LSWのちょっとかゆいところに手が届く「まごのてblog」

静岡LSW勉強会の管理人によるコラム集

【第76回】シリーズ人体と「メッセージ物質」

メンバーの皆さま
 
こんにちは。管理人です。
 
静岡では桜もだいぶ咲いてきました。
 
この時期は、担当の子の卒業や自立に立ち会う機会が多くて、もちろん慌ただしくはありますが、初々しくウキウキした姿や新居を見ると、なんだかコチラまで嬉しい気持ちになりますね。
 
僕は来年度で児相在籍10年目になるのですが、幼児の頃から知っている子が立派な中高生になっていたり、自立していく姿を見るのは感慨深いものがあります。
 
そして、ようやく観ました。
 
NHKスペシャ シリーズ人体 6 " 生命誕生
 
この時期にこんなの観ると「こんな小さな受精卵から、よくここまで成長して…」なんて気持ちに拍車が掛かりますね。3月放送なんて、NHKはコレを狙ってたでしょうと思ってしまいます(笑)
 
 
シリーズ全体を通してのキーワードは「メッセージ物質」で、気持ち面だけでなく内容も非常に面白かったので、忘れないうちに感想を綴ります。
 
 
まず印象的だったのは、シリーズを紹介するエピローグ「命を支える "神秘の巨大ネットワーク"」
 
これまでの医学では、脳が各臓器に指示命令を出しているというのが定説だったのですが、最新の科学では各臓器がそれぞれ「メッセージ物質」を送り合って「対等に対話している」という。
 
例えば「疲れた」「水分が足りない」「食べ過ぎだ」と各臓器が直接メッセージを発信。そのメッセージ物質は血液を通じて各臓器に伝わり、それに反応して各臓器が色んな働きをすると。
 
脳から出されるメッセージ物質は「アドレナリン・ドーパミンセロトニン」など色々あるが、決して脳だけが他の臓器とやりとりしているわけでも一方的に命令を出しているわけではないと。
 
その話を聞いたタモリが語っていたのが「20年前にボツにした」ネタの話し。それは内臓の物語で、腸が他の臓器に「俺は内臓の中で虐げられている!」と訴えるネタだと。
 
俺は一番低い位置にいるし、脳は高い所から偉そうに支持するし、きっと俺が馬鹿にされるのは肛門に繋がっているからだ!なんて。
 
タモリは「シュール過ぎるかなと思ってやめた」と言っていましたが、ips細胞の山中教授は「まさに僕の学生時代はそう言う教育だった」と共感していて、博多華丸・大吉の大吉先生は「それ内村さんにお願いして(NHKのコント番組)LIFEでやってもらいましょう」なんて盛り上がっていました。
 
 
 
あれ? 
 
 
 
聞き覚えのある話し…。
 
 
 
この話ややりとりをTVで観ていて、僕は不思議な気持ちになりました。
 
 
 
当ブログ読者の方ならピンと来たかもしれません。「臓器同士の対等でオープンな対話」って、「まごのて blog」で何度も扱っている静岡LSW勉強会のコンセプト"そのもの"なんです。
 
勉強会で体験して、LSWの場で連鎖的に起こって欲しい現象、それは我々の人体の中で起こっている正常で健康的なやりとり"そのもの"なんだなぁ、と。
 
 
そして連想的に頭に浮かんだものは、
『【第18回】「cure」と「care」の違い』
で扱ったhealのイメージ。
 
〜語源はギリシャ語の【holos】「完全な姿(本来のあるべき姿に戻る)」だそうで、healに状態を表すthを付けて【health】「健康」になる、と。 
 
〜【healing】「ヒーリング」と聞くとスピリチュアル的なちょっと怪しいなぁと思う方もいるかもしれませんが、西欧的に言えば、競争社会で交感神経(興奮覚醒)過多になりやすい現代人の「副交感神経を優位にする」癒し系音楽とか、東洋的に言えば「気の流れが良くなる」ツボとか、一つに繋がっている心身のバランスや流れの「偏り」や「滞り」を整えて、心身が本来の持っている健康的な状態に「調整」するのが、僕の【heal】イメージです。
 
と、その時は書いたのですが、メッセージ物質が人体の中で上手くやりとりできている状態というのは、本来のあるべき姿【health】「健康」であって、その各臓器同士の正常で健康的なメッセージ物質のやりとりを東洋医学では「気の流れ」という言葉で表していたのではないかと。
 
言い換えれば、これまで東洋医学的に「気」として扱って来たものを、「メッセージ物質」という西洋医学的で科学的な用語と文脈に乗せて説明しただけではないかと。
 
これは、あくまで僕の連想とイメージですけど。そんなに目新しいことを言っているわけではなくて、人間が感覚的直観的に掴んでいることに科学が追いついただけ、そんな気がしたんです。
 
 
 
 
それと、今回放送の
“生命誕生”見えた!母と子 ミクロの会話
で印象に残った話を2つ。
 
ひとつは、受精卵が子宮に着床すると「ここにいるよ!」というメッセージ物質を出して、それが血管を通じて母体全体に浸透するから受精卵が流れないように身体が変化するという話。
 
受精卵の段階から「母と子の会話」は始まっているんだと。「ここにいるよ!」のメッセージ発信への応答を母体がしなければ、受精卵は排出され命として成長していかないんだなぁ、と。
 
これは愛着(アタッチメント)形成にとても重なるなぁ、と。愛着形成は、言語レベルのやりとりではなく、養育者が非言語レベルの目線や表情から子どもの気持ちをいかに察して想像し、情緒的な応答できるかによると言われていますよね。
 
簡単に言えば、言葉にならない鳴き声一つで、養育者がどの程度赤ちゃんの気持ちニーズを察知して、気持ちに合わせた応答してあげられるか。
 
受精直後から非言語の発信と応答はすでに始まっている、母体の一方的な察知や異物反応ではなくて「メッセージ物質による対話」であるというは驚きでした。
 
 
もう一つは、各臓器の作られ方について。臓器の中では心臓が最初にできるそうですが、そのあとは心臓が分裂する細胞に「お前◯◯になって」というメッセージを出して、その後は出来上がった臓器同士が「◯◯になって」というメッセージを細胞に出し合いながら、次に出来る臓器が決まっていく、このようなプロセスで人体ネットワークが出来ていくと。
 
そして、この"ドミノ式全自動プログラム"と呼ばれる細胞同士が対話して臓器が次々に作られていくプロセスを人口的に再現できるようになったのが、山中教授が発見したips細胞、その元になったES細胞なんだそう。
 
注目は山中教授のメッセージ物質の密度とタイミングが少しでもズレる」と、臓器の生成が上手くいかない、という話し。
 
メッセージの「密度」と「タイミング」が少しでもズレると、なんて…まさに子育てや虐待、家族関係の相談で支援者が扱ったり調整したりしているもの"そのもの"ですよね。
 
もちろん「LSW」でも、その重要性は変わりません。密度とタイミングか合っているかって、いかに相手のニーズをきちんと捉えているか、そこにかかっていると思います。
 
改めて思うことは、個の「人体」の中で自然と起こっている健康的なミクロのやりとりを、対人援助場面で、社会全体でという風にマクロでも再現する事がやっぱり自然で無理がない健康的なやりとりだよなぁ、と。
 
結局、人の集まりを「一つの集合体・生命体」として見れば、個でも家族でも組織でも地域でも、目指す健康的な形や本質はそう変わらない。
 
何となくは思っていたし考えていた事ではありますが、こうやって科学的にわかりやすく放送して伝えてもらえていることが、何か日々やっていることの励ましや応援のように勝手に思いながら観ていました。
 
まだ最終回は残っていますけど「シリーズ 人体」を通して、そんな連想や気持ちが浮かんだという感想でした。
 
ではでは。

【第75回】ソーシャルワークの新定義と「地域の知」

メンバーの皆さま
 
こんにちは。管理人です。
 
前回紹介した「シリーズ 人体」なんですが、放送時間が息子の寝かしつけの時間と重なり、さらに「99.9 ~刑事専門弁護士~season II 最終回」の録画とも被ってしまい、結局見逃してしまいました…。
 
もちろん再放送の録画はしたので、また機会に扱おうと思いますので、今回は別ネタで。
 
「99.9」と言えば、あるご当地キャラクターが頻繁に登場していたのをご存知でしょうか?
 
それは、気仙沼市ゆるキャラ「ホヤぼーや」
 
気仙沼の特産物で「ホヤ」という少しグロテスクな珍味がありまして、「ホヤぼーや」はそれを頭に被ってるキャラクターで、手には気仙沼特産である「サンマ」を剣として装備。
 
妻の実家が気仙沼なんで「season Ⅰ」の時から「あれ?ホヤぼーや?」と思っていたんです。どうやら調べてみたら気仙沼でロケをした堤監督や木村監督が気仙沼応援するために「99.9」だけでなく色んな作品でホヤぼーやを使ってるんだそう。
 
【参考】なぜこんなにホヤぼーやが?にお答えします
 
僕も何かのお祝いやお返しなどには、気仙沼の商品を使って微力ながら復興のお役に立てればと思っているのですが、こんな僕ですらTVで「ホヤぼーや」を見て結構テンション上がりますから、地元の人は本当に嬉しいと思います。
 
今回コラムはそんな「地域を大切にして応援する気持ちが大事」というお話です。
 
 
そして今回紹介するのは、この論文。
IFSW ソーシャルワーク定義にみる世界情勢」
(松山、2015)
 
 
IFSWとは「国際ソーシャルワーカー連盟」のことで、約四年前の2014 年7月に、
新しい『ソーシャルワークのグローバル定義』
が国際ソーシャルワーカー連盟総会及び国際ソーシャルワーク学校連盟(LASSW)総会において採択された、と。
 
前回採択が2000 年なので14 年ぶりの改訂だそう。ちなみに、その前は1982年なので改定までの間は18年。まぁ概ね15年前後で一つの時代の節目が来るという事なんでしょうか。
 
で、この論文の目的は、
ソーシャルワークの新定義の特徴と、新定義に書かれた現在の世界情勢を明らかにすること」
なんですが、これがなかなか面白くて鋭いんです。
 
まず面白い点とは、その言葉選び・言葉遣いへのこだわりっぷり。
 
「新旧定義とも、定義本文について注釈が書かれ、一つ一つの言葉の意味や背景などを説明している。ここを注意深く読むことにより、定義本文がどのような価値に立ち、視座や姿勢を表そうとしているかその文言が使用されている歴史的経緯が理解出来る」
 
そこに込められた本質的な在り方(=Being)を伝えようとする明確なメッセージ性、ブレない軸や意志の強さを感じます。
 
 
例えば、新定義では定義の本文中重要な部分を、
(旧)「解説」(新)「中核となる任務」
とタイトルを付け直した。それで、ソーシャルワークおよびソーシャルワーカーが何をするかを明確に表そうとしている、と。
 
確かに読み手の視点に立てば、「解説」と「中核となる任務」では全然印象が違いますよね。「解説」なんか訳わからない時の補足程度のイメージですけど、「中核となる任務」となればセンターど真ん中ですから。
 
これが「伝える」と「伝わる」の差だと思うんです。本当に伝えたいものを共通理解してもらうために、プレゼン方法を相手視点を突き詰めて、どこまで細部まで気を配れるか。
 
LSWに限らず、対人援助に限らず、一流のお仕事をするプロフェッショナルの方々にほぼ共通して、素人では到底気づかないレベルのこだわりを持って、繊細で地道な努力をコツコツと積み重ねていますよね。
 
新『ソーシャルワークのグローバル定義』には、そんな職人気質の細かさを感じます。
 
他には「ソーシャルワークの目的」についての変更。
 ソーシャルワークの定義の根本にあたる所だと思うのですが、その文言の内容はウェルビーイングを高める(enhance wellbeing)」と旧定義と変わりはありません。
 
