LSWのちょっとかゆいところに手が届く「まごのてblog」

静岡LSW勉強会の管理人によるコラム集

【第92回】「ARC(愛着・自己調整・能力)フレームワーク」とLSW

メンバー皆さま
 
気がつけば8月。
 
もう、凄まじい暑さですね。
 
加えて、各地で猛威をふるう大雨や台風。
 
「猛」
 
ハンパない猛暑のこの夏を表す漢字を探すならコレかな、と思うくらい過酷な夏です。
 
くれぐれも皆さま「いのちだいじに」、環境に合わせた程よい休み休みのペースで、今夏を乗り切りましょう。
 
 
で、そんな灼熱の中、今回紹介するのは、
 
サンサンと太陽が輝く表紙のコレです。

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児童福祉では有名な資生堂社会福祉事業団による海外研修レポートの2010年度版(第36回)。
(参考:資生堂社会福祉事業団HP
 
 
資生堂の海外研修レポートって、頭では内容が充実して役に立つのは理解してるんですけど、どれも軽く100ページを超えてくるので、ちょっと気軽には読めないと言うか、なかなか手が出ないんですよね、やる気スイッチが入らないと。
 
で、今回たまたまスイッチが入ったのでコラムで取り上げるわけですが、そういう時はどうしてもアレもコレも書きたくなって文量が長くなりがちなので、以下、お時間のある時にご自身のペースで読んでいただけたらと思います。
 
 
本題に戻ると、
今回ある調べ物をGoogleでしていましたら、この報告書がたまたまヒットしまして。
 
 
ポチッと、ダウンロードして、
 
 
パッと、表紙が出てきたら、
 
 
あ!
 
 
『ベアードビール』じゃん、と。

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ラベルの画風が。
 
一番左の[Rising Sun Pale Ale]なんて太陽の感じまで似てますし。コレがまた旨いんです。
 
ベアードビールは、静岡県東部(もとは沼津、今は修善寺)でベアードさんが作っているビールなんですけど、僕が10年以上前にクラフトビールにハマるきっかけをくれたビールでもあって、もはや日本クラフトビール界を代表する横綱級のビールです。
 
そんな連想だけで楽しい気分になりますし、久しぶりに飲みたいなと。夏ですしね。
 
 
動機は不純でも、きっかけって大事です。
 
 
で、報告書に戻ると、お目当の物が何ページにあるか「目次」に目を通したんです。
 
 
すると、
 
 
 
「おや?」
 
 
 
パラパラ飛ばし読みしてみて、
 
 
 
「うわ!」
 
 
 
 
「なんじゃこりゃ⁉︎」
 
 
 
実のお目当ては、レポート後半の「ラップアラウンド」についてだったんですが、それより何より「前半の内容」に釘付けになってしまいました。
 
 
その内容というのがコチラ。
 
II 私たちの青い鳥 〜トラウマの癒しの様々な治療形態と、それらの施設での応用〜(p.18〜)
 
主には、
①トラウマの脳の働きへの影響
②トラウマケアの考え方の枠組み(ARC理論)
③セラピーや施設での具体的な実践例
(詳しくは目次でご確認を)に関することで、どうやら表紙の太陽の下で羽ばたいているのは、この題名の「青い鳥」だったよう。
 
で、今回コラムで取り上げるのは主に②です。
 
ちなみに、①③について簡単に触れると、
トラウマは理性や思考(意識でコントロールできる部分)も不調にするけど、もっとトラウマの影響を強く受けるのは、脳の中でも動物的な身体的な生命維持的な部分(意識でコントロールできない部分)になるので、頭でなんとかしようと思っても難しい、と言うこと。
 
脳科学の話しって「難しそうだな」と敬遠してしまう方もいると思うのですが、③具体的実践例としては、ヨガをしたり、バランスボールを使ったり、自分の身体感覚を感じたり整えたりなんて支援が写真付きでいくも掲載されています。
(詳細は、ぜひ報告書でご確認を)
 
 
「当たり前のことだが、トラウマを受けた子どもに必要な支援は、それまで正常に機能していなかった脳の機能(自己治癒力を含む)を、正常に機能することを支援していくことだと気づかされた」
 
これは、この海外研修講師のバンデンコーク博士による報告書内のコメント。
 
これまでトラウマを持つ子どもへの支援は、「言語による表現や理解に焦点を当てたトップダウンアプローチ」や「精神薬による服薬治療」に偏重していたけれど、もっと脳科学を根拠を置いた「身体・感覚に焦点を当てたボトムアップアプローチ」によって脳を調整することが必要であると。
 
今でこそ、心理治療の身体的アプローチへの注目が日本でもだいぶ広がり始めてきたのかなと勝手に思ってますが、この内容が、このクオリティーと、このわかりやすさで、すでに8年前(2010)に、しかも無料で公開されていたなんて…驚き以外の何ものでもありません。
 
思わず「8年間で買ったコレ系の書籍達は何だったんだ」と思いたくなっちゃいますが、じゃあ8年前にこの内容の価値に自分が気づけたのかと言えば微妙で、やはりタイミングや準備性の問題というか、それはそれで理解の畑を耕すのに必要なプロセスだったと、自分で自分に言い聞かせるしかないですね(苦笑)
 
ということでレポート内容は、どれも勉強になるのですが全部で182ページあるので、その中からどうしてもLSW的に紹介したいのが、今回の表題にしたコチラ。
 
 
「愛着・自己調整・能力フレームワーク
 
別名
ARC理論」
 
です。
 
ARCとは、
Attachment】愛着
【self-Regulation】自己調整
Competency】能力
 
の文字を取ったもので、トラウマ体験を統合するまでには、下図(p.35)のような積み木を積み上げるような支援の順番を示したもの。
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LSWをやっていると、ついついアイデンティティー」に反応しちゃいますが、上から2段目にある
「自己とアイデンティティー」
の積み木の説明(p.44)について確認すると、
 
・子どもが自分(好き嫌い、価値観、考え、家族・文化の影響、信仰など)を知る機会を作る。
・自分の長所を知り、内的な資源として蓄える。
・過去の経験を統合させ、多面的な自己認識ができるように支援する。
・未来の自分を想像する能力と、現在の活動を将来へつなげる能力を築いていく。
 
 
 
 
ん?
 
 
もう、LSWの説明そのままですよね。
 
さらに同じページにあるコラムなんて、
"【道具箱⑥】「私についての本」を作る"
となっていて「自分の成長を確認し、自分の理解を深めることができる」なんて説明されてる。
 
 
また僕が「ARCブロック積み木」を見た瞬間に思い浮かんだのはコレ。

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LSWの本を読んだ事ある方なら、一度は目にしているだろう、この三角形ピラミッドの図。
 
これはLSWの形式を3つに整理したものですけど、例えば、この図が紹介されている本の1つ、
 
『子ども虐待と治療的養育〜児童養護施設におけるライフストーリーワークの展開』
(楢原、2015)
 
の中には、こんな図も紹介されています。

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この図は、『心理的支援と「生活」』(村瀬、2012)を一部修正したものと説明がありますが、これ「ARCブロック積み木」の内容や順番とほぼ重なってると思うんです。
 
しいて言うなら、エジプトにあるピラミッドを、遠目で引いて見た場合と、登れるくらい近づいてブロック1つ1つを見た場合くらいの違いかと。「木を見て、森を見ず」にならないように、全体を俯瞰的に見るソーシャルワーク的視点も持ちながら、個人への直接アプローチをきめ細やかに考える生活支援や心理療法的視点の両立の話です。
 
LSWで対応に悩むケースって、ソーシャルワーク的な問題にも頭を悩まされますが、そこには大なり小なり「トラウマ」の問題が絡んでいるし、そこには「感情コントロール」の課題があって、そもそも「愛着」形成は十分にあるのかという問題を、もはや児童福祉では避けては通れない道だと思うんです。
 
最近になって、職種に限らないトラウマインフォームドケア(トラウマをよく知った対応)の重要性が広く言われるようになって来ましたが、現場の人はどんな職種であろうと被虐待のトラウマがある子どもに対応し続けてきましたよね。
 
ARCフレームワークは、アメリカのトラウマセンターで2003年から作られ始め、2004年に始めのマニュアルができ、何度か改訂を重ねて2010年に書籍化されたということですが、トラウマインフォームドケアの重要性について随分触れられています。
 
トラウマは決して心理士だけが対応して治すものじゃなくて、生活支援の中でみんなが関わりながら回復していくものだと。
 
決してブロックの一つ一つの内容自体は特別なことではないし、これまでの生活支援ですでに当たり前に行われてきたもの。ただ、戦略も見通しなしに、良いものは何でもやってあげた方がいいと、手当たり次第に支援を続けるなんて、支援者の身とモチベーションがとても持ちませんよね。
 
じゃあARCフレームワークは何なのかというと、「これをやればいい」という特定の決まったプログラムではなくて、これまでのトラウマケアの実践から、必要な支援の順番を整理して示して、今行われている支援が土台から積み上がっているか振り返ったり見直したりする枠組み(フレーム)なんだと。
 
だから、具体的な支援方法については、それぞれの現場で出来る形で工夫してやって下さい、と。
 
これ相当に重要で、だいたい耳にする無理のありそうなLSWは、アイデンティティ」を扱う前に土台となる「愛着」「自己制御」「発達課題」の支援がスコーンと抜けてる危うい場合が多い気がします。
 
ちなみに、積み木の上段の「発達段階」や「司令塔の機能」をまごのてblog的に復習すると、こんな感じでした。

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どの話もボトムアップで「感覚→感情→思考」の順番に積み上げていくのは共通していますよね。
 
