判断力、表現力、 主体的に取り組む力を養うチャンスすら失ってしまうのだろうか。
おそらく、このようなことを公的に子ども全体にサポートしようと する仕組み作りの1つが、
「乳幼児期からの子供の教育支援プロジェクト」( 東京都教育委員会)なんだろうと思います。
子どもの貧困、教育格差とはこういう事なんですよね。 児童福祉にくる子ども達の育ち・生い立ちを考える上で、 このような環境や機会は無視できない要因です。
ドラキッズの内容が真っ当なだけに、 コレが有料であることに余計、切なさを感じてしまいました。
キッズスペースでふと見たチラシから、こんなこと考えるなんて、 かなりの職業病ですね。
ではでは。
【第84回】愛着のコミュニケーション理論
メンバーの皆さま
こんにちは。管理人です。
前回コラムでは、東京都教育委員会による、
「乳幼児期からの子供の教育支援プロジェクト」
の[指導者向けスライド教材]のラインナップから、[愛着] をメインテーマとして扱っている
「4.ふれあって、親子の絆を」
について紹介しました。
今回は取り上げたい3つのうちの後半ふたつ
(1)愛着行動の4段階 (p.6)
(2)人見知りと分離不安 (p.7)
(3)言葉の発達のすがた (p.20)
について見ていきます。
ちょっと長くなったので要点を先に言うと、
「愛着形成」「安心感の獲得」「言語の発達」そして「LSW」 いずれにおいても非言語的な応答・ コミュニケーションがベースになるということ。
あとは、その理由や説明がダラダラ書いてありますので、 今回はそのつもりでお付き合いお願いします。
◆(2)人見知りと分離不安 ◆
次に資料から紹介するのは、Bower (1977)の
「愛着形成のコミュニケーション理論」です。
従来「人見知り」という現象は、他の人を見ることで 母親のいないことを思い出すことで起こるとされてきました。 言い換えると「母親がいる=快」だから「母親が離れる= 快がなくなる」。それを予期する不安から派生したものが「 人見知り」と思われてきたが、 それを否定したのがBowerによる「 愛着形成のコミュニケーション理論」ということ。
例えば、お母さんに抱かれた状態で他の大人を見た時、 もしかしたら「ハイ」と渡されてしまうのではないか、 それが従来考えられてきた人見知り。けど、 1歳くらいの双子の赤ちゃんは、 お母さんの代わりに世話をするハズのない双子の片割れにも人見知 りするんだそう。また、分離不安の対象は、必ず しも身体的な世話をしてくれる人に限らず、しばしば乳児と よく遊んでくれる人であることも分かってきた、と。
つまり、分離不安は「母親限定」ではないと言うこと。 乳児は生後1ヶ月頃には見知らぬ人と馴染みのある人を区別するよ うになり、生後7、8か月頃にはやりとりの機会の多い相手( たいてい母親であることが多い)と意思疎通のための「 コミュニケーション・ルーティン(決まりきった手順)」 を形成するんだと。
しかし、このルーティンは、その慣れた人にしか通じない“ 個人的な”砕けた言い方をすれば"内輪ネタ"ですから、 見知らぬ人にはそれが通じず意思疎通ができない。そのように 「人見知り」とは、馴染みのやり方(身振りや声) でわかってもらえない、“応じてもらえるはず”なの に応じてもらえない、期待が外れることが 乳児に恐怖や不安を引き起こしている現象である、ということなん です。
つまり、人見知りの源泉は「コミュニケーションの不成立」だから 誰にでも通じる「言葉」 を獲得すると分離不安は減っていくハズ、そう考えたバ ウワーが先行研究の知見を調べたところ、グラフように語彙が 増えて文を話せるようになる2歳代で分離不安は減少し、 5歳では分離不安がほとんどなくなることがわかった、 と言うことなんですね。
そして、
〜分離不安の対象は、必ず しも身体的な世話をしてくれる人に限らず、しばしば 乳児とよく遊んでくれる人であることも分かってきた。
これは愛着対象は決して母親だけではないこと、「三歳児神話」 の否定の理由になりますよね。 乳児の些細な発信ニーズに合わせた応答ができれば、 たとえ母親が働いていたって家族や集団養育の複数の担い手で健全 な愛着形成は可能ということです。
また同時に、子どもにとっての「遊ぶこと」の重要性、 愛着形成に果たすスゴさやパワーに改めて気づかされます。
それと、先日TVを観ていたら、人見知りの源泉である「 コミュニケーションの不成立」「 応じてもらえるはずなのに応じてもらえない」 ことの恐怖や不安って、 大人に例えたらこんな状況かもと言うものを見かけました。
それは日曜夜の「イッテQ」スペシャル番組。 ANZEN漫才みやぞんがアメリカでお使いするみたいなコーナー で、スタッフからお題の紙が渡されて、 全く英語を話せないみやぞんが、 アメリカ現地の通行人とコミュニケーションして、 お題の答えや目的地まで辿り着くというもの。
想像してみて下さい。 もし自分が全く言葉が通じない外国に1人きりで放り込まれたら… 。相当不安な状況ですよね。けど、 言語獲得していない乳児が人見知りで示す、 馴染みのやり方が通じなさそう、どうしよう、 困ったといった不安感ってそんな感じかもしれないな、と。