その変更点とは、
 (旧)「well-being (新)「wellbeing
 とウェルビーイングが一つの単語になっている事。これ福祉でない人から見たら「どうでもいいよ」レベルだと思うのですが、決してそうではない。「well-being」(翻訳は「良い状態」)という言葉は、1946 年に WHOが健康の定義をした際に用いられたという歴史的経緯を踏まえて、明確な意図を持って変更されているわけです。
 
その意図については、
 そこでは「福利」と訳されていた。「wellfair 福祉」とは異なる概念であることが強調されていたと考える。well は、良い、満足な、望むなどの意味 があり、being は生きる、在る、存在などと訳すことができる。
 
〜ここでは、健康などの身体的状態や精神的、経済的状態が満足できる、望むような状態であることを指すように思われる。
 
執筆者の推測になっているので、本当のところは新定義の英語原文をあたるか作成者に聞いてみないとわからないんですけどね(苦笑)
 
今週終了する「とんねるずのみなさんのおかげでした!」の人気コーナー『細かすぎて伝わらないモノマネ選手権に負けず劣らずのホントに細かすぎて伝わらないし、気づかれない変更です。
 (コーナー初期は本当に似てるか判別不能な細かいモノマネがホント多かった)
 
このようなマニアックな所に光を当てて、わかりやすく解説してくれるのは、本当にありがたいですよね。ニュース解説の池上彰さんがTVで重宝されるのと一緒です。
 
 
その他の注目内容としては、
ソーシャルワークが「実践に基づく」ものであると実践の位置づけを重要視し任務を具体的に列挙している
 
と前置きがあって、
 〜定義本文に原理として書かれた「人権」「社会正義」「多様性尊重」のほか、「人間の内在的価値と尊厳の尊重」と「危害を加えないこと」が追加されている。
 
〜「人権」は重要な概念ではあるが、「人々がお互い同士、環境に責任をもつ限りにおいて、はじめて個人の権利が日常レベルで実現される」とし、「多様性尊重」「危害を加えないこと」との関連性を説明し、「人権と集団的責任の共存が必要」とした。
 
と解説されている点。確かに、人権・権利・多様性・マイノリティを盾に自身の責任を放棄していたり、暴力的な主張で他人を傷つけるような事件やケースは報道もされているし、実際の現場でもよくありますよね。
 
このあたりは本当に鋭いですし、海外ではより表面化した切実な問題なのかもしれません。松山氏論文の中で世界的な経済格差、貧困、民族、宗教問題が影響していると指摘していますが、「人権と集団的責任の共存が必要」とはなるほどなぁ、と思います。
 
 
そして、さらに鋭すぎてキレッキレの改定部分について紹介します。
 
注釈において、2000 年旧定義では「理論」であったものが新定義では「知(knowledge)」のタイトルになっている部分で、著者もここには驚くほどの激しい文言を持って世界の現状が語られている」と述べている部分です。
 
その理由は、新定義の中で、
ソーシャルワークは特定の実践環境や西洋の諸理論(Western theories)だけでなく、先住民を含めた地域・民族固有の知にも拠っていることを認識している」
 
植民地主義の結果、西洋の理論や知識のみが評価され、地域・民族固有の知は、西洋の理論や知識によって過小評価され、軽視され、支配された」
 
つまり一般的な「理論」とは西洋の考えであって、その考えこそが正しくして、現地の人に価値観を押し付けるようなことがまかり通っていた、ということなんでしょう。なので、もっと現地の歴史の中で積み重ねられていきた固有の知(knowledge)」の価値を見直しましょう、と。
 
「ぶっちゃけたなー」というのが僕の初めの印象。だって西洋人が「植民地主義」という言葉を使って、自分達はソーシャルワーク理論においても「支配」していたとハッキリ明文化して発表しているんですから。
 
で、どうやら論文を読み進めると、2000 年のソーシャルワーク定義が採択された際に、西洋以外の国から結構な反発があったらしいんですね。その国独自の文化に根ざした考え方や理論や知識は軽視されている。自分たちは西洋の考え方こそ「是」という価値観に「支配されている」と。
 
改めて、数百年前の植民地支配の文化的影響は根が深いんだなぁ、と感じると同時に「1982年の改訂では、こうはならなかったんだ」とも感じました。1982年は僕が生まれた年なので、リアルタイムで社会情勢を感じたわけではありませんが、旧ソ連は健在でしたし、その後にはイラン・イラク戦争真っ只中の時代です。
 
もしかしたら、被支配の当事者国が声をあげられないような時代だったのかもしれませんし、声を上げても耳を傾ける西洋人は少なかったのかもしれません。しかしながら、2000年には、そのような声を発して、それを真摯に受け止める「対話」ができるような素地が国際学会の中にはあった、という事なんだと思います。
 
この構図は、僕が働く児童福祉の現場とよく似ている気がします。施設や組織に根付いている文化というのはそう簡単には変わらないし、社会的養護(里親・施設)を出た後に、当時の出来事や被害を当事者がぶっちゃけてカミングアウトする、なんて機会に触れることは決して少なくありません。
 
この論文を読んだ時に、どうやら世界中どこでも似たようなことが起こっていて、支援者が悩み抱えている本質的な課題は国を超えてもあまり変わらないのかな、と思いました。
 
なので、当事者国の声から、
〜世界の国々は、少なくともソーシャルワークの分野においては、西洋中心の考え方(グローバ リズムと言ってもよいと考えるが)に対して強い拒否感を持ち、自国の文化や知を再評価しつつソーシャルワーク実践を定義しようとした。
 
という動きになって、定義が改定されたことの意義は本当に大きいと思います。個人でも家族でも組織でも地域でもそうなんですが、結局やるのは「本人」たち。なので、自分たちの良い所も悪い所も受け入れて、納得して勇気付けられてエンパワメントされて、自分の心の底から「変わりたい」と思って動かないと、結局のところ良い変化は起こらないし継続しないですよね。
 
そして、そこに至るまでには、当事者による歴史・経緯の「語り」というプロセスが必要不可欠と思います。ところが、外から急にやってきて「お前らのやっている事は間違っている」と対話なしにアレコレ言ったって、権威や力の差があれば黙っているだけで、言われた側の心の底では「よそ者のオメーに何がわかるんだ」と反発心を強めるだけで、その人の前でだけポーズをとる見せかけの行動変化しか起こりませんよね。
 
歴史が長ければ長いほど、秘伝のタレみたいに継ぎ足し継ぎ足しで味が出来てますから、こってり系ラーメンをあっさり系に変えるような根本を変えようとしたら鍋自体を変えないと難しいと思います。無理やり変えようとしても味同士が主張し合って喧嘩して、もっとマズくなっちゃいます。
 
そして、現実は組織や地域のメンバー総取っ替えはあり得ないですから、元々の良さを活かしつつ時代に合わせて少しずつアレンジ、マイナーチェンジを繰り返し、地道な変化を重ねて進化していくしかない。
 
それは相手の歴史や価値観、地域の知を尊重した話し合い、共に変化していこうとする協働(working together)や共進化(co-evolution)の姿勢に基づいた「オープンな対話」「信頼感」の積み重ね以外に成り立たないと思います。
 
そういうことが、
〜旧本文の「人間関係における問題解決を図り」というミクロの機能が削除され、旧定義の「社会変革」 に「社会開発・社会的結束の促進」という機能が追加されている。全体としてマクロを強調する内容となっている。
 
の中にある「社会開発・社会的結束の促進」という言葉に込められているような気がします。
 
 
で、ここまでは『新グローバル定義』の鋭さについてですが、最後に論文著者による鋭い指摘も紹介しておきます。
 
それは日本について。
 
日本に導入されているソーシャルワーク理論や知識は西洋というよりもほとんどアメリカのみである。同じ西洋でもフランスの理論などはほとんど紹介されていない。
 
〜まして、発展途上国においてソーシャルワークがどのように展開されているのか、知ることが無いというのが日本のソーシャルワーク教育の現状ではないか。
 
〜だからといって、アメリカ ・ イギリス以外の国にソーシャルワークは無かったはずはない。IFSWに90ヶ国も加盟し、各国は団体を構成するソーシャル ワーカーが実際に居るのであるから。
 
というように、米英以外の国から学ぼうとしていない視野の狭さをズバリ指摘しています。
 
僕は社会福祉士の資格を取っていないのでソーシャルワークの教育課程はよくわからないのですが、確かに児童福祉でもよく耳にするのは英米の話し、それとイギリスの流れ組むオーストラリアが多い印象。児童福祉法の改正の話題もそう。
 
そして僕は運良くカナダ・アジアの話を聞ける仲間が身近にいたのですが、他のヨーロッパ諸国や南米がどうなっているか質問しても、知っている人はほとんどいない。
 
この一部の地域の取り組みに偏って倣うことに、僕はすごく違和感を持っていたのですが、やっぱり変ですよね。
 
そして、
〜さらに、日本においてソーシャルワークはどのように発展してきたのだろうか。「ソーシャルワークということばが輸入される前に、実際の活動や政策はあったはずである。聖徳太子開いたとされる四箇院や大宝律令に救済対象を明記したことは、 社会保障制度といえるのではないか。
 
と著者も主張しているように、日本が積み重ねてきた良さ・歴史を踏まえて、海外の良い所をどう取り入れるかという建設的な議論がそれほど聞かれないのは、僕の情報収集が偏っているのでしょうか。
 
日本は◯◯年遅れている。なので、米英に早く追いつかなくては。
 
もちろん、そういう側面があることは認めますが、米には米の、英には英の「負の歴史」もあって、その反省を踏まえて変わろうと努力しているだけであって、新定義にあるように世界のソーシャルワーカーは西洋の自国制度が「是」とも「成功」とも決して思っていないわけです。
 
 
そういう意味では、正直、現在の日本は、
 
新定義で、
〜この定義は、世界のどの地域・国・区域の先住民たちも、その独自の価値観および知を作り出し、それらを伝達する様式によって、科学に対して計り知れない貢献をしてきたことを認める。
 
ソーシャルワークは、世界中の先住民たちの声に耳を傾け学ぶことによって、西洋の歴史 的な科学的植民地主義と覇権を是正しようとする。
 
とハッキリと明文化されていることに加えて、
 
著者も、
〜日本のソーシャルワーカーたちが現場で実践しているソーシャルワーク実践に耳を傾け学ぶ必要がある。西洋の理論に拠っているもののみを評価するのではなく、実際に効果がみられる実践について吟味し、 それを実践知として認め、まとめていくことが重要であると考える。
 
と主張するような、現在の世界的なソーシャルワークの基本に立ち返る考え方の流れに乗り遅れていると言わざるを得ないかな、と感じます。
 
もちろん地域で素晴らしい実践をされている方々に直接話を聞くと、共通してこのような「グローバル基準のソーシャルワークの考え方」を当たり前とした臨床活動をされていることも肌で感じます。
 
やはり児童福祉という領域に身を置き、医療=MSW、精神=PSW、施設=FSW、学校=SSWなど色んな分野のソーシャルワーカー(SW)と関わる仕事をしている立場としては、
 
ソーシャルワークとはそもそも」
 
ということ知らずして、協働・連携はありえないと僕は思っています。
 
まぁ個人的には、児相の児童福祉司がSWではなく、CWケースワーカーと呼ばれることに非常に腹が立っています。児童福祉司こそ地域に働きかけるソーシャルワーカーでしょうと。
 
まぁ『ソーシャルワークのグローバル定義』では、
 
〜旧本文の「人間関係における問題解決を図り」というミクロの機能が削除され、旧定義の「社会変革」 に「社会開発・社会的結束の促進」という機能が追加されている。全体としてマクロを強調する内容となっている。
 
