LSWのちょっとかゆいところに手が届く「まごのてblog」

静岡LSW勉強会の管理人によるコラム集

【第101回】私も「移動する子ども」だった

メンバーの皆さま
 
こんにちは。管理人です。
 
バタバタしてまして、気がつけば1ヶ月近く更新が滞っていました。日が流れるのはホント早いですね…。
 
今回取り上げる本は、実は2019年の始めに紹介することを昨年暮れから決めていた本なのですが、ズルズル今日に至るという具合です(本当は第100回のつもりでしたが…)。
 
そんな、ようやく紹介する本とは『コレ』。
 
 
『私も「移動する子ども」だった――異なる言語の間で育った子どもたちのライフストーリー』

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2010年に出版された本なんですけど、本ブログ開設当初に、ある勉強会メンバーさんから「もし良かったら」と貸して頂きまして。それから、はや一年半が経過…。なんと言ったらよいのやら。
 
最近はその時に書きたいこと書きすぎて、若干何のブログだかって感じになってきちゃいましたが、ブログの趣旨「LSW=ライフストーリーワーク」の原点に戻る意味でも、blog開設当初の初心を思い出す上でも、参考になる本です。
 
(こういう昔や当時のことを思い出す "きっかけ" ってLSWっぽいですね)
 
 
 
まず表紙の写真でお分かりの通りの豪華メンバー。目次をかりて一応、人物紹介すると、
 
●目次
【第一部】
 幼少の頃,日本国外で暮らし,日本に来た「移動する子どもたち」
1 セインカミュ(マルチ・タレント)
「外人」と呼ばれて,外人訛りのない日本語で返そうと思った
2 一青妙(女優・歯科医師 
台湾で中国語を話し,自分は台湾人と思っていた
3 華恵(作家) 
ニューヨークで英語の本を読みふけっていた
4 白倉キッサダー(社会人野球選手) 
長野に着いたとき「タイ語,禁止」と言われた
5 6 響彬斗&響一真(大衆演芸一座) 
ブラジルで日本舞踊,和太鼓,三味線,歌を習っていたさ
 
【第二部】 
幼少の頃から日本で暮らし,複数の言語の中で成長した「移動する子どもたち」
 大阪で生まれ,大人が韓国語交じりの日本語を話すのを不思議に思った
8 フィフィ(タレント) 
名古屋で育ち,アラビア語を話さなくなった
9 長谷川アーリアジャスール(プロサッカー選手) 
埼玉で生まれ,イラン語を「使えないハーフ」と語った
10 NAM(音楽家・ラッパー)
 神戸で生まれ,「ベトナム語は話さんといて」と親に言った
 
終章「移動する子ども」だった大人たちからのメッセージ
 
 
TVや雑誌等で、誰かはご存知な顔ぶれではないでしょうか。
 
皆、子ども時代に「移動」したという共通点を持ちながら、【第1部】は物心ついた時点で外国から日本に来た経験を持つ方々、【第2部】は物心ついた時から日本で生活しているが外国語コミュニティー中で育った経験を持つ方々。
 
人生の途中から全く違う文化・言語圏に移動し適応することの苦悩、また日本で育ち日本しか知らないのに日本人でないという曖昧なアイデンティティー
 
料理研究家コウケンテツさんの「韓国人からは"お前は俺たちとは違う"と言われ、日本人からも"お前は俺たちとは違う"と言われた」という言葉は、生い立ちにおける「移動」の影響の大きさについて改めて考えさせられました。
 
また、コウテンケツさんは「両方の気持ちがわかる事が自分の強み」「物事を客観的に見るという姿勢形成に役立った」ともインタビューの中で、語っていますが、その境地に至るまでにはかなりの葛藤があったはず。
 
中高生年代になれば、自身の葛藤や苦悩を言語化できるようになりますが、幼少期の子どもは母国語であっても体験や感情を上手く言語化できないし、ましてや不慣れな言語ならなおさら。
 
今後、日本で外国人労働者が増えていくでしょうから、確実にこのような体験をする外国籍やハーフの子どもたちが日本で増えてくると思うんですよね。
 
そんな移動する子どもの体験を、専門家視点ではなく、当事者視点でその人の言葉による「ライフストーリー」が読めるのは貴重です。
 
 
というのも、僕自身が働く地域は外国人が多い所なので、これまでに沢山の「◯歳から日本に来た」という外国籍やハーフの子ども、または「中身は日本人」と語る母国語を話せない子どもとたくさん出会ってきたんですよね
 
国は、ブラジル・フィリピン・中国あたりが多いですかね。僕の職場は常駐のポルトガル語通訳さんがいますし、英語、スペイン語タガログ語を話すお客さんと出会うのはもはや日常的。(僕は日本語しか話せませんが…)
 