加えて言うと、これまでのコラムで取り上げているように、子どもの脳の発達的には「感覚→感情→思考」言い換えれば「身体→こころ→頭」の順番で成長していきますから、そもそも年齢的に、育ちの環境的に、「頭の司令塔」の機能が十分に育っていない子どもを支援することが、児童福祉ではほとんどですよね。
 
もちろん時間的なリミットもあるなかでARCブロック積み木が盤石に積み上がっているケースはあんまりない(そんな順調なケースなら困らない)とは思うんですけど、じゃあ、LSW的な取り組み(セッション型)を計画はするけど、同時並行で土台を補強する支援を、生活の中でどう工夫して行っていくのか。
 
おそらく「安心して語れる場、信頼関係の構築」と漠然と表現されているものを、もう少し具体的につっこんで、そのためには生活支援の中で、何の成長を目指して、何の環境を整えて、やり取りで何を扱っていくのか、そのヒントを、ARCフレームワークや報告書の実践例は教えてくれる気がします
 
ARCフレームワーク・ARCブロック積み木は、そんな児童福祉の超重要トピックである「トラウマ」「LSW」「感情コントロール」「愛着」「脳の発達」という避けては通れないが一つ一つだけでも結構複雑でややこしい課題それぞれの関係や繋がりの全体像を、実にシンプルに整理して示してくれている、のかなと思います。
 
これは、LSWを単体で考えるのではなくて、LSWを児童福祉で必要な支援全体の一部として考えて整理しようとした時に、もしらしたら一つの道標になりうる考え方ではないかな、と個人的には感じます。
 
ARC理論やブロック積み木の内容については、図表コラム入りで10ページくらい(報告書p.35〜46)にまとまってますので、是非直接ご覧になってみて下さい。
 
 
あと、忘れてはならない「ARCフレームワークの最大の特徴は、まず大人の在り方に焦点を当てている点。
 
土台となる愛着の4つの積み木の一番目に、
「養育者の感情管理」が挙げられていて、とにかく身近な大人が安定的に応答することの重要性がこれでもかと説かれていること。
 
まず変わるのは子どもじゃなくて、子どもを支える大人であると。それは養育者や担当者におんぶに抱っこの丸投げじゃなくて、養育者を支えるする体制、つまりスーパーバイズ体制を整えて、システムで子どもを支えることが最重要とされています。
 
 
もう一度、全体を整理して繰り返すと、
 
 
まず、
 
Attachment】〜養育者への支援への取り組み
(愛着:安全な人間関係を築くこと)
 
の土台があって、
 
【self-Regulation】〜子どもへの支援
(自己調整:子どもが自分の肉体と情緒の体験を調整するのを支援すること)
 
の積み上げがあって、
 
Competency】〜発達、成長への支援
(能力:子どもたちが弾力性のある成長を遂げられることを支援すること)
 
と言った積み上げがあって、ようやく最後に「トラウマ体験の統合」が可能になる。
 
 
つまり、ARCフレームワークって、大人同士で共有しながら、
 
「この子にとって今、必要な支援って何だろう?」
「今やっている支援は、こういう意味があるかも」
「今の自分にできることは何だろう?」
 
なんて、子どもに想いを巡らせたり、大人同士が対話するためのツールなんだろうと思います。
 
まずは、養育者自身が自分の気持ちを安心して語れて受け止めてもらうことを実体験として感じて、その波長を合わせてもらって聞いてもらったり、不安な気持ちが整理されて落ち着いていく感じを、今度は養育者が子どもとのやり取りの中で提供する体験の連鎖。
 
もはや、これは「トラウマ」や「LSW」というトピックを超えて、「社会的養護」や対人援助全般に共通するチームアプローチ・集団養育のあり方のベースになる考え方のような気がします。
 
 
ちなみに、英国のLSWが紹介されている2015年出版のコレ、
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の導入部分でも、支援者に必要なこととして、「脳科学」や「トラウマ」の知識、支援者自身の時間的余裕、そして支援者を支えるSV体制の確保、といった共通した話題が説明されています。
 
このように2010年前後の「米国のトラウマ」「英国のLSW」「日本の生活臨床」でそれぞれ言われていることが、お互いが影響し合っているにしても、重なってくるのは興味深いです。
 
 
最後に、
 
ARC理論について、もっと知りたい方は、こんなのもネットで見れます。参考まで。
 
■2009年度(第35回)資生堂海外研修レポート
 
■米国における新しいトラウマ治療の動向 -子どもの複合的トラウマ治療のための枠組 ARC理論-(國吉、2011)
 
(どちらも「ブロック積み木の数」が今回紹介したモノと少し違います。第36回レポートの方が新しいモデルのようです)
 
 
ではでは。

 

【第91回】「LSW」×「パターン・ランゲージ」の可能性

メンバーの皆さま
 
こんにちは。管理人です。
 
今回は、久しぶりの書籍紹介です。
(ホントに長らくぶりですね)
 

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7/20に出版されたばかりのこの本。
 
冒頭には、本書の特徴について、
 
“「オープン・ダイアローグ」と「パターン・ランゲージ」という2つの実績のある方法を組み合わせることで、対話の本質を理解し、その力を磨くということができる確かなかたちでまとめられていることです”
 
と説明されているように、コラボ作品。
 
オープン・ダイアローグについては、すでに、
【第86回】オープンダイアローグ対話実践ガイドラインhttp://lswshizuoka.hatenadiary.jp/entry/2018/06/15/074852
で紹介したのでソチラを参照いただくことにして、今回の注目は、太字にした後半部分「パターン・ランゲージ」というまとめ方について。
 
 
本書によると、パターン・ランゲージは、
成功している事例やその道の熟練者に繰り返し見られる共通パターンを抽出し、抽象化を経て言語化することで、よい実践の秘訣を共有するための方法」
 
と言うこと。
 
 
 
おや?
 
 
 
 
コラムを以前から読んでいる方ならピンと来たかもしれません。これって、以前のコラム、
【第24回】多職種連携に必要な能力
【第58回】奇跡のレッスン「答えは"波"が知っている」(※なぜか最近アクセス急上昇)
 
で取り上げた『コンピテンシー
・1970年代で米国で生まれた、仕事のできる人(ハイパフォーマー)の行動特性を分析して、人事評価や人材育成に活かすマネジメント用語
 
の発想と非常に似てますよね。
 
 
さらにパターン・ランゲージは、その良い所取りの抽出方法というか、上手な人の「コツ」をみんなで共有しやすい形に情報整理して名前をつける「やり方」を体系化したのも、と言ったところでしょうか。
 
 
本書は、オープンダイアローグの肝となるような「キーワード30」が表紙のような可愛いイラスト付きで見開き1ページにつき1つずつ説明されているような構成になっています。
 
 
直感的にわかりますし、何より短時間でサラッと読める。
 
 
パターン・ランゲージは、もともとは1970年代に建築家クリストファー・アレグザンダーが、住民参加型のまちづくりの支援のために提唱した方法のよう。
 
彼が目指したのは、都市計画がトップダウンで決められるのではなく、建物や街のデザインに繰り返し現れる法則性(パターン)に共通言語をつくり、誰もがデザインのプロセスに参加できる自分たちで自分たちの街をつくることを可能にすることだったようです。
 
この発想自体が非常に「ダイアローグ(対話)」的で「市民協働」的ですし、建築やデザイン業界の発想と、精神医療からのオープンダイアローグが、このように業界の垣根を超えてコラボしているもの興味深いです。
 
 
 
加えて、本を少し引用すると、
 
〜実践領域の多くでは、理念とマニュアルの間をつなぐ言葉がありません。このつながりは、その文化に長くいる者には見え、体現できるものの、経験の浅い人には大変難しく、理念に則った日々の行動を行うことはなかなかできません。
 
なのでパターン・ランゲージは、理念とマニュアルの「中空」を結ぶ、抽象的すぎず具体的すぎない「中空の言葉」ということ。
 
 
これ、すごく面白いです。
 
 
対人援助って、マニュアルやプログラムの台本通り読み上げればいいってものではない最たるものだと思うんです。
 
事前の打ち合わせの通り、指示通り、決まったマニュアル通りに言おうやろうとするがあまり、目の前の人との対話がおろそかになって「痛い」思いをした経験は、少なからず誰しもあるのではないでしょうか。
 
組織や上司の「指示」とクライアントの「要求」の板挟み状態です。このコッチを立てればアッチが立たずの葛藤で悩むことってホント多いですし、大概そうやって支援者はクライアントに試されることばかりですよね。
 
そして「対話」は生き物なので、相手の反応や応答を無視した一方的なやりとり、打ち合わせ通りの理屈のゴリ押しは結局うまくいかない事を、私たちは直感的に知っています。
 
かと言って、抽象的な言葉が並んだ理念だけで「あとは気持ちだ」「見て学べ」「その場に合わせて考えろ」と本人に丸投げの人材育成もいまや通用しないというのは、現場の方々はよくご存知かと思います。
 
そこで、暗黙的な知識・情報を組織で蓄積するために、どのように記述し共有するか。
 
そんなかゆいところに手が届く、このblogのテーマそのものに手をつけたのが「パターン・ランゲージ」。
 
それは「これをこの手順でやるべきだ」という1つの大きな枠にはめ込むマニュアルやハウツー本とは違って、「いまの自分のやり方をベースとしながら、少しずつ拡張していくことの手助け」をする、各自の現状を肯定しながら成長していくためのクリエイティブ・メディアであると。
 