となっていて、まぁ児童福祉司の仕事は「人間関係における問題解決を図り」のミクロの関係調整の連続だよなぁ、と思うと複雑ではありますけど…。
 
なので裏を返せばミクロもマクロもこなせるソーシャルワーカーSW)や児童福祉司は本当にスーパーなパフォーマンスをするし、新のプロフェッショナルだと思います。
 
だから日本ではソーシャワーカーの仕事がもっと評価されるべきだし、もっと専門的価値を置かれてもいい。
 
それが個人のセンスと努力に委ねられているもんだから、頑張る人できる人にどんどん負担やシワ寄せが行くシステムで日本は良しとしている気がします。
 
今の日本に必要だし実際に現場のニーズとして高いのは、各機関や資源をつないでコーディネートしてくれる人だと感じますし、それはまさにソーシャルワークの部分。
 
LSWだって、ソーシャルワークの部分抜きでは何も進まないのが実際ですから。ソーシャルワークは全ての支援の土台と思います。「木を見て森を見ず」の支援はホントに足元をすくわれます。
 
そう思うと真の意味でのLSW普及って、「連携」や「ソーシャルワーク」の概念の普及から始めないと行けないのでは、それはもう果てしない道のりのように最近感じてしまいます。
 
だけど出来ることは「地域の知」に根差した地道な取り組みを重ねることだけなので、焦らず一歩一歩進んでいくしかないですね。
 
と自分に言い聞かせるような今回コラムでした。
 
ではでは。

【第74回】《予告》 見えた!母と子 ミクロの会話

メンバーの皆さま
 
おはようございます。管理人です。
 
昨日、僕の息子が1歳の誕生日を迎えました。本当にあっと言う間ですね。
 
日進月歩とはまさにこのことで、もちろん大人の生活は様変わりしましたけど、シンプルに可愛いし面白い。成長を見ることの嬉しさ楽しさってコレだよなぁ、と。
 
この時期を見逃さないように、子どもが起きているうちに帰れるように、今年度は周りに助けられながら仕事をやりくりしていたなぁ、と思います。
 
実は「まごのてblog」をはじめたH29.6の終わりは、ちょうど里帰り出産から妻と息子が静岡に戻ってきた時期と重なってまして。
 
その時は全くの無意識でしたけど、「まごのてblog」は僕が子育てをしながら、その時々で感じ考えていたことの記録、親育ちblogでもあるんだなぁ、と。
 
今回は、そんな子どもが産まれる前後、妊娠期・新生児期のことを振り返させられるような、そんな番組の紹介です。
 
 
NHKスペシャル シリーズ 人体 神秘の巨大ネットワーク 第6集 “生命誕生” 見えた!母と子 ミクロの会話
 
 
NHKの人体シリーズ、ご存知でしょうか?
 
IPS細胞の山中伸弥教授とタモリさんが司会を務めるシリーズ番組です。
 
前回の第5集 "脳" では、芥川賞作家のピース又吉直樹さんの脳が徹底スキャンされ、創造性やひらめき、意識、記憶について扱われていました。
(再放送:2018年3月19日(月) 午前2時40分)
 
 
で、次回3/18(日)に放送される第6集のテーマが“生命誕生”。
 
もちろん番組内容は、まだ観ていないのですが、番組HPの案内によると、
 
「母親の胎内で赤ちゃんはどうやって成長していくのか。実は、たった一つの受精卵が赤ちゃんに育つプロセスこそ、細胞が発する“メッセージ物質”が大活躍する舞台であることが最先端の研究で分かってきた」
 
 
あれ?
 
これって以前【第41回】〜【第45回】コラムで取り上げた、

f:id:lswshizuoka:20180316091235j:plain

の内容なのでは…。
 
特に続きの、
「最初に生まれる臓器は心臓。その後、細胞同士が次々とメッセージ物質を交わしながら、ひとりでに体が作られていく神秘的な様子が浮かび上がってきたのだ。さらに、胎内の赤ちゃんがメッセージ物質を使って、母親とまるで会話をするように情報をやりとりしていることも明らかに」
 
は、【第43回】子宮内の胎児の意識と発達
で取り上げた胎児期の発達、および母体・外界とのやりとりに近いのでは、と。
 
ただし、原書「Pre-parenting:Nurturing Your Child from Conception」は2003年、訳書である本書「胎児は知っている母親のこころ」は2007年、引用論文はだいたい90年代のもの。
 
なので、今回の
《NHKスペシャル シリーズ 人体 神秘の巨大ネットワーク 第6集 “生命誕生” 見えた!母と子 ミクロの会話》
では、2018年現在における、かなり最新の情報が紹介されるのではないか、と期待しています。
 
さすがNHKですね。要チェックです。
 
 
LSWのコラムで胎児期・新生児期の話しにあえて注目して取り上げているには、もちろん理由があります。
 
1つは、胎児期・新生児期の育ちにおける環境が、その人の人間としての基本的プログラム、基礎に与える影響が非常に大きいから。
 
一般的に、妊娠期の過ごし方、飲酒や喫煙、カフェイン等々は「産まれつき障害がある/ない」という文脈で語られることが多いと思います。
 
しかし、妊娠期の環境の影響というのは「障害さえ」ならなければ全てOKなのか?障害のある/なし、オールorナッシング、0か100で捉えらえていいものなのか。そうではないですよね。
 
当然、胎児期における環境が、子どもがお腹の中で順調にすくすく育つかどうか、その細胞や臓器の構築から始まる「発達」に与える影響が少ないわけがありません。
 
そして、胎児期の環境というのは、母体の心身の健康度がモロに影響するというかそれが環境の全てになる。なので、もちろん身体面の健康は大事なのですが、神経質になり過ぎて追い詰められる母親の精神面もかなり胎内環境には影響します。なので、やはり「ほどよい母親」のバランスは妊娠期から必要ということですよね。
 
一般的なLSWでは「生い立ち」つまり「産まれてから」の歴史に焦点が当たりがちですが、その子の「育ち」「育て」を深く理解しようとすれば、生命が誕生した何ミクロンの時代から、つまり妊娠期の母親自身の生活、母親の客観的・主観的な体験を捉えることは非常に意味があると思います。
 
LSW実施前には、そもそも支援者がその子の状態を捉えるために、支援者がその子の客観的な生い立ちを整理しておく必要がある。で、基本ラインは、まずは子ども自身の認識をどう確認し、支援者が知り得ている情報をどう提示し、その子が主観的にどう味わうか、という順番なんだとと思います。
 
 
 
そして、もう一つLSW的に、忘れてならない視点があります。
 
それは、どのような母親であっても、受胎から出産までの約10月は、誰でもない実母が実母の胎内で子どもを養育していた、という事実です。
 
さらに、例え実親に育てられていない子どもだとしても、この世に存在しているということは、母親が中絶も産後遺棄もせずその子の命をつなぎ、誰かに養育を託したという事。
 
もちろん、産前の喫煙や飲酒、産後の行動など胎児・新生児にとって望ましくない行動もあったかもしれません。子どもを社会的養護(里親・施設)に預ける親情報の表面だけ見れば「育てられないくせに子ども作って」と一般的にはナジなられる無計画な妊娠だったかもしれません。
 
でも、その背景にまで想像を膨らませてください。もしかしたら母親がDVや暴力支配を受けていたり、経済的に精神的に追い詰められていなかったのか。生きていくために、パートナーとの関係維持のために、性交渉を断る選択肢を取れる状況に、その時あったのか。
 
無計画な、望まない妊娠をした。その時に周囲のサポートがあったのか。
 
子どもが産まれてからでないとサポートが受けられない社会というのは、胎児期の子どもはワンオペ育児、全て母親任せで母親の責任で育ててください、というメッセージになってしまいます。
 
妊娠期からの母親の心身状態が、胎児の発達に大きく影響するということは、社会的・集団的「子育て」は産前の母親ケアから始まっていると言えるハズ。
 
子どもの育ちや発達を支える援助者なら、産前の母親へのケアは絶対に見逃せない分野だし、抑えるべき情報と思います
 
理由は前述の通り。胎児期は母親と伝達物質を通じたメッセージのやりとり「対話」を通じて、その子の基礎を作り上げる時期だから。
 
番組の内容は見てのお楽しみですが、胎児期・新生児期の育ちが子どもの成長発達に及ぼす重要性を通して、産前産後ケアの重要性もっと注目が集まって欲しいと思います。
 
欲を言えばいま話題の「働き方改革」「待機児童問題」も働く大人視点の議論だけでなく、将来を担う子ども視点で「社会的な子育て改革」につながるような議論発展していって欲しいですね。
 
ではでは。
 

【第73回】人気俳優たちの「柔軟な思考」の源

メンバーの皆さま
 
こんにちは。管理人です。
 
いよいよ年度末らしくバタバタしてきました。
 
そんな中、朝4時半の高速バスに乗り込み、今日明日で鹿児島・熊本に出張なんですが、数日前からの噴火で、危うく鹿児島行きの飛行機が飛ばないところでした。
 
いやぁ〜、これまで火山灰なんて画面の向こう側、[非日常]の遠い世界の話しのようでしたけど、こういう体験でもしないと身に染みないものだなぁ、とつくづく思います。
 
では、今回コラムは前回とりあげた「an・an」

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で扱いきれなかったコーナーから。
 
 
役の切り替えから、アドリブまで!
人気俳優たちの柔軟な思考の源とは?
 
今をときめく俳優「窪田正孝さん/村上虹郎さん/鈴木信之さん/岩永徹也さん」の4人のインタビューから。
 
ちょっと無駄話が多く、後半になるにつれエンジンがかかって来てちょっと暑苦しい感じの熱量になってしまいましたが、そんなつもりで読んで頂ければ幸いです。
 
 
File01:窪田正孝さん
苦しみ、もがいた時間が自分の糧になると思う
「場数を踏ませていただいたこともありますが、日常に役の影響が出てしまうのが怖く、気持ちが楽になれる方法を考え始めたのがきっかけです。先輩の役者さんを見ていると、それぞれに切り替えや、仕事との不安との向き合い方を持っていて、僕の場合は現実逃避でした。映画を観たり、ドライブをすることが大切な時間です」
 
「…僕にも役と同様、兄弟がいますが、ぶつかっても一緒にいられる、人という "家" があるのはいいことです。その相手は親や友人など人それぞれでしょうが、考えや本音を話すことで思考がまとまると、自分自身を理解でき、人として成長できると思っています」
 
 
もはや説明不要の人気俳優の窪田正孝さん。今やドラマに出てないクールを見つける方が大変ですよね。
 
僕が初めて彼の存在を知ったのは、2015年放送の月9ドラマ『SUMMER NUDE』。
 
山Pが主演でカメラマン役、突如いなくなった恋人役が長澤まさみ恋人喪失に暮れる幼馴染みの山Pを追い続ける戸田恵梨香そんな戸田恵梨香を影で想い続ける「引っ込み思案の地元メガネ青年役」が窪田正孝さんでしたが、放送を重ねる度に増す人気と存在感。
 
シナリオは完全に『ビーチボーイズ』(1997年)そのまんまなんですが香里奈高橋克典勝地涼などなどキャストがよかったですよね。千葉雄大山本美月もあのドラマ以降にブレイクしましたし。
 
もちろん、窪田正孝さんもその後から現在までドラマに映画に引っ張りだこ。好青年キャラから『Death Noteでは腹黒い役までこなせる演技派俳優の地位を確立したように僕は思います。
 
そんな窪田さんも今年で30歳だそうですが、これまで「苦しみ、もがき」ながら成長したプロセスを感じさせる語りです。特に「日常に役の影響が出てしまうのが怖い」というのは臨床家も非常に参考になる視点と思います。
 