けど、 みやぞんは満遍の笑顔がスゴイから通行人にとりあえず話しを聞い てもらえるし、相当メチャクチャな英語なんですけど、 想いが通じた時は本当に嬉しそうに感謝のリアクションをするんで すよね。 そうすると親切な人なんかは目的地まで案内してくれりなんかして 、ありがとうみたいなコミュニケーションが成立している。
みやぞんが人気なのは、 赤ちゃん的な無条件の可愛らしさピュアさ無垢さで、 見てて癒される的な要素は大きいと思うんです。 赤ちゃんがみんなに声かけられて可愛がられて、 言葉通じないけど助けてもらっての感じって「あ、コレかも」と。
一寸先は闇みたいな本当に困り果てた状況で、 誰かが助けてくれた時の嬉しさ、 不安で重苦しい感じから解消された解放感、 身がホッと軽くなったような安堵感や安心感って、 なんとも言えない感覚がありますよね。
乳児は基本的生活の全てを大人に依存していますから、 相手と意思疎通が取れないのは死活問題です。 仮に大人で例えるなら、見知らぬ外国で一人きり、 お金も持たず頼れる人もいない、 飲み水やトイレの確保すらままならない、 少し先の自分の行く末の見通しが全然立たない、 そんな状況下の精神状態に近いのかもしれません。 その不安感や焦燥感はハンパないですよね。
バウワーの調査によると、言葉や文法を獲得するに従って、 子どもの「分離不安」が減っていくという事ですが、確かに、 上記のような一人きりの状況であったとしても、 その場所が英語も通じない外国であるのと、 言葉が通じる日本であるのとでは「 誰かに何とか助けてもらえるだろう」 という希望的観測や見通しは全然違うと思います。
私たちは、いかに社会的動物であるか、いかに普段「 言語によるコミュニケーション」 に頼って生活しているかを再認識させられます。
日常生活ではあたかも「言葉だけ」 でやりとりしているように思いがちですが、「非言語的」 な身振り手振り、表情や視線の向き、目や口の形、 声のリズム大きさトーン等々の情報を、 五感をフルに使って受信して、 相手の状況を総合的に判断しています。普段は無意識的に。
言葉が話せない赤ちゃんやペットとのコミュニケーション、 そして海外に行った時だって、 言葉が通じない相手にもカタコト単語と身振り手振りでなんとかコ ミュニケーションを取ろうとしますよね。
それは前回コラムで扱った愛着形成の発達プロセスで行われている 言葉のやりとり以前の、非言語的なやり取りコミュニケーション。 これが原始的な意思疎通の形ですし、 この言語的ではなく五感による感覚的・ 音楽的コミュニケーションが、ゴリラとか類人猿・ 原始人もしているコミュニケーションの形。
「言葉」という便利なツールを身につけても、 原点的なコミュニケーションは人間という生き物らしく成長する以 上は必要なことなんです。しかしながらPCやスマホの普及は、 画面上の文字・画像以外の情報( 微妙な表情変化や声のトーンなど)はカットされますから、 ホント文字通りのやりとりになる。
そもそも人間は自分の気持ちを正確にピタリと当てはまる文字に落 として言語化できるわけではないですよね。 それが成長過程の子どもであれば尚更ですし、 生身の人間とのやり取りする経験が減れば減るほど、 五感をフルに使って非言語的情報を送受信するコミュニケーション 力を鍛え成長させる機会をどんどん失っていきます。 そのように育った子ども達がやがて親となり、 子育てをしたら乳児期のコミュニケーションや愛着形成は… ということです。
原点に戻ると「人見知り」とは、
・馴染みのやり方(身振りや声)でわかってもらえない、“応じ てもらえるはず”なの に応じてもらえない、期待が外れる「 コミュニケーション不全」が恐怖や不安を引き起こしている現象
なので、逆に言えば、特定の大人と意思疎通の「馴染みのやり方」 が確立していなければ人見知りは起こらない。 児童福祉で見られるような幼児期以降に無差別的な愛着行動が見ら れる子どもは、目が悪くて顔の区別がつかないわけではなくて、「 馴染みのやり方」を構築する経験が欠如しているということ。そも そも「特定のわかってくれるパターン」獲得がなければ「 期待が外れる不安」なんて起きないわけで。
だから「人見知り」 は子どもの生育歴を聞く時にものすごく重要なPointになりま す。危ないのは、人見知りがなく誰にでもニコニコして、 構って構ってもなかったし小さい頃はホント手がかからなかったで す、というパターン。 親が関わっても子ども側の受信が弱かったのか、 そもそも子どもの愛着行動を親が察知せずスルーしていたのか、 子どもが諦めて発信しなくなったのか。
愛着形成を見る上では、乳児期の何気ないやり取りのエピソード、 こんな時よく喜んだとか、嬉しそうにしてたとか、 親が子どもの様子から気持ちを察していたのかの「応答」 が伺えるエピソードの有無はとても重要な情報です。
最近コラムでよく使う「この図」で言うと、「基本的信頼感」が心 理社会的発達の一番根っこにありますよね。
やはり自分の言葉にならない信号を相手に察してもらって期待した 応答をしてもらった経験の積み重ねが大切だと言うことなんだと思 います。【個別】的な関わり、 馴染みのやり方で気持ちが通じる経験です。
しかしながら、マズローの欲求階層説を参考にすると【社会・ 集団】に世界が広がるベースには、[生理的欲求]や[ 安全的欲求]があります。つまり、 個別的なコミュニケーションが取れることで生活の根本である[ 生理的欲求]や[安全的欲求] が満たされる見通しが持てて安心できる。その安心感があって、 個別的関係から社会・ 集団の世界に対人関係を広げることができる。