これ、離職率の高い児童福祉分野(もちろんそれ以外でも)で求められる人材育成の方法そのものではないでしょうか。
 
 
例えば、ひと昔前の経験の共有や伝承って、先輩の酒に付き合って、ありがたいお話しをダラダラ聴きながら、自分でコレぞという話を見つけ出して自分なりに咀嚼して活かすなんて形だったと思うんです。
 
だけど「パターン・ランゲージ」は、その大事なポイントだけギューっと凝縮して、キーワードで直感的にわかり即座に共有できる形にまとめてくれる。
 
昔の人からは「苦労は買ってでもしろ」「そんな甘やかすな」なんて言われそうですけど、入れ替わりが激しくて3年目くらいで後輩を育成する中堅扱いされる職場では、もはや、そんな悠長なこと言ってる場合じゃないと思うんです。苦労しているうちに辞めちゃいますから。
 
新人にはいち早く「コツ」を掴んで、いち早く「戦力」として活躍してもらわないといけない、というかロクな武器も持たされずに現場に放り出されている、というのが多くの現場の現状ではないでしょうか。
 
平成27年7月1日から虐待相談ダイヤル「189」(いちはやく)が開始されて約3年が経過しましたが、それに対応する人員確保、人材育成だって「いち早く」ですよね。
 
そもそも苦労して周囲のフォローなければ3年もせずに辞めるのは当たり前だし、この少子化の時代に替わりの人なんて簡単に見つからないですから
 
 
 
ちょっと最後は脇道に逸れてしまいましたが、施設の小規模化や里親委託推進の流れで、より支援者同士の対話の機会が減ってしまうだろう時代には、LSWにも経験を共有しやすく理論とマニュアルの間をつなぐような「パターン・ランゲージ」は必要であることは間違いないし、非常に役立ちそうな匂いがプンプンします、という紹介でした。
 
ちなみに、パターンランゲージをもっと詳しく知りたい方は、以下のサイトもオススメです(事例や動画も紹介されて本当にわかりやすいです)。
 
・パターン・ランゲージの情報サイト
 
Cocooking:パターン・ランゲージ事業
 
 
ではでは。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

【第90回】LSW的「プロフェッショナル〜仕事の流儀〜」7.16

メンバーの皆さま
 
こんばんわ。管理人です。
 
三連休の最終日。
 
ご覧になった方も多いのではないでしょうか、この番組。
 
プロフェッショナル 仕事の流儀
 
言わずと知れた番組ですが、今回は宇多田ヒカルの新アルバム『初恋』の制作に密着したドキュメンタリー。
 
しかし、その楽曲制作における「苦悩」や「孤独」、そして宇多田ヒカル宇多田ヒカルである「ルーツ」や「生い立ち」まで語られた内容は、もはやいちアルバムを超えて、宇多田ヒカルの半生を描く「自叙伝」のような番組でした。
 
内容は、彼女が彼女らしくいられる「ホーム」であり「聖域」である「スタジオ」を包み隠さずオープンにした中での語り。
 
しかも、2010年に活動休止してから、再婚、死別、出産、そして離婚…。自らの母を亡くし、自らが母となり、再び作品と向き合っている、このタイミング。
 
なかなか、ここまで自分を曝け出すことって簡単なことではないと思いますがこのタイミングであることに意味がありそうだとLSW的に感じてしまいます。
 
ちょっとした職業病ですね。
 
このような自身の人生についての感情の整理がされぬまま、現実生活や子育てに翻弄されて自分の感情がぐちゃぐちゃになっているような大人に、児童福祉では本当によく出会いますから。
 
 
なんて、僕は1歳の息子を起こさないようにTVの音量を下げて、宇多田ヒカルの語りを「聴いた」と言うより、字幕で語りを「観てた」状態だったんですけど、それでもかなり思うところ満載でした。
 
 
例えば、「感情」について。
 
音楽プロデューサーの父がNY(ニューヨーク)中心に生活していたので、頻繁な引っ越しは当たり前。
 
スタジオでご飯を食べる日常。友達もできず、次第に感情を表に出さない大人びた子どもになっていた。
 
そして、9歳の時。
 
自分に「怒り」や「悲しみ」の感情がなくなっていることに気づいた、と。
 
 
グサッと刺さりました。
 
これが当時の感覚として、どこまで意識化されていたのかは定かではありませんが、この状態は宇多田家だけの特別なストーリーではないですよね。
 
社会的養護に関わる子どもではなくても、大人の都合で生活場所が転々としたり、知らない大人と突如一緒に住むようになって、大人の気持ちを優先して自身の感情を押し込めて過ごしている子どもは「その場で言わないだけ」で沢山いると思います。
 
そして、ワガママを言わない「いい子」ほど、その状態が見過ごされて行きますよね。
 
 
 
ただこの先は、一般人と環境と才能の違いを感じさせる展開で、母から、
 
「ちょっとここを歌ってくれない」
 
と急に言われて、恥ずかしいからその場では断ったけど、自分で作ったものなら歌えるということで、音楽作りを始めた。
 
そうして歌ったら、両親が喜ぶもんだから、嬉しくなって作品をどんどん作る。やがて音楽が「感情」を表現する希望となっていった、と。
 
 
この展開は、母:藤圭子の意図をメチャクチャ感じて、大人視点で描くと「子どもの才能を見抜ぬいて」ということになるんでしょうけど、この番組の注目は、本人が子ども視点で「両親が喜ぶもんだから、嬉しくて」と語られている点。
 
 
親の笑顔や喜び。
 
それが、子どもにとって、どれほどの安心感、楽しみ、喜び、そして、生きる希望となるのか。
 
この当たり前と思われることを、対人援助に関わる専門家だけではなくて、子育てに関わる人すべての大人は忘れてはいけないと思います。
 
 
 
そして、宇多田ヒカルの「ものづくり」の考えもまたLSW的に共感するところが多いなと。
 
例えば、
「いろいろ弾いてみて、これと思ったらその感覚をたぐり寄せてというか、全く自分の中にないものやない場所に行くとか作るということはないんですよね。だから自分の中にあるんですけど、触れないものを取り出すみたいな。思い出そうとしていて、何かを。“いや違う、それじゃない”という感覚に一番近いです」
 
この感じって、LSWとかカウンセリングとかで、自分の内面にあるけどよくわからないものと向き合う作業に通じるものがあると思うんですよね。
 
そして、この模索して、もがく作業って結構しんどい事もある。
 
けれど、
 
「やれることをやっても本当に意味がないと思っているので、やってみてどうなるのかわからない、もしくはやれるかどうかわからないことをやるっていうのが、物をつくる現場なので、探検隊みたいな感じで入っていって、うっそうとしたジャングルなのか荒野なのか」
 
「冒険という意味では(ミュージシャンたちが)同じ風景を見ようとしてくれるので、そこへの行き方のルートを一緒に考えてくれるみたいな感じで、自分じゃ絶対できなかった、自分だけでは行けなかったところにも行けますね」
 
 
その曖昧で行先不透明なものを模索する中で、思いも寄らぬものが見つかったり、それは一人では難しくても、誰かと一緒ならたどり着けたりする。
 
一緒に冒険して同じ風景を共有する感じ。支援者の姿勢として通じるものがあります。
 
そして本人の意向を尊重しながら、その模索の過程を支えるミュージシャン達の暖かさが番組でも伝わってきました。
 
LSWの支援者も、子どもとって、そのような存在でありたいものです。
 
 
 
 
 
最後に宇多田ヒカルは、自身にとってのプロフェッショナルを尋ねられ、こう語っていました。
 
「正直であること。自分と向き合うっていうのは、そういうことですね。自分に嘘ついててもしょうがないけど、でも自分にいっぱい嘘つくじゃないですか。見なくていいものは見ないし」
 
「……っていうのじゃなくて、かっこ悪いことも恥ずかしいことも認めたくないことも全部含めて、自分と向き合うということなので。音楽に対して正直であることですね。自分の聖域を守るっていうことです」
 
 
聖域を守る、って独特の表現だなと思いますけど、僕は「自分を大切にする」ことのように感じました。
 
自分を自由に表現できる場、自分が家族と繋がれた場、自分のアイデンティティーを構築した場、そして今の仲間が支えてくれる場である「音楽」に正直にであること。
 
正直であるということは、自分に嘘をつかないで向き合うこと。自分の弱さや恥ずかしさも全部含めて、ありのままの自分にOKを出すこと。
 
これは実際、苦しい作業ですけれど。
 
 
ミュージシャンは「音楽」=「自分」なら、
 
臨床家は「臨床」=「自分」。
 
 
プロフェッショナルを突き詰めると、最後はそういう「自身に向き合う姿勢」「自分がどう在るのか」というアイデンティティーの問題に結局はなるとよな、と最近つくづく感じていたところの雑感でした。
 
「タイミング」って大事ですね。
 
ではでは。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

【第89回】脳は未来をどう考えているのか

メンバーの皆さま
 
お久しぶりです。管理人です。
 
本題の前に、更新が滞っていた期間のW杯の話を少し。
 
今回は強豪が苦戦する番狂わせが多くて面白い大会ですね。なかなか全試合は観きれないのですが、日本戦は4試合リアルタイムで観ました。
 
惜しくも日本はベスト16敗退でしたが、相手のベルギーは次のブラジルにも普通に勝ってますし、日本の躍進が今大会一番のサプライズかもしれません。
 
また「ベルギー」については、ちょうど一年前にblogのネタにさせてもらってますし、そんな育成のアプローチや歴史・文化差の観点からも興味深い試合でした。
参考)【第13回】日本文化と即興性、育成論
 