児童福祉現場では、普通はあり得ないような[非日常]的な修羅場に多々遭遇するので、被曝し過ぎて[日常]生活の方に影響が出てしまった経験をお持ちの支援者は本当に多い、というか多かれ少なかれ全員が経験していると思います。
 
そんな時に、先輩の気持ちの切り替え方を見たり、安心して自分の考えや本音を語れる人の存在が自己理解と自己成長を促してくれた、なんてもはや児童福祉の経験者のような語りですよね。
 
その場に応じた自分を演じるという部分において、やっぱり役者と臨床家は共通点が多いんだな、と改めて感じます。
 
 
 
では、二人目はこの方。
 
File02:村上虹郎
左脳と右脳、そして直感。この3つが行動の基準です。
舞台稽古に取り組んでいるときは、普段の何倍も脳を使っている。
「セリフの意味を咀嚼し、共演者のことを考え、演出家の言葉に耳を傾け、客観的にどうしたら面白い " 製品 '' になるか意識しながら、臨機応変に自分の役として動く。…」
 
悩んだり、辛いときは、自分の心に尋ねる。
「感情と理論の両面から "本当はどう思ってるの?" と自分に聞いてみます。両方とも "理にかなっている" と思ったら、ストンと納得できる。頭でわかっていても感情が整理できなければダメだし、逆もそう」
 
 
1997年3月17日生まれ、もうすぐ21歳になる俳優さん。「虹郎」は本名ということですが、名前だけだとピンと来ない方も多いかもしれません。ドラマ「仰げば尊し」など多数出演している "ハッキリした眉毛" が印象的なアノ青年です。写真を見れば思い出す方も多いのでは。
 
父は俳優の村上淳、母は歌手のUA
 
UAと言えば約20年前に「甘い運命」「情熱」などが大ヒットした沖縄出身の実力派シンガーですよね。JAZZなんか唄うと本当にカッコ良いので、僕は未だにiTunesに入れて時々通勤中に聴いています。
 
出産してから歌手活動が減って残念に思っていたのですが、まさかこの形で息子さんが世に出てくるとは驚きでした。アノ眉毛は完全にお母さん譲りですよね。
 
そんな感性豊かな母親のDNAなんですかね、語る内容が若干20歳のものとは思えません。
 
「右脳と左脳、感情と理論の両面から自分自身に問いかける」とか、もはや熟練カウンセラーの域じゃありませんか?
 
しかも、
「セリフの意味を咀嚼し、共演者のことを考え、演出家の言葉に耳を傾け、客観的にどうしたら面白い " 製品 '' になるか意識しながら、臨機応変に自分の役として動く。…」
 
なんて、俯瞰的な視野もハンパないですよね。こんな仲間と一緒に仕事できたら、どれだけ頼もしいことか。
 
これまで「まごのてblog」でこねくり回して扱ってきた内容を、いとも容易く簡潔に語ってしまう20歳…。
 
大事なのは年齢や経験よりも、遺伝子と育ちで培われた「資質」なのかな、と感じずにはいられない語りです。
 
 
3人目はこの方。
 
File03:鈴木伸之
予想外の結果が生み出す、爆発力がたまらなく好き。
「準備が大事なお仕事だと思っているので、台本を読み、物語の流れや演じる人物の役柄を考え、大枠を決めてから現場へ行きます。でも、一人で決め込まず、余白を残すことも意識しています。予定調和より、何が起こるかわからないハラハラ感がある方が作品が面白くなると思うんです。"1+1は2ではなく、3でも4でもいいだろ!"って考え方。予想外だからこその爆発力が、たまらなく好きです」
 
長年打ち込んでいた野球も、仕事に影響している
「スポーツもお芝居も、チームプレーという点では一緒。だから、共演者の方やスタッフさんとも垣根なしに楽しく、いい作品を作り上げたいんです」
 
 
劇団EXILEのメンバーで、1992年生まれ25歳の俳優さん。『桐島、部活やめるってよ(2012年)や『GTO』(2012年)にも出演していたんですね。気づかなかった…。
 
僕が鈴木信之さんを記憶したのは、池井戸潤原作のドラマ『ルーズ・ヴェルトゲーム(2014年)』。大ヒット『半沢直樹の次にドラマ化された池井戸潤シリーズ第2弾の作品です。
 
社会人野球の話しなんですけど、鈴木さんは主人公のライバルチームのエース役。主人公もピッチャーですから、まさにライバルです。野球経験者というのも配役の一部だったんですね。
 
池井戸潤シリーズを観たことある方はご存知かと思いますが、まぁ敵役はネチネチ意地悪い人ばかり。例外なく鈴木信之さんも性格の悪いボンボン青年役なんですが、人を小馬鹿にしたようなニヤニヤした表情など「この人ホントに性格悪そうだな」と思わせる演技。
 
当時、若干21〜22歳ですからね。やっぱり何千人何万人というオーディションを通る人は「見た目カッコイイだけ」じゃなくてモノが違うんだろうな、と思いますね。
 
割と普通っぽいこと言っているようで、始めの語りは見逃せません
 
「準備が大事なお仕事だと思っているので、台本を読み、物語の流れや演じる人物の役柄を考え、大枠を決めてから現場へ行きます。でも、一人で決め込まず、余白を残すことも意識しています…」
 
この部分は、児童福祉の「初対面」の場面によく似ていると思います。僕は非常勤時代に教育・福祉・医療それぞれの職場を経験できたのですが、基本的に相談情報は、目の前の「相談者」から聞く以外にありません。名前、年齢、家族構成といった基本的なことから全て。
 
そして、継続的な相談につながるか否かは、その時に相談者が「また相談したい」と思えるかどうか。ダイレクトに自分の身の振りが相談関係に直結します。これが、むしろスタンダード。
 
しかしながら、児童福祉は児童福祉法が整備されているおかけで、虐待の場合、良くも悪くも事前情報が当事者以外からも取れちゃうんですね。相談に来る前、施設や里親に委託する前、支援者は通告内容やそれまでの経過等の事前情報をある程度知った上で「当事者」に会うことになる。
 
もちろん、色々な準備が出来るという点においてはメリットもあるんですけど、逆に落とし穴もあって、あまりに事前情報を信じすぎると目の前の人との「関係構築」の邪魔になる場合があります。
 
よくあるのが、相談の始めから保護者や子どもを「虐待をしたヒドイやつ」「問題行動ばかりする困った子」という先入観や色メガネでもって対応してしまうケース。
 
まず、客観的な「虐待」「問題行動」があったのかどうかの事実がどうで、本人の認識はどうなっているかもわからないわけで。
 
さらに「ヒドイ」「困った」という情報は、これだけだと主語すら曖昧な主観的な感想ですから、誰がどういう文脈ストーリーでそう思ったのか、をキチンと整理しないといけません。たいてい通告者や相談者当人は泡食ってますから、そこの所をまず一旦落ち着かせて整理していくことも支援者の仕事とひとつと思います。
 
「予定調和より、何が起こるかわからないハラハラ感がある方が作品が面白くなると思うんです。"1+1は2ではなく、3でも4でもいいだろ!"って考え方。予想外だからこその爆発力が、たまらなく好きです」
 
臨床現場に置き換えると、「予定調和」的な事前打ち合わせ通りに面接をしようとすればする程、思考が固くなり、その場で起こっている事を感じることが疎かになったり、話に耳を傾けるよりも頭の中で次の質問の事ばかり考えている事態が起きるので、結果的にクライエントをないがしろし大切にする姿勢に欠けて、相談関係や信頼関係が築けないということが往々にしてあります。
 
しかし、その場で語られる話しや様子に集中して丁寧に耳を傾けると、意外な情報が出てきたり、面接終わりには事前情報とは全然違う予想外な相談者の姿が見えてくることは割とありますよね。
 
確かに僕もそういう瞬間、その場のやりとりにおいて期待以上の化学反応が起こったり、良い意味での驚きを体験する面接は、たまらなく好きだし臨床の面白さ奥深さを感じます。
 
最近よく思うのは、やっぱり支援者が「教えてやろう」「気付かせてやろう」という姿勢が漏れ出てる関係では想定の範囲を超えてこない、あえて言うなら想定より事態が悪化していくことの方が多い。
 
当たり前かもしれませんが、「目の前の人のことをもっと知りたい」「そのことについて理解を一緒に深めたい」と、答えを出す事を急がず共に悩む姿勢や関係性を体現できた時、
 
いい意味でクライエントが予想を裏切り、期待に応えてくれる、むしろ期待を超えてくる
 
ことが起こっているを気がします。正直大変なケースに関わり続けた末にそうなることが多くて、ホント臨床家というものはクライエントに経験を積ませてもらって育ててもらうものだなぁ、と思います。
 
そしてLSWと言うのは、そのプロセスの中で子どもたちが予想を超えた反応、想像以上の成長を見せてくれることばかりで、毎回驚きと発見の繰り返しなので、ホントこちらが勉強させてもらってるなぁと思います。
 
 
 
長くなりましたが、最後はこの方。
 
File04:岩永徹也
ゴールからハシゴを下ろす感覚で行動しています
「演じる時は、最初に作品の完成形を想像して、面白くするための種を蒔く方法を考えます。自分に求めらているポジションを考えて、お互いの役の魅力が輝くようなキャラ作りをしたり、笑ってもらえるようなアドリブを考えて入れたりする…」
 
「目標から逆算して動くと、ただゴールに向かうよりも少し先にある到達できる。自分の成長や作品の仕上がりが想像を超える体験は、僕にとって楽しいものなんです」
 
 
僕が4人の中で唯一知らなかったのが岩永さん。1986年生まれの31歳で「若手じゃないじゃん!」と思ったら、元々は「MEN'S NON-NO」のモデルさんだそう。薬剤師での勤務経験もあり、IQ上位2%でしか入会できないMENSAの会員であると。
 
で、あの「テラスハウス(2013年)」では王子と呼ばれ、「Qさま」のインテリ軍団としても出ているらしい。全然知らなかった…。
 
今思えば放送があった5〜6年前は、ホント家には寝に帰ってるだけみたいな生活で、まともな時間にTVなんて観てなかったんだったなぁ、としみじみ。
 
しかも、なんと岩永さんは仮面ライダーエグゼイド」の檀黎斗(だんくろと)役でもあると。
 
この正月に5歳の甥っ子が、
《♬EXCITE!EXCITE!た〜か〜鳴る♬》
 
と連呼していて、あの三浦大知の癖のある楽曲を幼稚園児に熱唱させる「仮面ライダー」の影響力やっぱスゲーと思いましたし、
 
お仕事でも「エグゼイドごっこ」で担当の子に散々やられているのにチェックしてないなんて「いかんな」と反省しました。
 
 
 
で、インタビューに触れると、
「目標から逆算して動く」と言う考え方は、以前に紹介した「フューチャーマッピング」や「未来語りのダイアローグ」と同じですよね。
(参考【第56回】ジャパネット流「企業再生術」
 
ポイントは、未来の「ビジョン」や「在りたい姿」(=Being)を頭の中でどれだけ明確に描けるかだと思います。そして、大抵の人はすぐに「そんなの無理」と諦めてしまうんですけど、それはDoingや結果に囚われ過ぎているからではないか、と思うことがあります。
 
自分の家族や自分の組織そして自分自身が「どう在りたいのか」その希望や願いは初めから諦めるものではないし、その姿に向かって進み近づくこうと考え始める事は今からだって出来る。
 
そして、そこに近づく方法(=Doing)は、決して一つではないハズで、状況や考え方によって多種多様に変化していっていいと思います。
 
大事なことは根気強く種蒔きをして、水をやり続けられるか。芽が出て、茎が伸びて、実がなって収穫できる時なって、ようやく形となり成果として実感できるんだと思います。
 
芽が出た時の「喜び」、順調に伸びていく「楽しみ」、時として病気なったり倒れそうになる「悩みや苦しみ」、そんなプロセスを共にして収穫した果実は、スーパーマーケットで売られている果実とは、その意味合いや価値が全然違うと思うんです。
 