前回紹介した愛着行動でいうと、[第3段階] までは個別的関係で、[第4段階]が社会・ 集団的関係の世界に踏み出すタイミングかと思います。
【参考】
● 第1段階(出生~12週):愛着の相手は不特定であり、 生得的な反応傾向によって人に注意を向けたり、 働きかけを行ったりする。
● 第2段階(12週~6か月):接触頻度の高い人や、 乳児と社会的やりとりをしてくれる相手に対して結びつきが できる。
● 第3段階(6か月~2、3歳): 見知った人と見知らぬ人に対して明らかに識別して反応するように なる。いわゆる「人見知り」が出る。また、母親が いなくなるとパニック状態に陥り「ママ」と叫んだり、 泣いたりすねたりなど混乱状態になる。
● 第4段階(3歳頃~):子供の認知能力や言語能力が発達して、 母親の設定目標を推測し、「目標修正的パートナーシップ」 が成立するようになる。この段階の最初の頃は、 子供は母親との関係を「安全基地」として外に向かって出ていき、 すぐに不安になり、母親のところに戻ってきて安心する「 行って帰ってくる遊び」を繰り返す。この遊びが 見られなくなる頃、いよいよ子供は自律・自立への道を進んで いく。
つまり、 自分の気持ちを言葉にできるようになる3歳くらいまでの成長過程 では[生理的欲求][安全的欲求]を満たすと同時に[脳育][ 愛着形成][基本的信頼感・自律性の獲得][言語獲得] と言った、
①自分の内側の感覚
②自分の外側の他者との関係性
③自分の内側と外側をつなぐ五感や言語
の成長が同時並行的に起こっている。
ざっくり言うと[身体が満たされること]と[ こころが満たされること]。そのどちらも人間には重要で、 一般的な子育ての中では、 身体的なお世話をしながら非言語的な愛着行動への応答(声かけ・ スキンシップ・アイコンタクト)をする、 同時に身体的な反応としてホルモン分泌がされるというサイクル自 然と行われています。
通常と思われている子育てや成長過程も、実は色んな理論で色んな 言葉で説明すると、 とても複雑なことを色々同時に行っていると思います。そして、 各理論もそれぞれ独立しているわけではなくて【 心理ー生物ー社会】(バイオサイコソーシャル) の範囲が違うだけで重なったり繋がっている部分も結構ありますよ ね。
しかしながら、児童福祉が関わるような家庭は、 同時並行どころか、その片方すらも難しい状況のことが多い。 つまり[基本的生活リズム]も崩れているし[親子関係も希薄] な子ども。 それじゃあオキシトシン分泌もセロトニン分泌も少ないでしょうか ら、それは意欲や集中力も低かったり、情緒は安定しにくい。
この状態が乳幼児期からの子供の教育支援プロジェクト「1. 子ども親の問題」であげられている内容そのもので、 そりゃその両方を学校教育だけでカバーしきれるわけがなく、 各分野と連携して就学前から地域で段階的にフォローして行きまし ょう、となるのは当然の流れです。
そして、どこから立て直すかというと、 脳の構造レベルやマズローの欲求階層説の順番で考えて、①[ 身の安全]カエル脳の生命維持の欲求を満たしてから→②[ 心の安心]ネコ脳の感情レベル、 人間関係の良い体験によって情緒的な成長に必要な心の栄養を蓄え る、→③[頭の理解]ニンゲン脳の言葉・認知という順番になる。
これが[身の安全]が第一で、それが家庭で確保されなければ、 一時保護や社会的養護(施設や里親)を理由になるわけです。 が実際の支援はそれがスタートであって、 安全確保のための物理的な環境調整はもちろん、 その後の生活において[心の安心][人間関係の良い体験]を子ど もが積めるのかを確認して家族関係の調整や再構築を行わないと、 [心が満たされること][身体が満たされること]の両立、 つまり、子どもの健全な成長を支える支援としては片手落ちだと思 うんです。
それは、このベースがない中での、日常的な「気持ちの言語化」 と気持ちやりとりを通じた情緒的成長、心の成長が望めないから。
◆(3)言葉の発達のすがた ◆
じゃあ、そもそも言葉を獲得する前の[0〜2歳]の時期に「 どう関わったらいいの?」というのが、スライドp. 20に具体的に書かれているまので、その一部を紹介します。
●おっぱいのリズムは会話のリズム
・赤ちゃんがおっぱいを吸い、 休むとそれに応えるようにお母さんが声をかける。 この繰り返しこそ、赤ちゃんとお母さんとで作る会話のリズ ムなのです。このリズムは、赤ちゃんが 話せるようになった時に自然と受け継がれていきます
●話せる前は「アイコンタクト」で以心伝心
・何も話さない赤ちゃんに不安になった時は、ぜ ひ赤ちゃんの顔を見ながら「べー」と舌を出してみてくだ さい。繰り返しているうちに、赤ちゃんもしだ いに口もとをもぞもぞと動かし始め、 かわいい下をちょろりと出します。コミュニケーションとは、 話しかけるだけではなく、 こうした表情のやりとりからも生まれるものです。
●言葉を覚えるには「やりとり」は必要不可欠
・喃語はたいてい赤ちゃんがごきげんなときに出てきます。 このとき「そうだね」「ごきげんだね」とどんど ん話しかけてあげると、赤ちゃんは喜んで「アー」「ダー」 と答えます。赤ちゃんの、言葉になる前の「言葉」に答えてあげ てください。