 
ちなみに、日本のW杯の歴史をさかのぼると、
1994 アメリカ大会「ドーハの悲劇
(※西野監督
1998 フランス大会 初出場 【GL敗退】
2002 日韓大会 【ベスト16】
2006 ドイツ大会 【GL敗退】
2010 南アフリカ大会 【ベスト16】
2014 ブラジル大会 【GL敗退】
2018 ロシア大会 【ベスト16】
 
と「8年周期」でベスト16に3回進出しているわけですけど、20年前のフランス大会までは「W杯出場が悲願」だった国ですからね、日本は。
 
僕が印象的だったのは、2人の選手のコメント。
■原口選手
「これまで積み上げて来たものを信じる。最後は個の勝負」(試合中の選手紹介コメント)
 
■柴崎選手
「『知識』『経験』『感覚』をさらに磨かなくては」(大会終了後コメント)
 
20年前には6〜7歳だった少年は、日本がW杯に出るのは当たり前という環境下で育ち、W杯で「戦う」「勝つ」ために海外で何を積み上げてきたのか、その一端を垣間見れるコメントですよね。
 
正直、今大会のチームの戦いは中堅〜ベテラン選手がこれまで海外のクラブで積み重ねた『経験』と『知識』(=戦術眼)に助けられた部分が大きいなと個人的には感じました。
(本当に個々の選手達は逞しかったですよね)
 
2022年カタール大会以降は、代表メンバーも大きく変わるわけですし、全体を取り仕切るサッカー協会には今回の大会で結果オーライではなく、これまでの歴史やプロセスを踏まえて4年後だけではなく、2026年、2030年さらにその先を見据えたチームの強化計画を立てて欲しいです。
 
こういう長期スパンで成長を考える視点は、児童福祉の世界にもかなり参考になるし、課題も非常に似たものがあるよなぁと、個人的には感じます。
 
 
ということで、ようやく本題。今回の紹介はコチラ。
 
脳は未来をどう考えているのかー忙しい人のための"脳手帳"を目指してー
京都産業大学HPより)
 
 
コンピュータ理工学部・インテリジェントシステム学科・奥田次郎 准教授の論文記事なんですけど、この研究は「LSW的に」すごく興味深い。
 
内容をざっくり言うと、「記憶」と「予見」は脳神経活動のメカニズムが共通している部分が多い、つまり「過去」と「未来」を考える時に使う脳の領域が実は類似している、ということなんです。
 
是非、詳しくは本文で確認いただきたいのですが、初めて記事を読んだときは「将来を考えるために過去を整理する」というLSWの意図を脳科学的に証明してくれている、そんな気持ちになりました。
 
さらに興味深い研究結果として、「遠い未来」について考える課題で強く活動する脳部位は「遠い過去」を想い出す課題でも強く活動し、逆に「近い未来」と「近い過去」とで共通する脳部位も存在することがわかってきた、と。
 
言うなれば「4年先」を考えるには、少なくとも「4年前」のことを、「8年先」なら「8年前」のことを扱える脳の使い方が出来ないと、と言うことでしょうか。
 
そして、サラッと脚注に「幼児が未来の計画を立てられるようになるのは、過去の経験を語れるようになる時期と一致することも最近の研究からわかってきている」と書かれているのも実に興味深い。
 
「将来の事が考えられない」「過去ー現在ー未来の連続性がない」なんてよくLSW実施を想定する児童が言われる状態は、先のことを予見する「脳の使い方」(=過去を思い出す)練習が足りないという捉え方もこれらの研究からできると思います
 
まぁ「過去」を語れるから「未来」も考えられるのか、「未来」が考えられるから「過去」を語れるのか、どちらが先なのか、そのニワトリ卵の関係はこれだけだと定かではないですけど。
 
少なくともLSW的アプローチは「過去⇆現在」を想起する脳の使い方をする体験になるので、結果として「現在⇆未来」を考えるような脳の使い方の練習・リハーサル・ウォーミングアップになっているんだろうと思います。
 
逆に「未来」を考えることから入る「CCP(キャリア・カウンセリング・プロジェクト)」や「未来語りのダイアローグ」と言ったアプローチは、過酷な生い立ちの子どもが過去を振り返ることの脳の使い方の練習・リハーサルになっているんだろうと想像します。
 
やはり大事なことは、その人の状態に合わせてバランスを整える感覚なのかな、と思います。
 
よくLSWを検討するような社会的養護の子どもは「積み重ねができない」なんて支援者から聞くことがよくあると思います。しかし、それはこれまでの生い立ちの中で、その場その場の場当たり的な対応を積み重ねざるを得ない結果として、出来上がった「脳の使い方」の状態とも言えるかもしれません。
 
その日を暮らすことに精一杯な人に数年先のことを考えろなんて到底無理な話で、今の生活が落ち着いていて今その瞬間の心配なんてせず「今日はどうだった?」「昔はこうだった」なんて振り返りができる余裕がないと、目の前の先の先の先までの長期計画は考えられないだろうと、思います。
 
もちろん、知的能力による限界は少なからずあるとは思いますが、知的な能力が低いからと言って将来の夢や希望が持てないというのはやはり違うと思うんです。それは現在の負荷が高過ぎて過去や未来のことなんか考えられない「状態」や「経験不足」である可能性はないのかと。
 
歴史に学ぶ、文化を築くとは、一つ一つのつながり連続性を意識する俯瞰的な視点と、そうは言っても目の前のことを疎かにしないで一つ一つ集中するピンポイント的な視点と、カメラのズームを寄せたり引いたり、そう言う視点の切り替えをしつつ、一つ一つを丁寧に確認しながら積み上げていく作業ではないかと、僕は思っています。
 
それはそんなに高度で複雑なことではなくて、「将来、日本代表になりたい」とかいう憧れやモデルがあったり、「これ、また食べたい」「今度あのお店に行きたい」とか「去年の夏休みはコレやった」なんて思い出話しであったり、たわいもない過去や未来についての対話の積み重ねが、大事なことを振り返ったり、具体的で現実的な計画を立てたりする「脳の使い方」の練習にきっとなっている。
 
そして、どうしても対人援助は生活の中の「目の前」の対応に追われがちですけど、サッカーの「ハーフタイム」に前半を踏まえた作戦会議をするような視点やタイミングが、対人援助にも必要だと僕は思います。
 
1年先を考えるには、少なくとも1年前からの流れを、5年先なら5年前からの流れを、と言う風に全体の歴史の流れの中で、現時点までどういうプロセスで辿り着き、これからの後半はどう進んでいくのか。すぐに本人がこの視点を持てなくても、少なくともこのような体験を提供する支援者側には、この視点を持った関わりが必要ですよね。
 
でもサッカーで言えば、目の前の判断と対応にに瞬間瞬間追われる「選手」である当事者や担当者のみんながみんな試合中にそこまで俯瞰的になれないので(だから出来るプレーヤーは凄い)、何かのきっかけでハーフタイムのように「一度立ち止まってみる」機会を意図的に設ける必要性は大きいのではと思います。
 
よく「本人が言い出すタイミングで」とは言うのですが、熱くなるとなかなか自分では止まると言えないのが人間です。なので、いざ形勢が悪くなってから慌てふためくのではなくて、「このままでOKか」「これから、どうする?」なんて投げかけて確認する機会を意図的に、定期的に、計画的に設けておいた方が良いだろうと個人的には思うんです。
 
速く走ったり突き進むエネルギーも大事ですが、いざという時に「立ち止まれる」と言うことが安全性を高めるし、安心感を生むので、結果として、目の前のことに迷わず集中できることに繋がると個人的には思います。
 
例えば、車の運転もタイミング良くアクセルとブレーキを踏むには、前方確認と後方確認の視野が取れて、出たとこ勝負ではなくて経験から予測ができて、はじめてコントロールの効いた安定的なドライブになりすよね。
 
よく「困ったら言って」「何かあったら相談して」って何気なく言っちゃうと思うんですが、意図としては「困ってどうしようもなくなってから相談して欲しい」わけじゃなくて、本当は本当に困る手前、何かヤバいことが起こりそうな時に一緒にどうするか考えたい。
 
しかし、そうするには、その人が少し先の「予測」「予見」が出来て行動のブレーキをかけられなければ、事が大きくなる前の相談はありえないわけで。
 
「なんでこんなになるまで言わなかったの⁉︎」と言う前に、それ以前の前方後方確認の「見る」練習があって、アクセルとブレーキを「踏む」力やコントロールを伸ばす、一緒に練習するような関わりが大人側にあったのかを考えないといけないと思います。
 
なので、「記憶」と「予見」の脳活動が類似しているということを踏まえると、いざ困った時に対話を始めるんじゃなくて、日常生活の中で
 
「今日は学校で何したの?」
「昔こんなことあったよね」
「去年の夏休みはあそこ行ったね」
 
なんて何気なく対話することの意味って、とてつもなく大きい気がします。
 
【現在の話し】↔︎【過去・未来の話し】
 
を会話の中で行ったり来たりすることは、過去や未来を考える「脳の使い方」「脳の素振り」的な練習になっていると思うから。
 
そんな打算で日常会話をするのも嫌ですけど、日々の関わりにそんな意味付け価値付けをしてみても「LSW的に」面白いかなと思いました。
 
ではでは。

【第88回】ベビザらスで見つけた「男の育児」

メンバーの皆さま
 
こんにちは。管理人です。
 
この前の日曜日、はじめて「ベビザらス」に行きました。1歳3ヶ月の息子を連れて。
 
「ベビザらス」は、その名の通り「トイザらス」の赤ちゃん版・拡張版って感じで、普通のトイザらスのフロアに併設されている、オムツとかベビーカーとかアンパンマンラーメンという謎のメニュー(笑)とか、とにかく0歳以降の乳幼児用品なら何でも揃うぜ!的な感じのお店です。
 
最近、買い物はめっきりAmazonに依存していますし、家電量販店とかドン・キホーテとか何でも揃うお店も増えて、オモチャ屋さん自体が少なくなってきたかなと思います。
 
オモチャ屋さんなんて何年振り?いや何十年振り?最後に行ったの何歳と時かな?というくらい久しぶりだったのですが、
 
いや〜、面白かったです!
 