このような家庭で育つ子どもは、日本で日本語の教育を受けて育つので、当然、日本語が上手くなる(友だちとのやりとりがありますから)。しかし、親は日本語を話せない。すると、子どもは「外では日本語、家の中では母国語」という風になって、親は日本語を話せないけど、子どもがバイリンガルトリリンガルで日本語を通訳をするなんて光景も珍しくありません
 
 
しかし、日本語を話せている=勉強についていけるわけではなくて、この本で指摘されているように学習の遅れは「言葉の不慣れ」によるものだけではなく「文化の違い」による部分もあるんだという視点は目から鱗でした。
 
例えば、国語や社会は「日本文化」を知っている暗黙の前提で物語や話が構成されていて、実は日本人が常識と思い聞き流すところで、外国から来た子どもたちは「?」が浮かび、話についていけなくなるんだ、と。
 
確かに。単語もそうですし、風習なんかもそうです。例えば昨日は「節分」でしたが、何で豆を撒くのか、何で歳の数だけ豆を食べるのか、なんて大半の日本人もよくわかってないですし。
(チコちゃんに"ボーッと生きてんじゃねーよ!"と怒られるやつです)
 
文化って、生まれた時から当たり前にあって、それが「日常」となっていることだと思うんですけど、それは国なんて大きなレベルではなくても、職場、地域、家レベルでもそれぞれの文化差ってありますよね。
 
ただ、タレントのフィフィさんが「外国人が理由でイジメられたことはない」「見た目が明らかに日本人でないと、あの子は外人だから仕方ないよね、と許される部分がある」というのも、なるほどと思わせる言葉で、確かに、明らかに相手と自分が違うことがわかれば、「文化の違い」を受け入れる素地は多分にあるのかもしれません。
 
しかし、そうは言っても、外国人なら英語を話して当たり前に思われるといったステレオタイプ的な思い込み、異なるものに対する「不理解」「勝手なイメージ」「価値観の押し付け」の体験はあったようで。
 
そんなフィフィさんが、『終章「移動する子ども」だった大人たちからのメッセージ』で語っている「結局、親がポジティブにいられるかどうか」という言葉は、「自分は何者?」アイデンティティーが揺さぶられる時期に、如何に身近な家族が支えてくれることが大切なのかを端的に伝えてくれていると思いました。
 
 
このようなことを考えると、異文化を移動する子どもが、さらに社会的養護(里親・施設)への「移動」を重ねると、より一層問題が複雑だし深刻になります。
 
年齢が小さいと母国語をどんどん忘れていくし、日本人と日本人としての生活をしていると、言葉もそう食事もそう母国の文化がどんどん馴染みない「非日常」のものとなっていきます。
 
そうすると、いざ親子交流しようと思っても、時間が経てば経つほど言葉も通じない、文化的な感覚も合わない、それを「親子」と呼んでいいのかという距離を生んでしまう可能性が大いにあると思うんです。
 
さらに、日本語に壁のある外国人の親がつながれる社会資源は本当に限られる。コトバわかりませんから。また、その地域のある外国人コミュニティーは非常に狭い人間関係ですから、言葉が通じる=だいたい知り合いというリスクもありますし、外国人で虐待が絡むと「オフィシャル」な関係機関で支援体制を構築するハードルが格段にあがります。
 
安全第一で家庭から分離した、問題はソノサキ。例えば、宗教上の理由で食事制限があったりする子どもを受けてくれる里親や施設がどれ程見つかるか。
 
また、介入という名の「異文化間移動」を強制された子どもの未来、将来的な自立をどう考えて、どう支援していくのか。そして、その人のアイデンティティー形成をどう支えていけば良いのか。
 
多文化共生が進むと、それに対応していない制度との間に生まれるヒズミってあると思うんですよね。そんな少し先の未来について、その一端をすでに経験している身としては、考えてしまいます。
 
 
最後に、
 
編著者である「川上郁男」教授の研究室にある『書評』を紹介。
 
異文化の移動を経験した方々から、数多くのコメントが寄せられていて、コレを読むだけでもかなり参考になります。
 
そして、そんな書評の中で、
「ライフストーリーは、聴き手との化学反応によって生まれる」
「インタビュアーの聴く技術も必見」
 
というコメントを見つけ、やはりLSWの本質は「語り」であり「対話」であり、支援者に求められる基本は「聴くこと」なんだよな、と改めて思いました。
 
 
以上、散文ですが、初心を思い出させてくれた一冊の紹介でした。
 
 
ではでは。