そのように共に作り上げ、共に変化成長していく体験共有をきっと俳優さん達は「お芝居」「舞台作品」を通じてしているのかなぁ、と4人のインタビューを読んで思いました。
 
そして、児童福祉におけるソレは「子どもの成長」ではないかなと僕は思っています。子どもが成長したり笑顔が見られた時はやはり嬉しいものです。
 
よく「安全安心」と呪文のように唱える人がいますが、僕の中では「安全安心」はゴールじゃなくて通過点。安全安心が心配だと言って、一年中ペットの様に家やカゴに閉じ込めておくことが「最善の子どもの利益」につながるとは思えません。
 
成長期の子どものを考えた時に外せない視点が成長や可能性(ポテンシャル)を伸ばすこと。特に、ゴールデンエイジと言われる脳や神経系の発達が目覚ましい10歳までは。
《参考》
【第35回】バイオサイコソーシャルアプローチ①
 
 
では、なぜ「安全安心」が必要か。それは、自由に伸び伸びできる環境や遊びの中でのトライアンドエラー試行錯誤)が、自分で感じ考え動く力を養うからだと僕は思います。これは子どもでも大人でも。
 
もちろん危ない時、道理に合わない行動はストップします。その線引きが「枠」や「ルール」。例えば、僕自身もうすぐ1歳になる息子がいるのですが、自宅でベビーサークルを利用しています。文字通り木製の「枠」です。
 
使ってる理由は、大人が目を離すときに、そこに息子を入れておけば「安全安心」だから。何でも手に取るし、口に入れちゃうので。逆にベビーサークル内なら、どんなに散らかそうが口に入れようが安全で自由に遊べる環境を保証する。
 
別に大人が一緒なら、ソファーとか外遊びにも連れて行きます。ガンガン動き回るのでソファーから落ちそうになったり、芝生を掴んでそのまま食べようとしますけど、その時はそっと大人が止めてあげる。観察しながら安全からハズレそうになった必要な時にだけ守ってあげればいい。文字通り「見守り」「観守り」です。
 
要は「成長につながる経験」をどう保証して、安全安心を維持するための「許容度」をどう設定するか。その「安全を守るために必要な枠」と「成長に必要な経験」は年齢や成長段階によって変化していくものだと思います。小学生にベビーサークルは使わない訳で。
 
情緒的感覚的な成長を促す「自由」を確保するための「安全安心」。安全安心は子育ての必要条件ではあるけど、十分条件ではないと思うんです。
 
その自由度と安全度、制限と許可のバランスは、環境面・大人の人数(ハード)と子どもの身体的・精神的な発達段階(ソフト)によるんだと思います。こう考えると子育ては、皆さん当たり前のようにやっていますが、とても柔軟性と繊細さが求められる24時間の個別支援ですよね。
 
なんて言うと、たいそうなものっぽくなりますけど、枠と言うのは実際は「大人が息を抜ける場」「ホッとできる時間」としての意味や機能も大きいと思います。
 
「子ども中心」とはいえ大人だって、ご飯食べたいし、疲れたら甘いものもつまみたいし、夜はビール飲みたいしTVも観たいわけで。そんな時、安全安心な枠に子どもを置いておけるから、大人も安心してひと息をついてエネルギー補給して、また子どもに向き合えるのではないでしょうか。
 
「いい加減に」泳がせておける時間や空間があると言うのが、実はお互いにとっての余裕を生んだりする 必要な"遊び" だったりするよなぁ、と。
 
実生活の中では、掃除して洗濯して食事作って食べさせてオムツを替えてお風呂に入れて後片付けもして…なんて家事に加えて仕事や学校関係の準備物とかの雑務も結構あって、現実的には四六時中こどもに付きっきりで相手するという訳にはいかないし、ハッキリ言ってそんなんじゃ身が持ちません。
 
仕事も家事も子育ても「程々のところ」で終える決断、良い意味での「いい加減」で諦めるコトも、生活上の24時間のトータルコーディネート、人生の質(=QOL)を考えた時には、重要なことだと思います。
 
どんな人でも1日24時間という持ち時間は限られているので。何でもかんでも十分に出来るわけではなく、シーソーのようにどこかに比重を置けば、どこかにかける時間は減ってしまうのは必然です。
 
なので、その限られた持ち時間をどう使うのか、それを考えて選択した積み重ねが生き方であり、Being、在り方につながるのかな、と。
 
そして、その選択肢の幅を決定する大きな要素が環境です。時代、国籍、社会情勢、経済力、行動範囲さまざまな環境の違いによって、現実的にはやれることに制限がかかる。限られた枠の中でどう生きるか、それは大人になってからも社会生活を送るなら大なり小なり付きまとう事なんだと思います。
 
だから、限られた枠を意識しながらも、自分で感じて考えて「なりたいこと、やりたいこと」に自らの意志で近づこうとする経験を、子どもの頃から可能な限り積んで欲しい。
 
その思い描いた姿と現実の姿は完全には一致しないかもしれない。でも、自分の力で進んだ近づけた経験や自信が、次の目標への一歩を踏み出させることにつながると思うから。
 
でも、それを邪魔をするのは大人側の葛藤。周囲と違ったりズレたりすることへ不安。周りからやいのやいの言われて、一人で抱え込めなくなった時、「目の前の子ども」より「周囲」からの目の方に重点が行ってしまい、シワ寄せが子どもに直接向けられる場合に不幸なことが起こると思います。
 
本来、子どもが今日よりも成長することが喜ばしい事のハズなのに、比較対象ができた途端「今日の伸びシロ」「出来たこと」より「周囲とのギャップ」「足りてない」の方にばかり気が向いてしまう。
 
嫉妬やコンプレックス、誰にでもある自然な感情。それはそうと受け止めて「いい加減に」なれるかどうか。それが「その子らしさ」「自分らしさ」を認めることなんだろうな、と。
 
ただ児童福祉に辿り着いてしまうお子さんは、身体面と精神面の成長が凸凹だったり、どちらとも同年代の子から遅れてしまっているので、必要な環境(ハード)も必要な経験(ソフト)も他からズレて「こんなハズじゃなかった」と受け入れがたい気持ちになるのも、また現実。
 
「普通になって欲しい」
 
よく耳にする言葉ですが、一緒にBeingを考えて見てください。その人が望む「普通」とはどのような姿なのか、その子にどう生きて欲しいのか、そもそも子ども自身がどう生きたいと思っているのか。
 
子どもを想う気持ちがある人なら、表現の仕方は様々ですが「その子が将来、生きていくのに困らないように、幸せに暮らして欲しい」ところに着地していくハズです。
 
子どもの成長を願い信じて、その可能性(ポテンシャル)を引き出し続けた延長戦上の「結果」として、周囲に追いついたり追い越したり、異才を放ったりするんだと思いますが、僕が大事にしたいことは「その子らしく生き生きしているか」「楽しく笑顔になれるのか」。
 
しかし、チャイルドファーストではなく「家族に迷惑をかけないように」とか「あの子に変わってもらわないと」とアダルトファーストの思考から抜け出せない人もいるのは事実。
 
そう言う時は、まずそう考える大人自身が今の生活が苦しくて、満たされきれない子どもの部分も残ってもいて、子どもよりもまず自分が癒されなければ、とても子どもの将来を考える余裕なんてない状態と思うので、まずは大人自身の支援が必要なんだと思います。
 
この構図は、施設や里親に委託されている子のLSWでも全く同じです。LSWは、かなり先の将来への投資、種蒔き的な関わりになるので、今のことや自分の事で一杯一杯な支援者には「この子に将来こうなって欲しい」という話題を考えたり話し合う余裕は無いので、LSWの検討は難しいと思います。
 
僕のLSWイメージは、「自分の人生は谷ばっかりだ」と将来を悲観的にしか描けない人に対して、これまでの道のりをポジティブ面にも光を当てて整理する事で「人生山あり谷あり」「物事には光と闇がある」と視野を広げて、「将来だって良いことも悪いこともあるハズ」と将来を極端に「悲観的/楽観的」するではなく視野を広げて考えられる足掛かりになれば、という感じです。
 
しかしその時、支援者自身の視野や考え方が狭かったり、物事の「ポジティブ/ネガティブ」「楽観的/悲観的」な見方が偏って極端だったりする人達の集まりだったら…。子どもの視野が広がったり、思ってもみない気づきが得られる場にはなり得ないですよね。
 
子どもに「そうなって欲しい状態」を、まず支援者自身が経験していないと。自分が出来ないことを、子どもに求めては酷です。
 
 
ちょっと長くなりしたが、何が言いたいかと言うと、やはり、まず支援者が自分自身を大切にしてセルフケアをして、柔軟な視点を持ち、両価的な価値観・感情を認めて感じて抱えながら考えること。
 
これまで当ブログで手を替え品を替え扱ってきたし、今後もこのことを繰り返し扱い続ける理由は、そういう姿勢が言葉ではなく背中やその場の空気感で子どもに伝わるから。
 
逆に言えば、全て言葉で伝えなくとも自然と良い影響を受けてくれる、インフルエンザではないですが、支援者の基本姿勢・考え方や生き方は、何気ない所作で感染伝染しやすいと思います。特に、子どもの場合は。
 
そういう意味において、児童福祉の支援者は舞台俳優であるし、でもいつも舞台上じゃ疲れてしまうし、どうしたって職業観と生き方が重なって切り分けにくい仕事だと思います。
 
なので、大人が自分を偽って「自分らしくいられない」支援は大人自身が苦しいし、それを見ている子どもも苦しいし、お互いに苦しい…。
 
 
そういう狭い視野に陥りがちな時に
「人気俳優たちの柔軟な思考の源とは?」
とても参考になると思いました。
 
やっぱり今回の「an・an」は永久保存版ですね。
 
ではでは。

【第72回】an・an流「思考の整理術」

メンバーの皆さま
 
こんにちは。管理人です。
 
気がつけば3月ですね。年度末ですね。時の早さは恐ろしいです…
 
僕は、4月はじまりの手帳を愛用しているので、2週間程前に来年度に向けて新しい手帳を買いに本屋に行ったんです。
 
すると、一際目立つ本が。
 

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その日はたまたま羽生結弦選手が金メダルを取った翌日だったんです。
 
そりゃ目に留まります羽生結弦SPECIAL】
 
 
ただ、目次を見てみると、オリンピック前の特集で、しかも羽生選手のインタビューや五輪種目の紹介なんかは雑誌後半に追いやられてる…。
 
で、メインの内容を見たら、ほぼ対人支援における心理教育(つまり相談者あるある)的な内容で、クオリティーが驚くほど高い!
 