最新のオモチャとか幼児イスとか、こんな感じになってるのかと。シーズン推しの家庭用プールなんて、屋根付きの家みたいなやつとかスベリ台付きのやつとか、知らないうちにビニールプールがめちゃめちゃ進化してる。
 
やはり実物を見て、触って、感じると全然違いますね。
 
実際にそんなプールは大きすぎるので買わないんですけど、想像しただけでワクワク楽しい気持ちになりましたし。
 
前回コラム「オープンダイアローグ実践対話ガイドライン」で、対話の中で自分を感じることの大切さやトレーニング方法の紹介がありましたが、実生活レベルではこういう体験なんだと思います。
 
そして、気を付けないといけないのは、実際に足を運ぶって渋滞とかあるし面倒くさいんですけど、ネットやTVで生活が便利になる世界で生きていると、この様な「五感」を使って感じる場は、どんどん減っていってしまいますよね。
 
なんて思ってたら、出口付近で面白そうなフリーペーパーを見つけたので、本題はソレから。
 

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村田諒太選手」好きなんですよね。フリーマガジンだし、ついつい手に取ってしまいました。
 
父親の子育て雑誌『FQ JAPAN』のダイジェスト版で、左上に「トイザらスベビザらス」のロゴあるので全国の店舗に置いてあるんですよね、きっと。
 
雑誌の8〜9割は抱っこ紐とかベビーカーの宣伝なんですけど、合間合間に入っているインタビュー記事がなかなか面白い。
 
今回は紹介する記事は、この3つ(タイトルは管理人アレンジ)。
村田諒太のコーチ体験と子育て観
②育休リアル語り人「うがえり」さん
③子どもとの対話とアクティブラーニング
 
話題を欲張って3つも書くもんだから、少々長くなってしまいました。時間がある時に眺めてください。
 
 
 

村田諒太(プロボクサー)

「子供の夢に親の口出し無用」
 
村田選手については説明不要と思いますが、2010ロンドン五輪で「金メダル」を獲得する前、実は2006北京五輪に出場できず一度「現役引退」してるんですよね。
 
で、現役引退後も母校の東洋大学の大学職員をしながら大学ボクシング部のコーチを続けるわけなんですけど、2009年に不祥事で部が活動停止になったと。今のレスリングやアメフトみたいな報道のはされてないですけど、そうだったようです。
 
その時、自分でやると決めてボクシングをやっている子は大学外で練習できる道をなんとか探したと。一方、親にやらされていたり、親の口出しが多い子はチャンスとばかりに「部を辞めよう」としたと。
 
そういう子が何か失敗した時の言い訳は、
「俺はこんな人生を歩みたくなかった」
ですからね、と。
 
そんな経験もあり、村田選手は子育てにおいて、
・物事を嫌いならないようにサポートすること
・親が子どもの世界に入り過ぎないようにすること
この2つは常に意識している、と。
 
 
これはLSW的にかなり考えさせられる話しですよね。
 
そして、この不祥事を機に現役復帰した村田選手にとっても「自身の在り方」について深く考えさせられる出来事だったのではないでしょうか。
 
その後の金メダル獲得、プロ転向、世界チャンピオンと駆け上がる村田選手の活躍は皆さん、ご存知の通りですが、数々のインタビューで見られる自分を飾らない姿勢、自分の弱さを隠さずに向き合う姿勢、ブレないメンタルの一端を垣間見たインタビューでした。
 
 
 
次に紹介するのは、この人。

■魚返洋平(電通コピーライター)

 
「うがえり」さん、と読むそうです。珍しい苗字ですよね。あの過労死ニュースで記憶に新しい広告会社「電通のコピーライターさんで、「育休リアル語り人」として、半年間の育児休業についてのこんなコラムを連載されている方です
 
電通報「男コピーライター、育休を取る。」
 
雑誌はこのコラムの短縮版・ダイジェスト版という感じでなんですが、さすがコピーライターだけあって言葉遣いがキャッチーで面白い。
 
例えば、「いきなり結論!」と吹き出しがついたタイトル
『育児は当たり前にできない!
夫婦ですることでより絆が深まる』
 
が一番に目に付くところあって、0〜3ヶ月の育児のリアル24時間の細切れタイムスケジュールが表にしてあったり、想定外の反射的な対応に追われてばかり「き、キツすぎる…」と無力感にさいなまれる日々がセキララに綴られています。
 
そんな過酷さの中、夫婦で同じ景色を見られたことで、部活でハードな練習を共に耐えたような強い仲間意識や絆がうまれ、感覚を共有できる夫婦の共通言語がたくさんできた、と。
 
これってリアルな生活場面での「プロセスの共有」や「共に変化にすること」についてのわかりやすい例だと思います。対話は言葉のやりとりだけではなくて、非言語のやりとりや体験の共有によって深まることの実例かと思います。
 
また「うがえり」さん夫婦の育児造語はユーモアがあって面白いですし、24時間タイムスケジュールも電通報コラムにありますので是非でリンクから探してみて下さい。
 
内容もさる事ながら、その表現力や言葉選び、HPのデザインといった「見せる工夫・伝える工夫」も非常に勉強になるなと思いました。
 
 
最後は、この人。

■宝槻泰伸(探求学舎代表)

「対話とは、未来のビジョンを一緒につくっていくプロセス」
 
宝槻氏は高校退学〜大検取得〜京都大学という経歴の方で、大学卒業後に探求学習を柱とした学習塾「探求学舎」を起業した人物です。
 
「対話」「ビジョン」「プロセス」という言葉は、この数年の僕のテーマ的なワードなので「お⁉︎」となるわけです。
 
下の宣伝で、
〜FQ JAPAN雑誌版(500円)では、夢を見つける力の大切さや、話題の「アクティブラーニング」について特集。目からウロコの宝槻先生のインタビューは必見!
 
と書いてあるんですけど、貧乏性で500円が惜しいので、ネットに上がっている別の対談を読ませていただきました。
 
【宝槻泰伸×矢萩邦彦】対談1「これからの教育を考える」~興味開発で想像力を育む探究型学習の可能性
 
最近コラムでも取り上げている「アクティブラーニング」は、2020年に変わる学習指導要領の軸の1つになっていると思いますが、そもそも「アクティブラーニングって何?」という根本的な疑問について議論を深める対談になってます。
 
で、読み進めていくと、LSW的に「おやおや〜?」と言う内容のオンパレードなんです。
 
インタビューの一部を抜粋すると、こんな感じ。
 
 
〜要は子どもに自分の人生を自分で決めて欲しいと思っているし、自分の好きなことを見つけてチャレンジして欲しい
 
好きなこと見つけてチャレンジするっていう子どもの将来に寄り添おうとしたら、能力だけじゃ無理で、その能力を何に使いたいかっていう、自分がやりたいことを見つけるってプロセスが必要
 
〜つまり自分が何を知りたいのか、何をやってみたいのかっていう興味の的を一緒に考えてあげる。今まででいうと進路創造みたいな感じですね。そういう役割・機能をこれからの教育って持つ必要があると思ってるんです
 
〜自分が何者なのかをまず知ることが大事。「何がやりたいの?」「分かりません」っていう子が多いんですよね。
 
〜まず何を学んでもらいたいかというと、「自分を知る」ということと、「他者を理解する」ということ。話を聞いて、理解して、共感して、「仲間を増やしていく」ということ。その力が今後すごく大事になって行くだろうと思っているんですね
 
〜やっぱり「ワクワク」ってキーワードはすごく大事で、学校がつまんないとか塾がつまんない子って、すごくいっぱいいるわけじゃないですか。それはすごく残念なことで、なんでつまんないのかっていうと、絶対に教えてる方が面白くないと思ってることを教えてるんですよ
 
〜面白いドラマやストーリーっていうのを見つけてきて、それを子どもたちにシェアするっていう。「どう、コレ。ヤバくない?」みたいな。要するに映画見たときに、興奮して友達に語りかけるような、あんな感覚で自分は授業している。
 
 
あれ?
 