・話しても分からないから、と話すのをあきらめるのでなく、 世話をしながらどんどん話かけましょう。 赤ちゃんは周りの大人とやりとりをしなが ら言葉を覚えていくのです。
わかりやすいですよね。言語獲得の前段階では非言語的コミュニケ ーションや応答遊びの積み重ねが大切ということ。そして、 これは言語獲得のプロセスであると同時に、 愛着形成の応答プロセスでもあるわけです。
この内容こそ、この図で、
下から伸びている「矢印」で表現しようとしたことなんです。
物の名前とかアニメのキャラクターでさえも、 指差して一緒に同じもの見て「アンパンマン!」 とか大人が言葉をかけて物と名前が結びついて覚えていくもの。 ましてや、自分の気持ちの言語化については、 今まさに身体で起こっている子どものリアルタイムな感覚を、 その様子から大人が「ネムネムだね〜」「嬉しいね〜」と[ 察して+非言語で応答しながら+言葉で伝える]をセットにした体 験を繰り返さないと、「感覚ー気持ちー言語」 の結び付きができてこない。
しかしながら、児童福祉で関わる人は、この[察して+ 非言語で応答しながら+言葉で伝える]関わりをしてもらえず、 気持ちの成長が伴わずに身体だけが大きくなっているような人が珍 しくない。子どもだけでなく、親自身も。
だから、自分の気持ちをうまく言葉にできないし、 そもそも自分の中で起こっている感覚が上手く掴めていないし、 それで自分の意図がうまく伝わらないと感情コントロール出来ずに 怒ったり拗ねたり、担当変更になると赤ちゃんの「人見知り」 のように泣いて喚いて不安と怒りを露わにすることが、 小学生でも中学生でも成人になっても普通に見られます。
何歳どころか何ヶ月レベルの発達課題が満たされていない、 そういう愛着形成に課題がある大人が子どもを育てるとどのように なっていくのか、下図はわかりやすく整理されています。 改めて1歳くらいまで愛着形成は重要だなと思います。
ポイントは安定型の親に[求める以上抱かない] と言う内容がある点。これが単なる関わりではなく[応答] が重要ということを端的に表していると思います。 オッパイも食事も際限なく与えてブクブク太らせればいいってもん でもなくて、その子の様子から「主観的世界」を想像して、 必要なものを必要な分だけ与える「程よい加減」が大事。 子どものニーズを無視して、抱き続けたり関わり過ぎるのは、 大人の自己満足のための過干渉だったり、 大人が子どもに癒しを求めて「依存」したり「乱用」 だったりする。
子どもを育てるハズの親自身がある程度満たされていないと、 子どものニーズを充分に満たす存在にならないどころか、 負荷がかかった時に親自身の課題を子どもにぶつけるようなことが 起きると思います。これは支援者も同様です。
なので、アタッチメント(愛着) が十分に育ってない親子のニーズに合わせた支援は、 親子それぞれ[基本的信頼感][生理的欲求][安全的欲求] レベルになるし、その応答は0〜2歳の時期に必要な[ スキンシップ・呼吸リズム合わせ・アイコンタクト・ 表情のやりとり] と言った非言語的コミュニケーションによる関係構築の経験の積み 直しになるわけです。
そして、 そのようなクライエント内面の育っていない赤ちゃん部分を扱い、 赤ちゃんの相手をするかのように激しく揺さぶられる児童福祉の現 場の職員のメンタルヘルスは、職員自身の[基本的信頼感][ 生理的欲求][安全的欲求]を守るところがベースになります。
一般的な社会生活を送りお仕事を営める人達は、[基本的信頼感] [生理的欲求][安全的欲求]が満たされて社会・ 集団に世界を広げられた人たちがほとんどですから、 一般的なビジネスシーンではお互いそこはクリアされてる前提でや りとりコミュニケーションが展開されていきます。
しかし、[基本的信頼感][生理的欲求][安全的欲求] が満たされていない人が生きる世界は、 個別的な関係構築のレベルですから、 もちろん社会集団のルールに適応するのは難しいし、 赤ちゃんのように特定人に身の回りのお世話を頼ったり、 思った通りにならないと泣いたり叫んだりするような行動が現れる し、その愛着行動に応答するような個別的支援が必要なんです。
子育ても臨床もそうですが、 このような相手の愛着行動を扱うということは、 ただでさえ自身の愛着パターンを無意識レベルで想起しやすい状況 です。さらに負荷が高くなって余裕がなくなる程、 認知的なコントロールが効かなくなるので、 自身のもともとの愛着パターンが表出しやすい。 支援者が自身の生い立ちの整理、 原家族を含んだ自己覚知が必要な理由はコレです。
【第80回】タイプ別「幼児期記憶の語りと再構成」で、 以下のような類型を紹介をしましたが、 幼児期記憶を感情を伴って話せるということは、 その辺の気持ちに整理がついていて適切な距離を取りながらコント ロールできるという事。
■記憶想起のパターン4類型 (林,2004)
①知的な理解の優位な群
ー感情表現も見られるが、知的な理解が先行し、 認識の改めや理解したことが語られる
②直接的な感情表現群
ー感情語を用いてストレートに表現する
③感情の言語化が困難な群
ー何らかの感情を体験していると思われるが, 言語での表現が伴わない
④記憶想起の困難な群
ー記憶の正確さにこだわる、記憶のなさについて語る