これが[¥550(税込)]なんて信じられないコストパフォーマンス。思わず即買いしていまいました(笑)
 
ということで、今回はan・an[No.2089]より。【参考:目次】
 
 
まず表紙にもある通り、
 

新しい自分になるための、5つのワーク。

思考の整理術

[論理的思考を養う]
[キャパを拡大する]
[直感力を育む]
[視点を変える]
[発想のデザイン化]
 
え⁉︎、これ職員研修で、しかもある程度の実務を積んだ中級くらいで扱うレベルの内容ですよね。はい…
 
しかも、
・人に流されがち
・気持ちがパツパツでキャパオーバーしがち
・ひとつの考えに固執しがち
・言いたいことはあるのに相手にいまいち伝わらない
・考えがまとまらない
 
なんて、児童福祉現場の相談者(子どもや保護者)の状態そのものであったり、初任者はおろか余裕がなくなった中級〜ベテランの支援者でも結構陥りがちな状態ばかりです。
 
この辺りの凝り固まった思考や視点をほぐす書き込み式ワークがそれぞれ紹介されています。
 
しかも、そのワークの一部なんて、
 
 
「あなたが心地いいと感じる"椅子"を描いてください」
 
「3年後の理想の自分の姿を思い浮かべて、描いてください」
(→解説:未来の予想で、今やるべきことが見えてくる)
 
 
内容やエッセンス的には、トラウマ治療の前にやる「安全の場所のワーク」や、LSW、オープンダイアローグ(未来語りのダイアローグ)で使う質問とほぼ同じです。
 
サラッと書いてありますが、かなりハイレベル。
 
しかも、これはまだ序の口。次なんて、
 
 

不要な怒りやイライラとはサヨナラしよう。

怒り!の整理術

 

日本アンガーマネジメント協会代表理事安藤俊介氏によるリアルガチのアンガーマネジメントの話しです。
 
お題目だけ紹介すると、
STEP1】人はなぜ怒るのか?6大原因を知る!
・自分の心に余裕がないから
・自分の「べき」からは外れているから
・他人のせいにしているから
・事実と思い込みを混同しているから
・怒りが伝染しているから
・思い通りにいかないから
 
STEP2"怒り"を客観化しよう
"べき"3重丸のうち、"まぁ許せる"のゾーンを広げよう》
《「ストレスログ」をつけてみよう》
(自分にとって「重要↔︎重要でない」
自分で「変えられる↔︎変えられない」の整理)
 
STEP3】怒りを抑える行動をしよう
《すぐできる!6秒アクション》
①自分の心が落ち着く、魔法の言葉を唱える
②思考停止する
③口角を無理やり上げる
④目の前のものをじっくり観察する
⑤その場をとにかく離れる
⑥ツボを押す
 
STEP4】怒りを上手に伝えよう
《怒りを伝える時の心構え
①「気持ち」を伝えるのではなく、「リクエストを通す」ことを目標に。
②冷静に、「私」を主語にして伝える。
NGワードを使わない
(過去を持ち出す/思い込みの程度の言葉「絶対、いつも、必ず」/大多数の正しさの主張)
 
 
見事すぎて何も言うことがありません。是非、直接見てみてください。イラスト付きでワーク例も入っていて、下手な専門書より100倍わかりやすい。児童福祉に関わる相談者と対人援助職の人すべてに「an・an」配布してもらいたいです(笑)
 
 
全体の構成を少し臨床的な用語に変換すると、
→一般的な状態・認知傾向を知る(心理教育)
→→自分の気持ちから距離を置いて客観視する
→→→自分の感覚・気持ちをコントロールする
→→→→適切な形でアウトプットする
 
の順番でわかりやすく整理されているし、本コラムで何度も取り上げている、
 
       認知(あたま)
          /            \
    感情    ー    感覚
(こころ) (からだ)
 
のつながりの各方面からの説明も入ってますし、マインドフルネス的アプローチ、表情筋やつぼを使った身体アプローチにも触れられています。
 
そして最後には、
 
怒る基準は「伝えないで後悔するかどうか」
 
と感情を抑圧・我慢しすぎることの不健康さや、うまく気持ちを伝えるアサーション的な説明がしっかりとされています。
 
ここまででも支援者を対象に1日かけて研修するでも十分すぎる内容ですが、an・anは欲張りでまだまだこんなもんじゃ終わりません。
 
 
 

恋にも思考の整理が必要です。

いつもしんどい恋愛はこれが原因!

“執着心”をほどく実践ワーク

 
 
これ恋愛の体を取っていますが、内容は完全に依存や基本的信頼感、愛着(アタッチメント)の話しです。
 
例えば、
「執着してる」ってどういう状態?
→支配したい/周りが見えない/見張っていたい
 
・いまのままでいい、変わるのが怖い
・私には、愛される価値があまりない
・素の自分を知られたら、嫌われる
・大事にされない私、に気づきたくない
 
おやおやって感じですよね。
 
しかも、
「ぎゅっと握りしめた"執着心"のほどき方」
ネガティブな執着をポジティブなエネルギーに変える方法、お教えします!と題し、
 
【STEP1】
「あ、私、いま◯◯に執着している」という事実に気づく。
【STEP2】
「執着してしまう私」を責めずに、自身の一部だと受け止める。
【STEP3】
執着を「消す」のではなく、違うエネルギーに「切り替える」。
 
と紹介されていて、しかも、その執着は過去から来ているので、過去と今を「線」で考えるのではなくて、[過去ー現在ー未来]をいくつかの「点」の連続に分けて、各ステージに色分けして考えてみるようにアドバイスがある。
 
さらに実践ワークとして
「固まった執着心をイメージで溶かす」練習
を紹介されていて、色やイメージを使った気持ちの外在化にまで触れている。
 
 
ホント本格的すぎます。
 
[怒り]や[依存]、それに付随する人間関係での支配感、恐怖感、不安感。

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これまでコラムで何度も触れてきた、ドーパミンノルアドレナリンの分泌過剰の状態の説明と対処法が見事に扱われていると思います。
 
 
で、そんな内容に感心しつつ、なんで一冊にこんなにぎっしり詰め込まなければいけなかったのか、an・an編集部は誰をターゲットにコレを書いてあるのか、とふと考えたんです。
 
「あ、そうか!」と。一般のan・anを手に取る程の社会生活を送れてるレベル人たちの悩みは、この各特集のウチのせいぜいどれか一つか二つなんだろうと。
 
an・an読みながら「一人でこんなに盛り沢山やって大丈夫か?」なんて余計な心配をしたのですが、
「思考がゴチャゴチャでまとまらない」
「怒りのコントロールが効かない」
「依存や支配関係、見捨てられ不安がある」
 
そもそも、これ全部深いレベルで当てはまる人は、世間一般での適応すら難しいですよね。一つだけでも、そこそこ大変な人です。
 
なので、読者のターゲットは、全部に該当する人ではなくて、どれか一つでも気になれば買って貰えるだろうと、購入層を広く捉えて、売り上げを伸ばすということなのではないか、と。
 
そして、ある程度の健康度を持っていて社会資源(家族や友達など)にもつながっている人なら、多少の悩みを抱えながらも一人で書き込み式のワークをしてセルフケアする力があるんだよな、とハッとさせられました。
 
改めて思うことは、児童福祉が直接関わる家庭というのは、基本的に多重問題すぎるし、複雑に絡み合ってる。でも、抱えている一つ一つの問題や状態を個々で見れば、一般の多くの人が抱えている心配や問題と種類や分野は大きくは変わらないんだろう、と。
 
ただ、児童福祉ケースにまでなると、(お金に例えるなら)借金に借金を重ね過ぎて、もはやどこからいくら借りていて、それぞれの月々の返済額がいくらか全然わからないし、過払いなんてズブズブ過ぎて把握も出来ない、どこから手をつけていいのやら…と言う感じになってようやく関わりが始まる感じだよなぁ、と。
 
それでもって仕事も収入も少なくて、身近に助けてくれる人もいなくて、そんな状態を一人だけじゃ回復できないので、一緒に滞納整理したり返済方法を考えたりする[対人援助職]というお仕事が成り立っているんだよな、と。
 
例えじゃなくて、本当の借金問題も重なっている場合も多いですけどね。
 
そのような生活に余裕のない状態で、an・an特集のような[認知・思考][感情コントロール][対人関係]これら全部に問題をを抱えているような人に寄り添おうとすれば、当然、支援者自身が巻き込まれて、それと似たような精神状態に陥ることはよくありますよね。
 
なので、やっぱり対人援助職として仕事として人に関わる人には、一通り起こりうる全て知っておいて欲しい。そして、早めに気づいて、まずはセルフケアして欲しい。
 
こういう心の中で起こることや身体的反応を一般化して事前にガイダンスしておき、実際に我が身に起こった時に、距離を置いて俯瞰的に自分の状態を気づいて見つめられるようにすることを狙うのが[心理教育]と呼ばれるものですよね。簡単に言うと「あるある話し」です。
 
LSWに取り組む前にも、施設入所児あるある、里子あるある、喪失体験あるある話しを子どもに伝えて「自分だけじゃないんだ」「言っていいんだ」「わかってくれるんだ」という体験があった後に、自分の過去を聞くのと、全くガイダンスなしに聞くのとでは、心と身体の準備性が全然違います。
 
これは、大人も一緒です。児童福祉の現場は、普通の家庭内では考えられない[非日常]な出来事が日常的に起こり、日々の業務で疲れ果て、ろくに研修を受ける時間も作れず、必死で頑張って気がついたらバーンアウトしているから離職率が高いのに、新採職員に現場に出てから実際に身体や心の中で起こること事について説明をしている職場がどれくらいあるのか。
 
そして、そう言った児童福祉現場や心理教育の話しを、その分野に関わったことがない関係者や他職種の方に専門用語のまま説明することは、現代人に古文を古文のまま説明しているようなものだと、僕は思います。別世界の話し過ぎて、ピンと来るわけない。
 
難しい言葉での説明は、難しい言葉を理解できる人にしか伝わらない。これは逆に煙に巻く時にあえて利用することもありますが、あんまり気持ちのいいものじゃ無いし、少なくなくとも仲間になる人、仲間になって欲しい人にすることじゃない。
 
材料を提示して自分に起こっていることに[気づける]ことを目指すのか、[自分で対処できる]ことまで求めるのか、またまた難解な説明について[言葉の意味から調べる]ことを課すのか、わかりやすく伝えて[自分なりに解釈する]ことを目指すのか、伝える側はその意図を明確に持って伝える必要があると思います。
 
それは、子育ても対人援助も同じような気がします。その時には、聞いた人がどう感じるのか相手の立場や心情に想いを馳せながら伝える。それがあって「伝える」が「伝わる」になるのかな、と思います。
 
そういう意味では、an・an編集部が一般の人に理解してもらえるレベルに噛み砕いて伝える技術は、とても勉強になります。
 
何とセットに見せれば手に取って読んでもらえる、こういう風かに整理して見せれば理解してもらえるのか、と。
 
「思考の整理術」という特集ですが、他の人の感性や価値観を受け入れる姿勢や感覚って、思考の柔軟性も大事だろうなと思うんです。
 
ということで、最後に紹介するコーナーは、ここ数回コラムでお馴染み(?)の俳優さんの語り。
 
今ドラマをつければ必ず見かける売れっ子イケメン若手俳優たちのインタビューです。その内容が思った以上に内省が深くて勉強になりました。
 
 
……
 
 
なんですが、ちょっと書き始めたら、色々書きたいことを連想していまい長くなりそうなので、今回は一旦ここで終わりにします。
 
この内容の厚み+オリンピック特集で、[¥550(税込)]はやっぱりコスパ半端ない。
 
an・an恐るべし…。
 
ではでは。
 

【第71回】もぐもぐタイムに見る「チームの土台」

メンバーの皆さま
 
こんにちは。管理人です。
 
あっ、という間に終わってしまいましたね、平昌オリンピック。
 
数々のメダリストが誕生した今回の五輪で、おそらく一番引っ張りだこになりそうなのは、女子カーリング🥌で銅メダルを獲得した「カー娘」こと「LS(ロコ・ソラーレ北見」の皆さんではないでしょうか。
 
話題になった「そだねー」「もぐもぐタイム」は早くも流行語大賞にノミネートされそうな勢いですよね。
 
ということで、今回は今一番ホットな話題な「コロ・ソラーレ北見」に関するこの記事から。
 
世界が驚くカーリング女子。チームを作った本橋麻里「8年前の想い」
 
 
この語りには、チームワーク・連携とは何ぞやという要素が非常に詰め込まれています。
 
これからLSWを実施しようとする場合、これから組織にLSWへの理解を広めていこうとする場合のプロセスとして、非常に参考になると思います。
 
是非、原文もご参照ください。
 
 
内容をかい摘んで紹介すると、ご存知の方も多いと思いますが、今回の女子カーリング代表チーム「ロコ・ソラーレ北見」のバックアッパーとしてチームを影で支えていたのは、アノ本橋麻里選手。
 