これってLSWで良く議論に上がるような、
 
「肯定的な未来の想像」
「自分とは何者か」
「ストーリーをシェアする」
「対話を通して関係を作る」
 
という話題とほぼほぼ重なってますよね。
 
このインタビューでは、これまでの紋切り型の進路指導をバッサリ切っていますが、これは決して笑えない話しで、社会的養護における自立支援でも同じことが起こっていると思うんですよね。
 
もうこうするしかないから、これで頑張れみたいな。確かに現実はそうかもしれないけど、そこに至るまでに、本人の自己理解や状況理解を深めて「未来のビジョン」を共に創りあげる対話がどれほどなされてきたきたのか。
 
その選択・決断に至るまでの気持ちの整理、意思決定のプロセス次第で、その後の生活で本人が主観的に描くストーリーはまるで別物になるはず。ここまでやったなら、そこまでやってくれたのなら仕方がないと、[過去〜現在のプロセス]に気持ちに区切りがついて[未来]に気持ちが向けられるのか。
 
そして、それは「生き方」「在り方」を考えることだから、1つの正解があるわけではないし、答えのない不確実なものに耐えながら対話を続けることでしか自分の納得する区切りの付け方や着地点は見えてこないと思います。
 
宝槻氏はインタビューの冒頭で、AO入試導入で教育が「ようやくまともな方向に行く可能性が出てきたな」と言っていますが、ホントそうだと思います。
 
「アクティブラーニング」って、1つ間違えると実習系の授業を増やして「あとは各々で感じろ!」的な丸投げになる危険性も僕はあると思っています。アクティブ=能動的ということなんでしょうけど、宝槻氏のいう「興味開発」はされずに「興味を持つか持たないかは、あなた次第です!」なんてことになりかねない。
 
そして、興味をそそるようなアプローチがあって、その体験の後に「どう感じた?どう思う?」という対話のやりとりを通じて自己理解や他者理解を深める作業があって、はじめて深みが出るものだと個人的には思うし、そうなると大人には対話を進める技術が求められるわけです。
 
議論や討論ではなく「対話」です。何か正しいとか、誰が勝つ負けるではなくて、多様な価値観に気づいて認めて、受け止め咀嚼する体験です。
 
こう言うような[興味を惹く力]+[聞く力」+[質問力]+[ファシリテーション力]が、LSWの支援者には必要だと思っていますし、学校の先生はコレを子ども集団に対して一人でやることを求められるわけですから、これは大変だと思います。
 
もちろん今までも対話を大切にしてくれている現場の先生はたくさんいますけれど、これまでの教育課程を受けてきた大人側のマインドと体制がいかに変われるのか。子どもよりも大人側が変われるかが問われていると思います。
 
教育界では、トップダウンで子どもも大人も一緒に変わって創り上げる対話プロセスの重要性が打ち出されて、2020年に変革の年を迎えます。
 
医療では「オープンダイアローグ」が黒船のようにやってきて、服薬中心の医療にメスを入れるようなボトムアップの普及活動がじわじわ始まっています。
 
障害福祉では、当事者の自己決定、意思決定が盛んに言われるようになってきています。
 
さて、児童福祉、社会的養護では、今後どんな文脈で「対話」の重要性が共有されていくのでしょうか。
 
ニュースで取り上げられている東京の死亡事例を受けて、さらなる虐待対応の強化、警察や他自治体との連携強化、受け皿となる里親・施設の強化が、もともと「新しい養育ビジョン」で言われていたことを、総理から改めて打ち出され加速しそうな様相となっています。
 
その強化は、単なる虐待の事後対応の「取り締まり」「指導」強化のみ方向性だけで語られるのではなく、虐待しなくてもいい家族支援、子育て支援自立支援につながる十分な「相談」「支援」「対話」ができる体制への強化につながって欲しいなと陰ながら思っています。
 
ではでは。

【第87回】オープンダイアローグ対話実践ガイドライン

メンバーの皆さま

こんにちは。管理人です。

突然ですが、
【第34回】「フィッシュボール」
で紹介した「金魚鉢」のような二重の輪になる話し合い形式を覚えているでしょうか?

そのコラムでは「リフレクティング」と言う対話技法の紹介や、最後に「オープンダイアローグについてはまたの機会に紹介します」なんて書いたのが昨年9月でした…。月日が流れるのは早いですね。

そんなこんなしているうちに、こんないい冊子が公開されるようになっていました。

それが表題のコレ、

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(第1版 2018.3)

オープンダイアローグを広く普及するために作られた冊子で、「オープンダイアローグ・ネットワーク・ジャパンHP」からダウンロード可能です。


ここには、オープンダイアローグの基本的な考え方、そして対話技法である「リフレクティング」「フィッシュボール」等についての説明と練習ワークについて書かれています。

コレ本当にわかりやすいですし、何が良いって、文字が少なくて冊子が薄い!

すぐに読めちゃいます。

ちゃんと広い普及を考えてる方は、読み手に最後まで読んでもらう配慮に富んでいて流石だなぁ、と思います。


「そもそもオープンダイアローグって何?」と思った方は是非ガイドラインを見ていただきたいのですが、創始者のひとり、ビルギッタ・アラカレさんの言葉を借りると、

「理解を共有すること、『これが答えだ』というものはなく、答えを一緒に作り上げていくこと、それが一つのプロセスにしか過ぎないということ」

ということで、この言葉だけでもLSWの考え方や実践と重なっていることが伝わるかと思います。

そして、オープンダイアローグは単なる技法ではなくて、「サービス提供システム」であり、その背景にある「世界観」でもあると。

世界観とか言われると、ちょっと仰々しく聞こえるかもしれませんが、ガイドラインに書かれていることは支援者としての基本的な心構えというか、対人援助とは、目の前の人との関わりの中で、何のために誰に何を提供しようとしているものなのか?そんな根本的な問いへの整理とそのトレーニング方法を示してくれている、そんな風に僕は受け取りました。

また、
〜オープンダイアローグの対話実践は医療機関に限らず、福祉や教育など、あらゆる対人支援の現場で応用することが可能です

ということで、もちろんLSWにおける対話において参考になる点が非常に多いですので、今回はガイドラインを感想メインに紹介したいと思います。
(詳細は是非ガイドラインを参照ください)


具体的なところで見ると、例えば、
[オープンダイアローグの7つの原則]
  1. 即時対応 
  2. 社会的ネットワークの視点を持つ 
  3. 柔軟性と機動性 
  4. 責任を持つこと 
  5. 心理的連続性 
  6. 不確実性に耐える 
  7. 対話主義

について、それぞれの項目の「考え方」だけでなく「まず目指すこと」という補足を合わせて書いてあります。それも、わずか数行でまとまっていて、初めて見る人でも明日からでも出来ること、やってみようと思える配慮を感じます。

ちなみに「まず目指すこと」の一部はこんな感じ。
〜ニーズに合わせてできるだけ即座に対応する
〜大切なつながりのある人はなるべく招く
〜今ある制度の中でできる工夫を何でも試す
〜異動等があっても、可能な限り誰か 1 人はチームに残って橋渡し役となる

これらはまさにLSW実践でも必要だし、実際にしていることかな、と思います。

また、最後の2つ「不確実性に耐える 」「対話主義」については、オープンダイアローグの根幹をなすものだから“当面の目標”を示すことはしなかったというメリハリのつけ方で、その内容は、

〜答えのない不確かな状況に耐える。
〜すぐに解決したくなる気持ちを手放す。
〜葛藤や相違があったとしても、その場にいる人々の多様な声を共存させ続ける。 
〜対話を続ける中でこそ、そのクライアントと家族ならではの独自の道筋が見えてくる。
〜対話を続けることを目的とし、多様な声に耳を傾け続ける。解決はその先に現われるものである。

と、かなり本質的なもの。この内容は以前のコラムで取り上げた「あいまいな喪失」の話とかなり重なる部分が多いよなぁ、なんて読みながら思いました。
※【第11回〜第30回】あたりを参照ください。

それにしても「対話を続けることが目的」という言葉には心を射抜かれました。そうなんですよ。対話を続けられる=関係が途切れない、ということが本当に意味があることなんですよね。

特に、LSWを検討するような社会的養護に関わる児童は、生い立ちの中で居住地や養育者がコロコロ変わるような喪失体験を繰り返していますから
「特定の人との関係やりとりが続いていく」
そんな体験が人生に与える意味の大きさは言うまでもないと思います。

また、やりとりが続く中で、その人の考え方や価値観、またお互いの価値観の相違も見えてくる。それが対話だと思います。そのお互いが分かち合える部分もそうでない部分も両方あることを理解する、それを丁寧に聞いて共有していく相互理解のプロセスが信頼関係構築の第一歩だと、僕は思います。

そして、それは安全な場における安心感に包まれたオープンな対話の中で、言葉や表情のやりとりや空気感の共有があって、たとえ言葉にならないとしても相手の本音や真のニーズを感じ取ることができるんだと思います。

よく「アレが心配、コレが心配」と言って何とかしようと動きたがる人は少なくありませんが、最終的に当事者の意見や価値観が盛り込まれていない支援計画は一方的な支援の押し付けだと思うし、それは相手の主体性や問題解決のために考える力を育む経験を削いでいる可能性だってあります。

じゃあ、相手の「言いなり」になればいいのかということではなくて、考え方や価値観の違いを尊重した「対話を続けること」が大事。それは一方が一方を一方的な価値観で説得するのでなくて、双方向のコミュニケーション。

相手の考え方や心情を相互理解する「対話」のやりとりの中で、お互いが目標を共にした1つのチームとなり、チームとしての考え方や価値観を共に作っていくプロセスなんだと思います。

ということで、
「研修や指導のためのガイドラインp.17)」
というページには、中堅〜ベテランには耳が痛い話が書かれています。

例えば、
■教える者と学ぶ者は対等の関係を保つべき。
■教える者が場の主導権を取り上げて、自分自身の専門的なやり方で「正解」を指し示したいという誘惑を感じたらそれは治療においても研修においても、つまり対話主義にとって危機的状況であるということを意識する。
■教える者が「重要なこと」や「正しいと思われること」を学ぶ者にそのまま「教え」たいという誘惑に対しては、禁欲的であることが望ましい。
■あるメンバーの発言に不適切な傾向がある、あるいはミーティング全体が行きづまり停滞していると感じられた場合は、メタコミュニケーション、すなわち「対話についての対話」を試みる。

端的にいうと「教える側が偉そうに正論や知識をダラダラ語ることをやめろ」と言うことなんだろうと思います。概ね、その場の安全感や安心感が損なわれる時、だいたい相手の非言語的反応を無視して話し過ぎている、それは不安の表れか自己陶酔している場合が多いかと思います。