しかし、[トラウマ×喪失体験×忠誠葛藤×発達障害] が混在していると、①感情体験に蓋をして距離を取っている状態、 ②あまり激しいなら過去の感情体験と距離が近すぎる場合や、③ その場の安心感が十分でなく感情を語れない場合or感覚を上手く 感情に言語化できない場合、等があると思います。
さらに、④は記憶のある無しもさることながら、 そもそも幼児期のその時に感情的体験があったのか、そして、 その幼児期までに自身の感情体験を言葉で認識できるほど言語獲得 や愛着形成プロセスを踏んでいたのか、 ということも影響していると思うんですよね。
そう考えると、当たり前ですが[過去] の感情体験を想起して語るという前段には、[現在] の感情体験を扱う体験の積み重ねが必要で、 その積み重ねがなかったり難しかった場合と、[ある時] から感情が凍結して積み重ねが難しくなてしまっている場合など、 色々なパターンがあり得るわけです。
それが、LSWで気持ちの言語化が難しいだろう場合に、 まず検討していく点だと思います。そして、 気持ちの言語化する力が未熟であっても、 感情が凍結していたとしても、 どちらにせよ安心して話せるかどうかは本人の主観的・ 感覚的な安心感ですから、やはり支援は[基本的信頼感][ 生理的欲求][安全的欲求] をまず満たすことになるんでしょうし、 関係構築でまず行うことは前回今回で扱ったような非言語的な応答 ・コミュニケーションで相手とペースを合わせる、 二人の世界だから通じるコミュニケーションのやり方や体験を積み 上げるというということになると思います。
乳幼児期の愛着(アタッチメント)形成に課題を抱えた人を支援す る児童福祉の現場では、特に。
言語ではなく非言語、理屈ではなく感覚を扱う大切さを、 これだけダラダラ言葉で綴るのも矛盾しているよな、 と途中から思いながらの今回のコラムでした。
お付き合いありがとうございました。これで終わりです。
ではでは。
【第83回】「乳幼児期からの子供の教育支援プロジェクト」と「愛着行動」
メンバーの皆さま
こんにちは。管理人です。
あっという間にGWも終わり、また日常の日々がやってきました。雨続きですし、もう海の日まで祝日は無いんですよね。長いですね…。
前回コラムでは、下の図の根っこ部分、
で今回は「アタッチメント(愛着)」と少し「発達障害」について 扱おうと思うのですが、 前段は今回のネタとなるウェブサイトの紹介です。
それがコレ。
「乳幼児期からの子供の教育支援プロジェクト」
(プログラム事例集 ~地域プログラムの試行的取組、第1章より)
赤枠は管理人的注目ポイントで、左の施策に、
【乳幼児期からの発達の重要性】
が挙げられていて、真ん中の施策の柱の1つが、
【乳児期から子供の教育の重要性について全ての保護者に伝える( 広域的事業)】
となっていて、右の具体的事業の1つとして、
【ウェブサイトの開設〜 若い親にとって身近な情報入手の手段を活用した普及啓発】
となっています。
上のリンクは、それに当たるのかなと思いますが、 このサイトの凄いのは[保護者向け資料]だけではなくて、[ 指導者向け資料]に加えて、[指導者用スライド教材] まで準備されていて、 保護者に説明する時に必要なところを部分的に使ってください( 教育委員会に連絡入れて)という手厚さ。
で、そのスライド教材のラインナップがコチラ。
◆乳幼児期を大切に ~心と体の基礎を育てるとき~
- 脳と心の発達メカニズム ~五感の刺激の大切さ~
- 生活リズムの確立のために
- 運動能力の発達と『遊び』の大切さ ~運動遊びを通して育つもの~
- ふれあって、親子の絆を
- 乳幼児期からの「食」を育む ~食文化と、体の中の食べ物の通り道~
- 豊かな心と社会性の成長・発達のために ~子供の自立・自律を目指して~
これが7年前の平成23年にすでにウェブ上でオープンに公開され ていたなんて…。「タダより高いものはない」なんて言いますが、 ここまで親切が突き抜けるとコスパうんぬんを超えて何かあるんじ ゃないかと思ってしまうレベルです。
東京は人口1000万超えですし経済格差も広く、 親族が近くにいる層は地方に比べて少ないですし、 経済的余裕がある層は私立の幼稚園や学校に入る傾向がありますか ら、「経済的に苦しい層」「共働きの中間層」ら公立小学校が受け 入れることになる。
そうなると、地区によっては愛情不足で「かまってかまって」 の落ち着きがない児童がドバーッと入学してくる可能性があって、 すぐに支援員を追加することも難しいし、 支援級に移るのも教育委員会の調査+親の同意がいるし、 とても学校だけではカバーしきれない状況が想像がつきます。
その辺の「子育ての支援の地域体制づくり」が施策の柱(2) になると思うですが、 10年以上前から始動しているこのプロジェクトは「 先見の明がある」とも言えますし、見方によっては当時から「 要支援状態」で就学してくる児童・ 保護者の数が相当深刻だったことを物語っているのかもしれません ね。
そんな勝手な推測・想像はここまでにして、 ようやく本題のウェブサイト資料について触れます。「 まごのてblog」的に注目はこの3つの章。
1.脳と心の発達メカニズム ~五感の刺激の大切さ~
→【前回コラム】
4.ふれあって、親子の絆を →【愛着】