2006年トリノ五輪2010年バンクーバー五輪の日本代表で当時は「チーム青森所属の「マリリン」の愛称でカーリングBOOMの火付け役となったアノ方です。
 
現在の所属である「ロコ・ソラーレ北見」の監督も「本橋の実力は、いま出ている選手と全く遜色ない」と言われる力を維持しながら、何故バックアッパーとしてチームを後方支援する道を選んだのか。
 
そもそも当時の国内最強「チーム青森」を離れ、何故2010年、北海道の地で「コロ・ソラーレ北見」を結成するに至ったのか、8年前の本橋麻里選手の想いが語られているインタビューです。
 
 
僕が注目したのは、
世界王者スウェーデンとの差はメンタル
チームの土台の重要性。自分の内面にチーム作りのノウハウがないんだ』と気づいた。
 
という2点です。
 
 
①メンタル面
当時、本橋選手はメダル獲得を期待され、ある意味で勝利を義務付けられた「チーム青森」での活動を「余裕がなかった」と語っています。
 
かたや平昌オリンピックでも金メダルを取った「スウェーデン🇸🇪」は、2006年トリノ五輪で金メダルを取った後にほとんど試合に出てこない。しかし2010年バンクーバー五輪に出てきたかと思えば、しっかりピークに仕上げて結果を残してくる。
 
「何なんだ、この人たちの調整力は⁉︎」
 
と本橋選手は衝撃を受けた、と。また、
 
「また、選手村に入ってからの過ごし方にも日本との差を感じました。ものすごくリラックスしていて五輪を楽しんでいるんですよ。そうしたことも含めて、アイスの上(の技術)だけでない、メンタルの部分での見直しが必要だと痛感しました」
 
と。この辺りの話は、今回のオリンピックでの「LS北見の姿と重なる所が多いですよね。五輪だからと言って無理に飾らず、ありのままのいつも自分たちを表現する、五輪という[非日常]の時間空間を楽しもうとする姿は非常に印象的でした。
 
その一部が、地元の方言であったり銘菓であったりしたんだな、と。緊張するなという方が無理がある4年に一度の[非日常]の中に、いかに平常でいる[日常]の想起できる仕掛けを組み込むか。
 
特に、注文殺到している、もぐもぐタイムで食べていた「赤いサイロ」は、ただの糖分補給ではなくて、選手たちが後半のプレッシャーがかかってくる場面で、ホッとできる慣れ親しんだ味で、硬くなりそうな思考や感覚を切り替えることにも繋がっているのではないでしょうか。
 
(参考【第63回】「アンカリング」で考えるLSW
 
あれを「なんだ五輪なのに、あの砕けた、ふざけた態度は。けしからん」と思う声も実際あったそうです。この辺りは、日本の必死で歯を食いしばって頑張ることこそ「美徳」とか「最大の成果」が出るとか、という固定観念が一般的な強さが垣間見れます。
 
「ピーキング」や「緊張とリラックス」の使い分けの考え方が普及してないんですね。是非、下のブログがわかりやすくまとめられていますので、参考にして欲しいのですが、
 
「緊張orリラックス」パフォーマンス発揮に役立つ心理学
 
例えば、野球選手が絶好調の時に「ボールが止まって見える」なんて言う、最大限にパフォーマンスが発揮させる極限に集中力が高まっている状態を「ゾーン」「フロー」とか言いますよね。
 
その状態は「緊張とリラックス」が良いバランスで両立している状態です。矛盾しているようですけど、緊張感を保ちながらリラックスしているんです。緊張なくダラダラするのとは違うし、でも緊張してガチガチになっているのとも違う。
 
そして、競技によって適した「緊張とリラックス」のバランスは微妙に違うと言われる。例えば、陸上・水泳などは程よい「緊張感とリラックス」のバランスが適していますが、格闘技で求められるのは「戦闘モード」ですからより高い緊張感が必要ですし、逆にアーチェリーのような正確さが求められる競技ではより高いリラックス状態が適しているそうです。
 
 
以前に紹介した【第59回】「セロトニンドーパミンノルアドレナリン」の話しに似てますね。

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おそらくカーリングも身体的な負荷と言うより繊細さが求められるアーチェリーに近い競技ですから、正確なパフォーマンスを発揮するために「リラックス」寄りの状態が求められるんだと思います。
 
「緊張感とリラックス」の程よいバランスを仕事に置き換えるなら、雑念なく目の前のやるべき事に集中している、そんな状態なのかな、と。
 
ガムシャラにだけ頑張れば、右肩上がりに上手くなったり結果が出るのは初心者〜しばらくの時期だけです。その後は、自分が身につけた力や技術をどう上手くパフォーマンスに反映させ安定させるか(波がなくアベレージを高める)も大事な「スキル」であり、そこには「メンタル」の問題も大いに関係してきますよね。
 
参考)
【第32回】現役目線「プロとしての成長とは」
 
 
緊張感の溢れる[非日常]空間の中で、いかに[日常]のリラックス状態を同居させるか。これは、単に「経験」だけで済まされる話ではなくて「訓練」する必要があると思うんです。
 
俗に言う「メリハリ」をつける訓練です。集中する時は練習でも実戦と同レベルの緊張感を保ち、終わったら一気にリラックス状態になる。この振れ幅か大きい程、感覚的にスイッチを抜く入れるの経験値が増えていきます。
 
最近の10代若手アスリートのメンタルを見ていると、だいぶスポーツ指導者の意識や考え方は変わってきたのかなと感じますが、「抜く=サボる」の固定概念に囚われてダラダラ長時間頑張らせ続けることのみが成長する道と思い込んでいる人は、一般には結構な割合でいると思います。
 
厳しい言い方をすると、ただやみくもにダラダラ頑張ることは、自分の成長のために選択した行動ではなくて、「頑張っている姿を見せないと周囲が怒る、納得しない」から周囲を喜ばせるために踊るピエロ、思考停止して感じたり考えるをサボって見た目だけ頑張ってるアピールしてる状態だと、僕は思います。
 
今回大活躍だった女子スケート陣の報道でも、スケート大国オランダでのトレーニングは、心拍数を上げ過ぎないトレーニング(おそらく正しいフォームを維持する訓練)を続ける紹介がありましたが、まさに実践を考えた理にかなったトレーニングだと、観て思いました。
 
要は「主体性とビジョン」の明確さ。自らの意志で考えて目標としてる姿に向いて能動的に動いているのか、ただやらされているのか。これが何の意味があるのか、自分で考えて納得して感じながら試行錯誤しなければ、残念ながら実戦の刻々と変化する状況を、自分で察知して修正する力は養えないと僕は思います。
 
失敗しないこと、崩れないことに固執するのではなくて、修正したり立て直せる柔軟性を身につける。そして、これは「レジリエンス」や「アタッチメント」と対人援助や臨床の世界では表現されるものだと僕は思います。
 
完璧な姿を崩さないことを目指すのではなくて、何かあっても起き上がりコブシのように良い状態に戻れる力、回復する力をつける。それにはブレない軸や重石が重要であると思います。
 
 
②チームの土台・チーム作り
本橋選手は「チーム青森」での2006年トリノ五輪2010年バンクーバー五輪の惨敗を振り返って、
 
「五輪で生じたギャップや違和感を修正することが出来なかった」
 
「もっとお互いの弱さを知るべきで、お互いの強みを讃えるべきだった」
 
そういことを考えれば考える程『あぁ自分の内面にチーム作りのノウハウがないんだ』と気づかされた。
 
という事で、殻を破って自分が成長するために「チーム青森をチームを離れ、地元の北海道北見市常呂町で新しいチーム「ロコ・ソラーレ北見」を結成し、チームビルディングから始めたということが語られています。
 
 
話は逸れますが、そこに至るには北見市常呂町カーリングを普及させた恩師・小栗祐治さんとの約束、その後の苦労の連続があったそうです。
 
(参考:「道つくる」恩師との約束刻み、チーム創設 快進撃支える本橋
 
 
 
話を戻すと、結成当初から、みんなに「何でも言い合っていこうね」と伝えると年下のメンバーから「何でも言うからね」と返えしてくれる。
 
また「チームってこうだよね」という具体的な体験やイメージを皆が話してくれる。なので、私から何か伝えると言うよりも、私が皆から学ぶことの方が大きい。
 
「それが将来的に、ブレない土台からのチーム作りにつながると信じています」
 
これはまさにチームのBeing。どう在るのかのチーム哲学。英語で言うフィロソフィーですよね。苦しい時にグラグラ揺さぶらせた時に支えとなる軸や重石は、やはり「そもそも何を大事にしてきたのか」と言う原点なんだと思います。
 
そのチームが8年の年月をかけて培った姿や成果はご覧の通りです。これ、日本代表のエースとして、五輪で入賞している当時の話しですよ。この謙虚さと自己内省は凄いなと思いつつ、逆に「このままじゃダメだ」という危機感もあったと思うんです。
 
おそらく本橋選手は自身の失敗談や後悔を惜しみなく伝えながら、試合後の自主練習は一切怠らず、何かあったら私が出るからと言う姿勢を背中で見せて、メンバーが精神的に伸び伸びプレーできる環境作りをする立場に身を置いた。後方支援するバックアッパーとして。
 
僕の妄想推測ですが「こんな環境、こんな人が傍にいてくれたら」というチームの精神的支柱の重要性を痛感した当時の自分の姿と重ねながら。
 
このブログを書いている途中に、男子カーリング界に一石を投じるこんな記事も出てきました。
 
両角友佑が語るカーリング界のリアル「今の強化方法には限界がきている」
 
 
この記事を読むと、きっと女子カーリング界も似た現場だから本橋選手がサポート役をかって出たんだろうなぁと想像しますが、内容はホント「児童福祉あるある」ですよね。
 
環境づくり、人材育成は基本的に個人任せ全体を取りまとめるハズな協会は、現場で起こっている現実を受け止めているのか、その業界の未来や将来を真剣に考えているのか、そもそも何を目指して、自分たちで何とかしようといるのか、そんな疑問や想いがヒシヒシいやビシビシと伝わってくる文章です
 
最近よく思うんですね。ほとんどの人が「チーム作り・組織作りのノウハウ」を全然知らないし経験値も足りないのでは、と。たいていの人は誰かが何とかしてくれると思ってる。
 
今ある環境がどのような歴史を経て整備されて、どのように維持されているのか、興味がないように見える。それはきっと、すでに出来上がったチーム・組織に入って、そこに適応することしか経験してきてないから。
 
確かに小中学校から学級・各行事の生徒会、部活などなどで実行委員やチームリーダーとして組織作りに携われる人はほんの一握り。だいたいいつも同じ人がやらされてましたよね。
 
でも別に、学校という枠でなくたって、近所の友達が集まって遊ぶ、親戚の集まりで子ども同士で遊んで待ってる、なんて「何も決められていないんだけど」とにかく皆んなで一緒に何か遊んで楽しんだ方がいい時間ってありましたよね。最近はないのかなぁ。
 
僕は新潟出身なので、例えば、雪はあるけど「じゃあ何する?雪合戦?かまくら?滑り台?」みたいに遊び方自体を考えてみんなで決める体験。でも小さい頃から習い事でビッシリ日課スケジュール埋まっていたり、遊ぶでもゲーム機やスマホゲームと言った「枠」があり1人でも遊べる生活が普通になってきてますね。
 