相手が話しをしたそうにしているのに一方的に長々話を続けたり、聞きたいのはその話ではないと表情で訴えている(場合によってはストレートに言葉で伝えても)のに、話し手が話しを辞めないことって思っている以上に多いし、ついついやってしまいがち。

そうではなくて、あくまで教える者と教わる者であっても双方向の対話が大切なんだと。僕はこれを「関係性の連鎖」とよく言うのですが、最終的には「保護者ー子」の間でして欲しいコミュニケーションを、まずは「支援者ー保護者」でその体験を提供して欲しいし、そうなるためには職場内や関係機関同士の「支援者ー支援者」関係でその体験を提供して欲しい。

相手の考え方や価値観を尊重した安全な対話です。支援者自身がそのような原体験がなければ、現場の最善の担当者が家族の大変さに寄り添って安全な対話の場を提供することなんて出来るわけないと思います。

特に「子ども」に接する時は注意が必要で、概ね子どもを教えたりコントロールしようとする関わりに大人は慣れ過ぎています。これは、前回コラムで言うと、理屈的な[左脳]での関わりです。

だいたい自分が他人から受けてきた扱いを、他の相手にしてしまう「関係性の連鎖」「関係性の再演」は起きてしまうもの、そのつもりが当人になくても。じゃあ、逆にそれを利用して「良い体験の伝言(シェア)ゲーム」にすればいいと言うのが僕の発想です。

良い体験とは、もちろん相手を尊重した安心な対話の[快]の体験はもちろんですが、実際に起きる不確実な事態や葛藤場面を抱えてながら安全を維持した対話を続けて相互理解やお互いのニーズを深める体験を共に作るという[不快→快]や安心のリカバリー体験も含みます。


ですので「リフレクティング・ワーク」(p.19
の説明として、例えば、

▼話し手は 「今この瞬間に、心の中にある思いや身体に起きてきた反応」について話します。
▼聞き手は「話を聞いてどんな感覚が自分の中に生じたか」に注意を向けながら聞きます。
(その感覚をたよりに相手に応答するので、とても重要な作業になります)

▼お互いに「今この瞬間の自分自身」に注目しながら、話すと聞くを繰り返して思いをシェアしていきます。自分の思いが十分に受け止められたか、そのときにどんな感覚が生じたかについても後でお互いにシェアしてみてください。受け止めてもらうことで安心・安全な感覚が生まれると理想的です。

なんてことが書かれています。受け止めてもらうことで生まれる安心・安全な感覚って、以前コラムで触れた、子育てにおける非言語的な応答や同調行動によってオキシトシン泌が起こっている感覚に近いと思うんですよね。

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そうなると、ワークで鍛えようとしていることは、相手の様子を伺って、非言語的な応答をするスキル。それは泣いている子どもを見て「何を感じているかな?」と察して、ニーズを満たしてあやすような応答、つまり情動調律(よしよし)に近い感覚。

それは[左脳]の理屈でアレコレ何を言おうと考えるのではなくて、その場や相手の「安全な感覚、安心感の揺れ・ズレ」を[右脳]つまり自分のこころや身体感覚の変化で感じ取って、それに適切に応答しながら、お互いの言語と非言語の対話によって場の安全、こころの安心のコントロールを取り戻していく敏感かつ繊細な感覚的共同作業だろう、と思います。

あと、オープンダイアローグにおいて場の安全を維持するシステムとして役立つなぁと実感していることとしては、「リフレクティング」ワークに象徴されるような三項関係を維持する、必ず三者の中立的立場のファシリテーターがいるというのも。

◯⇆◯
◯↗︎

二項関係では対立した時に「責められている」と感じやすいし、就職面接みたいに複数人と対面していたら余計にそうです。視線も固定化しがちで感情を切り替えようと思っても、脳が切り替わらないのでコミュニケーションパターンを変化させるのってホント難しいと思うんです。

それを「ちょっと相談するので、聞いててください」と一旦ブレイクして、相談者の目の前で支援者同士が話し合う。

◯     ◯

そうすると、相談者は一旦会話から離れて距離ができるし、[左脳]優位で視野が狭まっていた状態から、全体的な把握をする[右脳]が働いたり(カメラのズームを引くような感じ)、なんなら左右の会話の行き来を眺めるので、それが視線誘導につながって脳の偏りをほぐすような効果もあると思います。

そして、重要なのは、リフレクティングで話している内容も[左脳]的な理論や知識による解釈ではなくて、[右脳]的に感じたこと自分の中で起こった感覚・感情について語ること。その事によって、場の雰囲気やチャンネル全体が、あたまの思考中心ではなくて、自分のこころや身体の内側に注意が向いて内省を促すものに変化していくと思います。

そして、自身のこころや身体感覚の語りというのは、非常にオープンで包み隠していない印象を受けるというか、正直で誠実な語り、そこまで思ってる事を語っていいんだという安心感につながっているんだろうなと実体験から思います。

そんなオープンな感覚的なやりとりを磨く練習方法について、このガイドラインはわかりやすく説明してくれていますが、実は静岡LSW勉強会でコンセプトにしていて、「場の体験」で狙っていることはまさにこんな事だったりします。

なので、このようなガイドラインが出てくれると、非常に説明の参考になるし、正直助かりますね。

是非、ガイドライン参考にしてみてください。

ではでは。

【第86回】対人援助と「左脳右脳の使い方」

メンバーの皆さま

こんにちは。管理人です。

昨日、36歳の誕生日を迎えたのですが、驚くほど自分が40歳になるという実感が無いです…。気が付いたら、20後半の後輩が「え?8コ下⁉︎」という感じです。

今回紹介するのは、そんな僕にピッタリの記事から。

会話が弾まない原因は「脳の使い方」にある!

記事の内容は、歳を取ると若い人の話が聞けなくなる、と言うもの。

実感がないと言いながら、40近くになって来ると偉そうに物をいう機会も時々あって、内心では自分のことを「何様だ」と思うことがあります。(話を聞いてもらえない反面教師的な体験からの「気づき」かもしれません)

ホント、いつまでも子どもや若い人の話しを興味を持って耳を傾けられるオトナでいたいものです。

本題は、そんなボヤキではなくてですね。話が聞けなくなるのは[脳の使い方]にあると言うのが今回の話しです。

著者の加藤先生によると、学校教育やら受験やら就活やらで現代人の8割は左脳を使いすぎていて、論理や言語に偏ったアンバランスな「左脳グセ」「脳のゆがみ」が生じている、と。

詳しくは記事を参照いただいて、ざっくり言うと、人間の脳は[左脳]と[右脳]に分かれていて、主に、
[左脳]言語・論理的な処理
[右脳]感覚的なこと、映像系の処理
をするときに活発になると言われています。


記事内のエピソードで言うと、こんな感じ。

〜私は小児科医をしていました。診察で子どもと接する際にはそれ用のモードになります。「先生大大大好き!」「いい子ちゃんだねー」という会話が続くわけです。すると、診察後の看護師(成人女性)との会話にとても苦労します。そんなテンションで何時間も診察しているので、ナースセンターに戻って、モードを切り替えるのに時間がかかるわけです。脳が子どもと接する仕様になっているので、元に戻りにくくなっているのです。

〜その後、小児科の臨床を辞めて渡米しました。子どもと接する時間がなくなり、同世代の研究者と長時間過ごしました。あるとき突然子どもたちと接する機会があったのですが、なかなか、「いい子ちゃんだね~」というモードの言葉が出てきませんでした。前できていたことがまったくできなくなったわけです。


このエピソードは「右脳」と「左脳」の使い方やバランスの切り替えをわかりやすく説明してくれているなぁ、と思います。

「右脳」は感覚的なチャンネル。子どもとのコミュニケーションは感覚的なもの中心。非言語的な[表情][手振り・身振り]などを通じた感情・感覚的なやりとり。特に言葉が話せない赤ちゃんとのコミュニケーションはこの傾向が一層強くなる。愛着行動もそうですし、言葉が通じない外国人・赤ちゃん・ペットとの意思疎通のアレです。

一方、「左脳」は思考・論理的なチャンネル。大人のやりとり、特にビジネスの世界は思考・論理のやりとり中心と思います。文字情報の羅列を解読して理解することや合理的の説明がつくロジックに従った客観的判断が求められます。

しかし、実生活では、
「頭ではわかってるんだけど…」
「言葉じゃなくて誠意を見せろ」
なんて、論理と感情がつながらないと納得して行動に移せないなんて事は良くあります。

この[左脳]と[右脳]の使い方の偏り、つながり、二刀流は、これまでのコラム注目記事で触れている内容を[脳の使い方]という切り口で説明したものかな、と思います。

例えば、
【第48回】神田橋処方とLSW、より
・精神療法でいろいろ難しいことをいうのは全部、根本の外なんです。ちょっとマニアの世界。やはり精神療法というものも本当に治療である限りは、犬や猫にもできる部分が本質。人間にしかできないのは趣味の世界でしょう。


【第31回】雀鬼 桜井章一 × 羽生善治 「負けない生き方」より
・考えすぎると、怪我が多くなるんです。心の怪我、考え方の怪我が。考えるのにも怪我があると僕は思うんです。
・僕が見てて、こいつ考え過ぎて怪我してやがるなって人がいっぱいいる。自分は頭がいいとか、考えることはすべていいことだと思い込んで、精神や肉体をおかしくしてしまっているんです。