6.豊かな心と社会性の成長・発達のために ~子供の自立・自律を目指して~ →【まとめ的】
で、今回紹介するのは、
[第4章]ふれあって、親子の絆を
ここには愛着(アタッチメント) の説明がコンパクトにまとまっていて本当にわかりやすい。是非、 子育てに関わる全ての方にチェックして欲しい内容です。
これにある【指導者向けメモ】というコラムから
(1) 愛着行動の4段階 (p.6)
(2)人見知りと分離不安 (p.7)
(3)言葉の発達のすがた (p.20)
の3つをピックアップします。
(1)愛着行動の4段階
まず乳児の人に対する愛着行動として現れる行動は「定位」「 信号」「接近」などであると。
◯「定位」:目で養育者の姿を追ったり、養育者の声を耳で 聞こうとする行動
◯「信号」:人に注意を向けたことのしるしとして、微笑する、 声を上げる、手を上げて合図するなどの行動
◯「接近」:人に近づく、しがみつく、 後追いするなどの行動
そして、これらの愛着行動は、 4つの段階を経過して発達していくと。
● 第1段階(出生~12週):愛着の相手は不特定であり、 生得的な反応傾向によって人に注意を向けたり、 働きかけを行ったりする。
● 第2段階(12週~6か月):接触頻度の高い人や、 乳児と社会的やりとりをしてくれる相手に対して結びつきが できる。
● 第3段階(6か月~2、3歳): 見知った人と見知らぬ人に対して明らかに識別して反応するように なる。いわゆる「人見知り」が出る。また、母親が いなくなるとパニック状態に陥り「ママ」と叫んだり、 泣いたりすねたりなど混乱状態になる。
● 第4段階(3歳頃~):子供の認知能力や言語能力が発達して、 母親の設定目標を推測し、「目標修正的パートナーシップ」 が成立するようになる。この段階の最初の頃は、 子供は母親との関係を「安全基地」として外に向かって出ていき、 すぐに不安になり、母親のところに戻ってきて安心する「 行って帰ってくる遊び」を繰り返す。この遊びが 見られなくなる頃、いよいよ子供は自律・自立への道を進んで いく。
しかし今回の注目は、その前にある愛着行動そのもの「定位行動・ 信号行動・接近行動」の3つ。愛着はこれら非言語的なやりとり、 コミュニケーションの積み重ねで形成され発達していく、と。
なるほど乳児が微笑したり声をあげたりというのは、 単なる反射ではなくて、 目や耳で注意を向けたしるしとしての応答なんですね。 この行動内容は、以前コラムで取り上げたこれ、
オキシトシン・ システムの獲得プロセスで行われる非言語的コミュニケーション( スキンシップや視線、表情の応答)と同じですよね。 この辺からも愛着がバイオ的視点では「オキシトシン」 で説明できることがわかります。
そこに前回の「脳育」的な話しを踏まえると、「愛着形成」 をするための定位行動・信号行動・接近行動( 見たり聞いたり思った通りに動いたり)のベースとなる、 感覚凸凹や発達凸凹・五感で刺激を感じたり発信する癖が、「 愛着形成」のプロセスに大きく影響するだろうと思います。
例えば、自閉スペクトラム(ASD)によくある「 視線が合いにくい」や「感覚過敏」 など受け側のアンテナの凸凹によって、 仮に他の子と同じ環境で同じように育てていたとしても、 本人が受信する刺激や身体に染み込む体験は千差万別ですよね( たとえ同じ家庭であっても、 その時の兄弟の数によって親の経験値も違えば、 家族システム人数が違うので全く同じ環境なんて、 そもそもあり得ないわけですけど)。
感覚過敏であるがゆえに、通常なら心地よい強さの刺激も、 触られて痛いとか、楽しい歌がうるさいとか、 臭いが我慢できないとか刺激の弱さによってイライラを経験しやす かったり。また逆に鈍感な部分では、 他の子が感じる体験がスルーされてしまったり、 一般では強すぎる刺激を求めたり
なんてことが起きやすい。
なので、感覚凸凹や発達凸凹があると「体験」 の積み上げに偏りが出やすいので同年代より愛着形成が遅れがちに なる。けど、 通常より積み重ねが不器用だったり時間がかかるだけで、 愛着が獲得できないわけじゃない。 安定した家庭環境で愛されて育っていると、 仮に発達障害の診断があっても(診断なしの発達凸凹でも) 可愛らしく安定的なお子さんはたくさんいますよね。
そして個人特性と環境のマッチング相性の問題は結構大きくて、 例えば、テニスだって片方がド素人でも、 もう片方が上手くて打ちやすい返しをすればラリーは続くわけです 。コミュニケーションも同じように、 子ども側に多少の癖があっても大人側が合わせてあげれば、 情緒的な応答やりとりは可能なわけです。
しかし、応答する大人側があまりに余裕が無かったり、 親も感覚凸凹発達凸凹持っていると、 その鈍感さで子ども発信をスルーしたり、過敏さ( こだわりもそう) でお互いに譲れずイライラしあうと関係構築不全が起こる。 すると、オキシトシン・ システムも獲得されないのでイライラが収まりにくい。
乳幼児期にこれが積み重なると[愛着障害] と呼ばれる状態になる。つまり、 愛着障害とは非言語的コミュニケーションの不具合による関係構築 不全やオキシトシン・システム獲得の問題で、 それは信号の出し手と受け手のお互い様の関係、 相互作用によって作られるんですよね。