でもだんだん大人になったって、バンドでも、サークルでも、飲み会でも、バイトでも家族関係でも何でもいいんですけど、特定の正解の形がない中で、今いるメンバーとイチからお互いに納得できる関係性を築いていく場面はいくらでもある。
 
それが関係作り、チーム作りだと思いますし、それにはお互いの良さや価値観を認めながら、チームの形を模索していく。
 
こんな遊びや趣味の世界から、日本代表クラスであっても「チームの土台づくり」の核は、安心して率直に話せる関係性、オープンな対話なのではないでしょうか。
 
チームワーク・連携・関係性づくりの大切な原点は、やっていることや競技レベルに関わらず、「人の集まり」という点において普遍的なものがあると思います。
 
そして、その関係性の積み重ねの歴史を「文化」と呼ぶのではと思います。なので、本橋選手が感じたように、既存の組織で既に出来上がっている文化を変えるより、イチから作り上げた方が簡単だし手っ取り早いのは確かです。
 
しかしながら、LSWに関わる担当者や関係機関を総とっかえする事は現実的に不可能ですから、出来ることは今いる大人同士で地道な対話を重ねていくことなんだろう、という頭では理解しているけど「う〜ん」と思う結論に戻ってくるわけです。
 
この辺りの悩みは尽きませんが、組織における考え方の多様性も大切なので仕方がありません。
 
そんな時に支えになってくれるのは、やはりわかってくれる仲間の存在だなぁと思います。
 
チームというのは、作るのは難しいけど、出来たら心強く頼もしいものにもなるようなぁ、なんて各年代でやってきた自分のチーム作りの取り組みを改めて振り返らせてくれるインタビュー記事でした。
 
今後もカーリング界、注目ですね。
 
ではでは。

【第70回】DoingとBeingの両立

メンバーの皆さま
 
こんにちは。管理人です。
 
気がつけば、平昌オリンピックも日曜日で終わりですね。あっという間ですね。
 
「羽生が勝って、羽生が負けた」
 
なんてややこしいニュースもありましたけど、羽生結弦さすがでしたね。
 
怪我の状態も万全でない中、今ある力をピーキングする調整力も含めて圧巻の演技でした。
 
ということで、今回コラムは五輪に二連覇の伝説を作った羽生結弦に関するこの記事から。
 
 
羽生結弦のメンタルメソッド「DoingとBeingの両方を深く追求する」
 
 
この記事は、メンタルコーチや企業のチームビルディングを手がける小田桐翔大氏によるもので、大舞台で見事に力を発揮する羽生結弦選手のメンタルメソッドが、ビジネスシーンでも応用できると紹介しています。
 
端的に言うと、成長には「Doing(やり方)」と「Being(在り方)」の両方を磨く必要があるということ。
 
Doingは、いわゆる「スキル」のこと。一方、Beingは「ひとりの人間として自分はどうありたいか」という部分です。
 
記事の中で、ビジネス界ではDoing(どうすれば良かったのか)だけがよく振り返られるが、Being(どうあるべきだったのか)をしっかり振り返られる人は少ないと指摘されていますが、僕は児童福祉現場も全く同じだな、と思います。
 
僕はこのことを「手段と目的」とか「ツールとビジョン」「軸と遊び」なんて言葉で表すのですが、「DoingBeing」なるほどなぁ、と。
 
何を使って、どんな姿や形を目指すのか。時々、対人援助や何かの支援事業でも研究発表でも「◯◯シート」や「◯◯プログラム」を使うこと自体が「目的」(=満足)となっていて、本来それを使って何の実現を目指しているのかが置き去りになっている事って、結構あると思います。
 
LSWでも、やはり似たような事って起こっていると思います。LSWをやること自体が目的化してしまっている支援です。
 
支援者本人にとっては、その前提は「当たり前すぎて」言葉にしない場合が多いと思います。しかし実際には、経緯・歴史を共有していない第3者には「そもそもの動機」は想像以上に伝わらないものですし、実は言葉にしたとしても過去に過ぎ去った事としてその熱量や臨場感は伝わらず、諸行無常というか物事は風化していってしまうんだなぁと、つくづく最近思います。
 
そして、「そもそもの動機=Being」が抜けてしまった何も考えていないDoingのみの型なぞり支援を「形骸化した支援」と呼ぶんだと思います。
 
 
本来、対人援助で実現を目指す原点は、相談者が元気で健康的になって、相談者の願う望む姿に近づく事だと僕は思います。肝心の相談者当人がどうしたいのか、どうなりたいのか。そこを聞かずして作業の協働関係やパートナーシップはあり得ないと思いますし、そこを十分に扱わない支援は結局「無理矢理やらされた」「嫌々やった」想いが強く残り、その後の相談者の主体的な行動選択を高めることにはつながりにくい気がします。
 
しかし、児童福祉現場においては、ただ本人の好きなようにワガママを聞くわけにもいかない。本人が自分も他人も大切にして友好的な社会生活を送ることが出来る「健康的で社会性をもった姿」に変化成長できるように、支援したり応援する「手段」として、時にはその時の本人の意向に反した判断をすることも児童福祉現場ではあると思います。
 
(よく「周囲に迷惑をかけないように」と言いますが、自分を全く大切にしないで一方的に過度に我慢しすぎるのも違うかなと僕は思います。そこはバランスと言うか、譲り合い歩み寄りの精神と言うか…)
 
しかし、そこには支援者の『(家族や本人が)こういう姿になって欲しい』というBeingへの願いや期待があるから、そのことを伝え続けて、その「手段・通過点」として施設入所・措置変更するんだと、子ども自身や家族に伝えなければいけない場面があります。
 
だけど、その時に問われるのは自分自身のBeingだと思うんです。なぜ、自分はそう言わなければいけないのか。そもそも自分の役割は何なのか。そして、自分には何ができるのか。それば自分の職業人としての存在意義に関わってくる話だと思います。
 
その軸がしっかりしていないと、訳もわからず「上司に言われたから」「やれと言われたから」の関わりを提供するわけなので、結局、似たような訳もわからずやらされた体験を連鎖的に子どもに伝言ゲームするだけになってしまうと思います。
 
同じ言葉(セリフ)だとしても、誰が言うのか、誰に言われるのか、それが大事である、と児童福祉現場で本当に感じます。
 
誰が言うのか、の意味は
「その言葉のやりとりを通して、どんな体験を提供したいと思っているのか」
その意図を自分の中でどれくらい咀嚼した上で、台詞(セリフ)に非言語的メッセージを+α上乗せして伝えられるか。
 
 
記事の最後にサラッと、以下の2つが紹介されていますが、これは非常に大切と思います。
 
■オーサーコーチが選手と築く「関係の質」
組織の成功循環モデル(ダニエル・キムMIT教授が提唱)において、成果を上げるにはまず「関係の質」を高めることが大事だとされる。
 
■プロが教える「体験から学ぶ仕組み」
小田桐さんが企業研修などで活用する「体験学習サイクル」。やみくもに体験を重ねるのでなく、都度振り返り、学びを一般化して適用する。
 
 
記事の中では、ブライアン・オーサーコーチが羽生選手の感性や考えを尊重する姿勢、そして羽生選手の体験から学ぶ力の高さに触れていますが、僕はその関係は対人援助の相談関係まさにそのものだと思います。
 
以前コラムでも触れたように、人はそれぞれ五感の感性や価値観が違いますので、同じ刺激を受けても、その受け取り方、主観的な体験はそれぞれ違います。
 
例えば、同じ映画を観たとしても、人によって感想は違う。それは感性や価値観の違いがあるから。でも、それは固定のものではなくて、同じ人物でも観る時期やその時置かれている状況によって見方や感じ方は変わってくるのが当たり前。
 
僕もこの前、友人の結婚式に出席しましたが、独身の時と、結婚してからと、子どもができてからでは、やはり心持ちや見方、感じ方は変わりますよね。
 
自分の内面で想起されるもの、アンカー⚓️みたいなものは、それまでの経験やそのときの状態によって変化する。
 
逆にこれを利用すると、相談者に健康的な体験学習を提供することよって、感性や受け取り方が健康的な方向に変わる可能性があるという事。社会的養護(里親、施設)で日々行う支援はまさにコレなんだと思います。
 
しかし、僕は児童相談所の心理司の立場なので、毎日会って[日常]を提供することは出来ない。なので、僕は面接でもLSWでもある意味[非日常]を提供する立場だからこそできるBeing(在り方)を考えなくてはいけない。
 
今のところ、日常では全ては解放しきれない
「自分の感性、自分の思ったり感じたりすることに嘘偽りなく正直でいられる場」その延長で、
「自分自身在り方(Being)を考える場」
を提供できると、その人の[存在]を認めることにつながるんだろうなと思って目指してはいます。
 
が、そこには安全感、安心感が不可欠ですし、この人なら大丈夫という信頼感も必要ですし、本人のタイミングや時間が必要という場合もあります。さらに今は「児相」という背負っている看板は外せないので立場的な限界もあるし(児相にはちょっとコレは話せないというやつ)、やりきれない役目は関係機関(施設・里親・病院・学校)の方々に助けてもらっている部分も大きいなと思います。
 
 
ついついやりがちや「アレやれ、コレやれ、あれはやっちゃダメ」は、「Doingトーク」なんですね。でも、身体に悪いものほど美味しいように、ダメと言われる事ほど面白かったり興味が湧いたりしますね。「押すなよ!」と言われたら押したくなる(押せというフリ)みたいな。
 
「Doingトーク」がダメなんじゃなくて、大事なのは「成長」というキーワードで、成長を望むなら羽生結弦選手のようにDoingとBeingをバランスよく両方磨かないといけないのかな、と思います。
 
今を切り抜けるだけなら「どう(Do)するの?」だけでいいわけで。でも、今さえ良ければではなくて、将来的なことも考えると「どう在りたいのか」「そのためには今どう在るのか」という長期的な視点になってくると思うんです。
 
だからと言ってBeingだけに偏って「こうあるべき!」と押し付けるのは、ただの押し付けがましい説教でしかなくて、右から左に受け流されるのがオチです。Beingは自分で考えるものであって、人から与えられるものではないのかな、と思うんです。
 
「役割が人を育てる」という言葉もありますが、アレは役割を与えられることで、その人自身が身の振り方を自分で考えて試行錯誤するから成長できるんだと思います。
 
後輩ができたり、部下をもったり、子どもができたり、人を育てるということは自分も育てる側の立場として共に育ち育てられるんだと思います。
 
やはり、その時にも、相手に求めるよりも先に、自分がまずどう在るのかが大切な気がします。そして、LSWもすぐに結果や成果が見えない将来の投資的な側面が大きいですから、もはや「支援」というより「育て」の感覚に僕的には近くて、そうなるとDoingよりもBeingの方がモノを言うような気がしています。
 
 
この事は個人だけではなくて、例えば、コラムで紹介したV・ファーレン長崎の高田社長の言葉を言い換えると、
 
「子どもたちに夢を与える。長崎を元気にする」
のはチーム哲学であるBeing。
 
「試合に勝利する。J1に昇格する」のは、Being達成のためのDoing(勝ったら県民サポーターのみんなが喜んでくれる)手段であり、その積み重ねの結果が「J1昇格」という形になったに過ぎないと、言うことなんだと思います。
 
 
あれはオリンピックのトップアスリートの話なので、あれはプロスポーツの経営の話なので、ではなくて、児童福祉現場でもBeingとDoingの両輪を並行して追求していくことが必要だと言う認識や話し合いが、スタンダートになるくらいになったらだいぶ連携や支援の質が変わるんだろうなぁ、と思いました。
 
平昌オリンピックもあとわずか。残念ながら、女子カーリング🥌は決勝進出なりませんでしたが、3位決定戦でも自分達らしい悔いのないカーリングをして、日本に元気を届けて欲しいですね。
 
ではでは。