【第18回】「cure」と「care」の違い、より
・「治療」「癒す」と訳される言葉に【heal】があります。語源はギリシャ語の【holos】「完全な姿(本来のあるべき姿に戻る)」だそうで、healに状態を表すthを付けて【health】「健康」になる、と。 
・一つに繋がっている心身のバランスや流れの「偏り」や「滞り」を整えて、心身が本来の持っている健康的な状態に「調整」するのが、僕の【heal】イメージです。


と言った感じ。記録って、どうしても文字のやりとり中心になってしまうのですが、人間同士のやり取りは、その行間や文字に乗せた[非言語のやり取り]が同時進行で行われている。表情、言い方、雰囲気、間といった要素です。これらの読み取りや発信する時に使う脳は、感覚的なものを扱う[右脳]メインとなるわけです。

しかし、現実的な人とのやりとりの中では「右脳・左脳」は同時進行で稼働しているということ。当たり前といえば当たり前ですが。

そして、僕が思うこととして、対人援助の支援者に求められるスキルは「右脳」「左脳」のコミュニケーションの割合を、相手のニーズ(チャンネル)に合わせて調整・調律することだろうと思っています。

言葉にならない、言語化できないけど、相手が求めている応答・ニーズをいかに汲み取れるか。期待している応答が「知識・理解」を深める左脳的やりとりなのか、それとも赤ちゃんとの情動調律と呼ばれる「関係性・安心感」を深めるような非言語的よしよし、相手の状況を察して表情や音リズムで応答する右脳的で感覚的なやりとりなのか。一対一の関係構築、リアルな最前線の対人支援はこの使い分けに尽きると思います。


ただし、左右の脳をバランスよく使うって、そんなに簡単ではなさそうです。例えば、

自閉症に男子が多いのは?
(国立特別支援教育総合研究所HPより)

を参照いただきたいのですが、

〜脳の構造や機能に関する男女差については、まだ十分に確立された所見とはいえないものも多いので、留意することが必要

との但し書きがある上での話としてお読みください。

左右の大脳をつなぐ「脳梁」という部分があるのですが、この脳梁が男性より女性の方が大きいことは各研究で言われます。

で仮説的にですが、自閉症は男性の方が多い(確か女性の3倍くらい?)のは、この脳梁の大きさが関係しているのではと言われています。

女性が男性より共感能力(EQ)が高いと言われていますが、それは女性が言語機能(左脳)を使う際に左右両方の脳を活動させるのに対して、男性は左半球を主に活動させることと関連しているのでは、という事です。

個人的には、女性が男性より感情豊かで、ある意味で感情に左右されやすい側面がある(感受性の諸刃の剣)と思っていますが、それは子育てに纏わる生物的機能の差なのでは、と思っています。赤ちゃんのアタッチメント形成、情緒的な成長には非言語的な感情的なやりとりは欠かせないものなので。

一般的に友人関係も、男子は単純なのでサッパリしているけど、女子はドロドロめんどくさいなんて言われますけど、コミュニケーションの優位なチャンネルの男女差による影響もあるんだろうなと。超頑固者アスペでも男性オジサンなら「まぁ、そう言うオヤジもいるよね」で済まされることもありますが、「女子」だとより際立つし、当の本人も苦労が多いのではと感じる事があります。相対的な周りとの比較から来る許容度の違いと言うか。

またASDや被虐待児は、この「脳梁が縮小していると報告している研究もあります。これは現場感覚だと非常に腑に落ちて、ASD的な「文字通りの受け取り」「理屈へのこだわり」なんかは、被虐待経験があると、感情感覚をまともに「右脳」で受けたら身がもたないので、脳のつながりをシャットダウンして精神を守っていたんじゃないかと酷いケースでは感じる事があります。

逆に、支援者はこの状態を「利用」する事もあって、例えば「ブロークンレコード」と呼ばれる壊れたレコードのように同じ言葉を淡々と繰り返すという対応がありますが、あれは敢えて「右脳(非言語)」を切り離して「左脳(言葉)」のみで対応する事で、情緒的な刺激を加えない、相手の怒りに巻き込まれない事をしていると思うんです。

共感には「認知的共感」と「情動的共感」があると言われていますが、ブロークンレコードは表情模倣などによる身体レベルでの共感はせず、頭による状況把握はしている。状況把握は視覚による「観察」を伴いますから全く右脳を使ってない訳ではないんですけど、身体的な応答を切ることで感情リンクを制限している。

激おこプンプン丸に対峙すると、こちらの心臓もバクバクして来ますから、それまともに受けてたらコチラも怒れて攻撃的な対応になってしまうので。

大事なのは、それを意図的に「技」として選択しているのか、無意識に日常化してしまっているのか。そこに「主体性」があるのかです。

もし後者となると、日常的な脳の使い方は、左脳だけが活性化して、感覚的な右脳が全然働いておらずに、相手の表情や雰囲気と言ったものを察することが出来ていない状態。冒頭で述べた、

〜現代人の8割は左脳を使いすぎていて、論理や言語に偏ったアンバランスな「左脳グセ」「脳のゆがみ」が生じている

のさらに極端な状態かなと思うんです。もちろん「生物×育ち」のかけ算だとは思うんですが、LSWに限らず児童福祉の現場で出会うような、相手の気持ちを察するのが苦手な子どもや大人たちは、脳の左右の使い方やつながりはどうか?ということです。

そう考えると、左右両方(言葉・感覚)を同時にバランス良く使えている人たちは本当に少数派のように思います。


さらに、LSW的に言えば「過去ー現在ー未来」の時制を扱う時、左脳と右脳とどちらがより活性化しているのかな、と。

例えば、まず支援者(聞き手)の視点。

言葉が話せない赤ちゃんとのやりとりは基本的に「今ここ」で起きている感覚的な現象ですよね。お腹減ったとか眠いとかあれ触っちゃダメとか。その瞬間、子どもの内面で起こっている感覚や体験は、言葉ではなく大人側の視覚・聴覚・触覚・嗅覚・味覚といった五感で感じ取るものだと思います。これは、かなり「右脳的」な作業。

大人同士で言えば、食事をして「何これ⁉︎メッチャ美味い」と感動したり、スポーツやゲームをして一緒に驚いたり楽しんだりした気持ちは、言葉を使わなくたって表情や雰囲気で伝わるものですよね。しかし、ここに長々とウンチクが入ると脳の使い方が「左脳的」になってしまうわけです。


一方、「過去」や「未来」を題材にやりとりをする場合、それは目の前では起こっていない現象についての「会話」になりますから、言葉抜きにはイメージ共有が難しい。

現実では「あの時はこんなことがあって」「将来はこうなってたらいいな」など言葉での説明を試みますよね。聞き手がこの時、状況を理解するために使っているのは認知言語をメインで扱う「左脳」中心。


視点を変えて、当事者側に立つと…。

これまでLSWで感情面の語りも扱えたら治療的ということは何度か触れていますが、左脳と右脳のつながりが薄い人は、言語(左脳)によるやり取りだけでは、感覚(右脳)とつながりが強い「感情」にはリンクしにくい、ということが起こるだろうと。

と考えると、アルバムとか場所訪問は「感覚(右脳)」を刺激する方法だとは思うのですが、左脳と右脳のつながりが薄い人は、今度はその湧き起こる感覚を上手く言葉に変換できないという事が、LSW実施の現場で起こっていると思います。

その時、当事者は湧き起こっている感情は表情や音声などの非言語で表現されます(これすら薄い反応かもしれない)から、支援者は「右脳」でその変化を感じ取り、表情や声のトーンなどを相手に合わせ、非言語での「右脳的リターン」と共に、その感覚・感情を言語化ような「左脳的リターン」も必要に応じて行う。

LSWに限らないんですが、その人の感情を扱うという事はどっちかに偏っている左脳(言葉)と右脳(感覚)のバランスを整えて統合するような支援イメージを僕は持っています。

バランスを整えるという事は、支援側は左脳も右脳も両方使えないといけない。相手の得意なチャンネルを活用しつつ、相手の苦手な凝り固まったチャンネルを地道にほぐして耕していく微細な反応をキャッチして相手が痛くない程度にやりとりしながら凝りをほぐしていく、高い感受性と細かい応答のアクセルワークが求められると思います。

左脳右脳なんて切り口にすると小難しい話に感じますが、非言語的なやりとりは情緒的交流と言われているもので、実は普通の子育て、普通のコミュニケーションで私たちが何気なく日常的に行なっていること。

それを、非言語的な応答・ラリーが苦手な人に対して、不器用なテニス初心者を相手にするように、乱暴な球でも追いついて、相手が打ちやすく返球をフォア・バック(右打ち・左打ち)バランス良くなるように丁寧に繰り返す。

そんな非言語的な応答やりとりが、オキシトシン分泌による身体レベルでの安心感につながり、右脳による感情・感覚の扱いや、左脳による理解・認知を促して、左脳右脳の使い方のバランスを整えたり、機能を回復したり、育てたりすることつながると思っています。

LSWで感情を扱うには、支援者自身が相手に合わせた脳の右打ち左打ちをバランス良くできないといけないと思いますし、そのためには自身の右脳⇆左脳のつながりが統合的に使える必要があるだろうと思います。

右脳による「なんとなくの感覚」を感じる感性を大事にしながら、「なんとなくで済まさず」左脳で意識的に言語化する。カメラの焦点を広くしたり絞ったりするように、右脳と左脳の機能を調節する。

「まごのてblog」は臨床感覚(右脳)→言語(左脳)に変換したり、本の内容(左脳)→日常感覚(右脳)に例えたりする自主練みたいな感じかなと書きながら、ふと思いました。

ではでは。