だから、 子ども自身が一般的からハズれた感覚凸凹を持っていると、 大人が子どもの体験を想像して関わっても「ちょうどいい加減」 にズレが起きやすかったり、 発信や反応が薄くて何考えてるか掴みにくくペースを合わせる難易 度が高かったり、愛着形成に手間と時間がかかるということ。
愛着形成に限らず、その人の「主観的な体験」って五感・ 感覚の個体差の影響をものすごく受ける。 特に感覚機能が育つ胎児期から0〜2歳代の脳育が「LSW的」 にも大事と思う理由はそこにあります。
その人が自身の人生をどのような「主観的な体験」 と共に歩んでいたのか。それは客観的情報が、 その人の特性フィルターを通して、その人の感覚的・感情的・ 認識的にどのように染み渡り蓄積する体験だったのかを想像するこ とだと思います。
その積み重ねの歴史の結果が「愛着」であり、 その人が持っている「価値観」になると思うのですが、 積み重ねのベースとなる0〜2歳の時期は、 感情も未分化でもちろん言語獲得もしていない非常に感覚的な体験 の積み重ねなので、何で今現在の「愛着パターン」や「価値観」 になっているかなんて自分では説明できない部分であると思います 。
LSWはそんな本人が上手く言語化できない感覚的な[過去] も扱うわけですが、まず大事なことは[現在] 上手く言語化できない本人の中で起こっている感覚的なものを支援 者がキャッチして応答して扱えることだと思います。
それは、その場で本人の中で起こっている「主観的な体験」 を想像して、視線や表情といった愛着行動に応答すること。 オキシトシン分泌して安心感を持てたところで、 気持ちを言語化できるのを待つがいいのか、 気持ちの代弁が必要なのか、それも今ここの「主観的な体験」 を想像して対応する。
それは、日々の関わりの中で当たり前に行われる愛着形成・ 関係構築のプロセスではありますが、 LSWの場で起こる体験共有や関係性が深まるプロセスは、 言葉のやりとりだけではなくて愛着形成と同様の非言語的な応答に よる要素が非常に大きいし、 そこを支援者は意識して疎かにしないことが大事だよな、 と愛着行動の内容を見て連想しました。
長くなったので、残りふたつ、
(2)人見知りと分離不安 (p.7)
(3)言葉の発達のすがた (p.20)
は次回コラムで。
ではでは。
【第82回】はじめてママ&パパの「しつけと脳育」
メンバーの皆さま
こんにちは。管理人です。
前回コラムでは、
こんなイメージ図を使って、 子どものアセスメントについて書きました。
僕の頭の中では、次回は「自分の気持ちを言語的に表現できるよう になる」まで、そもそもどんな発達段階があるのか( 樹の絵でいうアタッチメントの上矢印部)について、 こんな表を使ってのイメージ共有や整理がいいのかな、 となんとなく考えていたんです。
自分の気持ちを言語的に表現できるようになるのは、 通常に育って[3歳]くらいだから、 そもそも3歳以前の発達課題が残っている子どもは、 LSWで過去や生い立ちについての感情表現うんぬんの以前に、 全般的に自分の気持ちを語れる力が未熟ないわけで、 まずそこを育てないといけない。
そして、社会的養護の子どもって、そもそも0〜 2歳の時期に受けるべきお世話、 ニーズを十分満たされていない子が本当に多い。 身体的には中学生だけど、感覚や情緒の発達段階は1歳前の[快/ 不快]レベルなんて子が、社会的養護じゃゴロゴロいます。 これは大げさでも冗談でなく本当に。
なので、社会的養護の仕事は「育て直し」 なんて言われることもあるわけですが、そもそも一般的な0〜 2歳はどう育ち、親はどう育てているの? というベースラインを知らない大人に、「身体は大きいですけど、 こころ(情緒)は2〜3歳児だと思って接してください」 と言う子育てアドバイスは何の意味も持たない訳です。 そもそもを知らないわけなので。
しかし、社会的養護の関わる子どもの保護者は、 その生い立ちを聴くと、その保護者自身が0歳〜 2歳までに当たり前に受けるお世話を受けていない、 育てられていない、なんてことはよくありますよね。だから、 相談に乗る側としては、 具体的な行動レベルで保護者に伝えられないと「 結局どうしたらいいんですか?」 と言うところに戻ってきてしまう。
それは、 新米里親や現場の若手ケアワーカーに対しても同様なのですが、 実は相談乗る側も実際の子育て経験がないなんてことはよくあるし 、実際に子育て経験があったとしても「 気持ちの言語化を獲得させるためにコレやってました!」 なんてことは恐らく少なくて、 何か意識する訳でもなく普通に子どもに接していたら、 いつのまにか育っていたというのが通常の子育てかと思います。
なので、よくある言って聞かせるペアトレや躾うんぬん以前の、 もっともっと小さい0歳〜2歳くらいの言語獲得前の養育、 言葉のやりとり以前の情緒を育てるプロセスって? いう感覚的なところをどうわかりやすく伝えるか、 と言うところに支援者は四苦八苦していると思うんです。
なんてことを前回コラムを書きながらムニャムニャ考えながら自宅 に帰ったところ、 家に何気なく置いてあった本に衝撃を受けました。
それはコレ。
その「しつけと脳育」編がコレなんですが、 そのコスパたるや半端無いんです。ちなみに内容はこんな感じ。
内容紹介(Amazonより)
大ヒットシリーズの最新刊。
子どもの“脳力"を最大限伸ばすために、0~ 3才でできることをまとめた、一家に一冊の保存版!
●巻頭特集
「0~5才まで見通せる! 心と体の発達カレンダー」
「実例・脳を育てる 1日の過ごし方」
●第1章 0才からの脳育てルール
●第2章 時期別 発達と脳育てのコツ
●第3章 もう迷わないしつけの方法
早寝早起き/公共マナー/イヤイヤ期の困った! /正しいおはしの持ち方/
歯みがき/手洗い/着替え/トイレトレーニング
●第4章 頭のいい子が育つ食事
●第5章 カンタン! 親子遊びで脳育て
●第6章 家庭教育と習い事
英語教育/習い事人気ランキング/手作り知育おもちゃ/ 入園までにやっておくこと
【専門家のスペシャルインタビュー】
2017年3月初版なんですけど、 これまで専門書を何冊も読んで勉強したのが馬鹿らしくなる程のわ かりやすさ。写真や図解がふんだんに使われて、 ここまで広範囲をカバーして、 このクオリティーで1300円は正直、破格だと思います。
Amazonで初めの数ページ無料で見れますし、 レビューのコメントも是非見ていただきたいんですけど、 通常のお母さん視点からすると、 子育てで何気なくやっていたことがこんなに脳を育てることにつな がっていたんだという「整理」「確認」「安心」 につながるみたいです。
具体的な本編の内容的には、そもそも脳の作りは、
(2階)おりこうさん脳(大脳皮質、小脳)
(階段)こころの脳(大脳皮質の前頭葉)
(1階)からだの脳(大脳辺縁系、脳幹)
という2階建てなのだから、 まず育てるのは1階の生命維持に必要な「からだの脳」。 1階が不安定な家に重厚な2階は作れませんよ。 脳の発達には段階や順番があって育脳の目的は「バランス脳」です よと、 よくある早期のお勉強的な知育に警鐘を鳴らすような内容が、 専門用語を使わず図解と写真をふんだんに使って説明されています 。
そして、どの時期に子どもとどんな遊びをして、 どんな刺激を脳に与えてあげることが必要なのか、現実場面の「 しつけ、遊び、食事、TV、習い事」 の取り扱いや困り感に対してどのように考えればいいのか、 本当にわかりやすく説明されていて勉強になります。
これらの内容って、 前回コラムで小難しい理論を大した説明なくサラっと載せたコレ、
の話しですけど、こんな難しい言葉で覚えなくたって、 この本1冊が手元にあれば全て解決!というレベルなんです。
脳育的には、3歳までは五感【視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚】 を使って脳に刺激を与える「体験型」の育てが必要だと。見て・ 聴いて・触れて・嗅いで・舐めてという感覚や蓄積体験です。 習い事や脳トレとか言って机の前に座ってお勉強はソノサキの段階 であると、わかりやすく明確に説明されていますし。
また、専門家のインタビューと名を打って、
〇何よりまず親が笑顔で楽しんで生活すること。
〇親は見守る、転びそうになったらサポート。
〇0〜3歳までに手をかけなくても、実はすぐには困らない。 困るのは大きくなってから。
〇子育ての目的は「自立」させること。
等々、 子育てやアタッチメント形成で一番大事な親の心構えや精神状態、 子育ての長期的展望などの本質的で大事な要素が、 実例も合わせてわかりやすく書かれています。
子育て中のパパママが参考になるのはもちろん、 社会的養護の現場にいる支援者にとっても非常に参考になるし、 支援者チームで押さえておきたい共通理解しておきたい根っこにな る内容がふんだんに散りばめられています。
ちなみに2018年6月には、 本書を監修している成田奈緒子先生の最新書、
「子どもの脳を育てるペアレンティング・トレーニング: 育てにくい子ほどよく育つ」
が発売されるそうです。 どのような内容になっているのか要チェックですね。
つまり何が言いたいかというと、 LSWにおいて感情を表出を伴う幼児期の語りが出来ることが治療 的なわけですが、そもそも「気持ちを言語化できるようになる」 以前の段階の子どもたちには、五感全ての感覚的な刺激による「 からだの脳」の育成、そして非言語的な視線や表情の応答による「 こころの脳」の育成ステップや支援が必要ということ。
それが仮に小学生でも中学生であったとしても、 この土台づくりのステップをすっ飛ばして、2階にある認知的な「 おりこうさん脳」を大きくしようとしたって、 そりゃ頭でっかちでバランスが悪い不安定な感じになっちゃうし、 やっても積み上げに限界があるから効率が悪いんです結局。
例えるなら、 昔の古いバージョンのスマホに最新アプリを入れようとするような もの。スマホの性能に対してアプリの容量が大きすぎて、 逆に動きが悪くなりますよね。「身の丈(1階の土台)」 に合わない「頭(2階)」でっかちの脳トレはそんな感じかなと。 なので、 やはり大事なことは脳の育ちのバランスなんだろうと思います。
だから社会的養護に来る理由はさまざまですが、0歳〜 2歳の間にネグレクトであった子は、 脳のネットワークが爆発的に増える時期に刺激不足にあるわけです から、後々に本人や周囲を悩ませる「自己コントロール」 の問題への影響は本当に大きい。
社会的養護で代理養育を担う施設現場の方々は、 たくさんの子どもを見る中でこのことを日々実感していると思いま すが、 委託率を増やせ増やせと言われている里親の多くは一般的な順調な 子育てイメージを持っていて、 子育ての比較対象が地域に住む一般家庭の子ども達になってしまい ますから、 子育て上手くいかないのは自分たちの対応が悪いからだと思い込み やすい。
実は、胎児期から0歳〜 1歳のあいだ育っていて欲しい脳の部分が十分に育っていないがた めの影響の可能性が多分にあるにもかかわらずです。 育てる側は残っている発達課題の「育てなおし」 の視点をどこまで受け入れられるかですし、 お願いする側はきちんと説明できるほど子どもの状態をアセスメン トできるか。
何より一番は社会的養護を必要としないで家庭で子育て出来ること がいいわけですから、子どもへの早期支援、 そして乳幼児期に子どもを育てる養育者への支援が大切。 それは産まれてからだけでなく胎児期からの母胎内での育てを含む ので、産前産後ケア、産前のパパママ教育、 もっと言うとパパママになる前の教育もそう。「 そもそも人ってこう育つんだ」の共通理解は、 中高生くらいでやって全然いいと個人的には思います。 テレビやスマホの脳の影響なんて、 全然考えていないと思いますし。
本書では「子どもの"ボンヤリ時間"をキープ」 と説明がありますが、暇そうだからとTVをつけると、頭の中で空 想したり思考をつなげたり前頭葉(創造性・こころの脳)を活性化する時間を奪うことにな ることが書かれています。
だから、子どもにとって「暇な時間、ボーッとする時間」 ってとても意味があることだし、 それを奪ってしまうと自分で何も考えない、想像力が乏しい、 好きなこともやりたい事もわからない人間に育っていくんだろうな 、と思います。
対人援助の専門家として以上に、いち父親として、 とても勉強になる一冊でした。
ではでは。